ある晴れた昼下がりのことである。
談話室のソファに腰掛けるラルは独り
物思いに耽っていた。
その内容とはどうすれば俺との仲を今以上に深めることが出来るのかというもの。
しかしながら肝心の案が全く浮かばず、かれこれ小一時間こうして頭を悩ませているのだ。
プレゼントを贈るという手も考えたが統合戦闘航空団の司令という立場上、易々と街に出掛けることが出来ないことに気付き、あえなく断念。
添い寝も連日連夜行っている上にむしろそれは自分が彼の温もりを欲して布団に入り込んでいるため、これもまた贈り物にはならない。
ラル「……はぁ」
時間だけが空しく過ぎていき、焦れば焦る分だけ考えをまとめることが出来ず、それが更なる焦りを生み出すという悪循環に陥っている最中、不意に談話室の扉が音を立てて開いた。
完全に意識を集中させていたため、突然の物音に身体を強張らせたラルが扉のほうへと視線を移すと、ちょうどニパとサーシャの二人が室内に足を踏み入れるところであった。
自分を見つけ、軽い笑みを伴った会釈のあとに向かいのソファへと二人が腰を降ろす。
ニパ「どうしたんですか?」
ラル「あぁ……たいしたことじゃないんだ」
珍しいですねと言いたげな瞳が送る眼差しから顔を背ける。
ラルの胸の内では彼女たち二人にこの悩みを打ち明けるべきか否かについて大論争が繰り広げられていた。
が、少女の悩みが全く解決へと向かわないように会議もまた進展を見せなかった。
悩みが増えてしまったと小さく歯噛みをしているとサーシャが口を開く。
サーシャ「何か悩み事ですか?」
ラル「まぁ、そんなところだよ」
サーシャ「……もしかして、俺さん絡みでしょうか?」
喉許まで込み上がってきた呻き声を何とか飲み込み、小さく頷く。
途端に花が咲いたかのような微笑みを向けてくるサーシャ。
隠すつもりはなかったのだが、こうもあっさりと見破られてしまうと何故だか悔しくなる。
どうして彼女は自分が俺のことについて悩んでいるのだと分かったのだろうか。
サーシャ「顔に出ていましたよ?」
ラル「そう……なのか?」
ニパ「いつもと違いましたから」
口元を綻ばせたニパがサーシャの言葉を補う。
その言葉にラルが眉を顰めた。いつもと違うとは一体どういう意味なのか。
ラル「いつもと違う?」
サーシャ「悩んでいるときの顔ですよ」
ニパ「普段見せる悩み顔と違って……何と言うか」
サーシャ「ふふっ。女の子らしい顔でしたよ?」
ラル「なっ!?」
ニパ「そうそう! まさにそんな感じでした!!」
全く自覚がなかったが、まさか彼女たちの目にはそのように映っていたとは。
気恥ずかしさに耐え切れず、反射的に手近にあったクッションで顔を隠してしまう。
落ち着け。自分は第502統合戦闘航空団の司令だ。
こんなことで動揺するわけにはいかない。
ましてや、こんなクッションで顔を隠すなどという子供じみた真似はいますぐやめるべきではないか。
しかし、そう言い聞かせても腕は中々下ってくれない。
どうやら司令としての矜持より、羞恥からの逃避の方が勝っているようである。
サーシャ「隊長? よかったら聞かせてくれませんか?」
ニパ「もしかしたら、私たちも力になれるかもしれませんし」
ラル「…………わかった。ただし! 絶対に口外するなよ?」
もちろんです、と満面の笑みを作って首肯するサーシャとニパ。
ほんの一瞬だけ生じた逡巡を切り捨てて、おずおずとクッションを下ろしたラルは徐に口を開いた。
恋人らしく俺に何かして、喜ばせてやりたいということ。
だというのに何もアイディアが浮かばないということ。
焦れば焦るほど考えがまとまらないこと。
全てを洗いざらい話すと彼女らは真剣な面持ちで何度か頷いてみせる。
サーシャ「たしかに……隊長の立場では簡単に基地を空けることは出来ませんからね」
ニパ「……あ」
サーシャ「ニパさん、何か思いつきましたか?」
ニパ「えっと……手作りのお菓子とかどうですか?」
