巻一百九十一 列伝第一百一十六

唐書巻一百九十一

列伝第一百一十六

忠義上

夏侯端 劉感 常達 敬君弘 謝叔方 呂子臧 馬元規 王行敏 盧士叡 李玄通 羅士信 張道源 楚金 李育徳 李公逸 張善相 高叡 仲舒 安金蔵 王同皎 潜 周憬 呉保安 李憕 源 彭 盧弈 元輔 張介然 崔無詖



  生ける者が非常に重んじるものは自分の身体である。軽んじることができるものは忠と義である。自分の身体を後にして義を先にするのは仁である。身体を殺すことができて、名は死ぬことができないのが志である。おおよそ生を棄てて義におもむく者は、むしろあらかじめ名を不朽しようと考えてこれを行うのである。一世の成敗とはいえ、また必ず助けないのは、要は与えられたところを重んじ、一つの操に終始し、嵩山・岱山が崩れたとしても、自分を圧しないのである。伯夷・叔斉は周を排して商があるとしたのは、商は害さずに滅びたのに、周が勃興したからである。二人は餓死しても屈することをよしとせず、ついに武王に不徳をはじさせたが、伯夷・叔斉はこれによって仁を得て、伯夷・叔斉はこれによって仁を得て、孔子は顔色を変えてこのことを申し述べ、あえてわずかな誹謗もしなかった。そのため忠義は、真に天下の基本的原則なのだ。悪者が天下国家をひっくり返し、人を捕らえてその毒をほしいままにしても、一義士を殺せば、全国が心を騒がし、そのため乱臣賊子は赤面して気後れして戸惑って思い通りにできないのである。どうしてなのか。彼の者をなす理由にして自分をなそうとする。義があればともにあり、義が滅びるならともに滅び、そのため王者は常に推薦して彼らを褒め、民を生かすのに励み勤めて反逆者を塞ぐ理由である。さりとて、立派な男でなければ、どうしてこんなことになっただろうか。彼はやせ衰えて弱々しく、生を偸んで自分勝手に行う者は、本当に人を恐れるものだろうか。そのため夏侯端以来三十三人を次に述べた。


  夏侯端は、寿州寿春県の人であり、梁の尚書左僕射の夏侯詳の孫である。隋に仕えて大理司直となった。高祖が即位以前に互いに友となり、大業年間(605-618)河東で賊を討伐することになると、上表して夏侯端を副官とした。夏侯端は権謀術数に深く、密かに高祖に向かって、「玉床は揺れ動き、帝座は安じていません。何年かすれば、真なる人物が天下を安んじるための乱をおこすでしょうが、それは公なのです。またお上の性格は嫉妬深く、心の中では李氏を憎んでいます。今、李金才が誅殺されましたので、次は公の命をとるでしょう。早く計略を実行すべきです」と語り、帝はその発言に感じ入った。義軍をおこすと、夏侯端は河東にあって、役人に捕らえられて長安に送られた。が京師に入って、釈放されると、臥所の中に引き入れられ、秘書監に抜擢された。

  李密が降ると、関東の地はまだ帰属が定まらず、夏侯端は仮節を与えて招諭するよう願い、そこで大将軍を拝命し、河南道招慰使となった。そこで檄文を州県に伝え、東は海に迫り、南は淮水をふさぎ、二十州以上使者を派遣して従わせていった。譙州に行くと、ちょうどその時、亳州・汴州の二州の刺史が王世充に降った後で、道は塞がれ、帰るところがなく、どうすることもできずに彷徨い歩いた。麾下の二千人の糧食は尽きたが、勝手に夏侯端のもとを去るには忍びなく、夏侯端はそこで馬を殺して大沢の中で宴し、大勢に向かって、「私は王命を奉って、義は屈することができない。公らは妻子がいるから、いたずらに死んでは無益だ。私の首を斬って、持っていって賊に与えれば金持ちになれるぞ」というと、麾下の者たちは号泣して見るに忍びず、夏侯端もまた泣き、自刎しようとしたが、押さえられたから止めた。行くこと五日、餓死する者は十人中四・三人になった。賊に遭遇すると、大勢は壊滅し、従う者はわずか三十人ほどで、遂に東に逃げ、蔓豆を掴んで食べた。夏侯端は節を持って寝起きし、「平生死地を知らずにいたが、それがここにあったとは」と嘆き、その麾下を解き放って去らせたが、いなくなる者はいなかった。ちょうどその時、李公逸が𣏌州を守っており、兵を集めて夏侯端を出迎えた。当時、河南の地はすべて王世充の手中に入っていたが、李公逸は夏侯端の節義に感じ入り、また固く守備することとなった。王世充が人を派遣して淮南郡公・尚書少吏部の印綬によって夏侯端を召寄せ、さらに自分の着ている衣を脱いで、夏侯端に贈った。夏侯端は、「私は天子の使だ。どうして賊官に汚されようか。首を持っていくのでなければ見えることなんてできないぞ」と言い、そこで書および衣を燃やし、持節の毛を脱いて懐に入れ、間道から宜陽に逃げ、険しい山々や茂みを通った。到着すると、その麾下はわずかにしかおらず、全員の身体や髪がやせ衰えて日焼けし、人々は正視できなかった。夏侯端は宮中に入って謁し、自ら功がなかったことを謝し、危険と困窮の報告を行わなかった。は憐れみ、また秘書監を拝命した。京師から出されて梓州刺史となった。受け取った俸禄は孤児や寡婦に与え、自分の子孫の蓄えとはしなかった。貞観元年(623)卒した。


