「ペテルブルグ基地にですか? 私が?」
朝食を終えるなり司令室に呼び出された智子は執務用チェアに腰掛けるハッキネンから告げられた辞令に首を傾げた。
また随分と急な話だ。年季の入った木造の執務用デスクを隔てた先にある氷の美貌を見つめながら、そう胸裏で零す智子。
昨夜までハッキネンの口からそのような話を一度も耳にしていなかっただけに智子がそう考えるのも無理はない。
彼女の心情を察したのか、レンズ越しに佇むハッキネンの瞳に浮かぶ光がその鋭さを増した。
ハッキネン「えぇ。貴官には暫くの間、ペテルブルグ基地に出向いてもらいます」
智子「理由を訊いても?」
ハッキネン「知っての通り先の戦いで第501統合戦闘航空団が
ガリアに展開されていた巣の撃滅に成功しました」
その話は智子の耳にも入っていた。
ブリタニアを拠点とする第501統合戦闘航空団。“ストライクウィッチーズ”と称される少女らの奮迅によってガリアの巣は消滅した。
それは人類がネウロイに占領された領土を奪回したと同時に憎き異形どもの活動圏を大幅に縮めたことに他ならない。
いまや連合軍各部隊はこの勢いに乗るべく戦力の再編を急務とし、攻勢作戦の数を増やそうと画策している。
極北に位置するここスオムスのカウハバ基地もまたその一つだ。
ハッキネン「私たち第507統合戦闘航空団は502や503の背後を防衛する役目があります」
小さく、そして得心がいったように智子はハッキネンの言葉に頷く。
つまるところ、自分たち507とペテルブルグを拠点とする502との相互連携を更に深めるため部隊員の誰かを送ることになった。
そこで自分に白羽の矢が立ったのだろう。
おそらくはここ第507統合戦闘航空団がかつて“いらん子中隊”と呼ばれていた時期から部隊長を務めていたからではと結論付ける智子。
智子「つまり相互連携を更に深める必要があると?」
ハッキネン「話が早くて助かります」
智子「ですが私は既に上がりを迎えています。仮に飛べたとしても障壁を張る力はもう残っていません」
ハッキネン「戦闘に出る必要はありません。既にあちらには追加の補充要員がいます。貴官は直接現地に赴き、502の戦況を綿密に把握してもらいたいのです」
――尤もその補充要員も既に障壁を展開する力を消失していますが。
後に続いた言葉が気になり、智子は片眉を上げた。
魔力障壁を失っているということは502が有するその補充要員とやらも自分と同じく上がりを迎えているのだろう。
だとすればそのような状態であるにも拘わらず、何故502に留まっているのか。
502は欧州戦線のなかでも随一の激戦区を担当する攻勢部隊であり、魔力障壁を失った者がそう易々とついていける場所ではない。
障壁に頼らずとも卓越した飛行技術で補っているか。
あるいはあらゆるハンデを覆すほどの強力な固有魔法を有しているか。
智子「(強力な固有魔法…………)」
件の補充要員がどんな航空歩兵なのか推測するなかで、自身が挙げた言葉に智子は表情を曇らせた。
脳裏に蘇るのは今まで見てきたなかで群を抜いた強力な固有魔法を有する航空歩兵の存在。
それはかつて同じ部隊に所属していた航空歩兵であった。今も尚胸に秘めた恋慕の念を向ける相手であった。
自分を庇い、敵が放った凶弾を浴びて故郷の海へと落ちて、沈んでいった彼。
伸ばした手は届かず、血に塗れた彼の体躯は海面に叩きつけられ、暗い水底へと吸い込まれていった彼。
智子「(おれ……)」
ハッキネン「穴拭中尉?」
智子「あぁ、すみません」
ハッキネン「気が乗りませんか?」
智子「いえ。そういうわけでは……」
ハッキネン「……当初は“彼女”に出向いてもらおうと考えていたのですが」
智子「……あぁ」
やや強調されて告げられた彼女という言葉。その言葉が誰を指しているのかをハッキネンの曇った表情から察した智子は苦味を含んだ笑みを零した。
