5月が終わるその日。
午後の日差しが降り注ぐペテルブルグの街中に俺とニパの姿があった。
はぐれないよう手を握り合いながら往来を行きかう人々でごった返す道の上を歩く姿は逢引中の恋人に見えなくもない。
現に少女の白い頬には微かであるが鮮やかな桃色が差し込んでおり、その表情があたかも愛しい男との逢瀬に想いを馳せる女らしさを醸し出していた。
ニパ「(これって……もしかしてデート、なのかな?)」
手の平を包み込む異性の手の感触に上昇する体温。
徐々に高鳴っていく心臓の鼓動を耳にしながら忙しない様子で目を周囲に泳がすと手を繋ぎ、腕を組んで歩く恋人と思しき男女たちが次々と通り過ぎていく。
もしかすると、他の通行人からはいまの自分と彼の姿も恋人に見えているのだろうか。
知らぬ間にそんなことを考えている自分に気がつき、慌てて頭を振って脳内に漂う桃色を振り落とす。
かつての同僚たちのそれとは明らかに違う堅い手触りに、じんわりと頬が温まっていく感覚を感じつつ、気付かれないよう隣を歩く男へと視線を転じてみる。
興奮する自分とは正反対に落ち着きが占める俺の横顔を捉えた途端、ニパは知らぬ内に落胆していることに気が付き、またしても頭を振った。
ニパ「(どうしてこんなに落ち込んでるんだろ?)」
澄み切った空とは裏腹に曇る胸の内。
別に私と俺は付き合っているわけではないのに……
俺「どうした?」
ニパ「えっ!? あぁ! 今日は私の誕生日なのに買出しなんてツイてないなぁって!」
突如として思考を遮られ、自分でも噴き出してしまうほど裏返った声を上げてしまう。
もしかして、今までの怪しげな行動も全部見られていたのでは……
そんな考えが脳裏を横切った瞬間、北の雪国が育まれた少女の柔肌に差し込む桃色が段々と紅色へと変わっていった。
自分の、そして隣を歩く男の一挙一動に慌てふためき頬を染めるこの可憐な少女がスオムス空軍十指に入るエースウィッチであると一体どれだけの人間が気付くのか。
少なくとも今この場でその事実に思い至る者はいないのは間違いない。
何故なら起伏に富んだ瑞々しい肢体を包み込むスオムスカラーのセーターも、今このときだけは単なる軍服ではなく、少女の愛らしさを引き立たせるただの衣服に過ぎなかったのだから。
俺「確かにな。だけど買って来る品物は片手で持てる程度のものなんだ。短いオフだと思って楽しめば良いんじゃないか?」
ニパ「そう……だけど」
返答は心なしか沈んだ気配を帯びていた。
あたかもこれから起こる出来事を予期しているかのような声音。澄んだアクアブルーの瞳に浮かぶのは憂慮の色。
――さぁ、みんな! 今日はニパ君の誕生日だよっ!!――
頭の中で木霊する聞き慣れた声。
同部隊に所属するヴァルトルート・クルピンスキーことプンスキー伯爵のそれである。
今日の日付は5月31日。つまりは自分の、ニッカ・エドワーディン・カタヤイネンの誕生日なのだ。
本来なら大抵の少女は訪れる誕生日に胸を躍らせるだろうし、自分も同じだ。別に歳一つ取ることに憂鬱な気分に浸るほど老いているわけでもない。
では何故胸の奥に何かが詰まった感覚を覚えているのだろうか。
答えは簡単だ。誕生日プレゼントを買う為と称して自分と俺と一緒に街へと繰り出してきたのがプンスキー伯爵と管野だからである。
いや、管野に至っては気が滅入るほど心配する必要はないだろう。日頃から軽口を叩き合う仲だが、彼女は何だかんだ言いつつも自分のためにプレゼントを選んできてくれている。
問題はむしろクルピンスキーだ。
以前、彼女から渡されたものといえば乳首や恥部を隠す為の絆創膏だの、少し細工をすれば簡単に解けてしまう紐型ズボンだの。
どれも年端も行かぬ少女にとっては刺激が強過ぎるものばかり。
そういったエロティックな物を贈られたこれまでの経験を踏まえるとニパの思考は当然の帰結といえよう。
ニパ「(今年は一体何だろう……?)」
あまり深く考えたくもないのだが、あらかじめ覚悟を決めておかなければ渡されたときにまた慌てふためくことになる。隊員たちの手前それだけはどうしても避けたい。
無論クルピンスキーなりに自分のためにと思って選んできてくれているのだろうが、そのチョイスには明らかに彼女の煩悩が詰め込まれている気がしてならない。
願わくは今年こそ真っ当なプレゼントを選んできて欲しいのだが、おそらくはそんな自分の願いも今日の夜には砕かれているだろう。
女好きとして部隊内でも有名な彼女が贈る物は毎年際どさが上がっていることも考慮すると、今年のプレゼントは去年よりも破廉恥なものになるのは目に見えている。
