タイタニック(客船)

登録日:2021/04/17 Sat 08:03:50
更新日:2021/05/11 Tue 21:28:21
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20世紀初頭に実在したイギリスの大型客船。とある理由から、悲劇の豪華客船として人々に語り継がれている。

概要

1912年に大西洋横断を目的として建造された。所有はイギリスの「ホワイト・スター・ライン」。
同じくイギリスの「キュナード・ライン」が「大西洋最速横断記録はジャガイモに渡すか!ブルーリボンはイギリスのモノだ!ついでに新大陸のモルガン財閥に買収されたホワイト・スター・ラインも潰す」と政府と海軍の支援を受けて世界最大かつ大西洋最速の客船「ルシタニア級」*1を建造したのに対抗して造られたルシタニアよりデカい、当時世界最大の客船。*2
同じ目的で先に建造された客船(所謂「姉妹船」)に「オリンピック*3」と「ブリタニック」が存在した。
姉妹船なので外観がタイタニックと瓜二つであり、「保険金目的のためにオリンピック(若しくはブリタニック)とすり替えられた」なんていう都市伝説もある*4

水密区画は十六であり、内1/4(約四区画)までは浸水しても耐えられる構造になっているという、当時としてはかなり耐水性もあった。
そのため出港時は「不沈船」と堂々と宣伝されており、船長は優秀且つ経験豊富故に人々から絶大な信頼を得ていたエドワード・スミスが就任したことも相俟って、乗客の誰もが安全な船旅を信じ切っていた。

そして1912年4月10日、乗員乗客合わせおよそ2200人を乗せてサウサンプトン港から出港。
出港直後には本船のスクリューに巻き込まれて別の客船がタイタニックに誤って接近してしまうトラブルが発生したが、
スミス船長の冷静な指揮系統によって接触事故は回避され、タイタニックはニューヨークへ向けて優雅な船旅へと出発した。




だが人々は予想だにしなかった。

この船が後に世界を揺るがす悲劇に見舞われることに。




沈没事故

出港から4日後の4月14日午後11時40分頃、ニューファンドランド沖にて当直見張員が進行方向の目の前に巨大な氷山を発見。

これを受けたその時ブリッジ指揮を担当していた次席一等航海士であるウィリアム・マードックは回避を指示したが、健闘虚しくタイタニックは右舷部が氷山と擦過。
擦過箇所付近の鋼板を繋ぐリベットが弾け飛んで右舷海面下の広範囲に亀裂が生じ、水密区画が五区画も浸水するという想像を上回る損傷*5を受け、翌15日の午前2時20分頃に沈没した。
沈没時は、浸水した前方部から沈み始めたことで後方が長時間高く持ち上げられ、遂に自重により真っ二つに裂けたという。

この事故によって2200人の乗員乗客のうち、1500人余りが犠牲になるという史上最悪の海難事故となり、その中にはエドワード・スミス船長やウィリアム・マードック次席一等航海士も含まれていた。
船に備え付けられていた救命ボートの数は乗客・乗員を全員避難させるには明らかに足りず、避難は女性と子供が優先とされたが、
不慣れな船員の操作ミスなどにより、その数少ない救命ボートも定員に余裕があるのに海に下ろしてしまったりしたことで、さらに被害は拡大した。
生存者が語ったところによると、自身は乗ろうとせずに同伴した女性だけを救命ボートに乗せ、従者と共にタイタニック号と夜会服で海に沈んだ*6青年実業家や、
女性や子供の避難を出来る限り手助けした上で自分は船に残り、海に投げ出されても助かろうとせずに死んでいった男性建築家などの犠牲者がいたという。

事故の煽りを受け、所有会社であるホワイト・スター・ライン社の業績は当然一気に悪化。
時の社長であったジョセフ・イズメイは、事故当時タイタニックに乗船していたにも関わらず我先にと数少ない救命ボートに乗り込んで生還した上、
アメリカでの査問の場では事故の責任を事もあろうにスミス船長を初めとするクルーたちに擦りつけようとした*7
これには世界中から猛批判を浴び、事故から1年後に社長を解任されその後一人寂しい余生を送ることとなった。
ちなみに、イズメイは経費と船の外観の問題を理由に搭載されていた救命ボートを半数以上撤去してしまった他、
同業他社との競合に焦るあまり氷山が存在する可能性のある最短海路を進水するようクルーたちに指示していたことが明らかとなっており、
どの道言い逃れは出来なかったことは言うまでもない。
そして事故から14年後の1926年、ライバル企業である「キュナード・ライン」に吸収合併され、「ホワイト・スター・ライン」のブランドは消滅するという憂き目に遭った。

