「ゼスナディ……ッ!」
俺は部屋に入るなり、地鳴りを彷彿とさせるような足音を立て、難しい顔をする彼に近づいてゆく。
扉の前で待てと制止したメイドは目を丸くして、固まっている。部屋の主に確認も取らず、自分でドアを開けてドカドカと入り込むなどという所業は如何にも貴族らしくはない。そんな反応をされて当然だろう。
しかし、状況は礼儀を考慮する時間を与えてはくれなかった。
「そうがなり立てるな、アシュテ。状況は俺も把握している」
俺を確認するなり、ゼスナディはテープルのカップを持ち上げた。
「既に
連邦には協力者を得た。しかし、彼らのところにノルメルの軍隊が来ている。これはどういうことだ?」
「それは、俺の情報集約が――」
「ゼスナディ」
睨めつけた視線を彼は交わすように顔を背ける。そのとき感じたものは、あの
Kutyv を飲んだときと同じくらい苦いものであった。
「何か俺に言っていないことがあるようだな」
「……お前には隠し事をしても無駄らしいな」
「まあな」
「たまらないな」
ゼスナディは顔を伏せつつ、残念そうに首を振った。
「それで、どうなんだ」
「済まない、アシュテ。俺は事を穏便に済ませようと努力してきたつもりだったんだ。それなのに、状況はどんどん悪化していくばかりで。俺は……俺はどうすれば」
彼はそこまで言って、言葉が出なくなってしまった。後に続くのは嗚咽の声。
落ち着くまで、俺は辛抱強くその場に立ち続けた。彼の強さを信用し続けた。
「俺の妹がノルメルに囚われているんだ」
落ち着いたゼスナディが語り始めたのは、それからだった。
まとめれば、次のようなことになる。
ゼスナディは辺境貴族としてノルメルの情報をこちらに渡してきた。それは早期に気づかれており、彼の妹はノルメルの人質として拉致されてしまった。裏切れば、彼の妹は殺すと脅迫されたゼスナディは成すすべもなく、ノルメルの逆スパイになるほか選択肢はなかったのだ。
彼はうなだれながら、俺に許しを請うていた。
「お前を殺すようなことをしたことは自覚している。俺のことなら、どうにでもしてくれたらいい。煮えたぎる鍋に放り込んでも、切り刻んで野鳥の餌にしても、縛り付けて海に放り投げても、この罪の裁きには甘いほどだ」
ゼスナディは顔を上げて、立ち上がり俺に近づいてくる。
その潤んだ瞳から涙を落とさないように唇を噛み締めながら喋る彼の姿は、真に迫る様相だった。
「だが、俺の妹だけは救ってくれ。あれは無垢な娘だ。俺がこの短い人生の中で護ってきたものなんだ……」
ゼスナディは堰を切ったように泣き出した。
俺がゼスナディをノルメルの情報収集に関わらせなければ、こんなことにはならなかったのではないか。いや、そんなことを言っても何も始まらない。やるべきことはいつも一つだ。
「ゼスナディ、泣くな。お前を野鳥の餌なんかにしてやるものか」
彼はハッとして、ゆっくりと顔を上げる。
「許して……くれるのか?」
「許さない」
ぽかんとした表情。そこにもう一回、俺たちが確認し合った原点をぶつけてやる。
「俺とこの『革命』に最後まで付き合ってもらう。それがお前への罰だ」
「アシュテ……」
「ノルメルから自由を獲得し、お前の妹を救い出した暁には許してやる。だから、泣くな。立ち上がれ。立ち上がって抵抗しろ。ノルメルに隷属するお前なんて、絶対に許さない。俺と一緒にこの『革命』を果たすんだろう!」
部屋に声が響いて、残響がかすかに空気を震わせる。
ゼスナディは袖で目元を拭った。もはや、嗚咽は聞こえない。そして、彼は決意した表情で俺を見上げた。
「ああ、そうだったな」
「お前は一人じゃない。共に自由のために、この身を捧げよう」
差し出した手を彼は力強く握り返す。
俺たちの旅は途切れない。挫折に会いながらも、目的に向かい進み続ける。
ゼマフェロスの自由のために前進し続ける。
――クラナ東方高原居留区、臨時行政庁
「情報を集約しろ! あと、連邦軍に増援を求めろ!!」
私――
レーシュネ・ボーシュニョスツィーニ・シュフイシュコの怒号は庁舎に響きまわっていた。
ノルメルの襲撃は予想範囲内。しかしながら、
連邦軍の兵士はこの戦闘で死傷した。たかが、騎兵の対応で死傷するはずもない。もちろん、タリェナフ派が武器を融通しているに違いない。
タリェナフ派は、正式名称を
「イェスカ革命主義者同盟」といい、奴らは強硬派テロリスト集団として南サニスで抵抗を続けている。そんな連中がクラナに何の用があるのだろう?
いや、考えるだけ無駄だろう。今は治安維持に集中しなければ。
そんなことを考えていると、乱暴に執務室のドアが開け放たれた。息を上げた職員が額に汗を湛えて、私の眼前に走り込んでくる。
「長官、退避を! 派遣軍によると撤退線を本居留区の後方に引きたいとのことで」
「……っ!? 誰がそんなことを承認した! 任務部隊の司令官を引きずり出せ!!」
「そんな状況では――」
職員が焦りながら、先を続けようとした瞬間、何か空気を切ったような音がした。空耳だろうと議論を続けようとしたが、目の前の職員が目を見開いて、私の顔を指差した。
「なんだ、言いたいことがあればはっきり言え」
「ちょ、長官、頬が……」
頬。右手で、さらりと触れてみる。しかし、その感触は「さらり」というものではなく、粘着性のある赤い液体だった、と気づいた瞬間には私は執務室のテーブルに身を隠していた。
連射されるWPライフルの銃声は、軍属だった昔に聞いたことがあるものだった。一斉射は先程まで目の前で堅実に職務を執行していた職員の命を無慈悲に刈り取った。
「見境のないテロリスト共が……」
状況の悪化に呻きつつ、脱出の手段を考える。このままでは連邦との連絡手段すら断絶してしまう。連邦軍への援軍要請は受託されたのか?
今では全てが確認する情報源に乏しい。
だが、私も元は軍属。ただの官僚――キャリアではない。
「ただの司書だと……? この私を舐めるなよ」
最悪の状況の中で、不思議と私はほくそ笑んでいた。