ツインターボ(競走馬)

登録日:2023/03/27 Mon 05:53:50
更新日:2023/06/04 Sun 15:28:36
所要時間:約 6 分で読めます




俺にかまわず逃げてくれ ツインターボ

1994年 第39回有馬記念 パドックに掲げられた横断幕より


ツインターボ(Twin Turbo)とは日本の元競走馬

メディアミックス作品『ウマ娘 プリティーダービー』にも登場しているが、そちらでの扱いは当該項目参照。
ツインターボ(ウマ娘 プリティーダービー)


目次

【データ】

生年:1988年4月13日
死没:1998年1月15日
享年:10歳
父親:ライラリッジ
母親:レーシングジイーン
母父:サンシー
調教師:笹倉武久 (美浦)→秋葉清一 (上山)
馬主:黒岩晴男
生産者:福岡敏宏
産地:静内町
セリ取引価格:-
獲得賞金:1億8,398万円 (中央)
通算成績:35戦6勝 [6-2-0-27]
     (中央) 22戦5勝 [5-2-0-15]
     (地方) 13戦1勝 [1-0-0-12]
主な勝鞍:93'七夕賞・産經賞オールカマー

【概要】

1988年4月13日生まれの鹿毛の牡馬。父はライラリッジ。母はレーシングジイーン。
また母父にはフランスの重賞を2勝したサンシーなどもいる。
あらゆるレースで大逃げをかまし、大抵は逆噴射からの惨敗、されど時折逃げ切っての大勝によって周囲を沸かせるなど非常に両極端な競走馬として有名であり、中央競馬における「最後の個性派」とも呼ばれていた。
しかし、その注目的な大逃げ戦術も、小柄な馬体と他の馬を怖がる臆病な気質から来るもので、「そうせざるを得なかった」という側面も大きかった。
生涯戦績は中央、地方含めて35戦6勝、獲得賞金は1億8670万8000円。
主な騎手としては中舘英二や大崎昭一、地方時代では海方栄二などが挙げられる。

【現役時代】

その気性からゲート試験に4ヶ月もの期間を要したせいで、デビューは現3歳3月と凄まじく遅れた。
デビュー戦と次走の条件戦を大逃げ戦術で2連勝し、3戦目には日本ダービーの出走権を得るために青葉賞に挑戦。
しかし、ここで初めての逆噴射をかまし最終的に9着と大敗。デビュー戦と条件戦だけでは獲得賞金も当然足りないためダービーは断念となる。
次走の条件戦でも5着に終わるものの、5戦目となるG3のラジオたんぱ賞は勝利し、初の重賞タイトルを獲得した。

夏季は休養に充てられ、秋にはセントライト記念や福島記念に出走するも、双方2着と惜しい結果に。
ともあれ重賞でも戦えることは証明され、人気薄だが注目の逃げ馬として年末の有馬記念にて初のG1タイトル挑戦となったが、結果は14着ブービーと惨敗。
そのうえレース後に鼻出血が判明、その後一年近く休養する羽目になり、大事な現4歳シーズンを丸ごと棒に振る。
復帰後もかつてのような実力を見せられず、掲示板にすら乗れない負けっぱなしの日々が半年以上続く。

そんな中で迎えることになった1993年7月11日、七夕賞。
この日の福島競馬場の入場者は実に47391人を数え、これは今なお破られていないレコード記録となっている。
場内が異様とも言える熱気に包まれる中、ツインターボは騎手に逃げ戦法を得意としていた中舘英二を据えて出走。
前半1kmを57秒4というハイペースで逃げ、その後も珍しく失速することなくゴールまで爆走した。

吼えろツインターボ!

全開だ!ターボエンジン逃げ切った!

実況:高橋雄一(福島テレビ)

同じ逃げ戦術のアイルトンシンボリやダイワジェームスを押さえて見事ゴールイン、2年ぶりの勝利を飾った。
この際、中舘は「自分は掴っていただけ。馬が勝手に鮮やかに勝っちゃった」とコメントしている。

そして続くのはもう一つの代表レースとして名高いオールカマー。
既にミホノブルボンメジロマックイーンを下し、ヒールと呼ばれながらも強豪として名が知れ渡っていたライスシャワーを始めとしたライバルたちが出走する中、
七夕賞と同じく騎手を務めることになった中舘は、七夕賞での大逃げを逆手に取ったミドル逃げ戦法を展開。

さぁ早くもツインターボだけが!ツインターボだけが!第4コーナーのカーブに入ってきました!
ツインターボが大きく逃げる!ツインターボが大きく逃げる!

そしてライスは現在4番手!ライスシャワーは現在4番手!

さぁ200の標識にツインターボがかかる!ツインターボが200の標識を切った!先頭ツインターボ!

そしてホワイトストーンが伸びる!ホワイトストーンが伸びる!
そしてライスシャワーは届かないか!?ライスシャワーこれはもう無理!

11番のツインターボ!見事に決めたぞ!逃亡者!ツインターボ!!

