目を通さなければならない書類が山積しているというのに、何故だか手に取る気が起きない。
それどころか手にしている書類の内容すらまったく頭に入ってこないのだ。
普段の自分ならば軽々と進む作業もこの日ばかりは捗らなかった。
小さく溜息を吐き、手に持つ書類をデスクの隅に放り投げるラルの整った面差しは物憂げな色に染まっていた。
ほぅ、と吐き出された吐息には風邪によるものとは異なる熱が篭っているようにも見える。

ラル「……はぁ」

片時も離れなかった俺の献身的な看病の甲斐あってか風邪は一日で完治した。
だが、あの日以来どういうわけだか俺のことばかりを考えるようになっていた。

前から少なからず意識はしていたものの、その日を境に彼のことを考える時間が増えた気がしてならない。
今朝の朝食のときも箸を進めずに管野とおかずの取り合いを繰り広げる俺の姿を終始眺めている始末だ。

ラル「どうして俺のことを……」

もう自分でもわけが分からなかった。
一人の男をここまで意識した経験など一度もなかったラルにとって胸裏を締め上げる感情が何なのかも、それがどうして生まれてきたのかも説明できない。

ただ、俺の笑顔を見る度につられて口元を緩めてしまうのだ。
彼の陽気な声を聞くと知らないうちに心が弾んでしまうのだ。

彼が他の隊員たちと仲良く談笑している姿を見れば胸中に黒い感情が渦巻き、彼の笑顔を目にする度に胸の奥が締め付けられるような息苦しさを覚える。
初めの内は奇しくも自分と同じ撃墜経験を経ていた者への親近感にも似た感情だったそれはいつしか自身の与り知らぬ形で別のものへと変わっていた。

しかし、それが何なのかも分からない以上は手の打ちようがない。
日々が過ぎていくに連れて俺に対する想いも、胸の苦しみも強くなっていく。

ラル「一体どうしたっていうんだ……」

ネウロイの軍勢を前にしても冷静沈着を貫いてきたというのに、目が合っただけで全身が熱湯を浴びたかのように熱くなる。

ラル「このままでは……まずいな」

そう言い聞かせても、頭から俺のことが消えることなどなかった。
山積みされた仕事とは裏腹に手は一向に書類へ伸びる気配を見せない。

ラル「……っ」

椅子から立ち上がり大きく背伸びをすると背中から小気味の良い音がなった。
ここ何時間か同じ姿勢を取っていたため筋肉が硬直しているのだろう。

そのまま軽く腰を捻り、簡単なストレッチをこなしたあと、部屋をあとにする。
外の空気でも吸えば少しは気が紛れるはずだ。
もしかしたら俺に会えるかもしれない、と自分でも知らぬ内に考えていた彼女の足取りは弾むように軽やかなものとなっていた。




俺「あ……」

格納庫の床に付着する油汚れをモップで擦る手が不意に止まる。
上げた目線の先にはストライカーを固定する数ある寝台の一つに寝かせられた状態で整備が進められているラルのメッサーシャルフが差し込む陽光を受け、そのボディを輝かせていた。

清掃員A「どうした?」

俺「あぁ。悪い」

同僚の声に我を取り戻し、再び手を動かす俺の双眸に日頃の真摯な光は見当たらなかった。
ラルが執務室で物思いに耽っていたのと同じ頃、偶然にも俺も彼女のことを考えていた。

グンドュラ・ラル――人類第三位の撃墜数を誇るウィッチであると同時に第502統合戦闘航空団を束ねる女傑。
重傷を負ってもなお不屈の闘志で立ち上がり銃を手に取る姿は正にグレートエースと呼ぶに相応しく、司令官としての能力も申し分ないウィッチである。

そう思っていただけにラルが年相応の弱さを秘めていると知った、あの日から彼女のことを気にかけるようになっていた。
今朝、管野とおかずの取り合いをしていたときもラルの視線を感じ、それが自分の意識を一層彼女へと向けさせるのだ。

