巻一百六十五 列伝第九十

唐書巻一百六十五

列伝第九十

鄭余慶 澣 処誨 従讜 鄭珣瑜 覃 裔綽 朗 高郢 定 鄭絪 顥 権徳輿 璩 崔群


  鄭余慶は、字は居業で、鄭州滎陽県の人であり、三代にわたって全員が顕官となった。鄭余慶は若い頃から文章をよくし、進士に及第した。厳震が山南西道節度使となると、奏上して幕府に置いた。貞元年間(785-805)初頭、朝廷に戻り、庫部郎中に抜擢され、翰林学士となり、工部侍郎知吏部選となった。僧侶の法湊が罪科によって民によって朝廷に訴えられ、御史中丞の宇文邈・刑部侍郎の張彧・大理卿の鄭雲逵に詔して三司とし、功徳判官の諸葛述とともに取り調べさせた。諸葛述は、もとは御史であったから、鄭余慶は諸葛述が卑賎の身でありながら、三司とともに職務にあたることはよくないと弾劾し、世間はその発言に同意した。

  貞元十四年(798)、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。奏上するたびに、多くは経書の義に付会した。普段から度支使の于䪹と親しく、概ね陳述することがあれば、必ず賛同したが、于䪹は事件によって罪とされて左遷された。またある年飢饉となり、朝廷は禁衛十軍に振給させることを朝議したが、中書省の史のために情報が漏洩した。二つの罪が積み重なったから、郴州司馬に貶された。

  順宗は尚書左丞として召還し、憲宗が即位すると、そこで官を復して同中書門下平章事(宰相)を拝命した。当時、主書の滑渙が宦官の劉光琦とともに互いに助け合いながら悪事をしており、宰相が議して劉光琦の意向と異なることがあれば、滑渙が必ず派遣され、これによって四方の財貨が贈られ、弟の滑泳の官は刺史となった。杜佑鄭絪は宰相であったが、その場しのぎで、杜佑は常に同僚のように行動して名声を落とした。鄭余慶が議すると、滑渙は傲然と諸宰相の前で指さしたから、鄭余慶は叱って去らせた。しばらくもしないうちに、宰相を罷免されて太子賓客となった。後に滑渙が収賄で失脚すると、帝は次第に叱って去らせていた事を聞いて、これをよしとした。国子祭酒に改められ、吏部尚書に遷った。

  官医の崔環なる者が、淮南小将から黄州司馬に任命されたが、鄭余慶は執奏「諸道散将で功なく五品の正員を受けるのは、僥幸の道を開くことになり、よくありません」と奏上したから、権力者は喜ばず、太子少傅、兼判太常卿事に改められた。朱泚の乱から、都から天子がたびたび離れたから、太常寺では楽の練習に鼓を用いるのを禁止していた。鄭余慶は当時長らく平和であったから、旧制に戻すよう奏上した。京師から出されて山南西道節度使となった。京師に入って太子少師を拝命し、老年によって辞退を願ったが、許されなかった。

  当時しばしば恩赦や叙任があり、官位は多くなっていた。また帝が親郊すると、祭祀に陪従する者に三品・五品を授け、数えられないほどであった。節度使・都督符・諸蕃の役人が、軍功によって朱紫の衣とそれに相当する官位を賜う者は十人のうち八人に及び、近臣が任官された時の謝日や、郎官が使者として派遣される際に、多くの者が賜与された。朝会ごとに、朱紫の者が朝廷に満ち溢れ、緑を着る者は少なかった。官位・服制は非常に乱れ、このような状態だったから人々は官位・服制を貴いものだとは思わず、帝もまた嫌ったから、始めて鄭余慶に詔して改定案を列挙・奏上させた。尚書左僕射に遷った。僕射はその頃は任命される者がおらず、鄭余慶が宿老であるから任命されたが、世間の論調はゆったりとして帰服した。帝は法典が乱れているのを心配し、鄭余慶は昔の事に精通しているからと言い、そこで詔して詳定使となり、参酌・訂正させた。鄭余慶は韓愈李程を引き立てて詳定副使とし、崔郾・陳佩・楊嗣復庾敬休を判官とし、概ね礼典の増減を、詳衷と号したのである。

  にわかに鳳翔尹を拝命し、鳳翔節度使となった。再び太子少師となり、滎陽郡公に封ぜられ、判国子祭酒事を兼任した。建言して「戦争勃発してから、学校は廃止され、諸生は離散しました。今、天下は泰平です。臣は願わくば、文吏の月俸を百分の一をとって、学校修復の資財にあてたいと思っています」と述べ、詔して裁可された。穆宗が即位すると、検校司徒を加えられた。卒した時、年七十五歳であった。太保を追贈され、諡を貞という。帝は鄭余慶の家が貧しかったから、特に一月分の俸給を給付して香典とした。

  鄭余慶は若い頃から勉学に研鑽し、行いは清らかであった。四朝に仕え、俸禄はすべて親しい者に施し、ある時は人の危機を助けて、自らは貧困に甘んじた。官位が昇進しても開けっ広げであり、常に人に「禄が親友に及ばないのに下僕や妾が裕福なのは、私は卑しいと思う」と語った。大抵、内外の者が婚姻するとき、その礼献はすべて自ら見ていた。弟子が謁見を願い出ると、必ず引見し、経義をよくわかるように繰り返し教えさとし、儒学を成就させた。至徳年間(756-758)以後、方鎮に任命された者は、必ず宦官を派遣して幢節を持たせて邸宅に赴かせ、宦官がやって来ると多くの金帛を贈り、それによって天子に媚び、ただ贈り物が厚くないのを恐れ、そのため一使者は数百万緡を納めるに至ったのである。憲宗は鄭余慶に命じるごとに、必ず使者を戒めて「この家は貧しいから、むやみに求め取ってはならんぞ」と言った。議する者は自分の立場を考えず名誉を求めるものであるとしたが、鄭余慶はそうする値打ちがないとした。奏上・議論などの際には古語を用い、「給付を県官に仰ぐ」・「馬万蹄」のようなものは、役人には全く何を言っているのかわからず、人々はその不適切さを避難した。従父の鄭絪とともに家は昭国坊にあり、鄭絪の邸宅はその南にあり、鄭余慶の邸宅は北にあったから、世間では「南鄭相」・「北鄭相」と言ったという。子に鄭澣がいる。


  鄭澣は、本名は鄭涵で、文宗の旧名を避けて改名した。進士に及第し、累進して右補闕に遷った。直諌して遠慮がなかったから、憲宗は鄭余慶に向かって「鄭涵は、卿の令息であるが、朕の直臣でもある。さらにめでたいことだな」と言った。起居舎人・考功員外郎に遷った。当時、刺史はあるいは吏下に迫って功愛を記録し、鄭涵は観察使がその詐称を隠蔽していいるのを責めることを願った。鄭余慶が僕射となると、避けるために国子博士・史館修撰に任命された。

  文宗が即位すると、翰林に入って侍講学士となった。帝は経史を蒐集させて要録とし、その博学かつ精密であることを愛され、試しに諸条をあげて質問を投げかけると、質問にしたがって直ちに返答し、答えはとどまることなかったから、そこで金紫服を賜った。尚書左丞に累進し、京師から出されて山南西道節度使となった。それより以前、鄭余慶は興元府にあって学校をつくり、鄭澣は継いで完成させ、生徒を教え、風化は大いに行われた。戸部尚書に任命されて召喚されたが、まだ就任する前に卒した。年六十四歳。尚書右僕射を追贈され、諡を宣という。

  四子がおり、鄭処誨鄭従讜が最も名を知られた。


  鄭処誨は、字は廷美で、文章に抜きんでて秀でていた。仕えて刑部侍郎・浙東観察使・宣武節度使となって卒した。これより以前、李徳裕が『次柳氏旧聞』を著したたが、鄭処誨は詳しくないと言って、さらに『明皇雑録』を撰述し、そのため当時盛んに伝えられた。


  鄭従讜は、字は正求である。進士に及第し、校書郎に補任され、左補闕に遷った。令狐綯魏扶は皆父鄭澣の門下生で、そのためしばしば引き立てられて昇進し、中書舎人に遷った。咸通年間(860-874)、吏部侍郎となり、官吏の選抜任用は厳正であった。京師から出されて河東節度使となり、宣武軍節度使に遷り、その善政は最も評判がよかった。嶺南東道節度使に改められた。これより以前、林邑蛮が侵入し、天下の兵を召集して援軍を派遣しようとしたが、たまたま龐勛の乱がおき、また援軍が派遣されなかったが、北の兵は寡弱であった。鄭従讜は土豪を募り、その酋を右職に任じ、結束させて互いに防御させたから、交州・広州は安定した。

