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みんなの新武将/西晋・東晋 - (2016/02/14 (日) 20:43:45) の編集履歴(バックアップ)
注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
西晋(265~316)
魏の内部で勢力を培った河内(豫北)の名族の司馬氏が、司馬懿の孫の司馬炎に至って265年に簒奪したもの。
司馬炎(武帝)は280年に呉を滅ぼして全国再統一を果たし、田制・税制の改革整備や、
魏を反面教師とした王族の藩屏化を行なったが、名族の優遇や統一後の奢侈など、初代から退廃性が顕れていた。
嗣子の恵帝の代には元勲・賈充の娘の賈南鳳の専権から、軍閥化していた諸王による八王の乱を惹起し、
統一の瓦解と内地の異民族の自立が急速に進行し、氐族の李雄が成(成漢)を、南匈奴を統合した劉淵が漢(前趙)を樹立した。
政権の実質的な終焉とされる311年の洛陽陥落では殆どの宗族が匈奴に殺され、長安に成立した亡命政権も316年に滅ぼされた。
司馬炎(武帝)は280年に呉を滅ぼして全国再統一を果たし、田制・税制の改革整備や、
魏を反面教師とした王族の藩屏化を行なったが、名族の優遇や統一後の奢侈など、初代から退廃性が顕れていた。
嗣子の恵帝の代には元勲・賈充の娘の賈南鳳の専権から、軍閥化していた諸王による八王の乱を惹起し、
統一の瓦解と内地の異民族の自立が急速に進行し、氐族の李雄が成(成漢)を、南匈奴を統合した劉淵が漢(前趙)を樹立した。
政権の実質的な終焉とされる311年の洛陽陥落では殆どの宗族が匈奴に殺され、長安に成立した亡命政権も316年に滅ぼされた。
段灼(休然)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
39 | 36 | 71 | 56 | 68 | C | C | B | B | B | C | ? | ? |
【ダンシャク(キュウネン)】
魏・晋の政治家。
敦煌の豪族の出身で、最初は鄧艾の部下として活動していた。
鄧艾が殺害され、晋が成立した後は議郎となり、267年に皇帝司馬炎に対して罪人扱いとされて
いた鄧艾の罪を解く為、鄧艾を強情でせっかちな人物と評しつつも忠義心が
あったと弁護した。
これにより273年に鄧艾の名誉は回復され、西域に流されていた孫の鄧朗が郎中に取り立てられた。
魏・晋の政治家。
敦煌の豪族の出身で、最初は鄧艾の部下として活動していた。
鄧艾が殺害され、晋が成立した後は議郎となり、267年に皇帝司馬炎に対して罪人扱いとされて
いた鄧艾の罪を解く為、鄧艾を強情でせっかちな人物と評しつつも忠義心が
あったと弁護した。
これにより273年に鄧艾の名誉は回復され、西域に流されていた孫の鄧朗が郎中に取り立てられた。
親愛武将:鄧艾
樊震
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
58 | 67 | 51 | 38 | 57 | B | C | A | B | B | C | ? | ? |
【ハンシン】
魏・西晋の武将。
魏の時代には鄧艾の配下で帳下将として蜀討伐に従った。
晋の成立後は積射将軍となり、咸寧年間(275年~280年)に西戎牙門将と
なった際に司馬炎に謁見し、その際に鄧艾の事を尋ねられて樊震は涙ながらに
鄧艾が忠義溢れる人物である事を語った。
魏・西晋の武将。
魏の時代には鄧艾の配下で帳下将として蜀討伐に従った。
晋の成立後は積射将軍となり、咸寧年間(275年~280年)に西戎牙門将と
なった際に司馬炎に謁見し、その際に鄧艾の事を尋ねられて樊震は涙ながらに
鄧艾が忠義溢れる人物である事を語った。
親愛武将:鄧艾
董元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
61 | 57 | 52 | 46 | 42 | 待伏 | A | B | B | C | C | B | ? | 271年(自然死) |
【トウゲン】
西晋の武将。
西晋の南中都督霍弋の配下で、西晋が交州を得た後に九真太守となり
呉が交州に侵攻した際に討伐軍を迎撃し、九真にて呉の陶璜に対して
伏兵で対抗しようとしたが、見破られて敗北し、さらに陶璜の策略により
配下の勇将であった解系を殺害してしまい、程なくして病死した。
西晋の武将。
西晋の南中都督霍弋の配下で、西晋が交州を得た後に九真太守となり
呉が交州に侵攻した際に討伐軍を迎撃し、九真にて呉の陶璜に対して
伏兵で対抗しようとしたが、見破られて敗北し、さらに陶璜の策略により
配下の勇将であった解系を殺害してしまい、程なくして病死した。
孟幹
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
52 | 58 | 76 | 54 | 63 | 能吏 | C | C | A | C | A | C | ? | ? |
【モウカン】
西晋の武将。
西晋の南中都督霍弋の配下の牙門将で、呉が268年に交州に侵攻した際に楊稷・毛炅らと共に
交州に派遣されて呉軍と戦ったが、敗れて捕虜となった。
最初は孫皓の命で殺されそうになったが、孟幹は忠実な人物であるという臣下の助言により
助命され、さらに孟幹は呉の人々が蜀の側竹の弩を愛好していると知り、その制作に携わり
たいと申し出て建業の兵器製作部局に留めた。
後に逃亡に成功して司馬炎に呉討伐の計を述べ、その恩賞として日南太守となった。
西晋の武将。
西晋の南中都督霍弋の配下の牙門将で、呉が268年に交州に侵攻した際に楊稷・毛炅らと共に
交州に派遣されて呉軍と戦ったが、敗れて捕虜となった。
最初は孫皓の命で殺されそうになったが、孟幹は忠実な人物であるという臣下の助言により
助命され、さらに孟幹は呉の人々が蜀の側竹の弩を愛好していると知り、その制作に携わり
たいと申し出て建業の兵器製作部局に留めた。
後に逃亡に成功して司馬炎に呉討伐の計を述べ、その恩賞として日南太守となった。
徐胤
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
65 | 59 | 62 | 45 | 68 | C | B | B | C | B | A | ? | ? |
【ジョイン】
西晋の武将。
巴東監軍を務めて272年の西陵の役において水軍を率いて長江を下り、
建平にて呉の留慮・朱琬と戦った。
西晋の武将。
巴東監軍を務めて272年の西陵の役において水軍を率いて長江を下り、
建平にて呉の留慮・朱琬と戦った。
樹機能
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 83 | 74 | 36 | 60 | 威風 | B | A | A | S | C | C | 279年(不自然死) |
【ジュキノウ】
西晋初期の時代に活動した禿髮鮮卑の首領。
270年に西晋に対して涼州にて反乱を起こし、秦州刺史の胡烈を討ち、
翌年には涼州刺史の牽弘を討ち果たした。
文鴦らの活躍によって277年に一時降伏したが、279年に再び反乱を起こした。
馬隆の活躍によって敗れ、寝返った配下の没骨能に殺害された。
西晋初期の時代に活動した禿髮鮮卑の首領。
270年に西晋に対して涼州にて反乱を起こし、秦州刺史の胡烈を討ち、
翌年には涼州刺史の牽弘を討ち果たした。
文鴦らの活躍によって277年に一時降伏したが、279年に再び反乱を起こした。
馬隆の活躍によって敗れ、寝返った配下の没骨能に殺害された。
向雄(茂伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
28 | 17 | 67 | 65 | 63 | C | C | B | C | C | C | ? | 286年 |
【ショウユウ(モハク)】
魏・晋の文官。
当初は王経に主簿として仕え、王経が死んだ際には慟哭して市井の人も皆悲しんだ。
後に無実の罪で投獄されたが、鍾会に助け出されて都官従事となり、鍾会が死んだ
際には遺体を引き取って埋葬した。
魏・晋の文官。
当初は王経に主簿として仕え、王経が死んだ際には慟哭して市井の人も皆悲しんだ。
後に無実の罪で投獄されたが、鍾会に助け出されて都官従事となり、鍾会が死んだ
際には遺体を引き取って埋葬した。
親愛武将:王経、鍾会
司馬駿(子臧)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親 |
74 | 61 | 72 | 74 | 83 | 親羌 | A | B | B | B | C | C | 232頃 | 286 | 司馬懿 |
【シバシュン(シゾウ)】
魏晋の武将、政治家。司馬懿の第7子。扶風王。
清貞守道の人物で、晋の宗室でも俊望された。
武帝司馬炎が即位すると汝陰王に封じられる。
丁奉の離間策で石苞が寿春から召喚されると石苞を助け、丁奉の侵攻も撃退した。
関中に赴任すると民衆に恩恵を施し、農蚕を奨励して仁政を施した。
羌族の樹機能の反乱では文鴦を率いて討伐し、
西方の異民族を善く慰撫したため、樹機能らは投降し20万の民が帰順した。
司馬攸を中央から遠ざけるのを諌めるが聞き入れられず、病に倒れた。
司馬駿が没すると、民衆は悲嘆し碑を立てて拝したという。
魏晋の武将、政治家。司馬懿の第7子。扶風王。
清貞守道の人物で、晋の宗室でも俊望された。
武帝司馬炎が即位すると汝陰王に封じられる。
丁奉の離間策で石苞が寿春から召喚されると石苞を助け、丁奉の侵攻も撃退した。
関中に赴任すると民衆に恩恵を施し、農蚕を奨励して仁政を施した。
羌族の樹機能の反乱では文鴦を率いて討伐し、
西方の異民族を善く慰撫したため、樹機能らは投降し20万の民が帰順した。
司馬攸を中央から遠ざけるのを諌めるが聞き入れられず、病に倒れた。
司馬駿が没すると、民衆は悲嘆し碑を立てて拝したという。
文立(広休)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
34 | 27 | 81 | 79 | 82 | 眼力 | C | C | C | C | C | C | ? | ? |
【ブンリツ(コウキュウ)】
蜀・西晋の政治家。
巴郡臨江の出身で譙周に師事し、譙周門下では顔回になぞらえられた。
蜀では費禕により大将軍東曹掾となり、後に尚書となる。
蜀滅亡によって西晋に仕えて梁州の別駕従事となり、後に中央に勤務して
太子中庶子となり、数多くの蜀の師弟や旧臣らを推挙し、また忠実清廉な人柄で知られた。
蜀・西晋の政治家。
巴郡臨江の出身で譙周に師事し、譙周門下では顔回になぞらえられた。
蜀では費禕により大将軍東曹掾となり、後に尚書となる。
蜀滅亡によって西晋に仕えて梁州の別駕従事となり、後に中央に勤務して
太子中庶子となり、数多くの蜀の師弟や旧臣らを推挙し、また忠実清廉な人柄で知られた。
劉禅が安楽公の後継に六男の劉恂に決めた際には反対したが、聞き入れられなかった。
李密(令伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
25 | 28 | 76 | 75 | 81 | C | C | B | C | C | C | 224 | 287年(自然死) |
【リミツ(レイハク】
蜀・西晋の政治家。
蜀・西晋の政治家。
蜀の出身で幼少時に父を失い、母は再婚した為に祖母の劉氏の元で育てられた。
最初は蜀に仕えて従事尚書郎・大将軍主簿・太子洗馬を歴任し、呉の孫権の元へ
使者として赴いた際には「人の兄となるよりも弟になった方が良い」と主張する
孫権に対し、李密は人の兄である方が親の面倒を長く見れると反論した。
最初は蜀に仕えて従事尚書郎・大将軍主簿・太子洗馬を歴任し、呉の孫権の元へ
使者として赴いた際には「人の兄となるよりも弟になった方が良い」と主張する
孫権に対し、李密は人の兄である方が親の面倒を長く見れると反論した。
祖母の死後に西晋に仕えて晋皇室所縁の温県令として治績を挙げたが、張華に疎まれて
漢中太守に左遷され、後に蜀を賛美した疑いで職を失った。
漢中太守に左遷され、後に蜀を賛美した疑いで職を失った。
しかし、後に大中正として復帰し官吏の人選に関与した。
曹志(允恭)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
36 | 48 | 67 | 70 | 77 | C | C | B | B | C | C | ? | 288年(自然死) | 曹植 |
【ソウシ(インキョウ)】
魏の皇族、西晋の政治家。曹植の子。
若くして学問を好み、才知に秀でて寛大な人柄で知られ、騎射にも優れていた。
父の死後に跡を継ぎ、済北王となる。
晋の成立後は司馬炎に評価されて楽平太守となり、各地の太守を歴任したが、
司馬攸が司馬炎の意向で領国に赴任する事に悲しんだ為に司馬炎の怒りを買って
官を剥奪されたが、後に復帰した。
母親の死去によって精神に異常をきたし、程なくして病死した。
魏の皇族、西晋の政治家。曹植の子。
若くして学問を好み、才知に秀でて寛大な人柄で知られ、騎射にも優れていた。
父の死後に跡を継ぎ、済北王となる。
晋の成立後は司馬炎に評価されて楽平太守となり、各地の太守を歴任したが、
司馬攸が司馬炎の意向で領国に赴任する事に悲しんだ為に司馬炎の怒りを買って
官を剥奪されたが、後に復帰した。
母親の死去によって精神に異常をきたし、程なくして病死した。
楊駿(文長)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
28 | 23 | 45 | 34 | 21 | C | C | C | C | C | C | ? | 291年(不自然死) |
【ヨウシュン(ブンチョウ)】
西晋の外戚。
弘農郡華陰県の出身で、姪が司馬炎の皇后であった事で外戚として地位を得る様になり、
姪の死後は自分の娘を司馬炎の新たな皇后として更に権力を得た。
西晋の外戚。
弘農郡華陰県の出身で、姪が司馬炎の皇后であった事で外戚として地位を得る様になり、
姪の死後は自分の娘を司馬炎の新たな皇后として更に権力を得た。
しかし、恵帝の皇后である賈南風に唆された皇族の司馬瑋によって殺害され、一族も滅ぼされた。
嫌悪武将:司馬亮、衛瓘
司馬柬(弘度)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
56 | 51 | 74 | 66 | 78 | B | C | B | C | B | C | 262年 | 291年(自然死) | 司馬炎 |
【シバカン(コウド)】
西晋の皇族。司馬炎の三男。
聡明で父から寵愛されていた。
汝南王を経て南陽王・秦王に封ぜられ、兄の恵帝即位後は大将軍にまで登った。
一時は楊駿誅殺を受けて身の保全を考慮して領国に戻ろうとしたが、司馬亮
に慰留されて恵帝を補佐した。
しかし、同年に死去して人々から死を惜しまれた。
西晋の皇族。司馬炎の三男。
聡明で父から寵愛されていた。
汝南王を経て南陽王・秦王に封ぜられ、兄の恵帝即位後は大将軍にまで登った。
一時は楊駿誅殺を受けて身の保全を考慮して領国に戻ろうとしたが、司馬亮
に慰留されて恵帝を補佐した。
しかし、同年に死去して人々から死を惜しまれた。
司馬亮(子翼)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親 |
54 | 39 | 53 | 68 | 66 | C | C | B | C | B | C | 220 | 291 | 司馬懿 |
【シバリョウ(シヨク)】
魏晋の武将、政治家。司馬懿の第4子。司馬伷は同母弟。汝南王。八王の乱に関わる八王の1人。
武帝司馬炎が即位すると扶風王に封じられる。
羌族の反乱では胡烈へ救援軍を遣わすが、胡烈は戦死したため降格された。
呉の歩闡の投降を受け入れ、その後に汝南王に移封される。
司馬炎は後事を託そうと詔を出すが、
楊駿が失脚を恐れて詔を握り潰して害そうとした為洛陽を脱出した。
賈南風と協力して楊駿を誅殺し朝政を掌握するも、
賈南風が実権を握る為に司馬瑋を唆した事で捕縛・虐殺され、八王の乱が始まった。
魏晋の武将、政治家。司馬懿の第4子。司馬伷は同母弟。汝南王。八王の乱に関わる八王の1人。
武帝司馬炎が即位すると扶風王に封じられる。
羌族の反乱では胡烈へ救援軍を遣わすが、胡烈は戦死したため降格された。
呉の歩闡の投降を受け入れ、その後に汝南王に移封される。
司馬炎は後事を託そうと詔を出すが、
楊駿が失脚を恐れて詔を握り潰して害そうとした為洛陽を脱出した。
賈南風と協力して楊駿を誅殺し朝政を掌握するも、
賈南風が実権を握る為に司馬瑋を唆した事で捕縛・虐殺され、八王の乱が始まった。
司馬衷(正度)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
1 | 3 | 1 | 2 | 24 | C | C | C | C | C | C | 259年 | 307年 | 司馬炎 |
【シバチュウ(セイド)】
西晋の第2代皇帝・恵帝。重度の知的障碍者。
司馬炎の次男で兄の司馬軌が夭折して為に皇太子となるが、幼い頃から暗愚で
父の司馬炎も廃太子を考えたが、賈南風の機転により父から任された仕事を他者
にやらせて廃嫡を回避する事に成功した。
父の死後に即位するが、その暗愚故に実権は外戚の楊駿や賈皇后に握られ、賈皇后
の失脚後は越王司馬倫に帝位の座を追われた。
司馬倫の誅殺によって復位するが、相変わらず実権は無く八王の乱による皇族同士
の争いを止められずに西晋の国力を大いに衰退させた。
西晋の第2代皇帝・恵帝。重度の知的障碍者。
司馬炎の次男で兄の司馬軌が夭折して為に皇太子となるが、幼い頃から暗愚で
父の司馬炎も廃太子を考えたが、賈南風の機転により父から任された仕事を他者
にやらせて廃嫡を回避する事に成功した。
父の死後に即位するが、その暗愚故に実権は外戚の楊駿や賈皇后に握られ、賈皇后
の失脚後は越王司馬倫に帝位の座を追われた。
司馬倫の誅殺によって復位するが、相変わらず実権は無く八王の乱による皇族同士
の争いを止められずに西晋の国力を大いに衰退させた。
司馬瑋(彦度)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
58 | 55 | 21 | 63 | 74 | B | B | C | B | C | C | 270年 | 291年(不自然死) | 司馬炎 |
【シバイ(ゲンド)】
西晋の皇族で八王の一人。司馬炎の5男。