サーシャ「…………たしかに、それでしたら街に出ることなく用意が可能ですね」
ラル「手作りのお菓子、か……ふむ」
顎に手をやり考え込む。
統合戦闘航空団ではウィッチたちが定期的にそれぞれ自国の料理を作って食事をしており、ラルもロスマンとクルピンスキーの両名と共に何度かカールスラント料理を振舞った経験があった。
自分の料理の腕前については心配する必要はないだろう。
そこまで手の込んだ物を作る時間は残っていないが、夕食後の軽いデザートになるものなら何とか間に合うはずだ。
ラル「そうだな。それでいこう」
ただ今回は隊員たちにではなく俺のために腕を振るうのだ。
些か恥ずかしい気持ちもあるものの自分が作った菓子を食べて笑顔を浮かべる俺の姿を見ることが出来るのなら、努力する甲斐があるというものだ。
二つ返事でニパの案を採用し、さっそく何を作るか思案に暮れる。
ラル「クッキーなら簡単に作れる」
洋菓子も良いが、俺の故郷である扶桑の和菓子を作って驚かせる案も捨てがたい。
もっとも、そうする場合は定子に作り方を教わる必要がある上に上手く作れるかどうかも不安であるため、今回は無難にクッキーにするとしよう。
一口にクッキーといっても種類は様々だ。
生地にココアを練りこむのも良いし、チョコチップを混ぜ合わせるのも良い。
こうしていざ突破口が開くとアイディアも自然と湧き出てくるものだなと胸を弾ませていると、
サーシャ「あ、それが今クッキーの材料や他の食材を切らしていまして。俺さんに買いに行ってもらっているんですよ」
ラル「えっ」
ニパ「今ある材料はチョコレートくらいですよ?」
ラル「チョコレートか……上手く出来るかな……」
焦がしてしまわないだろうか。
俺の好みが分からない以上甘くすれば良いのか、それともほろ苦くすれば良いのか。
再び胸に迷いが生じ、こんなことなら事前に味の好みを聞いておくべきだったと俯く。
ニパ「大丈夫ですって! 溶かして型に流し込んで冷やすだけじゃないですか!」
ラル「そ、そうか……?」
サーシャ「隊長ならきっと出来ますよ。俺さんを喜ばせてあげたいんでしょう?」
そうだ。日頃から世話になっている俺のためにも弱音など吐いてはいられない。
クッキーだろうがチョコレートだろうが、無事に作り上げて満足させてみせる。
ラル「……あぁ、そうだな。私は肝心なことを忘れていたようだ。料理は愛情、だったな」
以前に目を通した情報誌に書かれていた言葉を反芻する。
大切なことは技術ではなく、愛しい男に贈る料理にどこまで愛情を注げるかどうかなのだ。
俺を愛する気持ちなら誰にも負けないと自負するラルは二人に感謝の言葉を述べ、談話室を後にして食堂へと向かう。
クルピンスキー「やぁ、隊長。今日も綺麗だねっ!」
ラル「……なんだ?」
後ろから澄んだ声音が投げかけられたのは足取りが自然と軽やかになっていくときである。
足を止めて振り向くと爽やかな笑みを湛えたクルピンスキーが歩み寄ってきた。
やけに愛想の良い微笑みに眉を顰める。
クルピンスキー「俺のためにチョコレートを作るんだってね」
ラル「……盗み聞きとは感心しないな」
クルピンスキー「そんな人聞きの悪い。たまたま通りかかったら聞こえてきただけだよ」
クルピンスキーの瞳に宿る真摯な光を捉えたラルは彼女の言葉を信じることにした。
よくよく考えれば盗み聞きをされた程度で何が起こるというわけでもない。
料理の邪魔さえされなければ構わないし、聞いた上で邪魔をするほどクルピンスキーとて幼稚でないことはJG52時代から知っていた。
ラル「それで、私が俺にチョコを作ることがどうかしたのか?」
クルピンスキー「うん、そのことなんだけど。隊長ってチョコレート作ったことあるの?」
ラル「……」
クルピンスキー「ないみたいだね」
沈黙を肯定と受け取ったクルピンスキーが一歩歩み寄り、顎に手を添えて視線を注ぐ。
噂では別部隊のウィッチがその涼やか且つ妖艶な眼差しを受けて陥落したとか。