  僖宗が即位すると、召喚されて刑部尚書となった。しばらくして、同中書門下平章事(宰相)に抜擢され、門下侍郎に昇進した。沙陀都督の李国昌が辺境にて多くの災難を引き起こし、侵入して振武・雲朔等の州によって、南は太谷を攻略した。河東節度使の康伝圭は大将の伊釗・張彦球・蘇弘軫を派遣して兵を率いて防御したが、戦いはしばしば負け、康伝圭は蘇弘軫を斬って全軍に布告した。張彦球は部族を率いて背き、康伝圭を攻めて殺し、府庫を掠奪して乱をおこした。朝廷は憂いとし、帝は大臣に職務権限を与え、そこで鄭従讜を検校司徒とし、宰相の秩によって再び河東節度使、兼行営招討使となり、詔して自ら補佐を選ばせた。鄭従讜はそこで上表して長安県令の王調を自身の副官とし、兵部員外郎の劉崇亀・司勲員外郎の趙崇を節度観察府判官とし、前進士の劉崇魯を推官とし、左拾遺の李渥を掌書記とし、長安県の尉の崔沢を支使とし、全員一挙に選ばれた。京師の士人は太原を小朝廷に比して、才能ある人物を多く得たと言っていた。当時、軍乱をうけ、掠奪は日に日に激しくなっていった。鄭従讜が職務にあたると、悪者は隠れようとする思いを失い、そこで反賊を逮捕し、その首謀者を誅殺した。張彦球は普段から善人であり、また才能は任命すべきものがあったから、釈放して罪を問わず、軍を付属させ、明らかに他の疑いはなかったから、そのためその死力を得ることになった。彼の凶族の大悪はあえて暴かず、暴いてもまたたちまち従わせたから、士は皆恐れて平伏した。

  たまたま黄巣が京師を占領し、帝は梁・漢に留まり、鄭従讜に詔して配下の軍を北面招討副使の諸葛爽の指揮下として討伐させた。鄭従讜は団士(民兵)五千で、将の論安を派遣して諸葛爽に従わせた。しかし李克用は太原の隙に乗ずるべきだと言って、沙陀の兵を突然その地に入らせ、汾州の東に立て籠もり、賊を討伐すると釈明し、何度も煩わしく催促した。鄭従讜は酒食で軍をねぎらい、李克用は遠くから「自分はまさに南に向かおうとしているが、願わくは貴君に一言申し上げたい」と言うと、鄭従讜は城壁の上に登り、感慨深そうにして、功を立てて天子の厚恩に報いさせようと言うと、李克用は言葉につまり、再拝して去った。しかし密かにその部下を放ってほしいままに掠奪させ、そのため人心は怨みに思った。鄭従讜は論安に追撃させ、将の王蟾・高弁らとともに最後尾を攻撃させ、また振武軍の契苾通が到着して合流し、沙陀と戦い、沙陀は大敗して引き返した。そこで論安らを派遣して北百井鎮に駐屯させたが、論安は勝手に帰還したから、鄭従讜は諸将と合わせて、論安を連れてくるよう命じて、これを鞠場で斬った。中和二年(882)、朝廷は沙陀を赦し、賊を撃たせて自ら贖わせることとなったが、兵はあえて太原を通過せず、嵐州・石州より河に沿って南下し、ただ李克用のみは数百騎を従えて通過し、城下で挨拶し、鄭従讜に名馬・器幣を贈って去った。翌年、賊が平定されると、李克用に詔して鄭従讜に代わって河東節度使を領することとなった。李克用の使者がやって来て「親がいる雁門によってから赴任するから、公はゆっくりと行かれるがよい」と述べたが、鄭従讜は即日、監軍の周従寓を知兵馬留後とし、掌書記の劉崇魯を知観察留後とし、李克用が到着すると、帳簿を確認して実証し、その後鄭従讜は行った。

  黄巣軍が兵糧が少なくなって掠奪を行っており、鄭従讜は間道から絳州に走ったが、並走する道は塞がって不通となっており、数か月して、召喚されて司空を拝命し、再び宰相となり、太傅兼侍中に昇進した。帝に従って興元府に到着したが、病によって骸骨(辞職)を乞い、太子太保を拝命したが、邸宅に戻って卒した。諡を文忠という。

  鄭従讜はいつも礼法があり、性格は自慢したり傲慢であったりするようなことなく、冷静沈着で策謀に秀でた。汴州にいる時、兄の鄭処誨が在任中に没したが、任期が終わるまで節度使軍中で音楽を演奏しなかった。陸扆を知って弟子とし、しばしば褒め称えたが、陸扆は後に宰相の位についた。張彦球は、誠実でうまく処置し、何度も敵を破って功績があり、奏上して行軍司馬とし、後に金吾将軍に任じられた。それより以前、盗賊が中原に流れ、沙陀は強く剽悍であったが、しかしついに用いるようになったのは、思うに鄭従讜が太原の重鎮となったからであろう。当時、鄭畋は宰相の地位のまま鳳翔節度使となり、檄文を発して賊を討ち、両人の忠義は相並び、賊は最も憚り、「二鄭」と名付けたという。


  鄭珣瑜は、字は元伯で、鄭州滎沢県の人である。若くして父を失い、天宝年間(742-756)の安史の乱に遭い、隠れ住んで陸渾山で耕し、母を養い、州の政務に関わらなかった。転運使の劉晏が奏上して寧陵県・宋城県の尉に補任され、山南節度使の張献誠が上表して南鄭県の丞としたが、すべて謝して応じなかった。大暦年間(766-779)、諷諌主文科を優秀な成績で及第し、大理評事を授けられ、陽翟県の丞に任じられ、抜萃科に及第して万年県の尉に任命された。崔祐甫が宰相となると、左補闕に抜擢され、京師から出されて涇原帥府判官となった。京師に入って侍御史・刑部員外郎を拝命したが、母の喪によって解職した。喪があけると、吏部に遷った。貞元年間(785-805)初頭、詔して十省の郎を選んで畿内・赤県を治めさせることとなり、鄭珣瑜は検校の本官で奉先県令を兼任した。翌年、饒州刺史に昇進した。京師に入って諌議大夫となり、四遷して吏部侍郎となった。

  河南尹となった。まだ境に入って赴任する以前に、徳宗の降誕日となり、河南尹では馬を献上しようとし、吏は赴任前に河南尹の印を使い、鄭珣瑜に許可を得てから実行し、なおかつ宮廷に献上しようとした。鄭珣瑜はおもむろに「まだその官となる前ににわかに献上するようなことは、礼だといえるだろうか」と言って聴さなかった。性格は厳重で言葉は少なく、今まで私事で他人を利用したことはなく、また他人もまたあえて鄭珣瑜に面会して私事をしようとしなかった。河南に到着すると、安静となって下々への恵みとなり、価格が安いときに暴落を防ぐために買って保存しておき、価格が高くなったときに、高騰しすぎないように保存しておいたものを売ることによって物価の安定を図って民の便とした。まさにこの時、韓全義が兵を率いて蔡州を討伐し、河南は主に兵站を担い、鄭珣瑜は密かに陽翟県に蓄えをし、官軍に給付し、百姓は運送の労役を味わうはめにならなかった。おおむね勅使を送迎するのに、いつも決まった場所があり、吏は密かにその馬が数歩も用いたことがないのを知っていた。韓全義は監軍とともに別に檄文して馬を使おうとしたが、詔ではないから、鄭珣瑜は檄文を壁に掛けて馬を使わせなかった。討伐が中止になるまで、およそ数百にも及んだ。ある者が諌めて、「軍は当然機会は急を要するものであるのに、公は回答すべきではなかったのではないか」と言ったが、鄭珣瑜は、「武士は軍を率いており、多くそのことを恃んで強制してきた。いやしくもこれを罪とするであれば、尹がこれを罪とすべきである。万人をして禍いを産むことをなさないのである」と言い、そのため部下は恨み言を言う事はなかった。当時、河南尹としての治世は張延賞に匹敵すると評され、重厚堅正さについてはそれに勝るとされた。

  再び吏部侍郎の職をもって召喚され、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に昇進した。李実が京兆尹となり、収奪して進奉につとめたから、鄭珣瑜は表立って詰め寄って「留府の緡帛の入りは最初からあるもので、ほかは度支が担当すべきものである。今の進奉というのは、一体どういったところから出てきたものなのか」と言い、詳細にそのように奏上した。李実は当時帝の寵幸を得ていたが、どっちつかずとなり罷免された。