  劉感は、岐州鳳泉県の人で、後魏の司徒の劉豊生の孫である。武徳年間(618-623)初頭、驃騎将軍となって涇州を守備したが、薛仁杲によって包囲され、兵糧は尽き、乗馬を殺して兵士に食べさせ、骨を煮て自ら飲み、木屑を和えて食べた。城が陥落しようとしたとき、長平王の李叔良が救援し、賊はそこで解囲した。李叔良とともに城を出て戦ったが、賊に捕らえられ、戻ってきて涇州を包囲し、劉感に城中を降伏させるよう約束させた。劉感は欺いて承諾し、城下にやって来て大声で「賊は大いに飢えていて、滅びるのは一昼夜であろう。秦王が数十万の軍を率いてまさにやって来ようとしている。ここで励めば苦しみなどない」と叫んだ。薛仁杲は怒り、劉感を捕らえてその半身を土中に埋め、馬を走らせて騎射させた。死ぬまで、ますます激しく罵った。

  賊が平定させると、高祖はその死体を買い求め、祭祀は少牢(羊と豚)により、瀛州刺史を追贈し、平原郡公の爵位に封じ、封戸二千とし、諡を忠壮とした。その子に詔して封爵を継がせ、田宅を賜った。


  常達は、陝州陝県の人である。隋に仕えて鷹撃郎将となった。かつて高祖の征伐に従い、宋老生と霍邑で戦い、軍は敗れて自ら隠れ、は死んでしまったと思っていたが、しばらくして自分で帰ってきた。帝は大いに喜び、命じて統軍とし、隴州刺史を拝命した。

  当時、薛挙が強勢になり、常達はその子の薛仁杲を破り、斬首千人であった。薛挙は将軍の仵士政を派遣して偽って降伏させ、常達は疑わず、手厚く礼遇して親しんだ。仵士政は隙を伺って常達を拐い、その軍二千名をあわせて賊の手に帰した。薛挙は自分の妻を指さして常達に向かって、「皇后を知っているか」と言うと、:「あれは痩せこけた婆さんで、なにを言っているのか」と答えた。薛挙の奴の張貴が「なら私のことは知っているか」と言うと、常達は眼を怒らせて「お前はただの奴だ」と言ったから、張貴は怒り、笏をあげて常達の顔を打ったが、常達は従わず、張貴が刀を抜いて迫ったから、趙弘安が覆いかぶさったから、免れた。薛仁杲が平定されると、は常達を謁見して、「君の忠節は、まさに古人が求めてきたものだろう」と労い、常達のために仵士政を捕らえて殺し、常達に布帛三百段を賜い、常達および劉感の事を史臣令狐徳棻に知らせたという。隴西刺史で終わった。