ニパ「(恥ずかしいのは嫌だなぁ……)」
市街地の入り口で、管野を伴って別行動を取る際にクルピンスキーが見せた異様なまでに爽やかな微笑が脳裏に投影され、深い溜息。
せめてもの救いといえば今年は俺が部隊に入ってきたことだろうか。
こうして街に足を運んでいるということは彼もまた自分のためにプレゼントを選びに来てくれていると考えて良い。
部隊の中では比較的常識人の部類に属するだけに、伯爵ほど際どい物は贈ってこないはず。
ニパ「あれ? 俺の誕生日はいつなんだっけ?」
俺「俺の誕生日か? 俺の誕生日は……あー……」
ふと生じた疑問を投げかけると言葉を詰まらせて空を仰ぎ見る俺。
つられる様にニパも空に視線を注ぐと、目の前には雲ひとつない清らかな青空広がっていた。定子や管野、そして俺曰く扶桑ではこの手の晴天を皐月晴れというそうだ。
空から俺へと視線を戻せば、彼は顎に手を添え何かを考え込んでいる表情を浮かべて、
俺「……忘れた」
ただぽつりと、そう洩らした。
自分の誕生日のことであるにも関わらず、どこか他人事めいた口調。
興味が無くて忘れた振りでもしているのか、それとも本当に自身の誕生日を忘我の彼方に置き捨てているのか。
ニパ「は、え……えぇぇぇ!?」
俺「そんなに驚くことか?」
ニパ「だ、だって! 自分の誕生日なんだぞ!?」
俺「まぁ……そうだな」
驚くニパの言葉を噛み砕くように何度か頷く。
自分にも誕生日はあった。いや、こうしてこの世に生まれた以上はあると言った方が正しい。
かつて扶桑皇国陸軍飛行第一戦隊に所属していた頃は智子を始めとした部隊員たちから誕生日プレゼントを受け取ったこともあり、長い月日が経った今でも肌身離さず持ち歩いている。
それらの品々が自分と彼女らを繋ぐ数少ない絆なのだから。
どれだけ遠く離れても、もう二度と会うことがないとしても、それさえあれば寂しくなどない。
俺「俺だって誕生日を祝ってもらったことはあったんだぞ?」
だが、それがいつだったのかがどうしても思い出せないのだ。
故郷を捨て、単身で激戦区を回り、癖の強い者たちと部隊を組んではまた離れ。
そうして幾多の出会いと別れを
繰り返しながら、死に物狂いで激動を乗り越えていると自分の根幹を成す情報の一部に対する関心が、どうしても薄まっていってしまう。
例えば、戦場で生き抜いていくことに誕生日といった情報は必要ない。ただ戦況を把握し、最善の行動を選択できるようになればいい。
食料が無く木の実に根や蛇などを胃袋の底に落として栄養を摂取していると、かつて自分がどのような料理を好んでいたのかも曖昧になる。
膨大な経験は知識となって脳に納まる。雪崩れ込んで来た知識に押され、重要度の低い情報があぶれただけのこと。
俺「それにだ。そこまで無理して思い出すことでもないだろうよ」
記憶することが人間に与えられた力なら忘却もまた然り。
忘れたものが生きていく上で然程重要でない情報なら血相を変える必要もない。
それに忘れたことも何らかの拍子で思い出すこともあるだろうし、深く悩むほどでもないだろう。
ニパ「でも……」
それでは余りに寂しくないか。俯き語尾をすぼめるニパ。
忘れてしまっていては誕生日を迎える寸前のあの高揚感も、遠くから楽しみにする気持ちすら作ることが出来ないではないか。
知らぬ間に落ち込んだ表情でも作っていてしまったのか、不意に頭に置かれる大きな手の平。
視線を持ち上げれば、そこには柔らかな微笑みを口許に浮かべた俺の姿があった。
俺「ありがとうな、ニパ。でも今日はニパが主役の日なんだ。他人のことで落ち込んでないで、自分のことで楽しまないと」
ニパ「……俺は寂しくないの?」
俺「んー……別に寂しくは無いかな」
誕生日がいつだったかは確かに記憶には無い。けれども、誕生日を祝って貰った思い出は今もこの胸に残っている。
プレゼントを受け取ったときの喜びも、いつも以上に美味しく感じた料理の味も。
嬉しそうな彼女らの笑顔も、誕生日おめでとうと言ってくれたあの優しげな声音も。
その全てが今もまだ自分の胸に残り、鮮烈に思い返すことが出来るのだから寂しがることなど在り得ない。
俺「一番大切なのは思い出だと俺は思うけどな」
ニパ「……そうだな。うん。変なこと聞いてごめん」
俺「いいよ。さてとっ! せっかくの誕生日なんだから、辛気臭い話はこれでおしまいだ。早いところ買い物済ませてニパの誕生日プレゼント選びに行かないとな」
ニパ「うわわっ!? 手を繋いだまま急に走るなよぉ!!」
