0系新幹線電車

登録日:2017/08/25 Fri 21:22:01
更新日:2025/04/12 Sat 09:19:58
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0系新幹線電車とは、日本国有鉄道(国鉄)が開発・製造した新幹線電車である。
ある一定以降の世代の方、もしくはそれ以外の方でも「新幹線」と聞いたら500系100系と並び最初に思い浮かぶ車両かも知れない。
何しろ海外でも「Shinkansen」といえばこの車両が上がるくらいである。

概要

東海道新幹線用の初代車両であり、世界初の高速鉄道専用車両として1964年より製造が開始され、1986年までに述べ3216両が製造された。
ただし、後年では「新しい0系で古い0系を置き換える」ということが行われていたため、全ての車両が同時に顔を合わせたということはない。

航空機に似ていると言われる、丸みのある前面は「世界初の200km/h超の営業運転」と合わせて新幹線のイメージを形作った。
まあ似ているも何も、前面のデザインは旧日本海軍の爆撃機「銀河」などが参考になっているわけだが。

今でこそ0系と呼ばれているが、開業当初はそういった呼び名が無く(そもそも新幹線自体東海道・山陽しかないため区別も必要なかった)、『新幹線電車』と呼ばれるのが一般的だった。
0系の名称が一般化するのは200系が登場して以降である。

1965年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。

仕様

基本仕様

編成 4/6/8/12/16両(全電動車方式)
車体 普通鋼製
電気方式 AC25000V 60Hz
制御方式 低圧タップ制御
主電動機 MT200型 直流直巻電動機 定格出力185kW / MT200B 直流直巻電動機 定格出力225kW
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
保安装置 ATC-1
駆動方式 WN駆動
歯車比 1:2.17
起動加速度 1.0km/h/s→1.2km/h/s
最高運転速度 210km/h→220km/h
定格速度 167km/h
平坦線均衡速度 約235km/h
速度種別 A96(10パーミル上り勾配における均衡速度196km/h)
減速度 2.84km/h/s(常用) / 3.9km/h/s(非常)

「世界初の200km/h超で営業運転を行う鉄道及び列車」として内外に衝撃を与えた0系だが、
実は未経験の技術は一切使われていない。
設計にあたっては、「未経験の新技術は使わず、実証済みのもののみを組み合わせる」「将来に改良の余地を残す」という2つのコンセプトで設計が行われている。

例えば動力系に関しては、実は営団地下鉄丸ノ内線の500形のものを拡大発展させたものとも言え(高速直流電動機とWN駆動の組み合わせ)、
電気系統に関しても交流電気機関車のノウハウが用いられている。
車体すら(さすがに軽量化は行われているとはいえ)普通鋼製である。

冒険など全くせずに「当時手元にある技術」だけを組み合わせ、世界最速の電車を作ってしまったのだ。

もっと言ってしまえば「200km/h超」という数字も、実は当時の国鉄からすればそこまで無茶な数値ではなかった。
新幹線のためのデータ取りで行われた高速試験では、東海道線上で小田急ロマンスカーSE(初代3000形)が145km/hを叩き出し、
その後に「こだま形」こと151系特急形電車が163km/hを記録。そしてその後に旧型国電界の最終兵器・クモヤ93形が175km/hを記録している。

え、全然200km/hに到達していない?
…いや、これは1067mm軌間の「東海道本線」での記録。
これを1435mm軌間に"拡大"すれば、200~250km/hの「営業運転」は余裕を持って可能な数値であったのだ。

さて、ここからが本題、つまり仕様に関して。
車体は全長25m級・幅3380mmとかなりの大型車体である。

客室の床面高さも1300mmと高めになっているが、これは見晴らしなどを狙ったわけではなく、高速安定性のある大型の台車を採用したことや、
直径910mmという大型の車輪を採用(一般的な在来線電車の車輪は860mm)したことに起因している。
車体のデザインは空力性能を重視して設計されており、先述の通り爆撃機「銀河」やDC-8旅客機などが参考とされている。

運転台は高い位置に設けられており、高速走行時の視界確保を行っている。また窓は防弾ガラスを使用し、バードストライク対策も行われている。
運転席は国鉄初のデスク式を採用し、マスコンを右側、ブレーキを左側という在来線電車とは逆の配置とした。これは新幹線ではマスコンの方が走行中に扱う頻度が多いため*1で、500系を除いたすべての新幹線車両に引き継がれている。

「鼻先」には救援用の連結器が収められているが、当初はこの中に蛍光灯も仕込まれており暗闇で発光するようになっていた。
このため「光前頭部」の呼び名で呼ばれている。

先頭車の床下には障害物をはねのけるためのスカートが装着されている。6枚の鋼板で構成されており、ちょっとした岩くらいならこれで弾き飛ばせる。
またこのスカートは障害物対策以外にも、ダウンフォースにより高速走行時に車体を路面に押し付ける作用もある。
運転台の上にあるL字型のアンテナは「静電アンテナ」という、架線に電気が流れているかどうかを検知するためのセンサーである。現代の新幹線車両にも静電アンテナは受け継がれている。