事故の教訓を受けて、航海の安全意識向上を目的とした「SOLAS条約」が1914年に世界各国に締結され、救命ボートの数を必ず乗船人数よりも多くするなど、安全対策は飛躍的に上昇した*8

なお、事故の生存者は、乗船当時生後間もなかったミルヴィナ・ディーン氏が2009年に97歳で永眠したことで、全員が鬼籍に入られている。

ちなみに乗客の中には細野正文という唯一の日本人がいた。彼は辛くも生還を果たし、1939年に68歳で天寿を全うした。
しかし同じく生還者の一人が細野とは別のアジア系の乗客を日本人と誤認し「他の乗客を押し退けて救命ボートに強引に乗り込んだ日本人がいた」という証言が世界中で広まった所為で、
以降彼は折角生還したにも関わらず生涯に渡り人々から謂れのない誹謗中傷に晒された。その名誉は細野の死から60年近く経った1997年*9に漸く回復された。
但し確実な非難とされるものは新渡戸稲造氏による当時の少年向け雑誌への記載文位しかなくこれに関しても「日本男児が女性や子供優先のボートに飛び乗るのはどうかと思う」程度の物でこの件に関してもタイタニック沈没から数年後の記載である事から上記の証言は架空の物という可能性がある。
なお、ミュージシャンの細野晴臣氏は、この細野氏の孫にあたる。

事故要因

結果論だけ述べれば安全管理の不徹底。これの一言に尽きる。

上記のように用意されていた救命ボートは全乗員乗客の半分も乗せられない程の数しかなかった他、氷山の危険性を把握していながら目的地到着を急いでその航路を通っていたという、
現代の観点からしてみれば安全意識が余りにお粗末すぎる航海であった。

また氷山接触時、救命信号を発信していたものの近くを航海していた殆どの船は無線を遮断しており、
唯一信号をキャッチした「カルパチア」はおよそ58海里(約107km)という、タイタニックの沈没地点からかなり離れた地点にいたために、救助が間に合わなかったのも事故の被害拡大の一因となった。

尚、船の形状を見ればわかるが側面の損傷よりも前面・後面の損傷の方が小さく済むため、もし回避ではなく正面で接触、座礁していれば被害の拡大は抑えられた可能性は高い。
更に本船は四区画までなら浸水に耐えられる構造であったのも踏まえると尚更であったと言える。
しかし当時は進行方向に障害物があった場合は回避行動をするのが通例であったために、当時の航海士たちにそのような発想をしろというのも無茶な話でもある。

他にも、大型船がおよそ二時間半という短時間で沈没するというのは過去に前例がなく、大型船舶は沈没に時間を要するというのが当時の認識であったため、
それを鑑みれば世界最大級の大きさを誇る本船の安全意識が多少なり疎かになるのは当然であった部分はある。

氷山の接触によって大きな亀裂が発生した理由として、残骸発見後に行われた研究の結果、船の外板を接合していた錬鉄製のリベットに強度を上げるために含まれた不純物(スラグ)が多すぎて、逆に強度を下げていたていたことも上げられている。
タイタニック号は建造時に鋼鉄リベットの不足や建造箇所の問題で、仕方なく船首と船尾の部分にだけワンランク劣る錬鉄リベットを使用していた。
そして事故当時の氷点下の海水温では鉄が低温下で急激に脆くなる現象(低温脆性)も発生し、非常に脆い状態となっていた錬鉄リベットが氷山接触の衝撃に耐えきれずに弾け飛んで亀裂が生じたというのが、現在有力な説である。
そもそも1910年代の製鉄技術の限界でタイタニックを構成する鉄は不純物だらけであり、低温脆性に弱かった。*10

また近年の研究では、船に積まれていた石炭の管理が甘かったせいで発火し、火災が起こっていたという説も浮上している。
…というか、火災発生自体は当時の調査委員会でも明かされており、当時は「沈没と関係ない」として埋もれてしまっていただけなのだが、
この火災の熱によって船体が脆くなり、氷山に接触した際に大きなダメージとなってしまったという。

この説を裏付ける証拠としては以下のようなものが提示されている。
当時撮影されたタイタニック号の船体に、黒い染みのようなものが写っているのが確認されている。これは内部で火災が起きて、壁が焦げているのではないかと考えられている。
また救出、生還したパン焼き職人のチャールズ・ジョーキン氏を始め、異常な暑さや焦げ臭さを感じたという証言もある。

