『 I LOVE YOU OK ? 』

【1937年 ロマーニャ公国 首都ローマ】

薄暗い館内に照らし出されたスクリーンには官能的で扇情的な女性と、彼女に恋慕を抱いている青年の恋愛劇が映し出されていた。
第一次ネウロイ大戦下のブリタニア連邦、ロンドンを舞台にしたメロドラマだ。
その名も『哀愁』。ロバート・E・シャーウッドの戯曲「ウォータールー橋」を映像化したリベリオン映画だった。

ブリタニア将校クローニンと、美しいバレエダンサーであるマイラの燃え上がるような情熱的な恋。
しかし戦争という時代の運命に引き裂かれたクローニンは再び戦場へ……そして健気に待つマイラ。
そんな彼女に届いた報せはクローニンの戦死を伝える物だった……



大画面を見つめながら口に放り込んだポップコーンは、焼き立ての良い香りがした。味付けは少し塩辛いかな?と思わせる程ではあったが、冷めると途端に不味くなってしまうポップコーンの性質上、仕方が無いのかもしれない。

時は1938年の夏、俺はローマに映画を鑑賞しに来ていた。
ローマ鉄道中央駅テルミニ駅からメインストリートであるナツィオナーレ通りを道沿いに10分ほど歩いた地点にある小さな映画館。外の壁はうっすらとレモン色が混じった白で、お世辞にも綺麗だとは言えない外見だった。
トリノからの首都移転に伴いアールヌーボー様式のエレガントな街並みが建設されたローマの街並みから非常に浮いている。まるで時代に取り残されたかのような、そんな映画館だった。

散々な評価を下したものの、平日の昼間ながら客の入りは上々。先日封切したばかりで、今巷で話題の作だという事を差し引いても繁盛している方なのだろう。


俺「……」


最後列から見降ろす客席は驚いた事に皆が皆、男女2人組で来ているいわゆる恋人達ばかりだった。恋人ではないにしても寄り添い合い、蜜言を囁きあっている姿を見るにそれに準じた関係性ではあるはずだ。

ガサゴソとポップコーンの入った紙カップに手を突っ込み、口に放り込み続ける作業を続ける俺の隣では、幼馴染であり、現在はウィッチ養成所の同級生であるフェデリカ・N・ドッリオが瞳に涙を溜めて画面を見つめていた。
薄明かりに照らし出された彼女の真剣な表情は、思わずドキリとしてしまうほど美しかった。

幼いころから飽きるほど見て来た彼女の顔だが、ここ最近グッと大人っぽい表情をするようになった気がする。
そんなフェデリカの横顔をジッと見つめていたかったが、少ない小遣いから大金を払って映画を見に来ている事を思い出し、頭を降ってスクリーンへと向き直った。


フィルムから映し出された映像の中で、主役であるロイ・クローニン大尉と恋に落ちる美しい女性マイラを演じるヴィヴィアン・リーの名演は群を抜いて魅力的であった。
繊細な表情の動きで感情の機微を表し、その耽美な造形の顔はもはや芸術品だ。
前作『風と共にさりぬ』でも圧倒的な存在感を放っていたが、今作『哀愁』の徹底的にロマンティックを貫き通した演出群の中での彼女は更に輝きを増していた。
「蛍の光」が流れる中で1つ1つ消えて行くローソクの灯、雨の中でのラブシーン等々……。ハリウッドの名監督であるマービン・ロイの演出の賜物なのであろう。

逢えない恋、切ない想い、立場による制約、思いやりと葛藤が入り乱れ、運命に翻弄された男女の愛の物語は次第に悲しい結末へと収束していった。
悲しい別れだった。互いに、誰も悪く無いのに報われない美しい恋の終わり。
戦争を背景とした映画は数あれど、ここまで真っ直ぐな恋愛映画を見たのは初めてだった。
まさに悲恋の王道、ただ互いに相手を愛し続けた2人の悲劇的な結末には只涙を流す事しかできなかった。


エンドロールが流れ始め、引きこまれていたマービン・ロイ監督の作り出した悲劇的でロマンティックな世界観からようやく解き放たれた観客達は、極限のリアリティズムである現実世界へ引き戻された。

館内では上質な映画を観終わった後の独特な余韻を楽しむかのような虚脱感が満ちていた。
抱きしめたり、肩を寄せ合ったり、見つめ合ったり、方法は様々なれど観客達は自分のパートナーの存在を確かめ合っていた。

