夜の帳が引き上げられ、東の空がうっすらと白みがかる頃。
全身を凍り付ける空気が蔓延するウィッチ用宿舎の通路を、女が一人歩いていた。
割り当てられた自室を出てから、一分もかからない距離を歩く智子は白い頬を赤らめ、とある一室の前で立ち止まった。
そわそわと身体を動かす様から彼女の頬に差し込む赤みが、寒さによるものだけではないことが伺える。
黒真珠を思わせる双眸は潤んだ光を帯び、その奥底に宿る光は嬉々とした色を孕んでいた。
熱の篭った吐息を零し、智子は古ぼけた扉に伸ばした手を、不意に胸元へと引き戻す。
そうしてまた、躊躇いながら扉に手を伸ばしては、胸元に戻すといった動作を何度も繰り返す。
視線の先に立つのは、廊下と目の前の部屋とを隔てる古めかしい扉。
その先で、今もまだ寝息を立てている部屋の主は、昨日再会を果たした彼。
昨夜は同じ布団で寝ることを断られたため、消灯時刻が近づいたことを理由に部屋から追い出されたが、今日は違う。
時間が許す限り――それこそ一日中彼の傍にいることも、話をすることも出来る。
そのことが嬉しくて、嬉しくて。
逸る気持ちを抑え切れず、早朝から足を運んだ智子であったが、彼女はこの後の行動を決めあぐねていた。
どんな言葉をかけながら、彼を起こせばいいのだろうか。
どんな笑顔を浮かべると、寝起きの彼には魅力的に映るだろうか。
頭の中に浮かび上がるのは、寝ている彼を起こす自分の姿。
あの日彼を喪った後も、妄想のなかで幾度も
繰り返してきた、愛しい男性を起こす場面。
しかしいざ実際にその場面に直面してみると、あれやこれやと考えが浮かび、上手くまとまらない。
それでも悩んでいては何も変わらない。智子は思考を切り替える。
成長した彼の無防備な寝顔はどう変わっているのか。寝起きの癖は変わらないままなのか。相変わらず寒さに弱いのか。
七年以上経った彼の寝顔や、寝起きの姿を早く見たいという気持ちを原動力に。
意を決し、冷気によって冷やされた扉を数回ノックする。
返事はない。物音も、聞こえない。
智子「俺? もう起きてる?」
今度はノックの回数を増やし、声もかけてみる。やはり返事はない。
起床時刻前なのだから寝ていて当然かと思いつつ、智子は恐る恐るドアノブを握り、回してみる。
鍵はかかっていない。
部屋の主を起こさぬよう、音を立てずにドアを開けて室内へと足を踏み入れる。
無用心だと思うよりも先に、弾む気持ちが彼女を突き動かしていた。
智子「……は、入るわよぉ?」
暗闇に慣れていくに連れて、徐々に部屋の全体図が明瞭となる。
薄暗い部屋のなか、ベッドの上では部屋の主を寒さから守るかのように、幾重にも折り重なった布団が鎮座していた。
それらに守られ、徐に身体を上下させながら寝息を立てる想い人の影を捉えた途端、智子の頬に差し込む赤みがその色を濃くしていった。
寝ている彼を起こさないよう、後ろ手にドアを閉め、足音殺してベッドに近づく。
一歩進む毎に、胸の高鳴りが激しいものへと変わっていく様を感じながら。
智子「俺? もうすぐ起床時間よ?」
これでは寝顔が見られないではないかと不満を零しつつ、自分に背を向ける部屋の主に柔らかな声音で語りかける。
当然の如く返事は無い。
自身の声に反応して時折、布団に包まれた体躯が布擦れの音を立てて動くだけだ。
智子「ねぇ、俺?」
もう一度呼びかける。今度は布団の上に手を添えて、軽く揺すってみる。
布団越しに彼の身体に触れた瞬間、不意に昨日の記憶が――逞しい成人男性の体躯に成長した彼に抱き留められた記憶が浮かび上がった。
温かく硬い胸板と腕に抱き留められた感触までもが肌の上に蘇り、頬に帯びた熱が際限なく高まっていく。
智子「はぁ……」
形の良い桃色の唇から、熱が篭った吐息が零れ落ちる。
願わくは、またあの頃のように彼の胸元に顔を埋めて眠りに就きたい。
彼の腕に包まれ、その温もりを感じながら、まどろんでいたい。
いいや、出来るものなら彼に覆い被さる布団になりたい。
包まれるだけでなく、今度は自分が彼を包みこんで、癒してあげたい。