座席は普通車は当初(乗車時間が少ないだろうと割り切ったため)転換クロスシートを採用していたが、1981年以降の増備車はアコモデーションの向上に伴い、200系で採用されていたリクライニングシートに変更。従来車でもこのタイプに交換された車両が存在する。
前述の転換クロスシートは国鉄末期にキハ58系の座席改良車や新造された一般形気動車の座席に転用され、またリクライニングシートは駅の待合室に転用された例もある。
一方のグリーン車は当初から回転式リクライニングシート。

制御装置は「低圧タップ方式」という、あまり聞き慣れないかも知れないシステムを採用している。
これは要するに、トランスの出力側の巻線を切り替えることで必要な電圧を得るというシステムである。

抵抗制御のように余分な電気エネルギーを「削り取る」のではなく、いわば「最初から必要なエネルギーしか取り入れない」というシステムなので省エネルギーであり、
なおかつトランスの巻線を切り替えるだけというシンプルな動作で信頼性も高い。但しその性格上、交流電化でしか使えない制御方式だが。

主電動機はMT200形。定格出力185kWの直流直巻電動機。
実はこのモーターも丸ノ内線の500形のそれの拡大発展版とも言われており(設計はどちらも三菱電機)、
こちらも未経験の技術は使われていない。このモーターでWN継手を介し、車輪を駆動する。

台車はミンデンドイツ式*2を元としたIS式。
この構造も東武鉄道などの私鉄系で(原型のミンデンドイツ式が)実証済みである。

ブレーキ装置は、200km/hから機械ブレーキだけで止まってたんじゃブレーキの消耗が残念なことになるってなわけで、高速域では発電ブレーキで減速・50km/hを切ったら機械ブレーキに切り替えという二段構え。これも既に国鉄私鉄問わず多数採用されていたシステムである。

走行に必要な電気機器類は2両に分散して設置するユニット方式を採用。これも在来線では当たり前に使われている技術。理論上の最短編成両数は2両だが、営業運転では4両編成が最短であった。

パンタグラフは小型の下枠交差形であるPS200形を使用。
ちなみに歴代新幹線電車で最もパンタグラフの使用数が多い車両(16両編成において8台)…だが、
このパンタの多さ故風切り音やスパークなどで騒音もなかなかのものであり、訴訟沙汰になったほどである。
このため後の新幹線電車ではパンタの使用数を減らす方向になっている。これが出来るようになったのは特高圧引通線という、乱暴に言えば延長コードのようなものでパンタグラフのないモーター車へ電気を送れるようになったから。
風切り音がするってことはそれだけ空気抵抗も発生しているってことでエネルギー消費も多くなっているってことだしね。

では0系はというと……後述の特徴的な編成・車両で。

マイナーチェンジ

0系は製造期間が23年間にも及ぶため、大小マイナーチェンジが度々行われていた。
大きな変化と言えば窓のサイズであり、ファンの間でも大窓・小窓・中窓で区別している。
まず大窓車は1964年から1975年までに製造された編成で、座席2列で1枚の窓としている。この代の中には山陽新幹線岡山以西への乗り入れができない車両があった。また、1973~74年製造の16次車を境に前期・後期で区別される。大きな変化は側面非常口がゴツくなったこと。
1976年から1980年まで製造された編成は小窓車(1000番台)と呼ばれ、座席1列につき1枚の窓としている。このグループから普通車の座席が簡易リクライニングシートになったが3列側の座席は回転せず、車両中央部を境にして向きが反対になる集団離反式を採用した。
1981年から1986年まで製造された編成は中窓車(2000番台)と呼ばれ、小窓車よりも窓のサイズがほんの少し大きくなり、非常口は廃止となった。車内では座席の間隔が小窓車よりも4cm広くなり、その分定員が減った。また、内装も暖色系に変更されている。

形式

パンタグラフは形式が偶数の車両に搭載。

新造車

  • 21
  • 22
先頭車。21は博多向きでトイレ付き、22は東京向きでトイレなし。

  • 25
    • 25-200
    • 25-400
  • 26
    • 26-200
    • 26-400
中間普通車。26形は博多寄りに業務用室があり、その部分は一列半分ほど窓が離れている*3
25-200と26-400はこだま編成のグリーン車を減らした際にそれぞれ15、16の代わりに挿入された車掌室付き仕様*4
26-200はデッキ以外が全室客室で全形式の中で最大の収容人数を持つ。
25-400はこれもこだま用で、ビュッフェ車を減らした代わりに挿入された売店車。ドアが前後とも中央寄りなのが特徴。

  • 27
車いす対応設備を備える中間普通車。ペアを組むのは原則食堂車の36とだけだが、36から改造された26とペアを組む車両もいた。逆に27から改造された25は普通の26と組んでいる。