これに合わせて、作業員が燃える石炭を処分するためにボイラーへ次々と放り込んだことが、不必要なスピードが出てしまった*11原因なのではないか、と一部の研究者の間で考えられるようになった。


但し、これらの指摘は現代の視点、考察での論に過ぎない。
本船、及びその関係者たちの名誉のために擁護すると、これでも当時としては過剰と言えるほど安全対策をしていた。

まず第一に救命ボートの数。上記のように経費と外観を気にしたイズメイによって当初の予定数から半分以上減らされたが、それでも標準以上だったほど。
先述したように当時は大型の船は沈むのに24時間前後を要するのが普通だったことから、救命ボートは海上への避難ではなく救助に来た船への移動手段という認識であり、現代では信じ難いことだが救命ボート自体必要ないというのが当たり前だったのである。
当然、沈没に危険に晒された時の対応マニュアルもそれに基づいたものであったのは言うまでもないだろう。
そんな感覚の中で タイタニックの事故発生→沈没までのタイムリミットが3時間未満と言う前代未聞の状況に立たされた のだから乗客も勿論だが船員達も動揺しない方が不思議であり、対応に不手際が目立つのも無理もないだろう。
仮にボートが人数分あったとしても救助出来たかどうかは疑わしく、想定外の状況下において船員達は善戦したと言っても良いであろう。

これらに加え、再三記述するように通常よりも浸水に耐えられる構造になっていたことから、当時の信頼が絶大になるのは言うまでもない。

だからこそ本船の沈没は、それ程にまで衝撃だったのである。
もっと言ってしまえば、これほどの規模の事故が起こるのは本船以外にも普通に有り得たのであり、それがたまたま皮肉なことにタイタニックだったということである。

この他にも、当時は氷山もそれほど危険視されておらず、衝突しても大したことにならないという認識もあった。
そのため、そうした自然の脅威を甘くみていたことも一因であると言える。

総じると、当時の人々の認識と現実に大きなズレがあり、このような大きな沈没事故は航海発展の過程に於いていずれは起きうる事象だったと言えるのかも知れない。

タイタニック号沈没事件以降、戦時中の交戦や通商破壊による撃沈を除外しても、洞爺丸事故*12など死者1000人を超す船舶事故は起きている。
人工衛星などによる天候予測の発達などの追い風があるにしても、海難事故の根絶には至っていない。
しかし、こうした事故の経験から、いかに海難事故を起こさず、あるいは起きたとしても被害を最小限に食い止めるか、海運業界は常に模索しているのである。


救命ボート


一般にタイタニックと言われると「数少ないボートを奪い合い殺到する人々」や「ボートの最後の1席を譲り合う姿」といった状況を想像するが実際は少し違う。
タイタニックは折り畳み式の予備ボートを含め20艇の救命ボートが積まれていたが、ボートの定員の合計が1,178人なのに対し、実際の生存者は710人しかいない。

各ボートが着水した時刻は下記の通り。赤が左舷側青が右舷側、A~D号は折り畳み式の予備ボート、カッコの内訳は(乗った人数/定員)である。

①0:45  7号(28/65)
②0:55  5号(36/65)
③0:55  6号(24/65)  
④1:00  3号(40/65)
⑤1:10  1号(12/40)
⑥1:10  8号(28/65)  
⑦1:20  9号(48/65)
⑧1:20  10号(35/65)
⑨1:25  11号(60/65)
⑩1:25  12号(28/65)
⑪1:30  14号(45/65)  
⑫1:35  13号(62/65)
⑬1:35  15号(65/65)
⑭1:35  16号(65/40)
⑮1:40  C号(40/47)
⑯1:45  2号(18/40)
⑰1:55  4号(30/65)
⑱2:05  D号(24/47)
⑲×      A号(13/47)(漂流)
⑳×      B号(27/47)(漂流)  

見た通りほんどの救命ボートは定員割れを起こしていたのである。これにはいくつかの理由がある。

1.乗客がボートに乗りたがらなかった
氷山との衝突から約30分後の0:05の時点で船長は救命ボートへの避難命令を出し、客室係達が乗客の間を回って救命具を付けてデッキに集合するよう伝えて回ったが、乗客たちは寒い船外に出ようとせず船内でゲームやお喋りをしていた。
当時は大型船は沈むのに時間がかかり、小さな船はすぐ沈むと考えられていたためタイタニックの中にいた方が安全だと考えたのである。
極寒の大海原に手漕ぎボートで放り出されるとなれば不安になるの致し方ないし、実際に救助が来る前にボート上で凍死した者もいるので決して的外れな不安ではない。
船員達が乗客を説得して回りようやく最初の救命ボートが着水したのは0:45のことであった。(この時点ですでに沈没まで残り約一時間半しかない)
ただし、目に見えて船が傾き沈没まで時間が無いことがわかってくると今度はボートに人が殺到するようになってくる。