  敬君弘は、絳州絳県の人で、北斉の尚書右僕射の敬顕儁の曽孫である。功績によって累進して驃騎将軍となり、黔昌侯に封ぜられた。屯営の兵によって玄武門を守備した。隠太子が死ぬと、左右の者は散り散りとなった。その車騎将軍の馮立は、武才があり、「生きている時にその恩寵を頼りながら、死んで共に難にあたらないのは、私はそんなのを士大夫とは見なさない」と歎き、そこで巣王の親将の謝叔方とともに兵を率いて玄武門を攻撃して、ことさらに死闘した。敬君弘は身を挺して突出すると、ある者が「事はまだどうなるかわかりません。軍を擁したまま変の動向を待ち、列をなして戦うのがよろしいと思います」と言ったが、その意見に従わなかった。中郎将の呂世衡とともに叫んで突進し、全員が戦没した。馮立はその部下を振り返って、「これで太子に報いるに充分だ」と言い、遂に兵を解散して逃走した。敬君弘らが敗れると、秦府の兵は不利となった。尉遅敬徳が巣王の首を投げて謝叔方に見せ、謝叔方は下馬して慟哭し、同じく出奔した。翌日自ら帰順すると、太宗は「義士である」と言って、処罰を捨て置いた。にわかに馮立もやって来ると、は「お前は私の兄弟から離れた。これが罪の一つである。我が将兵を殺したのが罪の二である。どうして死を逃れようか」と言うと、「身をなげうって主に仕え、戦いの日にあたっただけであって、その他の事は存じません」と答え、地に伏せて悲しみのあまりどうすることもできず、帝もまた労った。詔して敬君弘に左屯衛大将軍を、呂世衡に右驍衛将軍を追贈した。

  馮立が命を許されると、帰って、ある人に向かってが「お上は私の罪を赦したから、私は死を以て報いなければならない」と言った。しばらくもしないうちに、突厥が便橋を侵犯し、馮立は数百騎を率いて敵に迫り、敵を咸陽で破った。は喜び、広州都督を授けた。前任の都督は苛斂誅求をほしいままにし、蛮夷の患いとなったから、しばしば叛乱が発生した。馮立がやって来ると、家の財産を増やすことにつとめず、衣食で利益を求めることはなかった。かつて貪泉(飲むと欲張りになると言われる泉)を見て、「これは呉隠が酌んだというところか。私が毎日酌んだところで、どうして私の性格を変えられようか」と言い、飲んで去った。在職は三年もせずに、慈愛があったが、在官中に卒した。

  謝叔方は伊州刺史に任じられ、統治・軍事の成績がよく、異民族からも漢人からも愛された。累進して銀青光禄大夫を加えられ、洪州・広州の二州都督に遷された。卒すると、諡を勤という。もとは万年県の人で、巣王に従って征討に功績があり、巣王は上表して屈咥真府左軍騎となったという。


  呂子臧は、蒲州河東の人である。剛直で、役人としての能力に秀でた。隋の大業年間(605-618)末、南陽郡の丞となり、盗賊を捕らえて功績があった。高祖が京師に入ると、馬元規を派遣して山南を慰撫させたが、呂子臧のみは堅く守った。馬元規は士を派遣して説き伏せようとしたが、呂子臧は士を殺した。煬帝が弑されると、はさらにその婿の薛君倩を派遣して詔を持っていき、隋が滅びた理由を述べ、呂子臧を諭した。呂子臧は故君のために喪を発し、終わると書簡を送り、鄧州刺史に任じられ、南陽郡公を拝命した。

  武徳年間(618-623)初頭、朱粲が新たに敗れると、呂子臧は兵を率いて馬元規と力をあわせた。馬元規の軍は進まず、呂子臧は、「賊が敗れたのに乗じて、上下が恐れを失えば、一戦して捕虜にできるでしょう。もし遅れれば、敵軍は次第に集まり、私は食べ尽くされ、私が死んでしまっては、対処できません」と言ったが、受け入れられなかった。呂子臧は部下の兵たちで一人進撃することを要請したが、また許さなかった。にわかに朱粲は軍を得て、再び勢力を取り戻し、馬元規は籠城すると、呂子臧は腕を掴んで、「謀は用いられなかったのだから、公に連座して死ぬだけだ」と言い、賊は堅固に包囲した。ちょうどその時、長雨となり、城壁が崩れ剥がれ、ある者が降伏を勧めると、呂子臧は、「私は天子の諸侯だ。どうして賊に降伏しようか」と言い、そこで麾下数百人を率いて敵軍に進んで死に、城もまた陥落し、馬元規は死んだ。

