――喜んでくれるかしら。
鼻腔を満たすカカオの香りを楽しみながら加藤武子は鍋の中で粘性を帯びる液状と化したチョコレートを箆で掻き混ぜる。焦げ付かないよう丁寧に、丁寧に。
掻き混ぜながら味付けも考える。
チョコを渡す相手は苦いものがあまり好きではない。武子が“彼”に珈琲を淹れるときも砂糖とミルクを苦味が薄れるまで入れてから出すようにしている。
珈琲が持つ苦味もまた味わい深いものなのだけれど甘くした珈琲を美味しそうに啜る彼の姿を見ていると、楽しみ方は人それぞれなのだろう。
苦いものが苦手な彼の好みを考えると大人向けのビターな味はやめたほうが良い。
だから甘くしよう。うん、そうした方が良い。うんと甘いの食べて欲しい。
口元を綻ばせながら
物思いに浸っていると緩やかに胸の内が温まっていく錯覚を覚えた。自分だけが彼の好みを熟知し、それに合わせた味にする。
あたかも恋人じみた行動を取っていることに気がついた途端、少女の整った頬に熱が込み上げはじめた。
武子「(べ、別に私と彼はそういう関係じゃ……)」
頬を赤らめ独り、胸裏で言い訳。
改めて自分と彼の関係がどういうものなのか認識するため、手は動かしたまま彼と共有した時間を思い浮かべてみる。
寝癖をついた髪をブラシで治したり、掛け間違えたボタンを一から付け直したり。蘇る思い出の大半は自分が世話を焼いてばかりな気がするが何故だろう。不思議と悪い気はしない。
時折見せる子どもっぽさとは裏腹に夜遅くまで部隊管理の仕事に付き添ってくれたり、独り隠れて自主訓練を
繰り返していたりと妙な部分で大人びている。
その格差を目の当たりにしてからというもの彼を目で追いかけている回数が心なしか増えている気がしてならない。
今もこうして彼のことを考えていると胸の奥が温まっていることもまた事実。
互いに気持ちを確かめ合ってもいないし、自分の気持ちが恋慕と言えるかも定かでない。結局のところ友人以上の関係であろう。少なくとも自身はそう考えているし、そうであって欲しいとも願っている。
ふと視線を左右に向ける。同じように軍服の上からエプロンを身につけ、慣れない作業に悪戦苦闘する友人たちの姿が視界に入り込む。
智子「うー。思うように、いかないわねっ」
彼から褒められた自慢の黒髪を後頭部で結い上げ、子どもっぽく歯軋りして箆を握る手を動かす智子。エプロンには所々飛び散ったチョコレートが付着している。
初めはあまりにも危なげな手つきに何度も変わってあげましょうかと声をかけたがその度に彼女は首を横に振った。
これくらい自分で作れるわ――と自信に満ちた笑みを口元に浮かべながら。
溶かしたチョコレートでエプロンを汚す姿から何の説得力も見出せないけれど武子はそれ以上の口出しを止めた。
頑固なのは相変わらずだが、きっと理由は今回のチョコレート作りに彼が関わっているからなのだろう。
彼。智子にとっては兄のような男。家族以上の存在。そして、初恋の相手。
武子「どう? 焦げてない?」
智子「えぇ。焦げてはいないみたい……よかった」
言葉に安堵の念を滲ませながら、嗅覚を最大限に動かして手を動かし続ける。
今日が何かの記念日というわけではなく、ただ日頃から世話になっている彼に感謝の想いを伝えたいと思い立ち、智子はチョコレート作りを提案した。
本音を言えば形として残る物を贈りたかったのだが、手製の菓子のほうが思いも伝わり易いと考え直しチョコレート作りを仲間たちに持ちかけたのだ。
市販品ならばこうしてエプロンを汚すような苦労も掛からないのだろうが、いくらなんでも味気なさ過ぎるし、女としての矜持がそれを許さなかった。