楚王に封じられ、兄の恵帝即位後は外戚である楊駿の誅殺に功績があり、
衛将軍となって禁軍を掌握したが朝廷の長老である司馬亮・衛瓘とは対立、
それを賈皇后に利用されて両者の殺害を行ったが、張華の進言により謀反人
とされて処刑された。
若く直情的な性格で短慮な面もあったが、民衆に多く施しを行って人気があり、
その死に涙する者は多かったとされる。
西晋の皇族で八王の一人。司馬炎の5男。
楚王に封じられ、兄の恵帝即位後は外戚である楊駿の誅殺に功績があり、
衛将軍となって禁軍を掌握したが朝廷の長老である司馬亮・衛瓘とは対立、
それを賈皇后に利用されて両者の殺害を行ったが、張華の進言により謀反人
とされて処刑された。
若く直情的な性格で短慮な面もあったが、民衆に多く施しを行って人気があり、
その死に涙する者は多かったとされる。
親愛武将:司馬乂
嫌悪武将:司馬亮、衛瓘
嫌悪武将:司馬亮、衛瓘
石鑒(林伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
48 | 39 | 77 | 63 | 35 | 言毒 | B | C | A | C | A | C | ? | 294年(自然死) |
【セキカン(リンハク)】
魏・西晋の武将・政治家。
楽陵厭次の出身で、寒門であった。
魏では尚書郎・侍御史・御史中丞を歴任したが、峻厳な性格の為に地方に出されて
護匈奴中郎将・幷州刺史となる。
晋の成立後は都督隴右諸軍事や鎮南将軍・豫州刺史を歴任したが、しばしば功績を
偽る事が多かった為に杜預に弾劾され、深刻な対立関係となって隴西に共に従軍した際に
は杜預を弾劾して中央に召喚させた。
司馬炎が死去した際は楊駿一派から司馬亮暗殺の企みを命じられたが、失敗すると
判断して暗殺を諦めさせた。294年に八十余歳で死去した。
魏・西晋の武将・政治家。
楽陵厭次の出身で、寒門であった。
魏では尚書郎・侍御史・御史中丞を歴任したが、峻厳な性格の為に地方に出されて
護匈奴中郎将・幷州刺史となる。
晋の成立後は都督隴右諸軍事や鎮南将軍・豫州刺史を歴任したが、しばしば功績を
偽る事が多かった為に杜預に弾劾され、深刻な対立関係となって隴西に共に従軍した際に
は杜預を弾劾して中央に召喚させた。
司馬炎が死去した際は楊駿一派から司馬亮暗殺の企みを命じられたが、失敗すると
判断して暗殺を諦めさせた。294年に八十余歳で死去した。
嫌悪武将:杜預
王済(武子)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
36 | 77 | 75 | 56 | 38 | 射手 | C | C | A | A | C | C | ? | ? | 王渾 |
【オウサイ(ブシ)】
晋の政治家。王渾の子。
容姿に秀でて弓馬を好み、その勇力は誰も敵わなかったといわれ、
文才にも精通して「易経」や「老子」をよく読んだ。
司馬炎に愛されてその公主を娶り侍中となるが、一方で性格は悪く豪奢な生活を
好んだ人物で父と共に王濬を批判し、盲目となった妻の公主を丁重に扱わなかった事や
人乳で煮た豚肉を司馬炎に振舞ったことで知られる。
父よりも早く四十六歳で死去した。
晋の政治家。王渾の子。
容姿に秀でて弓馬を好み、その勇力は誰も敵わなかったといわれ、
文才にも精通して「易経」や「老子」をよく読んだ。
司馬炎に愛されてその公主を娶り侍中となるが、一方で性格は悪く豪奢な生活を
好んだ人物で父と共に王濬を批判し、盲目となった妻の公主を丁重に扱わなかった事や
人乳で煮た豚肉を司馬炎に振舞ったことで知られる。
父よりも早く四十六歳で死去した。
親愛武将:孫楚
嫌悪武将:王濬
嫌悪武将:王濬
孫楚(子荊)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
36 | 38 | 76 | 65 | 40 | 論客 | C | C | B | C | B | B | ? | 297年(自然死) |
【ソンソ(シケイ)】
魏・西晋の政治家。魏の重臣である孫資の孫。
魏の時代には鎮東将軍・石苞の配下として対呉の最前線に赴いて呉への降伏を
促した書状を作成した。
若くして優れた才能を持っていたが、一方で傲慢な性格で石苞に対してしばしば
見下した態度をとった為に深刻な対立状態となり中央に召喚された。
その後は扶風王司馬駿の配下となり、最後は馮翊太守として生涯を終えた。
小説家・夏目漱石の漱石という号は友人の王済と語り合った際に枕石漱流
という言葉を漱石枕流と言い間違えた故事から来ている。
魏・西晋の政治家。魏の重臣である孫資の孫。
魏の時代には鎮東将軍・石苞の配下として対呉の最前線に赴いて呉への降伏を
促した書状を作成した。
若くして優れた才能を持っていたが、一方で傲慢な性格で石苞に対してしばしば
見下した態度をとった為に深刻な対立状態となり中央に召喚された。
その後は扶風王司馬駿の配下となり、最後は馮翊太守として生涯を終えた。
小説家・夏目漱石の漱石という号は友人の王済と語り合った際に枕石漱流
という言葉を漱石枕流と言い間違えた故事から来ている。
親愛武将:王済、司馬駿
嫌悪武将:石苞
嫌悪武将:石苞
司馬晃(子明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
67 | 55 | 76 | 69 | 74 | 仁政 | C | C | B | C | B | B | ? | 296年(自然死) | 司馬孚 |
【シバコウ(シメイ)】
西晋の皇族。司馬孚の五男。
下邳王に封ぜられ、孝友貞廉で下士に謙虚であった為に宗室から称えられた。
司馬炎の時代には長水校尉、南中郎将となった後、鎮東将軍、都督青徐二州諸軍事
となった。
恵帝の時代には車騎将軍、散騎常侍となり、楊駿が殺害された際には護軍を率いた。
後に司空となり、死後に太傅を追贈された。
西晋の皇族。司馬孚の五男。
下邳王に封ぜられ、孝友貞廉で下士に謙虚であった為に宗室から称えられた。
司馬炎の時代には長水校尉、南中郎将となった後、鎮東将軍、都督青徐二州諸軍事
となった。
恵帝の時代には車騎将軍、散騎常侍となり、楊駿が殺害された際には護軍を率いた。
後に司空となり、死後に太傅を追贈された。
司馬泰(子舒)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
48 | 45 | 73 | 77 | 82 | 沈着 | B | C | B | A | B | C | ? | 299年(自然死) |
【シバタイ(シジョ)】
西晋の皇族。司馬懿の弟司馬馗の子。司馬越の父。
魏の時代には扶風太守を務め、晋の成立により隴西王に封じられた。
以後は数多くの職を歴任して司空にまで登り、司馬瑋が処刑された後は
録尚書事を経て太尉・守尚書令となり、高密王に改封された。
廉静な性格で王族の多くが奢侈の生活をする中で清貧な生活を守り続け、
同様に節制に務めた司馬晃と共に称えられた。
西晋の皇族。司馬懿の弟司馬馗の子。司馬越の父。
魏の時代には扶風太守を務め、晋の成立により隴西王に封じられた。
以後は数多くの職を歴任して司空にまで登り、司馬瑋が処刑された後は
録尚書事を経て太尉・守尚書令となり、高密王に改封された。
廉静な性格で王族の多くが奢侈の生活をする中で清貧な生活を守り続け、
同様に節制に務めた司馬晃と共に称えられた。
賈南風
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 | 性格 | 口調 |
13 | 31 | 55 | 7 | 2 | 強奪 | C | C | C | C | C | C | 257 | 300 | 賈充 | 小心 | 慇懃 |
【カナンプウ】
西晋恵帝の皇后。賈皇后。賈充の娘で、子供は望めず陰険で色黒の醜女であった。
司馬炎は、皇太子の司馬衷の后として衛瓘の娘を迎えようとしたが、
賈充派の馮紞・荀勗らが賈南風を后にすべく工作をし、賈南風を勧めた。
司馬炎の崩御後に恵帝が即位し、賈南風は皇后となった。
恵帝が即位後、外戚の楊駿が実権を握るが、賈皇后は楊駿を排除すべく、
孟観・李肇・宦官の董猛らと共謀して政変を起こし、楊駿一党を誅殺。
その後、司馬亮と衛瓘を謀殺し、張華の進言で司馬瑋を誅殺して賈氏一族が天下を掌握した。
のち司馬冏・司馬倫らに反乱を起こされ、族滅された。
西晋恵帝の皇后。賈皇后。賈充の娘で、子供は望めず陰険で色黒の醜女であった。
司馬炎は、皇太子の司馬衷の后として衛瓘の娘を迎えようとしたが、
賈充派の馮紞・荀勗らが賈南風を后にすべく工作をし、賈南風を勧めた。
司馬炎の崩御後に恵帝が即位し、賈南風は皇后となった。
恵帝が即位後、外戚の楊駿が実権を握るが、賈皇后は楊駿を排除すべく、
孟観・李肇・宦官の董猛らと共謀して政変を起こし、楊駿一党を誅殺。
その後、司馬亮と衛瓘を謀殺し、張華の進言で司馬瑋を誅殺して賈氏一族が天下を掌握した。
のち司馬冏・司馬倫らに反乱を起こされ、族滅された。
司馬遹(煕祖)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
46 | 33 | 62 | 64 | 68 | 富豪 | B | C | B | C | B | C | 278年 | 300年(不自然死) |
【シバイツ(キソ)】
西晋第2代皇帝・恵帝(司馬衷)の長男。
幼い頃から聡明であったが、あまり学問は好まずに宮中で商売を行ったり、
菜園で育てた野菜を売って利益を得たりしていた。
また、皇太子用の手当てを多く貰って部下に与えたり、讒言をする部下に対して
絨毯に針を仕込む嫌がらせまでしていた。
皇太子となるが、実母ではない賈皇后からは嫌われて賈皇后やその一族である
賈謐と対立する様になり、賈一族の謀略によって恵帝への謀反を疑われた末に
幽閉されて後に暗殺された。
後に愍懐太子の諡を与えられる。
西晋第2代皇帝・恵帝(司馬衷)の長男。
幼い頃から聡明であったが、あまり学問は好まずに宮中で商売を行ったり、
菜園で育てた野菜を売って利益を得たりしていた。
また、皇太子用の手当てを多く貰って部下に与えたり、讒言をする部下に対して
絨毯に針を仕込む嫌がらせまでしていた。
皇太子となるが、実母ではない賈皇后からは嫌われて賈皇后やその一族である
賈謐と対立する様になり、賈一族の謀略によって恵帝への謀反を疑われた末に
幽閉されて後に暗殺された。
後に愍懐太子の諡を与えられる。
親愛武将:司馬炎
嫌悪武将:賈南風、賈謐
嫌悪武将:賈南風、賈謐
李婉(淑文)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
20 | 27 | 77 | 64 | 80 | 威圧 | C | C | C | C | C | C | ? | ? | 李豊 |
【リエン(シュクブン)】
賈充の前妻。李豊の娘。
才気のある女性で、賈充に嫁いだ。
李豊が司馬師に誅殺されると連座して流罪となった。
武帝司馬炎の即位により大赦となるが、賈充は郭槐を後妻に迎えていた。
武帝は賈充に特別に正室を二人立てることを許したが、郭槐が激怒したため賈充は辞退した。
賈南風(郭槐の娘)が皇太子妃となると郭槐は盛大に着飾って李婉のもとに出向くが、
李婉が出迎えると郭槐は思わず跪拝してしまった。
このため、賈充は李婉が殺されないか怖れたという。
賈南風が廃された後、賈充の墓に合葬された。
著作に「女訓」がある。
賈充の前妻。李豊の娘。
才気のある女性で、賈充に嫁いだ。
李豊が司馬師に誅殺されると連座して流罪となった。
武帝司馬炎の即位により大赦となるが、賈充は郭槐を後妻に迎えていた。
武帝は賈充に特別に正室を二人立てることを許したが、郭槐が激怒したため賈充は辞退した。
賈南風(郭槐の娘)が皇太子妃となると郭槐は盛大に着飾って李婉のもとに出向くが、
李婉が出迎えると郭槐は思わず跪拝してしまった。
このため、賈充は李婉が殺されないか怖れたという。
賈南風が廃された後、賈充の墓に合葬された。
著作に「女訓」がある。
※特技は賈充伝で性格が「妬忌」(嫉妬・猜忌)と評された郭槐を跪かせたということで。
何攀(恵興)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
61 | 33 | 87 | 76 | 72 | 造船 | B | B | B | C | B | A | 243 | 301 | 王濬 |
【カハン(ケイコウ)】
西晋の政治家。
益州刺史・皇甫晏から「王佐の才である」と評価された。
王濬が益州刺史として赴任してくるとその属官となり、呉討伐の準備を補佐。
労働力と木材の確保で的確な進言を行い、軍船建造の監督役を任された。
洛陽へ赴き司馬炎に呉討伐の策略を述べて、荊州の羊祜とも戦略を練った。
呉討伐が実行されると王濬の副官として従軍して建業を陥れた。
中央に召されると、楊駿が専権して国政が乱れた際にこれを討伐した。
その後も揚州刺史、大司農を歴任したが晩年は朝廷の混乱を厭い隠棲した。
西晋の政治家。
益州刺史・皇甫晏から「王佐の才である」と評価された。
王濬が益州刺史として赴任してくるとその属官となり、呉討伐の準備を補佐。
労働力と木材の確保で的確な進言を行い、軍船建造の監督役を任された。
洛陽へ赴き司馬炎に呉討伐の策略を述べて、荊州の羊祜とも戦略を練った。
呉討伐が実行されると王濬の副官として従軍して建業を陥れた。
中央に召されると、楊駿が専権して国政が乱れた際にこれを討伐した。
その後も揚州刺史、大司農を歴任したが晩年は朝廷の混乱を厭い隠棲した。
※造船以外にも計略系特技でも可
劉弘(和季)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
80 | 64 | 81 | 86 | 85 | 仁政 | A | A | B | A | B | B | 236 | 306 |
【リュウコウ(カキ)】
西晋の武将。魏の政治家・劉馥の孫。
武帝司馬炎と幼なじみで、昇進を重ねて幽州の軍事となる。
荊州で張昌が乱を起こすと荊州刺史となり、陶侃を遣わして乱を鎮圧し荊州を平定した。
疲弊した荊州に人材を配置し、領民には農耕と養蚕を奨励し賦役を省いたため非常に慕われた。
揚州で陳敏が反乱を起こすと、州境に陶侃を遣わしてこれを鎮圧させている。
八王の乱で国内が騒然とする中で荊州を良く治めたが、劉弘が病没すると再び乱が生じるようになった。
西晋の武将。魏の政治家・劉馥の孫。
武帝司馬炎と幼なじみで、昇進を重ねて幽州の軍事となる。
荊州で張昌が乱を起こすと荊州刺史となり、陶侃を遣わして乱を鎮圧し荊州を平定した。
疲弊した荊州に人材を配置し、領民には農耕と養蚕を奨励し賦役を省いたため非常に慕われた。
揚州で陳敏が反乱を起こすと、州境に陶侃を遣わしてこれを鎮圧させている。
八王の乱で国内が騒然とする中で荊州を良く治めたが、劉弘が病没すると再び乱が生じるようになった。
周処(子隠)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親 |
71 | 85 | 65 | 61 | 68 | 猛者 | A | A | C | C | C | C | 236 | 297 | 周魴 |
【シュウショ(シイン)】
呉、晋の武将、政治家。周魴の子。
若い頃は放蕩に耽り、郷里では猛虎と蛟龍に並んで「三悪」の一つに数えられた。
それを聞くと猛虎と蛟龍を格闘の末に殺すが、郷里は周処も死んだと思って歓呼しており、悔やんで改心した。
陸機らに会って勉学に打ち込み、呉の末期に仕官する。
建業に入城した王渾が宴会で呉臣を嘲った時には、堂々と答えて王渾を恥じ入らせた。
晋代には御史中丞を務め、梁王・司馬肜の違法を厳しく追求した。
しかし司馬肜に恨まれ氐族討伐の際に孤立無援となり、五千の兵で一万の兵を倒し勇戦するが戦死した。
呉、晋の武将、政治家。周魴の子。
若い頃は放蕩に耽り、郷里では猛虎と蛟龍に並んで「三悪」の一つに数えられた。
それを聞くと猛虎と蛟龍を格闘の末に殺すが、郷里は周処も死んだと思って歓呼しており、悔やんで改心した。
陸機らに会って勉学に打ち込み、呉の末期に仕官する。
建業に入城した王渾が宴会で呉臣を嘲った時には、堂々と答えて王渾を恥じ入らせた。
晋代には御史中丞を務め、梁王・司馬肜の違法を厳しく追求した。
しかし司馬肜に恨まれ氐族討伐の際に孤立無援となり、五千の兵で一万の兵を倒し勇戦するが戦死した。
司馬肜(子徽)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
27 | 31 | 35 | 48 | 31 | C | C | B | B | C | C | ? | 302年(自然死) | 司馬懿 |
【シバユウ(シビ】
西晋の皇族。司馬懿の八男。
西晋の成立により梁王となり、朝廷では重職を歴任した。
296年に斉万年が反乱を起こした際に征西大将軍として討伐に赴いたが、
以前に自らの不法を糾弾して怨んでいた周処が配下にいた為、周処に
対して危険な先鋒を幾度となく担わせた上に援軍を送らず戦死させた。
その後、斉万年に敗れて召喚されたが罪には問われずに大将軍となり
弟の越王司馬倫の簒奪に協力、司馬倫の死後も地位を保って死去した。
西晋の皇族。司馬懿の八男。
西晋の成立により梁王となり、朝廷では重職を歴任した。
296年に斉万年が反乱を起こした際に征西大将軍として討伐に赴いたが、
以前に自らの不法を糾弾して怨んでいた周処が配下にいた為、周処に
対して危険な先鋒を幾度となく担わせた上に援軍を送らず戦死させた。
その後、斉万年に敗れて召喚されたが罪には問われずに大将軍となり
弟の越王司馬倫の簒奪に協力、司馬倫の死後も地位を保って死去した。
厳氏(憲)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
8 | 6 | 77 | 60 | 72 | 眼力 | C | C | C | C | C | C | ? | ? | 杜預 |
【ゲンシ(ケン)】
杜有道の妻。杜預の叔母。
貞淑で見識を有する女性で、人物を見る鑑察眼に優れていた。
18歳で寡婦となるが、息子の杜植と娘の杜韡を育てあげた。
傅玄が杜韡を後妻にしようとすると、傅玄は何晏と対立して害されそうになっていたが、
何晏の驕慢と司馬懿の雌伏を見抜いていたためこれを受ける。
その後、司馬懿は何晏を含む曹爽一派を誅殺した。
秦州刺史だった杜預が石鍳に誣告され収監されると、一時の恥を耐えるよう励ます。
傅咸(傅玄の前妻の子)を「千里馬」と讃えて妹の娘を娶せた。
杜有道の妻。杜預の叔母。
貞淑で見識を有する女性で、人物を見る鑑察眼に優れていた。
