集合精神

登録日:2020/03/01 (日) 02:46:46
更新日:2025/04/01 Tue 20:00:04
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集合精神とは、複数の個体で一つの人格を共有する仕組みのこと。
いわゆる多重人格の逆パターンである。

このページでは「一人分の人格が複数の個体に出現する」という現象を「集合精神」の定義とし、それに当てはまるものを紹介する。


概要


たとえば、創作ものでは「テレパシー」という特殊能力が登場する。
これは相手の考えていることを直接読み取ったり、あるいは自分の思っていることを直接相手に送信したり、まあ脳内を直接のぞき見したりさせたりできる能力なのだが、これを常時使い続ければどうなるだろう。
相手が感じることを自分も感じる。喜びも、悲しみも、痛みも、快楽も、なにもかもを文字通り共有する。
まるで携帯端末を同期するように、意識を同期しつづける。
すると、別々の体であってもその魂が一つに統合されるのではないか。
そんなアイデアを極めていった先の終着点(かもしれないもの)が、集合精神なのだ。

なお、現実にそんな生き物は存在しないし実現されてもいない。
いつか現実となる日が来るのかもしれない。

なお、類義語として「概念人格」「共有人格」「総体」「総意」などと呼ばれることもある。


集合精神の特徴の一例

作品によって解釈がバラバラなため、ここではあくまで一例としての特徴を挙げる。

  • 群れの中に「実体を持たない人格」がいる
ボスや本体となる存在がいて、そいつを倒せば止まるようなものはこの項目での定義には含めない。
それらはむしろ「肉体の乗っ取り」「遠隔操作」に近いからだ。
(もちろん、それを「集合精神」と定義している作家もいることには留意されたし)
これには「共有人格以外に人格がなく、個体はみんな端末である」パターンと、「共有人格が群れの構成員とは別にいる」パターンがある。

  • 人格を共有できる個体が2体以上いる
実体を持たないものと言えば「憑依」もある。
概念としては結構近しいのだが、こちらは基本的に「一人の体を支配し我がものとする」=集合も共有もしてないという点からここでは除外。


集合精神はいかにして成り立つか?


実現していないのは上述した通り。
それゆえ、「なぜ意識が共有されているのか?」という部分に関しては作品ごとに多様な、そして明確な理由付けがなされている。
テレパシーや電気的リンクで共有している、といったもの、元々そういう生命体で、種族特性としてそうした性質を持つ存在だった、などがある。

基本的に「人格と一緒に記憶も共有されており、構成員が死んでも問題はない」というパターンが大半。
ごくごく稀に「特に共有はされてないけど、複数の人物間に共有人格が出現する」という、集団催眠じみたものも。


共有人格

ある種、集合精神のキモともいえる部分。
「群れの中で共有される、誰でもない人格」のこと。
そいつが群れのリーダーになるとは限らないが、とにかく、「個体間を行ったり来たり俯瞰したり出来る、形のない誰か」というのが現れるのである。
その「誰か」は不死である。個体がダメになるたびに、共有リンクの繋がっている別の誰かに乗り換えればいいからだ。
またそうなった場合、自らの「死」の瞬間をつぶさに認知し、学習できるというメリットも存在する。
生きているし死んでいる、生きてもいないし死んでもいない、そうした、通常の生命体が持ちうる価値観を乗り越えた先にいる神のごとき高次存在……集合意識とは、そういうものだったりする……かも、しれない。

意識を同期していても共有人格がない例外パターンもあり、たとえば攻殻機動隊タチコマがこれにあてはまる。

総意と自我の定義


ここアニヲタwiki(仮)にはすでに集合的無意識という記事が存在する。
この集合的無意識、簡単に言うと「みんなが持ってる共通のイメージそのもの」を指す語なのだが、まずもって、情報のやりとりがないとこの集合的無意識は生まれない。
上で挙げた意識の共有には劣るが、我々人類も言葉や文字やコミュニケーションによって情報をやりとりし共有している以上、我々の間にも「総体」「共有人格」は生まれ得る可能性がある。
そも、「日本」「クラス」「会社」「組織」といったくくりで集まって、その総意のもとに動くのが人間である。
ということは、「日本の総意」「組織の総意」といったものは、それ自体が自我を持った一個の「自我・人格」と言えるのではないか。