幸い厨房には菓子に用いるナッツが備蓄として保管されていたので、智子を含む四人はそれをアクセントにすることにした。
武子「焦らずゆっくりね?」
智子「わ、わかってるわ……」
どこか姉妹のそれにも聞き取れる二人の会話を耳にしつつ加東圭子は細かく砕いたナッツをまだ液状のチョコレートに散りばめる。
洋菓子作りの経験はないが、こうして実際に手を動かすと想像していたよりも難しくはなかった。
強いて注意すべき点を挙げるならばチョコレートが焦げ付かないよう細心の注意を払うことだろうか。
贈る相手の笑顔を浮かべながら、ナッツが全体に行き渡るようチョコレートを掻き混ぜる。
美味しいと言ってくれるかしら。ううん、彼のことだからきっと不味くても、そう言うに決まってる。
圭子「こんなものかしらね」
火を止め、チョコレートを流し込むための型を手にとる。中には可愛らしいハート型もあったが、いくらなんでも恥ずかしいのでやめておいた。
それに、隣で同じように型を探す黒江の目もある。ここは無難に丸型を選んでおくのが吉だろう。
けれど、もしもハートの形をしたチョコを贈られたら彼はどんな反応をするのだろうか。
驚くだろうか。それとも恥ずかしがって顔を赤くするのだろうか。顔を赤らめた彼……うん、可愛い。
圭子「ふふっ」
黒江「何をにやけている?」
圭子「にやけてなんかないわよっ!?」
武子「そう? 口元が緩んでいるように見えるけど?」
智子「顔も赤いわ。熱でもあるの?」
圭子「平気よ!? 本当に大丈夫よ!?」
言うなり、洗った型にチョコレートを流し込む。狼狽する態度とは裏腹に手の動きは落ち着いた状態を維持している。優秀な航空歩兵の片鱗が垣間見える動作。
圭子「(そんなに顔に出ていたかしら……)」
箆を使って残りのチョコレートを型に落としながら、胸裏に洩らす。
身体を寄せると顔を赤くする彼。自分の膝の上で眠りこけ、無防備な寝顔を晒す彼。うん、やっぱり可愛い。
直後、慌てて顔を上げる圭子。
黒江「どうした?」
圭子「いいえ……なんでもないわ」
どうやら今度はニヤけていないらしい。
小さく息を吐き、チョコを流し込んだ型を大型の冷蔵庫に入れる。後の作業は固まってからだ。
同じように四角の型を黒江が、長方形型を武子が、菱形のを智子がそれぞれ冷蔵庫にしまっていく。
智子「早く固まらないかしら?」
黒江「固まったあとは型から取り出すのか……難しそうだな」
丁寧に型から外さなければチョコレートに傷が入ってしまう。
自分で食べる分には多少の傷は気にならないが人に、ましてや気になる相手に贈るのであれば話は違ってくる。
圭子「とりあえず休憩にしましょう?」
武子「そうね。次の作業も気を遣うわけだし」
使い終えた器具の片づけを終え、厨房を出て行く少女たち。
しかし、彼女たちは気がつかなかった。
既に冷蔵の奥にもう一つ型が入っていたことに。既に洗われてあった器具一式の存在に。
数時間後、基地内を歩く武子の姿があった。脇に緑色の包装紙に包まれた箱を抱えて。
あれから固まったチョコレートを型から取り出した武子はすぐさま箱に移し変えて厨房を後にした。夕食後に渡せば良いのだが、隊長である江藤敏子の目もある手前、それは避けたい。
時計を確認する。長針はちょうど二を指していた。休みの日のこの時間はいつも自室でト修練を繰り返しているはず。二月であるにも関わらず柔らかな今日の日差しを考えると早く手渡さなければならない。
足早に俺の部屋へと向かい、扉の前で一度立ち止まる。扉に伸ばす手も、引き戻す。
何て言って渡せば言いのだろう? いつもありがとう? 良かったら食べて?