各々が隣に寄り添う大切な人が共に在り、共に時間を過ごせる事がいかほど幸せな事か噛みしめているのだろう。
勿論、それは俺とフェデリカも例外では無かった。涙で端正な顔をグシャグシャにしたフェデリカは俺のTシャツの裾をギュッと摘まんで離さない。
俺はそんなフェデリカの仕草がどうにも彼女らしくて、先程までの大人っぽい表情とのギャップに苦笑してしまった。


俺「Tシャツ伸びちゃうだろ、それおニューなんだから勘弁してくれよ」

フェデリカ「似たようなのいっぱい持ってるんだから、いーじゃん別に」


ズズッと鼻を啜った彼女は悪びれも無くこう言うと、ジャージを握る力を強めた。
買ったばかりで割と気に入っているDIADORAのTシャツが伸びてしまわないように、俺は彼女の方へと体を寄せて、前列に並ぶカップル達と同じようにそっと体を触れ合わせた。
彼女が泣きやむまで胸……ではなく裾を貸してやる事にしたのだ。

たっぷり十分ほど悲しい結末を辿った創作の恋人達のために涙を流したフェデリカはようやく泣きやむと、周囲を見渡して観客達の状況を確認した後、自分達の姿を見て悪戯っぽく微笑んだ。



フェデリカ「こーしてると私達も恋人同士に見えたりするのかな?」

俺「傍から見れば見えるかもね」


フェデリカ「嬉しい?」

俺「ぬかせ」



ちぇっ、とつまらなそうに呟いたフェデリカはTシャツを摘まんでいた指を離して、体ごと俺の方に倒れ込んできた。
全体重を乗せているんじゃないかと思うほど遠慮なく体を預けて来た彼女は、俺の肩にちょこんと頭を載せた。


フェデリカ「なんかさぁー、最近俺の反応が冷たいんだけどぉー」

俺「そんな事無いさ」

フェデリカ「そーいう所がだよ。カッコつけてんの?」



尚もつまらなそうに続ける彼女の言葉は確かに耳が痛い物であった。
ウィッチ養成学校に通う俺が対面した一番の壁は、銃を撃つ事への恐怖感でも、空を飛ぶ事への抵抗感でも無く、男女比驚異の1:9を誇る超絶ハーレム空間における性的興味への目覚めだったのだ。

右を見ても左を見ても美女美女美女。女の匂いでむせ返る学び舎での生活は純真無垢なサッカー少年にはあまりに刺激が強すぎた。
心と頭の中は卑猥な妄想で穢れてしまったものの、体は未だに純潔である俺は女性と話す時にどうしても素っ気ない態度をとってしまうのだ。
「俺、別にお前に興味なんてありませんよ」と聞かれてもいないのにアピールをするように。

それは共に長い時間を過ごしてきたフェデリカが相手でも同じだった。
だけどそれを彼女に悟られたくない俺は、いつも必死に誤魔化すのだ。性への目覚めが親しい人にバレる事程恥ずかし事は、そうそうないだろう。


俺「まぁ、俺もお年頃だからな」

フェデリカ「頭の中はエッチな妄想でいっぱいおっぱいって訳ですか」

俺「そうそう、それそれ」

フェデリカ「授業中はずっと考えてたり?」

俺「座学中はずっと」

フェデリカ「その内透視の魔眼とかも使えそうな勢いだね」

俺「ただし透視できるのはウィッチの服限定」

フェデリカ「いやん、エッチ」



目をカッ!と見開いて、俺は彼女をみつめた。笑いながら、フェデリカが両腕で自分の体をギュッと抱きしめた。体を艶めかしく捩じらせて、しなを作る。
ここ最近で急に大きくなり始めた形の良い乳房が両腕に抱かれて柔らかそうにムギュっと潰れた。しなやかで女性的なラインが強調されて、映画館の狭い座席の上で彼女のキュッと締まったヒップが窮屈そうに動いた。


俺「もし仮に透視できたとしても、多分お前のは見ねーんじゃないかな」

フェデリカ「なんでだよー、見ろよー」


ブー、と脹れっ面をした彼女が俺を見上げて、頬を人差し指でツンツンと突いてきた。
不満気なフェデリカには悪いが、これは冗談ではなく本音だ。チラリと彼女の体に意識を向けるだけでも罪悪感が湧くのに、裸なんて見た日には多分顔を直視する事すらできなくなるはずだ。
友人として仲が良いというのも、良い事ばかりでは無いのである。