  順宗が即位すると、そこで吏部尚書に遷った。王叔文が州吏から翰林学士・塩鉄副使となり、宮中では宦官と交わり、政務を乱した。韋執誼が宰相となり、宮中の外にあって奉行した。王叔文はある日中書省にやって来て韋執誼と面会しようとしたが、担当の吏が「宰相は会食の最中で、百官は面会できない」と言ったから、王叔文は怒り、吏を叱りつけ、吏は走って入って申し上げると、韋執誼は立ち上がり、閣にて王叔文とともに語った。鄭珣瑜と杜佑高郢は食事を止めて待っていた。しばらくして吏が「二公は一緒に食事している」と言ったから、鄭珣瑜は歎いて「私はまたここにいるべきなのか」と言い、左右に命じて馬で帰り、家の臥って七日間出て来ず、罷免されて吏部尚書となった。またその時病となって、数か月で卒した。年六十八歳。尚書左僕射を贈位された。太常博士の徐復が諡を文献としたが、兵部侍郎の李巽が「文は、天地を治めることである。二字の諡は、『春秋』の正ではない。改めて議論することを願う」と言い、徐復は「二字の諡は、周・漢以来存在する。威烈・慎静は周代のものである。文終・文成は漢代のものである。ましてや鄭珣瑜は名臣で、二字の諡を嫌がることはなかろう」と言った。李巽は「諡は一字なのが正しいので、堯・舜がそれである。二字の諡は古の制度ではなく、法では載せられていない」と言ったが、詔して徐復の議に従った。子に鄭覃がいる。


  鄭覃は、父の蔭位によって弘文校書郎に補任され、諌議大夫に抜擢された。憲宗が五人の宦官を和糴使とすると、鄭覃は上奏して罷めさせた。

  穆宗は即位すると、国政を心配せずに、しばしば遊興に耽った。吐蕃が強勢となった。鄭覃と崔郾らと朝廷で「陛下が新たに即位されてから、身を入れて政務に勤められるべきですが、しかし宮中では宴に耽って喜ばれており、外では遊戯・狩猟を楽しまれています。今吐蕃が辺境にあって、中国の隙を狙っており、緊急であってもそうでなくても、臣下は陛下の所在を知らず、なにかあって敗れないことがありましょうか。金や絹の出処は、もとより民の血と汗であり、俳優がこれといった功績がないのに、むやみに賜わるようなことをすべきでしょうか。願わくば節度をもって用いられ、余剰分は辺境の防備の資とし、役人に重ねて百姓から取り立てさせるようなことがなければ、天下の幸いなのです」と言ったから、帝は喜ばず、宰相の蕭俛を振り返って、「こいつらは何者か」と尋ねると、蕭俛は「諌官です」と答え、帝は思いを理解し、そこで「朕の欠点を、下の者がよくすべて正すのは、忠である」と言い、鄭覃に勅して「宮中でとくに忠誠がなく、後で私のためであるというような者があれば、ただちに卿と延英殿で引見させよ」と言い、当時宮中での奏上は久しくなくなっていたが、ここに至って士は互いに喜びあった。

  王承元が鄭滑節度使に任じられるも、現任の鎮の人たちは固く留めて出さなかった。王承元は朝廷の重臣にその軍を慰労させることを要請し、鄭覃に詔して宣諭使として、起居舎人の王璠を副使とした。それより以前、鎮の人は非常に傲慢であったが、鄭覃が詔を伝えると、大義につとめることに開眼し、軍はついに鎮まり、王承元はそこで去ることができた。

  宝暦年間(825-827)初頭、京兆尹に抜擢された。文宗は召喚して翰林侍講学士とし、工部侍郎に昇進した。鄭覃は経術に該博であり、人情があつく篤実で正道を守り、帝は最も重んじた。李宗閔牛僧孺が宰相となると、鄭覃が李徳裕と親交があり、その親近の者が助力することを嫌い、表向きは工部尚書に昇進させながら、侍講を罷免して、遠ざけようとした。帝は常に向学の人で、大変鄭覃を慕い、再び召寄せて侍講学士とした。李徳裕が宰相となると、鄭覃を御史大夫とした。帝はかつて殷侑がよく経を述べるから、その人となりを鄭覃に匹敵すると述べていた。李宗閔はみだりに「二人は本当に経に通じていますが、その議論はとるに足りません」というと、李徳裕は「鄭覃・殷侑の言うことは、他の人は聞きたいとは思わないでしょうが、ただ陛下は聞くべきなのです」と言った。にわかに李徳裕が罷免されると、李宗閔は再び用いられ、鄭覃を戸部尚書より秘書監に左遷した。李宗閔が罪を得ると、刑部尚書に遷り、尚書右僕射、判国子祭酒に昇進した。李訓が誅されると、帝は鄭覃を召寄せて詔して禁中を視させ、遂に同中書門下平章事(宰相)となり、滎陽郡公に封ぜられた。

  文章を好まず、進士の浮ついた虚構を嫌い、進士科の廃止を建言した。「南北朝が収まらなかった理由は、文章の才能というのが人間の質朴さや誠実というのを上回ったからです。士が才能を用いるのに、どうして必ず文章によらなければならないのでしょうか」と述べ、また「文人の多くは軽薄です」と述べた。帝は「純情であったり酷薄であったりするのは、生まれ持った才能によるのであって、どうして進士に限ったことであろうか。またこの進士科を設置してから二百年になるが、どうして改めるべきなのか」と言うと、そこで沙汰止みとなった。帝はかつて百官が一日も怠けるべきではないと言って、そこで香炉机を指さして「これははじめ精美であったが、長らく使っているうちに輝きを失っている。磨かなければ、どうして最初のように戻ろうか」と言ったが、鄭覃は「世の中の弊害を救うにはまず根本を責めることにあります。近頃皆職務にあたらず、王夷甫(西晋の王衍)を慕うようになり、馬鹿にして職務にあたらないのです。これが治世が平和で人々が無事でのんきでいられる理由なのです」と言ったから、帝は「君に法令に慎ませる必要があるだけだな」といい、門下侍郎・弘文館大学士に昇進した。

  帝は延英殿に御座して詩の良し悪しを論じ、鄭覃は「孔子が抜粋したのは、三百篇で、それが常に正しくなければ、どうして天子の道となすに足りましょうか。「国風」や「大雅」「小雅」は、すべて下の者が上の変事を風刺するもので、上が下の者を教化するためのものではありません。そのため王者は詩の内容をつかみとり、これによって風俗の得失を考えたのです。陳の後主や隋の煬帝のように、特に詩の章句をよくしましたのに、王者の治術を知らないようなものは、そのためついに反乱がおこることになったのです。詩編を少しばかりできるなどとは、願わくば陛下がご採用されませんように」と述べた。

  帝は事あるごとに「順宗の事績は詳細ではないが、史臣の韓愈はどうして当時人に屈していたのだろうか。昔、漢の司馬遷は「任安に与える書」で、文章は多く怨みで答えており、そのため「武帝本紀」に多く実を失ったのだ」と言っていたらが、鄭覃は「武帝の治世中、大いに軍事を辺境でおこし、生ける者は消耗し、府庫は枯渇したので、司馬遷が述べるところは過言ではありません」と言い、李石は「鄭覃が申したところは、武帝に因んで諌めたもので、陛下には終に盛徳を究められますように」と言った。帝は「本当にそうだな。事のし始めは盛大であっても、その勢いを持続して完遂できる人は少ない」と言い、鄭覃は「陛下は書を読むのを楽しまれますが、しかし根本の意義は一・二しか理解されていません。陛下が仰せになったことはこれなのです。寝食にわたってこれを行わなければなりません」と言った。

  鄭覃はすでに名儒として知られ、そのため宰相が国子祭酒を兼領した。鄭覃は太学に五経博士を置き、禄は王府の官に準じて給付することを願い出た。再び太子太師に遷った。開成三年(838)、旱魃となり、帝は多くの宮人を宮中から出したから、李珏が祝辞を述べて、「漢の制度では、八月に人を選び、晋の武帝は呉を平定すると、採用者を多くしました。仲尼(孔子)が「いまだ徳を好む(こと色を好むが如くなる)者を見みざるなり」と言いましたように、陛下は益がないものを追放しましたが、これは盛徳です」と言い、鄭覃もまた褒め称えて後押しし「晋は採用の失敗のため、天下をあげて夷狄の習俗に陥るはめになりました。陛下はこれを鑑とすべきです」と言い、帝は美点を助けるのを善とした。病によって宰相の位から去ることを願い出て、詔して太子太師のみ解任され、五日に一度中書省に入ることを聴され、政務に推し量らせた。にわかに宰相を罷免されて尚書左僕射となった。武宗が即位した当初、李徳裕が再び宰相に任用されると、鄭覃の助けを得て共に政務に当たりたいと望まれたが、固辞し、そこで司空を授けられ、致仕し、卒した。