  • 35
  • 37
ビュッフェと普通席を備える中間車。海側は窓が少なく、山側はビュッフェスペースの窓が一段高いところにあるため分かりやすい。
35はビュッフェのテーブルに回転椅子があるが、37は回転椅子がない。

  • 36
本格的な食堂車。床下レイアウトの制約から本来搭載するべき機器の一部が27に分散搭載されている関係上、27以外とペアを組むことが出来ない。

  • 15
  • 16
中間グリーン車。15はドアが片側1箇所、16はドアが片側2箇所という違いがある。
初期のロットは1等車として落成し、車体側面に数字の「1」が表記されていた。


改造車

  • 21-3901・22-3901
グリーン車の15-84、16-133に運転台ユニットを取り付けて先頭車化したもの。
窓割りはグリーン車時代から変わっていないため、目の前が柱というハズレ席もあった。

  • 21-7951・22-7951
普通車の25-2038、26-2245に運転台ユニットを取り付けて先頭車化したもの。
最後まで残った0系に含まれていた。

  • 25-1900
グリーン車の15形1000番台(小窓車)を普通車に格下げしたもの。格下げに際しデッキを増設している。これも窓割りやデッキとの仕切り戸の位置はグリーン車時代から変わっておらず、壁際の席だけが4列配置になっていた。
なお25-1904に関しては別形式からの改造。

  • 25-1904
ビュフェ車の37-1057の客室を拡大し、ビュフェスペースを売店と車内販売準備室に改造したもの。
身体障害者用の大型トイレを持つ。

  • 25-2900
ビュフェ車の37-2500の客室を拡大し、ビュフェスペースを売店に改造したもの。

  • 25-3301
普通車の25-763の客室の一部を車内販売準備室としたもの。

  • 25-3900
普通車の27形にシネマルームとビジネスルームを設置したもの。1988年に落成し、同年8月から「ウエストひかり」に組み込まれ、座席を2+2の回転リクライニングシートに交換した。

  • 25-4900
普通車の27形にあった食堂車従業員用トイレを一般用に改造したもの。

  • 26-1900
食堂車の36形を普通車に改造したもの。大窓車だけどシートピッチは中窓車準拠の980mm。ペアを組む相手は食堂車時代と同じ27形。

  • 26-3000
普通車の26形700番台の客室スペースの一部を乗務員室に改造したもの。

  • 37-5300・7300
ビュフェスペースを立席から座席式に改造したもの。

  • 37-7530
37形2500番台の客席を改良し、3列シートも回転可能なリクライニングシートに交換したもの。

  • 37-7700・7730
ビュフェスペースを「こどもサロン」へ改造したもの。多客期の臨時列車「ファミリーひかり」に優先的に投入された。
1998年から99年にかけて「バンジョーとカズーイの大冒険」とタイアップし、0系にラッピングを施して運転されたが、その対象編成もこのこどもサロン改造編成だった。

編成

東海道新幹線開通当初はひかりもこだまも12両編成で、製造を担当した車両メーカーごとに編成記号を分けていた。
N:日本車輌
K:汽車製造
R:川崎車輌*5
S:近畿車輛*6
H:日立製作所
T:東急車輛
開業時の編成 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
21 26 25 26-2 35 26-2 15 16 35 26 25 22

程なくしてこだま1等車の利用率が低いことが分かったことからひかり用とこだま用で編成が分けられ、増結や組み換えで編成単位でのメーカーの統一も崩れていったため、山陽新幹線岡山開業を機に編成記号を整理。
ひかり用16両編成はH、こだま用は一旦Sに統一後すぐに8~11号車を追加して順次16両のK編成に変更された*7。H編成は博多延伸に合わせて食堂車ユニットが組み込まれ、以降編成パターンが確定したが、K編成はビュッフェ車の位置違い等で多い時には5パターンも存在した*8。また、26-2・25-2・25-4の配置も編成や時期によってバラバラであった。
H編成(博多開業時以降) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
21 26 25 26-2 25 26-2 27 36 35 26-2 15 16 25 26 25 22
K編成(ビュッフェ2両の例) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
21 26 25 26-2 25-4 26-2 25-2 26-2 25 26-2 25 16 35 26 25 22
K編成(ビュッフェ1両の例) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
21 26 25 26-2 35 26-2 25-2 26-2 25 26-2 25 16 35 26 25 22
開業から10年ほど経過したころ、車体の劣化(特に気密性の低下)が予想以上に早いことが分かってきた。
しかし、このころすでに国鉄の財政が傾いてきていて新型車両を開発する余裕がなかったのに加え、度重なる組み換えで経年車とまだ新しい車両が混在*9しており編成ごと廃車にできず、互換性の維持が必要だったことから0系を増産して車両単位で置き換えることとなった。