真偽の程は定かでないが少なくとも自分に同性愛の趣味は無いし、心に決めた男性もいるためラルは流れるような動作でクルピンスキーの繊手を払いのけた。
ラル「用件を言え。聞いているなら分かるだろう? 私も暇じゃないんだ」
クルピンスキー「そんな連れないこと言わないでよ。僕も協力するからさ」
ラル「……なに?」
片眉がぴくりと持ち上がる。
一体どういう風の吹き回しなのだろうかと怪訝に彼女を見つめ返してしまった。
ラル「そういうお前はチョコを作ったことがあるのか?」
クルピンスキー「僕? ないよっ」
ラル「……」
クルピンスキー「僕も詳しいチョコレートの作り方は知りたいし隊長と一緒に覚えていきたいなぁと思ってね。それに二人揃えば何とかなるかもしれないでしょ?」
ラル「それがお前の“協力”というわけか」
クルピンスキー「うん。どうかな?」
ラル「…………わかった。そういうことなら頼もうか」
しばし黙考し、頷いた。
そもそも俺との仲を取り持ってくれたのは他の誰でもないこの少女である。
もしもクルピンスキーの後押しが無ければ俺に対する恋慕の感情にも気付けなかったのではないか。
そうなれば、俺と共に日々を過ごす幸せも。こうして彼のために頭を悩ませることもなかったのかもしれない。
言うなればクルピンスキーは自分と彼の仲人のようなものなのだ。
その彼女が協力すると言ってくれているのだ。無碍にすることはできない。
クルピンスキー「うん。こちらこそよろしく」
ラル「ただし条件がある」
クルピンスキー「条件? 別に構わないけど……何かな?」
ラル「それはだな……」
ジャケットをハンガーにかけ、シャツの上からエプロンを身につける。
脇腹から垂れる紐を腰の辺りで結び、念入りに手を洗った後で取り出したチョコレートの箱を開封していくとカカオの甘い香りがウィッチ用の小さな厨房を包み込んだ。
まず初めにチョコレートを刻まなければならず包丁を取り出す。
クルピンスキー「それで、どうしてロスマン先生までいるのかな?」
それまで沈黙を守ってきたクルピンスキーが顔を引き攣らせながら疑問を口にした。
ジャケットを壁に備え付けられたフックにひっかけ、ネイビーブルーのエプロンを着こなす彼女は隣に立つ小柄な女性ことエディータ・ロスマンを尻目にラルの隣に立つ。
心なしか額には冷や汗のようなものが浮かんでいた。
ラル「条件があると言っただろう」
巧みに包丁を動かしながら危なげない手つきで焦げ茶色の板をまな板の上で刻んでいくラルが目線を動かさずに返す。
集中しているせいか、そっけないとも取れる返事にクルピンスキーが言葉を濁らせた。
クルピンスキー「そ、そうだけどさ……」
ロスマン「私がここにいちゃいけない理由でもあるのかしら?」
日頃身にまとうベストと同じ黒のエプロンを身に着けたロスマンが戸棚からボウルと型を取り出しながら口元を吊り上げた。
挑発めいた不敵な流し目を前に溜息を吐いたクルピンスキーが首を横に振った。
クルピンスキー「……ありません」
ラル「まぁいいじゃないか。三人集まれば文殊の知恵、扶桑のことわざだそうだ」
クルピンスキー「隊長には敵わないよ……」
ラル「そう項垂れるな。協力してくれるんだろ?」
クルピンスキー「わかったよ。乗りかかった船だ……最後までお供しましょ」
ロスマン「ところで隊長。味の方はどうするんですか?」
ラル「そこが悩みの種なんだ」
問いかけにラルが手の動きを止めた。
思えば自分は俺が好む味を知らない。夕食のときに披露した料理の味を彼は他の隊員たちと同じように絶賛していたが、好みの味付けだったのだろうか。
塩気が強すぎたかもしれない。味が薄かったかもしれない。
そんなことを考えていると肩に手を乗せられた。
クルピンスキー「大丈夫だよ。隊長の食べる料理を俺は喜んで食べていたじゃないか」
ラル「そうだが……」
ロスマン「初めから上手くいく人なんかいません。まずは自分が思うように作ってみてはどうですか?」
ラル「……あぁ、ありがとう。流石は“先生“だな。今の言葉は胸に響いたぞ」