勢い良く駆け出した俺に連れられた先は家具と調理器具を扱う店だった。
年季の入った外観とは裏腹に小奇麗な内装は人受けが良く、扱われる品々も素人目に見ても趣味が良い物ばかりで店内を賑わす客層も若い男女が多い。
けれどもニパの目には彼らの姿が街中で歩く者たちと、どこか異なるように映っていた。
恋人――というよりかは新婚夫婦といった表現のほうが適切なのかもしれない。
幸せに満ち溢れ、それでいて和やかな雰囲気からそんな考えが浮かび上がる。
ニパ「(幸せそうだなぁ)」
気に入った家具を見つけては手に取り微笑む男女たちの姿に自然と緩むニパの頬。
航空歩兵として空を舞う彼女らにとって、目の前に広がる他愛の無い平凡な風景こそが何よりもの功勲であった。
自分たちが命を賭して戦い、勝ち取った物を身近に感じ取ることが出来る。
いつか自分も好きな相手を見つけ、ああやって笑い合いながら家具や調理器具を選べたら。
年頃の少女ならば一度は抱く願望に胸の内を温めつつ、基地を出る前に定子から手渡されたメモを取り出し、
ニパ「えっと……おたまとしゃもじだっけ?」
俺「使っていた物が痛んできたから早いうちに仕入れておいた方が良いと思ってな」
本来なら一般兵用の食堂から借りてくるのが妥当なのだろうが、幸いなことにここ数日は観測班からネウロイの活動報告が届いてこないため、これを期に新しい調理器具を揃えることになった。
今後の戦況を踏まえれば、暇なときに済ませる用事は済ませておくに越したことはない。特に自分たち502はカールスラント奪還を主とする攻勢部隊であり、駆ける戦場も欧州随一の激戦区。
こうした平穏な日常にいつまで包まれていられるかも分からぬほど自分たちが進軍する先には危険が溢れ返っているのだ。
ニパ「下原少尉が作る扶桑料理は美味しいからなぁ」
俺「定子だけじゃないぞ。今日はみんなニパのために腕によりをかけて作ってくれるんだ。夕飯の準備までには届けてやらないとな」
観測班からの報告も上層部からの指令も入ってこない今が好機なのだろう。
ささやかではあるもののニパの誕生日会を開くと今朝のミーティングで宣言したラルの言葉を思い出しつつ、目的の品が陳列されている棚を目指す。
ニパ「そういえば俺にも何か得意料理があるの?」
俺「俺か? そうだなぁ……豚汁とかかな」
ニパ「トンジル?」
俺「豚肉が入った味噌汁だよ」
単純に豚肉だけを入れたものもあれば大根、人参、じゃが芋といった根菜類を混ぜたものもある。
肝心の食材さえ入っていれば他に入る具が地域ごとに違ってくるのもまた料理の面白さともいえよう。
ちなみに俺が作る豚汁には根菜類の他にも一口大に切り揃えた豆腐や蒟蒻が入っており、扶桑で暮らしていた頃はそれを仲間に振舞ったこともあった。
ニパ「へぇ、食べてみたいなぁ。今度作ってよ」
俺「俺よりもそういうのは定子に頼んだ方が良いんじゃないか?」
口許に人差し指を当てて瞳を輝かせるニパに返していたのは苦笑混じりの言葉。
たしかに得意料理とはいったが、あくまで得意なだけであって純粋な料理の腕前ならば定子のほうが遥に上である。
彼女の料理によって肥えた舌を持つ隊員たちに自分の粗末な料理を出すというのは些か気が引けた。
ニパ「だけど作る人が違うと味付けも違ってくるだろ?」
俺「そりゃ……そうだけどよ」
ニパ「それに俺の手料理ってあまり食べたことないし」
言われてみれば、その通りだと胸裏にごちる。
ペテルブルグ基地に派遣されてから厨房に立ったことは何度もあるが大半は食材を洗い、皮を剥き、切り揃えるといった補佐ばかり。
一から食材を選び、献立を考え、調理を行うといった作業を俺は片手で数えられる程度しかこなしていなかった。
だからといって別に怠けているわけではない。
単純に自分の当番が片手の指で足りるほどしか回ってきていないだけであることに加え、黙って座りながら料理を待つというのも性分ではないため率先して雑用を引き受けているだけなのだ。
ニパ「だからさ、もっと食べてみたいんだ。俺の手料理」
少女が零す、思わず見惚れてしまうほど屈託の無い微笑。
その笑みに俺は数瞬目の前で自分を見つめるニパが軍人であることを、銃器を手に取り人々の矢面に立つ航空歩兵である事実を忘却していた。
本当にこの娘があのニパなのだろうか。自分の不幸体質を嘆き、満ち溢れる敢闘精神に付き従うようにネウロイへと肉薄するあのニパなのか。
いや、きっとどの姿も彼女なのだろうと納得する。ツイてない自己を嘆く姿も、勇猛果敢に攻める姿も。そして、いま可憐な笑顔を浮かべる姿も。