18歳で寡婦となるが、息子の杜植と娘の杜韡を育てあげた。
傅玄が杜韡を後妻にしようとすると、傅玄は何晏と対立して害されそうになっていたが、
何晏の驕慢と司馬懿の雌伏を見抜いていたためこれを受ける。
その後、司馬懿は何晏を含む曹爽一派を誅殺した。
秦州刺史だった杜預が石鍳に誣告され収監されると、一時の恥を耐えるよう励ます。
傅咸(傅玄の前妻の子)を「千里馬」と讃えて妹の娘を娶せた。
補足:傅咸は晋にて、剛直な政治家として名を上げた。
鍾氏(琰)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 配偶者 |
11 | 8 | 75 | 64 | 74 | C | C | C | C | C | C | ? | ? | 王渾 |
【ショウシ(エン)】
王渾の妻。鍾繇の曾孫。
数歳で文才を示す聡明さで、雅で容姿も美しく、礼儀も備えていた。
娘の結婚相手に賢夫を求めており、息子の王済が著名な兵家の子を推薦したが、
その姿を見ると、才能はあるが早世すると見て結婚を許可しなかった。
数年でその人物は亡くなったため、鍾琰の観察眼が称賛された。
王湛(王渾の弟)の妻の郝氏と良い交流を持っており、「鐘夫人の礼、郝夫人の法」と讃えられていた。
王渾の妻。鍾繇の曾孫。
数歳で文才を示す聡明さで、雅で容姿も美しく、礼儀も備えていた。
娘の結婚相手に賢夫を求めており、息子の王済が著名な兵家の子を推薦したが、
その姿を見ると、才能はあるが早世すると見て結婚を許可しなかった。
数年でその人物は亡くなったため、鍾琰の観察眼が称賛された。
王湛(王渾の弟)の妻の郝氏と良い交流を持っており、「鐘夫人の礼、郝夫人の法」と讃えられていた。
賈謐(長深)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
39 | 22 | 63 | 53 | 36 | C | C | B | C | C | C | 277年 | 300年(不自然死) |
【カヒツ(チョウシン)】
西晋の外戚・政治家。
賈充の娘・賈午と韓壽との子で、当初は韓姓であったが賈充の跡を継がせる為に
祖母の郭槐の意向で賈姓を名乗った。
楊駿の誅殺後は伯母の賈皇后と共に朝廷の実権を握り、「賈謐二十四友」と呼ばれる
文学集団を形成した。
二十四友に入る潘岳や石崇はこぞって賈謐に追従し、乗車する馬車の塵まで拝んだ
事から「後塵を拝す」の故事が生まれた。
皇太子の司馬遹と対立し、賈皇后と共に司馬遹を廃嫡した末に殺害したが、司馬倫
の反乱によって殺害された。
西晋の外戚・政治家。
賈充の娘・賈午と韓壽との子で、当初は韓姓であったが賈充の跡を継がせる為に
祖母の郭槐の意向で賈姓を名乗った。
楊駿の誅殺後は伯母の賈皇后と共に朝廷の実権を握り、「賈謐二十四友」と呼ばれる
文学集団を形成した。
二十四友に入る潘岳や石崇はこぞって賈謐に追従し、乗車する馬車の塵まで拝んだ
事から「後塵を拝す」の故事が生まれた。
皇太子の司馬遹と対立し、賈皇后と共に司馬遹を廃嫡した末に殺害したが、司馬倫
の反乱によって殺害された。
親愛武将:賈南風
嫌悪武将:司馬遹、司馬穎
嫌悪武将:司馬遹、司馬穎
石崇(季倫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親 |
51 | 68 | 58 | 69 | 14 | 徴収 | B | C | C | C | C | C | 249 | 300 | 石苞 |
【セキスウ(キリン)】
晋の政治家。石苞の末子。
幼い時から明敏かつ勇敢で知られ、
石苞は臨終の際に自分で財産を得る能力があるとして財産を分け与えなかった。
武帝司馬炎に重用され呉侵攻で功績を上げ、安陽郷侯に封じられる。
一時学問を好み官を辞するも、間も無く復職し要職を歴任したが、品行は悪く度々弾劾されている。
潘岳と共に外戚の賈謐に媚び諂って権勢を誇ったが、賈氏の失脚後に孫秀に愛妾を差し出す事を拒否し処刑された。
商人から富を巻き上げて巨大な財を得ており、
豪奢な生活を送って王愷(王粛の子)と贅沢ぶりを競っていた程だった。
晋の政治家。石苞の末子。
幼い時から明敏かつ勇敢で知られ、
石苞は臨終の際に自分で財産を得る能力があるとして財産を分け与えなかった。
武帝司馬炎に重用され呉侵攻で功績を上げ、安陽郷侯に封じられる。
一時学問を好み官を辞するも、間も無く復職し要職を歴任したが、品行は悪く度々弾劾されている。
潘岳と共に外戚の賈謐に媚び諂って権勢を誇ったが、賈氏の失脚後に孫秀に愛妾を差し出す事を拒否し処刑された。
商人から富を巻き上げて巨大な財を得ており、
豪奢な生活を送って王愷(王粛の子)と贅沢ぶりを競っていた程だった。
補足:石崇を処刑した孫秀は、呉から晋に亡命した孫秀とは別人。
緑珠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
7 | 4 | 63 | 35 | 84 | 楽奏 | C | C | C | C | C | C | ? | 300年(不自然死) |
【リョクジュ】
石崇の愛妾。
美貌でしられた歌妓で越王司馬倫の側近である孫秀は緑珠を求めたが、石崇が断った
事によって孫秀に恨まれた石崇は処刑に追い込まれる事になり、石崇を捕える兵が石崇の邸
に迫った際に楼閣から身を投じた。
石崇の愛妾。
美貌でしられた歌妓で越王司馬倫の側近である孫秀は緑珠を求めたが、石崇が断った
事によって孫秀に恨まれた石崇は処刑に追い込まれる事になり、石崇を捕える兵が石崇の邸
に迫った際に楼閣から身を投じた。
親愛武将:石崇
夏侯湛(孝若)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
30 | 18 | 78 | 73 | 82 | 詩想 | C | C | C | C | C | C | 243 | 291 |
【カコウタン(コウジャク)】
晋の政治家、文学者。曽祖父は魏の夏侯淵。
また司馬師の義理の甥で、夏侯湛の姉妹は司馬伷の息子に嫁いでいる。
晋皇族と深く関わりがあるため、晋代も権勢を誇り、晋の要職を歴任した。
文学者としては若い頃より頭角を現し、数々の詩や論文の著作がある。
後に「魏書」を著すが、陳寿の「三国志」を見て自身の「魏書」を破り捨てている。
容姿に優れ大変な美男子でもあったため潘岳と親しく、2人並ぶ姿は「連璧」と称された。
晋の政治家、文学者。曽祖父は魏の夏侯淵。
また司馬師の義理の甥で、夏侯湛の姉妹は司馬伷の息子に嫁いでいる。
晋皇族と深く関わりがあるため、晋代も権勢を誇り、晋の要職を歴任した。
文学者としては若い頃より頭角を現し、数々の詩や論文の著作がある。
後に「魏書」を著すが、陳寿の「三国志」を見て自身の「魏書」を破り捨てている。
容姿に優れ大変な美男子でもあったため潘岳と親しく、2人並ぶ姿は「連璧」と称された。
潘岳(安仁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
21 | 14 | 81 | 74 | 80 | 詩想 | C | C | C | C | C | C | 247 | 300 |
【ハンガク(アンジン)】
西晋の文学者。彼が馬車で街を行くと、女性が競って果物を投げ入れたと言われるほどの美男子であった。
才気を好み、強烈な上昇志向の持ち主で、外戚である賈氏に取り入り重用されたが、
あまりの阿りから人々から眉を潜まれ、「後塵を拝す」の故事の生みの親にもなった。
後の八王の乱によって後ろ盾の賈氏を誅滅され、その後自身もその性格が災いして一族もろとも処刑される。
作品は『悼亡詩』を始めとする繊細かつ美しい文体が特徴で、同じ時期に活躍した詩人である
陸機と並称比較して論じられることが多い。
西晋の文学者。彼が馬車で街を行くと、女性が競って果物を投げ入れたと言われるほどの美男子であった。
才気を好み、強烈な上昇志向の持ち主で、外戚である賈氏に取り入り重用されたが、
あまりの阿りから人々から眉を潜まれ、「後塵を拝す」の故事の生みの親にもなった。
後の八王の乱によって後ろ盾の賈氏を誅滅され、その後自身もその性格が災いして一族もろとも処刑される。
作品は『悼亡詩』を始めとする繊細かつ美しい文体が特徴で、同じ時期に活躍した詩人である
陸機と並称比較して論じられることが多い。
解系(少連)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
70 | 58 | 67 | 68 | 83 | B | B | B | B | B | B | ? | 300年(不自然死) |
【カイケイ(ショウレン)】
晋の軍人・政治家。
済南郡著県の出身で、清廉潔白な人物として大きな名声を博していた。
中央で散騎常侍や尚書を歴任した後に、雍州刺史・揚烈将軍・西戎校尉・仮節となる。
羌族の反乱の際に趙王司馬倫と共に討伐に従事したが、司馬倫及びその側近である
孫秀と作戦を巡って対立し、朝廷に奏上して司馬倫を召還させて孫秀の処刑を
求めたが、後に司馬倫が朝廷の実権を握った事により処刑された。
晋の軍人・政治家。
済南郡著県の出身で、清廉潔白な人物として大きな名声を博していた。
中央で散騎常侍や尚書を歴任した後に、雍州刺史・揚烈将軍・西戎校尉・仮節となる。
羌族の反乱の際に趙王司馬倫と共に討伐に従事したが、司馬倫及びその側近である
孫秀と作戦を巡って対立し、朝廷に奏上して司馬倫を召還させて孫秀の処刑を
求めたが、後に司馬倫が朝廷の実権を握った事により処刑された。
嫌悪:司馬倫、孫秀(俊忠)
解結(叔連)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
36 | 32 | 63 | 69 | 71 | C | C | B | C | C | B | ? | 300年(不自然死) |
【カイケツ(シュクレン)】
晋の軍人・政治家。解系の弟。
若くして解系と名声を等しくし、黄門侍郎を始め散騎常侍、予州刺史、魏郡太守、御史中丞を歴任した。
兄と司馬倫・孫秀が対立した際、閣僚会議にて孫秀を処刑すべしと述べた事で孫秀の恨みを買い、
後に朝廷の実権を握った司馬倫・孫秀により兄と共に処刑された。
晋の軍人・政治家。解系の弟。
若くして解系と名声を等しくし、黄門侍郎を始め散騎常侍、予州刺史、魏郡太守、御史中丞を歴任した。
兄と司馬倫・孫秀が対立した際、閣僚会議にて孫秀を処刑すべしと述べた事で孫秀の恨みを買い、
後に朝廷の実権を握った司馬倫・孫秀により兄と共に処刑された。
解結の娘は今まさに裴氏に嫁ぐという時で、裴氏は婚姻を認めて救おうとしたが、娘はそれを
拒否して共に連座して処刑された。これにより娘は一族の罪に連座しないという法改定がなされた。
拒否して共に連座して処刑された。これにより娘は一族の罪に連座しないという法改定がなされた。
嫌悪:司馬倫、孫秀(俊忠)
司馬允 (欽度)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
65 | 76 | 48 | 56 | 69 | A | B | A | B | C | B | 272年 | 300年(不自然死) | 司馬炎 |
【シバイン(キンド)】
西晋の皇族。司馬炎の十一男。
濮陽王を経て淮南王となり、都督揚江二州諸軍事・鎮東大將軍を経て
驃騎將軍、開府儀同三司となり、中護軍を兼任した。
越王司馬倫が帝位を簒奪する企みを抱いた際、警戒された司馬允は淮南の精鋭八百人
を引き連れて司馬倫を襲撃し、宮殿内にて司馬倫の兵と激戦を繰り広げた。
しかし、味方と偽って近づいてきた司馬倫側の部隊を受け入れた事で襲撃を受け死亡した。
西晋の皇族。司馬炎の十一男。
濮陽王を経て淮南王となり、都督揚江二州諸軍事・鎮東大將軍を経て
驃騎將軍、開府儀同三司となり、中護軍を兼任した。
越王司馬倫が帝位を簒奪する企みを抱いた際、警戒された司馬允は淮南の精鋭八百人
を引き連れて司馬倫を襲撃し、宮殿内にて司馬倫の兵と激戦を繰り広げた。
しかし、味方と偽って近づいてきた司馬倫側の部隊を受け入れた事で襲撃を受け死亡した。
嫌悪武将:司馬倫
司馬倫(子彝)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
26 | 34 | 5 | 12 | 11 | C | C | C | C | C | C | ? | 301年(不自然死) | 司馬懿 |
【シバリン(シイ)】
晋の八王の一人。司馬懿の九男。
司馬懿の晩年の愛人である柏夫人を母とする。
晋の成立の際に琅邪王となり、277年に越王となった。
恵帝の時代になると朝廷の実権を握った賈南風に接近して地位を高める事になるが、
後に賈南風を見限って300年に斉王司馬冏らと共に賈南風ら賈一族を粛清して朝廷の
実権を掌握し、翌年正月には恵帝を廃位して自らが皇帝となるが、司馬冏ら多くの
皇族らの反発を招いて殺害された。
晋の八王の一人。司馬懿の九男。
司馬懿の晩年の愛人である柏夫人を母とする。
晋の成立の際に琅邪王となり、277年に越王となった。
恵帝の時代になると朝廷の実権を握った賈南風に接近して地位を高める事になるが、
後に賈南風を見限って300年に斉王司馬冏らと共に賈南風ら賈一族を粛清して朝廷の
実権を掌握し、翌年正月には恵帝を廃位して自らが皇帝となるが、司馬冏ら多くの
皇族らの反発を招いて殺害された。
文字を読む事が出来ず、側近である孫秀の言いなりであったとされる。
親愛武将:孫秀
嫌悪武将:解系、司馬允
嫌悪武将:解系、司馬允
孟観(叔時)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 82 | 73 | 55 | 52 | 連戦 | A | A | S | A | B | C | ? | 301年(不自然死) |
【モウカン(シュクジ)】
晋の武将。渤海郡東光県の出身で剛毅沈着な性格で若くして読書を好み、天文にも通じていた。
291年の楊駿誅殺に功績を挙げて黄門侍郎となり、恵帝から特に信頼されていた
40人を部下に与えられて後に積弩将軍に昇進。
斉万年の乱では諸将が敗北する中で張華の進言で追討軍の大将に任じられて
十数回の戦いに勝利して斉万年を捕える功績を挙げた。
301年に司馬倫が帝位を簒奪した際に最後まで従ったが、司馬倫が誅殺された事
によって殺害された。
晋の武将。渤海郡東光県の出身で剛毅沈着な性格で若くして読書を好み、天文にも通じていた。
291年の楊駿誅殺に功績を挙げて黄門侍郎となり、恵帝から特に信頼されていた
40人を部下に与えられて後に積弩将軍に昇進。
斉万年の乱では諸将が敗北する中で張華の進言で追討軍の大将に任じられて
十数回の戦いに勝利して斉万年を捕える功績を挙げた。
301年に司馬倫が帝位を簒奪した際に最後まで従ったが、司馬倫が誅殺された事
によって殺害された。
孫秀(俊忠)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
18 | 13 | 78 | 37 | 14 | 言毒 | C | C | C | C | C | C | ? | 301年(不自然死) |
【ソンシュウ(シュンチュウ)】
越王司馬倫の側近。
琅邪の出身で、元々は身分が低く潘岳の家の家人であったが、潘岳らには迫害されていた。
後に文書の際を持って越王司馬倫に仕えて謀略を持って司馬倫の帝位簒奪に協力し、
その功績を以て中書令に任じられ、恨みのある潘岳や石崇、解系らの一族を悉皆処刑して権勢を奮ったが、
司馬倫と共に殺害された。
越王司馬倫の側近。
琅邪の出身で、元々は身分が低く潘岳の家の家人であったが、潘岳らには迫害されていた。
後に文書の際を持って越王司馬倫に仕えて謀略を持って司馬倫の帝位簒奪に協力し、
その功績を以て中書令に任じられ、恨みのある潘岳や石崇、解系らの一族を悉皆処刑して権勢を奮ったが、
司馬倫と共に殺害された。
親愛:司馬倫、緑珠
嫌悪:潘岳、石崇、解系、解結
嫌悪:潘岳、石崇、解系、解結
※ 呉から晋に寝返った孫秀とは別人
司馬冏(景治)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
61 | 57 | 52 | 46 | 42 | 捕縛 | B | B | B | C | C | C | ? | 302年(不自然死) |
【シバケイ(ケイチ)】
西晋の皇族。八王の一人。斉王司馬攸の子。
父の跡を継いで斉王となり、300年には司馬倫と共に賈一族らの一派を滅ぼして
張華や裴頠らをも殺害した。
司馬倫の帝位簒奪後は司馬倫と対立して他の王と共に挙兵して司馬倫を滅ぼし、
自らは大司馬として朝廷の実力者になったが、独断専行であった為に他の王からの
反発を招いて司馬乂・司馬穎・司馬顒らにより殺害された。
西晋の皇族。八王の一人。斉王司馬攸の子。
父の跡を継いで斉王となり、300年には司馬倫と共に賈一族らの一派を滅ぼして
張華や裴頠らをも殺害した。
司馬倫の帝位簒奪後は司馬倫と対立して他の王と共に挙兵して司馬倫を滅ぼし、
自らは大司馬として朝廷の実力者になったが、独断専行であった為に他の王からの
反発を招いて司馬乂・司馬穎・司馬顒らにより殺害された。
嫌悪武将:司馬乂・司馬穎・司馬顒
陸機(士衡)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親 |
42 | 21 | 82 | 71 | 76 | 詩想 | C | C | B | C | C | B | 261 | 303 | 陸抗 |
【リクキ(シコウ)】
西晋の政治家。文学者・書家として著名。陸遜の孫、陸抗の子。
呉に仕えていたが、滅亡後は弟の陸雲とともに故郷で隠遁し、「弁亡論」を著すなど文学に打ち込む。
晋からの10年に及ぶ仕官の説得に応じ洛陽へ上り、陸雲と並んで「二陸」を得たと称される。
その後は八王の乱に巻き込まれ、司馬倫、司馬冏、司馬穎らに仕える。
司馬穎には特に評価され、軍権を委ねられるも司馬乂に大敗。
陸機の声望を妬んだ司馬穎の側近に讒言され、一族もろとも処刑された。
文学面では「文賦」を著し、潘岳とともに「潘陸」と並び称された。
西晋の政治家。文学者・書家として著名。陸遜の孫、陸抗の子。
呉に仕えていたが、滅亡後は弟の陸雲とともに故郷で隠遁し、「弁亡論」を著すなど文学に打ち込む。
晋からの10年に及ぶ仕官の説得に応じ洛陽へ上り、陸雲と並んで「二陸」を得たと称される。
その後は八王の乱に巻き込まれ、司馬倫、司馬冏、司馬穎らに仕える。
司馬穎には特に評価され、軍権を委ねられるも司馬乂に大敗。
陸機の声望を妬んだ司馬穎の側近に讒言され、一族もろとも処刑された。
