ターフ・デイシヤ
tarf.dejixija (リパライン語)
tayhfE tayhfE deltiy (現代標準リナエスト語)
ターフ・デイシヤの公式肖像画
生年月日 1955年5月1日
出生地 ラネーメ共和国 旧リナエスト島(母島) マカティ(天神)
(現フラッドシャー連合公国 メッシュ島(母島) シュレリーフィ)
没年月日 -
死没地 -
出身校 天神大学
所属政党 リパラオネ民族自決党
立場 リパナス主義
リナエスト同胞思想
リパラオネ民族主義
反ラネーメ主義
配偶者 -
親族 【親族】
称号 リパラオネ民族自決党広報部長(Xeparkiniesesaluster
サイン
渾名 TTD(terterder、テーテーデー)
キィルフィヤの秘蔵っ子(kjilfija'd flernepher
「全てのリパラオネ人はリパラオネ的価値観に奉仕するべきである」

―ターフ・デイシヤ
ターフ・デイシヤ(理: tarf.dejixija、里名ダーフェ・ダーフェ・ヅニェーイツィヤ(里: tayhfE tayhfE deltiy))は島嶼系中央リナエスト人(メニョイシア)のケートニアー男性の政治家・活動家・研究者。リナエスト同胞思想からリパラオネ人を自称している、リパラオネ民族自決党の広報部長である。


略歴

幼少期

 1955年5月1日、ダーフェ・ダーフェ・ヅニェーイツィヤはデーノ共和国・母島の天神に生まれた。主要民族はラネーメ人であるが多くの民族が混在する母島において、複雑なアイデンティティを持つようになる。
 彼が属していたリナエスト人コミュニティはリパラオネ人コミュニティと距離が近く、若い頃から多大な交流を行った。このリナエスト人コミュニティの家祖はターフ・ルキアの末裔であるというのが伝説としてあった。彼の理名であるターフ・デイシヤも後の僭称ではなく、生まれつきに名付けられたものである。これも影響してか、彼は自らはラネーメ人やヴェフィス人ではなくてリパラオネ人と同胞である、という考えを若くして持つようになった。その過程で、ターフ・ナモヴァフの著作に若くして出会い、リパラオネ民族主義に心酔していく。

青年期

 1974年(19歳)、天神大学に入学。教養学部を選択し、ラネーメ歴史言語学・燐字学の大家であるキャスカ・ファルザー・ユミリアから指導を受ける。本来はナモヴァフの薫陶を受けたいと考えていたが、居住地域などの弊害から叶わなかった。ユミリアの研究分野はヅニェーイツィヤと信条と相対するものであったが、のちに彼が語ることには、「毒を知るならば毒に近付かなければならない」と考えたという。薫陶を受けるうちに、ユミリアのことを思想は違えどその技量について尊敬するようになった彼は、彼女のもと研究過程に進むことを決意。この時期の代表的な論文は『リパライン祖語における現在動詞*liaの機能に関するリナエスト的考察』。ユミリアとは、研究に関する話題は最小限にとどめることで、プライベートにおいては良好な関係を築いた。
 1992年(37歳)、第二次ホメーンアッシオ戦争勃発。天神大学はたびたび襲撃の対象となり、特にユミリアはその研究内容や、そもそもの知名度から命の狙われやすい存在であった。ヅニェーイツィヤは、天神大学高度貴重文書館に立て籠もり資料の保護のために抗戦するユミリアと行動を共にしていた学生陣の一人であった。しかし、本格的なレアディオ軍兵士による侵攻が進むと、大学も突破される。激怒作戦においてニー・アニエーティヤらによる銃傷を負い、スキュリオーティエ叙事詩の原本を抱えながら燃え盛る文書館とともに死にいくユミリアを尻目に、彼は投降した。本来は処刑されるはずであったが、レアディオ兵が彼の論文を見つけたことで許され、なんとか逃げ延びた。
 戦後、ユミリアを裏切った思いやレアディオ兵への恐怖などといった感情への倒錯した回答としてリパラオネ民族主義を見出し、リパナスに急接近するようになる。この頃に、彼の論文に興味を持ったアレス・キィルフィヤや、フィシャ・グスタフ・ヴェルガナーデャとも知り合っている。特にキィルフィヤとは交流を深め、寵愛を受け、キィルフィヤの秘蔵っ子kjilfija'd flernepher)と呼ばれる。この頃から、里名のダーフェ・ダーフェ・ヅニェーイツィヤではなく、ターフ・デイシヤと、理名で活動するようになる。