  鄭覃は清く正しく、倹約家かつ謙譲な人物であり、人に取り入ったことはなかった。位は宰相となったが、邸宅は加飾せず、内には妾や側室がいなかった。娘孫が崔皋と結婚したが、崔皋の官は九品衛佐程度で、帝は権家と婚姻しなかったことを重んじた。鄭覃が侍講となると、通常の礼節・習慣に厚く、ご機嫌取りを斥けるよう再三天子のために申し上げ、そのためについに宰相となった。しかし悪を憎んで受け入れられないことが多く、世間は大変な欠点だと思って憚った。当初、鄭覃は経籍が損壊して錯簡があるのに、博士の知識や考えが浅く狭くて正しくすることができないから、建言して、「願わくば、学識が該博な人と共に力をあわせて公刊し、漢の旧事に準じて石を削って太学に設置し、万世の法として示したく思います」と述べ、詔して裁可された。鄭覃はそこで周墀崔球張次宗孔温業らと上表してその文を正し、石に刻んだ。子に鄭裔綽がいる。


  鄭裔綽は、高くそびえ立っては父の風があり、一門の蔭位によって昇進し、李徳裕の知遇を得て、渭南県の尉に抜擢された。直弘文館となり、諌議大夫に遷った。宣宗の即位当初、劉潼が鄭州刺史から桂管観察使を授けられたが、鄭裔綽は「劉潼は責められてからまだ長いことたっておらず、観察使とすべきではありません」と論陣を張り、帝はすでに使者を派遣して詔を行き渡らせようとしていたが、追って取り止めとした。給事中に遷った。楊漢公は荊南節度使となると、貪欲さを罪とされて秘書監に貶されたが、ついで同州刺史を拝命した、鄭裔綽は鄭公輿とともに制書を封還した。帝は即位してから、諌臣からの規正を納れなかったことはなかった。ここに至って、楊漢公の赴任地は、遂に変えられなかった。たまたま宴を禁中で賜い、天子は撃球して、門下省にやって来たが、二人に向かって、「近ごろ楊漢公の事を論じたのは、朋党に類する者だ」と言うと、鄭裔綽は、「同州は、太宗が王地を興しました。陛下はその人の子孫となって、任命を慎重にしなければなりません。また楊漢公は罪とされて官を貶されたのに、どうして重要な地を私にするのでしょうか」と言うと、帝は顔色が変った。翌日、商州刺史に貶された。当時、衣服は緑色であったが、そこで詔して緋魚を賜った。後に秘書監から浙東観察使に遷り、太子少保で終わった。鄭覃の弟に鄭朗がいる。


  鄭朗は、字は有融で、始め柳公綽の山南東道節度使の幕下に任じられ、京師に入って右拾遺に遷った。開成年間(836-840)、起居郎に抜擢された。文宗は宰相と政治を議論しており、その時鄭朗に史臣として議事録をとっていたが、鄭朗に向かって「もしかして議論の内容を記録しているのか。朕に見せてくれ」と言ったが、鄭朗は、「臣が筆をとって書いているものは史です。故事では天子は史を見ないことになっており、昔太宗が見ようとしましたが、朱子奢が、「史は善を隠さず、悪を忌むことはありません。凡庸な君主より下であれば、あるいは非を飾って失敗から自らを守ろうとして見るなら、そうすれば史官は自ら守るすべがないので、またあえて直筆しないでしょう」と言い、褚遂良もまた「史には天子の言動を記録し、非法であっても必ず書くのは、自ら戒めとされることを願うからです」と言っています」と述べたから、帝は喜び、宰相に向かって「鄭朗は故事を援用して、朕に起居註を見させなかったが、よく職を守る者というべきである。しかし人君の行いは、善も悪も必ず記し、朕は平日の言動が治礼にかなっていないために、将来の恥となるのを恐れるのである。一見したいと願うのは、自ら改めることができると思うからである」と述べたから、鄭朗は遂に史を見せた。

  諌議大夫に累進し、侍講学士となった。華州刺史によって、京師に入って御史中丞・戸部侍郎を拝命した。鄂岳観察使・浙西観察使となり、義武軍節度使・宣武軍節度使の二節度使に昇進した。工部尚書判度支・御史大夫を経て、再び工部尚書・同中書門下平章事(宰相)となった。宦官の李敬寔が、鄭朗が騎乗していたのを避けずに馳せ去り、鄭朗はその事を上奏した。宣宗が李敬寔を詰問すると、自ら供奉官であるから道を避けなかったと弁明したが、帝は「我が命を伝えるのに道を閉ざして行くのが許されるというのなら、私的に出たときも、宰相を避けないのか」と言い、ただちに李敬寔を追放した。右拾遺の鄭言なる者は、もとは幕府にいたが、鄭朗は鄭言が諌臣であるから宰相らと得失を議論させようとしたが、鄭言は議論しなかったからその職を廃し、奏上して他の官に遷した。しばらくして、病によって自らの免職を願い出て、太子少師となった。卒して、司空を追贈された。

  それより以前、鄭朗が進士に推挙されると、人相見が「君は貴くなるだろう。しかし進士科に及第しては駄目だ」と言ったが、にわかに役人が鄭朗を第一位に抜擢したが、再審議が行われて試験資格を失うと、人相見は「これでよし」と祝った。その後果たして宰相となった。


  高郢は、字は公楚で、その先祖は渤海より衛州に移り、遂に衛州の人となった。九歳にして『春秋』に通暁し、文章を巧みにし、「語黙賦」を著し、諸儒はこれを称賛した。父の高伯祥は好畤県の尉となり、安禄山が京師を陥落させ、殺されるところであったが、高郢は幼い身で衣を脱いで身代わりとなることを願うと、賊はこれを義とし、二人とも許された。

  宝応年間(762-763)初頭、進士に及第した。代宗が太后のために章敬寺を造営すると、高郢は白衣の身でありながら上書して諌めた。以下に述べる。

  「陛下の大孝は心によって、天とともに極まることなく、諸々の思いは、これ以上ではありません。臣が思いますに、力を尽くして菩提を弔うことは、本当に有益なことではありますが、時を妨げて人からかすめとることは、損なわせることになってしまうのです。舎人が寺に行ったところで、何の福なぞありましょうか。昔、魯の荘公が桓公の廟を丹塗りして垂木に彫刻を施したのを、『春秋』はこれを書いて非礼としました。漢の孝恵帝・孝景帝・孝宣帝は郡国の諸侯に高祖・文帝・武帝の廟を建立させましたが、元帝の時代になると、博士・議郎とともに古礼を考察して、すべてやめさせました。廟であってもなお礼を越えて建立せず、ましてや寺は宗廟が安んじる場所ではなく、神霊がお住まいになるところでしょうか。万人の力を尽くし、一切の報いを求めても、それはできないことは明白なのです。

    近頃、戦乱は非常に盛んで、生ける者をおかし、百姓は恐れおののいて、毎日心配しない日はありません。将軍を派遣して迎え撃たせましたが、尺寸の功績すら潰え、隴外の田地は、悪人どもの手に委ねられたのです。太宗が起された艱難の業は、陛下に伝えられましたが、すべては得られず、尺土は侵され、偉業がなされても、なお欠があることを恐れるのです。ましてや武力が用いられてから十三年、負傷者は救護されず、死者は収容されず、兵を補充して軍に送り込んでいるにも関わらず、今でも終わりがありません。軍をおこすこと十万、毎日の戦費は千金となり、十三年にもなり、百万人を動員しても、資材や糧食、必要消耗品は、人に満足に行き渡って、疲労を回復できるのは、十人中に一人にも満たないのです。父子兄弟は、互いに気が晴れないのを見て、口やかましく渇望して、王命に従うのです。たとえ宮中から出費して寡婦に給付することができないのでしたら、疲弊からようやく休ませて慰撫しなければなりません。敵がまだ平定されておらず、侵略された土地はいまだに回復しておらず、金革の甲冑はいまだにしまい込めず、人を疲れさせているのにいまだ慰撫せず、太倉には一年中の儲えがなく、大農家には榷酤(酒専売)の弊害があるのに、どうしてこの時に寺院造営の力役をおこそうとするのでしょうか。この頃、八月に雨は満足に降らず、豆と麦の収穫の機会を失い、老農夫は気にして、心配で満足に食べられません。もし給付されないようなことがあったならば、どうやって救えましょうか。寺がなくても問題ありませんが、人がいなくなっても問題ないといえましょうか。しかしながら土木の勤めや、役立つための費用は、府庫を消耗させていますが、どうして寺院造営を行うべきでしょうか。府庫はすでに枯渇していますが、そのためまた苛斂誅求した場合、もし人が命に耐えられなければ、盗賊が互いに支援しあって勃興し、戎狄は隙に乗じるので戦乱となりますが、陛下が深く心配せずにおれましょうか。