人間の脳にしてみても、無数の脳細胞が集まって脳を構成している。脳細胞は入れ替わり立ち替わり生まれたり死んだりしているが、だからと言ってそのたびに我々は死んだりはしない。
それどころか、一つの脳の中に複数の人格が発生する「多重人格」という現象さえ実在しているくらいである。

砂山のパラドックスではないが、脳が細胞の集まりであるのなら、魂や意識といったものはどこに宿っているのか。脳細胞をひとつずつ減らしていって最後に1個だけ細胞が残ったとしたら、そこに魂はあると呼べるのか。

これらの例を総括すると、

自我の正体は「集まり」「脳細胞の総意」である

そうした荒唐無稽な仮説も現実味を帯びてはこないだろうか。


創作での扱い

集合精神の持ち主には原則本体やコアにあたるものが存在せず、あったとしても実体がない。
その上、たいていの場合100や1000では済まないものすんごい群れとして登場することがほとんどである。

さらに言えば、意識を共有していることで感性が人類と異なる=人類と相容れないパターンも多いため、登場するのは決まって強大な敵あるいはラスボスとして、というのが定番。
また、上記に挙げた通り並大抵のことでは滅びないので、最終的に打ち倒されずに物語が終わるパターンも多い。
「滅ぼすのが大変」って属性はシリーズものの敵としては美味しいしね

ある種、ボスにつけられがちな属性と言えなくもない。


集合精神のパターン

集合精神の持ち主(達)には大きく分けて3つのパターンが存在する。
性質上、ほぼ確実に作品の重いネタバレが含まれるので閲覧には注意。

人格が統一され、個体ごとの人格が消えているタイプ

事実上、群れの一人一人が端末同然というもの。「ハイブマインド」とも呼ばれる。
群れの意識がネットワーク的な何かで一つに統一されており、共有人格にあたる存在が「たくさん身体を持つ一人分の存在」として振舞う。このため、「群れの総意=個人の意思」という難解な精神構造を持つ。
会話を行う際は、端末となっている個体を一個人っぽく見せかけた上で意思疎通を図る。

性質上、群れを構成する個体が死ぬのを軽い擦り傷程度にしか考えていないものが大半。そのため、「一人二人死んだところで人類は滅びないっしょ?いいじゃんいいじゃん」的なノリ善意で人間に害をなしたり、人間とそもそもの価値観が相容れない、理解不能なエイリアンとしての登場が見られる傾向にある。


個体ごとの人格があるタイプ

個体ごとに自我があり、それとは別に、個体の体を借りたり俯瞰したりできる共有人格がいるパターン。

この場合だと、共有人格は純粋に「肉体を持たないメンバー」となる。
構成員それぞれに人格が残っている分、上のタイプほどにはまとまった行動がとれないからである。
逆に言えば、わざわざ統合する必要性を本人たちが感じていないという事でもあり、こちらのタイプは割と穏健だったりする。


意識共有されてる描写がないパターン

上記二つと違い、意識が共有される仕組みがないが、でも一つの人格が複数人の間に出現するパターン。言わば、「演じられる存在」と言えるだろう。

意識の同期がなされていないので記憶とかどうするの?という疑問が浮かぶが、少なくともここに挙げた2例は「同一性を問いただすシーンがない」「そもそも一緒に行動しているので記憶の誤差がわずかである」という風にぼかされたり誤魔化されて描写されている。
果たしてこれを集合精神と呼ぶのかどうか、という疑問はあるが、冒頭で挙げた集合精神の定義に従い、こちらも記述する。





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最終更新:2025年04月01日 20:00