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廃棄都市を賑わせていた勝利の凱歌が止み、誰もが眠りに就いた夜更け。
都市を這う夜風の音が耳朶を嬲るなか、教会の戸口に通じる壊れかけの階段に俺は独り腰を落としていた。

「まだ動く、か」

雲の切れ間から姿を見せる月から、煤で汚れた手に視線を落とす。
ジグラット内部で意識を喪失する寸前まで、僅かにでも動かせば激痛を生んだ五指も今では思うように動く。
護符で囲んだ空間を自在に創り変える能力だけあって右腕以外は完治しており、男は改めていまこの場にいないかつての仲間に感謝した。

「…………っくし!! あー、ちくしょう」

凍えた音を伴った風に身体が自然と震える。遥か頭上を仰げば月を隠していた雲は消え失せ、天蓋の彼方に座る黄金色の満月がその姿を曝け出していた。
巨大で丸い月。
時に青白く、時に金色へと身に纏う光を変える天体は今宵もまた人間たちの営みを見下ろし続ける。
それが希望に満ちていようと、絶望に染められていようと。変わらずに。

「あー……」

徐に手を伸ばす。届きそうで届かない月に。
ストライカーを開発し、遥か大空を舞うことはできても人類の指は未だ月にかからない。
尤もネウロイなどという異形がこの惑星に蔓延っている以上、月に到達することなど夢物語でしかないのだが。

「そういえば薔薇十字の婆様が言っていたな」

淡く朧げな月の光を前にふと己に自ら編み出した術式を授けた魔女の存在を思い出す。
薔薇十字。
偶然にも友人の妹と同じ名を持つ稀代の魔女が、かつて自分や他の仲間たちに囁いた言葉が脳裏に反響する。

――月、ねぇ。安心なさい。あと50年も経たない内に到達出来るわよ――

当時は自分も他の仲間たちも、彼女が洩らした言葉を真っ向から信じようとはしなかった。
生身の膂力で以ってネウロイを撃砕する血気盛んなあの男にいたっては正面から食って掛かったほどだ。
けれどもこと魔法、魔術に関して群を抜いた才を持つ彼女の言葉は。
中世の時代から今日まで存在し続ける正真正銘の魔女の言葉は、今になって思えば不自然なほどの説得力を秘めていた気がしてならない。
あたかも予言者の如き、あの口ぶり。もしかすると彼女は……

「こんなところにいたのか」

音を立てて開くドア。背に投げかけられた言葉に思考が途切れる。
聞き慣れた恋人の声音に口元を緩めながら振り返った途端、俺は息を呑んだ。
月明かりに照らされながら後ろ手に扉を閉めるラルの姿に。
形の良い唇から白く染まった吐息を洩らし、夜風に弄ばれる髪を繊手で押えつける恋人の姿に。
視線が吸い寄せられていることを自覚しつつも、目を逸らすことが出来なかった。
一秒でも長く、この光景を脳裏に焼き付けておきたいという欲求が俺の身体を拘束していた。

ラル「どうした?」

絡み合う視線。
見惚れていたことに気づかれたことへの気恥ずかしさと澄んだ瞳が自分だけを見つめている心地良さが混ざり合った奇妙な感覚に苛まれながら、俺は熱を帯びる顔を背けてしまった。

俺「いや。なんでもない」

恋人同士なのだから別段恥ずかしがることでもないのではと彼女への返答を口にしつつ、胸裏に零す。
それでも視線を逸らしたのはきっと彼女の美しさが原因なのだろう。再び月を見上げ、しみじみ思う。
未だ両想いであることも信じられず、もしやこれは夢なのではと俺は頬を摘みあげた。
指が摘んだ部分に宿る熱と痛みから紛れも無い現実であることを実感する。

ラル「姿が見えなくなったから心配したぞ?」

俺「少し考えごとを」

無事生還を果たし、彼女と――ラルと思いを通じ合わせたその後。第502統合戦闘航空団との合流を終えたその後。
自分の姿を捉えるや否や感極まったニパに抱きつかれ、生還の褒美と称されクルピンスキーから頬への口づけを贈られ、すぐさま恋人から鋭い視線を突き立てられるなど何かと騒動は耐えなかった。
口々に自身の帰還を喜び、安堵してくれた仲間たちに囲まれる俺は自らの帰るべき場所がどこなのかを改めて思い知った。
今まで世界中を彷徨ってきたが、もうそろそろ根を下ろす頃合かもしれない。

ラル「まったく、こんなに身体を冷やして……風邪でも引いたらどうするつもりだ?」

不意に温かな感触が背中を覆った。後ろから腕を回され、身体を密着させられながら耳元で囁かれる。
叱りつけるような言葉とは裏腹に弾んだ口調。目に見えずとも彼女がいま笑みを口元に携えている姿が容易に想像できる。
背に当たる母性溢れる柔らかな感触に意識を奪われ、耳朶と首筋を交互にくすぐる蜜味の吐息に身を捩らせながらも、