    臣は次のように聞いております。聖人は天命を受けるや、人を主とし、いやしくも天を救う勲功によって、天と人とが協和し、そこで宗廟は福を受け、子孫は恩恵をこうむるのです。『伝(孝経)』に「徳教を民草に施し、則として背くこと無し。これを天子の孝という」とあり、また、「なんじが祖先に思いを馳せ、その徳を修むべし」「上帝の福禄を受けるや、子孫にまで及ぶ」とあり、これによって王者の孝は、天地に遵奉し、父祖を天に配して祀り、徳教に慎み、それによって万民に臨むということを知るのです。四海の内をして、喜んで祭祀に助力させ、王朝の生命を引き伸ばし、永遠にしてつきることがないようにさせるのです。仏寺を崇めて建立し、金や玉を飾り立てるのが孝行者であるとは聞いたことがありません。夏の禹王は宮殿をいやしんで、力を尽くして水利事業に勤しんだから、人々は今に至っても称賛するのです。梁の武帝は土木に尽くして、塔や廟を飾りましたが、人々からの称賛はありませんでした。陛下は費用を節減して人を愛され、夏后(夏)と名声を等しくされるべきであって、どうして必ず人を労して多くの人を動かし、梁の武帝の遺風を継ぐことがありましょうか。また建立したばかりなので、費用はまだ知れており、人々は力を図るのを貴ぶのであって、必しも完成を貴ばず、事は時と相応することを貴び、必ず成し遂げることを貴ぶということはありません。陛下がもし思慮をめぐらせ、人心に従うのなら、聖徳にして孝思ぶりは天地にいたり、千や万の幸福は前後に受けるのです。かつてこれが一寺を建立する功徳と較べられることがあったでしょうか。」

  奏上してまだ返答がある前に、再び上言した。

  「王者が何かをし、何か行動に出ようとする時は、必ず多くの人々の意見を聞いて人々に従うものですが、そうすれば自然の福は、求めなくてもやって来るもので、未然の禍いは、避けなくても絶えるのです。臣は以下のように聞いております。神人には功績がないというのは、功績があることを功績とはしないからであり、聖人には名誉がないというのは、名誉があるというのを名誉とはしないからです。功績があるのに功績としないのは、そのため功績は大きくはなく、名誉があるのに名誉としないのは、そのため名誉は多くはないのです。古の明王は善行を積んで福を招き、財を費やさずに福を求め、徳を修めて禍を鎮め、人に労役させずに禍を祓うのです。陛下の造営は、臣は密かに戸惑うばかりです。もし功績を以てすれば、天は万物を覆い、地は万物を載せ、陰気が散って陽気が展開し、いまだかつてできたことはありません。もし名誉を以てすれば、この上ない徳行と最も大切な道徳によって、天下を従え、いまだかつてなかったことです。もし福を招くを以てすれば、神明に通じ、四海に輝き、財産を費やすことはありません。もし禍を祓うを以てすれば、まさにその徳につとめ、天災はおこらず、人に労役させることはありません。今、造営事業は催促され、人夫は召集されて、土木事業は並行して進められ、日々一万もの工夫を動員し、食事休憩する暇もなく、笞によって痛みを訴える声が道路に充満しているのです。これによって福を望んでいるというのは、臣には恐れながらそうではないと思うのです。陛下は多難を平定され、政務に励まれ、行いは寬仁に勤められておりますことは、天下にとって幸いであると存じます。今はもとより群衆の心とは異なっており、左右の者の間違った計画にしたがっておられるのが、臣は密かに陛下のために残念に思うことです。」

  受け入れられなかった。

  茂才異行科に好成績で及第し、咸陽県の尉に任じられた。郭子儀が採用して朔方掌書記となった。郭子儀は判官の張曇に怒り、死にあたると奏上したが、高郢は救命に尽力したから、郭子儀の意にそむき、左遷されて猗氏県の丞に遷された。李懐光は引き立てて邠寧府を補佐させた。李懐光は河中に帰ろうとした際、高郢は乗輿を西に迎えるのにこしたことはないと勧めたが、李懐光は背いていたから怒り、許さなかった。既に李懐光はまた全軍を西に進軍させた。当時、渾瑊が孤立した軍を率いて賊に抵抗していたが、諸将は集まっていなかった。高郢は李懐光に乗じられることを恐れ、李鄘とともに固く止めた。たまたま李懐光の子の李琟に高郢は近侍していたが、高郢はそこで「あなたは天宝年間(742-756)以来、軍事行動をしてきた者を見てきたでしょうが、今誰がまた残っているでしょうか。また国家にはもとより天命があり、人間の力では預かり知れぬものです。今もし軍にたよって事を動せば、自らの行いによって天に見放されることになります。各家々のような小さな単位であっても、必ず忠や信を得られます。どうして三軍が潰走しないとでもいうのでしょうか」と脅すと、李琟は大いに恐れ、汗が流れて話すことができなかった。高郢はそこでその将軍の呂鳴岳・張延英とともに間道から帰国しようと謀ったが、事は発覚し、李懐光はまず二将を斬り、その後高郢を引っ立てて詰問したが、高郢は言われたことに逆らって恥じたり隠れたりすることなかったから、見ていた者は涙を流した。李懐光は恥じて、高郢を許した。孔巣父が殺害されると、高郢は死体を撫でてて泣いた。李懐光が誅されてから、李晟はその忠誠を上表し、馬燧は書記に任ずるよう上奏した。召喚されて主客員外郎を拝命し、中書舎人に遷った。しばらくして、礼部侍郎に昇進した。当時、四方の士は私党を結び、さらに互いに褒めて推薦しあい、これによって役人を動かし、名に従ってその実はなかった。高郢はこれを嫌い、そこで面会を求める者を謝絶し、自らの徳行を専らにした。貢部を司ることおよそ三年、孤独の中に見極め、浮ついたことを抑えたから、流行に流されるような世の中は衰えていった。太常卿に遷った。

  貞元年間(785-805)末、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に抜擢された。順宗が即位したが、病によって政治を行うことができず、王叔文の党派は朝廷を根拠とし、帝は始め皇太子に詔して監国としたが、高郢は刑部尚書に改められ宰相を罷免された。翌年、華州刺史となり、政治は真心があって鎮静した。それより以前、駱元光が華州から軍を引き連れて良原を防衛した。駱元光が卒すると、軍は神策軍に編入されたが、華州は毎年その食料を送付しており、民は輸送に困窮していたが、歴代の刺史は憚って敢えて申上する者がいなかった。高郢は奏上してこれを止めさせた。再び京師に召喚されて太常卿となり、御史大夫に任命された。数か月して兵部尚書に改められたが、固く骸骨を乞うた(辞職を求めた)から、尚書右僕射となって致仕した。卒した時、年七十二歳で、太子太保を追贈され、貞と諡された。

  高郢は慎み深く、人とは交わらなかった。常に制誥を司り、家に原稿を留めることはなく、ある人がどうして前任者たちのように起草した制を文集としないのかと勧めると、「王言は私家集に納めるべきではない」と答えた。普段より家産経営を行わず、経営を勧める者がいると、「禄受けて、薄給であったとはいえ私にはあまりあるものだ。田荘をどうして取るのか」と答えた。高郢が宰相となったのは、鄭珣瑜と同時に拝命した。王叔文が専制すると、鄭珣瑜は非常に憂いて、議論したが同意を得ることができず、そこで病と称して出仕しなかったが、高郢は建白することはなく、突然鄭珣瑜とともに罷免され、そのため議論する者は鄭珣瑜が賢者であるとし、高郢を責めた。子に高定がいる。