こんな布切れよりも、自分の身体のほうが彼を温められるはずだ。
いっそのこと布団を引き剥がして抱きついてみようかと、思考が徐々に危険な領域に足を踏み入れた矢先のこと。
「……ん」
智子「……ぁ」
布が擦れる音を立てて、部屋の主が寝返りを打った。
露となったのは、久方ぶりに目にする想い人の寝顔だった。
もう二度と、目にすることが出来ないと思っていた愛しい男の寝顔だった。
その安らかな寝顔から、改めて彼が生きている現実を実感した智子は、目元に込み上げてきた雫を拭い顔を近づける。
これくらい近くから見つめてもいいわよねと、返す相手のいない言葉を零しながら。
智子「……おれ」
温もりが感じられる距離まで、顔を近づける。すぐ目の前まで、それこそ唇同士が触れ合う寸前の距離にまで。
寝息が頬をくすぐる。その温もりが智子の全身を、芯から温めていく。
このまま時間が止まれば、いつまでも彼の傍にいられるのに。
叶わぬ願いを抱く智子の目の前で、寝顔を晒す男の瞼が不意に強張った。
ベッドの上で横たわる彼の長躯が、布団の山が、微かに震えた。
智子「……あら?」
その寝顔から離れた智子の目に映ったものは、布団からはみ出した彼の下半身だった。
おそらくは寝返りを打った際に、掛け布団を蹴飛ばしてしまったのだろう。
智子「(身体を壊さないうちに、戻したほうがいいわよね)」
視界の隅で何かが蠢いたのは、皺になった掛け布団を掴んだときのことだ。
形の良い眉を顰め、視線を移す。“それ”を捉えた瞬間、智子の全身が硬直した。
視線の先に佇む彼の下半身――その、ある一点。
ちょうど股座に当たる部分が、異様なまでに盛り上がっているではないか。
あたかもテントを張るが如く、棒状の物体が布地を押し上げる光景を前に、智子の白い喉が音を立てた。
智子「あ、わ……わ」
隆起の正体が想い人の盛り上がった男性器だと理解した瞬間、智子は自身の頬がそれまでとは比にならぬほどの灼熱を帯びる様を感じた。
智子「(あ、あああああ、あれよね!? 朝に起こる、生理現象のようなものよね!?)」
初めて目にする、朝勃ちという男性特有の生理現象。
恋慕の念を寄せる相手の逸物は、布地の下からでも形状が分かるほどに雄々しく反り立っていた。
再び智子の喉が、静かに音を立てた。
自然と呼吸が、荒いものへと変わっていく。
視界から外そうにも、目線を逸らすことが出来ない。
それどころか、手が自然と、彼のモノへと伸び始める。
智子「はぁっ……はぁっ……はーっ」
頭のなかに靄のようなものが広がり、それが冷静さと理性を覆い尽くす。
智子の脳裏を駆け巡り、支配していたのは女としての衝動。
妄想のなかで何度も自身の純潔を散らした彼の雄。それが、いま目の前にある。
――どれくらい硬いのだろう。
――どれくらい熱いのだろう。
――触りたい。
――見たい。
――欲しい。
肥大する衝動に比例して、激しさを増す心臓の高鳴り。
一秒が永遠にも感じられるなか、遂に智子の白い指先が、それへと触れた。
指の先端に伝わる熱と硬さを感じた瞬間、智子は頭を槌で殴られたかのように、脳が揺れる感覚を抱いた。
布越しだというのに、こんなにも熱いのか。こんなにも硬いものなのか。
もはやこれ以上、正常な思考を働かせることができなかった。
そのまま残る細指を、牡竿に這わせようと動かす寸前、我に返り瞼を閉じて彼の逸物を下半身ごと布団で覆い隠す。
智子「わ、わたし……何てことを……」
薄桜色の唇から漏れ出す声音に満ちていたのは、怯えの感情。
自身に潜む雌が、自分でも気がつかぬ内に膨れ上がっていた。
もしも理性が戻ることなく、あのまま指を這わせていたらどうなるのだろう。
もしもそれで彼が目を覚ましたら、どうなっていただろう。
きっと、寝込みを襲った女と軽蔑されるに違いない。
また会えただけでも、充分に幸せだったというのに。
いつの間にか、次の欲求が――彼だけの女(もの)になりたいという願いが生まれていることに。
その欲求すら抑え込めない、自身の弱さに智子は唇を噛んだ。
智子「ごめんなさい……」