それにしても、女としてのプライドがあるのも解かるが「裸を見ろ」というのもどうなのだろう。
それは相手が俺だからこそ言うのだろうか?なんて自分に都合よく考えるのはきっと俺が童貞だからだろう。授業中に偶々目があった女子に「あれ?もしかして俺に気がある?」なんて思い込んでしまうアレときっと同じだ。


俺「ほれ、もうじき映画終わるぞ。出る準備しろよ」

フェデリカ「ん」


短く返事をしたフェデリカは俺の頬を突く手を止めて、もうじき流れ終わるであろうエンドロールへと目を向けた。
そしてうって変わって真剣な表情になって、再び俺のTシャツを摘まんだ。


フェデリカ「ねぇ俺、マイラは愛を貫いて幸せだったと思う?」

俺「貫いた事で美しくはあったけれどね、幸せだったかはどーかな」

フェデリカ「うん、好きな人と一緒にいれない未来が幸せなはずないよね」


ギュッと、彼女の裾を摘まむ力が更に強くなった。
視線は真っ直ぐにスクリーンから離さずにいたので表情を窺う事は出来なかったが、少しだけ寂しそうな顔をしていたような気がする。


フェデリカ「大人になると、こういう選択もできるようになるのかなぁ」

俺「うぅ……あんましたくないけどなぁ……」


フェデリカ「想像できないね」

俺「うん」


やがていつか放っておいても辿りついてしまう大人というヴィジョンはいつだって酷く漠然として曖昧なものだった。
もっと幼い頃は時が経てば誰もが勝手に大人になって、自然に誰かを好きになって恋に落ちて行く……そう思っていたものだ。当たり前にある、当り前の未来。

そんな未来は嘘である。

少なくともこのまま能天気に世間知らずで童貞なまま成長すれば、この映画のクローニン大尉のようなかっこいい大人の男には一生かかってもなれないだろう。


フェデリカ「行こっか。次どこ行く?」

両手を天に突き上げ、「んー」と気の抜けた声を発しながら彼女が立ち上がった。
スラリとした肢体は長くしなやかで、雑誌のティーンモデルなんて目じゃないスーパーボディ。知らない内にしっかり大人の体に変わっていく幼馴染は、変わらない笑顔で俺に微笑みかけた。


俺「腹減ったし、メシ行こうよ」

フェデリカ「ポップコーン食べたばっかじゃん」

俺「別腹別腹」

フェデリカ「成長期だねー」


ケラケラと楽しそうに笑ったフェデリカに倣って俺も立ち上がった。
彼女の言う通り、俺達は只今成長期で思春期のド真ん中。いつだって体の成長に精神の成長が追いつかないのだ。
毎日の訓練の成果もあってか、俺の体も随分と筋肉がついたし身長も伸びた。しかし中身はきっと無邪気にサッカーボールを蹴っ飛ばしていたあの頃から全く成長していない。



『息を吸う度に恋をして、息を吐く度に失恋をする。』



先日読んだ小説の、思春期の少年少女を表現した一節をふいに思い出した。少し感心した表現だったから、記憶の浅い部分に潜んでいたらしい。
言い得て妙だなと感じたのはきっと自分自身が思春期だからだろう。


大体思春期の男子が好きな女子ってのは、個人の誰って決まっていない。大抵複数……というよりも「可愛いor綺麗な女子」の大半がそういう物だと思う。
「あの子可愛いな」とか「あ、SEXしたいなー」みたいな感じに思う子が複数いるんだと思う。俺だけかもしれないけれど。

じゃあ女子の場合どうなのだろうか?と少し気になった。


俺「なぁフェデリカ」

フェデリカ「なに?」

気付けば俺達は劇場に残った最後の客になっていた。周囲にはもう既に誰もいない。祭りの後のようなひっそりとした静けさを放つ劇場内には俺とフェデリカの靴音だけが響いていた。
劇場の最上段から階下へと楽しそうに、弾むように降りて行く彼女へ背後から声を投げかける。
ピョンと片足で一段飛ばしに飛び降りたフェデリカが足を止めた。