こんなことなら珈琲も一緒に持ってくるべきだったと後悔しながら意を決して扉を叩く。
すぐさま返ってくる返事。若干息を切らしている口調から、やはり修練中だったようだ。
武子「そのっ! 私だけど……いま時間ある?」
「うん? 開いてるぞ」
武子「し、失礼します」
室内に入ると頭にタオルを乗せ、柔軟運動をこなす俺の姿が真っ先に飛び込んできた。
タンクトップの上からでも分かる引き締まった肉体は、修練の賜物か年齢とは裏腹に逞しい筋肉が身についている。
とりわけ、ラインが浮き出た鎖骨や躍動感に富んだ首筋は年相応の少女には刺激が強過ぎた。
急速に紅潮して行く武子の頬。質の悪い風邪に掛かったかのように全身が熱を発していく感覚を抱きながら、視線を向けては逸らすといった動作を繰り返す。
武子「~~~~ッ!!」
俺「悪いな。いま少し身体動かしててさ」
武子「だ、大丈夫よ。押しかけてきたのは……私のほう、だから……」
俺「そう言って貰えると助かるよ。それで今日は何の用だ? 書類作りなら喜んで手伝うけど」
ふるふると首を振る武子。
見惚れている場合ではない。チョコが溶ける前に渡さなければとぎこちない動作で脇に抱えた箱を差し出す。
心なしかその細い両腕は震えていた。
武子「ああああのっ! こ、これっ!!」
俺「……くれるのか?」
武子「書類仕事とか手伝ってもらってるし……感謝の気持ち、なんだけど」
俺「ありがとう。開けてもいいか?」
武子「えぇ。口に合えば良いんだけど……」
俺「食べ物か……なんだろう」
ベッドに座り丁寧に包装紙を開けていく俺の隣に腰掛け、その様子を見守る武子。
味付けは彼好みに仕上がった自信はある。形も……そこまで不恰好ではないはず。
俺「チョコレート?」
武子「嫌い……だった?」
俺「いいや。甘い物は好きだぞ? 本当に貰っていいのか?」
武子「もちろん」
俺「それじゃ」
箱から取り出した長方形状のチョコ板を口元に運び、一口齧る。
疲れたときには甘いものがいいとは良く言ったものだ。
ナッツが混ぜ込められたチョコが口の中で溶け、チョコが持つ甘さが全身に染み渡っていく感覚に思わず笑みを零す。
それまで身体に重く圧し掛かっていた倦怠感が嘘のように霧散していく。これならまだ修練を続けられそうだ。
武子「美味しい?」
俺「……うん。んぐ……美味いよ。本当にありがとう」
武子「そう……ふふっ」
子どもみたいな笑みを零しながら夢中でチョコレートに齧りつく少年の姿に頬を綻ばせる。
どうやら不安は杞憂に終わったようだ。ただ心残りがあるとすれば、やはり珈琲を淹れてこなかったことだろうか。
どうせなら自分が淹れたコーヒーも手製のチョコレートと一緒に味わって欲しかった。
けれども、こうして彼の喜ぶ姿が見ることが出来ただけでも良しとしよう。
俺「これ、武子が作ったのか?」
武子「えぇ。
初めてだったから……ちょっと自信が無かったんだけど」
俺「そんなことないぞ?」
武子「そ、そう?」
矢継ぎ早に奏でられるパキパキと小気味の良い音に自然と唇が吊りあがる。
よく男はあまり甘い物を食べないと云う言葉を耳にするが彼は例外らしい。
本当に甘い物が好きなのか両手に納まるほどのチョコレートはあっという間に片手と同じサイズまで小さくなっていた。
俺「あぁ。これならまた修練が続けられそうだ。エネルギーも補充できたし」
修練――その言葉が俺の口から出た途端、武子の柳眉が微かに反応した。