それら全てをひっくるめた上でニッカ・エドワーディン・カタヤイネンなのだ。真っ直ぐで、それでいて可愛らしい。
俺「……あまり期待はしないでくれよ」
ニパ「あぁ!」
耳朶を掠める弾んだ声音が心臓の鼓動を加速させる。
夏はまだ幾分か先だというのにやたら熱を帯びる頬。その上、ニパの顔すら直視出来ない。
何だこの感覚は。どうしてこんなにも胸が痛むのか。
ニパ「俺? どうかした?」
俺「いや、大丈夫だ」
ニパ「本当? 顔が赤いけど熱でもあるのか?」
思わず視線を逸らすと先回りするかのように自分の顔を覗き込んで来る少女の容貌が間近に迫る。
極北のスオムスに舞う粉雪を思わせるかのような白い肌と淡い金色の髪。
どこまでも澄み切った大きな青い瞳。そのどれもが手を伸ばしてしまいそうになるほどに磨き上げられ、それらが一つとなったニパの容貌は息を呑むほど美しかった。
制御下から離れていた理性を取り戻し、視線を少女の美貌から進行方向へ。
俺「いや、本当に何でもないんだ。気にしないでくれ」
ニパ「そうか?」
俺「あぁ。えっと……ここだったな」
棚に置かれた木製のしゃもじを見つけ、手を伸ばす。
そのときの俺は胸裏に巣食う正体不明の違和感に心取り乱されていたため、自身と同じようにしゃもじへと伸びるニパの手の存在に気付いていなかった。
木製器具へと伸びる二本の手。接触までの時間はほんの一瞬、気がつくほどの余裕はない。
そして、
俺「ッ!?」
ニパ「うわっ!?」
互いの指先がしゃもじに届く寸前に触れ合った。
俺はニパの柔らかな指先に、対してニパは店に入るまで自分の指を包み込んでいた俺の手の感触にすぐさま手を引き戻す。
漂い始める重苦しい沈黙。言葉を搾り出そうにも何を言えば良いのかも考え付かない。
下手なことを口走れば更に緊張を重くしてしまうのではないか。そんな思いが二人の口を噤む。
ニパ「その……」
俺「なんだ……すまん」
ニパ「い、いいよ……気にしてないから」
俺「あ、あぁ」
ぎこちなく頷く。そのとき俺はこの店に入るまでニパの手を握っていたことを思い出した。
よく考えれば自分はとてつもなく恥ずかしいことをしていたのではないか。自分がしでかしていた行為に改めて気恥ずかしさが込み上げて来る。
「よぉ。こんなところにいたのか」
不意に聞き慣れた声音が耳朶を掠める。
声が飛んできた方へと視線の先に立っていたのは両腕を腰に当てた一人の少女。
ペテルブルグ市街の入り口でクルピンスキーと共に別行動を取った管野である。
俺「ナオ?」
ニパ「確か伯爵と一緒にいたんじゃ」
管野「あの後になって急に別行動しようって言い出されてさ」
彼女の話によると自分たち二人と別行動を取った後、数箇所ほど店を回ってから突然別行動を取ろうとクルピンスキーが言い出したらしい。
管野自身も互いが別れたほうがプレゼント選びも効率良く進められると踏んだため、クルピンスキーと別れることを選んだ。ついでに古本屋も覗きたかったことも理由の一つだが。
管野「それで二人は下原から頼まれごとか?」
俺「まぁな。そうだ、ナオって料理は出来るのか?」
管野「しねぇし、出来ねぇよ」
顔を顰めて返す管野。
触れてはならない部分に触れてしまったのか。心なしか彼女の口調もそのトーンが若干下っている。
不機嫌な表情を浮かべる管野を前に、小さな笑い声が漏れ出した。
声に気がつき俺が視線を巡らせば、口許に手を当てて笑い声を押し殺すニパの姿があった。
ニパ「カンノに任せたら大変なことになるからな……っくく」
管野「っせぇな。オレは食う方が専門なんだよ。大体何だって急にそんなこと聞いてくんだよ」
俺「さっきニパに得意料理はあるのかって聞かれてな。それで偶然やって来たナオにも訊いてみようと思って」
手に取ったしゃもじを掌の中で器用に回しながら俺が答える。
もしも彼の手に握られていたものがナイフや包丁といった刃物類、もしくは拳銃であるならば、その姿も様になっていただろう。
けれども生憎と彼が握るものはしゃもじ――ただの料理器具である。迫力にも凛々しさにもかけていた。
管野「そりゃ期待を裏切っちまって悪かったな。そういう俺には何か得意料理でもあんのかよ?」
ニパ「俺はトンジルが得意なんだってさ」
俺「あとはカレーかな」
管野「と、豚汁。それに、カレーか……」
ごくりと生々しい音がなった。
その音が管野の喉から発せられたものだと気付くのに俺は幾許かの時を要した。かつて口にしていた故郷の味を思い出すように、こくんと動く管野の喉下。