1976年に初期車両の置き換えが始まり、この年から小窓車に変更。組み換えで使用できない編成が出るため先に小窓車で統一したひかり用16両編成が3編成製造され、N編成が付与された*10。なお編成組み換えで先頭車を小窓車に置き換えたひかり編成はNH編成を名乗り、こだま編成は元の番号に+50となる。
1980年代に入るとこだま号の利用率の低さからこだま編成の12両化が行われ、SK編成とS編成が登場する。SK編成は先頭車が小窓車または中窓車の編成で、S編成は先頭車が大窓車の編成。
1985年には山陽新幹線でも特に通勤需要の多い博多-小倉間の区間運転こだま用として6両編成のR編成が登場した。当初は1編成のみだったが、6両こだまの運転区間拡大で20編成が追加されている。
S/SK編成(一例) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
21 26 25 26-2 37 26-2 25 16 25 26 25 22
R編成(パターン1) 1 2 3 4 5 6
21 26-2 37 26 25 22
R編成(パターン2) 1 2 3 4 5 6
21 26-2 25-4 26 25 22

JR発足時、JR東海へはひかり用16両編成のN・NH・H編成、こだま用12両編成のSK・S編成、JR西日本へはひかり用16両編成のN・NH・H編成、ひかり用で12両編成のSK・S編成、こだま用6両編成のR編成が引き継がれた。
JR東海のSK・S編成は新幹線通勤客の増加に伴う利用者増加で16両化されYK・Y編成となる。
1997年、小倉-博多間を走るこだまの輸送力適正化のため、0系史上最短となる4両編成を組んだQ編成が誕生した。Q編成は比較的古い車両で構成されていたためにJR西日本の0系としては早期の2001年に姿を消している。
Y/Yk編成(一例) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
21 26 25 26-2 37 26-2 25-2 16 25 26 25 26 25 26-2 25 22
Q編成(一例) 1 2 3 4
21 26 25 22

最後まで残ったのは「ウエストひかり」編成から状態の良い車両を集めて組成したこだま用6両編成のR60番台編成だった。
この編成は100系P・K編成共々500系や700系レールスターに似たグレーに黒とグリーンの帯を差した塗装に変更された。
R6#編成(当初) 1 2 3 4 5 6
21 26-2 37 26 25 22
R6#編成(3号車差し替え) 1 2 3 4 5 6
21 26-2 25-4 26 25 22

去就

初代新幹線車両として初期車の置き換え分まで含めて延べ3200両以上が製造され、全盛期には2300両以上が在籍した0系だが、
100系以降の加速力・最高速度に優れた新型車が登場すると、特に過密ダイヤの東海道新幹線においてはダイヤ上の足かせとなっていった。

東海道新幹線においては1995年度の300系の5、6次車の登場により、まず「ひかり」専用編成であるNH編成が全編成引退。
その後は「こだま」用のY・YK編成が数を減らしていき、浜松工場では1997年9月をもって0系の定期検査を終了。検査期限が切れた編成から順に姿を消していった。

0系が経験した最後のダイヤ改正となった、1999年3月の改正ではついに6編成のみが残存となる。
同年の夏休み期間にはリバイバル運転として0系による「ひかり」が復活。
1999年9月18日の名古屋行「こだま473号」(Yk8編成使用)をもって、東海道新幹線から0系が引退することとなった。

一方の山陽新幹線では(運営会社たるJR西日本の財政難などもあって)12両編成がグレードアップ改装を受けてひかり運用に入るなど準主役的ポジションに暫く残っていたが、連日の高速運転などで車体の老朽化は進行していた。

当初JR西日本は「N700系の実戦投入開始まで0系を使う」と発表していたが、
2007年9月にN700系の増備により「のぞみ」運用を退いた500系を「こだま」に回し、0系に関しては2008年11月で全廃すると発表した。

同年2月27日には、当時使用されていた三井住友カラー緑基調のカラーリングから、往年の白と青に戻された。
但し塗料が当時と異なるものを使用していたので、色合いはほんの少し異なっていたが。
車内放送用のチャイムも、「いい日旅立ち」からかつての東海道新幹線のチャイムに戻された。
2008年12月14日の「ひかり347号」をもって、0系新幹線電車は遂に営業運転を退いた。

また引退前にJR西日本は特設サイトを開設し、馬場俊英の歌うテーマソング「君がくれた未来」を使用したビデオクリップが期間限定公開されていた。

0系が与えた影響

最初に書いたとおり、「新幹線」と聞いて真っ先に上がる車両の一つはこの0系だろう。

世界初の200km/h超の営業運転で世界に日本の復興と技術力を示し、
さらに海外の鉄道関係者には「鉄道はもっと速くできる」「速くできれば自動車や飛行機にも対抗できる」と希望を与えた。
「これからの時代は飛行機が主流で鉄道はオワコン」と世界的に思われていた矢先に登場したこの0系はまさしく鉄道界におけるニューヒーローであり救世主でもあったのだ

実際、フランスは鉄道先進国の威信をかけ、0系ひいては日本の新幹線を超えるために超特急TGVを作り上げているし、
アメリカも日本の新幹線に刺激されて東海岸を200km/hで爆走する超特急「メトロライナー」を作り上げた。