同時に何故自分が選ばれたのかにも得心がいった。
なるほど、確かに。“彼女”では下手をすれば502の士気に悪影響を及ぼしかねない。
ただでさえ507は周辺のウィッチ隊から色々と噂されているのだ。
その元凶を送り込めばどうなるか。瞬時に理解した智子は大人しく右腕を持ち上げ、敬礼の仕草を取った。
智子「了解しました。穴拭智子、任に就きます」
ハッキネン「ありがとう。既に出発準備は整いつつあります。貴官の準備が整い次第、今日中に出発できます」
柔らかな笑みを携えてそう返すハッキネンの表情はどこか晴れやかなものだった。どうやら本当に自分以外に的確な人員が思い浮かばなかったらしい。
もしも自分がこの任務を引き受けなければ誰が派遣されていたのだろうか。
もしも自分がこの任務を引き受けなければ彼女の心労はどうなっていたのだろうか。
そんなことを考えながら、ハッキネンの眼差しを背に浴びる智子は司令室を後にした。
ペテルブルグで自分を待ち構える数奇な運命の存在など露とも知らずに。
「よぉ」
智子「ペテルブルグ行きが決まったわ。早ければ今日にでも出発できるみたい」
司令室を出た矢先のこと。
廊下の壁に背を預け、口元に含んだ煙草の先端から紫煙を燻らすビューリングを捉え、司令室でのやり取りを簡潔に告げる。
智子の言葉に目を丸くしたビューリングは壁から背を離して咥えていた煙草を手に取り、
ビューリング「随分と急だな」
智子「本当よね。でも向かう先が近くて助かったわ」
仮に行き先が
アフリカやブリタニアならば長旅を覚悟しなければならなかったし、簡単に引き受けることもなかっただろう。
そういった意味では出向先がペテルブルグなのは素直に喜べた。
ビューリング「ハルカの奴が聞いたら何て言うだろうな」
智子「初めはあの子を向かわせるつもりだったみたいなんだけど」
ビューリング「確かにあいつを行かせたら大変なことになるな。お前が選ばれて良かったよ」
廊下に設けられた喫煙所の灰皿に咥えていた煙草の先端を擦り付けるビューリングが小さな笑みを口元に浮かべた。
ハルカと呼んだ問題の人物の人となりを熟知しているからこその笑みだろう。
ビューリング「行くんだな?」
智子「もちろん。そういうことだから、ハルカが暴走しないようにお願いね」
ビューリング「…………あぁ。わかったよ」
厄介そうな表情を浮かべて返すビューリング。
その表情から如何に彼女が件の人物に手を焼いているかが伺える。
智子がその人物の手綱を、隣を歩く戦友に託した直後のことだった。
「それってどういうことですかぁぁぁぁぁ」
智子「そのままの意味よ」
背後から伸びてくる悲哀に塗りつぶされた声音に智子は振り向きざまに返す。
目の前に立っていたのは扶桑海軍の白い軍服を身に纏う少女。
愛らしい容貌の持ち主はいま、その澄んだ瞳に涙を浮かべてこちらを見つめていた。
まるで今生の別れとでもいうかのような。まるで飼い主に捨てられた犬のような。
悲しみに満ち溢れた色を瞳に湛える少女こと迫水ハルカの態度に智子は溜息を吐く。
ハルカ「それにっ! どうして智子中尉と離れ離れにならなければいけないんですかぁ……ひっく」
智子「どうしてって言われても…………」
そういう指令なんだから仕方ないでしょうという言葉はあえて呑み込む。
こうなったハルカは何を言っても聞く耳を持たないからだ。
だから後に続く言葉もきっと。
ハルカ「私も一緒に連れていってくださいよぉぉぉぉ」
ほら、やっぱり。
智子「駄目よ。あなたは大人しく待ってなさい」
ハルカ「でもっ! でもぉぉぉぉぉ!!!」
智子「あのねぇ」
太ももの辺りに縋り付きぐずる後輩の姿を前に両手を腰に当てる。何やら指が揉むような動きをしているが、この際それは黙っておこう。
予想していた展開だがこうも酷く悲しむとは。先輩として悪い気はしないがいつまでも縋り付かれては出発の準備にすら取り掛かることが出来ない。
