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いつからだろうか、ネウロイがやってくることに喜びを覚えるようになったのは。黒の異形を打ち砕き、白の破片にして空を染めることに快感を見出したのはいつ頃だっただろうか。
疲れを微塵も気にせず、食事よりも睡眠よりも、何よりもネウロイの駆逐を――空を駆けることを望んだのは、いつ頃からだったか。
戦果がほしかったわけではない。譲れるような手柄はすべて譲ったし、もらうような休暇はすべて断ったつもりだ。最前線に立てるように「大尉」の階級に就いたのは自らの信条、もっといえば自らの「信仰」だったからだ。
望むままに凶暴であり、望まれるままに暴虐であることが教典であり、教義はネウロイの駆逐のみである。
だからこそ、空を飛べないことが何よりも口惜しい。今も世界のどこかでは間違いなくネウロイが都市を蹂躙し、市民やウィッチを殺している。それなのに……。
「それなのに」、自らが安息を堪能し、地に足を着けて空を眺めることが口惜しい。
彼が求めるものは「戦果」ではなく「戦火」である。生粋の戦闘狂である自らには、安息が何よりも苦痛である。
ふと、コートの内側を探る。そして、自嘲気味な笑みを浮かべる。
タバコはもう無い。禁煙はいまだ記録更新を続けている。
指に触れるのは「彼女」の残り香だけだ。「彼女」の残骸だけだ。
それでも、心が安らぐ。
――――俺の自室――――
薄い月明かりが部屋を照らす。綺麗な満月は、地上に柔らかな光を落とし続けている。
星の煌きと月の光は、きっと永劫変わることなくこの景色を与えてくれるのだろう。
昔から月明かりの強い夜は寝付けない事が多かった。それが原因で「ヴェアヴォルフ」という渾名をつけられたことは、おそらくは誰も考えないだろう。
時刻は22時を少し回ったところ、消灯時間に入りつつある。
小腹がすいた、と言うよりは、喉の渇きを覚えた男は、食堂へと向かう。あわよくば睡眠のための酒を手に入れるために。
軽い音とともに扉を開け、極力靴音を抑えて廊下を歩く。いつもの彼の歩き方では、踵と床が触れ合うため、コツコツという音が響いてしまうのだから。
そろりそろりと、男は歩く。遥か前方で、靴音が聞こえた。徐々に靴音は遠ざかっているようだ。
「(基地の巡回か?)」
男はあまり気にしないように、壁伝いに歩く。まだ暗闇に慣れてはいないため、角を間違えたり、部屋を間違えてしまえば迷ってしまうからだ。
だが、男は気づく。靴音の主が向かう方向と、自分の向かう方向が同じだということに。
「(……まあ、良いか)」
細かく考えずに、男は食堂への通路を行く。前を歩く人物は歩幅が小さいのか、靴音は徐々に近づいてきているように思える。
「(声をかけるべきか。否、食堂までの付き合いだ)」
扉の開く音が前方から聞こえると、男は硬直した。おそらく、前方の人物は食堂に入ったのだから。
「(……どうするべきか)」
しばらく悩んだ後で、男も続いて食堂の扉を開ける。扉の音に反応したのか、食堂から女性の声が投げかけられた。
「誰ですの?!」
「私だ」
薄い明かりが部屋の中の二人を照らす。
頭二つ分の身長差は影を作るには十分な差であった。
「俺……大尉? な、何の御用ですの?」
ふい、とそっぽを向き、ペリーヌはつっけんどんに言う。当然、その態度は先日の一件が原因であろう。
彼女の前にはフライパンと何かの用紙があり、コンロには火が付いていた。
「寝付けないから何かあればと思ったんだ。ペリーヌは?」
「わ、私は、その……」
ペリーヌは言葉を詰まらせる。まさか料理の練習のためとは言えないからだ。
「……まあ、火をとめたほうが良い。火事にでもなったら大事だ」
「っっ!」
男の言葉に、おとなしくペリーヌは火を止める。素直に料理の練習と言えばよかった、と彼女が後悔したことは言うまでも無い。
男はするりとペリーヌの脇を通り抜け、食料庫を覗き込む。ジャガイモがやたら豊富だが、料理の材料は一通り揃っているらしい。
「酒は……さすがに置いてないか。今度街へ出たときに買わないといけないな……うん?」
男は食料庫に放置されている瓶を手に取る。透明な瓶の中には、何かが入っている。
「あ、そ、それは……」
「君のものか? クロステルマン家のハーブ園は有名だからな」
瓶の中身は、マリーゴールドのハーブティであった。
初めて振舞った際には酷評であったが、ペリーヌは自分の嗜好用に、花壇で栽培したものをこうしているのだ。
「……それは、私が基地の花壇で育てたものですわ」
あまり話したくない、というように、ペリーヌは言う。故郷はまだ、完全に復旧してはいない。
「そう、か」
一瞬だけ、沈黙が包む。ペリーヌが話題を探そうと口を開いたとき、男が言葉を切り出した。