武子「最近は……よく鍛えているわね」
以前から彼が隠れて特訓を重ねている光景を何度か目にしたことがある。
ただでさえ猛訓練が連日行われているにも関わらず何度も素振りや筋トレ、衝撃波の制御を繰り返している姿は関心の域を通り越していた。
日の始まりと同時に燃料が尽きるまで飛び回る訓練と並行しての自主修練。
傍から見れば自分を痛めつけているようにしか見えない苦行だが、彼はこうして何食わぬ顔でいま自分が贈ったチョコレートを租借しているのだ。
初めは痩せ我慢かと思ったが、そんなものが長続きするほど自分たち第一戦隊の訓練は甘くはない。
俺「まぁ、な。俺はお前たちのこと守りたいと思ってるけど……口だけならいくらでも言えるだろ?」
武子「……えぇ」
俺「口先だけにはなりたくない。だから修練を繰り返してるんだよ。守りたいなんて言った手前、いざって時に動けないんじゃみっともないしな」
回復している。
たった一晩寝るだけで披露の殆どを身体から除去しているのだ。
無論、寝ぼけたまま現れたこともあれば梅雨に一度風邪をこじらせたこともあったが修練が原因で大事に至ったことなど一度も無い。
それでも、
俺「……武子?」
武子「……あまり無理しないで」
身を乗り出して彼の瞳を見つめる。
そうすることで彼の心に近づけられるような気がしたから。
俺「別に無理は――」
武子「守ろうと思ってくれることは嬉しいの。けど、私たちのためにそこまで身を削らないで?」
俺「だけど――」
言い返す俺の唇に指を伸ばし、続く言葉を遮る。
武子「節分のときもそう。智子を守るために自分が下敷きになって頭を打った」
俺「そ、れは……」
武子「貴方の言いたいことも分かるけど、打ち所が悪かったら死んでいたかもしれないのよ?」
諭すような口調に俺が黙り込む。
告げられた言葉が正論故の沈黙。
武子が言わんとしていることを俺自身も理解はしているのだろう。それでもまだ納得がいかないといった表情に武子は身を乗り出し、彼の顔を覗きこむ。
武子「ねぇ、俺? 私たちは……信用できない? 弱く見える?」
俺「そ、そんなことない!」
寂しげな色が混ざった言葉を即座に否定する。
ツバメ返しを得意とする智子はその華麗な戦闘機動によって何機ものネウロイを撃墜した。
無双神殿流なら居合い術を用いて二機のネウロイを破壊した武子は部隊単位での戦術を模索する努力家である。
圭子は見越し射撃によって部隊内でも高スコアの撃墜数を誇っている。
雲耀なる必殺技を編み出そうと日々鍛錬を積む黒江。
扶桑の航空歩兵のなかでも優秀な部類に入る彼女らを信用できないはずがなく、ましてや弱く見えるなどありえない。
武子「だったら、そんなに焦らないで?」
唇に伸ばした指をそっと頬に添える。
家族を喪うことを心の奥底から恐れる臆病な少年の頬に。その恐れを少しでも取り払うために。
武子「貴方が私たちを守るというなら」
「私たちが貴方を守ります」
一呼吸置き、思いの丈を正直に吐露した。
武子「もっと私たちに背を預けてもいいのよ? ううん、預けて?」
私たちは仲間なのよと続け、笑みを零す。
戸惑う子どもを柔らかく抱きしめるような母性に満ちた微笑み。
俺「……ごめん。少し、急いでた」
武子「トレーニングを積むなとはいわないけど、もっと自分を労わって? 貴方になにかあったら、みんな心配するのよ?」
俺「……うん。気をつける、よ」
弱々しく頷く少年。