どうしたものかと頭を悩ませ、智子は隣のビューリングに目線を送る。
救難信号をキャッチした彼女はしばらくの間端正な美貌をしかめ、智子の白い太ももに縋るハルカを自分の許へと引っ張り出した。
ビューリング「ほら、こっちへ来い」
ハルカ「な、慰めてくれるんですか?」
ビューリング「そんなわけあるか。ただお前がいつまでも駄々を捏ねるとトモコが安心して出発できないだろう」
――お前は尊敬する先輩を困らせるのか。
そう後に続けるビューリングの言葉に俯くハルカ。小柄な身体を小刻みに震わせ、顔を上げる。
既に涙は消え去っていたものの幼さが残る可愛らしい顔には不安の色が残っていた。
ハルカ「ちゃんと……帰って来ますよね? そのままペテルブルグに転属、なんてことはありませんよね?」
智子「仕事が終わればちゃんと帰ってくるわよ」
ハルカ「変な男に誑かされたりしませんよね!?」
智子「あるわけないでしょうが……」
ビューリング「こいつに惚れた男がいることぐらいお前も知ってるだろ」
智子「……もういないけど。それでも私はあの人のことを愛しているわ。だから他の男に靡くなんてこと……絶対に無い」
ハルカ「うふふ。どこか貞淑な未亡人っぽい……そんな智子中尉もす・て・き!」
智子「はぁ……じゃあ後のことは頼んだわよ」
両手を頬に添え腰をくねらす後輩に背を向け自室へと歩き出す。
早いところ出発の準備をしなくては。せっかく今日中にも発てるよう取り計らってくれたのだから。
そう自身に言い聞かせ歩く速度を速める智子。
ハルカ「あぁん! 智子中尉ぃぃぃぃ」
艶を帯びた後輩の叫び声を耳にしながら。
その後輩を押さえ込もうと悪戦苦闘する戦友の声を聞きながら。
智子は自室への帰路を辿るのだった。
智子「他の男、か」
閉めた自室の扉に背を預け誰にとも無く呟く。
五年以上も前に死んだ男に想いを寄せる自分は世間からみればどんな女に映るだろう。
一途或いは未練がましい女か。
尤もどう評価されようが自分が抱くこの感情が揺れ動くことなど万に一つ有り得ない。
物心ついたときから抱き続けているこの恋慕の念をそう簡単に捨てられるわけがない。
智子「ねぇ、俺。私ね? ペテルブルグに行くことになったの」
棚に立てかけられた写真に。写された自分の隣に立つ彼に語りかける。
まるでそこに想いを寄せる彼がいるかのように頬を智子は綻ばせる。
智子「どれくらいかかるか分からないけど……任せられた以上は精一杯こなしたいの」
柔らかな声音で。
まるで自分が胸の裡に秘めていた想いを告げるかのように智子は言葉を紡いでいく。
智子「あなたが命をかけて守ってくれたこの命を無駄にしないためにも、ね」
写真立てに手を伸ばす。
綺麗だ、と彼が褒めてくれた手を。あのとき届かなかった手を。堕ちる彼の手を掴むことができなかった手を。
智子「だから……お願い。少しだけでいいの。私に、力を貸して」
そっと彼の顔に口付けし、写真立てを鞄の中に仕舞い込む。
万が一の時のためにと愛刀、備前長船を手に智子は自室を後にした。
向かう先にて待ち受ける数奇な運命を彼女が知るのはまだ先の話である。
デスクの上に広がる書類を前にラルはマグカップに残る珈琲を飲み干し、腕を組む。
象嵌された一対の青い瞳に浮かぶのは珍しく困惑の光。
彼女の目の前にある書類。それは数日ほど前、隣国スオムスのカウハバ基地から送られてきたものだ。
そこには502との相互連携を深めるために507から一人の航空歩兵をペテルブルグに出向させるといった文章が書き記されている。
それだけなら何の問題は無いのだが彼女の瞳に困惑の光を生み落としたのは送られてくる航空歩兵の存在にあった。
カウハバから送られてくる航空歩兵。名は穴拭智子。
扶桑海の巴御前と称され、扶桑陸軍が誇る屈指のエースが一人。