自分だけが独り、抜け駆けをしていることをかつての仲間たちに向かって。
そして、勝手に部屋に入り込んだことを目の前で寝息を立てる彼に向かって。
小さく謝罪の言葉を漏らした智子は、自身の黒髪をかき上げて、静かに男の寝顔に顔を寄せる。
せめて彼が目を覚ますまで、間近で見つめていたい。
あわや再び唇同士が触れ合う寸前の距離まで近づいた瞬間、想い人が唐突に瞼を開けた。
普段なら目を覚ましてから、思考が働くまでに数分の時間を要する。
けれども、今回ばかりは状況が異なっていた。
瞼を開けた先の視界を占めるのは、見慣れた天井ではなく、息が止まるほどの美貌。
西欧人のそれとはまた異なる柔肌は、雪のように白く。
目にしただけで手触りの良さを期待させる黒の長髪は、漆を思わせるほどの艶を帯びている。
黒真珠を覆い隠す瞼から伸びる睫は、どこか羞恥に耐えるかのように、小刻みに震えていた。
そして、あと少しで自身のそれに触れる距離まで肉薄していたのは、形良い桜色の唇だった。
自身の視界を独占する美貌の主が、昨日に再会を果たした穴拭智子だと気がついた瞬間、俺は息を呑んだ。
俺「(な、何だ!? なんで智子が俺の部屋に!?)」
何故、智子が自分の部屋に入り込んでいるのだろうか。
何故、智子の唇が自身のそれに近づいているのか。
次々と疑問が脳裏を駆け巡るも、それらは眼前に迫る美貌によって、すぐさま掻き消されてしまう。
静止の声をかけようにも、僅かでも身体を動かせば彼女の唇を奪いかねない。
だというのに、智子になら唇を奪われても構わないと思ってしまっているのは。
彼女の黒髪から発せられる仄かに甘い薫香にばかり意識を向けてしまっているのは、男としての悲しい性なのか。
かといって、このような形で大切な妹分の――智子の初めてを奪うわけにもいくまい。
何とか首だけでも動かして彼女の唇が、自身のそれに触れないよう体勢を変える。
その際に生じた微かな布擦れの音に気がついたのか、智子が瞼を開いた。
お互いの瞳を見つめ合う時間が続き、
智子「え? あ、あ……わ……」
俺「よ、よぉ。おはよう……智子」
再会してから、初めて間近で見る彼女の面差しが次第に赤みを増していった。
段々と黒い瞳には透明な雫が滲み出てきた。
そして、感情の高まりを抑え切れなくなったのか。
言葉にならない叫び声が、室内に響き渡った。
智子「ち、違うのよ!? ここここ、これはぁ! ちょっと貴方の髪の毛に埃がついてたから、取ろうと思ってたたたた、だけなのよ!?」
整った美貌を高潮させ、涙まで浮かべて、機銃掃射もかくやの勢いで言い訳を並べ立てる妹分の姿に俺は口元を綻ばせた。
随分と昔にも、こんな風に似たような言い訳を聞かされたことがあったな――と胸裏で独りごちながら。
どれだけ見目麗しく成長しても、あの頃と変わらぬ智子が目の前にいる。
自分が、自分だけが知っている智子が、そこにいる。
そのことに、愛おしさと懐かしさが混じる感慨を抱いた俺は、自然と彼女の頬に手を添えていた。
智子「あっ……」
頬を触れられ、ほんの一瞬だけ身体を強張らせたものの、すぐさま力を抜いて瞼を閉じる。
その手の温もりに、優しさに身を委ねるかのように。
安らぎに満ちた表情が、智子を彩った。
俺「俺のこと、起こしに来てくれたんだよな?」
智子「……うん」
瞼を閉じたままの智子が小さく頷いてみせると俺は静かに破顔した。
手の平を満たす倫子の頬の柔らかさを感じながら。
俺「そっかそっか。ありがとうな、智子」
智子「その、迷惑……だった?」
俺「まさか。俺が寒さに弱いの知っているだろう?」
だから気にするなと笑い飛ばすも、彼女に笑みが戻ることはなかった。
おそらく昨晩、寝床を共にしたいという願いを拒否されたことが智子のなかで尾を引いているのだろう。
俺としては大人の女へと成長した妹分を襲わぬための防衛手段だったのだが、自身を兄貴分として慕う智子は、甘えたかったのかもしれない。
再会するまで智子のなかで自分は死んだ人間だったのだ。
そんな自分とまた巡り会えたことを考えると、些か大人気ない対応だったか。