俺「そのときは恋人の手厚い看病に期待するかな」

ラル「……ばかっ」

冗談めかした言葉で反撃に躍り出ると恋人の羞恥を孕んだ愛らしい罵倒が耳元を撫でた。
その耳に心地良い声色を楽しみつつ、胸の前まで伸ばされたラルの手を取る。
瑞々しく柔らかな繊手を握るとすぐさま握り返され、そのことが俺の口元に深い笑みを浮かび上がらせた。
世の恋人たちにとっては当たり前のことなのかもしれない。けれども彼にとって、そんな当たり前が大きな幸せに感じられるのだ。
思えばここまで来るのに随分と遠回りしてきた。
もっと早くに想いを伝えていれば悲しませることも無かったのだろうか。独り物思いに浸りながら手の平を満たす感触に瞼を閉じる。

俺「あったかい……」

ラル「お前が冷え過ぎているんだ。どうしてこんな夜更けに出た? 寝付けないのか?」

俺「そんなところかな」

ラル「……なにか悩みごとか?」

俺「……」

ラル「俺?」

俺「……どうして、許してくれたんだ? 俺がまた戦場に出ること」

――無理を承知で頼む。もう一度……もう一度だけ、俺を出させて欲しい

502との合流を終えた俺は彼女たちに頭を下げて自身の前線参加を頼み込んだのだが当然、部隊員の大半は難色を示した。
先の戦闘で死に掛けた事実を踏まえれば俺自身も許可が降りるとは思っておらず、彼女らの反応も想定内だった。
しかし、そんな彼に助け舟を出したのが他ならないラルであったのだ。故に俺は疑問を抱く。
自身に基地待機を命じた彼女が何故、次の作戦への参加を認めたのか。

ラル「…………正直、今すぐにでもお前を基地に送り返してやりたいよ。だけどお前のことだ。何をしてもどうせすぐに引き返してくるんだろう?」

本音を言えばラルとて初めは彼の作戦参加を容認することはできなかった。
魔法力の喪失に近づきつつある彼を再び戦場に出すなど恋人として、戦闘航空団の司令として認められるはずが無く、だからこそ基地待機を命じたのだ。
しかし俺は基地を飛び出し、戦闘脚無しでネウロイと渡りあったとはいえ結果として命を落としかけた。
彼の仲間が現れなければ今もこうして温もりを感じることも無かっただろう。
基地に送り返すことは簡単だ。
けれども目に見えぬところで好きに動かれるより、目の届く範囲で行動させたほうが得策であると判断し断腸の思いで彼の作戦参加を認めたのである。

俺「……ごめんよ」

ラル「いいさ……ただ」

身体を抱く腕に篭った力が強まる。
耳朶をくすぐるその声色が、背中に密着する身体が、自然と震えていく。

ラル「もう。あんな真似は…………しないでくれ」

零れ落ちた声音が悲痛な感情を含んだ。
耳にする者の胸を引き裂くほどの鋭さを湛えた声色。
俺の返事を待たずに、そのまま抱き殺す勢いでラルは更に腕の力を強める。
いま自分が身を摺り寄せている男の身体の感触が、温かさが現実であることを再認識するかのように。
きつく、強く。抱きしめる。

ラル「あんな思いは。もう、いやだ……」

固く閉ざした瞼の裏側に投影される光景は崩壊していくジグラットと、その内部で命運を共にする俺の姿。
そのとき胸裏を蝕んだ喪失感。それは大切な宝物を池に落としてしまった感覚に近い。
伸ばした手は届かないどころか、泣き叫ぶ自分の意思とは裏腹に宝物は瞬く間に水底へと吸い込まれていく。
死にいく恋人に手を伸ばすことも叶わぬ無力感。
軍人とはいえ十八の少女にとって、それがどれだけ悲痛な体験だったか。逆の立場だった場合を考え、俺は表情を歪めた。
改めて自分がしでかしたことを思い知り、己に対して憤る。

俺「今度からは、お前の目が届く範囲で動くよ。約束する」

ラル「……」

俺「グンドュラ?」

ラル「…………約束、だぞ?」

耳朶をくすぐる震え声。すすり泣く恋人を少しでも安心させようと俺は彼女の繊手を握る力を強める。
すぐさま握り返されるも、これだけではどうにも心もとない。

俺「……いま、そっち向いていいか?」

ラル「な、なんだ?」

俺「約束のおまじない、しようか」

ラル「ま、待て!」

抱擁を解くなり恋人の愛らしい悲鳴を切り捨て、背後の彼女へ振り返った瞬間に硬直する俺の身体。次いで彼の口から嘆息が零れ落ちる。
眼差しの先に佇んでいたのは涙で滲んだラルの青い瞳。
それは、どの宝玉でも宿すこと叶わぬ、優美かつ儚げな光を湛えていた。
それは、たとえ歴史に名を残した探険家が世界中を探し歩いたとしても決して手にすることができない、自分だけの宝玉。
ありとあらゆる宝石が安物の硝子細工に映るほどの尊い輝きを宿す恋人の双眸を前に俺はただ深い吐息を洩らすことしかできなかった。

ラル「だ、だから言ったんだ! こんな顔…………見せたくない」

呼吸すら忘れた恋人の直視に耐え切れなくなった少女が赤らめた容貌を背ける。
滲み出てきた涙を乱暴に拭いながら泣き顔を隠すも、すぐさま腕を掴まれ涙で濡れた顔から引き離される。