既にあがりを迎えてはいるものの歴戦の戦士の来訪は502の士気への良い刺激になるだろう。
しかし……
ロスマン「……隊長?」
ラル「穴拭中尉の経歴に扶桑皇国陸軍飛行第一戦隊とある」
書類の一箇所を、その細い指の先端で軽く突く。
扶桑陸軍飛行第一戦隊といえば当事の扶桑陸軍の精鋭が集っていた部隊だ。
そのなかでも“扶桑海の電光”と称された加東圭子とは直接顔を会わせ、彼女の取材を受けたこともあった。
ロスマン「その部隊って…………!!」
ラル「あいつが……俺の奴がかつて所属していた部隊だ」
ラルの放った一言にロスマンの小柄な体躯が硬直した。彼女もまた俺の経歴が記載された書類に目を通した一人である。
彼が公式記録で戦死者として処理されていることは他ならぬ彼自身の口から聞かされたことだ。
しかし戦死者の烙印を押された彼が今もこうして生きていることを。戦闘脚を装着して空を舞っていることをかつての仲間らは知っているのだろうか。
胸裏に生じた疑問を抑え切れぬままロスマンは口を開く。
ロスマン「俺さんは第一戦隊の方々に何か連絡は」
ラル「取っていない。あいつは自分の生存を誰にも告げていない」
自身を育てた、たった一人の身内にも。
大切な家族と断じたかつての戦友たちにすら。俺は己が生きている事実を今も伏せたままでいる。
ロスマン「では穴拭中尉にとって彼は」
ラル「死人、だろうな」
同じ部隊に所属していたということは彼が撃墜された瞬間を目の当たりにしていた可能性が高い。
或いは彼が撃墜される切欠となった僚機こそが穴拭智子その人なのかもしれない。
無論どちらもラルの推測でしかない。
確かなのは穴拭智子という女にとって俺という男は今日まで死人であり、その認識があと数時間後には崩れ去るということだ。
死んだと思い込んでいた男の生存を知ったとき彼女はどんな態度を見せるのか。精神的なショックを受けなければ良いのだが。
ラル「俺はいまどこにいる?」
ロスマン「今なら滑走路の清掃に向かっているかと」
ラル「そう、か……」
ロスマン「穴拭中尉のこと伝えておきましょうか?」
問いかけに黙り込む。
かつての仲間がペテルブルグにやってくる。そう伝えようとラルは何度も声をかけようとした。
しかし、もしも伝えていたら彼はどうしていただろうか。
大切な家族にすら自身の生存を伝えなかった男だ。
彼女の来訪を告げれば、此処へ来る前に姿を消すことも考えられなくは無い。
広範囲と高威力を兼ね揃えた固有魔法を有する彼が出て行けば502の戦力は大幅に低下してしまう。
そうなれば間違いなく今後の反抗作戦に支障が出る。
ラル「(……本当に、それだけなのか?)」
戦力の低下。本当に自分はそれだけを危惧しているのだろうか。
胸中に生じる言い知れぬ不安。ラルは以前にも同じ感覚が胸裏を満たした記憶を思い出す。
それは彼がブリタニアへと向かう前のこと。あのときも、胸の内を薄ら寒いものが渦巻いていたのを思い出す。
何故こんなにも彼が離れることを不安に思うのだろうか。
自身の胸の裡に満ちる不可思議な感情に対する答えを見出せず、ラルは無言で首を横に振った。
前触れも無く鼻の先端が痺れる感覚に思わず右手を伸ばす。
まるで何か柔らかいものに。
例えば唇のようなものを軽く当てられたようなむず痒さに俺は伸ばした右手の指先で鼻頭を軽くこする。
そんな俺の姿を真横から見つめるニパが箒を動かす手を止めた。
ニパ「どうしたんだ?」
俺「……何だか急に鼻の先端がむず痒くなった。何だろ」
ニパ「乾燥しているからとか、かな?」
箒の柄を胸元に寄せ、小さく首を傾げる彼女の姿に愛くるしさを覚えつつ俺は痒みが納まった鼻先から指を離した。
今度買出しに出る時は肌に塗るクリームを買う必要があるな。
そう胸裏でぼやく俺に、
ニパ「それで話しの続きなんだけどさ」