クルピンスキー「ねぇねぇ。僕は? 僕は?」
ラル「もちろんクルピンスキーもだ」
クルピンスキー「も、って何さ……まぁ、いいや。続きを始めよう」
ロスマン「そうですね。早く仕上げないと俺さんが帰ってきてしまいますし」
頷き、再びチョコを刻み始める。
隣に立ったクルピンスキーも開封済みのチョコレートを手にして慣れた動作で包丁を動かしていくと不意に腕を止めた。
微動だにしない彼女の姿が視界の隅に入り、つられるように手を休めたラルが視線を移すと彼女は考え込むように眉を顰めていた。
クルピンスキー「隊長……俺が喜ぶチョコレートが分かったよ」
ラル「なにっ? 本当かっ?」
瞳を輝かせクルピンスキーに縋りつく。
やはり伯爵の協力を受け入れたのは正解だったようだ。
そう思いつつ見上げると、クルピンスキーの表情はいつになく真剣な顔つきに変わっていた。
クルピンスキー「うん。ただ……これは少し大掛かりになるよ?」
まるで手術の危険性を患者に伝える医者のような口ぶりのクルピンスキー。
ラル「なんだ? 教えてくれ」
分かったよと頷いたクルピンスキーは意を決した面持ちで口を開いた。
クルピンスキー「隊長……」
ラル「あ、あぁ……」
クルピンスキー「服を脱いで裸になって」
その言葉が放たれた瞬間、厨房に沈黙が広がり、ラルは開いた口を塞ぐことが出来なかった。
服を脱げなどという余りにも唐突な展開に理解が追いつかずにいた彼女を他所に、真っ先に我を取り戻したロスマンが何処からとも無く取り出した指示棒を振り上げる。
ロスマン「こんのエセ伯爵がぁ!!」
クルピンスキー「あぅぅぅ! 違う! 違うんだよ!」
ロスマン「何が! 違うって! 言うのよ! この! この!!」
ラル「まぁ待て。話してみろ」
ロスマン「た、隊長! 本当に服を脱ぐんですか!?」
指示棒でクルピンスキーの頬をぐりぐりと突きまわすロスマンを抱き寄せて引き離すと彼女は目を見開いて見上げてきた。
脱ぐつもりは断じて無いが彼女が何を思ってそのような言葉を洩らしたのかに純粋に興味があったのだ。
ロスマン「まったく……」
ラル「すまないな。それで? 服を脱いで裸になることと俺が喜ぶことはどう関係するんだ?」
クルピンスキー「あいたた……まず服を脱ぎます」
ラル「ほぅ」
クルピンスキー「次に裸になった隊長の上からチョコを塗りたくります」
ラル「……………………そ、それで?」
自然と顔が引き攣っていくのがわかる。教えてくれと自分から頼んでおきながら、嫌な予感しかしなかった。
クルピンスキー「俺にそのチョコを食べてもらいます」
ラル「…………で、ででででで、出来るわけがないだろうが!!」
クルピンスキー「どうしてさ! 考えてみなよ! 好きな人の裸だよ!? 喜ばないわけがないじゃないか! ましてやその上にチョコを塗りたくってるなんて……俺なら絶対に喜ぶよ!!」
ラル「うっ……そう、なのか?」
鼻息を荒げて両の拳を握り締めるクルピンスキーが一歩詰め寄り、彼女が放つ威圧感に一歩退いてしまう。
真っ直ぐに自分を貫くクルピンスキーの眼差しを前にした瞬間ラルの頭の中に、ある光景が投影された。
ベッド近くのスタンドがぼんやりと照らす暗い部屋のなか。
服を脱ぎ捨て、素肌の上にチョコを塗りたくった自分を見つめる俺と彼に寄り添う自分の姿。
純白のシーツに押し倒される自分。若さの衝動を抑えられず二つの影はゆっくりと一つに重なり、そして……
ラル「~~~~~~~~~~っっっっっ!!!!????」
声にならぬ絶叫を上げてラルが紅潮させる頬に手を添え指の隙間からは、“ぼふん“という音を立てて白い湯気のような気体が漏れ出し始めた。
目は見開かれ、全身が小刻みに震えている。
戦場では勇ましい姿を晒す姉御肌の彼女であるが、その動揺ぶりから男を知らぬ立派な生娘であることが窺えた。
ロスマン「そんなの喜ぶのはあんただけでしょ! 大体どうしてそんなに自信を持って力説出来るのよ! あと隊長も信じようとしないでください!!」