そんな彼の頭に手を伸ばし、そっと髪を撫で付ける。素直に謝ることが出来た子にはやはりこれが一番だろう。
武子「はい。よく言えました」
俺「ちょっ! 子供扱いするなよ! 俺のほうが、年上なのに……」
恥ずかしげに顔を赤らめ、頭を撫でる武子の手を払いのける。ほんの一瞬でも心地良いと感じてしまった自分を恨めしく思いながら。
そんな少年の心情を知ってか否か武子は笑みを深め、更に顔を近づける。
近づく端整な容貌。必然的に跳ね上がる心臓の鼓動。吐き出した息が白く染まる季節であるというのに俺はまるで夏の日差しを全身に浴びているかのような錯覚に陥った。
武子「あら? 心配かけたのは誰だったかしら?」
俺「俺です……はい」
悪戯めいたものへと変わった笑みを前に俺はそれ以上の抵抗が無意味だと悟り、項垂れる。
武子「よろしい。チョコ、ちゃんと食べてね?」
頭に残るむず痒さを感じつつ、手にした木刀を振り続ける。腕の動きに合わせて飛び散る汗。時たま吹く風が火照った身体を冷やしていく。
素振りを始めてから一体どれだけの時間が経過したのか。
ポケットにしまい込んだ腕時計を確認すれば分かるのだろうが、時間を確認する暇すら今は惜しく感じられた。
俺「ふッ!!」
腹腔に溜め込んだ氣を吐き出すと同時に一閃。
鋭利な風切り音を奏でながら木刀を振り下ろす俺が不意に顔をしかめた。脳裏に蘇るのは武子と過ごした先刻の情景。
柔らかな微笑み。温もりを帯びた手の平の感触。優しげな手つき。
その全てを心地良く感じ、挙句の果てに享受し続けたいとまで考えた己に胸中で叱咤する。
――自惚れるんじゃない。彼女はただ自分の身を案じていただけだ。勘違いは起こすな。
煩悩を打ち払うべく木刀を大上段に構え、前方の空間に縦一閃の軌跡を刻み込む。
俺「破ッ!!」
しかし、裂帛の気合を伴って繰り出された斬撃は硬質な物体によって阻まれた。
両腕に伝わる鈍い衝撃。周囲に広がる乾いた音。
視界の真横から伸びて俺の一撃を遮るそれは、いま彼が握り締めているものと同じ訓練用の木刀だった。
顔を逸らし乱入者の姿を視界に捉えた瞬間、俺は目を丸くした。
黒江「随分と、精が……出るなッ。こんな人目につかない場所で修練とは」
顔を顰め、振り下ろされた一刀を押し返す乱入者。
音も無く間合いに近づいてきたこともさることながら、自身の一撃を片手で受け止めたことも驚愕に値した。
俺「綾香?」
黒江「……武子に聞いてな。いつもはここで修練を積んでいるそうじゃないか」
目を丸くしたままの俺を尻目に手にした木刀を肩に担いで周囲を見回す。
周辺を木々で覆われた閉鎖的な空間。基地の端に位置するこの場所は滑走路や資材倉庫、宿舎からも離れており人が立ち入る要因が見当たらない。
なるほど、たしかに。人知れず修練を繰り返すには絶好の場所だろう。
俺「あぁ。それで何か用か?」
黒江「あ、あぁ! まぁ、な。大した用事でも……ないがな…………」
問いかけを投げかけられた途端に跳ね上がる黒江の心臓。頬も心なしか赤みを帯び始めている。
事実、少女は内心狼狽していた。泳がせる視線を自身が脇に抱える袋に落とす。
武子から俺の居場所を聞き出したまでは良かったが渡すことだけを考えていたせいで如何に渡すかまったく考えていなかった。
居場所を尋ねたときはやたら上機嫌だったがどんな手を使って渡したのか。それとも深く悩んでいる自分がおかしいのだろうか。