ニパが再び箒を握る手を動かす。
箒を握る手と腕の動きに合わせて微かに揺れたわむ彼女の豊かな連山から俺は目を逸らして秋の空を仰ぎ見た。
ラルから清掃員という隠れ蓑の役割を与えられてからどれだけの月日が経過しただろうか。
今日も今日とて灰色の制服を纏い、箒と塵取り片手に滑走路の掃除に出向いた彼を迎えたのが同じように箒を手にしたニパであった。
その彼女の口からカウハバ基地から補充要員がここペテルブルグ基地にやってくるという話を聞かされたのが僅か数分前のことだ。
俺「カウハバ基地からの補充要員の話だったな」
ニパ「うん。第507統合戦闘航空団から航空歩兵が一人こっちに来るみたいなんだ」
俺「カウハバとここは近いから人も送りやすいんだろう。それで誰が来るんだ?」
問いかけに対しニパは首を振るだけだった。
ニパ「実は私もまだ知らないんだ。隊長とロスマン曹長が話しているのを偶然耳にしただけだから」
「綺麗な娘、可愛い娘が来てくれると嬉しいな」
俺「よぉ伯爵。またエディータから逃げてきたか?」
突如として背後から会話に入り込んできた声の主に振り向く。
そこにはもうじきここへやって来るであろう件の航空歩兵に想いを馳せ、嬉しそうに頬を緩ませるクルピンスキーの姿があった。
しかしその嬉しげな表情も俺からの一言により一瞬で掻き消えることとなる。
クルピンスキー「僕を見かけたら何かやらかしたって思うのはやめて欲しいね」
俺「じゃあ何で後ろからエディータが走ってきてるんだ?」
不機嫌そうに頬を膨らませる長身の少女の後ろを肩越しに眺め、指差しながら一言。
クルピンスキー「嘘ッ!?」
やや意地の悪い笑みを浮かべながら放たれた俺の言葉に慌てて背後へと振り向く。
そこには顔を紅く染めて得物である指示棒の先端を片方の手の平にぴしぴしと叩きつける小柄な女性の姿が、
いなかった。
冷えた風に冷やされた滑走路の上にあるのは隣接した森林から運ばれてきた落ち葉だけ。
その落ち葉もまたすぐに風に飛ばされ視界から外れていく。
クルピンスキー「いないじゃないか!」
俺「はっはっは。すまんすまん」
クルピンスキー「まったく、女を騙すなんて酷い男だなぁ。ニパ君、こういう男とは付き合っちゃ駄目だからね?」
顔をしかめ。俺から守ろうとニパを抱き寄せるプンスキー伯爵。
単に自分を出しに使ってニパの柔らかな肢体を堪能したいだけなのだろうが、ここではあえて言及するのはやめておこう。
毎度彼女の悪癖に注意をしていては気が保たない。それにいくらクルピンスキーとて越えてはならない一線くらいは弁えているだろう。多分。
俺「なによ? 麿のどこが悪い男だというの?」
ニパ「まろ?」
クルピンスキー「何だい? その聞き慣れない言葉は」
俺「その昔、扶桑のやんごとなき方々が使っていた一人称さ。可愛い女の子の写真を沢山箱に詰めて送ると喜ぶよ」
クルピンスキー「カールスラント空軍にも自分のことをわらわと呼ぶ航空歩兵がいるけどね。ただ俺がそれを使うと違和感しかないよ」
彼女にしては珍しく、そして恐ろしく真面目な口調と表情を伴った言葉に肩をすくめた。
どうやら「俺、麿化計画」は早くも頓挫してしまったようだ。
やや気落ちしている最中、伯爵が口にした航空歩兵に俺はある少女の存在を思い出す。
彼女が所属する基地で過ごしたのは何年前だったか。
当時の自分は薔薇十字から与えられた最奥術式を習得し、それを基に自分の魔技を編み出している最中だった。
寝る間も惜しんで修練を重ね、ようやく魔技の基礎段階である“顕現”に到達できたのは彼女――ハインリーケに別れを告げる数日前の出来事だ。
たしか最後にこんなやり取りをしていたはず。
―――数年前、某前線基地にて
俺『姫様! 姫様ァ!!』
ハインリーケ『何じゃ騒々しい』
俺『一大事でございます!』
ハインリーケ『一体何事じゃ。申してみよ』