クルピンスキー「だって、男はみんな狼だって俺が
初めて会ったとき言ってたんだもん……」
拗ねたように両の人差し指をつんつんと突き合わせるプンスキー伯爵。
ラル「……悪いが、い、いくらなんでも……その案だけは無理だ」
俺が自分の身体に性的な興奮を覚えているのも自分を気遣って手を出すような真似に出ないことも知っていた。
たしかに毎夜同じベッドで眠りについているが決定的な一線は越えておらず、そのことは俺にとって少なからず負担になっているのではないか。
ラル「そういうのは……今は駄目なんだ」
俺が必死の思いで内なる自身の本能を抑え込んでいるからこそ、そんな彼を刺激するようなことだけはしたくない。
それに、今回は日頃から世話になっていることへの感謝の意も込めているのだ。
そんな卑猥な形で表現したくはなかった。
ラル「まだ…………早いんだ」
ロスマン・クルピンスキー「…………まだ?」
ラル「あっ! いや! 違う! 違うんだ!!!」
自分でも知らないうちに零していた言葉にラルの頬に差し込む紅色が濃さを増す。
両手を目の前に突き出して振って見せるもクルピンスキーは悪戯めいた笑みを、ロスマンはどこか呆れたような眼差しを送ってくる。
二人の視線から逃げるように調理を再開するも胸の高鳴りは激しくなるばかりであった。
気分を紛らせようと刻んだチョコレートの一つを口元に運ぶと舌の上で甘い味が広がった。
唾液と混ざり合ってとろとろに溶けていく様はまるで今の自分の頭の中を表しているようであった。
ロスマン「隊長。お湯の用意が出来ましたよ」
ラル「…………はぅ」
唇から熱を帯びた吐息が零れ落ちる。
彼女の青い瞳はまるで蕩けたように潤んだ光を帯びていた。
どうして自分はあんなことを言ってしまったのだろう。
クルピンスキー「隊長? たいちょー」
ラル「っ!? あ、あぁ……ありがとう。助かる」
我に返り、理性の光を瞳に取り戻すラル。
刻んだチョコレートをボウルに入れて湯銭にかける。細かく刻んだ甲斐あってか溶け切るのに然程の時間は要さなかった。
型に流し込んで一時間ほど冷蔵する段階へと入り、一息吐くために隣の食堂に入って椅子に座る。
ラル「ふぅ……」
ロスマン「お疲れ様です」
ラル「あぁ……思ったよりも疲れるんだな」
クルピンスキー「作り慣れないからね。とりあえず後は固まるのを待つだけかな」
ロスマン「きっと上手くいきますよ。俺さんのためにあんなにも頑張っていたんですから」
クルピンスキー「お熱いよねぇ」
ラル「う……そんなに、からかうな……」
ロスマン「ごめんなさい。可愛かったもので……」
クルピンスキー「そんなに照れなくても良いのに」
ラル「う、うるさいな……」
それから軽い談笑を楽しんでいる間に一時間が経過し、冷蔵しておいたチョコレートを取り出して最後の仕上げに取り掛かった。
白のクリームで俺に対する想いを固まったチョコの上に書き付けていく。
何度も口にした言葉を文章にして表すのは存外に気恥ずかしいが、不思議と嫌な気分はなかった。
ラル「よしっ!」
後は文字が崩れないよう念のためもう一度冷蔵するだけだ。
クリームを手元に置いて額に浮かぶ汗を拭うラルの口元は満足げに綻んでいた。
そんな彼女の傑作を脇から覗き込むクルピンスキーとロスマンも優しげな笑みを湛える。
クルピンスキー「お疲れ様」
ロスマン「これならきっと俺さんも喜びますよ」
ラル「あぁ。二人のおかげだよ。本当にありがとう」
振り向き、素直に礼を告げる。
彼女らのサポートが無ければ俺が帰ってくるまでに間に合わなかったはずだ。
こうして何事も無く完成させることができたのも偏に二人のおかげである。
同時に手作りの菓子を作るよう勧めてくれたニパとサーシャたちに対してもラルは胸の内で感謝の言葉を述べた。
ラル「さてと。後は片付けだけだな」
クルピンスキー「最後まで協力するよ」
ロスマン「早く済ませましょう。俺さんが帰ってきてしまいます」