兎に角早く渡さなければせっかく作ったチョコレートが溶けてしまう。考え込んでいる暇などないと口を開く。
黒江「うむ……その、なんだ。少し……うん、お前に渡したいものが、あってだな……」
俺「渡したいものって……その脇に抱えている袋か?」
歯切れの悪い言葉を繋げる自分に叱咤しつつ、少年の目が脇に抱える袋に注がれていることに気がつくと小さく頷いた。
彼と二人だけの時間を過ごすときに限って日頃の快活さが鳴りを潜めるのは何故なのか。
黒江「うむ! こ、これだ!! 受け取ってくれ!!」
半ば押し付けるように彼へと差し出す。
女らしさが足りないだとか、強引過ぎるだとかそういった細かい話はこの際置き捨てよう。いまは少しでも早く受け取って欲しい。
そう思い至り少女は勇気を振り絞った。
初めてストライカーを身に着け空を舞ったときよりも凄烈に、初めて怪異に刀を振るったときよりも勇壮に。
俺「いいのか?」
黒江「当たり前だ。お、おまえのために作ったのだからな!」
これ以上言わせるなと釘も刺す。
俺「ありがとう、綾香。これもチョコレートか?」
黒江「あぁ。疲れたときには甘いものを摂ると良いからな!」
俺「本当にありがとうな。嬉しいよ」
黒江「うん……」
邪気の無い笑みを零しながら包装紙を開けていく姿に、黒江は胸中が温まる感覚を覚えた。
淑やかさには欠けたが、勇気を出して渡せたことへの充足感が少女の全身を包み込んでいた。
こんなにも喜んだ表情を見せてくれるのなら、また来年も作ってみるか。今度はもっと手の込んだものを食べて欲しい。
取り出したチョコレートに齧りつく様子に口元を薄めながら、そんな考えに耽るのだった。
俺「ごちそうさん。本っ当に美味しかったよ」
黒江「そう言ってもらえると作った甲斐があったな」
俺「しっかし何も返せないのが辛いな。いま何も持ってないぞ……」
黒江「渡したチョコがお返しなんだぞ? 逆に返されても……いや、まて」
腹を擦る俺に微笑みかける最中、不意に脳裏を過ぎった言葉に沈思する。それは戦隊長である江藤が何気なく呟いた一言だった。
――俺が北郷章香の二刀の内の一本を弾き飛ばした――
その事実が江藤の口から洩れた瞬間、黒江は己が耳を疑った。
北郷章香といえば扶桑皇国に属する航空歩兵において最強の呼び声が高い魔女だ。確かに彼は以前、江藤に命じられ講道館に派遣された。
おそらくはそのときに一戦交えたのだろうが、飛行第一戦隊内で行われる巴戦の模擬戦闘で毎回黒星の彼が如何にして軍神が繰り出す二刀を捌き、内の一刀を無力化したのか。
仮に江藤が放った言葉が真実であるならば、見てみたい。軍神に一矢報いた彼の実力を。
黒江「北郷章香」
俺「……」
軍神の名を出した途端、微かに強張る少年の身体。
黒江「手合わせしたんだろ? 隊長から聞いたぞ。二刀の一本を叩き落したとも」
俺「まぐれだよ」
返事に黒江は唇を釣り上げた。黒真珠を髣髴させる澄んだ双眸には煌びやかな光沢が湛えられている。
過程はどうであれ一刀を弾き飛ばした事実を彼は否定しなかった。それはつまり江藤が呟いた言葉が真実であるということ。
この男は本当に軍神が手にする二刀の一本を奪ったのだ。
黒江「この話を聞いたとき不思議に思った。巴戦で部隊最弱のお前がどうして北郷少佐の一刀を弾き飛ばすことができたのか」
その疑問を抱き続けた黒江はあるとき、一つの事実に思い至った。
黒江「思えば私は……いいや私たちはこうして地に足をつけた状況でお前と刃を交わしたことはなかったな」