ただ歩いている姿も。戦場に出てネウロイと戦うときに見せる凛々しい横顔も。
隊員たちを安心させる笑みも。彼女の何もかもが美しく魅力的に映ってしまう。

俺「(どうしちまったんだろうな……)」

少し前ならばこんな感情を――特定の異性にここまで意識を奪われることなどなかった。
自分が背負っているものを他人に背負わせないよう、これからも一人で生きていくつもりだった。

そもそも彼女に対する感情は純粋に、支えに、力になりたいというものだったはずである。
だというのに、どうしてこんなにも心が奪われているのか。

清掃員A「おい、どうしたんだよ。ボーッとして」

俺「いや、なんでもない」

清掃員B「本当か? お前まさか……ウィッチの誰かに惚れたんじゃないだろうな?」

俺「は……はぁ!?」

惚れた? 自分がラルに?
清掃員Bが放った思いがけない一言に思わず声が裏返ってしまう。
自分は彼女に――グンドュラ・ラルに心惹かれているのか?

俺「まぁ……気にはなっている人は、いるかな……」

もし、そうであるならばこの妙な感情にも説明がつくのだが、如何せん誰かに恋した経験など一度も無い故に己の感情が恋心なのか確証が持てなかった。
はっきりとした明言は避けたものの、どこか茶を濁すような言葉を返した途端にはしゃぐ同僚たちを他所にモップとバケツを持って、格納庫の出口へと向かって歩き出す。

これ以上、追求されてべらべらと喋るわけにもいかない。
なおかつ、この話をウィッチの誰かにでも聞かれでもしたら、今後の作戦や仕事にも支障を来たしてしまう。
一体誰に惚れたのかと騒ぐ二人を置いて格納庫を出て行く際に、視界の隅で見慣れた後姿が走り去っていくのを見かけた。






基地と格納庫とを繋ぐ廊下の壁に背を預け、窓へと視線をやる。
ガラス越しに広がる空は不穏な感情が渦巻く自身の胸裏とは対照的に清々しいまでの青色に染まっていた。

ラル「気になる人、か……」

手を唇まで持ち上げ、瑞々しくも形の良いそれに指を這わせながら彼が同僚に告げた言葉を唱えた。
隊員たちに指示を与える凛々しさに満ちた声音がいつになく気落ちしているものの、その変化に気付く者は今この場には誰一人としていなかった。

静まり返る廊下には格納庫から伝わってくる微かな作業音と窓を越えた向こうで風に弄ばれる木々のざわめきしか聞こえてこない。
殆ど静寂が支配する世界の中、ラルは自身の突拍子もない行動について考え始める。

執務室を出て散歩がてらストライカーの様子を見に格納庫まで足を運んだ彼女はさきほどの俺と清掃員たちの会話を偶然にも耳にし、俺が彼らに告げた一言を耳にした途端に逃げるようにその場から走り去ってしまったのだ。

ラル「私には関係ないはずじゃないか……」

別段俺が誰を好きになろうと、それは彼の自由のはずであり自分が口を出すことではない。
それなのに何故だろう。

胸が、酷く痛むのだ。
まるで彼が自分の手が届かない遠い場所へと離れていってしまうような錯覚を覚え、両腕で肩を抱く。

楽しげに微笑む彼の笑顔が脳裏に浮かび、その隣に立つ人物こそ彼が気にかける女性なのだろう。

ラル「おれ……」

急に込み上げて来た寒気から身を守ろうと肩を抱く力を強め、彼の名を呟く。
嫌だ。離れたくない。

ずっと自分の隣に居て欲しい。
たとえこの気持ちが何なのかを説明できなかったとしても、

自分が欲しているものを奪われる不安と焦りと恐怖が沸々と込み上げて来る。
ん? 欲している?

ラル「(私が俺を?)」

疑問に対する答えはすぐに生まれた。
そうだ。自分は彼を欲している。

だが、その答えに宿る自身の真意だけはどうしても探し出すことができない。
頼りになる戦友故に背中を預けたいから?
それとも、親しい友人として互いに困難を乗り越えたいから?