俺「お前、好きな人っている?」

フェデリカ「いるよ」


振り返らずに彼女が答えた。凛とした風鈴の音のような、迷いの無い澄んだ声だった。
彼女は確かに、どこかの男に恋をしているのだ。

俺「え……マジ?……え?」

それは俺が知っている男だろうか?それとも知らない奴だろうか?
頭の中がグルグルと高速で回転して情報を処理できない。聞きたい事が山程浮かんできて、決定的な言葉にできないまま消えて行く。


俺「……それ……誰?」

かろうじて言えた言葉は飾り気の無い、非常にストレートな物だった。
いつも俺はこうだ。女子と話して、少しドキリとした時は後悔が募るのだ。「もっと気の利いた言葉があった」とか、「柔らかい態度をとるべきだった」とか。
過去はいつだて反省点ばかりで後悔の山でできている。

そんな自己嫌悪に陥っている俺なんてお構いなしに、フェデリカはその場でクルリと振り返った。


フェデリカ「内緒」

顔を伏せ、手で髪を弄りながら彼女はこう答えた。
みょんみょんと右手で艶やかで長い髪を引っ張っている彼女はどこか落ちつきが無いようだった。伏せられた顔の表情は窺えない。


俺「お、おう」

微妙な空気が流れた。俺とフェデリカの間でこんな空気になったのは初めてのような気がする。
お互い言葉も無く時間だけが過ぎて行く。そんな気まずい空気を破ったのは俺で無くフェデリカの方だった。


フェデリカ「もうー!俺が変な事聞くから空気おかしくなったじゃん!」

俺「ごめん」

フェデリカ「罰としてお昼ご飯奢りね♪」


歌うように声を弾ませた彼女は、何事もなかったかのように再び前に向き直りピョンピョンと階段を降りはじめた。


フェデリカ「カフェ・グレコ行こうよ!あそこお洒落よねー」

俺「てめぇ、奢りだと思って調子ノリやがって」

フェデリカ「マジで奢ってくれんの?キャー、さっすが俺君、カッコいー」


フェデリカが立ち止まって、顔の前で手を祈るように組み合わせて全身で喜びを表現した。
眼なんてキラキラしていて、まさに満面の笑みって感じだった。


俺「あんまり高いの頼むなよな」

フェデリカ「解かってる解かってる♪ありがと」


一段一段ゆっくりと階段を降りて彼女と同じ段に並んだ俺に、フェデリカは人好きのする笑みを投げかけた。
いつだって俺は彼女の素直な感謝に弱い。今のような笑顔で「ありがとう」なんて言われた日にはいつも大抵な事を許してしまう。

俺「持ち合わせ足りるかな」


カフェ・グレコはローマの超有名店。ニーチェやワーグナーを始めとした各界の著名人も来店する老舗だった。当然お値段も割高である。
元から薄い財布が更に薄くなる事を想像して、思わず溜息がこぼれた。

それでも最後は「しょうがねぇなぁ」と呟いてしまう。
彼女の喜ぶ顔が見られるなら、「まぁいいかな」と思えてしまうのは俺が思春期だからだろう。
きっとそうだ。

まったく、我ながら安上がりなお年頃である。





          *          *          *





ローマの都市部にある著名な観光スポットであるヒスパニア広場は今日も人が押すな押せやの大賑わいだった。
真夏のうだるような暑さにも関わらず、人でごった返している。
トリニタ・ディ・モンティ教会へと続くヒスパニア階段には沢山のカップル達が隣り合って愛を語らっていた。中には熱いベーゼを交わしている者達すらいる。暑い日差しの下で熱いベーゼとか、見ているだけでジェラートが溶けてしまいそうだった。

そんなバロック的な効果を上げているヒスパニア階段を背に、真っ直ぐ進んだ高級ブランドの直営店が並ぶコンドッティ通りでカフェ・グレコは営業していた。


重要文化財にも指定されたその建物は、なるほど確かに歴史と風格を感じさせる佇まいだった。ローマの街並みに馴染んだアールヌーボー風の造りで、荘厳ながらも落ち着きがある。


俺「やっぱ混んでるね」

フェデリカ「まぁ有名店だししょうがないでしょ」


一枚扉のドアを開けて、中に入った俺とフェデリカは正面カウンターで忙しそうに働いているバリスタのお兄さんに注文をした。
額に汗を張り付けたお兄さんは中々のイケメンだった。