俺『今日を持ってこの基地から出て行くことになった。世話になったな』
ハインリーケ『ふむ……それは寂しくなるのぉ――って、はぁ!?』
俺『そんなわけで行くから! じゃ!!』
ハインリーケ『ちょっ! 待て! わらわはそんな話聞いておらんぞ!!』
俺『わーいわーい。新天地、新天地。わーいわーい』
ハインリーケ『こらぁ! 待たぬか! 俺! おれぇぇぇぇぇ!!!』
―――
思い返せば滑走路で待機している輸送機に向かって走り始めたときに彼女が何かを叫んでいたような気がする。
しかし今となっては確認のしようが無い。彼女が今どこで何をしているのかも分からないし、彼女もまた自分がこうしてペテルブルグ基地にいることも知らない。
もしも再び顔を合わせてしまったとき話を聞かずに飛び出したことへの怒りをぶつけられそうだが、心の広い彼女のことだ。
きっと笑って水に流してくれるに違いない。彼女に世話になった分、少しでも多くのネウロイと不穏分子を始末しよう。
ニパ「そ、それで! 話に戻るけど!!」
プンスキー伯爵の抱擁を振りほどきながらニパ。
クルピンスキー「噂の航空歩兵のことだね。そのことなら小耳に挟んだよ」
俺「ほぉ?」
クルピンスキー「何でも既に上がりを迎えているらしいよ」
ニパ「え……」
俺「…………それは、戦力になるのか?」
そう呟く俺の言葉も尤もだった。
上がりを迎えたウィッチは魔力障壁を展開する力を失う。なかには飛ぶための魔法力すら喪失する場合もある。
彼のように衝撃波を強引に障壁の形状へと変化させて代用する例外もいる。
しかし固有魔法すら持たぬウィッチは成人を迎えれば障壁展開能力はおろか飛行する力すら失うことが大半だ。
上がりを迎え、障壁を展開する力を失っているであろう航空歩兵が一体何の目的でここペテルブルグを訪れるのだろうか。
クルピンスキー「補充要員っていうけど実際は502の視察だと思う。こっちの戦況を把握して戦略を練るんじゃないかな?」
そんな俺の疑問を見透かしたかのようにクルピンスキーが口を開いた。
要は502の戦況を直接把握することで自分たち507がどう動くべきかを見極め、互いの戦略的連携を深めるつもりなのだろう。
俺「そうなると直接前線に出ることはないってことか」
ニパ「じゃあ今までと変わらないのか……」
戦力の増強を期待していたのか肩を落とすニパを尻目に俺は手を顎下に添える。
スオムスから派遣される“上がり”を迎えた航空歩兵。そのスオムスといえば自身の妹分の智子が派遣された北欧諸国の一つである。
もし彼女が無事に生きているのならば今頃は上がりを迎えているはず。あるいは派遣されてくる件の航空歩兵こそが……
俺「いや、まさかな……」
首を振って俺は思考を打ち切った。
仮に智子が他の航空歩兵と同じように上がりを迎えているのならば扶桑に帰国しているはず。
魔力障壁を展開する力を失った状態のまま欧州戦線に留まったところで一体何ができよう。
きっと故郷に戻って自由に暮らしているに違いない。見目麗しい彼女のことだ。案外好いた男を見つけ幸せな家庭でも築いているのではないか。
自身が愛した妹が障壁を失ったまま今も戦場に出ていることを認めたくなかった俺がそう結論付けていると不意に彼の耳朶をクルピンスキーの弾んだ声音が掠めた。
クルピンスキー「おっと! 噂をすれば」
ニパ「もう来たんだ……」
二人の声に顔を上げ、視線を巡らせると滑走路に向かって少しずつ高度を下げてくる点のような物体が視界に入った。
おそらくは例の航空歩兵を乗せてスオムスから出発した輸送機だろう。
俺「それじゃ邪魔にならないよう退散しますかね」
帽子のつばを摘むなり深く被る俺。
ニパ「私も別の所に向かうよ」
箒を片手に基地の中庭を目指して歩き始めるニパ。
クルピンスキー「それなら僕はここで噂の航空歩兵を歓迎するとしよう」
