登録日:2026/07/13 Mon 20:00:00
更新日:2026/07/20 Mon 16:35:33
所要時間:約 20 分で読めます
徐晃とは、
三国志に登場する武将。
魏に仕えた。字は
公明。
孔明ではない。公明正大の公明。
あるいは某政党。
生年不明、227年に没。
【経歴】
◆前歴・楊奉配下
河東郡は楊県(現在の山西省洪洞県東南)の出身。
生年は不明だが、後年に
関羽が徐晃を「兄貴」と呼んだことがあるため、彼や
張飛よりは年上であったようだ。
当時、河東郡は
「白波賊」という盗賊団が縄張りとしていた。
その頭目・
楊奉は、いつの時期かは不明だが、
董卓軍に降伏してその構成員となっていた。
徐晃は当初、河東郡の下級官吏をしていたが、楊奉に抜擢されて盗賊の討伐で手柄を立て、騎都尉に任じられて武官デビューしたという。
ただ董卓は、娘婿で幹部の牛輔に白波賊の討伐任務を与えたが、撃退されたことがある。
それが189年のことなので、このころの楊奉は董卓配下ではなかったはず。
徐晃がいつ楊奉配下になったのかも分からないのだが、後年書かれた記述は徐晃家に配慮したもので、徐晃は役人ではなく最初から白波賊の構成員だったのかも知れない。
初平三年(192年)、董卓が
王允と呂布に
暗殺される。
しかし董卓勢力の残党・
李傕と郭汜らが逆襲して、王允らは殺害され、首都長安と
献帝は李傕・郭汜に掌握される。
楊奉はこの李傕と反りが合わず、ついには李傕暗殺を企むが、失敗。長安を逐われて山賊に逆戻りした。
徐晃はこの時も楊奉のもとに留まっており、彼に「献帝を守護して洛陽に向かいましょう」と説得したとされる。
もっとも、この時期の徐晃は地位がかなり低いことや、長安にいる士大夫層にも「洛陽に戻りたい」という声が多数あったことを思うと、徐晃の一声で事態が動いたという可能性は低いだろう。
楊奉自身もそのつもりがあったようで、195年に献帝が長安を脱出すると、楊奉・徐晃らも合流。
一行が洛陽に向かうまでに暫定的な論功行賞が行われたが、楊奉は興義将軍や車騎将軍、徐晃は都亭侯に封ぜられた。
ところで徐晃は、献帝を補佐するはずの大臣たち、特に「衛将軍」
董承と「大将軍・司隷校尉」
韓暹が喧嘩ばかりしているのを見て、先行きに不安を感じていた。
そこで、楊奉にありのままを伝えて
「ここはいっそ、東の曹操に付くのはどうでしょうか」と進言した。
楊奉もこの時点では賛同し、また曹操の側も(
袁術・袁紹への対抗も視野に入れて)献帝保護のため派兵。
献帝を許昌に移して擁立し、「建安」に改元した。
しかし、曹操としては献帝がこちらに移った以上、董承のような献帝直属の臣下も、ましてや楊奉や韓暹などのような盗賊上がりも必要ない。
折しも楊奉・韓暹らの軍勢は食糧不足で、恐らく曹操らも物資を融通しなかったため、近隣で略奪に走っていた。
そこを曹操軍は討伐。物資も足りない楊奉・韓暹は大敗し、袁術の元へと逃走。
徐晃は曹操に降伏した。
◆曹操配下
曹操は徐晃が有能であることを察しており、早速兵を与えて各地の盗賊団討伐に派遣。功績を挙げて
裨将軍に任じられる。
呂布戦では呂布の支援部隊を破り、
史渙の配下として、河内郡の
眭固を討ち取るなどして名を挙げる。
この時期に、かつての親分だった楊奉・韓暹が
劉備に斬られる。
その劉備は曹操の元に寄寓していたが、かつて楊奉・韓暹とも憎み合っていた