「差し支えなければ、ハーブティを頂きたい。駄目だろうか?」
予想だにしていなかった言葉に、ペリーヌは大きく眼を見開く。だが、素早く表情をもとにもどすと、呆れたような表情を浮かべて男へ向き直った。
「どうしても、と言うのなら仕方ありませんわ。ご馳走いたします」
「有難い」
男はわずかに笑みを浮かべながら、お茶の用意を始める。空いているコンロに火がかけられ、ケトルの中の水に熱が加えられ始めた。
「先ほどの話の続きだが、夜中にフライパンを熱することが趣味の人間がいるとは考えにくい。それにこちらも暇な身だ、料理なら多少は心得があるから、夜食くらいならつくれるさ」
その言葉に、ペリーヌは男を見つめる。彼女の脳内では、男が料理を出来るはずはないのだから。
「……そんなに意外そうな顔をしなくても良いじゃないか。母の料理を見ながら覚えたものだ」
男は食料庫から卵とたまねぎにピーマン、それとベーコンを取り出して言う。オムレツでも作るつもりなのだろう。
「すまないが、お湯が沸いたらお茶を淹れてもらっても良いか? 料理と同時に何か出来るほど器用ではない」
男はたまねぎとベーコン、ピーマンを刻み、炒めると、慣れたように卵を割り、かき混ぜながら言う。ごつごつとした軍人の手からは想像も出来ないほどに、繊細に料理をこなしている。
香りが部屋に漂うと、小さく、ほんの蚊の鳴くような音で、ペリーヌの腹が鳴る。ペリーヌは腹を押さえて顔を真っ赤にしているが、男は気づかないようだ。
「……大尉は、ノルマンディの生まれでしたわよね?
ガリアのネウロイの巣が壊滅してからは、何を?」
ペリーヌは言葉を紡ぐ、それはただ単純な興味ゆえであった。
「一年前か? そうだな、あの時は確か……そう、オストマルクにいたよ。思えばずいぶんといろいろな場所を盥回しにされたものだ」
くく、と笑いながら、男は言う。炒め終えたものは別の皿に移され、今度は卵が熱を加えられていた。ペリーヌは熱湯の入るケトルを持ち上げ、お茶の準備を始める。床と椅子がふれあい、音を立てた。
「ガリアで志願して、カールスラント、
アフリカ、オストマルク、そして、ここだ。なかなか祖国の空を飛ぶ機会が無いのが残念だが、軍人なんてそんなものか」
皿に出来た料理を盛り、男はペリーヌの前と、その向かいの席に皿を置く。そしてどこからかケチャップを取り出し、二人の間にそれを置いた。もちろん、食器も一緒に。
ペリーヌのほうも、ハーブティを淹れ終えたようだ。
「食べられる味にはなっているはずだ。もっとも、宮藤軍曹やリネット曹長には遠く及ばないがね」
別に食べるとはいっていませんわ、という言葉をすんでのところで取り消し、ペリーヌは薄明かりに照らされた料理を見る。ところどころ卵は破れているが、自らが作ったものに比べればまだ、それはオムレツといえるものだ。
「い、いただきますわ」
「ああ、召し上がれ」
ペリーヌはオムレツに口を付け、男はハーブティに口を付ける。二人の眉間の皺は、わずかに、そして同時に、弛緩した。
「ふむ……美味いな」
「んなっ……! と、当然ですわ! 私が一生懸命育てたマリーゴールドで作ったハーブティですもの!」
ペリーヌは、男の作ったオムレツに評を下さないまま、言葉を紡ぐ。そして、その言葉の間を縫って、男は言葉を投げる。
「病み付きになりそうだ、この味は。君がどれほど手間をかけたのか、わかるよ」
ふと、男の顔が明らかに穏やかな表情を帯びる。それは年相応というよりは、幼い少年のような無垢な笑みだった。
あの日に彼の寝室で見た、彼の寝顔と同じ笑みだった。
ペリーヌの心臓が跳ねる。頬が高潮する。息が荒くなる。また彼女の知らない感情が溢れる。
ペリーヌは、なぜこの男に対していつものように振舞えないのか、うすうす気が付き始めていた。
上官だからではない、同じガリアの生まれだから、これは少し違う。
この男は、自らと同じ境遇でありながら、それを跳ね除けて来たからだ。
「(きっとこの方は、私が泣いていたときも、泣かなかったのでしょうね)」
また一段と強く、心臓が跳ねる。それ以上考えることを拒否するように。
「……お節介かもしれないが、冷めるぞ?」
ペリーヌはふとわれに返り、再びオムレツに手を付ける。そして、精一杯の憎まれ口を紡いだ。
「ま、まあ、悪くありませんわね」
その言葉に、思わず男は笑う。まるで風が噴きぬけるような笑いだが、ペリーヌにとって、そして彼自身にとっても、それは新鮮なものであった。
ゆっくりと夜は更けて行く。
ひたすらに緩やかに、そして、穏やかに。
今も世界のどこかではネウロイによって人が死んでいるのだろう、だが……。
だが、二人はそんなことを微塵も考えてはいない。
なぜならこの空間は、平和以外の何物でもないのだから。
最終更新:2013年02月07日 15:18