更に注意して彼女の姿を観察すれば、人差し指は口許へと運ばれ、瞳も忙しなく辺りを見回している。
あたかも食事の献立が自分の好物であると知ったときの子供を思わせる姿に俺は自然と自分の胸が温まっていく感覚を覚えた。
管野「……作れよ」
俺「うん?」
管野「今度お前が食事当番になったら豚汁作れ」
俺「俺で良いのか?」
管野「お前で良いよ。それに下原の当番は昨日だったからな」
502に所属する魔女たちのなかで扶桑料理を作ることが可能な者は現状、下原と俺の二人のみ。
彼女の当番が過ぎた以上、次に扶桑の料理を作るのは必然的に俺となる。
その時になったら献立に豚汁を入れろと管野は言っているのだ。
俺「リクエストが出た以上は答えないとな」
要望を出してもらった方が献立を一から考えるよりは遥に楽だ。
一つでも料理が決まれば、それに合わせた品目を考えることが出来る。
さて、豚汁に合う料理とは何だろうか。
ニパ「やった!」
思案に暮れている最中、隣でニパが小さくガッツポーズを取った。
その様子がどこか子供めいていて、そんなニパの様子に俺は胸に沸き起こる嬉しさを隠しきれずに口許を緩ませる。自分の料理を楽しみにしてくれることが、純粋に嬉しい。
楽しみにしてくれている以上は出来る限り期待に応えなくてはならない。
――それじゃ、頑張りますか。
胸裏でそう零す俺の表情はいつになく朗らかなものとなっていた。
定子から頼まれていた品を無事に買い揃え、店を後にする。
空は相変わらず雲ひとつ無い晴天を維持していた。
俺「俺たちは待ち合わせまで他の店を回る予定だけど……ナオはこれからどうする?」
管野「いや、オレもまた別のところを回ってみる」
俺「そうか。それじゃあ、また公営パーキングで。待ち合わせ時間に遅れるなよ?」
管野「わぁってるよ。ガキじゃないんだから」
ニパ「またな」
管野「お前たちも遅れんなよ」
小さくなっていく少女の背中。
瞬きをした瞬間、その背は人波の中へと消えていた。すぐ傍に漂っていた彼女の名残が完全に消え失せたことを悟り、ニパを伴って歩き出す。
俺「さってと。用事も済ませたことだし、ニパのプレゼント選びに入りますかな」
ニパ「面と向かって言われると……何だか照れちゃうな」
俺「誕生日なんだ。今日ぐらいは我侭になっても文句は言われないさ」
ニパ「……うん。ありがと」
管野と分かれた二人が訪れたのは比較的大きな洋品店であった。
洋品店といっても雑貨の他に衣服から拳銃、果てはそのホルスターまでと扱われる商品は多岐に渡っている。
若干、物々しさも混じってはいるがここならニパが欲しがるものもあるはず。
ニパ「すごいなぁ。色々なものが置かれてる」
俺「普通の服なら奥の方だな」
ニパ「うん。でも本当に良いの?」
俺「大丈夫だよ。蓄えならまだあるからな。ここらで使っておかないと」
ニパ「……ありがとうっ」
初めて入るのか、幾分か瞳を輝かせたニパが店内の奥へと向かおうとした瞬間、
クルピンスキー「やぁ。会いたかったよニパ君」
あの陽気な声が、鼓膜を震わせた。
まず感じたのは全身の毛が逆立つ感覚。脳内では既に警鐘が叩かれている。
生存本能に従い、弾かれるような動作で自身と声の主との間に俺を挟み込む位置へと移動。
恐る恐る俺の陰から顔を覗かせると案の定、目の前には爽やかな笑みを湛えたプンスキー伯爵が優雅に腕を組んでこちらを見つめていた。
ニパ「中尉……来てたんだ……」
クルピンスキー「うん。ニパ君に似合いそうなものをずっと探していたんだ」
言うなり、はにかむクルピンスキー。
一体その笑みでどれだけの年端もいかぬウィッチが犠牲に、もとい虜にされたのか。
俺「伯爵じゃないか。ちゃんとニパの誕生日プレゼント見つけてきたのか?」
クルピンスキー「もちろん。ちょうど良いから、ここで試着してみてよ」
俺「試着って服なのか?」
クルピンスキー「うん。でもサイズが合わなかったら大変だからね。先に着て欲しいんだ」
試着―――その言葉がクルピンスキーの口から洩れた瞬間、ニパの脳裏に数々の光景が蘇った。
僅かに動いただけで解けそうになる紐型のズボン。そして、あの絆創膏。
少しずつ、そして着実に恐怖の情が込み上げて来る。
ニパ「い、嫌だ! 絶っ対に着ないからな!!」
俺「…………伯爵。この子に何を渡してきたんだ?」
クルピンスキー「え、えーと」
ニパ「だ、駄目! 言っちゃ駄目!!」
頬を紅潮させたニパがクルピンスキーの言葉を遮った。
言わせてはならない。俺にだけは教えさせては駄目だ。あんなあられもない姿など絶対に知られたくない。
俺「念のため聞いておくけど。今年はまともなものなんだろうな?」