ラル「何から何まですまないな」
その後、後片付けを終えたクルピンスキーとロスマンの二人は一足先に厨房を去っていった。ちゃっかり自分たちの分のチョコレートを作っていたのだから驚きである。
ラル「ふふっ」
完成したチョコレートを見下ろすラルが口元を緩めた。
形、色艶ともに完璧な出来だ。味も甘さとほろ苦さの均衡を見事に保ち、口どけも良い。
これならば胸を張って俺に贈ることが出来る。
ラル「ふふふっ」
自然と弾んだ笑い声が唇から漏れ出す。
窓から差し込む茜色の光が穏やかな笑みを浮かべるラルの美貌を照らす。
俺「……ただいまって、グンドュラ?」
ラル「お、おれ!?」
俺「珍しいな。今日の食事当番はお前じゃなかったよな?」
疲れきった声と共に俺が左手に食材を抱え込んで厨房に姿を見せた。
疲労の痕が深々と刻まれた容貌に脱力する声音からどうやら職員用の厨房にも食材を届けていたようだ。
肩を回すと関節から小気味良い音が聞こえてくる。
ラル「あ、あぁ。いや、少し用事があって、な」
今ここで渡しても良かったのだが夕食前に渡すのも気が引けたため、後ろ手に隠す。
それまでは良かったのだが箱に収める前に俺が現れた所為でせっかくの傑作を素手で掴んでいる状況にラルは気付かずにいた。
彼女の胸を占めるのは俺に自分の手作りチョコを渡す今宵の光景だけだった。
ラル「そ、それでな。今日の夜は……空いているか?」
俺「もちろん。お前のためなら無理やり空けてみせるさ」
ラル「そ、そうか!!!」
快活な笑みを伴って返す俺を前に声を弾ませたラルが嬉しげに身体を揺らしたその時である。
――パキリ
と何かが真っ二つに割れたような音が厨房に響いたのは。
ラル「…………えっ?」
俺「……何か……今、割れたような音がした気がするんだけど」
ラル「き、気の、せい……じゃないか」
それまで軽やかだった彼女の声音が一転して抑揚の無いものへと変わっていき、瞳もどこか虚ろになり焦点が定まらなくなった。
音が鳴り響くまで一枚に繋がっていた板状のチョコレートは左右の手にそれぞれ短いものが一枚ずつあるという状態である。
段々と背筋が凍りつく感覚を覚えたラルはふらつきそうになる足元に力を込めて、直立の体勢を維持する。
俺にだけは悟られたくないという思いが放心する今の彼女の原動力となっていた。
俺「そうか? ってグンドュラ!? 顔の色が青いぞ!?」
ラル「それも……気のせい、じゃないか?」
俺「どこか具合でも悪いのか!? 何だったら今から医務室に行って」
ラル「く、来るな!!」
俺「っ!?」
ラル「あ、いや! 違う! いまのは……違う。そうじゃない……違うんだ……」
俺「…………あぁ、わかったよ。今は一人が良いってことだよな?」
ラル「……」
無言で頷くと俺は厨房に入って来たときに浮かべていたものと変わらぬ笑みを作って見せるがラルは見てしまった。
黒い瞳に浮かぶ不安とも寂しげとも取れる光を。
胸が痛む。原因は自分にあるというのに彼に気を遣わせてしまい、更には優しさに甘えてしまった。
俺「もう行くけど……出来たら俺にも何があったか教えて欲しい。俺が言えたような台詞じゃないが、お前には……独りで悩んで欲しくないんだ」
ラル「…………すまない」
俺「じゃあ……行くな」
扉が閉まり、一人厨房に残された。
恐る恐る左右の手に持つチョコを目の前に回すと俺に宛てたメッセージが丁度真ん中から割れていた。
まるで自分の愛情が見えない何かによって引き裂かれたかのような光景に目頭が熱くなる。
あれだけ苦労し、クルピンスキーとロスマンも手伝ってくれたというのに。
今までの努力が水泡に帰してしまったことへの悔しさと俺に何と言って渡せば良いのかという悲しさが涙となって込み上げてきた。
ラル「……っく」
乱暴に瞼を擦り、箱の中にチョコを押し込む。
躊躇いを切り捨てて蓋を閉め、封を施すと脇に抱えて厨房を後にした。
この季節ならば暖炉の前に置かない限り溶けることはないだろう。