董承が献帝から密命を受けて進めていた
曹操暗殺計画に巻き込まれる。
結局、同計画は露見して董承たち関係者が処刑され、劉備は手が回る寸前に曹操旗下から逃走していた。
徐晃はこうした
古巣・白波賊の壊滅を目の前で見ていたわけだが、どのような心境でいたかは不明。
袁紹との決戦時期には、まず徐州で反乱を起こした
劉備を討伐。
その劉備が袁紹の勢力下に逃げ延び、建安五年(200年)、ついに天下分け目の決戦
「官渡の戦い」の幕が上がった。
徐晃は
関羽・張遼らとともに第一線で奮戦。
まずは白馬津で
顔良を、続いて延津で
文醜を討ち取るのに関与し、この功績で
偏将軍に昇格。
さらに上記の史渙と共に袁紹軍の補給部隊を襲撃し、
都亭侯(一說には「都」がつかない亭侯とも)に封じられた。
袁紹死後の
河北攻略戦にも参加し、204年の鄴や邯鄲の攻略にも曹操麾下で参戦。
易陽県の県令・韓范が抵抗していた際には、徐晃はあえて力攻めではなく、利害を説いた手紙で彼を降伏させた。
韓范は一度曹操に降伏するといいながら前言撤回したので、曹操としては滅ぼしてしまえと考えていたのだが、徐晃は、
「袁譚・袁尚が未だ倒れておらず、巻き返す恐れもあります。いま、力尽くで易陽県を滅ぼせば、他の城は死力を尽くして抵抗し、平定は容易ならぬ事となるでしょう。ここは韓范らを寛容な心で許してやり、他の城にも伝えて、降伏できるようにしてやりましょう」
と請願。曹操も韓范の二度目の降伏を許したという。
その後も各地の袁尚軍と戦い、205年には袁譚の討伐にも参加。
207年には烏桓討伐のための曹操自ら率いる遠征軍にも参加し、曹純・張遼とともに袁家の残存勢力や烏桓王・蹋頓の殲滅に尽力した。
徐晃は一連の功績が認められて、横野将軍に任命されている。
◆赤壁の戦い
河北平定の翌年、208年から早くも開始された南征でも、曹操に従って参戦。
別働隊として樊城に駐屯し、中廬、臨沮、宜城といった地域を攻略。
この過程で、かつての顔良戦で仲間だった関羽と、今度は敵として戦うこととなるが、満寵との連携で彼を撃退している。
とはいえ、後に
「長坂の戦いで敗れたとは言え、劉備さまの勢力には関羽の部隊と劉琦公子の部隊があり、まだまだ戦える」という
諸葛亮の発言があり、徐晃と関羽の戦いはそこまで決定的なものではなかった模様。
その後、
「赤壁の戦い」で曹操本隊が劉備・
周瑜連合軍に敗北。
曹操は別働隊だったために損害の少ない
徐晃隊・曹仁隊を南郡に残して撤収し、
周瑜・孫権の迎撃に当たらせた。
二年後の210年には南方を離れて并州に赴任し、夏侯淵の配下として活躍。反乱軍の討伐に当たった。
◆涼州の戦い
三年前は南の荊州、一年前は北の并州と来て、211年には今度は西の涼州に赴任。
今度の相手は、
韓遂・馬超が率いる、西涼の反乱軍・十万騎の
連合軍。
徐晃は今回も別働隊を任され、河東郡に展開して防御を固めた。
ちなみにこの河東郡は徐晃の故郷なので、郷里に参って先祖の祭祀を許されている。
この戦いで徐晃は、朱霊とともに密かに黄河を渡って反乱軍の背後に陣地を築き、反乱軍を牽制するとともに、曹操本隊の渡河を支援。
果たして、反乱軍幹部・梁興が曹操本隊に奇襲を掛けようとしているのを察知して、これを撃退した。
もっとも、曹操本隊の渡河作戦は馬超本人に発見され、曹操は危うく戦死する寸前にまで到った。