ドイツも「電車方式の超特急」に触発され、403系特急電車を作り上げ、
さらに0系の直系の子孫たる100系の二階建て車両を参考に超特急ICEの車体寸法を決めたとも言われている。

イタリアでも振り子特急ペンドリーノ「ETR450形」のデザインが、0系に影響されていると言われている。

そして鉄道発祥の地であるイギリスでは、ヨーク鉄道博物館のコレクションに0系の22-141号車が加わっている。
鉄道発祥国の博物館の展示物にも加わったのだ。

1975年にエリザベス女王が来日した際には乗車される名古屋駅を悪天候やらで3分遅れで出発するも、
運転士の「210㎞/hに達するとATCによって急ブレーキがかかるので209㎞/hで走り続ける」という職人技を遥かにすっ飛んだ運転技術により、
品川信号所(当時、現在の品川駅)を定刻に回復、「新幹線は時計よりも正確」という女王陛下の御言葉を違える事無く東京駅に入線した。

日本の国土は80%が山のために勾配が多く、空気抵抗やもろもろの摩擦係数、乗客による加速やブレーキの良し悪しも日によって全く異なる。
こんな状況で1㎞/h下の速度を維持し続けるのがいかに困難なことかは容易にお分かりだろう。

そうでなくとも、海外でも「Shinkansen」やら「Bullet Train」と言えば、まず最初に上がる車両の一つでもあろう。
チャド共和国に至っては自国の切手のデザインに、富士山をバックに疾走する0系を採用したことがある。

海外だけでなく我々日本人にも大きな影響を与えている。
駅のピクトグラムで「新幹線乗り場」を表すサインといえば0系という時代は長かったし、
漫画で、アニメで、映画で、「新幹線」と言えば0系という時代も長く、同じく昭和のシンボル的にも扱われる東京タワーと並んで破壊されがちな建造物でもあった存在でもあり、中でも1975年に公開された映画『新幹線大爆破』では0系新幹線に爆弾を仕掛けられるというサスペンスの舞台ともなった。

子供文化においては絵本で出てくる「新幹線」といえばまず真っ先に0系が上がり、子供に愛される鉄道玩具プラレールも開業の年と同時に発売された「超特急ひかり号」のヒットにより一躍メジャーに。
お子様ランチの皿のモチーフとしてはジャンボジェットスペースシャトルと並ぶ人気の題材。
屋上遊園地のコインライドや豆汽車のモチーフとしても大人気の形式。
ある世代のwiki籠りにはおなじみの「超特急ヒカリアン」「電光超特急ヒカリアン」やサンリオの「しんかんせん」シリーズにももちろん登場している。
更には日本手話で新幹線を意味する単語に0系の光前頭をイメージしたものが使われている。

ここまで人気の理由は単に「製造・運用の期間が長かったから」だけでは説明できないものもあるだろう。
今となっては愛嬌の感じられる丸みのある車体、そこから繰り出される当時世界最速の210km/hというインパクト。

車両そのものだけでなく「生活」から見れば、わずか4時間半で東京と大阪を結ぶことにより、
「日帰り出張」「日帰り旅行」すら当たり前としたことで、生活様式やビジネスのスタイルすら根本から変えた。

世界では鉄道斜陽論を吹き飛ばし、日本人の生活様式すら変革し、
さらに我が国に於いては単なる「電車」を超え「文化」に入り込んだ0系という車両には、「伝説」の称号が相応しいだろう。


現存する0系

「最初の新幹線」という性質上、保存車は多い。
例えば国内の鉄道関係施設であれば極力開業当時の姿を再現してある鉄道博物館の21-2、正真正銘の「新幹線0系第一号」21-1、22-1、16-1を保有する京都鉄道博物館(この3両にビュフェ車第一号の35-1を加えた4両編成で展示)、東海道新幹線を管轄するJR東海肝いりのリニア・鉄道館ほか、ある程度の規模がある施設であればまず何らかの形で静態保存車が置いてある。
他の保存先としてはJR東海・西日本関係の車両基地や工場なども多い(浜松工場や博多総合車両所など)。「車輛製造メーカーであった縁で」として日本車輛や川崎重工業、総合車両製作所にも保存車が存在する。

また一部は公園のモニュメントとして設置されているケースもある…が、この手の静態保存車にはつきものの問題である「経年劣化や心無い者の手による荒廃」に悩むケースも多いようだ。
もちろんこのケースでも「国鉄新幹線部門のOBに依頼して整備の助言を受ける(東京・昭島市つつじが丘公園)」「歩いて行ける距離に新幹線の車輛基地があるため、いつでも助言を受けられる(大阪・新幹線公園。目と鼻の先に鳥飼車輛基地がある)」など手を打っている事例も多い。



