武田金次郎

登録日:2024/07/08 Mon 23:20:09
更新日:2025/04/08 Tue 10:22:31
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武田金次郎(たけだきんじろう)
嘉永元年(1848)8月10日〜-明治28年(1895)3月28日
諱は(しん)





概要

幕末期から明治初期に水戸天狗党を率いていた常陸水戸徳川家家臣。
彼の人生は復讐から始まり…

誕生

武田金次郎は嘉永元年(1848)8月10日、常陸国水戸城下にて父•武田(たけだ)彦右衛門(ひこえもん)正勝(まさかつ)、その妻•幾子(いくこ)の長男として生まれた。
父の正勝は常陸水戸徳川家家老・武田耕雲斎(たけだこううんさい)の長男で、このころは家禄500石の書院番頭。母の幾子は常陸水戸徳川家当主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の腹心として有名な藤田東湖(ふじたとうこ)を兄に持つ。
耕雲斎と東湖は戸田忠太夫(とだちゅうだゆう)を加えて水戸の三田(みとのさんでん)と称される常陸水戸徳川家の英才であり、二人の血を引く金次郎は文字通りのサラブレッドであった。
平和な時代だったらね•••••

天狗党の乱

彼の人生が大きく変わったのは、元治元年(1864)3月27日の天狗党の乱。
藤田東湖の四男、藤田小四郎(ふじたこしろう)は京都で長州毛利家と交流したり「八月十八日の政変」*3に直面するうち
「もはや長州と連携した決起しかない!」
とますます思想を拗らせ、天狗党激派のトップであった耕雲斎の統制からもハズレて各地で遊説し、
「幕府ウウウ!!逃げるなアア!!!攘夷から逃げるなアア 横浜港を閉鎖しなかった件 その全ての責任は必ず取らせる」
当時の政局ネタである横浜鎖港を中心に攘夷を叫んでいた。*4
小四郎と62人の天狗党激派が挙兵し、これに呼応した浪士・農民らが各地から続々と集結。最盛期には約1,400人という大集団へと膨張した。
これは筑波山で挙兵したことから筑波勢と称された。

筑波勢は尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文に
「天皇は尊敬っす、幕府は助けるっす、攘夷を実現っす、ヨロシクっす!」
とあくまでも体制への反逆の意思は無く、攘夷の実行もあくまで東照宮=徳川家康(とくがわいえやす)の遺訓であると称していた。
攘夷が東照宮の遺訓というのは捏造なんですけどねwww

しかし、地元一帯で略奪放火をヤラかして、人気は急落。
特に江戸から日光東照宮への参拝路であった栃木の町や江戸と水戸を繋ぐ真鍋の町は放火で大被害を受け、消防活動中の市民の虐殺まで起こしていたので、北関東の諸大名は殿様から領民まで一丸となって幕府と常陸水戸徳川家に猛抗議し天狗党の鎮圧を要求した
おまけに対立する諸生党は江戸屋敷でクーデターに成功し、斉昭の後を継いだ当主・徳川慶篤(とくがわよしあつ)の身柄を確保するという世紀の大失態を耕雲斎がやらかす
当初は激派を支持していた幕府の政事総裁職・武蔵川越松平家の松平直克(まつだいらなおかつ)
「反逆する気がないなら放置」
としていた幕府だったが、一帯の治安崩壊、そして激派寄りだった慶篤が身の危険を避ける為に諸生党の傀儡に転じ松平直克を厳しく批判し、幕府内では松平直克を政事総裁職から解任*9、天狗党追討を決意する。




と実は国家元首として対外戦争の責任を取らされると解ると、
「オレへ色々吹き込んでくれた挙げ句、オレの家にまで砲弾をブチ込んだ長州へお仕置きからの御詫びと反省が最優先!外国とのやり取りはそれから!」
との意を示す。
つまり禁門の変で敗北した長州毛利家の攘夷派は朝敵となり、また朝敵討伐により攘夷や横浜封鎖も後回しとなったことは、長州攘夷派と盟友関係*11にあった天狗党も''はしご‘‘を外されてしまう。
更に追い打ちを掛ける様に、江戸から水戸へ帰った諸生党が水戸にいる天狗党の家族に報復行為をした為、外堀を埋められた天狗党はいきなりクライマックスを迎えてしまった。