ラル「……私はどうすればいいんだ……?」

何がグレートエースだ。
何が撃墜数人類第三位だ。
たかが男一人にこんなにも取り乱してしまうほど自分は弱かったのか。

ラル「なぁ……おれ」

俺「おっ! やっぱりラルだったかぁ」

彼の名前を呼ぶことで少しでもこの胸騒ぎを紛らわせることができると考えから発せられた呟きも背中から返ってきた一言で不要となった。

ラル「おれ……!?」

その陽気な声に身体を強張らせ、背後へと振り返ると以外にもすぐ近くでモップを肩に担いだ俺が黒い双眸をこちらに向けていた。
悪戯好きの子供がするように歯を見せた快活な笑みにラルはそれまで自身を包み込んでいた寒気が何処かへと消え去っていくのを感じた。

俺「ん? あぁ……悪い、後ろから声かけるもんじゃなかったな」

帽子の上から頭をこする俺が申し訳なさそうな表情を浮かべる。

ラル「いや。だ、大丈夫だ。それで、何の用、だ?」

声が上擦ってしまい上手く言葉を発することが出来ない。
それどころか、寒気の代わりに今度は熱が込み上げてきてしまい、動悸もいつになく激しいものへと変わっていることが自分でもわかる。

俺「用ってほどのものでもないんだけどな。もしかして……さっき格納庫にいたか?」

ラル「ッ!? ど、どうしてそれを……」

彼の言葉にラルは自身の心臓の鼓動が一際激しい脈を打った気がした。
気付かれないよう、見つからないように慌ててその場から走りさったつもりだったが、どうやら彼には見られてしまっていたようだ。
自分でも不可思議な行動だと思っているが故にそんな姿を見られてしまったという事実に熱が顔にまで昇ってくるのを感じ、つい視線を逸らしてしまう。

俺「いやな。さっき格納庫から出て行くときにちらっと見かけたから……まさかと思って」

ラル「……お」

俺「お?」

ラル「それで……おまえは、もしかして。その、なんだ……お、おいかけてきて……くれたのか?」

俺「ッッ!?」

俺が息を思わず呑み込んだ。
顔を赤らめる美貌。

上目遣いの眼差しを送る青い瞳。
彼女が美女の部類に入ることは同じ部隊に所属する俺から見ても明らかな事実であるものの、そのときの俺の目にはラルがいつも以上に美しく、儚げに映った。

ラル「おれ……?」

俺「あ……! あぁ! そのだな……気になって、な」

青い双眸に漂いはじめる不安げな光を見つけ俺はすぐさま頭を回転させて、口を開く。
まるで悪戯を親に見つかり言い訳をしている少年のようだと思いながらも、正直に告白した。

ラル「そう、か……!!」

追いかけて来てくれた。
ただ、それだけのことなのにラルは胸の奥が温まるのを感じながら口元を綻ばせた。
その笑みは隊長として周囲を安心させるためのものではなく、年相応の少女が浮かべる可憐な笑顔だった。

俺「……ぅッ!?」

花が咲いたような彼女の笑顔を前に俺は心臓を鷲づかみにでもされたような感覚を覚えた。
今になって思えば、ラルを追いかけるときの足取りが何かに引き寄せられるかのようなものであったことや。
こうしてラルの笑顔を見て動揺半分、安心半分の心情を抱いていることを踏まえると、やはり自分は惹かれているのだろう

俺「ところで、身体の具合はもう大丈夫なのか?」

ラル「あぁ。誰かが付きっ切りで看病してくれたおかげだ」

俺「それはよかった。俺も頑張った甲斐があったな」

ラル「あのときは迷惑をかけたな」

俺「気にしないでくれ。困ったときはお互い様だろう?」

それでも、この想いを彼女に伝えるわけにはいかなかった。
いくら自分の事情を知っていたとしても、道を踏み外したものから想いを寄せられても迷惑なだけだろう。

そのとき、不意にラルは自分のことをどう思っているのか気になった。
彼女の目に自分はどう映っているのだろう?
仲間? 戦友? 家族?