  馬元規は、安陸県の人である。はじめ隊正(五十人隊の隊長)としての征伐に従い、持節して南陽にくだり、兵一万以上を得たが、しかし謀なく、敗れるに到った。


  王行敏は、并州楽平県の人である。隋末に盗賊の長となり、高祖が勃興すると、やって来て投降し、潞州刺史を拝命し、屯衛将軍に遷った。劉武周が并州に侵入し、上党に侵攻すると、長子県・壺関県を奪取した。ある者が刺史の郭子武が臆病で支えられず、潞州は失われるだろうと言ったため、は王行敏を派遣して急行させた。到着すると、郭子武と不仲で、賊は激しく攻囲し、兵糧は乏しくなり、軍は恐れ慄き、王行敏は心配した。ちょうどその時、郭子武が謀反したと密告する者がいて、遂に郭子武を斬った。州民の陳正謙なる者がいて、信義によって郷里で称えられ、粟千石を出して軍を助け、これによって人々は発奮し、賊は去った。王行敏はまた竇建徳の兵を武陟で破った。武徳四年(621)、兵を率いて燕・趙を従わせ、劉黒闥と歴亭で戦い破った。甲冑を脱いで備えないでいると、劉黒闥に奇襲され、縛られて麾下になるよう強制された。ついに屈せず、賊に斬られた。死のうとするとき、西に向いて跪いて、「臣の忠義はただ陛下が知るのみだ」と言った。帝は聞いて悼み惜んだ。

  劉黒闥の乱で、死んだ者はまた盧士叡李玄通がいる。


  盧士叡は韓城を行き来した。隋が乱れると、英傑と好みを結んだ。高祖と旧交があり、兵をおこすと、数百人を率いて汾陰に謁見し、また兄の子に説諭させて匪賊の孫華を降らせ、劉弘基とともに隋将の桑顕和を飲馬泉で破った。右光禄大夫に抜擢され、瀛州刺史となった。劉黒闥が軽騎兵を派遣して外郭を破り、抗戦すること半日、兵士が親族・係累が捕虜となっているのを見て、そのため軍は崩壊した。盧士叡は賊の捕虜となり、城を降すべく説得させようとしたが、従わず、殺された。


  李玄通は、藍田県の人である。隋の鷹揚郎将となり、高祖が関内に入ると、部下を率いて帰順し、定州総管を拝命した。劉黒闥に敗れると、劉黒闥は李玄通の才能を愛し、将にしたいと思った。李玄通は、「私は節を守って報いるべきであるのに、どうして志を賊に降すことができようか」と言って許さず、囚われた。昔の部下で酒食を提供する者がいた。李玄通は、「諸君は悲しんでくれているが、私は諸君らのために一晩飲もうではないか」と言い、飲み明かし、看守に向かって、「私は剣舞ができるぞ。刀を貸してくれ」と言い、看守が刀を与えた。曲が終わると、天を仰いで大きな溜息をついて、「立派な男子たる者、地方を治めるべきなのに、保全し守ることができなかった。なおも世間に顔向けできようか」と言い、そこで腹をかっさばいて死んだ。は涙を流し、その子の李伏護を抜擢して大将軍とした。


  羅士信は、斉州歴城剣の人である。隋の大業年間(605-618)、長白山の賊の王薄左才相孟譲が斉郡を攻め、斉郡通守の張須陀が兵を率いて賊を攻撃した。羅士信は執衣によって、年十四歳で、身長は低かったが剽悍で、自ら誠を尽くすことを願った。張須陀は甲冑すら着れないのではないかと疑い、若すぎるとした。羅士信は怒り、重装甲冑を着て左右に弓袋を着け、馬に乗って周囲を見回した。張須陀は従軍を許した。賊を濰水の上で攻撃し、陣に割って入ると、長矛を持って賊の陣営に突入し、数人を刺殺し、一つの首級を取って放り投げ、その首級を矛で受け、突き刺して行ったから、賊は皆恐れ、あえて抵抗しなかった。張須陀はこれに乗じて、大いに賊を破った。羅士信は追撃し、一人の賊を殺すたびに、たちまち鼻を削いで懐に入れ、戻って来ると、証拠として首級の代わりとした。張須陀は感服し、自分が乗っていた馬を贈った。戦になると、張須陀が先鋒となり、羅士信が副となったが、それが常となった。煬帝は使者を派遣して張須陀・羅士信の戦闘の図を描かせて内史に進上させた。