一方、激派は軍勢を集め直して慶篤に迫り、江戸屋敷の再奪取に成功。再び身の危険を避ける為、慶篤は天狗党の傀儡になる。
そして国元での実権も奪還すべく、分家筋で常陸宍戸松平家の松平頼徳(まつだいらよりのり)を大将に据えた天狗党の一団が水戸に向かうこととなる。

大発勢と呼ばれたこの軍勢に祖父耕雲斎、父彦右衛門、金次郎も参加したが水戸城奪回に失敗。
そこに筑波勢が水戸にやって来て、大発勢に加勢しようとする。
これを諸生党は逃さず、田沼意尊(たぬまおきたか)率いる幕府による討伐軍を味方に付けて大発勢の撃退に成功した。

祖父耕雲斎は、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、大将の頼徳を切腹させられていたこともあり*12結局共に諸生党と戦うことになった。

体制を建て直し、武田耕雲斎を首領に、筑波勢の田丸稲之衛門(たまるいなえもん)と藤田小四郎を副将とし、上洛し禁裏御守衛総督・摂海防御指揮の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)*13を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。

耕雲斎らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定め、道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。


天狗党は同年11月1日に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。

信濃と美濃の国境の街道の封鎖を幕府軍が開始したため、天狗党は中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。

同年12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。

天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。

同月17日、加賀前田家に投降して武装解除した。

田沼意尊率いる幕府軍が敦賀に到着すると状況は一変する。
関東において天狗党がもたらした惨禍を目の当たりにしていた意尊らは激怒し、


前田家から引渡しを受けるとただちに天狗党を鰊倉(にしんぐら)(鰊粕の貯蔵施設)の中に放り込んで厳重に監禁し、小四郎ら一部の幹部達を除く者共には手枷足枷をはめ、衣服はフンドシ一丁に限り、一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えることとした。

腐敗した魚と用便用の桶が発する異臭が籠る狭い鰊倉の中に大人数が押し込められたために衛生状態は最悪であり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者が続出し20名以上が死亡した。

この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑、戦死・戦病死者も合わせると411名の天狗党員が亡くなった。

この辺りの処分に対する感想は東西で温度差があり、関東では天狗党の処分は当然と見做していたが、西日本では薩摩島津家の西郷隆盛などは、
「幾ら何でもやり過ぎ、ドン引きー」
と記していて、被害者と傍観者の差が出ている。

水戸に住んでいた家族は…市川三左衛門(いちかわさんざえもん)ら諸生党が中心となって女児・幼児を含む天狗党の家族らをことごとく処刑した


乱のその後

一方、遠島に処せられることになった金次郎以下110名の身柄は敦賀を領していた若狭小浜酒井家に預けられていたが、第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が死去して慶喜が将軍位に就くと、配流は中止されて謹慎処分へと変更されることになり、若狭国三方郡佐柿(福井県美浜町)の屋敷に移し准士分格として厚遇された。

報復のバーゲンセール

孝明天皇が崩御、明治天皇(めいじてんのう)が踐祚、大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦いと時代が変わり、鳥羽伏見の戦いで勝った薩摩島津家と長州毛利家が明治天皇を擁して京都に太政官を樹立。
本圀寺党*24は諸生党を排除して水戸に帰る機会と捉え、当主•徳川慶篤と血縁関係にある有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)や前尾張徳川家当主•徳川慶勝(とくがわよしかつ)から支援を取り付け、太政官から、
「要するに諸生党って太政官に味方しないんでしょ。
なら、ブッ殺し上等!
反論は受け付けない!」
と諸生党誅殺の勅諚を得た。

金次郎ら天狗党の生き残りは恩赦を受けた。

小浜から京都に戻ってきた金次郎たちに岩倉具視(いわくらともみ)から
「僕と契約して、官軍になってよ!」
と勧誘されたが、金次郎は
「汚名挽回のチャンスをくれ!!」
と返答、岩倉は
「汚名を挽回してどうする」
とツッコみたくなったが、ガマンして、
「金次郎くん、君こそは水戸の真の救い手になれるだろう」
「諸生党は皆殺しだ。奴らは水戸の大義を根絶やしにする醜悪な殺戮者だ」
「全ての準備は我々がととのえる。諸生党を殺して水戸を救い、かつ君の正当な地位を回復したまえ」
と金次郎に勅諚をチラつかせて甘く囁やく。金次郎は
「そうだ……私こそが……水戸の大義の担い手なのだ……私こそが……」
「諸生どもめ……諸生どもめぇ……!」
と復讐の炎をたぎらせ、勅諚で殺人が正当化されたので
「ねんがんの さつじんきょかしょう を てにいれたぞ!」
「いや…これさえあればあんなヤツらなんかに!」
と本当に嬉しそうに、凄まじいワルそうな笑みを浮かべた。

