トク1形展望・貴賓客車

実車について

東武日光線が全通した1929年(昭和4年)に日本車輌東京支店にて製造された展望客車がトク1形500号である。
この頃の東武の旅客車両は全鋼製車両が主体となりつつあったのだが、この車両は木造の車体を有している。
あえて木造としたのはおそらく貴賓車として、木ならではの風合いを持たせる意味があったのだろう。そういった意味では異質と言える車両であった。
もっとも、車体の構造は丸屋根で、床下のトラス棒も内側寄りに設置されているため、当時の東武鉄道旅客車の流儀に則った設計であった。

車体は端部にオープン式の展望デッキを備え、そこに続いて定員8名の食堂兼展望室、同じく定員8名の随行員室、さらに調理室・ボーイ室を備えており、
定員はわずか20名、乗客定員はたったの8名と言うなんとも贅沢な車両であった。
ここで注目すべきは展望車でありながら調理室を備えていたことであり、アメリカのインターアーバンに見られた「パーラーカー」のような車両であったともいえる。
事実、本車両を紹介した海外向けのパンフレットでは「パーラーカー」の記述がなされていた。

「貴賓車」と名乗ってはいたが、実際には特別料金を設定することで一般乗客を乗車させるための車輌であり、主に団体向けの貸切車として使用された。
浅草雷門~東武日光間の貸切料金は当時の価格で163円20銭、現在の価値でおよそ10万4200円程度であったことを考えると、大層贅沢な車両であったことが伺える。
翌年からは座席券制度が設けられ、個人での利用も可能であったが、それでも浅草~日光間の料金は3円、現在の価値で1920円前後であったという。

基本的に運転設備を持たない車両であったため、常に電車列車の最後尾に連結され、終端駅で方向転換を行っていたが、
運転上、使い勝手が悪かったらしく1932年(昭和7年)の運転以後は使用される機会はほとんどなかったという。
結局1943年(昭和18年)にはいったん休車となり、西新井工場の事務所代わりに使用されているうちにすっかり荒れ果てた姿になってしまった。

戦後、東武線に連合軍専用列車が運転されることが決まると、その列車の最後尾に連結する計画が東武社内に浮上し、事務所を引き払って整備したものの、
木造車体であることからGHQ(連合軍司令部)の許可が下りず、それならばと団体利用客用に整備することが決まった。
戦後のトク500は展望デッキを3枚窓の密閉式に改造、円形テーブルとソファーを配置、室内には転換クロスシートを設け、客室定員は24名となった。
さらにかつての調理室・ボーイ室があった部分にはスタンドバーが設けられた。この新装トク500の貸切料金は浅草~鬼怒川温泉間で17040円、現在の価値で56010円であった。
しかしやはり運用方法は変わりなく、機回しや折り返しの手間があったことから、1951年(昭和26年)を最後に使用されなくなり、1957年(昭和32年)に廃車となり西新井電車区で詰所として利用されたが、
同区の北春日部への移転に伴い1966年(昭和41年)に解体されてしまった。

なお、1981年(昭和56年)には、東武動物公園の開園に伴ってアルナ工機でレプリカが製造され同園に展示されていたが、屋外展示のためにこちらも荒れ果て、1996年(平成8年)にこちらも解体となった。


イラスト作成に当たって

東武のなかでも指折りの豪華車両、トク1形です。
前々からずっと気になっていた車両で、これはネタ的にも描いてやらねばなと思った次第。
普通こうした客車を見ると、鉄道ファンとしては機関車牽引の客車列車が浮かぶわけですが、そこは戦前から電車のロングラン運用をやっていた東武。
この客車も例に漏れず電車の最後尾に連結されていたのだといいます。贅沢なんてレベルじゃなかったろうなあ。
ちなみに展望デッキには椅子を出して、テラス的な使用方法を取っていたとか。このタイプの展望車の本家であるアメリカではこのような使い方が当たり前だったそうですが、
日本では「つばめ」などに見られるように、展望デッキは「そこに立って景色を眺めるもの」だったようで、東武のように椅子を出して座って景色を眺めるのは珍しい部類だったのだそうな。
其処で飲む紅茶はさぞ格別だったことでしょう。

…んで、イラスト化に当たって気になったこと。
戦後のトク500の写真やら模型やらを見てるとパンタ台が設置してあるんですが、これって将来電車に改造する計画でもあったんでしょうかねえ?

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最終更新:2013年01月13日 14:20
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