文学面では「文賦」を著し、潘岳とともに「潘陸」と並び称された。
※潘岳と差別化したい場合は、特技「名声」あたりか。
陸雲(士龍)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親 |
31 | 26 | 74 | 76 | 77 | 仁政 | C | C | C | C | C | B | 262 | 303 | 陸抗 |
【リクウン(シリュウ)】
晋の政治家、文学者。陸抗の子。陸機の弟。
6歳で文才を示し、清廉な性格だった。
兄の陸機と名声を等しくし、「二陸」と呼ばれる。
16歳の時に呉に仕え、滅亡後は陸機と隠棲してから洛陽に入る。
浚儀令に任じられると仁政を敷くが、部下の失政の責任をとって去官した。
後に呉王司馬晏に重用され、その元で要職を歴任した。
陸機に陸抗を良く言わなかった吾彦と親交を持たないよう助言する。
しかし陸機が吾彦を誹謗するようになると、逆に兄を諌めた。
陸機が八王の乱の最中に処刑されると、連座して弟の陸耽とともに殺害された。
晋の政治家、文学者。陸抗の子。陸機の弟。
6歳で文才を示し、清廉な性格だった。
兄の陸機と名声を等しくし、「二陸」と呼ばれる。
16歳の時に呉に仕え、滅亡後は陸機と隠棲してから洛陽に入る。
浚儀令に任じられると仁政を敷くが、部下の失政の責任をとって去官した。
後に呉王司馬晏に重用され、その元で要職を歴任した。
陸機に陸抗を良く言わなかった吾彦と親交を持たないよう助言する。
しかし陸機が吾彦を誹謗するようになると、逆に兄を諌めた。
陸機が八王の乱の最中に処刑されると、連座して弟の陸耽とともに殺害された。
張微(建興)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
70 | 73 | 69 | 63 | 67 | 踏破 | A | B | B | C | B | C | ? | 302年(不自然死) | 張翼 |
302年に益州にて李特が反乱を起こした際には鎮圧に従事して一時は山上を通って
李特の陣営に切り込むも広漢を包囲された末に陥落により殺害された。
李特の陣営に切り込むも広漢を包囲された末に陥落により殺害された。
子の張存は張微の菩提を弔う名目にて助命された。
司馬乂(士度)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
65 | 59 | 62 | 45 | 68 | 名声 | C | B | A | C | B | C | 277年 | 304年(不自然死) | 司馬炎 |
【シバガイ(シド)】
西晋の皇族。八王の一人。司馬炎の6男。
長沙王に封じられて同母兄である司馬瑋と共に大叔父の司馬亮を殺害したが、
兄の処刑によって常山王に格下げされた。
司馬倫が恵帝を廃した際は他の王と共に司馬倫打倒に活躍して長沙王に復帰し、
次いで司馬倫の代わりに朝廷の実力者となった司馬冏を殺害した。
その後は恵帝を奉じて洛陽に籠城して司馬穎・司馬顒らと争ったが、最後は
司馬越に捕えられて金墉城に幽閉された末に焼き殺された。
西晋の皇族。八王の一人。司馬炎の6男。
長沙王に封じられて同母兄である司馬瑋と共に大叔父の司馬亮を殺害したが、
兄の処刑によって常山王に格下げされた。
司馬倫が恵帝を廃した際は他の王と共に司馬倫打倒に活躍して長沙王に復帰し、
次いで司馬倫の代わりに朝廷の実力者となった司馬冏を殺害した。
その後は恵帝を奉じて洛陽に籠城して司馬穎・司馬顒らと争ったが、最後は
司馬越に捕えられて金墉城に幽閉された末に焼き殺された。
親愛武将:司馬瑋
嫌悪武将:司馬倫・司馬冏・司馬穎・司馬顒・司馬越
嫌悪武将:司馬倫・司馬冏・司馬穎・司馬顒・司馬越
嵇紹(延祖)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
48 | 14 | 70 | 75 | 82 | 護衛 | C | B | B | C | C | C | 253 | 304 |
【ケイショウ(エンソ)】
西晋の政治家。竹林の七賢・嵆康の子。
父が司馬昭に処刑された事から晋に仕えるべきか悩んだが、山濤の励ましで出仕した。
趙王・司馬倫が簒奪すると侍中に進み、恵帝復位後も引き続き侍中を務めた。
恵帝が成都王・司馬穎の討伐軍を挙げるとこれに従軍したが、蕩陰で敗北。
護衛が逃げる中、ただ独り傍を離れず恵帝を庇って戦死した。
このとき恵帝の衣服に嵇紹の血が付いたが、側近がこの衣服を洗おうとすると、
恵帝は「これは嵇侍中の血である。消してはならない」と止めさせたという。
西晋の政治家。竹林の七賢・嵆康の子。
父が司馬昭に処刑された事から晋に仕えるべきか悩んだが、山濤の励ましで出仕した。
趙王・司馬倫が簒奪すると侍中に進み、恵帝復位後も引き続き侍中を務めた。
恵帝が成都王・司馬穎の討伐軍を挙げるとこれに従軍したが、蕩陰で敗北。
護衛が逃げる中、ただ独り傍を離れず恵帝を庇って戦死した。
このとき恵帝の衣服に嵇紹の血が付いたが、側近がこの衣服を洗おうとすると、
恵帝は「これは嵇侍中の血である。消してはならない」と止めさせたという。
杜軫(超宗)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
24 | 10 | 74 | 81 | 78 | 仁政or親蛮 | C | C | C | C | C | C | ? | ? |
【トシン(チョウソウ)】
蜀、西晋の政治家。
譙周に師事して広く経書に通じ、郡の功曹史に就いた。
蜀が滅ぼされると西晋に仕えて建寧の県令に任じられた。
ここで善政を行い、異動の際は異民族が群れをなして見送りに現れ、
多くの金品を贈ってきたが杜軫は一切受け取らなかった。
次に池陽の県令となり、ここでも雍州11郡の中で最も良い統治を行った。
これらの功績から中央に召されて尚書郎に任じられると多くの政策立案が採用された。
その後、犍為太守として出向し、ここでも善政を敷いたが、病により51歳で亡くなった。
蜀、西晋の政治家。
譙周に師事して広く経書に通じ、郡の功曹史に就いた。
蜀が滅ぼされると西晋に仕えて建寧の県令に任じられた。
ここで善政を行い、異動の際は異民族が群れをなして見送りに現れ、
多くの金品を贈ってきたが杜軫は一切受け取らなかった。
次に池陽の県令となり、ここでも雍州11郡の中で最も良い統治を行った。
これらの功績から中央に召されて尚書郎に任じられると多くの政策立案が採用された。
その後、犍為太守として出向し、ここでも善政を敷いたが、病により51歳で亡くなった。
諸葛京(行宗)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親 |
28 | 20 | 60 | 68 | 72 | C | C | B | C | B | C | ? | ? | 諸葛瞻 |
【ショカツケイ(ギョウソウ)】
西晋の政治家。諸葛瞻の子。諸葛尚の弟。
蜀滅亡時はまだ若く、諸葛顕(諸葛喬の孫)らと共に河東に移住させられた。
その後、晋代に諸葛亮と諸葛瞻が讃えられると、それに伴って官吏として登用される。
郿の令として赴任すると、祖父や父には及ばないが心を尽くして職務に当たっていると評判を得る。
その後、江州刺史にまで昇った。
西晋の政治家。諸葛瞻の子。諸葛尚の弟。
蜀滅亡時はまだ若く、諸葛顕(諸葛喬の孫)らと共に河東に移住させられた。
その後、晋代に諸葛亮と諸葛瞻が讃えられると、それに伴って官吏として登用される。
郿の令として赴任すると、祖父や父には及ばないが心を尽くして職務に当たっていると評判を得る。
その後、江州刺史にまで昇った。
補足:生年は兄の諸葛尚の245年より少し後に設定。
張昌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
81 | 85 | 66 | 33 | 43 | 昂揚 | A | A | B | B | C | A | ? | 304年(不自然死) |
【チョウショウ】
西晋末の反乱指導者。
荊州義陽郡の蛮族の出身で、最初は平氏県の役人を務めた。
303年の益州での李流の反乱の際に討伐の為に討伐の為に流民からなる兵団を組織したが、
実際には江夏郡にて反乱を起こして李辰と改名した。
その後は丘沈を劉尼と名を改めさせて漢王朝の末裔を自称させ、自らは相国を自称、
周辺各地に侵攻したが陶侃率いる晋軍に敗れ、最後は捕えられて処刑された。
西晋末の反乱指導者。
荊州義陽郡の蛮族の出身で、最初は平氏県の役人を務めた。
303年の益州での李流の反乱の際に討伐の為に討伐の為に流民からなる兵団を組織したが、
実際には江夏郡にて反乱を起こして李辰と改名した。
その後は丘沈を劉尼と名を改めさせて漢王朝の末裔を自称させ、自らは相国を自称、
周辺各地に侵攻したが陶侃率いる晋軍に敗れ、最後は捕えられて処刑された。
丘沈
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
28 | 25 | 37 | 51 | 58 | C | C | B | C | C | B | ? | 304年? |
【キュウチン】
西晋末の反乱指導者。
元は荊州山都の県吏であったが、張昌の反乱に参加し張昌から天子の気があると
されて劉尼と改名して漢王朝の末裔として祭り上げられた。
その後は張昌と共に捕えられたが消息は不明。
西晋末の反乱指導者。
元は荊州山都の県吏であったが、張昌の反乱に参加し張昌から天子の気があると
されて劉尼と改名して漢王朝の末裔として祭り上げられた。
その後は張昌と共に捕えられたが消息は不明。
陳敏(令通)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
77 | 79 | 67 | 38 | 35 | 操舵 | A | A | B | C | B | A | ? | 307年(不自然死) |
【チンビン(レイツウ)】
西晋末の反乱指導者。
廬江の出身で301年に三王が司馬倫を討伐した際、以後も駐留していた三王の軍の
為に洛陽の食料庫が尽きようとしていたが、尚書倉部の令史であった陳敏は揚州
から水運を使って輸送すべきであると進言し、合肥度支となった。
303年に起こった張昌の乱では少数の兵で張昌の部将である石冰の軍を幾度となく
破り、広陵の相となった。
その後、独立する野心を抱いて江東にて反乱を起こして江東各地を占領したが、
最後は討伐軍に敗れて殺害された。
西晋末の反乱指導者。
廬江の出身で301年に三王が司馬倫を討伐した際、以後も駐留していた三王の軍の
為に洛陽の食料庫が尽きようとしていたが、尚書倉部の令史であった陳敏は揚州
から水運を使って輸送すべきであると進言し、合肥度支となった。
303年に起こった張昌の乱では少数の兵で張昌の部将である石冰の軍を幾度となく
破り、広陵の相となった。
その後、独立する野心を抱いて江東にて反乱を起こして江東各地を占領したが、
最後は討伐軍に敗れて殺害された。
司馬穎(章度)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
58 | 54 | 35 | 44 | 46 | C | B | B | B | B | C | 279年 | 306年(不自然死) |
【シバエイ(ショウド)】
西晋の皇族。八王の一人。司馬炎の16男。
成都王に封ぜられて八王の乱においては大叔父の司馬倫や異母兄の司馬乂らと
争う事になり、一時は皇太弟となるが304年に王浚・司馬騰らに敗れて皇太弟
の地位を失い、その後に復権を図るも東海王司馬越に敗れて後に殺害された。
西晋の皇族。八王の一人。司馬炎の16男。
成都王に封ぜられて八王の乱においては大叔父の司馬倫や異母兄の司馬乂らと
争う事になり、一時は皇太弟となるが304年に王浚・司馬騰らに敗れて皇太弟
の地位を失い、その後に復権を図るも東海王司馬越に敗れて後に殺害された。
匈奴の劉淵は配下であったが、幽州都督王浚に対抗させる為に帰郷させる事に
なり、これが後の匈奴の中原進出のきっかけとなった。
なり、これが後の匈奴の中原進出のきっかけとなった。
親愛武将:司馬顒
嫌悪武将:司馬倫・司馬冏・司馬乂・司馬越・賈謐
嫌悪武将:司馬倫・司馬冏・司馬乂・司馬越・賈謐
盧志(子道)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 46 | 89 | 73 | 71 | 百出 | C | B | A | B | A | C | ? | 312年(不自然死) |
【ロシ(シドウ)】
西晋の政治家・参謀。盧植の曽孫にあたる。
成都王司馬穎の参謀となり、司馬冏が司馬倫に対して挙兵した際に司馬冏と共に
司馬倫を打倒すべきと進言、討伐に功積を挙げた。
以後の八王の乱においては司馬穎に付き従い、幾度となく進言した。
司馬穎の死後は司馬越に属して軍諮祭酒を経て衛尉、尚書となるが永嘉の乱にて
家族と共に縁戚の劉琨を頼る途中で劉粲により殺害された。
西晋の政治家・参謀。盧植の曽孫にあたる。
成都王司馬穎の参謀となり、司馬冏が司馬倫に対して挙兵した際に司馬冏と共に
司馬倫を打倒すべきと進言、討伐に功積を挙げた。
以後の八王の乱においては司馬穎に付き従い、幾度となく進言した。
司馬穎の死後は司馬越に属して軍諮祭酒を経て衛尉、尚書となるが永嘉の乱にて
家族と共に縁戚の劉琨を頼る途中で劉粲により殺害された。
親愛武将:司馬穎、劉琨
司馬顒(文載)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
63 | 55 | 48 | 56 | 37 | C | C | B | B | B | C | ? | 306年(不自然死) |
【シバギョウ(ブンサイ)】
西晋の皇族。八王の一人。司馬孚の孫。
276年に父の司馬瑰の跡を継いで太原王となるが、翌年に河間王に封ぜられた。
八王の乱では司馬倫の殺害に他の王と共に加担した後は、次の実力者である斉
王司馬冏を他の王と共に滅ぼし、次は司馬乂を滅ぼした。
しかし、最後に対立した司馬越に敗れて殺害された。
西晋の皇族。八王の一人。司馬孚の孫。
276年に父の司馬瑰の跡を継いで太原王となるが、翌年に河間王に封ぜられた。
八王の乱では司馬倫の殺害に他の王と共に加担した後は、次の実力者である斉
王司馬冏を他の王と共に滅ぼし、次は司馬乂を滅ぼした。
しかし、最後に対立した司馬越に敗れて殺害された。
親愛武将:司馬穎
嫌悪武将:司馬倫・司馬冏・司馬乂・司馬越
嫌悪武将:司馬倫・司馬冏・司馬乂・司馬越
張方
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 80 | 45 | 17 | 19 | 強奪 | A | A | B | A | C | C | ? | 306年(不自然死) |
【チョウホウ】
西晋の武将。
河間の出身で卑賤の身であったが、勇猛さを河間王司馬顒に認められて配下となった。
斉王司馬冏の討伐に活躍し、304年には金墉城に幽閉された司馬乂を城ごと炙り殺し、
恵帝を洛陽から長安に強引に移動させた末に洛陽にて略奪を欲しいままにした。
その後、司馬顒が恵帝を洛陽に戻そうとした事に反対した事で殺害された。
西晋の武将。
河間の出身で卑賤の身であったが、勇猛さを河間王司馬顒に認められて配下となった。
斉王司馬冏の討伐に活躍し、304年には金墉城に幽閉された司馬乂を城ごと炙り殺し、
恵帝を洛陽から長安に強引に移動させた末に洛陽にて略奪を欲しいままにした。
その後、司馬顒が恵帝を洛陽に戻そうとした事に反対した事で殺害された。
李穀(允剛)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 64 | 75 | 62 | 65 | 沈着 | C | B | A | C | B | B | ? | 306年(自然死) |
【リキ(インゴウ)】
西晋の武将。
広漢郡三台の出身で、蜀に仕えた李朝の孫にあたる。
西晋の武将。
広漢郡三台の出身で、蜀に仕えた李朝の孫にあたる。
王濬によって見いだされて主簿となり、274年に張弘が益州刺史皇甫晏を殺害した際は王濬に
張弘の討伐を進言し、その功積によって州の主簿・別駕となった。
張弘の討伐を進言し、その功積によって州の主簿・別駕となった。
呉征伐では王濬の参軍として従軍、戦後に関内侯・雲南太守となり、王濬の死後は南夷校尉となった。
306年に犍為で反乱が起きた際は寧州刺史として討伐にあたったが、反乱軍に拠点を包囲され、援軍も来ない中で
程なくして城中にて死去した。
程なくして城中にて死去した。
司馬虓(武会)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
57 | 53 | 76 | 67 | 64 | C | C | B | B | B | C | 270年 | 307年(自然死) |
【シバケイ(ケイチ)】
西晋の皇族。范陽王・司馬綏の子で司馬越の従兄弟。
若い頃から文才を評価されて散騎常侍、尚書を経て都督豫州諸軍事となり、許昌を守った。
八王の乱においては当初は司馬顒・司馬穎に味方したが、304年に司馬穎が幽州刺史・王浚
に敗れた後は司馬穎の皇太弟廃位を上表した。
以後は司馬顒・司馬穎と敵対して東海王司馬越と手を結び、冀州刺史となって司馬顒・司馬穎
の派閥に属していた劉喬を撃破した。
その後は司徒となるが307年に急死した。
西晋の皇族。范陽王・司馬綏の子で司馬越の従兄弟。
若い頃から文才を評価されて散騎常侍、尚書を経て都督豫州諸軍事となり、許昌を守った。
八王の乱においては当初は司馬顒・司馬穎に味方したが、304年に司馬穎が幽州刺史・王浚
に敗れた後は司馬穎の皇太弟廃位を上表した。
以後は司馬顒・司馬穎と敵対して東海王司馬越と手を結び、冀州刺史となって司馬顒・司馬穎
の派閥に属していた劉喬を撃破した。
その後は司徒となるが307年に急死した。
羅尚(敬之)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
74 | 71 | 76 | 44 | 23 | 掎角 | B | A | B | C | A | B | ? | 310年(自然死) |
【ラショウ(ケイシ)】
西晋の武将。羅憲の甥。
父が幼少の頃に死去した為、羅憲の元で育てられた。
西晋に仕えて荊州刺史・王戎配下の参軍となり、呉征伐にも参加した。
後に梁州刺史となり、304年に趙廞が反乱を起こした際には鎮圧を願い出て
仮節・平西将軍・益州刺史・西戎校尉として益州に向かい、趙廞の敗死後は
益州をめぐって李特と争った末に討ち果たした。