ラル「そう言ってもらえると助かる……それでも近いうちに礼をしないと気が済まないな」

俺「別に良いさ。礼が欲しくてやったわけじゃないぞ?」

ラル「だとしてもだ」

俺「……もしかして借りは作らない主義ってやつか?」

尚も食い下がらないラルの姿に思ったことを正直に問いかけてみた。

ラル「いや! 別にそういうわけじゃないんだ!!」

ラルとしては純粋に感謝の気持ちを表したいと思ってのことだったのだが、俺の言葉を聞き迷惑だっただろうかといった思いが浮かんでくる。

俺「……そうだなぁ。だったら俺が風邪を引いたときにでも世話してくれよ? それでいいだろう?」

ラル「おまえは風邪を引かないじゃないか。自分でもそう言っていただろ」

全身を倦怠感で包まれた自分を看病しに来た際の言葉を思い出す。

俺「わっかんないぞぉ? 近頃の風邪は質が悪いって言うしな……ってもうこんな時間か!」

おどけたように手を大きく横に広げ、屈託の無い笑みを見せる俺が左手首に巻いた腕時計を見た途端に顔色を変えた。
彼女と話し込んでから既に十五分以上もの時間が経過していた。
急いで次の清掃場所へ向かわなければ今日一日で終わらなくなる。

ラル「悪かったな。仕事の途中で」

俺「いいさ。俺が好きで追っかけてきたわけだしさ……それじゃ!」

ラル「あ……おれ……」

モップを肩に担ぐと廊下を駆けていく俺の後姿に手を伸ばす。
その身一つで世界を渡り歩いてきただけあってか、強靭な脚力が成すスピードによって彼の姿はすぐに見えなくなった。

物寂しさを覚えつつも伸ばした手を降ろしたラルは執務室を出たときとは比にならないほどの軽い足取りで歩き出した。
もう少しだけ基地内を回ろう。仕事を始めるのはそれからでも遅くは無い。

ラル「もしかしたら、またどこかで会えるかもしれないしな……」





中庭のベンチに座り込み、背もたれに身を委ねる人物が天を仰いでいた。
冷えた風に癖のある蜜色の髪を弄ばれるその者はここ502統合戦闘航空団が誇るエースの一人であるヴァルトルート・クルピンスキー中尉である。
別名をプンスキー伯爵とも呼ばれる彼女の端正な美貌は心なしか疲労の痕が刻まれているようにも見えた。

クルピンスキー「あぁ……つかれたぁ」

それもそのはずである。
ついさきほどまで彼女は同じ部隊に所属するエディータ・ロスマン曹長との激しい逃走劇を演じていたのだ。

その理由とは至って単純なもの。
作戦行動を終えた彼女が別の戦闘区域に赴き、現地のウィッチと共にネウロイの別部隊と交戦したという相変わらずな理由であった。

クルピンスキー「ロスマン先生もあそこまで怒らなくてもいいのに」

格納庫へと帰還する自分を待ち構えていたかのように指示棒を片手に携えるロスマンの姿を見かけた途端、ストライカーを脱ぎ捨て急いでその場から逃げるも当然ロスマンがそれを見逃すわけも無く。
結果として基地中を走り回らなければならない羽目となったのだ。
逃走劇は脚の長いクルピンスキーの勝利に終わったわけだが、夕食時に顔を合わせることを考えると気が重くなる。

俺「あれ? 伯爵じゃないか」

これからどうしようかと考えた矢先に俺の声が横から聞こえてきた。

クルピンスキー「俺? そうだっ! ちょうどいいや。話し相手になってくれない?」

箒と塵取りを両手に握る俺の姿を捉えクルピンスキーは空いている隣を指差した。
こんな憂鬱な気分のときは誰かと話して心を落ち着かせたかった。

俺「仕事中なんだけどなぁ」

苦笑いを作り箒と塵取りを交互に振ってみせる。
それでも彼の目にはクルピンスキーを邪険に扱うような色は感じ取れなかった。
彼自身も友人との談笑は数少ない楽しみの一つなのだろう。

クルピンスキー「じゃあ。そのままでいいからさ」

俺「……わかったよ。で? 何を話すんだ?」

石造りの地面の上に散らばった落ち葉を箒で掃き集めながら俺が尋ねる。
口調には無関心といった色は感じ取れない。
掃除と並行して真面目に自身の話相手を務めてくれる俺の真摯さに自然と笑みが零れ落ちた。