ましてやここは北国ペテルブルク。暖房の無い自室の机においておけば問題はないはずだ。
徐々に歩く速度を速めていき、遂には何かから逃げるようにラルは自室へと引き返していった。
普段ならば軽いはずの足取りが今日に限ってはやけに重く感じられる。
俺に予定を尋ねた手前こんなことを言える立場でないのは分かっているが、今日だけは彼に会いたくなかった。
廊下を歩きながら手に持つ箱に視線を落とす。
深いブルーの包装紙によるラッピングが施されたそれは見た目こそ上品だが中身は自分が割ってしまった傑作だった手製のチョコレート。
ラル「どうして……」
壊れたチョコなど貰ったところで喜ぶはずがないというのに、どうして持ってきてしまったのだろう。
例え壊れていても自分の努力と背中を押してくれた部隊の仲間たちの想いがこのチョコには詰まっており、割れたからといって易々と捨てることが出来ないからなのだと自分に言い聞かせる。
そうでもしなければ、きっと自分はすぐに引き返してしまうはずだから。
扉の前で止まり、大きく息を吸っては吐き出す。
深呼吸を数回に渡って
繰り返し、意を決したような面持ちで手を持ち上げて扉を叩いた。
扉を開けると廊下にはやはりというべきかラルが立っていた。
一瞬彼女が手に持つ包装紙に包まれた長方形状の箱に目がいくが、すぐに視線を持ち上げて部屋のなかへ通す。
俺「正直に言うと、今日はもう会えないかと思っていた」
ラル「…………私も。どんな顔をしてお前に会えば良いか分からなくて、な。今日はやめよう思っていたんだ」
俺「それでも来てくれた。嬉しいよ」
ベッドの上に腰掛ける俺が穏やかな口調で本音を語る。
あのとき自分は確かに隣に腰を降ろした少女からの拒絶を受けた。
恋仲となってから受ける初めての拒絶。
ほんの一瞬だけ目眩がしたが、すぐに我を取り戻すことが出来たのは焦点が定まらない彼女の青い瞳に漂っていた悲しげな光を目にしたから。
ラルが意味も無く自分を拒絶するとは考えられなかった俺はすぐにその光が、その光を湛える原因が彼女を突き動かしたのだと判断した。
ラル「さっきは本当にすまなかった。すこし、混乱していて……」
俺「気にしないでくれ。むしろ、新鮮さすら覚えるってもんだ」
ラル「そう言ってくれると、助かるよ」
俺「それで……もしかして今日の用事はその手の中にあるやつと関係しているのか?」
俺の言葉に身体を強張らせたあと無言で頷くラル。
気まずげに視線を泳がせる様子は言葉の選択に苦心しているようにも見える。
ラル「おまえには世話になっているから感謝の意味も込めて作ってきたんだ……」
俺「どちらかといえば世話になっているのは俺のほうなんだけどな……でも、ありがとう。そういうことなら遠慮なく貰うよ」
ラル「あまり、期待しないでくれ……」
顔を背けるラルから手渡された箱を受け取り、包装紙を剥がして蓋を開ける。
中には白いクリームで文字が書かれた長方形のチョコレートが納められていた。
変わった点を挙げるならば、そのチョコレートが真ん中から左右に割れているということか。
ラル「すまない……せっかく、俺のために作ったのに。割ってしまって……!!」
俺「……あぁ」
ぼやきにも似た返事を返す俺は全てを理解した。
あの乾いた音はチョコレートが割れた音。
自分に贈るために作り上げたチョコレートを彼女は自らの手で割ってしまったからこそ、瞳に嘆きの色を湛えていたのだ。
あのとき放たれた言葉も自分にそのことを知られたくなかったから。
俺「……」
ラル「こんな割れたチョコなんて貰っても嬉しくない……か。当たり前か」
俺「…………まったく」
溜息と共に俺は胸中で零す。
彼女にとって丹精込めて作ったチョコを自分の手で割ってしまったことは辛かっただろう。
だが、割れたチョコレートを受け取って落ち込むほど自分の器は小さくない。
深く落ち込んでいるということはそれだけ彼女が自分のためを想って作ってくれたという証ではないか。
そんな彼女をどうして責めることが出来るのか。