  後に張須陀李密に殺されると、羅士信は裴仁基とともに李密に帰順し、総管に任じられ、率いる部隊で王世充を討伐させられた。身体に多くの槍傷を受け、王世充に捕らえられた。王世充はその才能を愛し、厚遇し、寝食を共にした。後に李密の将である邴元真らを得ると、そのため羅士信は少しずつ疎んじられた。羅士信は同等に扱われたことを恥じ、率いていた部下千人以上とともに高祖に来降し、陝州道行軍総管を拝命し、そこで王世充への対応を謀った。

  羅士信は進軍すれば先鋒となり、反転すれば殿(しんがり)となり、獲得するものがあれば、ことごとく戯れて部下で功績がある者に散財し、あるいは衣を脱いで馬を解いて賜い、兵士はそのため忠誠を誓った。しかし軍法は厳しく、親族や旧知であっても少しも許すことはなく、その部下もまたあまり親しまなかった。軍は洛陽に行き、千金堡を攻撃すると、悪口で軍を罵ったから、羅士信は怒った。夜に百人の嬰児を載せて泣き叫んで堡の下に行き、東都から出奔した者のようにし、偽って、「間違えた。これは千金堡だ」と言い、そこで逃げ去った。千金堡の兵が門を開いて追撃すると、羅士信は伏兵を侵入させ、これを皆殺しにして全滅させた。賊が平定されると、絳州総管を授けられ、郯国公に封ぜられた。

  秦王に従って劉黒闥を洛水のほとりで攻撃し、一城を奪取して、王君廓が守備したが、賊が急襲してきて、潰滅して脱出した。秦王は諸将に向かって「だれがここを守備できるか」と言うと、羅士信は「私に守らせてください」と言い、そこで守備を命じた。羅士信は到着すると、賊は全軍で攻撃してきて、ちょうどその時雨雪となり、救援軍は進むことができなかった。城が陥落すると、劉黒闥は登用したいとおもったが、屈することなく死んだ。年二十八歳であった。秦王は悲しみ、その死体を購って葬り、諡を勇という。それより以前、羅士信は裴仁基に礼遇され、東都が平定されると、家財を出して北邙に葬って裴仁基の恩義に報い、また「私が死んだら墓をその側に葬ってくれ」と言い、ここにいたった、初志の通りとなった。


  張道源は、并州祁県の人で、名を河といい、字によって世間に知られた。年十四歳で、父の喪に服し、士人はその孝ぶりを賢人とし、県令の郭湛がその住む所を命名して復礼郷至孝里とした。張道源はかつて客とともに夜に宿をとったが、客が突然死し、張道源は主人が恐慌することを心配し、死体の側で寝て、朝になってから報告し、また徒歩で遺体を護送してその家に戻した。隋末の政乱で、監察御史を辞任し、郷里に戻った。

  高祖が勃興すると、大将軍府戸曹参軍に任じられた。賈胡堡に到着すると、再び并州を守備した。京師が平定されると、山東の撫慰に派遣され、燕・趙に下った。詔があってお褒めの言葉を賜り、范陽郡公に封ぜられた。淮安王李神通が山東を攻略すると、趙州を守備させられたが、竇建徳に捕らえられた。ちょうどその時、竇建徳は河南に侵攻し、人が派遣されて朝廷に詣でると、虚に乗じて賊をついて脅やかすよう願った。そこで諸将に詔して兵を率いて迅速な対応をさせた。にわかに賊が平定されると帰還し、大理卿を拝命した。当時、何稠が有罪となり、その家族を没籍して群臣に賜った。張道源は、「人の幸不幸は常のことだ。どうして人の滅亡に利して、その子女を奪って自分に奉仕させられようか。仁者がすることではない」と言い、改めて資財を衣食にしてその子女に贈った。天子は張道源が老いたのを見て、綿州刺史に任じた。卒すると、工部尚書を追贈され、諡を節という。張道源の官は九卿であったとはいえ、財産がなく、亡くなった頃、粟二斛があるにすぎなかった。詔して帛三百段を賜った。