それでも何とか曹操本隊は前線に到着し、かつ徐晃が確保していた河東郡の補給路も機能したが、その後も苦戦が続いた。
最終的に、参謀・賈詡の「疑心の計」で馬超と韓遂が不和になり、その後の総攻撃で成宜・李堪らを討ち取って反乱軍の中核を打倒する。
戦後の曹操は「先にわが本隊を潼関に向けて正面決戦の構えを見せたのは陽動であり、この隙に徐晃と朱霊の別働隊が北から渡河できた。そして今度はその徐晃隊が牽制することで、わしら本隊が渡河できた」と語っており、徐晃らの貢献が大きかったことを語っている。
徐晃は、曹操が洛陽に凱旋してからも涼州に留まり、夏侯淵の指揮下で涼州・雍州の異民族や反乱軍の討伐・鎮圧に当たった。
215年には、かつて馬超の反乱時に戦った梁興と再戦、今度こそ討ち取っている。
同じく215年の七月には、
漢中郡を束ねる
道教系の宗教指導者・
張魯を曹操が討伐。
徐晃は、この四年間ずっと涼州にいたこともあって地理に詳しく、氐族を中心とした異民族や反乱軍を次々と平定。
敵中に孤立していた味方部隊を救出したり、三十以上の敵陣地を攻略したりと、抜群の功績を立てた。
年末には平寇将軍に昇格している。
曹操が張魯を降伏させて鄴城に凱旋すると、徐晃は引き続き夏侯淵の指揮下に残り、張郃とともに陽平関に駐屯した。
◆vs劉備
張魯降伏から三年後の218年、今度は益州を治めた劉備が北上して、漢中郡に攻め込んだ。
漢中郡は、益州から雍州に出る北伐拠点にもなれば、逆に雍州から益州に攻め込む敵を阻む防衛拠点にもなる。
それを曹操に抑えられている現状は、劉備にとっては問題だった。益州を守るためにも、益州から攻め込むためにも、なんとしても漢中郡を併合しなければならない。
劉備配下の各部隊は、散開してそれぞれの目標に向かって進撃。
陽平関に指揮所を置く、夏侯淵・張郃・徐晃らも、それぞれに分かれて迎撃した。
この時、劉備軍の武将・
陳式が曹操軍の補給路を襲撃していた。
徐晃はこれを発見し、陳式隊を襲撃。敵将・陳式こそ逃げられたが、多くの兵士を崖に追い落とし、曹操もあとで
「劉備の狙いをよくぞ阻んだ!」と大いに賞賛した。
高翔指揮する陽安関の劉備隊を、
曹真と徐晃で攻撃・攻略するという一幕もあった。
しかし魏軍は全体として苦戦気味で、さらにこの一年間に及ぶ戦役で、西部方面の司令官・
夏侯淵が劉備軍の
黄忠に討ち取られてしまった。
徐晃当人にとっても、210年の并州赴任から
九年間にわたって直属の上司だった夏侯淵の戦死は大きなショックだっただろう。
その後、曹操は自ら兵を率いて漢中に向かったものの、膠着した戦況を覆すことはできず、ついに漢中を諦めて撤退した。
この際に西方守備隊は大きな変更が加えられ、徐晃も211年から八年間赴任してきた西部戦線から離れることとなる。
◆vs関羽
漢中での劉備の勝利に呼応して、同219年六月、今度は荊州から
関羽が北上。樊城と襄陽の両城を包囲・封鎖し、激しい攻撃を加えた。
劉備も関羽を支援するべく、
劉封・孟達の部隊を漢中郡から東に出して、
房陵・上庸の両郡を制圧。西と南から荊州北部に圧力を掛けた。
これに対して魏軍の主力は、曹仁が樊城に、呂常が襄陽城に、龐徳が樊城外・北部の陣地にそれぞれ展開していた。
また、魏本国も現地の部隊だけでは関羽を抑えるのは困難と判断し、早々に援軍の派遣を決定。