  賛にいわく、王叔文は宮中の内では女官や宦官を連れ立って、外では悪者どもを頼りとし、こうやって天子の権力を奪った。しかし当時太子はすでに成長しており、朝廷で逆らう者はいなかったから、もし鄭珣瑜・高郢と杜佑らが毅然として東宮を引き入れて監国とすれば、王叔文のような輩たちを退かせるのは、その力では難しいことではなかった。安寧を懐かしく思って目の前の安楽のために黙ってしまい、だから世間の人はどうして彼らを宰相として用いたのかと言ったのであった。鄭珣瑜は一度怒ると邸宅で不貞寝し、高郢と杜佑は宰相の位に留まったままで、二人もまた宰相としての程度を論評するほどでもなかったということである。


  高定は、聡明で弁舌に優れ、七歳にして『尚書』を読み、「湯誓」の場面に到ると、跪いて高郢に「どうして臣が君を伐つのですか」と尋ね、高郢は「天の命に応じ人の願いにしたがったのだ。どうして伐つなんていうのか」と答えると、「命令に正しく従ったならば、先祖の位牌の前で恩賞を与えよう。命令に従わなければ、土地神の形代の前で死刑に処すだろう(『尚書』夏書甘誓)といいますが、これは人の願いにしたがったというのでしょうか」と言ったから、高郢は優れていると思った。小字を董二といい、世間ではその神童ぶりを重んじられ、字によって世間に通行した。成長すると王弼注『易』に長じ、図をつくって八卦を描き、上は円で、下は方形、合せると重なり、転易を演易とし、七転で六十四卦となり、六甲・八節は備っていた。仕えて京兆府参軍の地位まで到った。


  鄭絪は、字は文明で、鄭余慶の従父である。幼くして文章に秀で、文章をよくつくり、交際した人たちは全員、天下の名士であった。進士・博学宏辞科を優秀な成績でk及第した。張延賞が剣南節度使となると、上奏して掌書記に任じられた。京師に入って起居郎・翰林学士となり、累進して中書舎人に遷った。

  徳宗が興元府から帰還すると、六軍統軍を置いて六尚書にみさせ、これによって功臣を処遇し、除制用白麻付外。又廢宣武軍、益左右神策、以監軍為中尉。竇文場恃功、陰諷宰相進擬如統軍比。任命の制に白麻の詔書を用いて員外とした。また宣威軍を廃止し、左右神策軍に振り分け、監軍を中尉とした。竇文場は功績をたのんで、密かに宰相にほのめかして統軍と同じようにしようとした。鄭絪は制書を作成しようと奏上して、「天子が封建するときや、また宰相を任用するときに、白麻の制書で任命し、中書省・門下省に付することになっていますが、これによって中尉を任命されるのでしたら、知らずと陛下は特に竇文場を寵遇しているからでしょうか。遂には後々までの法令として著すのでしょうか」と言うと、帝は悟り、竇文場に向かって「武徳・貞観年間(618-649)の時、宦官の任用は内侍・諸衛将軍同正止まりであって、緋服を賜る者はほとんどいなかった。魚朝恩の時からは旧制に復することはなかった。朕が今お前を用いるのは私心がないとはいえないから、もし白麻の制書で宣告すれば、天下はお前が朕を脅してやったとみなすだろう」と言うと、竇文場は叩頭して謝罪した。さらに中書省に命じて詔をつくり、あわせて統軍が白麻の制書で任命することを廃止した。翌日、帝は鄭絪に引見して「宰相は宦官を拒まなかったが、卿の発言のお陰で悟ることができた」と言った。

  順宗が病気となって、話すことができず、王叔文牛美人とともに政務を行い、権力を内外に振ったが、広陵王(後の憲宗)が勇敢で聡明であるのを憚って、危害を加えようとした。帝は鄭絪を召寄せて立太子の詔を起草させたが、鄭絪は内容を聞く前にたちまちに「嫡を立てるに長を以てす」と書き、跪いて申し上げたから、帝は頷いて定まった。

  憲宗が即位すると、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、門下侍郎に遷った。それより以前、盧従史は密かに王承宗と親交を持って、詔によって潞州に帰ろうとしたが、盧従史は挨拶するとき、潞州は兵糧が乏しいから軍を山東に留めることを願った。李吉甫は密かに鄭絪が盧従史に漏らしたと誣告したから、帝は怒り、浴堂殿に座して学士の李絳を召寄せてその理由を語り、「どうしたらよいか」と言ったから、李絳は「本当にそうなのでしたら、罪は一族に及ぶでしょう。しかし誰が陛下にそのように言ったのですか」と言うと、「李吉甫が私に言ったのだ」と言い、李絳は「鄭絪は宰相に任じられてから、名節で知られ、犬畜生のように奸臣と一緒に外に通じたりはしないでしょう。恐らくは李吉甫が宰相たちの間で軋轢があって嫌い、悪口を言って陛下を怒らせようと捏造したのです」と言ったから、帝はしばらくして「危うく私は誤るところであった」と言った。

  これより以前、杜黄裳は帝のために節度使を削減して王室を強化しようとし、建議して裁可されたが、決定に鄭絪を預からせず、鄭絪に黙々としていた。宰相にあること四年、罷免されて太子賓客となった。しばらくして検校礼部尚書となり、京師から出されて嶺南節度使となり、後に河中節度使に遷った。京師に入って御史大夫、検校尚書左僕射、兼太子少保となった。文宗の大和年間(827-835)、年により骸骨(辞職)を乞い、太子太傅によって致仕した。卒した時、年七十八歳で、司空を追贈され、諡を宣という。

  鄭絪はもとより儒学によって昇進し、道を守って寡欲で、宰相にあっても赫々たる功績はなかったが、篤実さによって称えられた。名は学を修めることによってよく知られ、世間からは耆徳によって推された。


  孫の鄭顥は、進士に推挙され、起居郎となって万寿公主を娶り、駙馬都尉を拝命した。識者たる器があった。宣宗の時、恩寵は比類する者がなかった。検校礼部尚書・河南尹で終わった。


  権徳輿は、字は載之である。父の権皐は「卓行伝」にみえる。権徳輿は七歳にして父を喪い、哭法や作法が成人のようであった。加冠する前から、文章によって諸儒の間で称えられた。韓洄が河南で黜陟使となると、任命されて幕府に置かれた。また江西監察使の李兼の幕府に従って判官となり、杜佑裴胄も交って任命された。徳宗がその逸材ぶりを聞いて、召喚して太常博士とし、左補闕に改められた。

  貞元八年(792)、関東・淮南・浙西の州県で大洪水となり、家屋を破壊し、人々が溺死した。権徳輿は建言して、「江・淮の田は一たびよく実れば、それは数道もの助けになり、だから天下の大計は東南に仰ぐのです。今長雨が二ヶ月におよび、農田は開くことがなく、庸が来ずに京師への運搬が途絶えることは日に日に多くなっています。群臣で博識で通じているものを選び、持節させて慰問させ、人々が苦しんでいるところを尋ね、その租税の入りを明らかにし、軍の指揮官と連携して善後策を追求するべきです。賦税を人々から取るには、人々の根本を固めてからおさめるにこしたことはありません」と述べ、帝はそこで奚陟ら四人を派遣して慰撫に巡査させた。裴延齢は猟官に巧みであったから判度支となったが、権徳輿は上疏して過失を責め、「裴延齢は常の規定の賦税・費用で取り尽くしていないものを羨利とし、これを自分の功績として誇っています。官銭を用いて常平の雑物を売り、またその値を取り、「別貯の羨銭」と号し、そこで天子を欺き、辺境の軍は軍糧に乏しく、兵糧を受けられず、辺境に禍いを招くので、このことは些末なことではありません。陛下が流言のために疑われることがありますが、どうして新たな利益によって裴延齢をお召しになるのに、核心は本末転倒で、朝臣から選んで辺境の兵糧を査察させないのでしょうか。もし言っていることに誤りがないようでしたら、つまり国家の務めは、その人に委ねるのはよろしくありません」と上疏したが、採用されなかった。

  起居舎人に遷任した。その年のうちに知制誥を兼任し、中書舎人に昇進した。当時、帝は親ら各種政務を御覧になられ、補任を重ね、だいたい朝廷で命じて、すべて掣肘下におかれた。それより以前、権徳輿は知制誥で、徐岱は給事中、高郢は舎人であった。数年を経て、徐岱は卒し、高郢は礼部をつかさどり、権徳輿は一人両省にあたった。数十日一度家に帰り、そこで上書し、「門下・中書の両省は、天子の誥命をうけたまわり、詳細に議論して調べ上げ、それぞれの所司にあたります。旧制では、両方の定員は十名で、互いに自由に行動させないよう防いでいます。大抵の事は防ぐところがありますが、そこで官吏は非常となるのです。四方で聞く者は、ある者は朝廷では士が乏しいと思うでしょう。重要な役所ですから、しばらく廃止するべきではありません」と述べた。帝は「卿の労を知らなかったわけではない。ただ卿のような者を選ぼうと思っても、いまだにそのような人を得られないだけなのだ」と言い、しばらくして礼部の貢挙の責任者となり、礼部侍郎に任命された。およそ三年して、はっきり詳細に見分けて、採用された人物は相継いで公卿・宰相となった。明経科の定員を撤廃した。