ラル「やぁ、ん。み、見るな……」

俺「きれいだ……」

泣き濡れた美貌が再び月の光に照らされた途端、か細い声に惚けた言葉で返すも自分でさえ何を告げたのかを俺は正直よく判っていなかった。
自分が放った言葉すら瞬時に忘却の彼方へと置き捨てるほどに、涙を湛えた彼女の面持ちは映えていたのだ。

ラル「変じゃ、ないか……?」

俺「変な顔ならこうまでして拝もうとは思わないよ。本当に……綺麗だ」

泣き濡れる自身の顔を見つめる黒の眼差し。
寒さが厳しい季節とは裏腹に少女の全身は真夏の日差しを浴びているかのような熱を発しはじめていた。
恋人の眼差しにむず痒さまで覚えたラルは何とか話題の転換を図ろうと脳を回転させる。
もしもこのまま見つめ続けられたら気恥ずかしさのあまり身悶えしそうだ。

ラル「そ、そうだ! どんなおまじないなんだ!?」

俺「……ん? あ、あぁ。小指出してくれないか?」

ラル「小指? こう、か?」

おずおずと差し出された右手。
ぴんと立てられた細い小指に、俺は同じように立てた自身の小指を絡めた。
直後、薄桃色の唇から迸る愛らしい悲鳴。

俺「ゆびきりだよ。扶桑の約束のおまじないだ」

きゅっと絡めた小指の感触に青年はある記憶を呼び起こす。
まだ彼女に惹かれるよりも前のこと。
まだブリタニアを拠点とする第501統合戦闘航空団の一員として戦場を飛翔していたころのこと。
ペテルブルグへと帰還する当日、俺はひとりの少女と再会の約束を交わした。部隊のなかで最も幼く、親しかった少女と。
泣きじゃくる彼女に再会の約束のゆびきりを交わした俺は、自身が肌身離さず持ち歩いていたお守りを貸した。
歴史さえ容易に捻じ曲げる正真正銘の“魔女“が創り上げた魔具。
きっと今も彼女を守ってくれているだろう。
が、今になって思えばあの魔具さえ手放さなければ瀕死の重傷を負うこともなかったのではないか。
“黄金の夜明け“と”銀の星“、回収を終えた四大元素武器の内の二つも現在は凍結次元に封印されている手前、過ぎたことをいっても仕方ない。

ラル「おれ……?」

恋人の不安げな声に視線を絡め合った指からラルへと移す。急に黙り込んだ自分を心配しているのか青い瞳には不安げな光が漂っていた。

俺「あぁ、悪い。こうして小指を絡めたあとで『ゆびきりげんまん、うそついたら針千本飲ます』っていうんだ」

ラル「約束を破ったら針千本も飲まされるのか。案外恐ろしいことを考えるんだな、扶桑の人間は」

俺「だからこそ約束を守らなくちゃいけないって思うんじゃないか?」

ラル「強迫観念みたいなものか?」

俺「そういうこと」

ラル「なら俺は気をつけないといけないな」

くすくすと鈴を転がしたような笑い声を零しながら微笑む恋人に思わず苦笑いで返してしまう俺。
先ほどまで彼女の瞳を覆っていた涙はいつの間にか消えていた。
恋人が涙を流す姿は目にしたくないのだが、涙で濡れたラルの容貌に思わず見惚れた自分もいて、どこか嬉しいような惜しいような……――

俺「っははは……はい。本当に気をつけます……」

どちらともつかない複雑な感慨に浸りつつ、俺は恋人との指切りを楽しむのだった。







背を覆う冷えた感触に身体を震わせつつ自分を押し倒す少女を見上げる俺。
ほんのりと紅潮する端正な頬が、夜風に弄ばれる茶の頭髪が、白い息を吐く唇がいつになく扇情的に映り、思わず生唾を飲み込んでしまう。
突如このようにラルに押し倒されたのは夜空に広がる暗闇が一際濃く、厳しさを増した寒さから逢瀬を切り上げようとした矢先のことだった。
押さえつけられる両腕。しかし決して振りほどけないほどの力は込められていない。
加えて今の彼女は魔法力を行使しているものの自身が習得した術式には非術式習得者の固有魔法、魔法力を任意で無力化する力も付与されている。
例え彼女が本気で押さえつけていたとしても脱せられる自信もある。
にも関わらず俺が一切身体を動かす素振りを見せなかったのは偏に見上げる恋人の美しさに息を呑んでいたからだった。

俺「えっと……グンドュラ?」

呼びかけるも返事はなく、無言のまま自分を見下ろす恋人の碧眼。
月を背に使い魔の耳と尾を発現させるその姿は気高くも凛々しい狼を髣髴させた。

ラル「……今の時間なら他の隊員たちも寝ているぞ」

片手を頬に添え、顔を近づける。
互いの吐息がかかるまで。互いの鼻先が触れ合うまで。互いの心が更に重なり合うまで。

ラル「こういうときは……その、察してくれても……良いんじゃないか?」

気恥ずかしそうに身を捩りながら遠回しに自分の欲求を吐露した途端、少女の頬に差し込む紅色が、かあっと濃くなった。
求めている。それも自分から。
はしたないだろうかという不安を半ば無理やり押さえつけ、愛しい男の体躯の上に寝そべるようにして身を摺り寄せる。
逞しい胸板に乳房が押しつぶされ、やや圧迫感を覚えるも恋人の口から迸る小さな悲鳴を聞き逃さなかったラルはさながら悠然と獲物に迫る狼のように身体を一際密着させた。