左将軍于禁が三万の軍勢を率い、やや遅れて徐晃の部隊も荊州に向かった。
ところが、八月に入ってからの大雨とそれによる漢水の大氾濫により、城の外にいた龐徳隊と、折悪しくそのタイミングで荊州入りした于禁隊は大混乱に陥る。
さらに関羽隊は漢水を船で渡る計画でいたため、洪水にも使える船を多数持っていた。
豪雨と洪水のなかでも容赦のない関羽の猛攻により、于禁隊は戦闘意欲を失い大将ともども降伏。
龐徳隊は最後まで抵抗するもやはり洪水のダメージは大きく、こちらは玉砕。
さらに于禁と龐徳の敗北を受けて、荆州刺史・胡修、南郷郡太守・傅方らが関羽に降伏。
荊州の豪族で関羽に呼応する勢力も現れ、中原までもが動揺した。曹操は遷都を本気で口にしたという。
さて、徐晃は于禁より遅れたのが逆に幸いし、樊城より北の宛城に駐屯したが、配下は新兵が多く、関羽と正面決戦しても勝ち目はなかった。
そこで、まずは曹操からの援軍を待って戦力を増強させた。
そして兵を整えてから関羽の正面決戦を避けつつ関羽を支援する拠点を攻略し、徐々に関羽の包囲網に食い込んだ。
奪われた拠点を奪還するべく関羽本隊がやってくると、激しく戦い、ついに徐晃は関羽を撃破。退却する関羽隊に追撃を掛けて、多くの将兵を討ち取った。
ちなみに、徐晃と関羽は同じ河東郡の出身で、また曹操配下だった頃に親交があり、この戦いの前に少しだけ対話をしたという。
さらにこの時期、孫権が劉備との同盟を破棄して関羽の背後を襲撃していた。
もともと関羽は背後の孫権を警戒していたものの、あと一歩で荊州北部を制圧できるとあって、後方の防衛戦力も北部前線に回していた。
それで後方が手薄になったことに加えて、その肝心の北部戦線も徐晃が必死に迎撃したことで、ついに関羽の戦線は前後ともに崩壊したのである。
最終的に、関羽は徐晃と孫権(
呂蒙・陸遜)に挟撃される形で全滅。
戦後、状況を確認した曹操は徐晃を評して
「わしも三十年以上戦ってきたが、それほど長駆して敵の包囲網を突破したものは見たことがない」
「関羽の包囲は、かつて楽毅が斉の二城を包囲したとき以上の激しいものだったはずだ。それを撃退したのだから、徐晃の功績は孫武や司馬穰苴にも勝るというものだ」
と絶賛した。
しかも、戦後の宴会で他の部隊は関羽を討ち取ったことで騒ぎまくっていたが、徐晃隊だけはこんな時にも整然としていたので、曹操はますます感嘆し、
「徐晃の風格は、匈奴の侵略や呉楚七国の乱を防ぎきった周亜夫のようだ!」
と賞賛した。
◆晩年
220年、曹操が世を去る。代わって息子の
曹丕が魏王となり、すぐに魏の
初代皇帝となった。
徐晃は、まず魏王時代に右将軍・逯郷侯となり、曹丕の即位後には楊侯となった。
また、先に劉備軍に落とされていた上庸郡が、関羽の敗死と劉封と孟達の内紛、その孟達の魏への降伏で揺れているのを受けて、徐晃は征南将軍・夏侯尚の部下として現地に赴任。
劉封を撃破し、上庸郡を奪還した。
さらに、関羽戦の頃に守り抜いた襄陽がいつの間にか孫権軍に支配されていたのだが、徐晃は曹仁と共にこの襄陽にも攻め込み、これもまた奪還した。
一連の功績から、徐晃は陽平侯に封じられた。
222年には曹丕が呉に向けて大規模な親征を開始した。
征東大将軍・曹休、前将軍・張遼、鎮東将軍・臧霸は洞口に、大将軍曹仁は濡須に、上軍大将軍・曹真、征南大将軍・夏侯尚、左将軍・張郃、右将軍・徐晃は江陵に攻め込む、という錚々たる面々を揃えた大規模な南征だった。