2.船員達が定員に関する情報を知らなかった
多くの船員は救命ボートの定員を知らず、またボートを降ろすクレーンやワイヤーの強度も知らず、多くのボートを定員割れのまま降ろしてしまった。
16号ボートの状態を見ても判るとおり定員は余裕をもたせて設定してあり、定員65名のボートには実際は70人は乗れたとされている。実際に全てのボートにギリギリまで乗ればあと500人は救助できたとも言われている。



3.時間が無かった
一部の航海士は沈没までの残り時間が2時間も無いことを把握しており
救命ボートごと本船が沈没するという事態を避けるため焦って大急ぎで次々と救命ボートを降ろしたという面もある。
とりあえず海上に空きのあるボートがあれば海に投げ出された人をボートが救助することもできる、という考えである。
しかし、事故海域の夜間の海水の温度はマイナス2度であり、海に投げ出されれば下手すると心臓麻痺でショック死、長くても1~20分で凍死することになるが、船員含めこのことを知らない者も多く救命ボートに人が殺到してボートが転覆することを恐れ、結局沈没後救助に戻ったボートは1艇だけだった。*13
運よくボートの近くに落ちた者や自力でボートまで泳ぐ体力のあった者が数名ボートに引き上げられている。
また、船の下部にある出入り口から直接海上のボートに乗り込む案もあったが扉は既に水没しており、扉に向かった船員は全員溺死して帰ってこなかった。

なお、それだけ急いでも最後の2艇は組み立てが間に合わず波に攫われて海に流されてしまった。(この状況はキャメロン版の映画でも忠実に再現されている)



4.「婦女子優先」の精神に則ったため
当時「Women and children first(=女子供優先)」と呼ばれる行動規範があり、これは海難事故においては女性と子供を先に避難させるべきというものである。タイタニックの避難の際にもこの精神に則り航海士たちは女性と子供を優先的にボートに乗せた。
右舷を担当したマードック一等航海士は空きがあれば男も乗せることがあったが(決して賄賂で買収されたわけではない)左舷担当のライトラー二等航海士やロウ五等航海士は空きがあっても男がボートに乗るのを許さず、時には拳銃で威嚇してボートに乗ろうとする男を引きずり出し空席のままボートを降ろしてしまった。唯一の日本人乗船客だった細野氏は生還後「撃たれる覚悟でボートに飛び乗った」と手記に残しているが、決して大げさな話ではなかったのである。

これはスミス船長の避難指示があいまいだったせいでもあるが、事前の避難訓練や避難マニュアルがいい加減だったという船会社の責任でもある。

特に法律上の根拠があるわけではないが、社会的にもこの行動規範は広く知られており、生還した男性が後日バッシングを受けたり、聖職者や高齢者などボートの搭乗を許されたものの辞退した男性もいたことがわかっている。
結果として女性客と子供の生存者が352名に対して男性客の生存者は146名という歪な生存率になっている。






タイタニック号を題材とした作品

事故から約1ヶ月後に生存者の一人であったドロシー・ギブソンが自ら主演と脚本を務めて公開された『Saved From The Titanic』を皮切りに、タイタニックを題材とした映画作品が数多く今日まで制作された。

中でも1997年に公開されたジェームズ・キャメロン監督作の『タイタニック』は大ヒット作品として有名であろう。
2009年に同監督作の『Avatar』に越えられるまで興行収入世界一位を記録し、
米アカデミー賞11部門に輝くなど世界的な名作となり、映画史に名を刻み恐らく公開以降はこの世の全ての人が本作を機に本船の存在を知る程の多大な影響力を残した。