  族孫の張楚金は、品行が卓越しており、兄の張越石とともに二人とも進士に推挙された。州は一人張楚金のみ推挙したいと思ったが、固辞し、二人とも罷めるよう願った。都督の李勣は「士は才行を求めるものである。すでに謙譲できるのだから、どうして二人とも採用するのを嫌うのか」と嘆き、そこで二人とも推薦した。刑部侍郎に昇進した。儀鳳年間(676-679)初頭、彗星が東井に見え、上疏して政治の得失を述べた。高宗は喜んで受け入れ、物二百段を賜った。武后の時、秋官尚書を経て、南陽侯に封ぜられた。清き操があり、碑文をつくることを尊んだが、当時の人はまだ早いと思った。酷吏に陥れられ、配流となって嶺表で死んだ。


  李育徳は、趙州の人である。祖父の李諤は、隋に仕えて通州刺史となり、名臣となった。代々財に富んで、家僕は百人であった。天下が乱れると、そこで私的に完全防備し、武陟県に城壁をめぐらせて自ら守り、人々の多くが従い、ついに長となった。匪賊が来寇したが、勝つことができなかった。隋が滅亡すると、柳燮らとともに李密に帰順し、李密は総管に任じた。李密が王世充に敗れると、郡ごと来降し、そこで陟州刺史に任じられた。

  兄の李厚徳は、賊の所から逃げ帰り、河を渡ったが再び捕らえられた。賊は李育徳を招かせ、表向きは許し、そのため兄は死ななかった。賊帥の段大師が部下の将校に兵で李厚徳を守らせ、密かにその楽しみを得て、そこで州人の賈慈行とともに賊を駆逐することを謀った。賈慈行は夜に城に登って、「唐兵が登ってきたぞ」と叫び、李厚徳は獄から囚人たちを擁して騒いで脱出し、長史を斬り、軍はあえて動かず、段大師は城壁から縄を下ろして逃走した。そこで殷州刺史を拝命した。李厚徳は親族の安否を確認し、李育徳を留めて守らせ、兵を率いて賊の河内の堡塁三十一所を破った。王世充は怒り、全精鋭で攻撃し、城は陥落したが、なおも力の限り戦い、三弟とともに全員が死んだ。

  当時、節に死んだ者は李公逸張善相とあわせて三人であった。


  李公逸は、族弟の李善行とともに雍丘におり、才能が突出しており、そのため大勢が帰服した。始め王世充に従い、王世充が必ず敗れることを察し、そこで高祖に来降し、そのためその地に𣏌州を設置し、総管を拝命し、陽夏郡公に封ぜられ、李善行を刺史とした。王世充はその弟を派遣して徐州・亳州の兵を率いて攻撃させ、李公逸は救援を要請したが、まだ何ら連絡が来なかった。そこで李善行に守らせ、自ら朝廷に入って言状することとした。襄城までやってきたが、賊に捕縛されて洛陽に送られた。王世充は「君は鄭を飛び越えて唐に臣従しているが、どうしてか」と尋ねると、「私は天下にただ唐があるとだけ聞いている」と答えたから、賊は怒って斬られた。李善行も同じく死んだ。は哀悼し、その子を襄邑県公に封じた。


  張善相は、襄城の人である。大業年間(605-618)末に里長となり、兵を率いて盗賊を討伐していたから、そのため大衆が頼りとし、そこで許州によって李密に帰順した。李密が敗れると、挈州とともに唐に来降し、詔して伊州総管を授けられた。王世充が侵攻してくると、しばしば賊に悩まされ、使者を三人派遣して救援を要請したが、朝廷はその暇がなかった。兵糧がつき、兵が餓死すると、張善相は幕僚に向かって「私は唐の臣となって、命を捧げよう。君らは死ぬことはない。私の首を斬って賊に降るとよい」と託したが、軍は泣いてよしとせず、「公と一緒に死んでも、一人では生きたくはない」と言った。城が陥落すると捕らえられ、賊を罵って殺された。高祖は「私は張善相を裏切ったが、張善相は私を裏切らなかった」と歎き、そこで子を襄城郡公に封じた。