俺「(もう少し構ってやれば良かったか)」
放っておけば朝食まで昨夜のことを引き摺るかもしれない。
俺は考えを巡らせる。
時間にして一分にも満たない短い間黙考を続け、素直に思いの丈を吐露することを決めた。
俺「あー……智子?」
智子「……なに?」
俺「その、だな。別にお前と一緒にいるのが、嫌なわけじゃないんだぞ? 俺だって……お前にまた会えて嬉しいんだ」
段々と声音が尻すぼみになっていく。
それはきっと、これから紡ぐ台詞が自分でも気障なものだと自覚しているからだろう。
次第に頬が、耳が熱くなっていく様を実感しながら、俺は尚も言葉を続ける。
俺「……ただ、な。お前が綺麗に成長し過ぎて……傍にいると何というか、凄く落ち着かないだけなんだよ」
告げられた台詞に智子は目を丸くした。
小さく口を開け放ち、こちらを見つめる美貌。
思わず心臓が跳ね上がる感覚を抱くも、俺はすぐさま口を開く。
俺「黒髪も……その、陸軍にいた頃と違って艶があるし」
智子「え……あ。そう、かしら?」
言われて、肩から流れる自身の黒髪に手を遣る智子。
形の良い唇は心なしか綻んでみえた。
俺「肌も、あの頃と同じように……いや。あの頃以上にきめ細かくて」
智子「……あ、あぅ」
俺「体つきだって……その、なんだ。ちゃんと大人のそれになってるからさ」
一瞬だけ、彼女の陸軍服を下から押し上げる二つの膨らみに視線を注ぎ、すぐさま逸らす。
智子「そ、それって!!」
弾け飛んだ言葉に続いて智子が身を乗り出した。
俺「う、うん?」
智子「私のことをその、女として……見ているって、ことで……いい、のよね?」
自身のシャツを両の手の指でぎゅっと握り締めながら、真っ直ぐに自分を見つめてくる智子の言葉に俺は首肯した。
途端に智子の頬に朱色が戻る。形の良い唇が更に綻んでいく。
俺「……ぁ」
思わず、声が漏れた。
自分でも、それが声なのだと遅れて気がつくほどの小さな声だった。
智子「そう……なの。っふふ……そう、なんだ」
花が咲いたような笑み――という言葉は、きっと今の智子が浮かべる笑顔を差しているのだろう。
嬉しさと、喜びに満ち溢れた微笑みを前に俺は思う。
この笑顔を、いつまでも見つめていたい。
いつまでも、愛でていたい。
智子「朝からごめんなさい。先に行って待っているから……早く、来てね?」
想い人が自身の笑みに魅了されていることに気づかぬまま、智子は寝台から下りる。
そうするや否や身を翻し、小走りで部屋を出て行った。
俺「智子……」
部屋を出て行く智子の後姿に、返事すら返せないでいた俺は重々しい音によってようやく我に返った。
頬が熱い。胸の辺りから響く鼓動が、やけに煩く感じる。
俺は口を開いて肺一杯に溜め込んだ空気を、大きく吐き出した。
気恥ずかしさを含めたあらゆる感情と一緒に。
俺「あぁ……まずいな」
寝癖のついた髪に遣った手を乱暴に動かす。
俺「ありゃ反則だろう」
彼女の笑みに、俺は心奪われていた。
微笑み一つで奪われるとは随分と安い心だなと自嘲しつつ、今後について思案に耽る。
妹分である智子を女として意識してしまっている自分は、どう彼女と関わっていけばいいのだろうか。
彼女が慕う兄貴分として振舞えるだろうか。
次に彼女と顔を合わせるとき、この気持ちを封じ込めておけるだろうか。
どちらも、やり遂げる自信がなかった。
更には幹部会も近い内に開かれる。
腹に一物抱えた魑魅魍魎どもに足元を掬われぬよう振舞わなければならない。
表と裏の二つとも多難に満ちている現状に、俺は再び深く溜息を吐いた。
「はっはっ……はぁっ、はっ」
白い息を吐き出しながら智子は基地内の廊下を走る。
その足取りは、彼の部屋へ向かっていた時のそれとは比にならないほど軽やかなものだった。
伝えられた言葉が、自身の息遣いとともに脳裏に蘇る。
それは、心の底から欲しかった言葉だった。
妹としてじゃない。いまの彼は、自分を一人の女として意識している。
ならば、彼が自分のことしか考えられないようにしてみせよう!
そのためにも今日一日、ずっと彼の傍にいよう!