俺「俺はレモンのグラニータと水」

フェデリカ「私、カフェラテフレド」


俺「飯はどうする?ケーキもあるみたいだけど」

フェデリカ「ん、美味しそー!じゃあせっかくだしオススメのコーヒーアイスのケーキで。俺は?」

俺「俺はパニーニでいいよ。ハムとチーズので」

フェデリカ「あー、そっちも美味しそう。後で一口頂戴」

俺「後でな」


なんてやり取りを交わしている内に、バリスタは手早い手つきでグラニータとカフェラテフレドを作って行く。

最初に完成したのは俺が注文したグラニータだった。
グラニータとはシャーベット状の氷菓の事で、いわゆるフラペチーノのような物だ。暑い夏はこれでサッパリとするに限る。
アルミ製のグラスに山のように盛られたグラニータはほんのりと黄色がかっていて、レモンの香りが心地よい。

続いて、フェデリカが頼んだカフェラテフレドをバリスタは差し出した。熱々のエスプレッソを氷がたっぷりと入ったグラスに注いで、沢山のミルクで割ったものだ。差されたストローでクルクルと掻きまわされて、褐色の美しい色になっていた。


フェデリカ「料理できるまでに、空いてる席探してくるね」

俺「オッケ、料理できたら持ってくわ」


彼女はグラスを手に、混雑しているテーブル席へと歩いて行った。
雑多な店内には当然沢山の女性がいるが、その中で彼女は別格に美しかった。普段から綺麗だとは思ってはいたが、実際に比べて見ると更に実感する。

握り潰せてしまいそうな驚異的なサイズの小顔には、猫を連想させるダークグレーの瞳が輝き、スッと通った鼻筋は高く綺麗なラインを描き、そのすぐ真下に薄い唇がそつなく収まっている。
おまけに体はスレンダーかつ出るとこは出ているグラマーで、そこらのモデルなんて話にならない程完成された八頭身ボディだ。通りを歩けばいつだって男の視線を釘つけにしてきた。


俺「あいつの好きな人って誰なんだろ」


思わず、頭の中の思考が漏れてしまった。ついさっき彼女が言った「好きな人がいる」という言葉が頭の中でグルグルと渦巻いていたからだ。
正直、自分でもこれ程動揺するとは思っていなかったから驚きだ。


なんて考えている内に、カウンターの上には俺達のランチとなるパニーニとコーヒーケーキが並んでいた。
「おまたせしました」と爽やかに述べたバリスタに、約束通り彼女の分の代金も払った。

出来たてホヤホヤで、食欲をそそるイイ匂いを漂わせているパニーニと、ちょっと大きすぎじゃね?と思うほど贅沢に切り分けられたコーヒーケーキを手に、カウンターを離れてテーブル席のフェデリカを探す。


グルリと視線を回して店内を一望すれば、彼女の姿はすぐに見つかった。
赤いベルベットの椅子と、大理石のテーブルが並んだ客席の一番奥、スペイン広場が一望できる窓側の席でフェデリカは頬杖をついて外を眺めていた。

丈足りて無いんじゃね?とも思われるピンクのピチTシャツに、黒のサマーベストを合わせ、下半身には少しダメージが入ったデニム生地のベルトを巻いて、足元は夏らしく涼しげなストラップサンダル。
胸元のハート型チョーカーがワンポイントのアクセサリーで、夏の陽光を反射してキラキラと光りを放っていた。


まるでファッション誌をそのまま切りぬいてきたかのようなお手本通りのファッションをした彼女が、伝統あるお洒落なカフェで佇む様子は完成された一枚の絵のようだった
ハッと息を飲むとはまさしくこの事だろう。