胸元にしがみ付くニパの頭を撫でる俺がクルピンスキーに向ける目を細めた。
自分がペテルブルグ基地へと配属される前のニパの誕生日に一体何が起きたのだろうか。
少なくとも自身の身体に伝わってくる小刻みな震えから、壮絶な目に遭ったことには間違いない。
問い詰める俺を前に、浮かべていた微笑に苦みを含めるクルピンスキー。
クルピンスキー「ほ、本当だって」
俺「だったら今ここで見せてくれないか? 危ない物だったら着させられないぞ」
クルピンスキー「まったく。ほら、これだよ」
俺「これは……たしかにこれくらいなら問題ない、か」
差し出された物をしばしの間、見つめて頷く。
女の子の誕生日プレゼントにしては些か華やかさが欠けるものの、これならば実用性にも富んでいるし、少女の羞恥心を誘うこともないだろう。
ニパ「うぅぅぅぅ」
俺「ニパ。大丈夫だぞ。今年のは普通みたいだ」
ニパ「ほ、本当?」
俺「あぁ。だから伯爵の方を見てごらん」
ニパ「……?」
徐に背後へと振り返る。
クルピンスキーの手に握られていたのはショルダーハーネスだった。
良質な素材を使用しているのか頑丈さと高級さを兼ね揃えた黒光りを放つ、それを前に思わず目を丸くしてしまう。
まさか、あのクルピンスキーがこんなまともな品を選んでくるとは。今まで渡されてきたものがものだけに目の前のハーネスがニパの目には輝いているように映った。
クルピンスキー「これならどうだい?」
ニパ「こ、これなら……良いかな?」
やや興奮した面持ちで答えるニパ。
拳銃を入れるスペースの他にも様々な大きさのポケットが備え付けられており、衣料キット程度のものなら容易に携行できる。
日頃腰に巻くポーチも加えると弾薬を始めとした各種装備の携行量も格段に増加し、そうなれば戦闘持続時間も自然と長引く。
クルピンスキー「ニパ君は良く怪我をするでしょ? だからせめて可能な限り多く、そして嵩張らない程度に装備を持ち運べることが出来るものを贈りたかったんだ」
もちろん君を落とさせはしないけどね、と聞き様によっては殺し文句とも受け取れる言葉を締めにクルピンスキーが手に持つハーネスを差し出した。
緊張した面持ちで生唾を飲み込むニパの肩を叩いた俺が店内奥に設置された試着室を指差す。
俺「どうする? 試しに着けてみるか?」
ニパ「う、うん……それじゃあ」
照れたように頬を染めて店内の奥へと駆けて行くニパの後を追いながら、
俺「珍しくまともなものを贈ったみたいだな」
クルピンスキー「僕だってそこまで露骨じゃないさ。それより俺のプレゼントは決まったのかい?」
試着室近くに設置されたベンチに座り込む俺が頭の中でニパに贈るプレゼントのイメージを固める。
今日に至るまで様々な案を浮かべてきたが、幸いにも昨日になってようやく具体的な段階まで進めることが出来た。
俺「大体はな。この後少し寄るところがある。それまでニパのこと頼めるか?」
クルピンスキー「寄る所?」
俺「待ち合わせの時間には戻るからさ」
特に言及することはなく、意外なほどあっさりとクルピンスキーは頷いた。
クルピンスキー「良いよ。でも早く戻ってきてよ?」
俺「分かってる。おっ……そろそろお披露目みたいだぞ」
試着室の内部と店内を仕切る紅色のカーテンが波を打つ光景を前に俺が腰を上げた。
隣で同じようにベンチに腰を落としていたクルピンスキーも口許に笑みを湛え、彼女の登場を待ちわびる。
紅色の布が一際激しく動き、
ニパ「あの……これ。キツいんだけど……」
俺「ぶっふぅ!?」
ハーネスを身に着けたニパがその姿を晒した瞬間、盛大に噴出した者が約一名。言わずもがな俺である。
水色のセーターの上を走るショルダーハーネスの黒。色合いとしては然程問題ではない。
問題はハーネスを纏った彼女の外見にある。
ショルダーハーネスによって強調される起伏の激しい上半身とウェストライン。
特に胸元に実るたわわな果実が前面に押し出される様は男のリビドーを激しく刺激し、一歩間違えればボンデージ衣装と見られても可笑しくない。
俺「お、おまっ! 何て物を渡してるんだ!!」
クルピンスキー「僕は至って真面目だよ! これなら実用性も富んでいるから満足じゃないか!」
俺「満足しているのは明らかにお前だけだろう。ニパは? どう思う?」
興奮するクルピンスキーを他所に、極力胸元に視線が逸れないよう恥らうニパの容貌へと視線を注ぐ。
それでも視界の端で揺れたわむ双丘の存在にどうしても目線が吸い寄せられるのは男の宿命なのか。それとも単に自分が性に餓えているのか。