ラル「なぁ俺。知っているか?」

頬を密着させ耳元に唇を近づけた状態で囁くように言葉を紡ぐ。

ラル「よく一匹狼なんて言葉を聞くが、本来狼は群れを成して行動する獣だ」

御伽噺などで孤高の象徴として描かれる狼。
ラルも幼い頃、自身の使い魔と同じ動物が登場する絵本を何度も両親にねだっては読み聞かせてもらった。
数ある物語のなかでも最も印象に残った絵が月夜に吼える狼の姿。
たった一匹で彷徨い、獲物を狩る。たった一匹で世を生き抜いていく。そんな孤狼の姿は幼かった彼女に一人で生きる力強さを刻み込んだ。
しかし、

ラル「私は……一匹狼は嫌いだよ」

たった一人で世を生き抜く。たしかにそれは逞しいことなのかもしれない。
けれど、それでは周囲に誰もいないではないか。
悲しみを分かち合い、喜びを共有する仲間もおらず誰にも看取られず朽ちていく。
そんな生き方は悲しすぎやしないか。

ラル「仲間がいて、そしてお前がいてくれないと……嫌だ」

両の手を彼の頬に伸ばし、その顔を背けられないように固定する。

ラル「俺。私は一匹狼にはなれないんだ……」

自分は一匹狼にはなれない。なりたくもない。自分はそんなに強くない。
愛する仲間に囲まれ、愛おしい男の傍で生きていきたい。
だから二度と離れるな。二度と置いていくな。

俺「…………」

そう物語る青い瞳を捉え、俺は無言で頷き返す。
と、同時に手元にあった石を拾い上げるなり視界の隅――協会の正面に面した建造物の角に向かって投擲した。
鋭い風切音を置き捨てて飛翔する石は弾丸と称しても何ら差し支えない勢いで“標的”へと向かっていった。

ラル「いま何を投げたんだ?」

俺「尖った石があったからな。危ないだろう? それで、だ」

こほんと一度咳き込む。
彼女からこうして求めてきてくれている以上、答えなければ恋人としての立つ瀬がない。

俺「奪うぞ?」

小さく頷くラルの頬に手を添えるなり、俺は彼女の唇を奪った。
均整のとれた肉厚の唇を。洋菓子を思わせる瑞々しい桜色の唇を。
初めはただ重ね合わせるだけの初々しい口づけは時間が経つに連れ互いを激しく求め合う貪欲なものへと変わっていった。
酸素を取り入れようと顔を朱色に染め上げながら身を引くラルを追いすがり、再び唇を捕らえる俺。
頬に伸ばした手をラルのなだらかな背に回し抱きしめる。自身の胸板の上で崩れ形を自在に変える豊かな双つの丸みの感触を楽しみながら。

ラル「お、おれぇ……」

拘束から解放された少女の唇からたどたどしい口調の言葉が零れ落ちる。
魅惑的な桜色の唇はいまや激しいキスによって唾液にまみれ、艶かしい光沢を帯びていた。

俺「すごい……今のグンドュラ。顔が蕩けてるぞ?」

ラル「やぁん……い、言うなぁ……」

恋人に貪られているという状況に脳髄が蕩けてしまいそうな感覚に囚われるラル。
潤んだ輝きを放つ青い瞳の奥には日頃漂う強い意思の光は消え失せ、代わりに弱々しい輝きが力なく佇んでいる。
キスを通して自分が愛しい男の女にされていく心地よい感覚に溺れながら、熱が篭った甘い吐息を吐き出しては時に彼の唇を受け止め、時に彼の唇を貪っていく。

俺「グンドュラ。舌……入れてみてもいいか?」

ラル「え、あ……」

舌を入れる――俗にいうディープキスの提案にラルは視線を泳がせた。
おそらく今以上に強く繋がれるのだろうが、これ以上激しくされたら本当に頭がおかしくなってしまいそうだ。
愛しい男ともっと深く繋がりたいという甘い欲求と、統合戦闘航空団の司令としての自制心が激しくぶつかり合う。
数秒の間その場を沈黙が支配した後、ラルの首がこくんと小さく縦に振られる。

俺「ありがとう」

背を撫でる俺の手の平の感触に瞼を閉じるラルは改めて自分がいま、一人の女であることを思い知った。
どれだけの肩書きを持とうとも恋人の傍にいるとき、自分は恋する一介の女でしかないのだと男の抱擁によって全身を温かい優しさで満たされたラルは真っ直ぐ俺の顔を見つめる。
黒髪と黒目が特徴的な恋人の顔を。
からかうとすぐに慌てふためく恋人の顔を。