本圀寺党とここで合体して、
「さいみ党*25
称し江戸屋敷や国許の常陸水戸徳川家を掌握して報復を開始し、130名の同志とともに東下したが、斃れた一族の仇を果たさんと復讐に燃える金次郎は


と今度は江戸と水戸で諸生党の家族らを女児・幼児を含めてことごとく処刑した。

その間、慶應4年(1868)4月5日、慶篤は水戸城中にて死去。
享年37。

平和な時代なら長男の篤敬(あつよし)が相続したが、清水徳川家当主となっていた異母弟の昭武(あきたけ)が常陸水戸徳川家の家督を継いで当主となった(当時、満年齢で篤敬は12歳、昭武は14歳)。

昭武が1867年パリで行われた万国博覧会の日本代表として欧州派遣中だった為、帰国はかなり先の明治元年(1868)11月3日。
慶篤は表向きは城中にて重病とされ、喪は伏せられた。
昭武の養子縁組は同年11月18日、同年11月25日に家督相続、その後、慶篤は同年12月に、亡くなったという話になった。
お前はもう死んでいる、んですけどね
その間、常陸水戸徳川家は重臣たちの合議制で運営されていた。

話を戻すと水戸を脱出した諸生党は会津松平家に亡命し、金次郎が


「キサマらの骨にこの手で、戒名を刻んでやるぞ~!」
と軍を率いて太政官側に参戦して追撃する話になった。

会津松平家が太政官に降伏し*26行き場を失った諸生党*27は同年9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった*28

彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、同年10月6日の松山戦争で壊滅。

こうして市川ら諸生党の残党を
「絶対許さねえ……!テメエは戦いを生み出す権化だぁッ!!」
と捕まえたりして処刑。*29

藩治職制*30により「水戸藩」と名前が変わり、金次郎は参政、権大参事*31へと就任したが、諸生党に対して弾圧を加え続け、水戸は一躍、報復のバーゲンセールと化した。





500人の水戸藩士が金次郎の
「最高のショーだとは思わんかね?おぉ……」
「ハハ、見ろ!人がゴミのようだ!ハッハッハッハ!」
と復讐劇を止める様に藩主の徳川昭武に申し出るが、天皇の勅諚を盾に振る舞う金次郎を誰も止める事は出来なかった。







叔父が金次郎により濡れ衣を着せられ*32、貧乏のどん底に落とされた山川菊栄(やまかわきくえ)
「無知で幼稚な彼を支配するものは、空虚な名門の思い上がりと、朝廷からの、まるで復讐をあおるような甚だふさわしからぬお言葉だけであった。
五カ条の御誓文*33などよめもせず、読んできかされてもわかりはしなかったろう。
彼の党派には、バクチですった恨みをはらすため、または酒の上のケンカから、相手に「天誅」を加えた、ならず者同然の輩も存在していた」

と記している。

また、天狗党改めて''さいみ党‘‘側が諸生党と判断した藩士達を獄舎に投獄。

簡単な裁判で打ち首にしていき、その数は慶應4年(1868)3月〜明治2年(1869)7月までに300人に及ぶ。

そして廃藩置県まで水戸藩は、派閥争いで勝った''さいみ党‘‘が内ゲバで荒れ果てた領内の再建に諸生党の生き残りや家族を士分から平民に身分を落として移住させ、開墾に従事させた。

外に出で働く時は罪人を意味する赤頭巾を被らせて、赤い小さな印が付いた囚人服を着せて、どこに居ても直ぐ政治犯と分かる様に''さらし者‘‘にした。

諸生党の生き残りの中には、こんな思いまでして地元に居たくないと故郷を去る人も居たし、出ていくだけの金=旅費が無いからという経済的な理由で、仕方なく水戸に住み続けた人もいた。

復讐の先に見たモノは?