―――
――
―
そのような期待に胸を膨らませていた数時間前の自分を叱咤したい衝動を抑え、智子は物陰に半身を潜めていた。
恨めしげな光を宿す瞳に映るのは、想い人が他の女との談笑を楽しんでいる光景だった。
話によると彼は戦闘時以外は基地清掃の仕事を与えられ、平時は掃除用具を片手に基地内を徘徊しているらしい。
一部の基地職員の口からは彼がモップ片手に天井や基地外壁を歩いていたという信じ難い情報が飛び込んできたが、おそらく何かと見間違えたのだろう。
彼の姿が見えなくなっていることに気がついたのは朝食後だった。
同じ場で食事を摂っていた502の魔女たちですら彼が退室したことに気づかなかったのだから、驚きである。
慌てて基地内を探し回ること数十分。
ようやく彼の姿を発見できたものの、その隣には先客がいた。
そして彼は、その先客と楽しげに談笑していた。
先客である少女もまた、彼との語らいを楽しんでいるのか弾けんばかりの笑みを口元に湛えていた。
智子「(何よあの子……あんなに大きいなんて)」
反則じゃないと後に続く言葉を胸裏に零し、目を細める智子。
視線の先で自身の想い人と話す少女。
きめ細やかな白い肌。短めに切られた金の髪。
そして、身に纏うニット生地の軍服の下から押し上げて自己主張している連山。
その二つの山は少女の微かな動きにも敏感に反応し、小さく揺れたわんでいた。
余りの迫力に、思わず半歩ほど後ろに退いた智子は、反射的に視線を自分の胸元へと落とす。
視界に入るは陸軍服を下から押し上げる自身の双丘。決して小さいほうではない。
むしろ今の自分ならば当時同じ部隊に所属していた武子たちとも、良い勝負が出来るのではと確信できるほどには成長している。
しかし、
智子「(俺も、あれくらい……大きいほうが良いのかしら……)」
少女――ニッカ・エドワーディン・カタヤイネンの胸は余りにも、強大過ぎた。
ただ膨れ上がっているのではない。
むしろ、大きいだけならば自分にも勝ち目はあっただろう。
だが少女のそれは大きさと形が完璧に両立している。
天は二物を与えぬという言葉は嘘だったのか。
どうみても完璧なものが二つもあるじゃないと口のなかで叫びつつ観察を続ける。
ラル「二人とも寒いなかご苦労」
ニパ「あっ、隊長」
智子「……なッ!?」
どうにか怪しまれぬよう自然なタイミングで会話に入り込めないかと画策していると、不意にラルが加わった。
昨日、初めて対面した際は意識すらしなかったが、彼女の連山もまたニパに負けずとも劣らぬ姿を軍服の下から見せつけていた。
しかも身に着けているコルセットのせいで余計にサイズが強調されているような気がしてならない。
現に俺を見れば不躾な視線を送らぬよう目線を泳がせているではないか。
それは、自分よりも若い彼女らを女として意識している何よりの証であった。
智子「ぐぬぬ」
悔しさの余り声が漏れる。
朝はあれほど自分の魅力を伝えてくれたのに。
あれほど自分の魅力に戸惑っていると言ってくれたのに。
それなら、それなら……
智子「もう少し……私だけ見てくれても、いいじゃない。ばかっ」
「やぁ、穴拭中尉」
智子「んひゃぁ!?」
切なげな想いが冷えた風によって掻き消された矢先のこと。
背後から声をかけられ、思わず裏返った悲鳴を上げてしまう。
情けない姿を見られたことに対する羞恥心に頬を微かに紅潮させながら振り向く。
目の前にはペテルブルグ基地で最初に出会ったウィッチの姿があった。
智子「い、いきなり何よ。悪いけど夜のお誘いならお断りよっ」
出会って早々、晩酌を共にしないかと誘われたことを思い出し、先手を打つ。
どうもこの人間は自分の後輩と同じ類に属している気がしてならない。
うっかり誘いに乗ってしまった日には、どうなることやら。
クルピンスキー「えー、まだ何も言っていないじゃないか」
ほら、残念そうに口を尖らせる。
智子「それで何の用なの? まさか本当に懲りずに晩酌の誘いに来たわけじゃないでしょうね?」
クルピンスキー「いやなに散歩をしていたら、綺麗な後姿を見つけたものでね」
口元に微笑を浮かべるなり、クルピンスキーは片膝をついて智子の指を手に取った。
智子「ちょ、ちょっと……」
クルピンスキー「麗しい巴御前殿。どうか、その優美な黒髪を……この伯爵めに触れさせてはいただけませんか?」