俺「嬉しいよ……グンドュラ」
ラル「う、うそをつくなっ!」
俺「本当だって。それに……んぐ……こんなに、美味しいぞ?」
角のほうを小さく齧ってみせる。
甘さと苦さのバランスが見事に取られたチョコレートの風味が舌を覆っていく感覚を感じながら小さく笑みを浮かべる。
それでもまだ信じられないのかラルはぷいっと顔を背けてしまった。
俺「お前だって味見はしたんだろう? なのに、どうしてそんなことが言えるんだよ?」
ラル「だ、だって……そんな、割れたものだなんて」
俺「形と味は関係ないぞ? それとも、俺の言葉は信用できないか?」
ラル「そんなことはな――」
否定の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
白いシーツの上に押し倒されたラルの唇は俺のそれによって塞がれていた。
ラル「んむっ!!??」
押し倒され、挙句の果てには唇まで奪われるという突然の事態に目を丸くする。
次の瞬間には唇の合間に滑り込まされた舌を通して彼のために作り上げたチョコレートが口の中に侵入してきた。
口移しで伝わるチョコレートの甘い味に頭の中が霞でもかかったかのような感覚に陥る。
物事を冷静に考える力が低下し、いつしか大人しく身を任せた。
俺「んっ……んぅんっ」
ラル「むぅっ……んむ……んぅぅ」
初めの内は身を任せていたラルであったが徐々に自ら舌を動かして彼のそれと絡め、互いの口の中へ溶け切ったチョコレートの移し合いを始めた。
嫌悪感は微塵もない。相手が世界中の誰よりも愛おしい俺だからこその行動であった。
思えば彼から求めてくるのはこれが初めてなのではないか。そう思った途端に胸の中が温かいもので満たされていった。
ラル「っは……お、れ。もっと……んっむぅ」
唇と唇を重ね合わせるものとは違う濃厚な口づけ。
いつしか頭の中はチョコレートのように蕩けていた。
何も考えることが出来ず発情した獣のように互いの唾液を貪り続けること数分。
俺「っはぁ」
ラル「ぷはっ……い、いきなり何を……」
俺「ごめんな。でも、甘かっただろう?」
ラル「…………こんなことしなくても、わかる」
俺「だって俺が言っても中々信じてくれなかったじゃないか」
言葉を詰まらせるラルを今度は片手で抱き起こし、膝の上に座らせた俺が彼女を強く抱き寄せた。
その温もりを、柔らかさを独り占めするかのように。
誰にも渡さないといわんばかりの抱擁にラルも抱きしめ返すことで応える。
俺「買い物に行っている間……ずっと、お前のことばかり考えてた」
ラル「……おれ?」
俺「数時間……たった数時間なんだ。そんな短い時間でも……グンドュラに会えなくて俺は、寂しかったよ」
怪訝そうに首を傾げるラルに構わず続ける俺が彼女の腰に回す手をサイドテーブルの上に置かれた箱に伸ばして自分が齧ったものを掴み取る。
箱の中に納められたチョコレートを持ち上げると刻まれた文字も同様に真ん中から左右に分割されていた。
俺「このチョコさ。二つ合わせて初めて一つになるだろう? きっと、俺たちも同じなんじゃないか」
どれだけ想いが通じ合ったとしても離れていては話すことも抱きしめあうことも出来ない。
如何に愛し合っていても独りだけでは伝えたいこともままならないのだ。
彼女が贈ってくれた、このチョコレートのように。
ラル「もういいよ……わかったから」
俺が何を伝えたいか察したラルは片手を彼の背に回し、もう片方の手をサイドテーブルの上に乗せられた箱の中から残りのチョコレートを手に取った。
ラル「おれ……」
俺「……グンドュラ」
引き寄せられるように互いの手が近づく。
二つに割れたチョコレートが本来の姿を取り戻し、クリームで描かれた白の文字が互いに対する想いを代わりに告げた。
――Ich liebe dich(あなたを愛している)――
今日は二月十四日。
バレンタインデーである。
おしまい
最終更新:2013年02月04日 14:35