  貞元十九年(803)、大旱魃となり、権徳輿はこれによって朝政の手落ちを上陳した。「陛下は昼時には心を配って膳を減らされ、百姓を思い憐れまれ、宗廟に告げて、諸天地をまつり、一つの物事でも祈るべきであれば、必ずその礼を行い、一人の士の願いがあれば、必ずその言葉を聴かれ、憂人の心はすでに至っているというべきです。臣はこのように聞いています。天災を消し去るには政術をおさめ、人心を感じる者は恵沢を流し、和気が広くゆきわたれば、つまりは祥応が至るのだと。畿内ではだいたい禿げあがった土地で望むべきこともなく、流浪の人は道路に倒れ、麦を種蒔く時期に配慮しようにも、種を蒔くことすらできないのです。経用の物の一部を留め、種を民に貸し、今この租税・賦税および税法上の債務を一切免除すべきです。施策を行っても免除しなければ、また納税の道理がなくなるので、まずこの事をはかるのにこしたことはなく、そうすれば恩沢はお上に帰するのです。貞元十四年(798)夏の旱魃では、官吏は常の賦税の通りに徴収しようとし、県令にいたっては民を殴り辱めていましたから、察すべきものがあるでしょう」また次のように述べた。「漕運はもとより関中をたすけ、もしくは東都に転じて西の道沿いの倉庫の物をことごとく京師に入らせ、江・淮から運ばれた物を率いて常数を備え、その後およそ太倉一年分の計上となります。その余りを除籍して民間に売却すれば、穀物相場は跳ね上がらずに備蓄を放出できるのです」また次のように述べた「大暦年間(766-779)、一枚の絹布の値段は銭四千であったが、今八百どまりとなっており、税の入りはもとのようであっても、民が出すものは当初の五倍になってしまっています。全国の献上はすばやく、国のために恨みを招き、軍需品の求めを広くし、兵は実態がなく帳簿上のみの者もおり、多くを剥ぎ取り、計算の才能があって精密に行えたとしても、よく功利を商うから、目先の利益を得ようとしてかえって損をし、人々を等しく困窮させることになるのです。」また次のように述べた。「この頃追放された者は、自ら無期限に拭い消されたといい、連座して匪賊となり、これによって和気を騒がすのです。しかも冬薦の官は三年を超えて任命されなければ、衣食はすでになくなるから忽然として斃れることになり、これはまた人が窮乏する一因なのです。近頃陛下は罷免・追放された者を赦免し、ある者は起用して二千石とし、その徒はさらに励み、同じような者を引き連れてまた望みとなるでしょう。思うにこれによって広めるのでしたら、人々は忠誠を尽くすでしょう」帝は大いにこれを採用した。

  憲宗の元和年間(806-820)初頭、兵部侍郎に任じられたが、係累に連座して、太子賓客に遷り、すぐに前官に戻された。当時、沢潞軍(昭義軍)節度使の盧従史が詐称かつ尊大になり、次第に朝廷に従わなくなり、その父盧虔が京師で卒すると、成徳軍節度使の王承宗の父も死んで襲封を求めたが、権徳輿は諌めて、「山東を変えようとするならば、まず昭義軍の総帥を選びます。盧従史が自身の軍の将校を抜擢するのは、傲慢かつ不法で、今その喪によって、守臣を選んでこれに代えるべきです。成徳軍の習俗はすでに長い間のものであり、掣肘化に置くのは漸次すべきであるので、成徳軍の要請はただちに裁可したとしても、昭義軍も許すというのはいけないことです」と上奏したが、帝は聴さなかった。王承宗が叛くと、盧従史も策略によって王師を痛めつけ、兵は老いて功績があがらなかった。権徳輿はまた王承宗の赦免、盧従史の移動を要請した。後はすべてほぼ権徳輿が謀った通りとなった。

  当時、裴垍が病となり、権徳輿は太常卿より礼部尚書・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。王鍔が河中より入朝し、宰相を兼任することを求めたが、[[李藩]は不可を奏上し、権徳輿もまた「方鎮に並んで宰相を帯びさせるのは、必ず大忠あれば功績があるようになりますが、そうでなければ強者が従わなくなるので、やむを得ず与えてきたのです。今王鍔には功績がなく、また一時逃れをしなければならない時でもないので、一人に宰相に任命するならば、以後の人にその道を開くことになるのです。いけません」と奏上し、帝はそこで中止した。

  董渓于皋謨が運糧使の地位によって軍銭を横領し、嶺南に配流されたが、帝はその刑罰が軽かったことを悔い、中使に詔して道の半ばで殺させた。権徳輿が「董溪らは山東にて兵を用い、庫財を横領したことは、死んでも責任は償いきれません。陛下は配流が刑罰として大変軽いとして、まさに臣らの過ちを責め、詳細にその罪をただし、明らかになれば詔書を下すべきであって、衆とともに同じく棄てるようであれば、それは人々が法を恐れるのです。臣はすんでしまったことは争わないことを知っていますが、しかしながら他の時にあるいはこのようなことがあれば、是非とも役人が罪罰を議論する必要があり、罰が一つごとに勧善を百とすれば、どうしてやむにやまれぬ思いがおこりましょうか」と諌めた。帝は深くそうだと思った。かつて帝は政治の寛容さと猛々しさはどちらを優先すべきか尋ねたことがあり、「唐の王朝は隋の苛政暴虐を受けて、仁厚を優先しました。太宗皇帝は「明堂図」を見て、始めて背中に鞭打つことを禁止し、列聖はこれに従うところで、皆徳教を尊びました。ですから天宝の時に大盗賊(安史の乱)が起こっても、すぐに敵は滅んだのです。思うに本朝の教化が、人心の深きところに感じさせるところがあったからでしょう」と答えた。帝は「本当に公の言う通りだな」と言った。

  権徳輿は弁論をよくし、古今の根源を開陳し、天子に悟らせた。宰相となると、寛容で細かいところまで口出しすることはなかった。李吉甫が再び宰相となると、帝はまた自ら李絳を用いて朝廷に参与させた。当時、帝は治世に切実であったから、事は巨細にことごとく宰相を責めた。李吉甫・李絳は議論しても異論を受け入れられず、帝の前で突然弁論をはじめる有様であったから、権徳輿は従容として敢えて良し悪しを言う事はなかったが、これに連座して宰相を罷免されて本官のみとなり、検校吏部尚書、留守東都となり、扶風郡公に進封された。于頔が子が殺人を犯したため、自ら蟄居閉門し、親戚もあえて門を過ぎる者はおらず、朝廷でも弁護する者がいなかった。権徳輿は転任する時に、帝に言上して、「于頔の罪は赦免されることになっておりますのにそうなっておりません。ついでの際に寛大にとりはからう詔勅を賜られますように」と言い、帝は「そうだな。卿は私のために行き過ぎを諭してくれる」と言った。また太常卿を拝命し、刑部尚書に遷任した。

  それより以前、許孟容蒋乂に詔して『元和刪定制勅』を編纂させたが、完成して上梓されたにも関わらず禁中に留め置かれていた。権徳輿はその書を出すことを願い出て、侍郎の劉伯芻とともに再度研究して、三十篇(元和格勅)を定めて奏上した。再び検校吏部尚書となり、京師から出て山南西道節度使となった。二年後、病となって帰還を願い、帰還の途上に卒した。年六十歳。尚書左僕射を贈られ、諡を文という。

  権徳輿はわずか三歳にして言葉に四声の変化があることを知り、四歳にして詩を賦するのをよくし、経術に思いを重ね、把握しないものはなかった。学問をはじめてから老年に至るまで、一日たりとも書を見なかったことはなかった。かつて論を著し、漢の滅んだ理由を弁じ、西京は張禹が、東京は胡広が世を補った旨のことを書いた。その文章は雅正かつ繁密で、当時の公卿王侯で突出した者の功績・徳業の銘紀を撰したが、その数は十人中、常に七・八人にも達した。動作や静止があっても外面を飾ることはなく、風雅瀟灑で、自然を慕った。貞元・元和年間(785-820)に高貴な人々の模範となった。


