グリッド051は臭い。
それは汚職やら犯罪やら人間の生臭い欲望が渦巻いてるとかそういう比喩ではなく、字義通りに臭いのだ。
ここの住人たちは慣れ切っており気にする素振りもないが、鼻をつくアンモニア臭、生卵の腐ったような硫黄臭、それらとないまぜとなって過飽和状態になった雑多な生活臭が立ち込めている。一言でいえばションベンとクソの臭いである。
このグリッドに来たばかりのパイルフィッシュは初めのうちは辟易したがしかし、一週間もここで過ごせば他の住人達と同様にすっかり臭いは気にならなくなっていた。
だがそんな街の人間ですら鼻をつまんで顔をしかめてしまうものがある。
全長は5mほどの深緑と山吹色に塗り分けられた電動カーゴ。
先頭部分には操縦士と補助員が立っていられるだけのスペースがあり、そこには全身を黄色い防護服で身を包んだ二人の作業員が乗っており、後ろの部分は液体を積み込めるタンクが搭載されている。
カーゴは人の駆け足ほどの速度でゆっくりと街路を進み、時折止まっては作業員が太いホースをもって降りてきて、そこらじゅうを走る配管の排出口の一つに繋ぎ栓を開くとそこから中にたまった汚物を吸いだしていく。
そのたびに目鼻をつんざく屎尿の臭いがあたり一面に広がるのだから周囲の人間も堪ったものではない。
彼らはオワイヤ(汚穢屋)と呼ばれている。グリッドの衛生を保つ上では必要であるとは誰もが理解していても、連中をすき好むのような物好きもいない。
そしてこともあろうに今のパイルフィッシュはそのオワイ屋に身をやつしているのである。
本来の
グリッド051は鉱山の上に建設された工業グリッドである。正規の居住区はアッパーレイヤーと呼ばれる上層部にあり、そこには浄化槽も備わり上下水道も整備されているためこのような作業は必要ない。
そこから下のミドルレイヤーは資源の加工区画で不法に増設された居住区にはそのような設備はない。
だが廃液や工業用水を流す配管が通っているためそれを改修した下水設備のようなものがあり、区画ごとに設けられた貯水槽に生活排水や屎尿が溜められている。
オワイ屋はこうした貯水槽の排出口を巡って汚物を回収してまわるのだ。
「これで受け持ちの通りはしまいや カーゴを戻したら小っこいのに代えて裏路地いくで」
「あ、はい・・・」
ザルコンと名乗る先輩格の男に言われるがまま、パイルフィッシュは後に続いた。
この仕事を始めて日が浅く、習うより慣れろとばかりに男の作業を見よう見まねで覚えていくが、仕事自体はさほど難しいものではない。
今のようにカーゴで大路の屎尿を回収したらそれを搬送エレベーターに乗せて下に送り、今度はそれに代わって送られてくる片手で動かせるサイズの小型電動カーゴを引きながら狭い裏路地へと入っていく。
小型カーゴのほうはタンクの上に漏斗が載せられ、そこに屎尿を流しむようになっているが、これは裏路地には袋やバケツに屎尿を溜めたものが置かれているための工夫である。
ここでは用水路さえない。一応共用の汲み取りトイレがあるが、臭いものは住居からはやや遠いところに置かれている。
しかし何分こうした所は治安が悪いため夜に住処を離れて用を足しに行くまでに襲われる可能性があり、暗い内は適当なバケツに致すのが常態化している。オワイ屋はそうしたものも拾って回る。
きちんとバケツに蓋を付けて外に出されているのはまだマシで、ひどいものになるとそのまま道に放り出されているモノもある。
人糞は長らく回収されずに放っておかれると乾燥してチリとなり、風に吹かれてこの
グリッド051の空気に交じる塵埃の一部となる。
ここの住人は平気な顔でそんな空気を吸っているのだ。パイルフィッシュもこの仕事を始めるまではそこまでは意識してはいなかった。
物事の解像度が高まるほどにこの世界の多くは不快なもので出来ているように思えた。
他人はそれと向き合わないで済むように蓋をして、尻拭いを誰かに任せて、そのことも忘れて暮らしているがオワイ屋の姿はそれを思い出させるのだ。
目先の作業に集中しそれ以外は極力何も考えないようにして、パイルフィッシュは軒先に出されたバケツを取ってはひっくり返し中身をタンクに流し込んでいく。
そのままで道に置かれているものは、バケツを添えながら崩れないようにハサミで慎重に拾い上げていく。
「おまえはマメなやっちゃな そんなもんまで拾ってたらキリがないでええぞ」
「え、あ、はい」
「マメなのはええこった」
言われて見渡してみれば塵が吹き黙っているように見えたモノが、どうやら回収されぬまま乾いて灰色になった人糞であることに気付いた。人が歩く部分は除去されても、見えにくい物陰には放置されているものも多い。
パイルフィッシュの性分としてはこんな作業でもやってるうちにのめりこんでしまうため、隅々まで拾って回りたくなるのだが仕事は適度に手を抜きつつ、手早く済ませるのがここでの容量の良さであるらしい。
「午前の分はこれで終わりや 戻って飯にするで」