ラル「そ、その代わり。初めは優しく……ゆっくりと頼む」

俺「もちろん。それじゃ、始めるぞ?」

ラル「あ、あぁ……」

再び重なり合う唇。直後、ぬめりを帯びた生暖かい物体がラルの唇の隙間に潜り込み、瞬く間に彼女の口内への侵入を果たした。
心構えはついていたつもりであったが、口の中に異物を挿入された感覚に思わずむせ返りそうになるのを堪え、恋人の舌を受け入れる。
舌の上に広がる言葉では形容しがたい味。それが俺の唾液だと気づくまでラルは数秒の時間を要した。
口内を満たす恋人の唾液の味と舌の感触にも慣れ、恐る恐る舌先を伸ばしていく。

ラル「んっ! んぅぅ……」

先ほどまで交わしていた唇同士を重ね合わせるのとは比べ物にならないほどの濃厚な交わりに脳が、全身が蕩けていくような感覚が少女の精神を包み込む。
重なり合った唇の隙間から零れ落ちる熱の篭った吐息とくぐもった声。
二枚の舌によって掻き混ぜられる二人分の唾液が卑猥な水音を夜の静寂に響かせていく。

ラル「……んっ……んんっ。ぷはぁ……っ!?」

俺と同時に顔を引き、冷えた夜気を吸い込んだラルの身体が前触れも無く強張った。
自身の身体に押し付けられる熱を帯びた硬質な物体の生々しい感触。
密着する身体を浮かして視線を落とし問題の物体を視界に捉えた瞬間、息を呑む。
あたかもテントを張ったかの如く盛り上がる恋人の股座。その光景が何を意味しているか知らないほど生娘なラルではない。
性的興奮を迎えると男性器は充血し膨れ上がる。
ズボン越しではあるものの自分の身体に押し付けられていたものが隆起した恋人の陰茎だと認識したラルはそわそわと視線を動かし、

ラル「な、なぁ……俺? そのっ。当たって……いるぞ? 硬くて、あ、熱いのが……」

俺「………………ごめん」

ラル「大丈夫、なのか?」

俺「まぁ……なんとか。抱きたくないって言えば嘘になるけど……いまはこのままが良いかな」

ラル「…………すまない」

俺「どうしてグンドュラが謝るんだよ」

ラル「恋人なのに……今の私は何も、してやれない」

俺「……いいよ。少しばかり興奮してるけど、これくらいは抑え込める。それよりも、この辺りでお開きにしておくか? そのだな……当たっちまっ――」

後に続く言葉が紡がれることはなかった。恋人の口を塞いだラル。瞳に柔和な光を携えながら、今度は自から俺の口内へと舌を捻じ込む。
慣れぬ唾液の味も想いを寄せる男のものと思えば別段どうということはない。
先ほどから主導権を握られてばかりであったことを考えると、この辺りで巻き返しを図らねば部隊長として、何より女としての沽券に関わる。

ラル「もう少しだけ……頼む」

きゅっと俺のジャケットを握り締めて縋りつき、切なさに満ちた声音を零す。
逢瀬を切り上げ、戻った先に待つのはいつ命を落とすかも知れぬ過酷な戦い。

死というものが誰にでも降り注ぐものだと熟知しているからこそ、ラルは恋人にしがみ付く。
せめて一分。いや、一秒でも長くこの穏やかな幸せに浸っていたい。

俺「もちろん」

少女の切なる望みを感じ取った俺は軍服に包まれたなだらかな背に手を回した。








俺「先に入っていてくれ。用事がある」

ラル「私も一緒に行くぞ」

俺「大丈夫だよ。すぐ戻ってくるから」

ラル「……怖いんだ。このままお前を、暗がりの向こうに行かせたら……もう、戻ってこないんじゃないかと思って……」

俺「グンドュラ……」

ラル「だから! 絶対に一人では行かせないぞ……!!」

俺「あぁ……その、だな。心配してくれるのは嬉しいんだけど。お手洗いなんだ……」

ラル「そ、それは……」

俺「な? すぐ戻ってくるからさ」

ラル「本当だな? すぐに……戻ってくるんだぞ?」

俺「わかってるよ。俺のグンドュラ」

彼が都市外縁部第三大通りに姿をみせたのは、愛おしい恋人の耳元でそう囁いて口付けを交わしてから数分後のことだった。
都市全域に展開される各部隊が放つ野営の光も届かぬ暗闇を男は歩き続ける。
歩道に散らばる瓦礫に足を取られることなく。崩れ落ちた建造物を軽々と乗り越えて。
交差点に差し掛かったところで俺は足を止めた。歪に口を吊り上げるなり、背後から後を追いかけてきた人物へと口を開く。

俺「人の逢瀬を覗き見とは感心しないな。えぇ? フランツ」

零れ落ちた言葉を彩っていたのは嘲笑。
502はおろか今まで出会って来た魔女たちにさえ決して見せたことの無い嘲りの念を込め、背後の暗闇へと振り返りもせずに言い放つ。
間髪入れず、その言葉に反応するかのように近づく足音。
やはり先ほどの投石では追い払えなかったかと苦虫を噛み潰した表情を浮かべて振り返ると懐かしい姿が暗がりのなかに佇んでいた。