姫君に愛を誓う王子、あるいは守護騎士を思わせるほどに真っ直ぐで、熱っぽい声色で想いを紡ぐ。
一瞬でここまで距離を縮めてくるとは。
自身の後輩よりも手練であると認識した智子はそっと指を払った。
智子「じょ、冗談はやめてちょうだい」
クルピンスキー「連れないなぁ。ところでさ、穴拭中尉」
智子「だから晩酌には付き合わないって――」
クルピンスキー「彼のこと、好きなの?」
言いかけた言葉は、それまでの芝居がかったものから一転して親しみやすい陽気さを帯びた声によって遮られた。
智子「は……はぁぁ!? いきなり何を言い出すのよ!?」
クルピンスキー「あれ、違うのかい?」
智子「違うわけがないでしょう! ……っ!?」
反射的に彼女の言葉を否定してしまった智子は一瞬でその美貌を赤らめた。
搦め手に嵌り、彼に抱く自身の恋慕を肯定してしまったのだ。
立ち上がったクルピンスキーは満足げな笑顔を浮かべていた。
クルピンスキー「はははっ、扶桑海の巴御前は素直だねぇ」
智子「ううううう、うるさいっ!!」
頬を紅潮させ、声を荒げる智子を前にクルピンスキーはその笑みを濃いものへと変えていった。
彼を見つめる智子の瞳は、大人びた見た目とは裏腹に年端もいかぬ少女のように純粋で美しかった。
想い人を見つめる智子の横顔を目にした瞬間、自分は魅了されていた。
熱を秘める黒の瞳、寒さによるものなのか心の昂ぶりからなのか桜色に染まる頬。
乾燥させぬよう舌で湿らされた形の良い唇。
それら全てに心を奪われていたクルピンスキーは知られぬよう、あえて背後に回って声をかけたのだ。
クルピンスキー「それで、答えはYESってことでいいんだね?」
暫く視線を泳がせていた智子であったが、観念したのか息を深く吐いた。
そして、照れたようにはにかみながら想いを編み込んで、口を開く。
智子「えぇ、好きよ……あの人のことが。どうしようもないくらい、愛しいの」
それは、幼少の頃から抱いていた恋慕の念。
それは、成長するに連れて増していった一途な想い。
彼の周囲にどれだけの女が現れても。自分にどれだけの男が言い寄っても。
変わることがない、変わるはずのない感情だった。
智子「だから、彼が生きていて……また会えたことがね。どうしようもないくらい嬉しいの」
クルピンスキー「……あぁ」
凍えた風に黒髪を弄ばれながら、微笑む智子を前にクルピンスキーは静かに嘆息した。
花が咲いたような笑みとは、きっと目の前にいる彼女が浮かべるそれを差す言葉なのだろうと確信する。
寒空の下にいるというのに、見ていて心が温まって、和らいでいく微笑みに知らずと自身の口元まで綻ばせてしまった。
それと同時に、思い知った。
これは口説けない。
これは堕とせない。
仮に男女問わず自分以外の人間が彼女に言い寄ろうと、穴拭智子にとっての特別な人間は、彼一人なのだ。
それは今までも、今も、そしてこれからも変ることはない。
智子とは昨日に出会ったばかりで、彼女の人となりもクルピンスキーはまだ殆ど知らなかった。
にも拘わらず、そう確信させるほどに智子の瞳に宿る光は眩くて、美しいのだ。
クルピンスキー「負けたよ……まったく、貴女みたいな人を放って置くなんて。俺も罪な男だよ。辛くなったら、いつでも僕の胸に飛び込んでいいよ?」
智子「お生憎様、彼はそんな酷い人じゃないわ」
クルピンスキー「酷い人じゃない、か。君や、僕たちにとっては……ね」
口から漏れた言葉は巴御前の耳に届かぬよう意図して小さく呟かれたものだった。
航空歩兵でありながら不穏分子を斬って回る彼。
もしも彼女がその事実を知ったら、どうなるのだろうか。
もしも愛した男の裏の顔を見てしまったら、どうなるのだろうか。
自分が見蕩れた笑みは消えてしまうのだろうか。
智子「ねぇ? 聞かせて欲しいの。あの人が此処に来てからどんな風に過ごして来たのか」
クルピンスキー「もちろんさ。その代わり、トモコって呼んでもいいかい?」
一縷の不安を胸に抱くクルピンスキーであったが、自身に詰め寄る智子を前に胸裏をざわめかせる胸騒ぎを押し込めた。
ネウロイ襲撃の警報が鳴り響いたのは、談笑を始めてから五分と経たないときのことだった。
―――
――
―
外の景色から風が吹く音が聞こえる。
それに伴い、全身を包む空気が一層その温度を下げていくのを感じ取れた。