しかし対する呉軍も準備万端で待ち構えていた。
建威将軍・呂範、建武将軍・徐盛、揚威将軍・孫韶、偏将軍・全琮らの水軍が曹休本隊を阻み、征北将軍・朱然と左将軍・諸葛瑾、平北将軍・潘璋、将軍・楊粲が江陵を、裨将軍・朱桓、偏将軍・駱統、騎都尉・周邵が濡須を守り、攻め寄せる魏軍に挑んだ。
この戦いは魏軍も呉軍も激しい攻撃を展開し、さらに豪雨や洪水なども起きて、どちらが壊滅してもおかしくない激戦となった。
しかし、徐晃と夏侯尚・張郃の部隊はついに朱然たちの守る江陵郡を突破できず、他の魏軍部隊も崩壊していき、朱桓の火計と疫病がトドメとなって魏軍は全面撤退。
曹丕はその後も十万以上の兵力を自ら率いて南征を繰り返すが、いずれも孫権軍に敗れた。
孫権に勝ちを収められないまま、226年五月、魏の文帝こと曹丕は崩御し、明帝・曹叡が後を継ぐ。
呉はこれに乗じて、左将軍・諸葛瑾らを派遣して襄陽にせめこんだが、老将・徐晃が襄陽に籠城して諸葛瑾を撃退。
この手柄によって食邑二百戸を追加され、全部で3100戸の大貴族となった。
しかし、このころから徐晃は病気がちになった。
曹叡は宮廷医を送って治療に努めたが、やはり寿命であり、227年に徐晃は世を去った。遺言は「過剰な飾り付けはせず、平服で埋葬してくれ」だったという。
諡は「壮侯」とされ、息子の徐蓋が後を継いだが、子孫はこれと言って振るわなかったようだ。
【人物】
謹厳実直で用意周到な人物だったと言われる。
私的な交流関係を広めることには消極的で、万事において倹約と慎重な振る舞いを心がけていた。
こうした性格は将軍としての活動にも反映されており、偵察と情報収集を入念に行ったり、常に退路を確保したりと、
慎重な指揮振りだった。
ただ、
好機とみるや勇猛果敢に突撃することでも知られており、その時の兵士たちは食事も休憩もできなかったという。
将兵のなかでは
「徐晃のせいでメシも食えん」という愚痴も流れたそうだが、徐晃本人は
「俺が兵たちの食器を壊したわけでもなかろう」と意に介さなかったという。
(この「食器を壊す」は
項羽の伝説的な背水の陣のことを言うのだろうか)
ただ、例外的に関羽とは親しかった。
もともと関羽と徐晃は同じ河東郡の出身だが、距離は百キロほど隔てており「同郷」「幼馴染み」と言うには少し遠い。
それでも親交を結び、晩年の荊州で敵味方に分かれたときも、言葉を交わしていたという。
しかし、いざ戦場で敵対関係となっては容赦せず、部下の兵たちに「関羽を討ち取ったものは千金を与えるぞ!!」と関羽の目の前で宣言。
「兄貴、何のつもりだ!?」と驚愕する関羽に「全ては国家のためだ!」と言い渡したという。
陳寿は、魏軍でも特に功績が大きかった人物として、徐晃を張遼・楽進・于禁・張郃と並べて挙げている。
【三国演義】
こちらでは、
長柄の大斧を武器として扱う猛将となっている。
徐晃は
斧を使う武将の筆頭であり、また他に斧を使う武将が
KDAなど一山いくらの架空武将ばかりなこともあって、
ビジュアル的なインパクトがかなり強い。
初登場は史実通り、楊奉の武将としてで、楊奉と郭汜の戦いで郭汜の部将・崔勇を瞬殺してデビュー。
やがて楊奉と曹操の戦いとなっても、許褚と互角に渡り合って曹操を感心させた。
曹操の参謀・満寵が徐晃をよく知っていたこともあり、彼が説得の使者として密かに派遣され、徐晃を曹操幕下に引き入れることができた。