「失敬。声をかけるタイミングを逃してしまってね。気を害したのなら謝罪しよう」

暗闇から返ってくるフランツと呼ばれた男の声。
嘲笑を伴った俺の言葉など意に介さぬかの如く、穏やかな声音だった。

「しかし。先刻あの女性に見せた柔和な態度をもっと私たちに向けてもいいと思うのだがね。よりにもよって尖った石を投げつけてくるとは」

俺「お前たちに隙を見せたら必ず仕掛けてくるだろうが。本当なら主宰代行なんて厄介な立場だって代わって欲しいくらいだ」

「私はともかく……仲間Bなら仕掛けてくるやもしれんな。それとだ。現時点での序列を考えると死んだ仲間Aの代役を務められるのは君しかおらんよ。
君が死ねば話は変わってくるがね」

俺「…………勘弁してくれ。過去を人質に取られてなかったら俺だってお前たちの管理なんざやりたくもないんだ。それとまだ死ぬつもりはないからな?」

扶桑を去った俺はかつてある集団に属していた。ガランドと再会し、彼女に私兵として拾われる以前のこと。
魔法力を有した者13名。それら戦闘要員を支援する砲兵、技術屋、科学者13名。
総勢26名に及ぶ構成員を有し正規軍からは単に“部隊”と称された非正規遊撃部隊。
正規軍では手に負えない、あるいは汚れ仕事を一手に引き受け、一度も敗北の苦渋を舐めぬまま異形の軍勢相手に奮迅し続けた武装集団。

俺「それで……なんでここに来た?」

仲間F「意外だったかね?」

俺「お前さんの専門は情報収集だ。絶対に表立って動く人間じゃない。何かあればいつも子飼いの鉄槌隊に任せていたお前がこうして最前線にまで顔を出したんだからな。あの娘に……仲間Eに今回の作戦を教えたのもお前だな?」

仲間F「いかにも。しかし、そのおかげで君は生きながらえることができたのだ。ここは重畳であるとしよう」

俺「……あぁ。その点に関しては感謝しているさ」

仲間F「そんなにも私の情報網が不思議か? 君にも話したがこれでも“この世界”に来る前は官憲だったのだ。情報収集――特に反乱分子や不穏な臭いを嗅ぎつける鼻は今もまだ衰えてはいないさ」

――尤も私はあまり職務に忠実ではなかったため干されかけていたがねと続ける仲間F。
これ以上の探り合いが無意味だと悟り、俺は深い溜息を吐いた。
大方何者かの依頼を受けたのだろう。この男をはじめ他の仲間たちが行動を開始したということは相応の報酬を受けたに違いない。
誰に頼まれたのかは知らないが戦力が増えるなら、ここは素直に喜ぶとしよう。

俺「…………わかった、もういい。本題に入ろう。今回の作戦どれほどの追加戦力が投入される? お前のことだ。もう把握しているんだろう?」

仲間F「現状ではリベリオン及びヒスパニアの航空歩兵部隊、機甲兵団が増援として派遣される」

俺「部隊員では?」

仲間F「仲間B、爆斧翁、仲間E。そして私が率いる鉄槌隊ぐらいか。甲冑公も薔薇十字の命を受け、紅蓮男爵とともにブロッケン山に向かっている」

俺「そうか。甲冑公ぐらいは来て欲しかったんだが…………贅沢は言っていられないか」

ぼやく俺は脳裏にある人物の姿を思い浮かべる。
同じ“部隊“に所属し、常に全身を魔導鎧殻なる甲冑で包んだ人物。
10mに達するであろう巨大な姿に相応しい勇壮な戦いぶりから“甲冑公”の称号を与えられた人物。
火砲はおろか熱線すら容易にはじき返しながら敵陣へと乗り込むその勇壮なる戦士と最も高い連携行動を取ってきただけに、俺がその人物の参戦を望むのは無理もなかった。
あの人物ならば陸戦型の群れも容易に蹴散らし、他の歩兵やウィッチのための活路を拓いてくれるだろうに。
そう胸の裡で零す俺は未練を振り切った。

仲間F「他の仲間たちも奥義書や残る四大元素武器の回収に出ている以上、ここは我々だけで凌ぐしかあるまい」

俺「正規軍からの増援もあることを考えると恵まれている方か」

仲間F「列車事件のように殆ど我々だけで敵の侵攻を食い止めたときと比べれば、な」

俺「それでも楽観はできないさ。状況によっては魔技の使用も考慮しなきゃならん」

仲間F「大丈夫なのか?」

俺「良くて秘奥。悪くても顕現ぐらいは使えるさ」

仲間F「そうではない。その右腕のことだ」

俺「……」

仲間F「亀裂の入った砲身を使用し続ければ、亀裂は深まっていく。辿る末路は――」

俺「わかっているさ。だけど薔薇十字紋もフランカに貸しちまったし、他の魔具や奥義書も全部凍結次元にぶち込まれている以上はこの状態で臨むしかない」

仲間F「……まったく。無断で秘術の塊を譲渡するとは……薔薇十字に何を言われるやら」

俺「どうせもうバレているだろうよ。いざってときは……メイザースやウェイト先生に期待しよう。パラケルススとファウストのおじいちゃんは期待できそうにない」

――隠しごとなんて意味無いわよ。私の瞳は全てを見通すの――

そう豪語する彼女の言葉が脳裏を過ぎる。もしもあの言葉が真実ならば、こうして仲間Fと言葉を交わしているこの瞬間でさえ、監視されているはず。
ならば今更焦ったところでどうにもならない。
こうして五体満足でいられている現状を踏まえると、どうやらまだ彼女の逆鱗には触れていないようだ。