  子の権璩は、字は大圭で、元和年間(806-820)初頭、進士に及第した。監察御史を歴て、その美しさを称えられた。宰相の李宗閔は父の門下生で、そのため推薦されて中書舎人となった。当時、李訓が寵遇され、周易博士として翰林におり、権璩と舎人の高元裕・給事中の鄭粛韓佽らが連名で李訓が険呑かつ覆滅しようとしていると弾劾し、また国を乱しているから、禁中に出入りさせるべきではないとしたが、聴されなかった。李宗閔が左遷されると、権璩はしばしば弁解の上表をしたが、かえって閬州刺史に左遷された。文宗はその母の病を憐れみ、鄭州に移した。李訓が誅殺されると、当時の人の多くは、権璩が禍福の大局に明るく、よくその家を伝えたとした。


  崔群は、字は敦詩で、貝州武城県の人である。まだ成人となる前、進士に推挙され、陸贄は貢挙を司り、梁粛は宰相たる才能があると推薦し、甲科に選ばれ、賢良方正科に推挙され、秘書省校書郎を授けられた。累進して右補闕・翰林学士・中書舎人に遷った。しばしば直言を述べ、憲宗は喜んで受け入れ、そこで学士に詔して「概ね奏議する場合は、崔群の署名を得てから進上しなさい」と述べたが、崔群は「禁中で密奏する言を、人々が自ら述べるべきであるのは、すべて故事によっており、後にある者が悪を憎んだ正直者であったなら、他の学士は上言できなくなります」と言い、固辞したため聴された。恵昭太子が薨じると、この時、遂王(後の穆宗)が嫡子であったが、澧王が年長で、宮中の支援が多かった。帝は東宮を立てようと、崔群に詔して澧王に譲らせようとした。崔群は「おおよそ目的を果たそうとして譲らせようとしても、目的を果たすことはできません。どうして譲ることがありましょうか。今遂王は嫡子ですから、太子とすべきです」と奏上したから、帝はその建議にしたがった。魏博の田季安が五千縑を仏寺創建の助財として送ってきたが、崔群は名目のない献上であるから受けるべきではないと上奏した。そのため詔して返却した。戸部侍郎に昇進した。

  元和十二年(817)、中書侍郎同中書門下平章事(宰相)となった。李師道が誅殺されると、李師古ら妻子は掖廷に入れられたが、帝は疑っており、そこで崔群に尋ねると、崔群は釈放するよう願ったから、あわせてその奴婢と財産を返還した。塩鉄院官の権長孺が収賄のため罪状は死罪に相当したが、その母が老いて、子に養わせることを願った。帝は怒りながらも赦そうとし、これについて宰相に尋ねた。崔群は「陛下は幸いにもその老人を憐れまれたのですから、ただちに使者を派遣して諭旨すべきで、正式な勅を出すのを待っていては手遅れになります」と答え、ここに死を免れた。崔群が大体奏上するようなことは、平穏で慈悲深いことはこのようであった。帝はかつて宰相に「聞いたり受けたりするのは、また難しいことではないか。この頃、詔学士が前代の世事を集めて、『弁謗略』をつくり、これによって自らの勧戒としている。その内容はどのようなものか」と語ると、崔群は「無情とは、理に合うか合わないかを論ずるのが簡単なことをいい、有情とは、欺きを審らかにすることは難しいことをいいます。そのため孔子は大勢の人が嫌う人や大勢の人が好む人についてや、次第に染み込んでいく告げ口を説いて、それが論ずるのが難しいとしたのです。もし陛下が賢者を選んで任じ、これを待つのに誠心によってし、これを糾すのに法によれば、そうすれば人は自ら正に帰して、敢えて欺むくことはありません」と答えたから、帝はその発言に同意した。

  処州刺史の苗積は羨銭七百万を進上したが、崔群はこれを受けることは天下の信を失うことになるとして、返還を願ったから、処州に賜って下戸の賦税の代用とした。この時、皇甫鎛は利益について申し上げて帝の寵遇を得て、密かに左右をたのみにして宰相の地位を求めたが、崔群はしばしばその邪で人に取り入る人物であるから用いるべきではないと申し上げた。宮中に奏上すると、開元・天宝の事に及び、崔群はそこでその極を論じた。「安らかなるも危きになるも法令が出されることにあり、存亡は任命によるところにあります。昔、玄宗は若くして危機にあって、さらに民間の辛苦を味わったので、そのため姚崇宋璟盧懐慎の輔政を得て道徳をもってし、蘇頲李元紘は勤勉に正を守ったので、そこで開元の治となったのです。その後に逸楽に甘んじて、正しき士を遠ざけ、小人と昵懇になり、そのため宇文融が利益によって言上し、李林甫楊国忠が寵遇をたのんで朋党を組み、そこで天宝の乱となったのです。願わくば陛下、開元を法とし、天宝を戒めとされれば、社稷の福となるでしょう」 また述べた。「世間では安禄山が叛いたことが治乱の時代区分であると言っていますが、臣は張九齢を罷免して李林甫を宰相とした時が、治乱のもとより分岐点であったと思います」 左右の者は感動した。崔群はこれによって帝にほのめかして、そこで皇甫鎛を含意させた。帝はついに自ら皇甫鎛を宰相とした。たまたま群臣が帝号を奉り、皇甫鎛は「孝徳」を兼用して帝号にしようとしたが、崔群は一人上奏して「睿聖」とし、そこで「孝徳」と併称した。帝は聞いて喜ばなかった。当時、度支が辺境の兵士に臨時の賜与を行ったが、物は多くて弊害があり、李光顔は非常に心配して、佩刀を引き寄せて自決をはかったから、内外は皆恐れた。皇甫鎛は奏上して、「辺境は無事ですが、そこで崔群が煽動して、賄賂によって勝訴を得ようとしたから、天子を恨むに到ったのです」と述べたから、ここに宰相を罷免されて湖南観察使となった。

  穆宗が即位すると、吏部侍郎によって召喚された。労われて「私が太子となったのは、卿の力だ」と言い、崔群は「これは先帝の意思です。臣に何の力なぞありましょうか。また陛下は淮西節度使となられ、臣が制書の起草し、その文言に「よく南陽の手紙を読めば、本当に東海の貴にかなう」とありますが、先帝はその通りであるとし、そこで伝達されてから久しかったのです」と言い、にわかに御史大夫を拝命した。しばらくもしないうちに検校兵部尚書となり、武寧節度使となった。崔群はその副使の王智興が兵士の心を掴んでおり、仮に節度使とするのにこしたことはないとしたが、返答はなかった。王智興が幽州・鎮州を討伐して帰還すると、兵はそれにかこつけて崔群を追放し、崔群は節度使の地位を失い、秘書監、分司東都に左遷された。華州刺史に改められ、宣歙池観察使を経て、兵部尚書に昇進し、京師から出されて荊南節度使となり、京師に召喚されて吏部尚書を拝命した。卒した時、年六十一歳で、司空を追贈された。


  賛にいわく、聖人は多難を恐れず、無難を恐れる。なぜなのか。多難の世は、人々は長く心配して深謀遠慮となり、毎日心の中で恐れて、なお未だしと思うのである。「私は滅亡まで暇がないというのに、またどうして安心していられようか」と言い、そのためよく天下を挙げてこれを興隆させようとし、これを恐れるのである。禍難が平定されてしまうと、上は安らいで下は喜び、いそいそとするのがいつも通りとなり、「賢者は得がたいが、賢者はいなかったとしても、それでも治まるだろう。悪者は去るべきだが、悪者がいたとしても、乱とはならないだろう」と言い、悪者を見逃して賢者を取り逃して、たちまち傾いて支える者がなくても、安らかに自らを慰めて「私は何か失ったのか」と言い、そこでよく天下を挙げてこれを滅亡させようとすることになり、恐れないのである。常人が恐れるところは、聖人は簡単なことだとし、常人が恐れないところは、聖人は難しいとするのである。孝明皇帝をみるに、もとより中主で、変に遭遇して初めて謀をしようとし、業がなると終りを共にしようとした。崔群李林甫が宰相となったのが治乱の時代区分であると奏上したのは、その言は信にたるのである。これは扁鵲が病を放置した桓侯をそしった理由である。

   前巻     『新唐書』    次巻
巻一百六十四 列伝第八十九 『新唐書』巻一百六十五 列伝第九十 巻一百六十六 列伝第九十一

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年03月20日 21:48
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。