明治4年(1871)の廃藩置県後、茨城県になってから参事に就任したとあるが、長続きせず、辞職。

金次郎は復讐から解放されたが、復讐に全力過ぎたのと内ゲバに捧げた少年期ゆえに勉強武芸礼儀作法等の学習が不十分であり、茶の湯生け花和歌などの趣味もなく、秩禄公債を元手に商売農業をするわけでもなかった。
辞職へと至る詳細自体は不明なものの、こうした基本的な技能の不足が一自治体の管理職クラスとしては不適格だったのかも知れない。
何の取り柄もない金次郎に仇討ちという名目から勅命で殺人を認めるという贅沢と参事任命で十分彼に不遇への報いは与えていたので助ける義理はもう無さそうだが、それでも、時間を作れば少しは勉強くらいは出来る筈だったのだが•••••

辞職後から亡くなるまでの足取りは長いこと不明だったが、2018年に入って新たな資料が茨城県立歴史博物館より発表。
それは旧水戸徳川家出身、香川敬三(かがわけいぞう)*34が那須塩原温泉に赴いた際に出会った人物が武田金次郎だったという旨が書かれた手紙である。

手紙は当時伯爵だった香川が明治27年(1894)12月23日、知人の酒泉直(さかいずみただし)に宛てたものだが、なんと武田金次郎は物乞いに身を落としていたというのである。


当時、香川らは旧水戸藩士で活躍した者たちの顕彰活動を支援していたが、この時点では香川と武田は何度か顔を合わせた程度で面識らしい面識は無かった。
明治27年(1894)12月、武田の近況を知っている岩間誠之(いわましげゆき)*35
「武田って、今、なにしてんの?」
と話したら、岩間は
「えっ~、塩原温泉でボンビーライフ過ごしてんじゃねぇ?知らんけど」
と答え、香川は聞き及んで実際に塩原を訪問すると、そこにいたのは道端のボロボロの小屋で物乞いをしている武田金次郎だった。


ウワサが本当だったこと当然ながら香川は仰天。
怨恨に駆られ、苛烈な手段で対立派を根絶やしにし続けたあの武田金次郎が今やこんな状態なのかと驚くと同時に思わず涙を流したと書かれている。
この頃の金次郎は脚が不自由で寝起きに難渋し、香川が馬車から下りて金を渡すと、涙を流して喜んでいたのだとか。

その後、香川は参事辞任後の足取りを金次郎の知り合いだった士族たちから聞き取る。

ある士族には70円、しばらくすると50円、10円、7円と金をタカリに来たり、時には元殿様の徳川昭武に金を借りに来て、手切れ金として1000円*36渡したとの話もあったが、見事に酒と女で使い切り、かつての復讐の苛烈さが祟ったのか殿様や重臣*37はおろか、生き残りの水戸士族や親類縁者からも相手にされず、過去の栄光に浸るだけのイタい奴に成り下がり、金が無くなると日雇いの人足や温泉街で住み込みの風呂炊きの仕事をして*38、日銭を稼いでその日暮らしに終始し、脚が不自由になると物乞いや浮浪者として暮らしていた。

香川は東京に戻ると、酒泉直に対し、廃藩置県後、一度、数百円を渡した事はあるが、誰も救いの手を差し伸べなかったのか? 討幕に貢献した水戸の首領まで務めた人物が温泉街で物乞いをして入浴客の見世物になっている現状は水戸の恥ではないか? と水戸側の対応に苦言を呈していた。聖人かな?

駄目だこいつ……早くなんとかしないと……
と決意した香川は一時金として50円を与え、親族の藤田健(ふじたけん)*39や上述の岩間らと共に金次郎を保護。
身柄を水戸に帰したという顛末が明治27年(1894)12月25日、酒泉直から香川宛の手紙に記されていた。

保護から3ヶ月後の明治28年(1895)3月28日、日清講和談判のために来日して清国全権李鴻章(りこうしょう)小山豊太郎(こやまとよたろう)に銃撃されるという衝撃的な事が同月24日が起こり、日清戦争をめぐる国際的な緊張が高まるなか、水戸の一隅でひっそりと、寂しく、復讐という亡霊に憑りつかれて悲劇的な48年の生涯を閉じた。

