五十嵐小平(いがらしこへい、1901年3月-1961年8月)は、日本の
ヤクザ。
五十嵐宗家総長、
極盛会最高顧問。六代目五十嵐屋総代、初代五十嵐組組長。
来歴
東京都で勢力を伸ばしていた、五代目五十嵐屋総代の五十嵐半蔵の子。母親は不明。1910年代には、五十嵐屋の持つ賭場で若役(丁稚)として活動を開始。
1918年に四代目五十嵐屋総代が倒れると、若親分として、6か所の賭場を支配下におさめる。
1923年に、五代目五十嵐屋総代が死没したため、当時もっとも収益を上げて家の経済的基盤を形成していた小平が、六代目総代を襲名。渡世名を小平とする(本名不明)。角田屋の角田行半や池澤屋の三代目池澤宗助と勢力圏争いを展開。1930年代前半に
歌舞伎町の中核的な賭場拠点として
歌舞伎町ハウスを設立。街のはぐれ者を中心に組織化して、
暴力団を形成。1939年には、天照大神を祭る
暴力団五十嵐組を設立。初代組長となる。1945年の終戦後に、「博徒・的屋」を中心とした事業形態から「用心棒代」をサブ事業に置くれっきとした暴力団組織を形成。1947年には、五十嵐組を後代に継承して、
極盛会を設立。子分の池田相範(初代
池田組組長)が若頭を務める。
1955年には、生前相続として、自らが最高顧問に退くため、初代
五十嵐宗家総長に就任。二代目極盛会会長には、子分で初代松尾組組長の松尾利八郎が就任(就任から3ヵ月で夜討ちに遭って逝去)。
1957年、極盛会北海道管区長・二代目岡本組組長の岡本久美、極盛会若頭補佐・初代伊東組組長の伊藤健也(盃の後に舎弟頭へ)、極盛会副会長・三代目華健組組長の山田和也、極盛会会長室長代行・二代目伊東一家総長の
伊東蔵十らとともに、五分兄弟盃を結んだ。
最終更新:2025年04月24日 17:59