クルピンスキー「そうだね……俺が今まで旅してきたところの話が聞きたいかな」

俺「へぇ。伯爵は旅に興味でもあるのか?」

クルピンスキー「もともと僕は色々な国にいける海軍へ入隊しようと思っていたからね」

生まれ育った街が港湾都市であっただけに、幼い頃は職業柄様々な国へと行くことが出来る海軍への入隊を志望していた。
適性検査により航空ウィッチとしての素質があることを知らされたあとは空軍へと入隊したが、いろいろな国へ行けるという夢だけは今もまだ残っている。
だからこそ、自分の夢を実際に叶えてきた俺の体験談を聞きたいのだ。

俺「そうだなぁ……じゃあ最初はロマーニャに行ったときの話から始めるとするか」

クルピンスキー「うんっ! うんっ!」

無邪気な光を瞳に湛え身を乗り出してきたクルピンスキーの年甲斐もなく子供っぽい姿につられて口元に薄い笑みを浮かべ、俺は記憶を漁り始めた。
ロマーニャを訪れたことはあるものの、滞在期間は四日と短いものである。
だとしても、初めて見知らぬ土地に足を踏み入れたときのあの高揚感は今でも忘れられない。
頬張ったピッツァの美味しさや、初対面の自分に対して気さくに声をかけてくれた人々の笑顔を思い浮かべながら、思い出を語り始めるのだった。




クルピンスキー「いいなぁ。僕も色々なところを回ってみたいなぁ」

俺の話を聞き終え興奮した面持ちのままクルピンスキーが率直な感想を零した。
内容はごくありふれたものだが喋り方が上手いせいか、話の中へと引き込まれるのにそう時間はかからなかった。

俺「世界が平和になればすぐにいけるさ」

クルピンスキー「そうだけど……ねぇねぇ? 写真とかはないの?」

俺「部屋にならアルバムがあるから、暇なときにでも来てくれよ」

クルピンスキー「ほんとう!?」

ふと見覚えのある姿を見つける。

クルピンスキー「あれ? 隊長だ。おーい!!」

俺「ラル?」

後ろへと振り向けば渡り廊下の柱に半身を隠しながら、こちらを覗くラルを視界に捉えた。
そんなところに隠れていないで会話に入りたかったのなら、こちらに来ればいいものをと思いながら手を振ると。

ラル「ッ!?」

目が合った途端に逃げられてしまった。
見事なまでの全力疾走である。

俺「逃げられた……?」

クルピンスキー「みたいだね。何か心当たりは?」

俺「いや……」

さきほどの廊下での会話も特に落ち度があったとは思えない。
原因といったものがまったく思い浮かばないだけに俺の疑問は深まるばかりであった。







ラル「はぁ……はぁ」

まただ。胸が痛い。
俺とクルピンスキーが仲良く話す光景など今までに何度も見てきたではないか。
だというのに、どうして自分はあの場から逃げ出してしまったのだろうか。
どうしてこんなにも胸が痛むのだろうか。

ラル「……おれ……」

――気になる人は……いるんだよな――

さきほど彼が他の清掃員たちに告げた言葉が蘇る。
もしや、彼の意中の相手とはクルピンスキーのことなのだろうか。

聞けば二人は頻繁に晩酌をする間柄だと聞く。
だとすれば親密な関係を築いていても何ら不思議ではない。

ラル「……っく」

クルピンスキー「隊長? どうしたんだい?」

両手を膝につけ大きく肩を上下させて呼吸を整えるラルの背中に声が飛んでくる。
聞き慣れた声の方へ振り向くと追いかけてきたのか、そこには両手を腰に当てこちらを見つめるクルピンスキーの姿があった。

ラル「別に。なんでもない……」

気まずさから、つい視線を逸らしてしまう。
どんな顔をしてクルピンスキーを見ればいいのか分からなかった。

クルピンスキー「いきなり走り出したから驚いたよ」

微笑むクルピンスキーの隣に俺がいないことは幸いだった。
混乱したこんな姿を見られずに済むのだから。
だが、それと同時に俺は追いかけてきてくれなかったのかという物悲しい感覚を抱いた。