仲間F「まったく……まぁいい。最悪の事態に備えて輸血や接合手術の準備はすませておこう」

俺「すまん。助かる」

仲間F「君にまで死なれたら代行の立場が私にも回って来そうだからね。必死にもなるさ」

俺「序列の関係だと仲間Bだろう?」

仲間F「あの腕力だけが取り得の脳筋に部隊管理が務まると本気で思っているのか?」

俺「無理だな。人間だろうが瘴気だろうがネウロイだろうが腕力で消し飛ばす脳筋に管理職なんざ出来るはずも無い」

仲間F「その彼には気をつけたまえ。君にテムズに落とされたことを根に持っている」

俺「あれか? 言いだしっぺの名誉を守ってやったんだ。むしろ感謝して欲しいくらいだ」

仲間F「その言いだしっぺにまともな論理が通じないことは君も知っているだろう?」

俺「そういやそうだったな……」

仲間F「では私は一度戻るよ。鉄槌隊と合流しなければならん」

身を翻す仲間F。その背が完全に闇に溶け込むよりも先に俺が口を開く。
投げかけた言葉は今まで胸に抱いていた純粋な疑問だった。

俺「……なぁ。お前がいた国とは無関係だろうに。何だってそこまでカールスラントに入れ込む?」

その言葉に仲間Fは己が生まれ育った祖国を思い出す。
あのまま戦況が好転しない限り二度目の大戦は連合国側の勝利となり、愛する祖国は再び敗北の苦渋を舐めさせられることになるだろう。
忌わしき赤軍に愛した街並みを蹂躙されるのは屈辱の極みだが、戻る術が無い以上は異邦人としてこの世界で生きるしかない。

仲間F「何故だろうな……」

懐から取り出した葉巻を口に含むなり、自身と祖国とを繋ぐ数少ない物品であるライターで火を点ける。
独特の香りが紫煙を伴って暗闇に漂うなか、仲間Fは自身が迎えた最期の瞬間を脳裏に投影した。
戦火に囲まれ逃げ惑う市民の避難誘導を行う自分に迫る紅蓮の大波。
そう。あのとき自分は死んだ。死んだはずだった。
迫る熱波に呑み込まれ。全身灼熱に包まれて。原型すら留めぬ無残な末路を辿ったはず。
しかし、次に目を覚ましたとき仲間Fは己が目を疑った。
再び意識を取り戻したことよりも、熱波に呑まれ全身を溶かされた自身の身体が五体満足であったことよりも、空を闊歩する漆黒の飛行体の群れが彼に驚愕を植え付けた。
連合軍側の爆撃機や戦闘機どころか、およそ人類の英知とは程遠い禍々しいフォルム。
砲門を思わせる赤い斑点のような部位から放たれる熱戦は明らかに自身が知る既存の火力を大きく上回っていた。

仲間F「不思議と他人事のようには思えんのだよ……」

同盟を結んでいた極東の島国にある縁という概念を仲間Fは燃え盛る市街のなかで思い出す。なるほど、これが縁というものか。
攻撃を受け、陥落した祖国と瓜二つの国家カールスラント。
まるで祖国の状況を再現しているかの如くこの世界でも同じ憂き目にあっていた。
いや、得体の知れない存在に故郷を奪われ追われるという点では自身が元いた世界のそれよりも悲惨だろう。
故に仲間Fは――フランツは不条理を撒き散らす異形の軍勢に抗うことを選んだ。自身が愛した祖国と酷似した国のために。
それは単なる自己満足に過ぎないのかもしれない。
それは愛した祖国を守り切れなかった悔恨を晴らす為の独りよがりなのかもしれない。
けれども。けれども。

仲間F「放っておけない。それだけだ」

万感を込めて吐き捨てるなり、男は闇の中へと消えていく。
直後、不意に砂利を踏みしめる音が途絶える。

仲間F「そうだ。以前、リベリオンに出向いた際に君を探している男と出会ってね。老婆心ながら君のことを話させてもらったよ」

俺「俺のことを? リベリオンで?」

仲間F「なんでも君に命を救われたらしいが……覚えは?」

問いかけに俺は手を顎下に伸ばす。扶桑を去った俺は路銀を稼ぐため、まず初めにリベリオンに渡った。
護衛の仕事を引き受けたこともあれば法に抵触する寸前の仕事も請け負ったこともある。
仲間Fが口にした“自分に命を助けられた男“。たしかに、とある中堅議員の護衛も短期間だが引き受けたことはあるが、