特徴的な編成・車両

  • お召し列車
1965年5月から登場し、1984年10月まで運行。
特定の専用編成ではなく落成した新車を優先的に使用しており、御座所となるグリーン車は座席が1席撤去され、その部分にはテーブルが設置された。
当該車両には識別のために当初スカート部分に白いV字形の印が、1971年以降はライト部分の青いアイラインに変更された。
防犯上の観点から100系以降の形式では車体での識別は取りやめている。

  • 1000形C編成(→N1編成→H1編成)
量産先行車。開業前は6両編成だった。京都鉄道博物館に保存されているのはこの編成の先頭車とグリーン車。鉄道記念物指定。
C編成 1 2 3 4 5 6
1011
→21-1
1012
→26-1
1013
→35-2
1014
→16-1
1015
→25-2
1016
→22-1

  • H2編成(→H26編成)
開業一番列車に使用された正真正銘「ひかり1号」。最初期型の編成がモデル化される場合は大抵コレとして発売される。

  • YK8編成
東海道新幹線に於ける最後の0系による列車「こだま473号」を務めた編成。東京方先頭車の22-2029は日本車輌製造豊川製作所の正門付近に保存されており、公道からフェンス越しに見ることが出来る。ビュッフェ車の37-2523とグリーン車の16-2034はリニア・鉄道館で保存されている。

  • R61編成・R67編成・R68編成
山陽新幹線に於ける最後の0系。グレーに緑ラインの「フレッシュグリーン」からオリジナルのクリーム10号・青20号のカラーリングに戻されていた。
最終運用ではR61,68の二本がさよなら運転を分担し、故障時に備えてR67が待機していた。R61が最終営業列車となる「ひかり347号」を担当し、さよなら運転がつつがなく終了したのちに博多へ回送されたR67が、本線を自力で走行した最後の0系となった。
なお、この(W)R編成の3号車はかつて売店車(ビュッフェ車からの改造)だった車両で、キッチンやコーヒーメーカーが残っているのを拝むことができた(営業はしていなかったが)。
しかも公衆電話があってテレカも売っており、コレクターもいたとか。
ついでに、R67編成には上で述べた21/22-7951が使用されており、他の先頭車と少々外観が異なる。

  • Q3編成
0系、ひいては山陽新幹線最短の編成であったQ編成のうちの一本。2000年に廃車となったが、3号車を差し替えたうえで新下関の訓練センターへ運ばれて、走行可能な実習教材として使用されていた。訓練線は新下関駅構内まで伸びており、運が良ければ駅に来ているところを拝めたらしい。
教材としての使用も終わった後の2009年1月に、100系の牽引で博多総合車両所へ回送され、22-1047を残して解体された(これも2024年に解体)。自力走行ではないものの、本線上を走行した最後の0系である。
なお、廃車された100系が新たな教材として配備されたが、こちらも解体されて2022年現在はシミュレーターを使用して教育を行っている模様。

  • (N2編成→)H2編成
何やら過去にやらかしたようで「出る」と評判だったらしい編成。何が出るって?お察しください。
ビュッフェ車35-1のみが京都鉄道博物館に保存。

  • H70編成
1974年10月6日、当日開催された第61回列国議会同盟(IPU)議員団輸送用に組成された特別編成。
先頭車と組む2ユニット4両を除いた12両がグリーン車という編成で、「ひかりスペシャル」「IPUスペシャル」とも呼ばれる。
博多開業に向けた大量増備の最中だったからこそできた荒業で、終わった後はそれぞれ増備車やK編成からの編入分へと振り分けられてH70編成自体も普通のH編成になった。
H70編成(落成時) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
21-117 26-553 15-70 16-117 15-72 16-119 15-73 16-120 15-74 16-121 15-75 16-122 15-76 16-123 25-666 22-117

  • R51・R23編成
山陽新幹線用の6両編成で、R23編成は特に客室設備に手を加えていないが先述の21/22-3901が使用されており両先頭車の窓がやたらデカくてハズレ席があるのが特徴のこだま編成。R51編成は座席を2+3から2+2の回転リクライニングシートに交換し、グレードアップ改造を施したウエストひかり編成で、夏と冬の超多客時にR23編成を連結して12両編成を組成した。
新幹線における複数編成を併結しての営業運転はこれが初めての事例だが、運行管理システムのコムトラックが複数編成を連結しての営業運転に対応しておらず、この組成が見られた期間は短かった。
R51+R23編成 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
21-3901 26-852 25-433 26-513 25-182 22-3901 21-7001 26-7201 37-7001 26-7001 25-7001 22-7001