明治40年(1907)、正五位を追贈された。

あっ、今までに貰ったお金を自己研鑽や生活の安定化に使っていたら、破滅は回避出来たでしょうって言わない。

東京に出て、
『''さいみ党‘‘の武田金次郎です』
と話し、旧天狗党の名前を出しても天狗党って敦賀で全滅したんじゃないの?生き残りなんていないでしょ、詐欺でしょ?と疑われる始末。
要するに会津の白虎隊と同類で*40世間で注目を浴びたのは天狗党なら敦賀、白虎隊なら飯盛山で亡くなった人達。
時代の敗者の生き残りには見向きもしないのである。

就職活動してもプライドの高さや過去の栄光がジャマして上手く逝かなかったんだろうし、配偶者がいなかったのを見ると周りは薦めなかったし、自ら押しかけ女房になる人がいなかった処を見ると、女性からは人気なかったんだろうね。

そして誰もいなくなった。

幕末の常陸水戸徳川家は天狗党とそれに反発する諸生党の内ゲバの嵐で人も時間も浪費するだけに終始した。
明治維新で活躍した水戸系維新志士というと、出奔して中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の下にいた香川敬三(宮内省官僚、伯爵、枢密顧問官)、やはり出奔して岩倉具視の下にいた北島秀朝(きたじまひでとも)(会計官判事、東京府判事、和歌山県権令、同県令、佐賀県令、長崎県令)くらいしか人材がいなかった。

役人として任官させたくても、士族の知的水準もパッとせず、警察官しかも巡査くらいが関の山という有り様だった*41

…凄惨な内ゲバ自体は他の大名家でも結構存在していたものの*42、大抵は勝った側も敗北側の一部主導者等少数のみを「見せしめの生贄」にする事で事を治めるケースが多く、報復のバーゲンセールでここまで大々的にお披露目したの、水戸ぐらいである。

こうして尊皇攘夷の総本山と謳われた常陸水戸徳川家はそのエネルギーを内ゲバに費やして、全てを終えたのだった。

そもそもの話

常陸水戸徳川家はその名の通り、徳川将軍家の分家で将軍家の継承権すら持つ名門であり、当時の当主・慶篤は母方から皇族の血を引いている。

殆どの大名が戦々恐々としていた改易の恐怖から無縁に近い数少ない家だったのである。

現に、2代当主の徳川光圀や次代の綱條の時代には年貢の割合8割と言う幕府の天領の3倍近い重税を敷き、減税要求の一揆が多発していたにも関わらず目立った処罰を受けていない。
他の大名は内紛で改易や減封の危機に戦々恐々としていたので、内ゲバを起こしても責任者数名の切腹や隠居+謹慎で済ませる知恵を自然と身に着けていたが常陸水戸徳川家は改易や減封が無いのが当たり前と危機感が麻痺していた一面が見受けられる。

そもそも、常陸水戸徳川家の中心的な存在であった徳川斉昭は安政の大獄で蟄居させられた後に心筋梗塞と脚気の合併症で亡くなったが、60歳と当時の基準ではかなりの高齢であり、体調を崩せばそのまま悪化して亡くなってもおかしくない年齢である。

にもかかわらず安政の大地震で藤田東湖、戸田忠太夫を亡くして以降、家中を導く人材の育成を怠り、息子の徳川慶篤は母親似で柔弱だからと帝王学を学ばせず中央を牛耳るほうに熱を入れすぎた結果、自身が亡くなって以降の内ケバを招き常陸水戸徳川家はガタガタになってしまった。

また、幕府の弱腰外交を糾弾し自分の剛健ぶりをアピールするために開国論に反対したことも水戸を始め全国の攘夷派を勢いづかせて手綱を握れなくなるなど完全に裏目に出ており、斉昭は福井松平家当主・松平慶永(まつだいらよしなが)に、

「本当は開国しかないが私は攘夷派の頭目と攘夷派の人々に思われているため、開国と言えないので貴君らが開国を計らって欲しい」
との手紙を書いている。

こうなってしまえば、今更取り下げても攘夷派から裏切者のレッテルをはられて殺害されるのは目に見えており、下世話に言えば、
「飼い犬に手を噛まれる」
という言葉がこれ程似合うのも珍しいレベルで合致している。

下手な三文芝居に手を出さず最初から素直に出来ないと話していたら、水戸の内ゲバはここまでこじれなかったのではないだろうか?