俺「何が言いたい?」
黒江「手合わせしてくれないか? 私とも」
遥か高みの存在に指をかけた男が目の前にいる。
その事実がどうしようもなく嬉しく感じ、思わず身を乗り出してしまう。
いまの黒江を動かすもの――それは剣士としての性だった。強者との一戦により自らを更なる高みへ押し上げられることへの興奮と喜びだった。
俺「…………ルールは?」
黒江「そうだな。互いの木刀を叩き落した方の勝ち、というのは?」
俺「あぁ。それでいいよ」
手にした木刀を右肩に担ぎ黒江は精神を研ぎ澄ます。
一方で俺も左腰に木刀を添える。居合い抜きの構えにも見受けられる体勢に黒江は胸裏で感嘆の息を吐いた。
巴戦のときとはまるで違う立ち振る舞い。地に足がついているせいもあるのか、一切の隙が見出せない。無風の湖上を思わせる姿に黒江は唾を飲み込んだ。
自身の体内時計が正しければ、木刀を手に取りこうして相対してから五分近くの時間が経過している。
敵の隙を探るのも戦術の基礎だが、こうして初手を打ちあぐね続けるまま立ち尽くすのも好ましくない。何より先ほど抱いた情熱を冷ましたくはない。
風が吹き、木の葉が俺との間を横切ったのを皮切りに黒江は地を蹴った。芝生を踏みしめる音だけが周囲に響くなか、両脚に力を込めて一気に走破。
迅速に相手との距離を縮めていく。
黒江「はぁッ!!」
踏み込むと同時に上段からの斬撃を叩き込む。俺もまた抜き放った木刀を黒江が振り下ろす一撃の進路に割り込ませた。周囲に広がる木材同士が激突する音。
先刻、自身が受け止めたときとは比べ物にならないほどの衝撃を両腕に感じ、少女は頬を綻ばせた。
膨張していく喜悦を感じつつ右薙の一撃。けれども再び阻まれる。その都度、疑問を抱く。
目の前にいる少年は本当に巴戦の
模擬戦において毎回のように黒星を飾る彼なのかと。
自身に踊りかかる攻撃の威力に、切り返しの速さ。おそらくは我流剣術なのだろうが、そのどれもが背筋が凍るほどの精密さを誇っていた。
鍔迫り合いに持ち込み、すぐさま魔法力を発動。
身体の構造や体格差から純粋な生身での力比べでは少年に分がある。故に魔法力を行使することで黒江はその差を埋めることを選んだ。
歯を食いしばり、全身に圧し掛かる重圧に耐え忍ぶ。両脚に力を注ぎ、膝のバネを駆使して押し返すも勢いは弱々しい。
俺の頭部には使い魔の耳は発現していなかった。つまり彼は身体能力だけで、魔法力で強化した自身に抗っていることになる。
俺「おぉぉぉぉぉっ!!」
黒江「ぐっ、ぁぁ!!」
拮抗状態は一転して瓦解した。裂帛の怒号を吐き出した俺が黒江を押し返す。純粋な生身の身体能力が魔法力を上回った瞬間だった。
集中力が途切れ、黒江の頭部から使い魔である薩摩犬の耳が消失。次いで少女の身体が後方へと吹き飛ばされる。着地と同時にすぐさま迎撃体勢を整える。
この隙を逃がすはずがないと瞳を正面に据えると同時に、彼女の黒い双眸に驚愕の念が浮かんだ。
――俺は、どこだ?
僅かに怯んだその隙に俺は姿を消していた。
逃げた? 否。勝負の最中に背を向けて逃げるほど不誠実な人間でもないし、逃げるほど技量に差があったとは思えない。それに、逃げるにしても目を離したのはほんの一瞬である。
いくら彼が健脚の持ち主とはいえ、瞬間的に姿が完全に見えなくなるほどの疾走を行えるとは考え難い。
――だとすれば、どこに消えた?