その後は李特の弟・李流と争い、李流の死後は李特の子・李雄と争うが310年に死去した。
文章に巧みであったが、貪欲な性格で決断力に乏しいとされ、蜀の人々には悪しき者を愛し、
正しき者を嫌うと嫌われていた。
西晋の武将。羅憲の甥。
父が幼少の頃に死去した為、羅憲の元で育てられた。
西晋に仕えて荊州刺史・王戎配下の参軍となり、呉征伐にも参加した。
後に梁州刺史となり、304年に趙廞が反乱を起こした際には鎮圧を願い出て
仮節・平西将軍・益州刺史・西戎校尉として益州に向かい、趙廞の敗死後は
益州をめぐって李特と争った末に討ち果たした。
その後は李特の弟・李流と争い、李流の死後は李特の子・李雄と争うが310年に死去した。
文章に巧みであったが、貪欲な性格で決断力に乏しいとされ、蜀の人々には悪しき者を愛し、
正しき者を嫌うと嫌われていた。
劉喬(仲彦)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
75 | 63 | 72 | 70 | 66 | B | B | A | B | A | A | 249年 | 311年 |
【リュウキョウ(チュウゲン)】
西晋の武将。
荊州刺史・王戎配下の参軍となり、呉征伐にも参加した。
その後は楊氏や賈氏らの誅滅に功績を挙げ、八王の乱の時期においては一時期
実権を握った司馬冏に度々進言し、
張昌の乱の討伐に功績を挙げて左将軍となるが、自身を左遷しようとする
東海王司馬越と対立し司馬顒側に所属した。
司馬越に敗れた後は赦されて都督豫州諸軍事・鎮東将軍・豫州刺史として
生涯を終えた。
西晋の武将。
荊州刺史・王戎配下の参軍となり、呉征伐にも参加した。
その後は楊氏や賈氏らの誅滅に功績を挙げ、八王の乱の時期においては一時期
実権を握った司馬冏に度々進言し、
張昌の乱の討伐に功績を挙げて左将軍となるが、自身を左遷しようとする
東海王司馬越と対立し司馬顒側に所属した。
司馬越に敗れた後は赦されて都督豫州諸軍事・鎮東将軍・豫州刺史として
生涯を終えた。
親愛武将:劉弘
嫌悪武将:司馬越
嫌悪武将:司馬越
司馬越(元超)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
74 | 63 | 72 | 76 | 70 | B | B | B | C | C | C | ? | 311 |
【シバエツ(ゲンチョウ)】
西晋の武将、政治家。東海王。八王の乱に関わった八王の一人。
楊駿誅殺に関わった功績で東海王となる。
司馬乂、司馬穎、司馬顒の三王が権力を争い仲間割れを起こすと挙兵し、洛陽を攻めて司馬乂を捕縛する。
しかし恵帝を擁する司馬穎と対立し敗北、東海で再起を図った。
その後、恵帝を奉じて洛陽に入城し、司馬穎と司馬顒を誅殺して八王の乱を終結させた。
恵帝死後に懐帝を擁立するが、懐帝と対立する。
討伐の密詔を受けた苟晞に相対する中で病に倒れ、憂死した。
死後、司馬越の葬列を石勒が襲撃し、一族郎党は全て殺害された。
西晋の武将、政治家。東海王。八王の乱に関わった八王の一人。
楊駿誅殺に関わった功績で東海王となる。
司馬乂、司馬穎、司馬顒の三王が権力を争い仲間割れを起こすと挙兵し、洛陽を攻めて司馬乂を捕縛する。
しかし恵帝を擁する司馬穎と対立し敗北、東海で再起を図った。
その後、恵帝を奉じて洛陽に入城し、司馬穎と司馬顒を誅殺して八王の乱を終結させた。
恵帝死後に懐帝を擁立するが、懐帝と対立する。
討伐の密詔を受けた苟晞に相対する中で病に倒れ、憂死した。
死後、司馬越の葬列を石勒が襲撃し、一族郎党は全て殺害された。
司馬騰(元邁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
71 | 67 | 52 | 60 | 33 | 捕縛 | C | B | A | A | B | C | ? | 307年(不自然死) |
【シバトウ(ゲングウ)】
西晋の皇族。司馬懿の弟の子である高密王司馬泰の子で、東海王司馬越の弟。
南陽郡・魏郡太守を務めた後に并州刺史となり、奴隷狩りを行ってその際に
当時流浪していた石勒も奴隷として売り飛ばされた。
八王の乱では兄の司馬越に協力し、司馬越が勝利したの後は車騎将軍・都督鄴城守諸軍事
として劉淵らと争ったが、挙兵した司馬穎の旧臣らによって敗れ殺害された。
吝嗇な性格で部下からの人望は薄かったとされる。
西晋の皇族。司馬懿の弟の子である高密王司馬泰の子で、東海王司馬越の弟。
南陽郡・魏郡太守を務めた後に并州刺史となり、奴隷狩りを行ってその際に
当時流浪していた石勒も奴隷として売り飛ばされた。
八王の乱では兄の司馬越に協力し、司馬越が勝利したの後は車騎将軍・都督鄴城守諸軍事
として劉淵らと争ったが、挙兵した司馬穎の旧臣らによって敗れ殺害された。
吝嗇な性格で部下からの人望は薄かったとされる。
司馬模(文載)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
63 | 55 | 48 | 56 | 37 | C | C | B | B | B | C | ? | 311年(不自然死) |
【シバモ(ブンサイ)】
西晋の皇族。東海王司馬越・新蔡王司馬騰の弟。
若い頃は琅琊王司馬睿や范陽王司馬虓と共に文才を評価された。
八王の乱では兄の司馬越に従って鄴を守り、その後は
征西大将軍・都督秦雍梁益諸軍事として関中方面を守ったが、
永嘉の乱にて劉聡に転じた部下の趙染に敗れて殺害された。
西晋の皇族。東海王司馬越・新蔡王司馬騰の弟。
若い頃は琅琊王司馬睿や范陽王司馬虓と共に文才を評価された。
八王の乱では兄の司馬越に従って鄴を守り、その後は
征西大将軍・都督秦雍梁益諸軍事として関中方面を守ったが、
永嘉の乱にて劉聡に転じた部下の趙染に敗れて殺害された。
顧栄(彦文)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
70 | 35 | 77 | 73 | 84 | 名声 | C | B | A | C | C | A | ? | 312 |
【コエイ(ゲンブン)】
西晋の政治家。顧雍の孫。
呉が滅亡すると陸機、陸雲と共に洛陽に移住し、併せて「三俊」と呼ばれた。
八王の乱で中央政界が乱れると禍が及ぶのを避けて江南へ帰郷した。
その頃江南では陳敏が反乱を起こしており、一度はこれに帰属するが、
陳敏の先が短い事を察知すると他の江南豪族を結集してこれを鎮圧した。
司馬睿が建康に逃れてくると、輿望の高い顧栄は召し出され、枢機に参与。
江南の人材を推挙するなど亡命政権である司馬睿が地盤を固めるのに尽力した。
西晋の政治家。顧雍の孫。
呉が滅亡すると陸機、陸雲と共に洛陽に移住し、併せて「三俊」と呼ばれた。
八王の乱で中央政界が乱れると禍が及ぶのを避けて江南へ帰郷した。
その頃江南では陳敏が反乱を起こしており、一度はこれに帰属するが、
陳敏の先が短い事を察知すると他の江南豪族を結集してこれを鎮圧した。
司馬睿が建康に逃れてくると、輿望の高い顧栄は召し出され、枢機に参与。
江南の人材を推挙するなど亡命政権である司馬睿が地盤を固めるのに尽力した。
苟晞(道将)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 76 | 82 | 69 | 19 | 昂揚 | S | A | A | A | B | C | ? | 311 |
【コウキ(ドウショウ)】
西晋の武将、政治家。
兵法と政事に通じ、八王の乱では司馬越、司馬冏、司馬乂、司馬虓らの元で活躍する。
汲桑、呂朗、劉根、公師藩、石勒らに勝利して威名を轟かせ、韓信や白起に比せられた。
青州刺史に任じられると、流れるように決裁を行い、私情を挟まなかった。
しかし、法に苛烈で罪人の処刑が非常に多く、民からは「屠伯」と恐怖されていた。
王弥の乱では緒戦は連勝するが、大風に遭い大敗を喫する。
その後、懐帝より司馬越討伐の密詔を受けた。
司馬越の死後に懐帝が洛陽を失陥すると、駐屯していた蒙城で石勒に敗れ殺された。
西晋の武将、政治家。
兵法と政事に通じ、八王の乱では司馬越、司馬冏、司馬乂、司馬虓らの元で活躍する。
汲桑、呂朗、劉根、公師藩、石勒らに勝利して威名を轟かせ、韓信や白起に比せられた。
青州刺史に任じられると、流れるように決裁を行い、私情を挟まなかった。
しかし、法に苛烈で罪人の処刑が非常に多く、民からは「屠伯」と恐怖されていた。
王弥の乱では緒戦は連勝するが、大風に遭い大敗を喫する。
その後、懐帝より司馬越討伐の密詔を受けた。
司馬越の死後に懐帝が洛陽を失陥すると、駐屯していた蒙城で石勒に敗れ殺された。
司馬楙(孔偉)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
29 | 33 | 56 | 15 | 16 | 徴収 | C | B | B | C | C | C | ? | 311年(不自然死) | 司馬望 |
【シバボウ(コウイ)】
西晋の皇族。司馬望の四男。
魏の時代には楽陵亭侯に封ぜられ、司馬昭の参相国軍事となる。
晋の成立後は東平王となり、外戚の楊駿が誅殺された際に楊駿に擦り寄って
いた事で処刑されかかるが、楊駿誅殺に功績があった東安公司馬繇と親しかった
事で難を逃れた。
その後は封土の東平国で蓄財に励み、八王の乱の時代には重職を歴任して最初は
司馬越と共に司馬穎と戦ったが後に司馬越や苟晞と対立、袞州刺史としては
過酷な徴発を行って郡県を疲弊させた。
司馬越の死後は中央に復帰するが、洛陽陥落にて殺害された。
西晋の皇族。司馬望の四男。
魏の時代には楽陵亭侯に封ぜられ、司馬昭の参相国軍事となる。
晋の成立後は東平王となり、外戚の楊駿が誅殺された際に楊駿に擦り寄って
いた事で処刑されかかるが、楊駿誅殺に功績があった東安公司馬繇と親しかった
事で難を逃れた。
その後は封土の東平国で蓄財に励み、八王の乱の時代には重職を歴任して最初は
司馬越と共に司馬穎と戦ったが後に司馬越や苟晞と対立、袞州刺史としては
過酷な徴発を行って郡県を疲弊させた。
司馬越の死後は中央に復帰するが、洛陽陥落にて殺害された。
親愛武将:楊駿、司馬繇
嫌悪武将:司馬越、苟晞
嫌悪武将:司馬越、苟晞
司馬澹(思弘)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
27 | 25 | 49 | 35 | 12 | C | C | C | C | C | C | ? | 311年(不自然死) | 司馬伷 |
【シバセン(シコウ)】
西晋の皇族。司馬伷の次男。
前将軍・中護軍となるが、酒乱で嫉妬深い性格で両親に愛されていた弟の司馬繇を
憎んで伯父の汝南王司馬亮に讒言し、失脚させた。
趙王司馬倫が実権を握った時代には親交のあった郭俶・郭侃兄弟を張華の冤罪を訴えた
という理由にて殺害した。
斉王司馬冏が実権を握った際に遼東に流されたが、司馬繇の死によって朝廷に復帰して
光禄大夫・尚書・太子太傅となり武陵王に改封されるも永嘉の乱にて殺害された。
西晋の皇族。司馬伷の次男。
前将軍・中護軍となるが、酒乱で嫉妬深い性格で両親に愛されていた弟の司馬繇を
憎んで伯父の汝南王司馬亮に讒言し、失脚させた。
趙王司馬倫が実権を握った時代には親交のあった郭俶・郭侃兄弟を張華の冤罪を訴えた
という理由にて殺害した。
斉王司馬冏が実権を握った際に遼東に流されたが、司馬繇の死によって朝廷に復帰して
光禄大夫・尚書・太子太傅となり武陵王に改封されるも永嘉の乱にて殺害された。
嫌悪武将:司馬繇
山簡(季倫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
57 | 59 | 55 | 61 | 78 | C | C | B | B | B | B | 253年 | 312年(自然死) |
【サンカン(キリン)】
西晋の武将。竹林の七賢の一人・山濤の子。
309年に鎮南将軍として荊州に駐屯した。
永嘉の騒乱の中で現地の豪族である習氏の庭園に入り浸って酒宴に明け暮れ、
泥酔して帽子を逆に被り、馬に後ろ向きに乗るという奇行で帰ってきた事から
「山簡倒載」という故事が残った。
一方で乱の影響で楽士が逃れた際、彼らに演奏させるべきという意見に対し、乱で何も
できない自身を罪人である嘆いて断ったり、流民を保護したりもした。
西晋の武将。竹林の七賢の一人・山濤の子。
309年に鎮南将軍として荊州に駐屯した。
永嘉の騒乱の中で現地の豪族である習氏の庭園に入り浸って酒宴に明け暮れ、
泥酔して帽子を逆に被り、馬に後ろ向きに乗るという奇行で帰ってきた事から
「山簡倒載」という故事が残った。
一方で乱の影響で楽士が逃れた際、彼らに演奏させるべきという意見に対し、乱で何も
できない自身を罪人である嘆いて断ったり、流民を保護したりもした。
張光(景武)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 75 | 68 | 61 | 74 | 不屈 | A | C | A | B | C | A | 259 | 313 |
【チョウコウ(ケイブ)】
晋の武将。
関中に赴任していた際に氐・羌族が反乱を起こし、百日余りに渡って包囲される。
百名の兵を鼓舞し度々城から出撃して破るが、衆寡敵せず敗れ援軍に助けられて長安へ帰還した。
陳敏の乱では劉弘の支援を受けてこれを平定した。
張光は司馬顒派、劉弘は司馬越派で対立関係にあったが、劉弘は張光の功績を上奏している。
梁州刺史に任じられ、漢中の地を回復して民を慰撫した。
しかし仇池に漢中を攻められ、城を半年に渡って固守するが病に倒れる。
撤退するよう進言されるが「撤退せず」と叫んで没した。
晋の武将。
関中に赴任していた際に氐・羌族が反乱を起こし、百日余りに渡って包囲される。
百名の兵を鼓舞し度々城から出撃して破るが、衆寡敵せず敗れ援軍に助けられて長安へ帰還した。
陳敏の乱では劉弘の支援を受けてこれを平定した。
張光は司馬顒派、劉弘は司馬越派で対立関係にあったが、劉弘は張光の功績を上奏している。
梁州刺史に任じられ、漢中の地を回復して民を慰撫した。
しかし仇池に漢中を攻められ、城を半年に渡って固守するが病に倒れる。
撤退するよう進言されるが「撤退せず」と叫んで没した。
司馬熾(豊度)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 |
17 | 12 | 35 | 38 | 47 | C | C | C | C | C | C | 284年 | 313年(不自然死) | 司馬炎 |
【シバシ(ホウド)】
西晋第3代皇帝・懐帝。司馬炎の二十五男。
最初は豫章郡王に封ぜられ、304年に皇太子となっていた甥の司馬覃が廃された事により
皇太弟となり、兄の恵帝が306年に死去した事で東海王司馬越により皇帝に擁立されて
即位した。
しかし、八王の乱によって西晋の力は大きく衰退して五胡の攻撃にさらされることになり、
輔佐する司馬越とも対立した。
そして311年に劉聡率いる漢(前趙)軍によって洛陽が陥落した事により懐帝は捕えられて
漢の本拠である平陽に連行され、会稽公に封ぜられるも奴隷の扱いを受けた末に殺害された。
西晋第3代皇帝・懐帝。司馬炎の二十五男。
最初は豫章郡王に封ぜられ、304年に皇太子となっていた甥の司馬覃が廃された事により
皇太弟となり、兄の恵帝が306年に死去した事で東海王司馬越により皇帝に擁立されて
即位した。
しかし、八王の乱によって西晋の力は大きく衰退して五胡の攻撃にさらされることになり、
輔佐する司馬越とも対立した。
そして311年に劉聡率いる漢(前趙)軍によって洛陽が陥落した事により懐帝は捕えられて
漢の本拠である平陽に連行され、会稽公に封ぜられるも奴隷の扱いを受けた末に殺害された。
王浚 (彭祖)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
83 | 74 | 71 | 55 | 54 | 威圧 | B | A | B | S | A | C | 252年 | 314年(不自然死) |
【オウシュン(ホウソ)】
西晋の武将。魏に仕えた王沈の子。
賈氏の没落後に寧朔将軍・都督幽州諸軍事となって幽州を統治する事になり、
鮮卑族の段務勿塵に娘を嫁がせて幽州での権力基盤を固めた。
八王の乱では司馬越の派閥に属して成都王司馬穎らと争い、懐帝の即位後は
司空となり冀州を巡って石勒と争ったが、次第に驕慢な面が出て皇帝即位に
反対した部下を殺害する等人心を失い、さらに鮮卑ら味方の異民族の支持を失って
最後は石勒に敗れて殺害された。
西晋の武将。魏に仕えた王沈の子。
賈氏の没落後に寧朔将軍・都督幽州諸軍事となって幽州を統治する事になり、
鮮卑族の段務勿塵に娘を嫁がせて幽州での権力基盤を固めた。
八王の乱では司馬越の派閥に属して成都王司馬穎らと争い、懐帝の即位後は
司空となり冀州を巡って石勒と争ったが、次第に驕慢な面が出て皇帝即位に
反対した部下を殺害する等人心を失い、さらに鮮卑ら味方の異民族の支持を失って
最後は石勒に敗れて殺害された。
麹允
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
64 | 75 | 45 | 33 | 58 | 繁殖 | B | B | B | A | C | C | ? | 316年(不自然死) |
【キクイン】
西晋の武将。
涼州金城郡の豪族出身で、最初は安夷護軍・始平太守であった。
311年に漢軍によって懐帝が捕えられて長安にて愍帝が擁立された際には
その擁立に尽力した閻鼎を失脚させて朝廷の実力者となり、雍州刺史となった。
313年に劉曜率いる漢軍を一度は撃破したが、再び劉曜が攻めてきた際には
敵の偽報に騙されて敗北し、北地郡を救援できなかった。
長安が陥落した際に捕えられ、愍帝が奴隷同然の扱いをされていると知って
泣き叫び、怒った劉曜により牢獄に入れられたがそこで自殺した。
西晋の武将。
涼州金城郡の豪族出身で、最初は安夷護軍・始平太守であった。
311年に漢軍によって懐帝が捕えられて長安にて愍帝が擁立された際には
その擁立に尽力した閻鼎を失脚させて朝廷の実力者となり、雍州刺史となった。
313年に劉曜率いる漢軍を一度は撃破したが、再び劉曜が攻めてきた際には
敵の偽報に騙されて敗北し、北地郡を救援できなかった。
長安が陥落した際に捕えられ、愍帝が奴隷同然の扱いをされていると知って
泣き叫び、怒った劉曜により牢獄に入れられたがそこで自殺した。
焦嵩
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