以後は曹操軍の猛将として、各地で奮戦。
関羽が下邳で曹操に包囲された際には、徐晃は許褚や夏侯惇と連携して彼を追い詰め、張遼の説得で降伏させている。
袁紹との決戦では、白馬津の前哨戦で袁紹軍の二枚看板・顔良に武力で圧倒され、ついに退却。
続く延津では、袁紹軍のもう一人の看板・文醜が罠にはまったのを見て張遼と二人掛かりで襲撃するが、文醜の矢により張遼が撃退され、残った徐晃も文醜の武力に敵わず、撤退する。
顔良・文醜は最後は関羽に討ち取られ、作中における「関羽伝説」における犠牲者として死後も語られる存在となったが、徐晃は「顔良・文醜はただの敵ではない、とびきりの強敵」であることを示すための引き立て役になっている。
一方で弱い扱いはされておらず、官渡、赤壁、馬超戦などで充分に「魏の強豪」として演出されており、その活躍度合いは夏侯惇と夏侯淵、許褚や張遼や張郃と並ぶレベル。
むしろ、主役である劉備勢力との戦いが多い分、他より出番が多い。
ただ、漢中を巡る劉備軍との戦いでは、迂闊に背水の陣を敷いて敗戦したり、副官に付けられていた王平にパワハラしてついに彼を寝返らせてしまったりといった失策にも及んでいる。
関羽との荊州を巡る最終決戦でも参戦。
関羽の養子・
関平を圧倒する実力を見せつける。関平も弱くはなく、龐徳と互角に渡り合ったほどに成長していたが、その関平がものの数合で敗退し、関羽も龐徳戦の負傷から回復していないにせよ、
一騎打ちで八十余合も打ちあった末に撃退する、という凄まじい奮戦振りを見せる。
また、かつての親交から戦いに迷う関羽に、
「かつて関羽殿には色々と教えてもらいました。その恩義は忘れていません。しかし恩義は私情、君命は公務。それを混同はできません!」
と、戦場を生きる男の回答を述べて関羽に挑む、という猛烈に格好いい場面も与えられている。
正史での最期は病死だが、こちらは正史よりも一年だけ長生きした。
諸葛亮が第一次北伐を開始した際、かつて
劉璋から劉備に寝返り、さらに劉備・関羽・劉封を裏切って魏に逃げた
孟達が、またも上庸を挙げて諸葛亮に寝返ろうとしていた。
しかしその計画が魏に漏れ、
司馬懿が鎮圧に向かった。
この、上庸へと密かに急行する司馬懿隊が、たまたま徐晃と行き会ったことで、
彼もともに上庸に到着。いつもの斧を手に城門に現れて
「貴様らの計画はすでに知れているぞ、観念して降伏しろ!!」と叫ぶ。
ところが、やけくそになった孟達が弓に矢をつがえて放ったところ、
その矢が何と徐晃の眉間に直撃。
かつて関羽をも倒した猛将・徐晃は、あまりにもあっけない戦死を遂げた。
【各作品】
武力は90台前半、統率力は80台後半と、武将として高いスペックを持つ。
その上専用武器の「大斧」を所持しており、戦闘力がさらに上がっている。
知力も高く、さすがに軍師タイプや万能タイプと言うほど高くはないが、それでも70台はあって、計略をある程度は塞いでくれる。
関羽との親交もあってか魅力も70台あり、バランス良く優秀な武将。
死因も演義に準拠して不自然死扱いなので、シリーズ後半でも活躍してくれる豪傑。
「武の道を探求する」というようなキャラ付けがされており、白頭巾と合わせて、中国の武将と言うよりも日本の僧兵みたいな感じ。
実際、語尾も侍キャラだった。
武器は演義に準拠して大斧。