そんなこんなでパイルフィッシュとザルコンが受け持ちの地区を回り終えた頃にはすっかり昼前になっていた。
カーゴを引いて裏路地を抜け再び大通りの喧騒に入り込む。雑踏はオワイヤが近づくと誰が合図をするでもなく人垣が左右に分かれて道ができていく。
それを突き進み通りの終端までいくと小型貨物用の搬送エレベーターがあるフロアに突き当たる。小型といっても耐荷重量は8トンあるので小型の作業重機くらいはなんなく運べる大きさだ。
同様のエレベーターはグリッドのそこかしこにあり住人達も利用しているが、ここは作業員専用でありさほど待たされることもなく二人は乗ることができた。
「兄ちゃんここに来てどんくらいになる?」
エレベーターで移動する合間にザルコンは何ともなしに尋ねた。
「一週間くらいですね」
「あ、この仕事やのうてルビコンに来てからや」
そう言われるとすぐには出てこない。彼がカレンダーを見る習慣のない暮らしを始めて随分と立つ。思い返せば長くいるような気もするがここに至るまではあっという間であったようにも思える。
漠然と地球に行けば貧しい暮らしをせずにすむと考えたこの少年は、故郷の星を出ようと貨物船に潜り込んだが粗忽にも乗る船を間違えルビコン3にやってきたのが15歳であったからかれこれ三年は経つだろう。
この星の名前はニュース記事で時折目にしてはいるが、コーラルがとれるというので企業が争奪に明け暮れる紛争地帯程度の知識くらいしかない。
最初はとんでもないところに来てしまったと自分の不運とそそっかしさを嘆いたが、しかし手持ちの路銀の残りからそれほど長くへこたれている暇はなかった。
なにはともあれとにかく生き延びねばならない。そのことだけで自然頭を埋め尽くすようになると、済んでしまったことを悔やむことをすぐに忘れてしまえた。
とはいえ、である。年端もいかぬ少年に世間知もなく手に職もなく、縁もゆかりもないルビコン3で生計をたてていくのは容易なことではなかった。
しかし幸か不幸かここは紛争地帯。危険だが金になる話はいくらでも転がっている。
始めは地元の子供がしているのを見よう見まねで、そこらに転がっている空薬莢や機械部品を拾って売り日銭を得た。
そのうち、金になるものを見分ける知識もつき、出入りしてるジャンク屋などからツテは広がりどこに行けばより儲かるかという情報も得られるようになった。
衣食住を差し引いても稼ぎにいくらか余裕がでれば、それをレーザーカッターや金属探知機などの仕事道具をそろえるのに使った。
それらがさらに効率よく稼ぎを増やせることに気付いた少年はやりがいを覚え、稼いでは機材に投資するようになった。
そうした甲斐性のある気質は刹那的に生きるドーザーたちの間では珍しいほうである。
機材投資は気が付けば作業用パワーローダーになり、MTになりと大きくなっていった。
安全な場所では使えるジェネレーターや戦闘用コンピューターなど金目のものはすぐに取り合いになる。そこで勝つには力が必要だというのも理解した。
さらに危険なところに近づけばより稼げる。そのためにはより強力な装備を求めていった末についに彼はACを所有をするまでに至った。
その間に少年は青年と呼べる年頃になり、苦労も重なったことから実年齢よりはいくらか大人びた雰囲気を帯びていた。
「――若いのに達者なやっちゃな」
パイルフィッシュの身の上話を聞いてザルコンは言った。それと同時にエレベーターはグリッド051の最下層部ボトムレイヤーに到達した。
「サヘ―さん、折り入って頼みがあって来た」
「頭取直々にお越しとは大儀なこっちゃの」
ソファーに腰を落とした胡麻塩頭に作業服という風体の中年男が鷹揚な口ぶりで言った。
体格は小柄で腹はややでているが手足が太くがっしりしており肥満というより固太りといったほうがいいだろう。
右の頬から首にかけて大きな傷跡があり、その怪我の後遺症のためか頭が常に右にかしいでいる。
男の鈍く光る双眸は小ゆるぎもせず底知れぬ深みをもって何かを探るように頭取の目をみつめる。
その眼差しには風格がありそれが見た目以上に彼を大きく見せていた。
「ようがす。御請けいたしましょう」
「まだ何も話してないが」
ぐすっと吹き出しながら頭取はいった。
「話を聞くと決めたなら請けるちゅうことや」
「そんな決まりはない」
「ある。おれの決まりや」
それなりに長い付き合いだがよくよく不可思議な男である。と、頭取は思った。
このサヘ―という男は頼まれればなんでも引き受ける。
それによって自分が損することをちっとも惜しまない。そのために自分の命に危機が及んだことなど両手では数えきれないほどだ。
そうして男の満身に刻まれた傷痕ががくぐった修羅場の数を物語っている。
およそ賢明とは言い難い生き様であるが、そんな目にあっても性懲りもなく訳も聞かず引き受けるというのだ。
欲得づくで動くのが当たり前のこの世界で、損得勘定も抜きに彼は自分の主義に従う。
「…ならば聞いてもらおう―――」
最終更新:2024年03月16日 13:58