60 | 67 | 37 | 35 | 41 | B | B | B | A | C | C | ? | 316年?(不自然死) |
【ショウスウ】
晋の武将。
安定の出身で安定太守となり、愍帝の長安政権においては他の関中の太守らと共に重職や
節を与えられたが、皆驕慢であった為に人心は離れていった。
長安が漢の劉曜に攻められ、麹允から援軍を求められた際、普段から麹允を見下しつつも
援軍に応じたが劉曜に敗れた。
晋の武将。
安定の出身で安定太守となり、愍帝の長安政権においては他の関中の太守らと共に重職や
節を与えられたが、皆驕慢であった為に人心は離れていった。
長安が漢の劉曜に攻められ、麹允から援軍を求められた際、普段から麹允を見下しつつも
援軍に応じたが劉曜に敗れた。
嫌悪武将:麹允
劉琨(越石)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 71 | 79 | 76 | 87 | 不屈 | S | B | S | B | C | C | 270 | 317 |
【リュウコン(エツセキ)】
西晋、東晋の武将。前漢の中山靖王劉勝の末裔といわれる。
八王の乱で戦功を重ね、司馬越により并州刺史に任じられた。
前趙や代国に囲まれ晋陽は荒廃していたが、
民を慰撫して都市の防御を固め、晋陽を回復させた。
前趙の石勒らと攻防を繰り広げ、永嘉の乱で西晋が衰退する中で并州を堅守し続ける。
しかし石勒の埋伏の計に敗れ、段部に亡命した。
その後、東晋の元帝より太尉に任じられるが、
快く思わない王敦の謀略により、段部の内戦に巻き込まれる形で殺害された。
元帝はその死を深く悲しんだという。
容姿に秀で、文学や音律にも通じていた。
西晋、東晋の武将。前漢の中山靖王劉勝の末裔といわれる。
八王の乱で戦功を重ね、司馬越により并州刺史に任じられた。
前趙や代国に囲まれ晋陽は荒廃していたが、
民を慰撫して都市の防御を固め、晋陽を回復させた。
前趙の石勒らと攻防を繰り広げ、永嘉の乱で西晋が衰退する中で并州を堅守し続ける。
しかし石勒の埋伏の計に敗れ、段部に亡命した。
その後、東晋の元帝より太尉に任じられるが、
快く思わない王敦の謀略により、段部の内戦に巻き込まれる形で殺害された。
元帝はその死を深く悲しんだという。
容姿に秀で、文学や音律にも通じていた。
※PC版では認識されない「琨」の字の代わりに「昆」を当てる。
祖逖と幼馴染で、「聞鶏起舞」の故事が紹介される際には「劉昆」と表記されることがあるため。
祖逖と幼馴染で、「聞鶏起舞」の故事が紹介される際には「劉昆」と表記されることがあるため。
王衍(夷甫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
43 | 10 | 92 | 56 | 90 | 論客 | B | C | C | C | C | C | 256 | 311 |
【オウエン(イホ)】
西晋の政治家。
幼少の頃からその秀才ぶりと美貌から神童と持て囃され、
王戎からも「現世に例えられる人物は存在しない」と評された。
しかし、長じるにつれ政治への関心を無くし、
老荘思想に傾倒して清談や玄学ばかりに明け暮れるようになる。
司馬越の幕下で位人臣を極め、越の死後には洛陽の防備を担ったが石勒に大敗し洛陽も陥落した。
西晋の政治家。
幼少の頃からその秀才ぶりと美貌から神童と持て囃され、
王戎からも「現世に例えられる人物は存在しない」と評された。
しかし、長じるにつれ政治への関心を無くし、
老荘思想に傾倒して清談や玄学ばかりに明け暮れるようになる。
司馬越の幕下で位人臣を極め、越の死後には洛陽の防備を担ったが石勒に大敗し洛陽も陥落した。
晋朝における名声や期待の高さとは裏腹に石勒に捕縛された後も
「命令と成り行きに従う儘に元帥の地位まで登って了った。今日の状況を挽回する計略など何も無い」
と語るなど最後まで国難に立ち向かうという意識は希薄であった。
「命令と成り行きに従う儘に元帥の地位まで登って了った。今日の状況を挽回する計略など何も無い」
と語るなど最後まで国難に立ち向かうという意識は希薄であった。
王如
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
82 | 83 | 33 | 24 | 46 | 急襲 | A | S | S | B | C | C | ? | 315年(不自然死) |
【オウジョ】
西晋末の反乱指導者。
京兆尹新豐県の出身で、州の武吏であったが戦乱により流浪して宛に流れ着き、
310年に流民を故郷に帰還させる詔が出た際に反発して流民の若者を集めて反乱を
起こし、西晋の討伐軍を破った。
後に石勒が勢力を拡大してきた際に降伏して石勒と義兄弟となるが、作物の不作によって
配下の多くが東晋に降伏した為にやむなく自らも帰順した。
王敦の配下を経てその從弟である王棱の配下となるが、王敦に唆されて王棱を殺害し、
自らも処刑された。
西晋末の反乱指導者。
京兆尹新豐県の出身で、州の武吏であったが戦乱により流浪して宛に流れ着き、
310年に流民を故郷に帰還させる詔が出た際に反発して流民の若者を集めて反乱を
起こし、西晋の討伐軍を破った。
後に石勒が勢力を拡大してきた際に降伏して石勒と義兄弟となるが、作物の不作によって
配下の多くが東晋に降伏した為にやむなく自らも帰順した。
王敦の配下を経てその從弟である王棱の配下となるが、王敦に唆されて王棱を殺害し、
自らも処刑された。
杜曾
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 90 | 52 | 33 | 47 | 疾走 | A | S | B | S | B | A | ? | 319年(不自然死) |
【トソ】
西晋の武将。
新野の出身で若い頃から驍勇としてその名を轟かせており、甲冑を着て
水中を自在に泳ぐ事ができ、戦場においてその武勇は冠たるものであった。
西晋の武将。
新野の出身で若い頃から驍勇としてその名を轟かせており、甲冑を着て
水中を自在に泳ぐ事ができ、戦場においてその武勇は冠たるものであった。
最初は新野王司馬歆に仕えていたが、永嘉の乱後は同じ司馬歆である胡亢
の配下となり、楚王を称した胡亢の元で竟陵太守となるも後に胡亢を殺害、
襄陽付近に割拠し、313年には陶侃の軍を騎兵で破った。
の配下となり、楚王を称した胡亢の元で竟陵太守となるも後に胡亢を殺害、
襄陽付近に割拠し、313年には陶侃の軍を騎兵で破った。
その後も東晋と争って幾度なく敵を撃破したが、周訪に敗れた末に殺害された。
東晋(317~420)
安東将軍として建業に進出した司馬睿が、洛陽陥落後に南遷貴族や江南土豪の支持を得て樹立。
王導の尽力で江南勢族と北来貴族の支持を集め、陽羨周氏を制圧して北主南従の体制を確立したが、
江南に基盤を持たない司馬氏の指導力は脆弱で、貴族層による共和体制が行なわれた。
347年に成漢を滅ぼして蜀を併合し、383年には淝水の役で前秦を大破して南北朝の大勢を確立したものの、
地方に対する統制力に欠け、揚州の北府軍と荊州の西府軍の伝統的な対立に加え、
王敦の乱、孫恩の乱、桓温・桓玄父子の専横と簒奪などが続いて、安定性に欠けた。
国内では琅邪王氏・陳郡袁氏・陽夏謝氏ら門地二品を頂点とする貴族制が確立され、江南開発の進展に伴い
大土地所有・荘園経営が発達した。貴族文化も開花して、詩の陶淵明、画の顧愷之、書の王羲之など中国屈指の文化人を輩出した。
桓玄平定の後は北府軍を掌握した軍人の劉裕が急速に抬頭し、南燕・後秦の征服による洛陽回復などの声望を背景に、420年に簒奪が行なわれた。
王導の尽力で江南勢族と北来貴族の支持を集め、陽羨周氏を制圧して北主南従の体制を確立したが、
江南に基盤を持たない司馬氏の指導力は脆弱で、貴族層による共和体制が行なわれた。
347年に成漢を滅ぼして蜀を併合し、383年には淝水の役で前秦を大破して南北朝の大勢を確立したものの、
地方に対する統制力に欠け、揚州の北府軍と荊州の西府軍の伝統的な対立に加え、
王敦の乱、孫恩の乱、桓温・桓玄父子の専横と簒奪などが続いて、安定性に欠けた。
国内では琅邪王氏・陳郡袁氏・陽夏謝氏ら門地二品を頂点とする貴族制が確立され、江南開発の進展に伴い
大土地所有・荘園経営が発達した。貴族文化も開花して、詩の陶淵明、画の顧愷之、書の王羲之など中国屈指の文化人を輩出した。
桓玄平定の後は北府軍を掌握した軍人の劉裕が急速に抬頭し、南燕・後秦の征服による洛陽回復などの声望を背景に、420年に簒奪が行なわれた。
司馬睿(景文)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
57 | 32 | 68 | 79 | 86 | B | B | B | C | B | B | 276 | 322 |
【シバエイ(ケイブン)】
東晋の初代元帝。司馬懿の曾孫。
15歳で父の爵位を継ぎ琅邪王となった。
八王の乱が起きると参謀・王導の進言で混乱する洛陽を離れて山東の封国に赴いた。
永嘉の乱が本格化すると建康に下り、北来貴族と在地豪族を糾合して力を蓄えた。
劉曜によって長安が陥落し、捕虜となった愍帝崩御の報が届くと皇帝に即位して晋朝を再興した。
王氏の権勢が強まったため、側近の劉隗と刁協を重用して牽制を図るが、
王敦の叛乱を招き、首都・建康を失陥して謝罪。憂憤のうちに病死した。
東晋の初代元帝。司馬懿の曾孫。
15歳で父の爵位を継ぎ琅邪王となった。
八王の乱が起きると参謀・王導の進言で混乱する洛陽を離れて山東の封国に赴いた。
永嘉の乱が本格化すると建康に下り、北来貴族と在地豪族を糾合して力を蓄えた。
劉曜によって長安が陥落し、捕虜となった愍帝崩御の報が届くと皇帝に即位して晋朝を再興した。
王氏の権勢が強まったため、側近の劉隗と刁協を重用して牽制を図るが、
王敦の叛乱を招き、首都・建康を失陥して謝罪。憂憤のうちに病死した。
司馬承(敬才)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
71 | 59 | 76 | 74 | 73 | 看破 | B | C | A | B | A | A | 264年 | 322年(不自然死) |
【シバショウ(ケイサイ)】
西晋・東晋の皇族。司馬懿の弟・司馬進の孫。
篤実・品行方正で知られ、西晋の時代には広威将軍・安夷護軍として雍州安定郡に駐屯し、
その後は洛陽に戻って311年に洛陽が陥落した際には脱出に成功して荊州の山簡を頼り、
山簡の死後は司馬睿に帰順して軍諮祭酒となり、長安の愍帝から帰還を求められたが、
従わなかった。
司馬睿の即位によって左軍将軍・散騎常侍となって有力な藩屏として重んぜられ、
次いで湘州刺史となるが、王敦の反乱によって王敦に加担した武将らによって城を
包囲され、抵抗の末に捕らえられて殺害された。
西晋・東晋の皇族。司馬懿の弟・司馬進の孫。
篤実・品行方正で知られ、西晋の時代には広威将軍・安夷護軍として雍州安定郡に駐屯し、
その後は洛陽に戻って311年に洛陽が陥落した際には脱出に成功して荊州の山簡を頼り、
山簡の死後は司馬睿に帰順して軍諮祭酒となり、長安の愍帝から帰還を求められたが、
従わなかった。
司馬睿の即位によって左軍将軍・散騎常侍となって有力な藩屏として重んぜられ、
次いで湘州刺史となるが、王敦の反乱によって王敦に加担した武将らによって城を
包囲され、抵抗の末に捕らえられて殺害された。
薛兼(令長)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父 |
39 | 36 | 72 | 83 | 75 | 指導 | C | C | B | C | B | B | ? | 322年(自然死) | 薛瑩 |
【セツケン(レイチョウ)】
西晋・東晋の政治家。呉の薛綜の孫で薛瑩の子。
呉の滅亡後に西晋に仕えて散騎常侍となり、同じ呉の出身である紀瞻・閔鴻・顧栄・賀循
らと共に「五俊」と称された。
その後も西晋にて比陽国相・太子洗馬・懐県令を歴任して功績を挙げ、東海王司馬越に仕えた後は
司馬睿に仕えて東晋の成立により太子少傅・尚書として皇太子司馬紹(後の明帝)の指導に当たった。
祖父の薛綜に父の薛瑩も皇太子の教育係であった為、三代続いて皇太子の指導に当たる事となった。
西晋・東晋の政治家。呉の薛綜の孫で薛瑩の子。
呉の滅亡後に西晋に仕えて散騎常侍となり、同じ呉の出身である紀瞻・閔鴻・顧栄・賀循
らと共に「五俊」と称された。
その後も西晋にて比陽国相・太子洗馬・懐県令を歴任して功績を挙げ、東海王司馬越に仕えた後は
司馬睿に仕えて東晋の成立により太子少傅・尚書として皇太子司馬紹(後の明帝)の指導に当たった。
祖父の薛綜に父の薛瑩も皇太子の教育係であった為、三代続いて皇太子の指導に当たる事となった。
賀循(彦先)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
53 | 45 | 76 | 84 | 83 | C | B | B | C | B | A | 260年 | 319年(自然死) |
【ガジュン(ゲンセン)】
西晋・東晋の政治家・学者。賀斉の曾孫で賀邵の子。
父が孫皓によって処刑された際に臨川郡に流されたが、呉滅亡により赦された。
礼儀正しく学問を好み、三礼に通じていた。
西晋の会稽内史に務めていた際は西興運河を開墾し、会稽郡から銭塘江までの運河を
開通させ、後に中央に栄転したが司馬倫の帝位簒奪で官を辞した。
張昌の乱の討伐には参加したが、陳敏の乱の際には江東の諸豪族が陳敏に従う中で頑なに仕官せず、
その後しばらくして東晋の司馬睿に仕えて宗廟の祭祀に関する決まりの制定等、東晋の学者の中心
として活躍した。
西晋・東晋の政治家・学者。賀斉の曾孫で賀邵の子。
父が孫皓によって処刑された際に臨川郡に流されたが、呉滅亡により赦された。
礼儀正しく学問を好み、三礼に通じていた。
西晋の会稽内史に務めていた際は西興運河を開墾し、会稽郡から銭塘江までの運河を
開通させ、後に中央に栄転したが司馬倫の帝位簒奪で官を辞した。
張昌の乱の討伐には参加したが、陳敏の乱の際には江東の諸豪族が陳敏に従う中で頑なに仕官せず、
その後しばらくして東晋の司馬睿に仕えて宗廟の祭祀に関する決まりの制定等、東晋の学者の中心
として活躍した。
紀瞻(思遠)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
81 | 67 | 86 | 74 | 78 | 論客 | B | A | A | C | A | S | 253年 | 324年(自然死) |
【キセン(シエン)】
西晋・東晋の武将・政治家。呉の紀陟の子。
幼い頃から読書に親しみ、また詩や音楽等多彩な芸にも親しんだ。
陸機とは親しくしばしば議論を行い、陸機が死亡した際は残された娘の
為に結婚の世話をして仕送りも送った。
当初は西晋に仕えて陳敏の討伐に活躍、その後は司馬睿に仕えて京口の
守備軍を率いて石勒の進行を防いだ。
司馬睿の即位後は侍中を経て尚書となり、その後は高齢と病の為に引退を
願い出たが、司馬睿は才を惜しんで中々引退させなかった。
西晋・東晋の武将・政治家。呉の紀陟の子。
幼い頃から読書に親しみ、また詩や音楽等多彩な芸にも親しんだ。
陸機とは親しくしばしば議論を行い、陸機が死亡した際は残された娘の
為に結婚の世話をして仕送りも送った。
当初は西晋に仕えて陳敏の討伐に活躍、その後は司馬睿に仕えて京口の
守備軍を率いて石勒の進行を防いだ。
司馬睿の即位後は侍中を経て尚書となり、その後は高齢と病の為に引退を
願い出たが、司馬睿は才を惜しんで中々引退させなかった。
親愛武将:陸機、陸雲、顧榮、司馬睿
王敦(処仲)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 74 | 78 | 18 | 29 | 怒髪 | B | A | B | C | C | A | 266 | 324 |
【オウトン(ショチュウ)】
西晋の政治家。東晋建国の元勲。琅邪王氏の出身。王導の従兄。
八王の乱の中で恵帝が復位すると洛陽に駆けつけた。
揚州刺史に赴任すると、従弟の王導が司馬睿を擁して身を寄せている。
江南の軍権を司って各地の反乱を鎮圧させた。
東晋が建国されると大将軍となるが、軍権が削られようとしたため武昌で起兵する。
建康に進軍し石頭城を陥落させたため、元帝は王敦の軍権を認めざるを得なくなった。
しかし、丞相を自任し専横を極め、明帝の代に討伐の勅命が出され親征軍に敗れた。
病没後に、墓を暴かれ屍を晒されている。
西晋の政治家。東晋建国の元勲。琅邪王氏の出身。王導の従兄。
八王の乱の中で恵帝が復位すると洛陽に駆けつけた。
揚州刺史に赴任すると、従弟の王導が司馬睿を擁して身を寄せている。
江南の軍権を司って各地の反乱を鎮圧させた。
東晋が建国されると大将軍となるが、軍権が削られようとしたため武昌で起兵する。
建康に進軍し石頭城を陥落させたため、元帝は王敦の軍権を認めざるを得なくなった。
しかし、丞相を自任し専横を極め、明帝の代に討伐の勅命が出され親征軍に敗れた。
病没後に、墓を暴かれ屍を晒されている。
王導(茂弘)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
75 | 40 | 86 | 94 | 95 | 能吏 | B | B | A | C | S | A | 276 | 339 |
【オウドウ(モコウ)】
両晋の政治家。魏の王祥の末裔で琅邪王氏の出。
西晋時代、琅邪王司馬睿に晋滅亡を予測し、建康へ移るよう進言した。
五胡の乱の際、劉淵の漢軍に晋の都洛陽は陥落し、皇族は半ば全滅したが、
唯一江南に逃れ無事だった司馬睿の後見となり、東晋を成立させる。
宰相として多くの人材を推薦し政権基盤を安定させ、従兄の王敦に長江中流を制圧させた。
後に王敦は造反するが、自身は失脚せず執政を続け、成帝の代には司徒として大権を担った。
東晋の簡文帝は、桓温に対し、諸葛亮と並び皇帝を輔弼した忠臣の例に挙げたという。
両晋の政治家。魏の王祥の末裔で琅邪王氏の出。
西晋時代、琅邪王司馬睿に晋滅亡を予測し、建康へ移るよう進言した。
五胡の乱の際、劉淵の漢軍に晋の都洛陽は陥落し、皇族は半ば全滅したが、
唯一江南に逃れ無事だった司馬睿の後見となり、東晋を成立させる。
宰相として多くの人材を推薦し政権基盤を安定させ、従兄の王敦に長江中流を制圧させた。
後に王敦は造反するが、自身は失脚せず執政を続け、成帝の代には司徒として大権を担った。
東晋の簡文帝は、桓温に対し、諸葛亮と並び皇帝を輔弼した忠臣の例に挙げたという。