二人が別の方向に向かって歩くなかクルピンスキーは両の手を大きく横に広げた。全ては可憐な航空歩兵をこの手で抱きしめるために。
たおやかな繊手を握るために。
相変わらず自身の軸を固持し続ける戦友の後姿に振り向き、俺は素直に感嘆するのだった。
ペテルブルグ基地の滑走路に降りた智子を待ち受けていたのはクルピンスキーと名乗るウィッチだった。
長身に優雅さを漂わせる振る舞いから彼女が噂に聞くプンスキー伯爵であると智子は一目見て察した。
そして、どことなく彼女の全身から自身の後輩と似たような気配も感じ取った。
妖艶な流し目を何度か注いでくる彼女に案内され、智子はいまペテルブルグ基地の司令室にて部屋の主と執務用デスクを挟む形で対面している。
ラル「よく来てくれた穴拭中尉。ようこそ、ペテルブルグへ。歓迎しよう」
統合戦闘航空団の司令を務めるだけあり明るい声色のなかに威厳が含んだ声音が司令室に木霊する。
彼女こそがグンドュラ・ラル。
人類第三位の撃墜数を誇り、欧州戦線随一の激戦区を担当する第502統合戦闘航空団の司令を務める女傑である。
智子「カウハバ基地から参りました穴拭智子中尉です」
ラル「噂は聞いているよ。扶桑海の巴御前殿」
智子「もう昔の話です」
――扶桑海の巴御前。
随分と久しぶりにそのような呼び名で呼ばれた気がする。
ラル「なに階級は気にせず自由に話してくれて構わん。気を遣わず何か気がついたことがあれば遠慮なく言って欲しい」
それが我々502と君たち507の相互連携をより深めていくはずだと続けるラルの言葉に智子は肩の力を落とした。
向こうがそう言ってくる以上、気を遣う方が失礼といえよう。
智子「気遣い感謝するわ。それなら早速聞きたいことがあるのだけど」
ラル「我々が抱えている補充要員のことかな?」
自分がどういった質問をぶつけてくるのか、あらかじめ予想していたのだろう。
象嵌された青い瞳を瞼で隠すラルの表情が僅かに翳りを見せた。
智子「えぇ。事前に受け取った資料には肝心の補充要員の情報が記載されていなかったわ」
カウハバ基地を発つ際、ハッキネンから事前に手渡された書類の束を足元に置いておいたバッグから取り出し掲げて見せる。
それは502の部隊員の戦績や経歴といった情報が簡単にまとめられていたものだ。
しかしそのなかに502に属している補充要員の情報が記載されたものは含まれていない。
それはつまりカウハバ基地司令のハッキネンでさえ502が抱える補充要員の詳細を把握していなかったということ。
ラル「追加の補充戦力は非公式なんだ」
智子「非公式?」
ラル「ある人が独自に抱えている戦力といった方が正しいな」
智子「……私兵、ということかしら。それで、そのある人って?」
ラル「ガランド少将だ」
意外な人物の名前が飛び出したことに智子は目を丸くした。
アドルフィーネ・ガランドといえばカールスラント空軍のウィッチ隊総監ではないか。
彼女の私兵、それはつまり懐刀と称しても何ら差し支えは無いだろう。
そのような人物が何故ここペテルブルグ基地に派遣されたのか。
いや、欧州随一の激戦区を担当する攻勢部隊が第502統合戦闘航空団だ。今後の反攻戦を少しでも有利に進めるために遣したのだろう。
あのガランド少将が認めた航空歩兵とは一体どんな人間なのか。
ラル「聞きたいことはまだあるだろうが、細かい話はまた今度するとしよう。今は用意した部屋に荷物を置いて身体を休めてくれ。時間はたくさんあるのだからな」
智子の疑問を遮るかのようにラルは笑みを浮かべた。
見ていて安心できる柔らかな笑みだ。幾多の困難もその笑みで周囲の人間の精神を安心させることで士気を保ち乗り越えてきたのだろう。
けれども智子には何故か彼女の微笑が、何かを隠すために繕われたものにしか見えなかった。
おそらくはその補充戦力が深く関わっているのだろう。今ここで問いただすことは出来るが彼女の言うとおり時間はまだ残っている。