格納庫――そこは魔女たちが有する、機械仕掛けの箒とも称せる戦闘脚が保管、管理されている場所。
彼女らが空を、大地を縦横無尽に駆け巡るために必要な箒が日夜整備されている工房。
そこに智子は手近にあった鉄製のコンテナの上に腰を降ろしていた。
工房を彩る戦闘脚は殆どが先に鳴り響いた警報後すぐに格納庫から目の前の滑走路へと飛び出し、大空へと飛び立って行った。
その中には自身が長年想いを寄せる男のものも含まれていた。
残っているものがあるとすれば、司令でもあるグンドュラ・ラルのそれだけだ。
息を吐き、瞼を閉じて、智子は風の音に意識を向ける。
そのなかに飛び立って行った戦闘脚の音が混ざるのを聞き漏らさないために。
そうしている内に出撃前の出来事が脳裏に蘇った。
――
「駄目よ! 危険過ぎるわ!!」
襲撃に対する編成を伝えられたとき、智子は真っ先に後衛を任された彼に喰ってかかった。
既に俺は成人を迎えている。
飛行はもちろん、固有魔法である衝撃波の使用も可能だが、航空歩兵として致命的な能力が欠落していた。
敵の攻撃から身を守る障壁だ。
障壁を展開する能力を失えば、ネウロイから放たれる熱線を防ぐ術はない。
連中に置き換えれば常時、心臓であるコアを剥き出しにしているようなものである。
未来予知の固有魔法持ちならば障壁など無用の長物に過ぎないのだろう。
現にスオムスから501に派遣されたウィッチはそういった固有魔法を持っていると智子も耳にしていた。
「確かに障壁は張れなくなっちまったな」
智子の剣幕とは対象に俺は困ったような笑顔で返すだけだった。
「それなら――」
「だけど、俺の力の根源は残ってる。俺の衝撃波は大勢の敵を消し飛ばすためにあって、それはまだ使える。まだ、まだ戦えるよ」
詰め寄る智子の頭に彼はそっと手を乗せた。
昔から駄々を捏ねると決まって彼は頭を撫でて自分を宥めてきた。
けれど、これは駄々なんかじゃない。
障壁を失ったのは事実で、身を守る術を持たない者が戦場に出たところで逆に危険なだけではないか。
「残り少ないからといって、燻らせるなんて勿体無いだろう? 全部使い切るわけじゃない。それに俺には、仲間がいるからな」
そう反論しようと開きかけた口は、強い意思の光を弾く瞳と言葉によって閉じてしまった。
「大丈夫ですよ。穴拭中尉」
先ほどまで彼を独占していたニパが笑みを作る。彼女ら502の実力を見くびっているわけではない。
ただ、何が起こるか分からないのが戦場ではないか。
彼のことだ。もしも彼女らに危険が迫ったとき、きっと身を呈して守るだろう。
あの日、自分を庇って撃墜されたときのように。
「ニパ君の言うとおりだよ、トモコ。大丈夫、必ず僕らが連れて帰るさ」
「というわけだ。頼もしい仲間がいるんだから大丈夫さ」
――わかってよ。
――貴方、もう限界なのよ? いまは飛べて、衝撃波も撃てるけど……それだっていつまで続くかわからないのよ?
「じゃ、行ってくる。ちゃんと全員無事に帰ってくるからな」
「ま、待って! あ、あぁ、行かないで……いかないでよ……」
静止の声は戦闘脚の駆動音によって、掻き消された。
滑走路から飛び立つ魔女たちに紛れた彼の姿が、遠ざかっていく。
もしも、あと数年早く彼を見つけていれば、自分もあの輪のなかに加わることができたのだろうか。
彼が502の面々を眺めたときに見せた信頼の眼差しを、自分も受けることができたのだろうか。
彼と一緒に、あの空へ飛び立つことができたのだろうか。
胸のなかには、もう痛みしか残っていなかった。
かつて扶桑海の巴御前と呼ばれ、銀幕の主役を飾った女は、ただ独り格納庫に取り残された。
徐々に空へと溶け込んでいく想い人の背を、智子は見送ることしかできなかった。
――
「……ッ」
惨めな思いを振り払うかのように頭を振って瞼を開く。
まるで彼が、もう手の届かないところに行ってしまったみたいだ。
ほんの数年前までは、自分もその輪に加わっていたというのに。
居場所を取られた子どものような、寂寥感を胸の内に秘める智子は不意に背後へと振り返った。
ラル「私を恨むか」
智子「……恨んだって仕方ないじゃない。そんなこと、彼が望まないわ」
足音を伴って声をかけてきたラルに返す。
彼がガランド少将預かりの戦力だという説明を受けた以上、口を挟むつもりはない。