周訪(士達)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 88 | 79 | 55 | 78 | 急襲 | S | A | A | C | B | S | 260 | 320 |
【シュウホウ(シタツ)】
東晋の武将。
若い時から沈着剛毅で、陶侃と親交を持った。
司馬睿の元で揚烈将軍となる。
華軼の討伐では馮逸を破り、華軼の水軍も破って江州(九江)を東晋の版図に加えた。
杜弢の反乱では王敦の麾下で水軍を率いて戦い、流れ矢で前歯を折りながら勇戦した。
杜曾征伐を命じられると、杜曾の勇猛から正攻法を避け800の精鋭を率いての奇襲を仕掛けて鎮圧した。
王敦が荊州刺史を自任したことに怒り、襄陽で練兵を行い北伐を企図しながら王敦に対する抑えとなる。
しかし周訪、祖逖と軍の重鎮が相次いで没したため、王敦の専横が始まった。
東晋の武将。
若い時から沈着剛毅で、陶侃と親交を持った。
司馬睿の元で揚烈将軍となる。
華軼の討伐では馮逸を破り、華軼の水軍も破って江州(九江)を東晋の版図に加えた。
杜弢の反乱では王敦の麾下で水軍を率いて戦い、流れ矢で前歯を折りながら勇戦した。
杜曾征伐を命じられると、杜曾の勇猛から正攻法を避け800の精鋭を率いての奇襲を仕掛けて鎮圧した。
王敦が荊州刺史を自任したことに怒り、襄陽で練兵を行い北伐を企図しながら王敦に対する抑えとなる。
しかし周訪、祖逖と軍の重鎮が相次いで没したため、王敦の専横が始まった。
祖逖(士稚)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
95 | 66 | 88 | 63 | 85 | 心攻 | S | A | S | B | A | A | 266 | 321 |
【ソテキ(シチ)】
東晋の将。
司馬炎の死後、八王の乱に際し長江の南に避難し、司馬睿が推戴されると東晋に仕えた。
以後は積極的に北伐を主張するが東晋に承認されなかったため、
約2千名の義勇軍だけで北伐して次々と勝利を収め、黄河以南を全て東晋へ奪回し、
後趙の石勒にも連戦連勝するが、名声を憂えた元帝に戴淵と代えられた。
後、東晋の朝廷では政争が起こり、国難の中、中原の回復を憂えて病没した。
長江を渡る際、「北方を回復しない限りは生きてこの河を渡らず」と誓った事で知られ、
南宋の文天祥の『正気の歌』でも詠われた。
東晋の将。
司馬炎の死後、八王の乱に際し長江の南に避難し、司馬睿が推戴されると東晋に仕えた。
以後は積極的に北伐を主張するが東晋に承認されなかったため、
約2千名の義勇軍だけで北伐して次々と勝利を収め、黄河以南を全て東晋へ奪回し、
後趙の石勒にも連戦連勝するが、名声を憂えた元帝に戴淵と代えられた。
後、東晋の朝廷では政争が起こり、国難の中、中原の回復を憂えて病没した。
長江を渡る際、「北方を回復しない限りは生きてこの河を渡らず」と誓った事で知られ、
南宋の文天祥の『正気の歌』でも詠われた。
郭璞(景純)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
10 | 8 | 80 | 57 | 69 | 風水 | C | C | C | C | C | C | 276 | 324 |
【カクハク(ケイジュン)】
東晋の占師、文学者。
博学で巫術・天文・陰陽に通じ、古の京房や管輅も郭璞には及ばないとされた。
河東が異民族よって荒廃するという占いにより、江南に避難した。
王導に招かれ、的確な助言を行ったために重用される。
晋王司馬睿に対して銅鐸の発掘と湧水を宣託し、これを晋再興の瑞兆とした司馬睿は帝位に就いた。
王敦が謀反を起こした際に「成無(成功しない)」と占ったため、怒った王敦により処刑された。
文学者としては「江賦」を詠み、「山海経」「爾雅」に注釈を施している。
後代には風水思想の発案者として仮託されている。
東晋の占師、文学者。
博学で巫術・天文・陰陽に通じ、古の京房や管輅も郭璞には及ばないとされた。
河東が異民族よって荒廃するという占いにより、江南に避難した。
王導に招かれ、的確な助言を行ったために重用される。
晋王司馬睿に対して銅鐸の発掘と湧水を宣託し、これを晋再興の瑞兆とした司馬睿は帝位に就いた。
王敦が謀反を起こした際に「成無(成功しない)」と占ったため、怒った王敦により処刑された。
文学者としては「江賦」を詠み、「山海経」「爾雅」に注釈を施している。
後代には風水思想の発案者として仮託されている。
荀崧(景猷)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
79 | 60 | 78 | 80 | 72 | 鉄壁 | C | B | A | C | A | B | 263 | 329 |
【ジュンスウ(ケイユウ)】
西晋・東晋の武将、政治家。荀彧の玄孫。
志は清純で文学を好み、王敦や陸機らと交友を持ち、司馬倫に仕えた。
永嘉の乱で洛陽が陥落すると、母の屍を守って逃げるが賊に襲われて負傷し気絶した。
母を弔い喪があけると襄城太守となり、後に荊州の都督となる。
杜曾の乱で宛が包囲されると、娘の荀灌を遣わして援軍を求め、兵も兵糧も少ない中で宛を守り抜いた。
東晋が成立すると尚書僕射となり、刁協とともに中興儀礼を定めた。
蘇峻の乱では、王導とともに幼い成帝を護って幽閉先の石頭城に付き従う。
乱の平定後に病が篤くなり、没した。
生前の官位は金紫光録大夫のち右光録大夫。
西晋・東晋の武将、政治家。荀彧の玄孫。
志は清純で文学を好み、王敦や陸機らと交友を持ち、司馬倫に仕えた。
永嘉の乱で洛陽が陥落すると、母の屍を守って逃げるが賊に襲われて負傷し気絶した。
母を弔い喪があけると襄城太守となり、後に荊州の都督となる。
杜曾の乱で宛が包囲されると、娘の荀灌を遣わして援軍を求め、兵も兵糧も少ない中で宛を守り抜いた。
東晋が成立すると尚書僕射となり、刁協とともに中興儀礼を定めた。
蘇峻の乱では、王導とともに幼い成帝を護って幽閉先の石頭城に付き従う。
乱の平定後に病が篤くなり、没した。
生前の官位は金紫光録大夫のち右光録大夫。
荀灌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 父親 | 性格 | 口調 |
78 | 52 | 75 | 70 | 85 | 血路 | A | B | B | C | B | B | 303 | ? | 荀崧 | 冷静 | 威厳 |
【ジュンカン】
荀崧の娘で末子。荀彧の六世孫。
荀崧が平南将軍として宛に鎮守していた際に、杜曾の乱によって城を包囲された。
13歳だった荀灌が襄城太守の石覧のもとへ救援を求め、数十名の兵を率いて城を脱出する。
賊の追撃を受けるが兵士を励まして戦って進み、無事に石覧のもとに辿り着いた。
独断で更に周訪にも救援を求め、三千の援軍により宛が救われた。
その後の事績は不明。
荀崧の娘で末子。荀彧の六世孫。
荀崧が平南将軍として宛に鎮守していた際に、杜曾の乱によって城を包囲された。
13歳だった荀灌が襄城太守の石覧のもとへ救援を求め、数十名の兵を率いて城を脱出する。
賊の追撃を受けるが兵士を励まして戦って進み、無事に石覧のもとに辿り着いた。
独断で更に周訪にも救援を求め、三千の援軍により宛が救われた。
その後の事績は不明。
※荀灌が援軍を求めたのは晋書荀崧伝では平南将軍で宛に鎮守し、襄城太守を石覧が務めている時。
しかし、晋書列女伝では荀崧が襄城太守で、石覧が平南将軍と真逆になっている。
しかし、晋書列女伝では荀崧が襄城太守で、石覧が平南将軍と真逆になっている。
庾亮(元規)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
60 | 51 | 76 | 92 | 70 | 規律 | B | C | B | C | C | B | 289 | 340 |
【ユリョウ(ゲンキ)】
東晋の政治家。東晋の宗室の外戚。
容姿が美しく、風格を備え、善談と老子・荘子を好んだ。
明帝に王導と共に後事を託され、中書令となって法治主義に基づいて政治を行った。
王導を凌いで権勢を誇ったが、厳格に過ぎたため陶侃ら諸将からは反感を買っている。
蘇峻の乱で成帝とともに捕えられるが、幽閉先から脱出し陶侃に援助を求める。
陶侃と協力して蘇峻の乱を平定すると、自らは責任をとって中央から退き蕪湖に駐屯した。
北伐を企図するも、邾城を失陥したため計画のみに終わる。
王導死後に中央への召還を固辞して死去した。
東晋の政治家。東晋の宗室の外戚。
容姿が美しく、風格を備え、善談と老子・荘子を好んだ。
明帝に王導と共に後事を託され、中書令となって法治主義に基づいて政治を行った。
王導を凌いで権勢を誇ったが、厳格に過ぎたため陶侃ら諸将からは反感を買っている。
蘇峻の乱で成帝とともに捕えられるが、幽閉先から脱出し陶侃に援助を求める。
陶侃と協力して蘇峻の乱を平定すると、自らは責任をとって中央から退き蕪湖に駐屯した。
北伐を企図するも、邾城を失陥したため計画のみに終わる。
王導死後に中央への召還を固辞して死去した。
※「庾」では認識されないので、代わりに「臾」などを用いる。(PC版)
陶侃(士行)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 80 | 79 | 85 | 84 | 威圧 | S | A | A | B | B | S | 259 | 334 |
【トウカン(シコウ)】
西晋・東晋の武将。呉の出身。
劉弘の配下として厚く信頼され、襄陽での張昌の乱を平定し、武昌を攻めた陳敏を破った。
永嘉の乱で天下が乱れる中、頻発する反乱の鎮圧に奔走する。
東晋の代になると王敦に推挙され荊州刺史となるも、荊州平定の功績を王敦に疎まれ広州刺史に左遷される。
以後も広州や交州を鎮めて統治し、王敦が乱を起こして失脚すると荊州刺史に復帰しかつての領民から喜ばれた。
蘇峻が首都の建康を陥落させ成帝を捕えた際には、義軍の盟主として蘇峻を攻め敗死させている。
西晋・東晋の武将。呉の出身。
劉弘の配下として厚く信頼され、襄陽での張昌の乱を平定し、武昌を攻めた陳敏を破った。
永嘉の乱で天下が乱れる中、頻発する反乱の鎮圧に奔走する。
東晋の代になると王敦に推挙され荊州刺史となるも、荊州平定の功績を王敦に疎まれ広州刺史に左遷される。
以後も広州や交州を鎮めて統治し、王敦が乱を起こして失脚すると荊州刺史に復帰しかつての領民から喜ばれた。
蘇峻が首都の建康を陥落させ成帝を捕えた際には、義軍の盟主として蘇峻を攻め敗死させている。
郗鑒(道徽)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 73 | 76 | 69 | 85 | 名声 | B | S | A | C | B | A | 269 | 339 |
【チカン(ドウキ)】
西晋、東晋の政治家。
最初は趙王・司馬倫に仕えたが、簒奪の野望を察して職を去った。
永嘉の乱で中原が乱れると故郷に帰り、戦災に苦しむ人々に施しを与えた。
郷里の人々から盟主に推されて千家余りを率いて魯の嶧山に避難した。
司馬睿に帰順すると石勒の軍が攻め寄せ、孤立無援で飢餓も起きたが、
味方から内通者は現れず、逆に数万の避難民が新たに帰順してきた。
王敦と蘇峻が立て続けに叛乱を起こし首都・建康を陥れると、
鎮圧に中心的役割を果たして司空に昇進。のちに大尉に進み71歳で病死した。
西晋、東晋の政治家。
最初は趙王・司馬倫に仕えたが、簒奪の野望を察して職を去った。
永嘉の乱で中原が乱れると故郷に帰り、戦災に苦しむ人々に施しを与えた。
郷里の人々から盟主に推されて千家余りを率いて魯の嶧山に避難した。
司馬睿に帰順すると石勒の軍が攻め寄せ、孤立無援で飢餓も起きたが、
味方から内通者は現れず、逆に数万の避難民が新たに帰順してきた。
王敦と蘇峻が立て続けに叛乱を起こし首都・建康を陥れると、
鎮圧に中心的役割を果たして司空に昇進。のちに大尉に進み71歳で病死した。
※「郗」は認識されないので、代わりに「希」などを用いる。(PC版)
諸葛恢(道明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親 |
63 | 53 | 72 | 84 | 81 | 仁政 | B | C | A | C | C | B | 284 | 345 | 諸葛靚 |
【ショカツカイ(ドウメイ)】
東晋の政治家。諸葛誕の孫、諸葛靚の子。
山東で官吏を務めていたが、八王の乱等で西晋が混乱すると江東に逃れる。
王導・庾亮らに次ぐ名声があり、王導から黒髪の若いうちに高位を得ると予見された。
琅邪王司馬睿(後の東晋の開祖元帝)の主簿として事務を取り仕切る。
西晋の愍帝が長安へ召喚したが、司馬睿は拒否し会稽太守に任じた。
会稽で善政を敷き、元帝からその政治手腕を「政清人和」と表彰された。
王敦の乱では王含を討つ功績を上げ、後将軍となる。
その後も、吏部尚書、散騎常侍、尚書令などの要職を歴任した。
東晋の政治家。諸葛誕の孫、諸葛靚の子。
山東で官吏を務めていたが、八王の乱等で西晋が混乱すると江東に逃れる。
王導・庾亮らに次ぐ名声があり、王導から黒髪の若いうちに高位を得ると予見された。
琅邪王司馬睿(後の東晋の開祖元帝)の主簿として事務を取り仕切る。
西晋の愍帝が長安へ召喚したが、司馬睿は拒否し会稽太守に任じた。
会稽で善政を敷き、元帝からその政治手腕を「政清人和」と表彰された。
王敦の乱では王含を討つ功績を上げ、後将軍となる。
その後も、吏部尚書、散騎常侍、尚書令などの要職を歴任した。
王羲之(逸少)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
25 | 24 | 58 | 66 | 86 | 風水 | C | C | C | C | C | B | 303 | 361 |
【オウギシ(イツショウ)】
東晋の政治家・書家。右軍将軍。書聖と称された史上最高の書家。
琅邪王氏の出で、王導や王敦らから将来を嘱望されていた。
会稽に赴任後、山水に恵まれた土地柄に惹かれ清談の風に染まったが、
飢饉に際し、中央への租税の減免を要請するなど統治にも力を注いだ。
後、病気を理由に官を辞して隠遁し、会稽の地で、悠々自適の生活を過ごし、
各地を巡って古書を見、寝食を忘れて仙道に精進し、楷書・行書・草書の各書体に一家をなした。
「書道の革命家」「書道の最高峰」と評され、書道を一個の芸術として確立した人物。
東晋の政治家・書家。右軍将軍。書聖と称された史上最高の書家。
琅邪王氏の出で、王導や王敦らから将来を嘱望されていた。
会稽に赴任後、山水に恵まれた土地柄に惹かれ清談の風に染まったが、
飢饉に際し、中央への租税の減免を要請するなど統治にも力を注いだ。
後、病気を理由に官を辞して隠遁し、会稽の地で、悠々自適の生活を過ごし、
各地を巡って古書を見、寝食を忘れて仙道に精進し、楷書・行書・草書の各書体に一家をなした。
「書道の革命家」「書道の最高峰」と評され、書道を一個の芸術として確立した人物。
姚襄(景国)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 90 | 67 | 51 | 85 | 血路 | A | A | C | S | C | C | 331 | 357 |
【ヨウジョウ(ケイコク)】
東晋の武将。離反後は独立勢力を率いた。後秦の姚萇の兄。
腕の長さが膝下まで届くほどあり、武芸多才で雄武を賞賛されていた。
父の姚弋仲が東晋に通じており、その没後に前秦を南下し、
前秦軍と一進一退を繰り広げながら東晋領の寿春に辿り着く。
北伐に消極的な中でも屯田と練兵を続けるが、殷浩に疎まれ幾度も刺客を放たれる。
殷浩の北伐の際に東晋から離脱し、東晋軍を撃ち破って許昌で独立する。
桓温の討伐を受け大敗するが、敗残兵や民衆は姚襄を慕い付き従った。
その後、故郷を目指し関中に侵攻するも、前秦の鄧羌に敗れ戦死した。
東晋の武将。離反後は独立勢力を率いた。後秦の姚萇の兄。
腕の長さが膝下まで届くほどあり、武芸多才で雄武を賞賛されていた。
父の姚弋仲が東晋に通じており、その没後に前秦を南下し、
前秦軍と一進一退を繰り広げながら東晋領の寿春に辿り着く。
北伐に消極的な中でも屯田と練兵を続けるが、殷浩に疎まれ幾度も刺客を放たれる。
殷浩の北伐の際に東晋から離脱し、東晋軍を撃ち破って許昌で独立する。
桓温の討伐を受け大敗するが、敗残兵や民衆は姚襄を慕い付き従った。
その後、故郷を目指し関中に侵攻するも、前秦の鄧羌に敗れ戦死した。
沈勁(世堅)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
80 | 76 | 54 | 13 | 58 | 不屈 | B | S | A | C | C | C | ? | 365 |
【シンケイ(セイケン)】
東晋の武将。
父・沈充が王敦の腹心で叛乱に関与したことから、父の汚名を雪ぐことを志した。
王胡之の推挙で仕官が許され、 前燕の南下に際して洛陽を守備。
2千未満の兵力ながら壮士を募って何度も前燕軍を撃退した。
兵糧が尽きても尚も僅かな兵力で留まるが、衆寡敵せずまもなく捕虜となった。
慕容恪から仕官の誘いを受けるが、慕容虔が後の患いとなるから殺すよう進言したため処刑された。
慕容恪は自国へ帰還後にその才を惜しみ「沈勁を殺した事を天下に恥じる」と述べた。
東晋の武将。
父・沈充が王敦の腹心で叛乱に関与したことから、父の汚名を雪ぐことを志した。
王胡之の推挙で仕官が許され、 前燕の南下に際して洛陽を守備。
2千未満の兵力ながら壮士を募って何度も前燕軍を撃退した。
兵糧が尽きても尚も僅かな兵力で留まるが、衆寡敵せずまもなく捕虜となった。
慕容恪から仕官の誘いを受けるが、慕容虔が後の患いとなるから殺すよう進言したため処刑された。
慕容恪は自国へ帰還後にその才を惜しみ「沈勁を殺した事を天下に恥じる」と述べた。
桓温(元子)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
91 | 75 | 82 | 81 | 85 | S | B | A | A | A | A | 312 | 373 |
【カンオン(ゲンシ)】
東晋の将。
父の仇を弔問と偽って江家に乗り込み、その息子3人を殺して仇を討ったという。
荊州刺史に起用され、四川の成漢を滅ぼし声望を高め、北伐では西晋の旧都洛陽を奪還した。
前燕が勢力を拡大し洛陽が奪われると三度目の北伐を行うが、前燕の慕容垂の軍に大敗する。
司馬昱(簡文帝)を擁立するも、簡文帝は翌年に病死する。
簡文帝は臨終に際し桓温に禅譲しようとも考えるが、謝安らの反対で取りやめ、
