生年月日 |
1960年8月22日 |
出生地 |
リパラオネ連邦共和国、ラメスト |
性別・シルシ |
男性・ケートニアー |
民族 |
ユナ系リパラオネ人 |
最終学歴 |
ヴィンスユンク陸軍士官研究院 |
所属組織・政党 |
****→ユエスレオネ人民解放戦線→メイリクワ→ |
階級 |
・人民解放戦線特別内佐 ・メイリクワ議長(一代目) |
勲章 |
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渾名 |
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「これで邪魔者は消えたね」
――イェスカ首相暗殺事件の際の発言
略歴
革新
チャショーテ内の繋がりによって、
人民解放戦線の特別内佐を努める。
ユエスレオネ革命中は、市民へ「フェンテショレー」に対する憎悪を高める宣伝を多発し、当初少なかった兵員を増加させた実績を持つ。しかし、一方で市民の「フェンテショレー」概念の誤解を推し進め、その極地たる
レシル家事件の原因ともなったとされる。
内戦後は、西ルート軍事議会メイリクワの議長を務めた。 一方で、イェスカはフェンテショレーの誤った概念を喧伝するセオーリユの存在を邪魔だと思っており、排除に乗り出した。その数日後、
イェスカ首相暗殺事件が発生し、
セオーリユを妨害する者は居なくなった。
2005年(45歳)からは、学生運動の弾圧を主張し、連邦革命的学生同盟の学生に対する強行的弾圧の原因となった。
また、
10月8日事件への介入をユミリアに働きかけ、アイル共和国の治安悪化の一因となった。
2010年(50歳)から開戦した
デュイン・アレス独立戦争では、過激派抹殺をユミリアに働きかけ、実際に
Xelken.alesは崩壊した。
2012年(52歳)の四年戦争においてもユミリアに介入を呼びかけるも拒絶され、セオーリユはこの時点からユミリアの切り崩しを計画するようになる。
2014年(54歳)、リナエスト内戦への介入を支持した。
2018年(58歳)、「ユンカーの鐘事件」。アレス・ユンカーやアレス・デュイネル・エレンに第一の情報提供を行ったのは、セオーリユであった。
2020年(60歳)、
革命時犯罪追求及び真実解明委員会によってレシル家事件への関与・責任の追及を受けたが、
不起訴に終わっている。
しかし、同年の
ターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユによる「軍の完全なる無党派化」により、対象とされ逆らうすべもなく連邦軍から排除されてしまう。
2021年(61歳)、ユミリアに
クーデターを示唆するも、早々に見限り、デュインへ逃亡する。
2025年(64歳)、ファルトクノア共和国へ渡航。社会党から追放されたエレンの面倒を見つつ、ファルトクノアでの権威拡大を目指すが、派閥に属していた
レシェール・ファリーヤ・リュイユが、ラヴィル政権に同意して
ゼーシャントを619部隊に同化させると、リュイユを見限って本土に戻ることにした。なお、ファルトクノアから本土への帰還は非常に難しいものであったが、セオーリユは連邦統治監査官である
レシェール・ハルトシェアイユの情報をファルトクノア内務省に横流しにして、自らの出国を帳消しにした。後にハルトシェアイユは幽閉にされ、
アルテア・ファルザー・シルミヤ連邦統治監査官補佐が本土に亡命し、告発を行ったが、
特別法廷は
不起訴処分とした。
この頃から、セオーリユは
南サニスに目を付け始め、ウォルツァスカイユを排除した上で国家の乗っ取りを計画するようになった。彼と同じ出身である革新チャショーテの過激派や既得権益層はセオーリユに乗っかる形で計画は粛々と立てられていった。
ターフ・フューザフィスはセオーリユから計画に勧誘されていたが「最近は本と論文を読むので忙しいくてね。少し返事を待ってくれないかな、どうにもレヴェン主義者になりかけているようだ」と返して、参加をあやふやにしていた。
2038年(78歳)、ウォルツァスカイユ暗殺未遂事件。ファーラン・ド・スキュリオーティエ率いるヴェフィス共和国騎士憲兵隊近衛部隊がセオーリユを逮捕し、連行した。ヴェフィス高等検察会は2039年にセオーリユに対して「国家侮辱罪」「殺人未遂罪」などで起訴。同年、最終裁判所にて懲役32年で判決は確定された。
最終更新:2023年07月10日 23:50