が、それは軍人としての意見であって彼に恋慕の情を抱く女としては今回の出撃は到底受け入れられるものではなかった。
ラル「あいつの力は本物だ」
――そんなこと貴女に言われなくたって、子どもの頃からずっと知っているわよ。
喉下まで出掛かった言葉を無理に飲み込んだ。
彼女に苛立ちをぶつけても仕方がない。
ラル「大型どころかネウロイの部隊すら一撃で殲滅できる破壊力と範囲。もはや戦略兵器の域だ」
智子「そんな、に?」
告げられた言葉に智子は目を丸くした。
かつて扶桑皇国陸軍として同じ部隊に所属していた際は中型が精々だったはず。
それがこの数年で、ここまで成長するものなのか。
単機で軍勢相手に渡り合うなど、質と量の隷属関係を完全に破綻させているではないか。
そう胸裏で零す智子は知らぬ間に自身の背が粟立っていることに気がついた。
それは決して寒さによるものではないのだろうと思った。
出撃前に自身の頭を優しく撫でていたあの掌から、一体どれだけ強力なエネルギーが放たれるというのか。
ラル「一対多ですらあいつにとっては何ら障害ではないだろう」
陽気な人となりとは反対に、その固有魔法が司る属性は破壊を齎す暴力。
力で以て全てを捻じ伏せる暴君の力だ。
その暴力は間違いなく戦略的価値があるし、いざとなったとき部隊の切札として十分に機能する。
だが、とラルは一つの疑問を抱いた。
どこまでが彼の全力なのだろうか。彼の力はどこまでのものなのだろう。
部隊はおろか大型すら容易く呑み込む彼の異能。
それは、人類を脅かし遥か天空に座する異形の牙城をも滅相し得るほどのものなのか。
疑問が尽きることはなかった。
―――
――
―
戦闘脚の駆動音を耳にした瞬間、格納庫を飛び出した。
速度と高度を徐々に下げ、滑走路へと降り立つ502の魔女たち。
少女たちの無事な姿を捉え安堵しつつ、彼女らとともに出撃した想い人の姿を探す。
しかし、帰還した魔女たちのなかに、男の姿は何処にも見当たらない。
段々と智子の全身を、悪寒が蝕みはじめる。
それは単に外気によるものなのか、それとも忌むべき
過去の記憶が蘇ったことによるものか。
もしかしたら――が胸裏を過ぎる。
智子「(ちゃんと帰ってきてよ……。帰ってくるって、自分で言ったじゃない……!!)」
息苦しさを感じ始めたなか、視界の片隅に小さな黒い点を見つけた智子は自然と駆け出していた。
背後からロスマンが放つ静止の声を気にも留めずに。
駆け寄る自分の姿を見つけた男が、口元に笑みを落とす様を見つけ。
智子は両手を広げて彼の胸元へと飛び込んだ。
智子「俺ぇ!」
俺「おっとと! 随分と熱烈なお出迎えなことで……どうした?」
自分の胸元に飛び込むなり、両の手を背中へ回す智子の抱擁に驚きつつも、彼女の頭と背に手を添えてあやすように撫でる。
押し付けられる母性の柔らかさと温もりに多幸感を抱きながら。
智子「無事よね!? どこも、怪我とかしてないわよね!?」
俺「あぁ、大丈夫だよ。俺もみんなも」
智子「よかっ……た。よかったぁ……」
それまで自身の胸元に埋まっていた智子の顔がその姿を覗かせた。
瞬間、俺は息を呑んだ。心臓が一際強く脈動する様を確かに感じた。
黒真珠を潤ませながら、安心し切ったように頬を綻ばせる智子の微笑みに、心奪われていた。
自然と指先が、手が彼女の端整な頬へと移る。
そんな自分の手の平が心地よいのか智子は一度短く“んっ”と呟くなり、身を委ねた。
瞼を閉じた際に浮かび上がった涙が零れ、俺の指が静かに濡れた。
俺「ごめんよ……心配かけさせたな」
智子「いいのっ……みんなが、あなたが無事なら……いいのっ」
端正な美貌を涙で濡らしながら見せる笑みに、俺は心臓を潰されたような息苦しさを覚えた。
彼女から視線を注がれると気恥ずかしさにも似たむず痒さが背筋を走るのに、目を背けることが出来ない。
気恥ずかしい感情を抱きながらも、もっと彼女の笑みを見つめていたいと思ってしまっているのはきっと、
俺「あぁ……ただいま、智子」
自分は、穴拭智子に完全に惹かれてしまっているからなのだろう。
続く
JUNGLEの秘密基地って、アニメだとあの地下空間にあるセットみたいなもんなのに
SIDE:GREENだとちゃんと廊下とかの描写がされてるんですね。
最終更新:2016年12月04日 21:00