桓温に対し「諸葛亮や王導のように」と遺詔した。
桓温はなおも禅譲を目指すが、謝安らの反対により失敗して死去した。
東晋の将。
父の仇を弔問と偽って江家に乗り込み、その息子3人を殺して仇を討ったという。
荊州刺史に起用され、四川の成漢を滅ぼし声望を高め、北伐では西晋の旧都洛陽を奪還した。
前燕が勢力を拡大し洛陽が奪われると三度目の北伐を行うが、前燕の慕容垂の軍に大敗する。
司馬昱(簡文帝)を擁立するも、簡文帝は翌年に病死する。
簡文帝は臨終に際し桓温に禅譲しようとも考えるが、謝安らの反対で取りやめ、
桓温に対し「諸葛亮や王導のように」と遺詔した。
桓温はなおも禅譲を目指すが、謝安らの反対により失敗して死去した。
特技候補
踏破:益州を制圧した観点から
威風:北伐で前燕、前涼などの周辺王朝を震撼させた観点から
駆逐:益州と洛陽から異民族を駆逐し晋の旧領を回復した観点から
徴税:大規模な土断法を実施して東晋財政に寄与した観点から
踏破:益州を制圧した観点から
威風:北伐で前燕、前涼などの周辺王朝を震撼させた観点から
駆逐:益州と洛陽から異民族を駆逐し晋の旧領を回復した観点から
徴税:大規模な土断法を実施して東晋財政に寄与した観点から
郗超(景興)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
32 | 18 | 87 | 64 | 46 | 妙計 | B | C | B | C | B | B | 336 | 377 |
【チチョウ(ケイコウ)】
東晋の政治家。大尉・郗鑒の孫。
桓温と深く親交を結び、その幕僚として補佐した。
父の手紙を改竄して桓温が北府の実権を握れるよう策謀したり、
廃帝を廃して簡文帝を擁立するよう薦めるなど、桓温の東晋内外における勢力拡大に貢献。
枋頭の戦いでは、補給の難しさから速攻で鄴を目指し兵糧は現地調達するか、
もしくは来年の夏を待って兵糧を十分に貯めてから攻め入るよう進言したが容れられず、結果桓温は慕容垂に大敗した。
桓温に重用されていたため、朝廷における権勢は一時王坦之、謝安ら門閥出身者を凌いだという。
東晋の政治家。大尉・郗鑒の孫。
桓温と深く親交を結び、その幕僚として補佐した。
父の手紙を改竄して桓温が北府の実権を握れるよう策謀したり、
廃帝を廃して簡文帝を擁立するよう薦めるなど、桓温の東晋内外における勢力拡大に貢献。
枋頭の戦いでは、補給の難しさから速攻で鄴を目指し兵糧は現地調達するか、
もしくは来年の夏を待って兵糧を十分に貯めてから攻め入るよう進言したが容れられず、結果桓温は慕容垂に大敗した。
桓温に重用されていたため、朝廷における権勢は一時王坦之、謝安ら門閥出身者を凌いだという。
※「郗」は認識されないので、代わりに「希」などを用いる。(PC版)
習鑿歯(彦威)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
13 | 5 | 73 | 64 | 76 | なし | C | C | C | C | C | C | ? | 383 |
【シュウサクシ(ゲンイ)】
東晋の政治家。
博学にして文筆の才能で誉れ高く、桓温にも高く評価された。
長らく桓温の下で属僚を務めたが、簒奪を狙う桓温の前で簡文帝を褒めた事で左遷された。
桓温の野望を阻止するために『漢晋春秋』を著して蜀漢正統論を主張した。
襄陽が前秦の版図となると道安と共に苻堅に召されて厚遇されたが、病で帰郷した。
まもなく襄陽が東晋に戻ると朝廷から典国史に任命されたが、職に就く前に病死。
臨終間際にあってなお自身の蜀漢正統論に向けられた異議への反駁を上疏した。
東晋の政治家。
博学にして文筆の才能で誉れ高く、桓温にも高く評価された。
長らく桓温の下で属僚を務めたが、簒奪を狙う桓温の前で簡文帝を褒めた事で左遷された。
桓温の野望を阻止するために『漢晋春秋』を著して蜀漢正統論を主張した。
襄陽が前秦の版図となると道安と共に苻堅に召されて厚遇されたが、病で帰郷した。
まもなく襄陽が東晋に戻ると朝廷から典国史に任命されたが、職に就く前に病死。
臨終間際にあってなお自身の蜀漢正統論に向けられた異議への反駁を上疏した。
桓石虔
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
74 | 95 | 65 | 39 | 63 | 威風 | S | B | B | S | B | A | ? | 388 |
【カンセキケン】
東晋の武将。桓豁の子。桓温の甥。幼名は鎮悪。
勇猛果敢で抜群の素早さ、身のこなしを誇り、格闘戦で猛獣すら手玉にとるほどであった。
桓温の北伐に従軍し、関中で叔父の桓沖が前秦軍に囲まれ窮地に陥ったときには、
単騎で数万の包囲を突破して無事に桓沖を救出した。
この芸当に敵軍は震撼し、「桓石虔が来るぞ」と言えば敵国の数多くの病人が恐怖から病が癒えたという。
その後は、寿春の叛乱征討で功績を上げ、益州が前秦に征服されると巴東を回復した。
淝水の戦いに際しては、前秦軍に対する牽制として樊城を掠している。
東晋の武将。桓豁の子。桓温の甥。幼名は鎮悪。
勇猛果敢で抜群の素早さ、身のこなしを誇り、格闘戦で猛獣すら手玉にとるほどであった。
桓温の北伐に従軍し、関中で叔父の桓沖が前秦軍に囲まれ窮地に陥ったときには、
単騎で数万の包囲を突破して無事に桓沖を救出した。
この芸当に敵軍は震撼し、「桓石虔が来るぞ」と言えば敵国の数多くの病人が恐怖から病が癒えたという。
その後は、寿春の叛乱征討で功績を上げ、益州が前秦に征服されると巴東を回復した。
淝水の戦いに際しては、前秦軍に対する牽制として樊城を掠している。
謝安(安石)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
44 | 17 | 85 | 89 | 93 | 沈着 | C | C | B | B | B | B | 320 | 385 |
【シャアン(アンセキ)】
東晋の宰相。
将来を嘱望されたが、若い頃は出仕せず王羲之と交流を深め、清談に耽った。
41歳で初めて仕官し、桓温の司馬となり、簒奪の野望を見せる桓温に対して強硬に反対し、
結果桓温の寿命が先に尽き、東晋は命脈を保つことになる。
華北を統一した前秦の苻堅が中国の統一を目指し50万の大軍で南征すると、
征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した。
この功績で太保となり北伐を計画するが、皇族の権力者司馬道子に止められる。
司馬道子らに警戒されて左遷され、広陵歩丘で病没した。
東晋の宰相。
将来を嘱望されたが、若い頃は出仕せず王羲之と交流を深め、清談に耽った。
41歳で初めて仕官し、桓温の司馬となり、簒奪の野望を見せる桓温に対して強硬に反対し、
結果桓温の寿命が先に尽き、東晋は命脈を保つことになる。
華北を統一した前秦の苻堅が中国の統一を目指し50万の大軍で南征すると、
征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した。
この功績で太保となり北伐を計画するが、皇族の権力者司馬道子に止められる。
司馬道子らに警戒されて左遷され、広陵歩丘で病没した。
※沈着は、桓温が自身への禅譲に反対する謝安、王坦之を殺害しようと2人を呼んだ際に、
同僚の王坦之が冷や汗をかいて衣服をびっしょり濡らす一方、謝安は泰然自若として桓温に対したエピソードから。
同僚の王坦之が冷や汗をかいて衣服をびっしょり濡らす一方、謝安は泰然自若として桓温に対したエピソードから。
謝玄(幼度)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 85 | 75 | 14 | 56 | 水将 | B | A | A | B | B | S | 343 | 388 |
【シャゲン(ヨウド)】
東晋の将。謝安の甥。
孝武帝の時代、前秦の苻堅が南下して国境を脅かしていた。
謝玄は、叔父・謝安から江北諸軍事・兗州刺史を委任され広陵から出陣、
淮水の南で前秦の軍を破る功績を挙げた。
さらに苻堅は、弟の苻融・苻方・梁成・慕容暐・慕容垂らを先鋒とし、
自ら大軍を率いて再び南下する。
謝玄は北方からの避難民を再編して「北府軍」と称し、
率いて洛澗を攻撃し、前秦軍の先鋒・梁成を討った。
続いて淝水に進み、前秦軍を撃破、苻融を戦死させる大勝利を得た。
東晋の将。謝安の甥。
孝武帝の時代、前秦の苻堅が南下して国境を脅かしていた。
謝玄は、叔父・謝安から江北諸軍事・兗州刺史を委任され広陵から出陣、
淮水の南で前秦の軍を破る功績を挙げた。
さらに苻堅は、弟の苻融・苻方・梁成・慕容暐・慕容垂らを先鋒とし、
自ら大軍を率いて再び南下する。
謝玄は北方からの避難民を再編して「北府軍」と称し、
率いて洛澗を攻撃し、前秦軍の先鋒・梁成を討った。
続いて淝水に進み、前秦軍を撃破、苻融を戦死させる大勝利を得た。
謝石(石奴)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
80 | 75 | 68 | 72 | 47 | 強襲 | B | A | A | C | A | S | 327 | 389 |
【シャセキ(セキド)】
東晋の武将、政治家。謝安の弟。
前秦の淮南侵攻では水軍を率い、謝玄らの勝利に貢献した。
苻堅の大群が南進すると征虜将軍仮節・征討大都督となり、
謝琰・謝玄・桓伊らを率いて抗戦する。
朱序が投降勧告の使者として赴くと、前秦軍の先鋒を撃って士気を奪うという朱序の作戦を容れる。
苻堅を挑発して淝水を渡河すると見せて前秦軍の先鋒を後退させると、
その勢いに乗じて前秦軍を攻め、大破した。
中軍将軍・尚書令となると、学校を復興して教育に力を注いだ。
軍功や治績を上げる反面、強欲で豪奢だったため評判は良くなかった。
東晋の武将、政治家。謝安の弟。
前秦の淮南侵攻では水軍を率い、謝玄らの勝利に貢献した。
苻堅の大群が南進すると征虜将軍仮節・征討大都督となり、
謝琰・謝玄・桓伊らを率いて抗戦する。
朱序が投降勧告の使者として赴くと、前秦軍の先鋒を撃って士気を奪うという朱序の作戦を容れる。
苻堅を挑発して淝水を渡河すると見せて前秦軍の先鋒を後退させると、
その勢いに乗じて前秦軍を攻め、大破した。
中軍将軍・尚書令となると、学校を復興して教育に力を注いだ。
軍功や治績を上げる反面、強欲で豪奢だったため評判は良くなかった。
朱序(次倫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 78 | 87 | 60 | 77 | 機略 | S | B | A | C | B | S | ? | 393 |
【シュジョ(ジリン)】
東晋、前秦の武将。
司馬勲の反乱を鎮圧し、司馬勲を捕縛した。
桓温の北伐に従い、前燕の傅顔を撃破する功績を上げる。
苻堅の南進により襄陽を包囲され1年に渡って防衛するが、
配下の李伯護が内応して開城したため前秦に捕えられる。
苻堅は朱序を厚遇したが靡かず、淝水の戦いでは東晋の謝石に内応し、
前秦軍の中で「秦軍敗れる!」と叫び回って混乱させ、東晋軍に勝利をもたらした。
東晋復帰後は洛陽を守備し、西燕の慕容永の侵攻を迎撃して敗走させ上党まで追撃した。
さらに、その隙に洛陽を攻めた後燕の翟遼も反転して撃ち破った。
東晋、前秦の武将。
司馬勲の反乱を鎮圧し、司馬勲を捕縛した。
桓温の北伐に従い、前燕の傅顔を撃破する功績を上げる。
苻堅の南進により襄陽を包囲され1年に渡って防衛するが、
配下の李伯護が内応して開城したため前秦に捕えられる。
苻堅は朱序を厚遇したが靡かず、淝水の戦いでは東晋の謝石に内応し、
前秦軍の中で「秦軍敗れる!」と叫び回って混乱させ、東晋軍に勝利をもたらした。
東晋復帰後は洛陽を守備し、西燕の慕容永の侵攻を迎撃して敗走させ上党まで追撃した。
さらに、その隙に洛陽を攻めた後燕の翟遼も反転して撃ち破った。
劉牢之(道堅)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
83 | 90 | 37 | 10 | 57 | 威風 | S | A | A | B | B | S | ? | 402 |
【リュウロウシ(ドウケン)】
東晋の武将。
驍勇を以て謝玄の募兵に応じ、精鋭を率いて先鋒を務め、百戦百勝の盛名を誇った。
淝水の戦いでは前秦の将・梁成を斬るなど功績を上げた。
華北の混乱に乗じて北伐し、鄴まで到るが後燕の慕容垂に敗れ退く。
王恭の参軍を務めるが、王恭が叛乱を起こすと司馬元顕の調略で寝返り王恭を斬殺した。
孫恩の乱を配下の劉裕(後の宋の武帝)の活躍もあって鎮圧。
桓玄が司馬元顕に叛旗を翻すと、劉裕ら部下の反対を押し切って桓玄へ寝返った。
その後、桓玄に対して叛乱を図り、3度の裏切りに劉裕らに見限られ、逃亡し自縊した。
東晋の武将。
驍勇を以て謝玄の募兵に応じ、精鋭を率いて先鋒を務め、百戦百勝の盛名を誇った。
淝水の戦いでは前秦の将・梁成を斬るなど功績を上げた。
華北の混乱に乗じて北伐し、鄴まで到るが後燕の慕容垂に敗れ退く。
王恭の参軍を務めるが、王恭が叛乱を起こすと司馬元顕の調略で寝返り王恭を斬殺した。
孫恩の乱を配下の劉裕(後の宋の武帝)の活躍もあって鎮圧。
桓玄が司馬元顕に叛旗を翻すと、劉裕ら部下の反対を押し切って桓玄へ寝返った。
その後、桓玄に対して叛乱を図り、3度の裏切りに劉裕らに見限られ、逃亡し自縊した。
※威風は、399年の孫恩の乱を討伐する際にその名前を聞いただけで反乱軍が潰走したエピソードから
桓玄(敬道)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
71 | 69 | 79 | 60 | 24 | 捕縛 | A | B | B | C | A | A | 369 | 404 |
【カンゲン(ケイドウ)】
東晋の武将、政治家。桓楚の皇帝。桓温の子。
桓温の簒奪の野心ゆえに警戒され重用されず、棄官して隠遁する。
司馬道子の政治に対する反乱の気が起こったため、
朝廷は広州刺史に任じて厚遇しようとするが、任地に赴かず王恭の反乱に呼応した。
反乱は失敗したが兵を退いたことを評価され、江州(九江)刺史に任じられた。
孫恩の乱に乗じて荊州(江陵)・雍州(襄陽)を奪い取り勢力を拡大。
建康に侵攻して司馬道子を排し、東晋の実権を握る。
帝位を簒奪し楚(桓楚)を建国したが、劉裕(後の劉宋の武帝)に敗死し、約半年で滅亡した。
東晋の武将、政治家。桓楚の皇帝。桓温の子。
桓温の簒奪の野心ゆえに警戒され重用されず、棄官して隠遁する。
司馬道子の政治に対する反乱の気が起こったため、
朝廷は広州刺史に任じて厚遇しようとするが、任地に赴かず王恭の反乱に呼応した。
反乱は失敗したが兵を退いたことを評価され、江州(九江)刺史に任じられた。
孫恩の乱に乗じて荊州(江陵)・雍州(襄陽)を奪い取り勢力を拡大。
建康に侵攻して司馬道子を排し、東晋の実権を握る。
帝位を簒奪し楚(桓楚)を建国したが、劉裕(後の劉宋の武帝)に敗死し、約半年で滅亡した。
顧愷之(長康)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
14 | 11 | 79 | 25 | 80 | 強運 | C | C | C | C | C | C | 344? | 405? |
【コガイシ(チョウコウ)】
東晋の画家。中国絵画史上おいて重要な人物であり「画聖」と呼ばれる。
肖像画を得意としており、同時代の謝安は「顧愷之の絵は、人類史上始まって以来のものだ」と絶賛された。
若くして桓温の幕僚となり、画才・文才を高く評価された。
その一方で熱中癖がある変人でもあり、
「才絶(文才の極み)」「画絶(画才の極み)」「痴絶(阿呆の極み)」の三絶を備えていると言われていた。
桓温の死後は、謝安や桓玄らの有力者の庇護を受けながら渡り歩き、最後には東晋を滅ぼす劉裕に接近して官職を得た。
残念ながら現在では顧愷之が描いた絵は散逸して残ってはいないが、模写された作品ならいくつか残っている。
東晋の画家。中国絵画史上おいて重要な人物であり「画聖」と呼ばれる。
肖像画を得意としており、同時代の謝安は「顧愷之の絵は、人類史上始まって以来のものだ」と絶賛された。
若くして桓温の幕僚となり、画才・文才を高く評価された。
その一方で熱中癖がある変人でもあり、
「才絶(文才の極み)」「画絶(画才の極み)」「痴絶(阿呆の極み)」の三絶を備えていると言われていた。
桓温の死後は、謝安や桓玄らの有力者の庇護を受けながら渡り歩き、最後には東晋を滅ぼす劉裕に接近して官職を得た。
残念ながら現在では顧愷之が描いた絵は散逸して残ってはいないが、模写された作品ならいくつか残っている。
- 新武将の追加もいいけど、列伝はテンプレだと250字以内にね。 -- (名無しさん) 2013-06-07 19:15:07
- ↑すまん文章直そうとしてミスって途中送信してしまったorz
上の文は「テンプレにあるように列伝は250字以内に」と書こうとしました。すみませぬ。 -- (名無しさん) 2013-06-07 19:19:41 - ふと思ったのだが、もし司馬衷(恵帝)を出すとしたら、能力値や特技はどんな感じになるんだろ。
まぁ、経歴とか見る限りでは酷い能力値になりそうだけど。 -- (名無しさん) 2013-06-07 21:24:23 - 今日編集した人間ですが、列伝が250字以内になるよう修正しました。ご迷惑をお掛けしました。以後気をつけます。 -- (名無しさん) 2013-06-07 22:08:15
- すまんが、なるべく同年代の業績毎になるよう順番変えさせてもらった。
関連する人物が前後近いあたりにいると相関関係が分かりやすくなると思うので。 -- (名無しさん) 2013-06-15 10:21:42 - 祁弘を誰かつくって欲しい -- (名無しさん) 2014-10-14 16:43:26
- 石鍳も作ってほしいな。杜預と犬猿の仲だったし。 -- (名無しさん) 2014-10-17 16:47:06
- 王渾の側近周浚と王沈の息子で石勒のライバル王浚はよ -- (名無しさん) 2015-05-01 22:04:43
- http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2760.html
武将数が120人以上いたので、東晋の武将を下記に移転しました -- (名無しさん) 2016-02-22 02:23:21 - 馮紞は史実武将の李孚の孫です
一応 -- (名無しさん) 2017-03-17 23:43:25