胸裏で零した瞬間、背筋を走る寒気。黒江は背後に振り向きざまの斬撃を浴びせた。
間髪入れずに木刀が硬質な何かに激突する。すかさず体勢を後方へと向け、迫る切っ先の存在に唇を釣り上げる。
黒江「縮地か!? いいや違うな!!」
俺「やっぱバレるか!! 結構上手くいったと思ったんだけどなァ!!」
奇策を見破られ、苦笑いを浮かべながら後方へ飛び退る。
俺が使用したのは、足の裏から放出する衝撃波を用いた“縮地もどき”。
かつて軍神と刃を交えた際は突進技にしか使用できなかった魔技を少年は短期間で対象の背後に回り込む域にまで昇華させていた。
尤もこうして黒江にも見破られてしまったが、以前と比較すれば大きな進歩といえよう。
再度魔法力を発動させる黒江。俺もまた木刀を右八双に構える。
黒江の肩から流れ落ちる強烈な一撃を受け止めた瞬間、手首の力を巧みに使い分けて受け流す。少女もまたステップを踏み、繰り出される斬撃を躱すと同時に斬りつける。
決着がつかず、二人が繰り広げる打ち合いは必然的に数十にも及んだ。
袈裟懸けに振り下ろす木刀が受け止められ、両腕に衝撃が伝わるたびに黒江は端整な頬に浮かべる笑みを深くさせる。
全力を引き出せるこの一時に、自分だけが彼の実力を知ることができた喜びに至福を抱きながら。
体力の限界を感じ、両者共に間合いを取った。頬を紅潮させ、白い息を吐き出す二人の瞳に宿る凄烈なる意思の光。
次の一撃で決着を着けると互いに告げる眼光であった。
双者同時に肉薄し、繰り出す一撃に全霊を傾注する。
激突する二刀は互いの衝撃に耐え切れず、持ち主の手から吹き飛ばされた。
俺「引き分け、か」
黒江「みたいだな……うわっ!?」
俺「おっと!」
互いの健闘を湛えようと距離をつめ、握手のために手を伸ばした矢先、足が躓く。
揺れる視界のなかに入り込んだのは先ほど俺が縮地もどきを使用した際に放った衝撃波によって僅かに抉れた地面だった。
前のめりに倒れる黒江の身体。本来ならば何ら問題無く体勢を整えられるが、俺との試合によって体力の消耗が予想を遥かに上回っていた。
家族にも等しい仲間が黙って地面に倒れ伏すのを良しとしない俺はすぐさま彼女の身体を抱き止める。
瞬間、息を呑む俺。
本当に、本当にこの少女が自身に熾烈な一撃を何度も叩き込んだのかと疑うほどに。黒江の身体は柔らかかった。
女性らしく丸みを帯びた肩。汗の匂いに紛れるシャンプーの香り。胸板に密着する彼女の頬の感触。そして、実った果実の柔らかな弾力。
とても先刻まで打ち合いを繰り広げていた相手とは思えない柔らかさに俺は息を呑み込んでしまったのだ。
黒江「お、おれ!?」
放った言葉が裏返る。顔に当たるのは逞しい胸板の感触。
いままで身体を動かしていたせいか汗が浮き出ているものの、不思議と不快感は覚えない。
それどころか、いつまでもこうして顔を摺り寄せていたい欲求すら出てきている。
布団に包まったときを遥かに凌駕する安心感。世界で最も心を落ち着かせることができる場所と豪語できるほどの安寧に、黒江は瞼を閉じて肩の力を抜いた。
ただ単に男の胸板だからなのではなく相手が気心のしれた俺だから、気になる異性だからこその感情なのだろう。
俺「た、立てるか?」
黒江「あ、あぁ……いや! そのっ……」
既に両脚には力が入る。
けれども黒江は少年が持つ温もりを手放すことはできなかった。
俺「……うん?」
黒江「もう少し……このままが、いい……」
いつかこの感情の正体が判るときがくるのだろうか。そのときが訪れたら、自分と彼の関係はどのように変わっているのだろうか。
願わくは、共に笑い合える関係でありたい。
そんなことを考えながら、体力が回復するまでのあいだ逞しい温もりに身を任せる黒江であった。
後編に続く
最終更新:2013年03月09日 23:18