実況:塩原恒夫(フジテレビ)

多くの騎手が抱いていた「ツインターボは終盤で潰れるから、それまで無理に追う必要はない」というイメージを完全に逆手に取り、
後続集団に10馬身以上もの差を付けながら最後まで落ちることなく勝利。重賞2連勝を飾ることになった。

この七夕賞とオールカマーで見せた活躍から、ツインターボの個性派逃亡者としてのイメージは一際強くなったものの、中央における勝利はここまで。
以降のツインターボは今日まで語られるような「かっ飛ばして逆噴射するネタ馬」に完全に成り果ててしまい、
その後もヤマニンゼファーの1993年天皇賞(秋)やナリタブライアンの1994年有馬記念、果ては大井競馬場の帝王賞等も含めた数多くの重賞に挑むことになるが、ことごとく惨敗。
1994年有馬記念に至っては、どう考えても場違いな成績だった事からあまりにも盛り上がりに欠ける面子*1だったので賑やかしに呼ばれたなんて疑惑が生じる始末。
1995年5月の新潟大賞典を最後に山形県の上山競馬場(2003年廃止)へと移籍することに。

中央競馬の人気者とあって注目度は高く、移籍後初の文月特別では普段の三割増の観客が訪れたという。
鞍上を務めた海方栄二も「写真を撮られるなんて初めてだった」と語る程であった。
ツインターボはその期待に応えるようにいつもの逃亡劇を見せ、見事初戦を勝利で飾る。
しかしその後は再び低空飛行が続き、結局地方でもこの1勝のみに終わってしまった。
1996年8月、盛岡競馬場のクラスターカップを最後に引退。

【引退後】

宮城県の齊藤牧場で種牡馬入りを果たすも、繁殖成績は期間の短さもありわずか5頭(デビューできたのは4頭)。さらに繁殖入りする仔も現れず全頭がいずこかに消えてしまったため、残念な事にツインターボの血は絶えてしまった。
そして1998年1月15日に心不全を発症し、10年という余りにも短い馬生を全力で駆け抜けこの世を去ることになった。
ちなみに現在ツインターボが眠る地には、彼の死後同じ牧場で余生を過ごしたダービー馬アイネスフウジン・中山大障害馬ゴッドスピード(オグリキャップと同じ調教師と馬主の管理馬)が共に祀られている。

【余談】

ツインターボ号は前述のように福島競馬場における入場者レコードの持ち主であり、また福島競馬場のメモリアルホースにも選ばれた人気者。
他には切手になってたり、福島競馬場内のメモリアルコーナーでも大きく扱われていたりと、福島においてはまさにヒーローと言っていいほどの扱いを受けている。
事実2000年に日本中央競馬会が実施したファン投票ではG1未勝利にも拘らず100位以内にランクイン。*2
福島競馬場で実施したメモリアルレースの名を投票によって決めたが、この時は2位に2倍もの差をつけ1位。*3
メモリアルホース選出の投票においても総投票数の約半数、2位に10倍以上の差をつける圧倒的な大逃げ、まさに記録ではなく記憶に残る馬であった。
また、先述のように晩年は山形→宮城と渡り歩くなど東北と縁が深かった。

…時は流れ令和時代。2021年福島記念を鮮やかに逃げ切り重賞初勝利を挙げたパンサラッサを指して、人々はかつて福島を沸かせた逃げ馬になぞらえこう呼んだ…
令和のツインターボと。
ツインターボとは血統も(ターボは父系・パンサラッサは母系に大種牡馬ノーザンダンサーの血が入っている以外)異なり、実績面も後に海外G1二勝を記録し、日本でも2022年天皇賞(秋)で大逃げから2着に食い込む活躍を見せるなど、似て非なるものと考える人もいるだろう。
それでもその逃げる姿や勝負服の青と緑袖のカラーリング*4には、遠い日のターボが重なって見えるのかも知れない…。


余談だが、ツインターボは背広を着た人間に対してかなりの嫌悪感を示していたという。



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最終更新:2023年06月04日 15:28

*1 当初の目玉とされていたナリタブライアンとビワハヤヒデの兄弟対決はビワハヤヒデの故障引退で早々に頓挫。無事出走できたG1馬(当時)は故障明けのライスシャワー、距離不安のあるネーハイシーザー、1971年まで遡らないと勝ち馬がいない牝馬のヒシアマゾンとチョウカイキャロルとろくな奴がおらず、人気は完全にナリタブライアン一強状態だった。

*2 他にG1未勝利でランクインしたのはステイゴールド(この時はG1未勝利だったが最後の最後で海外G1を制覇した)、と同期で入賞率の高かったナイスネイチャのみ

*3 しかもこのレースの勝ち馬は逃げ馬だった

*4 ツインターボの黒岩晴男氏は「青、白袖緑二本輪」、パンサラッサの広尾レースは「青、袖緑一本輪」。袖が白地か青地か、輪が二本か一本かの違いで、カラーリングはよく似ている