名声を稼ぐことに固執したあまり周囲や自分の死後のことを視野に入れず足元を疎かにした斉昭の管理能力の低さが水戸の荒廃を招いた一因であることは否定しようがなく、暗君といわれても仕方のない部分がある。

勝海舟(かつかいしゅう)からも(斉昭の芝居がかった立ち振る舞いを毛嫌いしていた事もあって)、

「天下の安寧に貢献せずちょっと芝居をやった程度では名は上がらないさ(意訳)」

とこき下ろされている。

一方でほぼ同時期に亡くなった島津斉彬(しまづなりあきら)は実権を握った弟の島津久光(しまづひさみつ)がそれなりに節度を弁えていたこと、西郷隆盛大久保利通(おおくぼとしみち)小松帯刀(こまつたてわき)といった見識と行動力のある人物の育成を怠らなかったおかげで、薩摩島津家は明治維新の主役として大躍進を遂げている。

ちなみに海舟は斉彬を
「西郷を見抜いて重用したのも偉いし、自分に人を用いることを急いてはならないことと十年ぐらいかけないと事業というものは取りとめの付かぬものだという事を教えてくれた偉い人だ(意訳)」
とべた褒めしている。

また、水戸学の基礎となった朱子学は漢民族が満州人にボコボコに負けていた時代に出来た学問であり、正統論に拘るあまり現実的な状況分析や判断が出来なくなる傾向が有る事は南宋、明、李氏朝鮮の失敗からも伺える。

ましてや、西欧諸国のやり口として原住民同士の諍いを煽って、優秀な人材を潰して指揮系統を乱し、物量の優位を殺してから侵略すると言うやり方は戦国時代の時点で日本人には見抜かれていた。

真剣に国防を考えるなら、内乱もそれに伴う粛清も最小限に抑えて、指揮系統の一元化を達成しなければ、西欧諸国に対抗出来ないのだ。 

その割には、第二次世界大戦の日本は指揮系統、グダグダだったなぁ〜*43

で、尊王攘夷に役に立ったかと言うと完全に逆効果

福井藩に物理学教師として雇われ、のちに東京大学教授になった米国人ウィリアム・エリオット・グリフィスは、
「白人の屑*44共が現地のルールを無視して日本人に害を加えていた」と尊王攘夷派の言い分に一定の正しさを認めているが、結局
「大衆、特に開港地横浜近くの関東の民衆が尊王攘夷派の味方に付かなかった」
が故に尊王攘夷運動が失敗したと大正時代に回想している。

庶民にとっては不良白人による市街地での乗馬*45や乱闘で日本人に被害が出た事に対する怒り以上に、街や村を幾つも焦土と化した水戸天狗党に対する怒りの方が激しかったのだ。

横浜開港後、内陸部の八王子などの宿場町を繋ぐ街道が「絹の道」と呼ばれるくらいに生糸交易で裕福になった人たちが存在したり、岡田平蔵(おかだへいぞう)みたく外国との取引で財を成したり*46大倉喜八郎(おおくらきはちろう)みたく戊辰戦争のドサクサを渡り歩いて財を成したりと、頭を使い、やり方しだいでは幾らでも豊かになる事が証明され、天狗党の尊王攘夷が下世話に言う処の
『貧乏人のひがみ根性』
というのがバレてしまった*47

もう一つは振り上げた思想の行き先である。
朱子学=中華思想の視点で言えば日本は東夷であり、本来は使えないのだが、水戸学なり日本の尊皇思想は天皇家を中華皇帝の位置に置いて尊皇と攘夷を繋げた。

出来もしない攘夷を保身の為に引っ張るというのは、後の徳川幕府も行ったし、戊辰戦争で成立した太政官は攘夷のエネルギーを討幕に引っ張る為に引きずっていたが、攘夷派から攘夷を迫られると二卿事件で河上彦斎らを謀殺して有耶無耶にしたが、征韓論、台湾出兵という形で燻ったり、自由民権運動で民権運動家が帝国政府の外交を軟弱と批判のネタにするという先祖返りを果たした。

水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに盛んに称揚された。
特に、明治23年(1890)、明治天皇の水戸行幸の直後に発せられた教育勅語は、「国体」や「斯道」など水戸学における中心的な用語が使用され、内容も水戸学の影響が顕著である。

明治天皇は、光圀・斉昭に正一位の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して常磐神社の社号とそれぞれに神号を下賜し、別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)*48に列した。