どちらにせよ、この状況は非常にまずい。
隆起し始める愚息の存在を悟られないよう、再びベンチに腰を降ろし上半身を前へと傾けることで男の尊厳を保つ俺。
ニパ「ハーネス自体は悪くないんだけどさ……これ、んっ……もう少し、大きいサイズないの?」
上半身に喰い込むハーネスの感触にこそばゆさを覚えるニパが身を捩った。
たとえそれが小さな挙措であっても扇情的に揺れ動く彼女の柔肉。
クルピンスキー「ニパ君……そのサイズじゃ駄目、なの?」
縋りつく眼差しを注ぐクルピンスキー。
哀愁が漂う双眸はあたかも捨てられた仔犬を思わせるも、
ニパ「うん。きつくて落ち着かないや」
クルピンスキー「ちぇっ」
もじもじと身を捩るニパの言葉に悔しそうに舌を打った。
ニパの誕生日会が滞りなく終わったその日の夜のことである。
明日の為に身体を休ませようと誰もが自室に戻るなか、談話室には俺とニパの二人だけが残っていた。
日中での出来事もあってか、他人の目の前でプレゼントを渡すことに気恥ずかしさを感じた俺は事前にパーティーが終わった後に祝いの品を手渡すと告げていたからだ。
俺「悪いな。引き留めて」
ニパ「良いよ。俺には色々と世話になったからさ」
両手にコーヒーが淹れられたマグカップを持って横に腰掛ける。
ニパ「それで。俺のプレゼントは何なんだ?」
俺「……これなんだけど。気に入ってもらえると嬉しいな」
差し出してきた手の平の上に鎮座するのはネックレスと思しきものだった。
頑丈さを優先しているのか装飾部に通されるチェーンは重厚感溢れる無骨なデザインとなっており、持ち上げれば沈み込むような重みが掌に伝わってくる。
五月の誕生石であるエメラルドを模した色鮮やかな緑の水晶が嵌め込まれた装飾部の表面。
裏返せば彼女の故郷ことスオムスに伝わる妖精、トントの可愛らしいレリーフがニパの口許を綻ばせた。
ニパ「きれいだな……」
俺「アミュレット、お守りだよ。悪いな。何か安直で」
ニパ「そんなことない! すごく嬉しいよ」
俺「ありがとうな。そう言ってもらえると助かる」
瞳を輝かせ、アミュレットを持ち上げるニパの弾んだ声を聞きながら、彼女が淹れたカハヴィを口にする。
淹れ方が上手いのだろうコーヒーが苦手な俺でも彼女の淹れてくれたカハヴィはすんなりと喉に流し込めた。食道を通って胃へ落ちていく温かな液体の感覚に浸る最中、不意に蘇る懐かしい記憶。
俺「(なぁ、武子。なんだか……またお前が淹れてくれたコーヒーが飲みたくなってきたよ……)」
もう会うことの仲間の名を胸裏で口にし、残りを飲み干した。
武子だけじゃない。智子、圭子、綾香、敏子。彼女ら皆全員、自分が死んだと思っているに違いない。
もしも顔を合わせることがあるのなら、彼女らはどんな表情を浮かべるだろう。
幽霊だと勘違いして怖がるか。それとも……
ニパ「俺? どうかしたか?」
隣から聞こえる自身を気遣う声に思考が途切れる。
振り向けば両手でアミュレットを握り締めるニパがこちらに視線を注いでいた。
澄んだ双眸に浮かぶ不安げな光。いつの間にか要らぬ心配をかけてしまっていたようだ。
俺「いや。ニパの淹れてくれたカハヴィが美味しいもんだから、つい
物思いに老け込んじまっただけだよ」
ニパ「そ、そんな。大袈裟だよ」
頬を紅潮させるニパにおかわりを頼もうと口を開いたそのときであった。
――俺! 誕生日おめでとう!――
脳裏に。あの懐かしい声たちが響き渡った。
その声に、ほんの一瞬だけ俺は身体を硬直させた。
ニパ「おれ?」
顔を覗きこむニパから視線を外し、改めて今日の日付を確認する。
残りあと数分で終わりを迎える今日は五月三十一日。
俺「……思い出したよ」
ニパ「思いだしたって何が?」
俺「俺の誕生日」
ニパ「本当か!? いつ!?」
誕生日さえ知ることが出来ればお返しが出来ると身を乗り出すニパの頭に手を乗せたときには、
俺「俺の誕生日も……ちょうど、今日。いや昨日だった」
日付が変わり、六月を迎えていた。
ニパ「そ、そんな……それじゃあ。お返しが出来ないじゃないか!!」
俺「別にいいよ。お返しなんて。俺がやりたくてやったことだからな」
ニパ「…………じゃ、じゃあ!」
俺「うん?」
ニパ「来年は……一緒に誕生日を祝わないか?」
俺「来年?」
ニパ「あ、その。俺さえ……よければ、だけど……」
来年――果たしてそのときまで自分はここペテルブルグ基地に残っているだろうか。
気恥ずかしそうに身を動かすニパを見つめながら、そんな考えが脳裏を掠めた。