俺「命を救われたなんて言われるほどのことをした覚えは無いな。襲撃も一度だったし」

仲間F「ふむ。彼が君のためなら助力を惜しまないと言っていたから、深い関係だと思っていたのだがね」

俺「……とりえあず、今は目の前の壁をどうぶっ壊すかに専念しなきゃならん」

仲間F「君らしいな。では、次に会うときは戦場だ」

俺「道中気をつけろよ」

仲間F「あぁ。君もな…………ジーク・ハイル」

遠ざかっていく足音が完全に届かなくなったことを確認した俺は周囲を見回し、自身が帰るべき場所へと歩き始めた。








俺「寝ちまってるか……そりゃそうだよな」

旧友と別れ教会に戻った彼は月明かりに照らされた光景を前にぽつりと呟いた。
長椅子をベッド代わりにし、毛布に包まる少女たち。
ほんの数時間前までは異形の軍勢相手に死闘を繰り広げていたのだ。華奢な身体に蓄積された疲労も並大抵のものではない。
彼女らを起こさぬよう足音を殺しながら暗がりの中を進んでいき、愛しい恋人が横になる長椅子へと歩み寄る。
静かに上下する毛布に包まれた身体に。つい先ほどまで抱きしめ合っていた身体に手を伸ばし、子をあやすようにそっと撫で始めた俺は自分の毛布がないことに気づく。
けれども自分が勝手に飛び込んできたのだから用意されていないのは当然だろう。
別段毛布が無くとも眠りに就ける自信はある。部隊に所属していたときはそれこそ頻繁に野営を繰り返していたのだ。
こうして雨風が凌げる場所で休めるだけでも十分すぎるくらいに恵まれているというものである。
彼女らの眠りを妨げないよう教会の端へと身を翻した矢先、不意に掴まれる手。

ラル「(遅いぞ」

俺「(起きて……いたのか……?」

暗闇のなかを泳ぐ囁き声に視線を長椅子へと戻すと、自分の手を掴んだラルが真っ直ぐな眼差しを向けていた。

ラル「(当たり前だ……ずっと、待っていたんだぞ?」

俺「(ずっとって……寝ないでか?」

小さく頷いてみせる恋人に俺は胸中に小さな痛みを覚えた。
最も疲労を溜め込んでいるのは司令である彼女であるはず。それなのに自分の帰りを寝ずに待っていてくれたのだ。

ラル「(すぐに戻ってくると言っていたからな」

俺「(それは……悪かったな。ごめんよ」

ラル「(良いさ。こうして帰ってきてくれたんだ。で、どこへ行こうとしていた?」

俺「(毛布もないし……長椅子も他に使えそうなものもないし。隅で寝ようかなって」

ラル「(…………そうだな」

空いたもう片方の手を顎下に添えて黙考すること数秒。
音を立てずに身を起こすなり、俺の手を引いて教会の隅へと移動するラル。
壁に背を預け、俺とともに座り込むと手に持っていた毛布を広げて自分と彼の身体を包み込んだ。

ラル「(これなら……一つの毛布でも大丈夫だぞ?」

俺「(そうだけど。こ、これは……」

ラル「(いや、か?」

俺「(いやじゃないさ」

抱擁とはまた違った形で触れる恋人の身体。
柔らかくて、温かいラルの身体。
人肌によって温められた毛布の存在も相まって得も言われぬ安寧が胸の裡を満たしていく感覚に、俺は思わず瞼を閉じてしまいそうになる。
人の温もりが。恋人の温もりがこんなにも心地よいものとは。

ラル「(まったく。またこんなに身体を冷やして……」

俺「(なんだか……心配をかけさせてばかりだな」

外の夜気によって冷え込んだ自身の身体を温めようと密着させた身体を更に擦り付けるラルに返す。

ラル「(そう思うなら今度からは自重してくれ」

俺「(……以後気をつけます」

ラル「(……ふふっ。ふふふっ」

俺「(どうした? 急に笑い出したりして」

ラル「(なんだか……いいな。こうして声を殺して、囁き合うのは。恋人みたいだ」

俺「(みたいも何も……もう恋人だろう? 俺たち」

ラル「(あぁ、そうだな。もう私たちは……恋人なんだな……」

自身に言い聞かせるように囁くラル。
着々と自身を包み込む睡魔の存在に気付いた彼女は息を呑んで、隣の恋人を見上げる。
疲労の痕が色濃く刻み込まれている恋人の横顔を。

ラル「(なぁ、俺。これは……夢じゃないな? たしかに、いま……私はお前と」

俺「(あぁ、夢じゃない。夢なもんか。ちゃんとここにいるよ。お前の傍に……いるよ」

ラル「(ありがとう……」

笑みを湛えて自分を見下ろす彼の姿にラルは頬を綻ばす。
夢じゃない。
この温かさも、安寧もすべて現実のもの。
夢であるものか。
そう確信した途端、ラルは自身の肩から力が抜けていく感覚を覚えた。どうやらいよいよもって睡魔に屈するときが来たらしい。
閉じた瞼を次に開いたときには再び激戦が待っている。
ならば、せめて最後にもう一度だけあの甘い感覚を味わいたい。一人の女として、ただのグンドュラ・ラルとして愛しい恋人と繋がるあの感覚を。

ラル「(最後に、寝る前にもう一度……キスしてくれないか?」

俺「(もちろん」

重なり合う二人の唇。
互いを想う愛情を、優しさを自身の唇に乗せて交し合う俺とラル。
時間にして一分にも満たないひと時であったが、何よりも充足した感覚を味わったラルはそっと恋人の耳元に顔を近づけ、最後に愛を囁いた。

ラル「だいすき……」

続く
最終更新:2013年06月06日 22:36