日本で作られたタイタニック号を題材とした作品の一つに、樽屋雅徳氏の吹奏楽「マードックからの最後の手紙」がある。
これは一等航海士のマードックが航海中こまめに家族へ手紙を書いていた習慣を元に、彼が綴った手紙になぞらえてタイタニック号の航海を描いた曲である。
キャメロン版映画ではあまり良い人物には描かれていなかったマードック航海士であるが、
作曲者の樽屋氏は『船が沈む最後の瞬間まで勇敢に乗客の救出にあたった、乗組員の一人です。』と紹介しており、
楽譜出版元であるフォスターミュージック社も楽曲紹介ページにおいて
『映画の中で描かれたマードック航海士は(映画の項目にもある劇中の行動の説明)というなんとも悲劇的な最後を遂げていますが、史実は定かではありません。
ただ、勤勉家で家族思いだったとされるマードック氏は、きっと乗客救出のために最後まで懸命に務めたはずだと信じずにはいられません。』と言葉を寄せている。
フォスターミュージック社や演奏団体がYouTubeに公式の動画を上げているので、興味が出た人は聞いてみるといいかも。楽器編成の違いによる3つの版がある。

また1898年初版発行のモーガン・ロバートソンの小説『愚行』は
「豪華客船『タイタン号』が真夜中に氷山と激突して沈没、救命ボートが足りなかったために被害が拡大した」……という内容*14
この事故との類似が話題となり、事故後に『タイタンの遭難 または 愚行』と改題、「タイタン号」の重量と馬力を増加*15する改訂を経ている。
実際の事物を元に作品を書いたり、架空の事物が後に実在してしまう例は数あれど、
先行作品を後から起こった実際の事故に寄せてしまう例は意外と珍しいのではないだろうか。
一歩間違えたらただの不謹慎だもんね。
実際の事故とは相違点も多いので類似点ばかりを書き連ねて予言/預言扱いするのは箇条書きマジックというものだが、
モーガン・ロバートソンは元一等航海士なので、当時の客船の巨大化・高速化傾向やいつか氷山に衝突する可能性、万が一沈没した場合救命ボートが足りない事、巨大だからって奈落に落とされた巨人なんかの名前にちなむセンスぐらいまでは予期していたのかも知れない……。

変わったところでは、オーストラリアの億万長者クライブ・パーマー氏が現代の安全基準に準拠した復元船「タイタニックⅡ」を建造する計画を立てているが、
処女航海中に温暖化によって巨大な氷山が崩落した際に発生した津波によって救命ボートを失い、氷山に衝突してしまう映画が 現実で着工するより前に アサイラムによって公開されている。
尚、現実の着工は延期が続き、四川省の水上ホテルとしての復元計画「ロマンディシー」の方が先に完成しそうである。


追記・修正はこの悲劇を二度と繰り返さないと心に誓ってからお願いします。

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最終更新:2021年05月11日 21:28

*1 WW1でアメリカ参戦の切欠となった「ルシタニア号事件」のルシタニアとその姉妹船

*2 ただしブルーリボン狙いのルシタニアと違い快適さ重視の設計なのでルシタニアよりもやや鈍足

*3 短命に終わった姉妹船と違い、WW1で徴用されるも体当たりでUボートを返り討ちにした後客船に復帰し退役まで24年間運用された真の不沈船。

*4 オリンピックの運用経験を踏まえた設計変更がタイタニックにはされているので、実際は見比べればすぐわかる程度に変更点がある。すり替えはあくまで穿った見方から生まれた都市伝説である。

*5 上記でも記した通り、浸水に耐えられるのは四区画まで。

*6 当初は救命胴衣を付けていたが、事態の深刻さを悟った彼は「紳士に相応しい姿で沈んでいくために」と正装に着替え、最後に目撃された彼はデッキチェアで従者と共に、ブランデーグラスを片手に葉巻をくゆらせていたという。

*7 洋上の船舶に関する最高責任者は船長であるので間違ってはいないのだが、その船長を任命したのはイズメイその人である。

*8 但し発効自体は第一次世界大戦の影響から延期を重ねた末1923年に漸く行われた

*9 奇しくも、かのジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』が公開されたのと同年

*10 因みに鉄の低温脆性現象が明らかとなるのはタイタニック沈没の30年以上後になってからの事である

*11 及び減速すれば石炭が不足するために速度を維持せざるを得なかった

*12 1954年に発生、日本の青函連絡船が台風の暴風に煽られて沈没、死者・行方不明者1155人の大惨事となった。

*13 救助に戻ることを提案した者もいたが反対する方が多数派だった模様

*14 本題は冒険小説で事故は導入部の状況設定らしい。尚タイタン号が全速力を出していたのは「タイタン号の方が乗客が多いので衝突相手の船をひき逃げしてしまう方が被害が少なくて済む」という理由だとか

*15 ちなみに重量は改訂版の方がタイタニックに近いが、馬力は初版の方が近い