ちなみに正史の徐晃は関羽よりも年長のようだが、こちらでは関羽に兄事する若手武将といったデザインである。
詳しくは
個別項目を参照。
なぜか虎髭あるいはなまず髭を生やした快男児。
自称「敗けずの徐晃」。その極意は、勝てない状況となれば全速力で逃げ出すことで、袁紹戦の序盤では大軍団を見て部下ともども全裸になって逃げる、というインパクトある登場をした。いつも満面の笑顔で、逃げても何一つ恥じることはないといった感じで、屈託がない。
……ただ、その「逃げを選んだあまりに多い袁紹軍」が実は袁紹軍のごく一部であり、その本隊はその数倍もあったと知ると、さすがに笑顔が引きつってしまったが。
一方、漢中攻防戦で劉備軍の陳式に補給路を断たれた際にはなぜか激怒。
連載終盤の関羽戦では、亡き同僚・李典の遺品を駆使して軍神にありとあらゆる手段で挑む武人の意地や、恥も外聞もなく関羽の背後を討つという孫権のやり口に憤怒を隠しきれない一面など、さまざまな顔を見せた。
また、「曹操の容態」を尋ねて夏侯惇から「案外鋭い」とも言われているが、他のキャラの反応からしてどちらかと言うと夏侯惇が嘘をつけない性分のようだ。
機駕五将の一人で、かつては董卓軍衛将軍の地位にあり、機駕に所属してからは車騎将軍の地位を与えられた。
悪逆非道の董卓軍に似つかわしくない清廉な性格であり、都を民ごと焼き払う董卓や味方を巻き添えにした攻撃を支持した李需シャッコーに対してあまり良い感情を抱いてはいなかった。
董卓亡き後は
曹操に仕え、降将である自分を取り立ててくれた曹操を太陽のように敬っている。
ガンダムタイプどころかツインアイですら無く、真面目が取り柄な非常に地味な存在な彼だが、何気に機駕五将の中では勝ち組。
終盤、蚩尤の闇の力で機駕五将全てがヤミの傀儡と化してしまうが、徐晃だけは曹操の「きあいパンチ」で一人だけ正気を取り戻し、地味ながらも最後まで戦列に加わることができた。
CWでも曹丕や機駕軍師団の不興を買って処刑されかかったところを通りすがりの曹操ガンダムに助けられ
アニメでは、機嫌を損ねた董卓ザクに城外に不法投棄され、曹操陣営に編入という流れになっており、
新入りなので今のところちょっと微妙な立場である。
アニメ開始以前の媒体では張遼ゲルググと同期だったがアニメでは
呂布隊が未だ健全なため張遼も未だ呂布隊所属。
(;□)あたし聞いてない。
そしてさり気にネタ成分豊富な侠。
- 気絶していたところを赤兎馬に助けられて背中でダラリとお寝んね(漫画)。
- 董卓に諫言したら頭をむんずと掴まれてポイ捨てされる(アニメ)。
- 天玉鎧って危険だと思うんですよねーと発言したら「降将の分際で黙れ!」と夏候淵ギロスにいびられる(アニメ)。
- 徐晃曹操に降ったの?ウケるー(意訳)と昔の同僚に笑われる(アニメ)。
- 馬超ブルーデスティニーマジ危ねーよなーと、世間話をしに敵軍の陣地にフレンドリーに入ってきて黄忠に怒られる(CW)。
- 機駕軍師団「「死を」」「死を」「「「死を」」」(CW)
- (■)ガー
- Σ(□(⊂
二振りの片刃
斧。
側面にダブルガトリングガンの銃口と銃身を模したレリーフがある。
豪鉄火を合体させた長柄の両刃斧。
董卓軍時代は斧ではなく薙刀状の武器だった。
鋏刃戟の柄を外し、腕に装着して盾にしたもの。
ダブルガトリングガンと同様の付け方になる。
兜の前立て・両肩鎧・バックパックを合体させた格闘武器。