また、明治39年(1906)に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた史書保存のための費用を下賜し、それによって彰考館文庫が建造された。

大日本史編纂の功績により常陸水戸徳川家を徳川宗家や五摂家などと同じ公爵に陞爵させた。

第二次世界大戦後、水戸学は天皇制、日本軍国主義を支えた思想として否定的に捉えられるようになり、戦前までのように称揚されることはなくなった。



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最終更新:2025年04月08日 10:22

*1 戊午の密勅。これそのものは正規の勅書だが、幕府を差し置いて常陸水戸徳川家へ直接下賜された徳川体制を揺るがす代物で、幕府により隠匿された

*2 建国の原理とそれに基づく国家の体制

*3 文久の政変とも。急進的な尊王攘夷を唱える長州毛利家と彼らが担ぐ公卿達を朝廷から追放した

*4 孝明天皇や攘夷派の不満をガス抜きする為、幕府は江戸に近い横浜の閉鎖を交渉する横浜鎖港談判使節団をフランスに派遣した。はなから達成不可能な任務で、使節団の本当の目的はフランス士官殺害事件の賠償交渉だった。

*5 八重洲は慶長5年(1600)に帆船「リーフデ号」の乗組員として日本に漂着したオランダ人、ヤン・ヨーステンの名に由来するというのが一般的な説である。ヨーステンは徳川家康に召し抱えられて国際情勢顧問や通訳として活躍、また朱印船貿易家としても活動した。その名は「ヤンヨウス」「ヤヨウス」などと呼ばれ「耶揚子(耶楊子)」などの漢字があてられた。ヨーステンが家康から与えられた屋敷の周辺を「やよす河岸」などと呼ぶようになったのが、地名としての「八重洲」の起こりである。

*6 1643年の陸奥盛岡南部家で起きたブレスケンス号事件(オランダ船が南部家の港に停泊しただけなのだが、幕府は過剰に反応、将軍と商館長との面会を拒絶する様になった。後に和解。)。これ以後、オランダ船は長崎のみ寄港。

*7 ポルトガル王室出身

*8 とは言っても、徳川幕府が見せた外交での法令の重ね方は今の官庁でも良く見る形なので、ある意味日本の伝統芸能である。

*9 元治元年(1864)6月22日政事総裁職を罷免。

*10 「八月十八日の政変」で長州毛利家が京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える為に起こした武力行使。

*11 長州毛利家・水戸徳川家の攘夷派が結んだ「丙辰丸の盟約」

*12 同年10月5日に頼徳は水戸で諸生党と交戦し、幕府に敵対の意思有りと見なされて切腹。享年34。

*13 後の15代将軍・徳川慶喜

*14 耕雲斎の妻。旧姓人見(ひたとみ)。

*15 耕雲斎の長男。金次郎の父。

*16 彦右衛門の妻。旧姓藤田。

*17 彦右衛門三男。

*18 彦右衛門四男。

*19 彦右衛門の娘。

*20 彦右衛門の五男。

*21 耕雲斎の六男。

*22 耕雲斎の七男。

*23 耕雲斎の妾。

*24 常陸水戸徳川家当主•徳川慶篤に率いられた尊攘派家臣が駐屯し、皇室や徳川慶喜の警固に当たっていた。名前の由来は本圀寺に駐屯していたから。

*25 細布(さいみ)と呼ばれる麻の、太政官から支給品の陣羽織を着用していた事から付いたあだ名

*26 明治元年(1868)9月23日に降伏

*27 約860人程。中には新選組、陸奥会津松平家、越後長岡牧野家の生き残りも加わっていた

*28 弘道館戦争

*29 市川は水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処されたのだが、その処刑の直前に発した最期の言葉は「勝負はこれから。」だった。享年54。

*30 明治元年(1868)10月28日に布達された太政官令。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を,藩主,執政,参政,公議人などの職制に統一。収入の使い方や兵隊の上限などが定められた布達

*31 年収350両、それなりに金持ちだよ。

*32 叔父の青山延寿(あおやまのぶとし)が弘道館教授として天狗党・諸生党双方に分け隔てなく接したため両派に知人・友人が多く、派閥抗争からは距離を置く態度を取った。それを金次郎から内通とレッテルを貼られ、蟄居処分を下された。このさい職を奪われ邸宅も没収されたため、家族とともに生活に困窮した。