ラル「……すまなかったな」

クルピンスキー「……ねぇ隊長」

ラル「なんだ……?」

クルピンスキー「僕の勘違いだったら謝るけど。もしかして、隊長は俺のことが気になるのかい?」

正鵠を射るクルピンスキーの言葉にラルは己の心臓が跳ね上がるかのような感覚を覚えた。
心臓の鼓動がすぐ耳元で聞こえる。

ラル「かっ! 勘違いするな……別にあいつのことなんて……これっぽっちも……」

クルピンスキー「……へぇ」

口では否定しているが、間違いなくラルは俺に惹かれている。
紅潮する頬や視線を合わせようとしない態度から見て間違いないだろう。

それにしても、あのラルを色恋の道に引きずり込むとは。
もしかすると、彼女は俺が持つ魅力とやらに気が付いたのかもしれない。

切欠があるとすれば、おそらくは俺が風邪を引いた彼女を看病した先日だろう。
しかし、肝心のラルが己の感情に気付いていないとなると彼女の片思いは難航を極めるといっても良い。

クルピンスキー「ふぅむ」

さて、どうしたものかと顎に手を当て考え込む。
こういった問題は下手に踏み込みすぎれば返って恋心を危ういものへと変えてしまうと以前読んだ雑誌に書かれていた文を思い出す。

クルピンスキー「ねぇ、隊長。隊長は……俺のこと、どう思っているのかな?」

ラル「別に私は――」

クルピンスキー「隊長、正直に答えて」

声を震わせて一歩後ずさるラルにクルピンスキーが歩み寄る。
彼女の双眸には普段とは打って変わった真摯な光が宿っていた。

ラル「わ……私は」

本当に自分は彼のことをなんとも思っていないのか?
捨て鉢気味に自らを嘲笑う俺に彼が生きている人間であることを自覚させるために自分の胸に触れさせて心臓の鼓動を伝えたではないか。
そのとき自分は何を思っていた?
仕方なく?
いいや、違う。
彼にならば。
俺にならば、この身を預けても良いと考えていたはずだ。
いくら色恋の経験がない自分とて易々と身体を、ましてや胸を、それも自ら触れさせたりはしない。
彼がブリタニアの第501統合戦闘航空団への短期間の出張のため基地を空けると知らされたときはどうだった?
胸に穴が空いたような虚無感を覚えていたではないか。

ラル「私は……」

あぁ、そうか。
どうして今まで、こんな簡単なことに気が付けなかったのか。
俺の動きを目で追っていたことも、彼に傍にいて欲しいというこの感情も。
冷静に考えれば、すぐに説明がつくことではないか。
これが、この気持ちこそが……恋心というやつなのだろう。
そのことを理解した瞬間、胸の内側が温かいもので満たされていくのを感じた。

ラル「あいつが……俺のことが好きなんだ……」

好きなのだ。
好きになってしまったのだ。
あの男が。あの男のことを。
たとえロマンス小説のような劇的な切欠でなかったとしても、優しくて、それでいてどこか危なっかしい彼に惹かれたのだ。
あぁ、誰かを愛することがこんなにも幸せであたたかいものだなんて……

ラル「……心配をかけたようだな」

クルピンスキー「見ていてハラハラしたよ。本当にね」

ラル「すまなかったな。だが、これですっきりした」

さきほどまでの曇っていた表情が嘘であるかのように晴々とした笑みを浮かべる。
大きく息を吸って吐き出すといった動作を二、三回繰り返し意を決した面持ちをクルピンスキーに見せ付けた。

ラル「あいつは……俺は私がもらう。他の誰にも渡さん」

クルピンスキー「相変わらずの豪胆さだね。それでこそ隊長だよ……でも、これからどうするのさ」

ラル「決まっている」

一度言葉を区切り、口元に不敵な笑みを浮かべる。

ラル「攻めて。攻めまくるだけだ」

迷いを捨てた彼女の青い瞳には強い意思の光が宿っていた。
最終更新:2013年02月04日 14:33