しばらくぼうっと彼女を見つめていた俺は、フェデリカが手を振って「こっちこっち」と呼びかける声で、自分が彼女に見惚れていた事実に気が付いた。


フェデリカ「どこ見てたのよ?」

俺が対面の席に座った瞬間に、彼女は胸を両手で抱くように隠してキッとした顔で俺は睨めつけた。


俺「そんなとこ見てないよ」


慌てて眼を逸らした。
なんというか彼女に意識を奪われてしまった事が、まるで悪い事かのように感じてしまったのだ。


フェデリカ「冗談のつもりだったんだけど」

少しポカンとした表情をしたのも一瞬、すぐにフェデリカは悪戯っぽい、実に楽しそうな表情に切り替わり上目使いで俺を見つめた。


フェデリカ「私の事を見てたのは事実ですか。そうかそうか」


非常に嬉しそうに何度も何度も彼女は頷いた。
右耳にかかった髪を掻き上げて、フフンと自慢気でもある。


俺「別にお前の事も見てない!外の景色が綺麗だったから」

フェデリカ「必死になるのが怪しいねー」

俺「だから違うって」

フェデリカ「スケベ」

俺「グッ……」

フェデリカ「スケベ」

俺「もう、それでいいや」


もはや彼女を言い負かせる気がしなかった。セクシャルハラスメントの話題になれば男の方が弱いのは必然、俺はスケベの汚名を受ける事に甘んじる事にしたのである。


俺「ケッ」


不貞腐れた俺は、自ら持ってきたパニーニを無造作に掴んで口に放り込んだ。
パニーニとはパンで具材を挟んだ軽食、いわゆるサンドイッチの事である。
ロマーニャでは、バケットに挟んだ物をパニーニ、食パンなど薄い生地に挟んだ物をトラメッツィーノと区別をするのだ。

カフェ・グレコのパニーニはバケットに、プロシュートハムとルッコラ、フレッシュチーズが贅沢に挟んであった。


俺「お、美味い」


こんがりとよく焼かれたバケットは表面はサクサク、内側はふんわりとした食感で、恐らく自家製であろうと思われるプロシュートハムの塩梅も丁度よく、色鮮やかなルッコラのゴマに近い風味は癖の無いフレッシュチーズと非常にマッチしていた。
流石はローマでも有数の名店なだけはある。はっきり言って、超美味い。
メンデルスゾーンやワーグナー、ニーチェなどの著名人達が愛したのも納得の味だった。



フェデリカ「ねぇスケベ、一口頂戴」

俺「あ、そのネタ引っ張るんだ」



非常に不名誉な仇名を容認してしまった事を後悔した俺は彼女へとパニーニを差しだした。
しかし、彼女は一向に受け取ろうとしない。


俺「いらねぇの?」

フェデリカ「食べさせて、あーん」

俺「まったく」


右手にフォークを持ってコーヒーケーキを切り崩していた彼女は、自分の手を空ける気は毛頭無かったらしい。
俺は苦笑交じりで、大口を開けている彼女の口にパニーニをそっと挿しこんだ。
パクリと噛んでフェデリカがモゴモゴと咀嚼し、飲み込んで満面の笑み。


フェデリカ「本当だ、おいしー」

俺「だろ?」

フェデリカ「こっちのも美味しいよ。はい、あーん」


自らも「あーん」と口を開いて、俺に口を開く事を促した彼女はフォークでコーヒーケーキを掬って俺に差し出した。
今度は俺がパクリと口に含んだ。「これ間接キスじゃね?」って思ったが昔から何度もしている事なので今更気にしない事にした。
それなのに何故か動悸は激しさを増して行き、頭がカーッと熱くなって視界がグニャリと揺らいだ。


フェデリカ「ね?こっちも美味しいでしょ?」

俺「あ……うん。すげー美味いわ、流石に高いだけあるな」


本当は味なんてよく解からなかったけれど、彼女が楽しそうに同意を求めるものだから思わず脊髄反射で答えてしまった。
「好きな人がいる」、「でも誰かは内緒」彼女の言葉が、再び頭の中で何度もリピートされてグルグルと回っている。

そんな俺の事なんて全く知らない彼女は、さっきと変わらず本当に楽しそうに微笑んでいた。


フェデリカ「ね、何食べても美味しいし、また一緒に来ようよ」

俺「次は奢らんぞ」


フェデリカ「え」

俺「え」


ケラケラと陽気に笑う彼女は再びここに来ようと言う。
彼女の恋している人への妄想が頭の中に矢継ぎ早に流れてきたけれど、次々と紙クズのように丸めて捨てられた。
その中には当然、彼女の想い人が俺でしたー。なんて具体性の無さ過ぎる都合の良い妄想なんかもあって、自分の度が過ぎた童貞っぷりにうんざりとしてしまった。


フェデリカ「卒業しちゃったら、私はメーカー就職で俺はそのまま従軍でしょ?あんまり会えなくなっちゃうね」

俺「そだね」

フェデリカ「だから、絶対にまた来ようね。約束だよ」


俺「うん」


と短く返事をした俺は彼女の真意を計れていなかった。いや、それだけでは無く、自分自身の気持ちでさえも。
水面に石を投げ込んだ時に生じる波紋のように心に産まれた彼女への感情は、確かに俺の頭を蝕んでいたのだった。


フェデリカ「続く!!」



最終更新:2013年03月30日 01:48