*33 太政官が国内外に示した国の基本方針

*34 天狗党が挙兵する前に水戸を出奔、岩倉具視や中岡慎太郎の下で活動した水戸出身で数少ない成功者。戊辰戦争のときに東山道軍総督府大軍監に任ぜられ、近藤勇を襲撃し捕縛した新選組の仇敵

*35 長州・水戸が結んだ「丙辰丸の盟約」を仲介した岩間金平の改名

*36 19世紀は金本位制社会で明治時代初期の1円が純金1.5g相当、銀の大暴落が起こった日清戦争後が0.75g相当。欧米で労働者階級の核家族の基本月俸が純金5.8~7.5g相当の金貨1枚、大卒の新米弁護士がその3倍程度だった事から、家庭持ちの庶民の17年分の年俸、高等教育を受けた新人専門職の5年分の年俸以上の金額である

*37 重臣たちも香川に仕事を下さい、お金を下さいとおねだりしている手紙が散見されるから、困窮していたのが理解出来る。

*38 山川菊栄は伊香保温泉の風呂炊きをしていると著書(幕末の水戸藩)に書いていた

*39 藤田東湖の次男。藤田東湖の死後、家督を相続。金次郎のいとこ。金次郎と距離を置いていた穏健派

*40 会津の白虎隊も総勢305人、戦死者37人、自刃者20人、内、飯盛山で19人。

*41 薩摩士族や会津士族は戊辰戦争や西南戦争で数は減らしていたが、警察官に採用されたら、警部や警視まで引き上げられる位の層の厚さはあったが、水戸は•••••

*42 薩摩島津家は斉彬(なりあきら)と久光(ひさみつ)の家督相続を巡る「お由羅騒動」と一部強硬派を武力蜂起前に粛清した「寺田屋事件」。土佐山内家での「土佐勤皇党」による家老•吉田東洋(よしだとうよう)の暗殺と保守派家臣の政権奪取、それに対する反撃で「土佐勤皇党」の粉砕と若手家臣団の台頭。長州毛利家で攘夷派と保守派の対立の末に追い詰められた攘夷派が逆転勝利した「攻山寺挙兵」。城山三郎の『冬の派閥』に書かれた尾張徳川家の「金鉄党(攘夷派)」対「ふいご党(佐幕派)」の内ゲバ。映画『北の零年』は阿波蜂須賀家の内ゲバ「稲田騒動」の後日談である。なお尾張徳川家と蜂須賀家の内ゲバは最終的に蝦夷地開拓が落とし処になっている。

*43 寧ろ第二次世界大戦の直前の日本は昭和天皇から指導力を期待された斎藤実が暗殺され、岡田啓介が失脚した後に『内紛と粛清を最小限に抑える』事を重視し過ぎた結果、指揮系統と政府の意思統一が乱れた側面も強い

*44 グリフィスは尊王攘夷派よりも此等の不良白人の方に怒りを向けている

*45 江戸時代は原則的に市街地での乗馬は禁止、公務や公務に準じる領内視察を兼ねた寺社参拝などで将軍や大名が市街地で乗馬する事は許されていたが、彼等も市街地での駆け足は禁止されていたし、乗馬が可能な郊外でも乗馬中に人を傷付けたら処罰と多額の賠償を支払う規則だった。生麦事件の際に薩摩藩一行が下馬して道の脇に拠ったアメリカ人とは友好的に別れたのに対して、乗馬したまま徒歩の護衛の中に突っ込んだイギリス人に抜刀して殺したのも、庶民相手でも重罰必須の行動をVIPの護衛相手にやったのだから当時の日本人的には当然の行為である。

*46 江戸の商人。後に井上馨と組んで尾去沢銅山事件を引き起こす

*47 長州の長井雅楽や長岡の河井継之助が喝破している

*48 国家のために特別な功労があった人物を祀る神社。当時の「官国幣社昇格内規」には「国乱を平定し国家中興の大業を輔翼し、又ハ国難に殉せしもの、若くは国家に特別顕著なる功労あるものにして、万民仰慕し、其の功績現今已に祀られしものに比して譲らさるもの、但し一神一社に限る」とあり、明治5年(1872)に楠木正成を祀る湊川神社が列格されてから、昭和21年(1946)に制度が廃止されるまでの間に、28社が別格官幣社に列格されている。