ユエスレオネ以降

 2003年(48歳)、リパナス党lipanasa'd Fifoes)に設立メンバーとして参加。2004年に、共産党によって下されたヴェルガナーデャに対する粛清宣告に対し、反対運動を展開。共産党政権を「反動旧政府と政治手法が変わらない」と厳しく批判したことで、自身も収監刑を受ける。2005年にショレゼスコが発生し、釈放・復党する。実質的にキィルフィヤの罪まで被り、彼を庇って収監されていたことから、キィルフィヤから全幅の信頼を得る。
取材を受けるデイシヤ(2015年)
 2018年末、ターフ・ヴィール・ユミリアによる複数の汚職スキャンダル(ユンカーの鐘)によりユミリアに不信任案が提出され、第二次社会党政権は崩壊することが確定した。次期選挙に向けた動きが強まる中で社会党は二つに分裂した。これを好機と見たリパナス党のキィルフィヤは、保守穏健層との政党合流によって保守派躍進を狙った。こうしてリパナス党、人民会議党、ラネーメ民族党が合流することとなった。
 デイシヤは、キィルフィヤのこの行動を「政局に基づいた判断で、リパナス主義を歪める」ものとして批判。同じくキィルフィヤ新党への合流を拒むヴェルガナーデャらとともに、リパラオネ民族自決党を結党した。キィルフィヤの秘蔵っ子とまで言われ、彼の右腕としての地位を確立していたデイシヤは、師に牙を剥いたのである。
 リナエスト人でありながら極右リパラオネ民族主義政党に所属するデイシヤは世間からは好奇の目で見られ、党本部もこれを利用して、彼を広報部長へと任命する。この頃から、TTDとの愛称で知られるようになる。党内では、リパナス主義を堅持し、特定派閥に靡かない無所属派の有力者として知られている。人数は少ないながらも結束が強いことで知られるこの派閥は、党内のキャスティングボートを握る存在となることも珍しくなく、党内で独特の地位を確立している。

人間関係

  • キャスカ・ファルザー・ユミリアについては、多大な思想的相違があるものの、プライベートにおいては良好な関係を築いていたとされている。大学時代は、入学前に心酔していたリパラオネ民族主義も鳴りを潜め、ターフ・ナモヴァフの理論的研究に勤めていたといわれている。そのため、彼女を見殺しにしたという罪悪感は極めて強く、誤った・もしくは安易な理解に基づくラネーメ批判を嫌う。この姿勢は、民族自決党内では「ラネーメ擁護派」と捉えられることも多い。
  • アレス・キィルフィヤについては、さまざまな場で批判しており、「リパナス主義を土壇場で裏切り、日和見主義に転向した政局重視の政治家」と述べている。一方で、国民党結成以前を述懐する文脈などでは、「優れた理論的政治家で、リパナス直系」などと、肯定的な評価も多い。
  • フィシャ・グスタフ・ヴェルガナーデャのことを、「排外主義者にすり寄る危険な政治家」、「CEIFとの妥協が過ぎる」と周囲に漏らしていると言われており、党内での二人の政治的不仲はよく知られているものである。新党結成の噂は時折ゴシップ的に取り沙汰されるが、一度もそのような姿勢を公に見せたことはない。

人物

  • 座右の銘は、ヴァラー・フェレザの「想わざれば論なし、論ぜざれば学なし、学ばざれば国なし」。
  • 自らを「リパナス直系」と位置付けており、反戦・愛国・自由主義を強く主張する。

エピソード

パイグ将棋大会に参加するデイシヤ
  • 民族自決党内で最もパイグ将棋が得意である。ユエスレオネ連邦のパイグ将棋大会でたびたび好成績を納め、注目を浴びている。参加者は四之布(アパート)などのラネーメ風の伝統衣装を着ることが多いため、スーツを着る彼は珍しがられる。
  • ジア・ドゥ・スキュリオーティエとは、彼女の政治思想から対立することも多く、「畏れ多くも大公閣下たる最高顧問においては……」という枕詞は、一種のミームとなっている。
  • 2012年、ヴェルガナーデャが議会で東島通商語のことを「ラネーメ風に崩れたリパライン語」(理: harda lineparine lanermej)と呼んだことに対し、強い反感を表明。「自分が他国に生まれていたことを想像すると、他国の文化や右翼には十分に敬意を払うべき」と発言し、メディアからは「民族自決党の良心」と持て囃された。
最終更新:2025年03月15日 21:21