  • NH82編成
前述した通り、0系のパンタグラフは非常に多かった。これは当時の東海道新幹線の地上設備に問題があり、特高圧引通線にはパンタグラフを並列接続する特性があるのだが、当時の東海道新幹線の地上設備はパンタグラフを並列接続すると、電気配線などを短絡してしまう構造になっていた。
そのため、0系ではやむを得ず電動車ユニット全てにパンタグラフを搭載していたのだが、時代が進み、東海道新幹線の地上設備の改良が進められて、JR化後の1991年に東海道新幹線も特高圧引通線が使えるようになった。これに着目したのがJR西日本だった。
東海に比べて経営基盤が弱く厳しいJR西日本は、やむを得ず0系を東海道直通「ひかり」に2000年頃まで使用する予定を立てていた。そのため、0系に3人掛けシートの回転可能化改造を施したりしていたが、その一環として計画されたのが「0系への特高圧引通線搭載によるパンタグラフ数の削減」で、その対象に選ばれたのがこのNH82編成だった。
施工後は外観が変化し、奇数号車の東京方にはパンタグラフの遮音板と似たようなデザインで長さが短い碍子用の遮音板が立てられ、偶数号車の東京方と奇数号車の博多方が隣接する部分には、200系のものとよく似たデザインの碍子カバーが取り付けられた。これによって0系も特高圧引通線を装備し、パンタグラフの数を削減――

出来たら良かったのだが。

実際には「やろうと思って準備工事をしたが、結局ダメだった」編成。そのため前述した外観上の装備は全てハリボテ。
出来なかった理由は0系の屋根の構造にあり、一見屋根のように見える銀色の部分は本当の屋根と空調装置を覆うためのカバーで強度が不足しており、300系以降の車両のように車外に引き通すことが出来ず、かといって本当の屋根の部分には空調装置が分散して配置されており、そこに引き通すと空調装置との絶縁距離が確保できず、ショートする可能性があり極めて危険だったため。結局、1998年に廃車となるまで特高圧引通線は装備されずに終わった。

  • 21-2003
1982年に落成したものの、1989年12月に車両基地の車止めに激突する事故に遭遇し、翌年2月付で廃車となった。0系で唯一の事故廃車車両であり、車齢10年未満で廃車となった車両でもある。
なお、この車両が組まれていたNH67編成はこれで編成解消となり、半数が比較的新しかったにも関わらず25-2004がYk16編成に組み込まれた以外は残りの14両も廃車となってしまった*11

  • 21-5035
台湾高速鉄道に譲渡され、建築限界測定検測車としてレーザー測定器を積み込み台湾に渡った。現在は台南駅前に保存展示されている。

  • 22-141
イギリス・ヨーク鉄道博物館に収蔵された車両。JR西日本からの寄贈品である。ちなみに編成の相方であった21-141は前半部のみながら四国に現存する。

  • キハ32 3(JR四国)
ディーゼルエンジンの音が聞こえるし最高速度も85キロだけど0系だ、いいね?アッハイ。
保存施設の引き込み線を使用することで本物の0系、上で述べた21-141と並ぶこともある。

余談

国鉄末期、0系の廃車部品が家具として販売されたことがある。
大窓車の窓ガラスに脚を取り付けてガラステーブル化、グリーン車の座席をソファーとした応接セットと、先頭部の連結器カバーを花壇の鉢としたもの。現行車両の廃車部品だとソファーはなんとかなってもガラステーブルは無理だろう。

国鉄時代に誕生した自由席を設定し、キリのいい時間に高頻度で発車するエル特急は、ロゴマークに0系の先頭部をモチーフとしたものが使われた。

形状が航空機に似ていると解説したが、これは0系設計者である三木忠直が銀河や特攻機「桜花」を設計していたため。*12
なぜ航空機設計をしていた技術者が鉄道に関わっていたかというと、終戦後国鉄は陸海軍の技術者が散り散りになることを危惧、技術者たちを積極的に受け入れたため。
三木も「戦争はこりごりだが自動車関連に行けば戦車、船舶関係に行けば軍艦を作るかもしれず、一番軍事転用が少ない鉄道が良かった。」と語っている。