今はまだ急ぐ必要は無いと判断した智子は素直にラルの提案を受け入れることにした。
ラル「さて、どうしたものか……」
一礼した智子が司令室を去り、一人残されたラルは背もたれに背を預けて天井を仰ぎ見る。
使い慣れた革張りの椅子が立てる微かに軋む音だけが静まり返った司令室のなかを木霊する。
その日の椅子は何故だかいつもより硬く感じ、大して休むことができなかった。
カウハバ基地から持ち出してきたバッグを肩にかけ智子は自身に割り当てられた部屋へと歩を進める。
初めは基地職員の案内に従っていたのだが急に仕事が入ったらしく、502のウィッチたちの部屋がある階に続く階段を上り始めたときに何処かへと去ってしまった。
要塞を改修しただけあって複雑に入り組んだ造りとなっているが既に目的地の目の前まで近づいていたこともあり智子は大して気に留めなかった。
肩にかけたバッグをかけなおし智子は階段を上る。そうして目的の階へと足を踏み入れ自分の部屋がある方向へと歩き始めた矢先のことだ。
智子「きゃっ!」
「おっと!」
曲がり角に差しかかった瞬間、軽い衝撃が智子の身体を襲った。突然の事態に足元が乱れ、全身のバランスが崩れる。
衝突した反動で彼女の身体は体勢を整える暇すらないまま後ろへと引っ張られていく。
そしてそのまま硬い床の上へと背中を打ちつける寸前、なだらかな背に手を回され抱き止められた。
「すみません。大丈夫ですか?」
智子「いえ、私の方こそ……――っ!?」
自身の背中に回された手の感触に智子は僅かの間瞼を閉じた。
硬くて、温かくて、触れているだけで自分に安らぎを与えてくれる手の平。
遠い昔、今は亡き彼に背中をさすってもらった記憶を反射的に呼び起こすなか智子は自分を抱きとめてくれた男へと顔を上げた瞬間、息を呑んだ。
灰色の制服を身にまとう長身の男性。智子の身体を強張らせたのは彼の風貌にあった。
智子「う、そ……」
帽子のつばから覗かせる黒い髪と黒い瞳の容貌。それは驚くほどに彼と瓜二つの外見だった。
もしも彼が生きていればきっとこの男のような姿に成長しているに違いない。
そう智子に確信させるほどに目の前の男は彼女が心の底から恋し、愛した彼に似ていた。
もちろん彼であるはずが、俺であるはずがない。
たとえ遺体が発見されていなくとも全身を銃弾で穿たれ、上空から海面へと落下したのだ。生きているはずがない。
しかし遺体が見つかっていないからこそ智子は胸裏の片隅で微かに彼の生存を信じていた。
それがどれだけありえない妄想なのかは智子とて自覚していた。
けれども、たとえ葬儀が行われようと。たとえ墓石が用意されようと。
自身が恋慕の念を抱いた男が想いを告げるよりも先に逝った事実を智子は簡単に受け入れることができなかった。
その頑なな想いはいま衝動へと姿を変えて、彼女の唇を開いていく。
理性は必死に静止の叫び声を上げている。彼じゃない、妙な真似は起こすなと。
それでも胸の裡の片隅に残る、彼がまだ生きているという望みがいまの智子を突き動かしていた。
智子「お、れ……? おれ、なの……? あなたなの……?」
自分とぶつかり後ろへと倒れる女性を抱きとめた俺は目を見開いた。
帽子のつばでよく前が見えていなかったが、この女性よく見れば扶桑皇国陸軍の軍服を身に纏っているではないか。
それだけではない。
その優美な黒の長髪も。雪のように白い肌も。黒真珠のような双眸も。大和撫子という言葉を体現するかのような美貌も。
どれも間違いなく見覚えがある。忘れるはずがない。自身の妹の顔を見間違えるはずが無い。
俺「おまえ……智子、か!?」
続く
507の資料も無い。
いらん子もあんな事態になった以上、妄想の塊のまま進めていきますのでご了承ください。
最終更新:2013年11月13日 16:08