表向きは補充要員だが、実際はウィッチを脅かす存在を手当たり次第消去するのが俺の仕事である。目標さえ殲滅すればペテルブルグ基地に居座る理由もない。
俺「そうだな。それじゃあ、また来年を楽しみにしているよ」
ニパ「それじゃあ! おやすみ!」
俺「あぁ、おやすみ」
果たせるかどうかも分からない口約束に満足そうな笑みを浮かべたニパがソファから腰を上げ、弾むような足取りで談話室を出て行く後姿を見送った俺も簡単な肩付けを終えてから談話室を後にした。
誰もいないであろう廊下に足を踏み入れ、自室へと向かおうとした矢先、
俺「ラルにエディータ、伯爵にサーシャ。どうかしたか?」
目の前にはラル、ロスマン、クルピンスキー、サーシャの四人が立っていた。
少し前に先に談話室から出て行った四人がどうしてここにいるのか。
ラル「いや。ただ謝ろうと思ってな」
俺「謝る?」
クルピンスキー「さっきのやり取りを聞いちゃったもんでね」
俺「さっきの……あぁ」
謝ると告げるラルの言葉から察するに、彼女らが言うやりとりとは自分の誕生日が今日であることに気付いた辺りだろう。
ラル「書類には確かにお前の生年月日が記載されていた。そのことを忘れ、大切な仲間の誕生日を祝ってやれなかったのは私のミスだ。だから」
そう言うや否や一歩詰め寄るラル。
幼さが残るニパのそれとは異なる大人びた美貌。瑞々しい艶やかな唇に、ニパ以上の豊満な果実に思わず目線が引き寄せられてしまう。
そんな俺のことなど気にもかけずに顔を近づけたラルが鼻の頭に軽く口付けした。
ちゅっという小気味の良い音が、静まり返った廊下に木霊する。
ラル「今年はこれで我慢してくれないか?」
俺「……えっ」
ラル「これは……私からの誕生日プレゼントだ。唇は……まだくれてやれないがね」
俺「え……あ、うん」
照れたようにはにかむと、軽く手を振って身を翻す。今度こそ自室へと戻るようだ。
しかし肝心の俺は突然のキスに、思考力を奪われ状況を理解することが出来ずにいた。
困惑する彼に追い討ちをかけるかのように、今度はクルピンスキーとロスマンが距離を詰めてきた。
俺「お、おい!? 伯爵!? それにエディータまで!」
クルピンスキー「ほら。屈んであげて」
俺「な、なんだよ? 何をする気だ?」
クルピンスキー「良いから。ほら……悪いようにはしないから」
促されるままに膝を曲げる。
ラルからの突然のキスに判断力すら失った俺はあっさりと彼女の口車に乗っていた。そのことに何ら疑問も抱かぬまま。
ロスマン「んっ!」
クルピンスキー「ふふっ」
右頬を突くようにロスマンが、痕を残すように左頬に唇を当てるクルピンスキー。
二つに重なる小気味の良い音が耳朶を掠めた。
しばし停止する思考。再起動。状況把握、完了。自分はいま、二人に、キスをされた。
俺「はぁっ!?」
仰け反る俺の姿がツボにはいったかのように微笑を零すクルピンスキー。
ラルといいこの二人といい。突拍子のない行動に隠された真意が理解できない。
ほんの数分前までニパと談笑を楽しんでいたときにはこんなことが起きるなど想像もつかなかった。
クルピンスキー「僕たちからの誕生日プレゼントだよ。当分は休みもないから代わりの品物を用意することも出来ないしね」
ロスマン「一日遅れましたけど……おめでとう、ございます」
悪戯めいたクルピンスキーとは対照的に頬を紅潮させるロスマン。
クルピンスキー「これでも君を信じているんだよ? だからこれは信頼の証として受け取って欲しいな」
俺「だ、だけど……」
いくら何でもキスはまずいだろう。
後に続く言葉は額に生じた小さな衝撃によって掻き消された。
肌に触れる色鮮やかな金の長髪から漂う甘い香り。部隊内で金色の、それも長い髪を持つ少女など一人しかいない。
俺「サー……シャ?」
恐る恐る顔を離すサーシャに呆けたような言葉しかかけることが出来なかった。
サーシャ「そのっ……これからも、よろしくお願い、します」
クルピンスキー「それじゃあ。また明日ね」
ロスマン「恥ずかしい……」
去っていく三人の背中が曲がり角の向こうへと消え、
俺「俺も……まだまだ捨てたもんじゃないって……ことか?」
気の抜けた声が漏れ出した。
これはあれだ。西洋特有の親愛の証だ。よく頬や手とかにキスする光景を目にしたことがある。
きっとそうだ。そうに違いない。変な気を起こすな。
そう自分に言い聞かせ自室への帰路を辿る俺。心なしか彼の足取りはいつもよりやや軽かったが、その違いに気付く者は誰一人としていなかった。
おしまい
最終更新:2014年10月19日 11:09