ビームキャノンがモチーフという説があるが、装着した姿はどちらかというと
ドラゴンハング。
バックパックに装着した鳳凰を模した翼。
三候の一人・雀瞬の魂が具現化した神器「鳳熾魂」の一部で、曹操から預けられていたもの。
鉄火錬武を地面に叩き付け、地を這うようなオーラで敵を薙ぎ払う技。
初代三国志大戦の1~3、新三国志大戦、英傑大戦と、勢力として魏が出てくるシリーズにはもれなく参戦している。
三国志演義の影響を受けたカードイラストが多く、基本的には柄の長い戦斧を持ったイラストで描かれている。
一番最初のカードが禿げ頭で描かれており、計略が神速戦法(武力と移動速度が上がる)だったため、一部ユーザ間で「神速ハゲ」のあだ名が定着。
そういったネタには全力で乗る開発ということもあり、シリーズを通してほぼすべてのカードが速度上昇計略持ちの騎兵となっている。
それ以外のスペックは同コスト帯なら武力負けせず、相手の妨害・ダメージ計略にもある程度対抗できる知力になっており、
武闘派よりの文武両道といった性能となっている。
麻雀漫画でおなじみ、片山まさゆきの歴史ギャグ漫画(と言っても大筋は一般的に想像される三国志演義と揃えている)。
名前の読みが読みであることから「徐行」の道路標識を戦斧代わりにして戦う設定となっている、のんびり屋キャラ。
おおむね演義本編と同様に活躍するが、もともと桃園三兄弟の死後は割と駆け足進行になることもあり、いつのまにかフェードアウトした枠に入ってしまっている。
追記・修正・薪割りをお願いします。
- 楽進みたいな抜擢組だったのか -- 名無しさん (2026-07-13 21:04:16)
- 魏軍の猛将として長く活躍してきただけに、演義でのあまりにもあっさりな最期はびっくりした -- 名無しさん (2026-07-14 12:12:32)
- 演義原本、少なくとも毛版では関平と徐晃の一騎打ちは、関平の敗走じゃなくて3.4合撃ちあった後に城の陥落を悟って関平がそのまま離脱、って流れだで。 -- 名無しさん (2026-07-14 16:22:59)
- 演義だと張遼さえ丁奉から矢を受けてその負傷で死亡してたりする。周瑜とか黄忠とかも含めて、戦場で死んだ方がカッコイイって感覚だったのかも知れない。 -- 名無しさん (2026-07-14 17:19:55)
- ↑ 馬良は正史で壮絶な戦死をしたのに、演義では病死という逆パターンなんだが、その結果馬良はかなり地味になってしまった。やはり戦場で散るのが武将の花道かもしれない。 -- 名無しさん (2026-07-14 20:53:38)
- 有能な将ほど酷使しがちな曹操様。経歴見てもいつ休んでるのか分からないくらい戦い続きの人生だなぁ…他の五将軍や夏侯淵・曹仁らにも言える事だけど -- 名無しさん (2026-07-14 22:57:00)
- 関羽戦の会話の補足。当時は同郷というものが非常に大きな意味を持っていた。住む場所が多少離れていても、同じ地域の出身というだけで助け合い、引き立て合うことが社会の常識だった。同郷のよしみはそれほど重いものだったので、関羽が徐晃と戦闘前に言葉を交わしたこと自体は当時の感覚では特別に甘い対応ではない。 -- 名無しさん (2026-07-15 19:05:49)
最終更新:2026年07月20日 16:35