鉄道玩具の代表格、プラレールにおいても古くからラインナップされている。
最も古いものは開業よりも前、1963年の「プラスチック夢の超特急」と1964年の「電動超特急ひかり号」で、開業前に設計されたため車体は1000形試作電車をモデルとしており、またカラーリングも実車と異なる白いボディに赤いスカートというものだった。
1970年に両先頭車が再設計され0系の車体となり、プラレールブランドの確立に合わせ商品名を「超特急ひかり号」に変更、1972年にカラーリングも実車と同じ青と白に改められた*13
1976年、「ニューひかり号」として今度は中間車も含めて全面リニューアル(「ニュー」は一年ほどで取れた)。やや寸詰まりだった流線形が改められた。当初は青白い光前頭が特徴だったが、1978年に前照灯と共に赤いクリアパーツに変更された「ライト付きひかり号」に改修された。
このモデルはその後40年近く使用され、0系の運用が減ってきた90年代後半には「ライト付きひかり号」と入れ替えでウエストひかりと922形ドクターイエローに化粧直しされた。また、東北・上越新幹線開業に合わせてスノープロウを備えた200系にも流用され、K編成リニューアル車や925系も製品化されている。最終的に、2002年に行われた新幹線一斉リニューアルに合わせてライト機能が廃止、長く砲弾型だった前照灯が丸型に改修されて2014年まで922形として通常ラインナップに残っていた。
一方、2000年にリモコン操作と先頭車にカメラを備えた923形として2000番台ベースのリアルな造形のものが登場。これ自体は一発製品だったが、2004年にイベント限定品としてギミックを廃し0系として改めて発売。以降イベントやセット品として度々姿を見せる。
さらに引退を間近に控えた2008年、新たに26-2000と37-2500を新造して原色の5両編成とした記念セットが登場。この時点で37形は全車引退していた*14ため、ファンを驚かせた。続いて26形を1両加えたフレッシュグリーンの6両セットも製品化された。
2014年に動力台車が一新されたのに合わせ、922形が新造モデルにリニューアル。従来品やカメラ付きの時は0系の車体だったが今度は922形として造形されている(屋根以外は…)。続いて10月には0系も大窓、しかも最初期型*15が東京駅丸の内駅舎とセットで登場した。2000番台では25形だった中間車はなんと16形がチョイスされ、またもや話題を呼んだ*16。このモデルもイベント限定品の定番となったほか、当時の報道映像をイメージしたモノクロ仕様および開業60周年&プラレール65周年を記念した赤白カラーと「ひかり1号」仕様のセットとして時折一般販売もされている。
きかんしゃトーマス』に「ケンジ」として登場したのに合わせてこれもプラレール化されている。全体の設計やディテール感は14年金型をベースとしているが、劇中の姿に合わせたためか上屋根のディテールが全く異なる他床下の表現がないなど結構差異がある。2・3両目はプラレールでは初製品化となる26-700なので、上手いこと改造すれば編成の幅を広げられそうだが…

当時から複数のメーカーがNゲージ規格の模型を現在に至るまでリリースしている。
しかし0系は組み換えが多く、同じ用途の編成でもどこにどの年式の車両が入っているのかがバラバラのため、70年代以降の番台混在編成を再現するとなると骨が折れる。国鉄時代のひかり編成は(メーカーの違いや入手困難な車両*17を考慮しなければ)かなりのパターンに対応するようになったが、こだま編成は必要な車両の多くが未製品化で組めないものが多い。
また、大半の製品がアイボリーのため、JR化後の地色がパールホワイトの編成も組めない*18


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最終更新:2025年04月12日 09:19

*1 他には新幹線の運転士には機関車出身の人が多かったためそれに合わせたという説もある。

*2 軸箱を前後に伸ばした板バネで支える。

*3 1000番台は1001~1074まで途中まで自販機コーナーが設置されており、これらは片側に窓がない

*4 26-400は10両しか製造されておらず、しかも割と早期に役目を終えて廃車された。

*5 Kにならなかったのは汽車製造と重複するため。川→RiverからR

*6 こちらも汽車製造と重複するため。近畿→近い→ShortからS

*7 S編成に改番した時点で16両化が決まっていたのでS編成は5号車から始まっていた。

*8 こだまのビュッフェ車を1両に減らそうとしたのだが、諸々の理由から少数ながらビュッフェ2両の編成が残っていた。このうちK41編成は1985年にK編成が廃止されるまでビュッフェ2両のままだった。

*9 特に博多まで往復する「ひかり」用の編成に1・2次車が中心の編成(H1~H30編成)が充てられており、これらの車両は劣化が著しいのに対して最も新しい食堂車ユニットは3~4年程度という状態だった。

*10 番号は既存のH編成96本からの連番でN97~99を名乗る。

*11 一部は保留車となったが結局そのまま廃車。一番長く車籍が残っていたのは相方の22-2003(1992年5月廃車)だった。

*12 三木は設計を行っただけで彼は若者を死なせたことを悔いクリスチャンになった、桜花の発案者は大田正一という人物で彼は発案者として世間の注目を浴びるも同時に人命軽視な発言もしており戦後自決を図るも失敗、軍は死亡扱いし以後無戸籍のまま1994年に没している。

*13 色が変わるまでに開業から8年も経っている。箱に書かれたものと違う色の新幹線が出てきたことを当時の子供たちはどう思っていたのだろうか?

*14 25-7900に改造された車両が生き残っていたが、あえて原形の37形としたのはやはり担当者のこだわりだろう。

*15 サボのモールドがある上に上屋根のルーバーが少ないところまで再現されている。まぁ、屋根は先に出たドクターイエローと全く同じなのだが。

*16 基本設計やデフォルメの方向性は2000番台型と変わらないため、混結も違和感なく可能。特にセット品のR61・R68編成を持っていればグリーン車とビュッフェ車を備え大窓と小窓が混在する往年の姿を再現できる。

*17 TOMIXでは一部の限定品にしか入っていない26形2200(7200)番台やマイクロエースから一度出ただけの37形1500番台など

*18 例外はTOMIXのウエストひかりとフレッシュグリーン、Yk8編成のみ。そのYk8編成は16両セットで発売されたが形式違いや1000番台車が相当ごまかされている。