  高叡は、京兆万年県の人で、隋の尚書左僕射の高熲の孫である。明経化に貢挙し、しばらくして通義県令となり、統治の成績が優れていたから、人々は石碑を刻んで徳政を記録した。趙州刺史を経て、平昌県子に封ぜられた。聖暦年間(698-700)初頭、突厥の黙啜が入寇し、高叡は籠城して防衛したが、敵の攻撃はますます激しくなった。長史の唐波若はたびたび陥落しようとしているから、敵と内通した。高叡に発覚したが、努力したものの制することができず、そこで自ら自刎した。死ぬことができず、捕虜となり、諭して諸県を降させようとしたが、応じることをよしとせず、殺された。それより以前、敵がやって来ると、高叡のために計略する者が、「突厥の鋒先は鋭く、向かった相手で無事だったものはありません。公は抵抗することもできますまい。降伏すべきです」と言ったが、「私は刺史だぞ。戦わずして降れば、罪は大きいのだ」と答えた。武后は歎き惜み、冬官尚書を追贈し、諡を節という。詔して唐波若を誅殺して、その家族を没籍した。制を下して高叡の忠節・唐波若の反逆ぶりを発表し、天下に知らしめた。

  子の高仲舒、古訓の学に通じ、明経化に選ばれ、相王府文学となり、相王は尊敬して慕い、人物を認めて重んじた。開元年間(713-741)初頭、宋璟蘇頲が宰相となると、多く諮問に訪れた。当時、舎人の崔琳は政務に練達し、宋璟らは礼遇することは他とは異なった。常に人に向かって、「古い事は高仲舒に尋ね、時事問題は崔琳に尋ねれば、何を疑うことがあろうか」と言っていた。太子右庶子で終わった。


  安金蔵は、京兆長安の人である。太常工に籍を置いた。睿宗が皇嗣となると、少府監の裴匪躬・中官の范雲仙は私的に皇嗣に謁したことを罪とされ、二人とも死罪となり、これより公卿は誰も謁見せず、ただ工人・俳優・給仕人のみが会うことができた。突然、皇嗣に謀反の企てがあると誣告する者がいて、武后来俊臣に詔して取り調べさせ、左右の者は苦痛を恐れ、罪に服しようとした。安金蔵は大声で「公は私の言ったことを信じないのか。心を切り裂いて皇嗣が叛いていないことを明らかにしてくれ」と言い、佩刀を抜いて自分の腹をかっさばいて、腸が出て地につき、気を失って倒れた。武后は聞いて大いに驚き、輿で禁中に来させ、名医に命じて腸をおさめ、桑を剥いで糸にして縫い付け、一晩たって蘇った。武后が自ら見舞いし、「わが子は自らの潔白を明らかにすることができないが、お前の忠義がそれを証明している」と歎き、そこで詔して獄を止め、睿宗はそのため難を免れた。この当時、朝廷・士大夫はより集まってその交誼を称え、自ら及ぶものはないと思った。

  神龍年間(707-710)初頭、母を喪い、都南の闕口に葬り、石墳を造営して、昼夜休むことがなかった。この土地はもともと乾燥していたが、忽然と泉が家の側を湧き流れ、李が冬に花を咲かせ、犬や鹿が戯れた。本道使の盧懐慎がそのことを上奏し、詔して一門が表彰された。景雲年間(710-712)、右武衛中郎将に遷った。玄宗はかつての忠誠を史官に記録させ、右驍衛将軍に抜擢し、代国公の爵位に封じた。詔して安金蔵の名を泰山・華山の二山の碑に刻んで栄誉とした。卒すると、睿宗の廟廷に配饗した。大暦年間(766-779)、兵部尚書を追贈され、諡を忠といい。子の安承恩を廬州長史とした。中和年間(881-885)、またその遠孫の安敬則を抜擢して太子右諭徳とした。


  王同皎は、相州安陽県の人で、陳の駙馬都尉の王寛の曽孫である。陳が滅亡すると、河北に移った。長安年間(701-705)、太子の娘安定郡主を娶り、典膳郎を拝命した。太子は中宗である。桓彦範らが誅二張(張易之張昌宗)を誅殺すると、王同皎と李湛李多祚を東宮に派遣して太子を迎え、玄武門にやって来て諸将を指揮するよう願った。太子は拒んで許さなかったが、王同皎は進み出て、「小人の反逆者どもが道に背き、明らかに勝手に謀反を企てましたので、諸将は南衙の執事と一緒に期日を定めて誅殺しました。必ず殿下にお越しいただき、皆の期待に応えていただく必要があります」と言うと、太子は「お上がご病気であらせられるのに、こんなことをしてはよくないのではないか」と答えたから、王同皎は、「将軍や大臣が家族を犠牲にして国を安定させようとしているのに、どうしてお心の中だけで天下を定めることができましょうか。太子が自らお出ましになって諭されましたら、軍の動きは止まるでしょう」と言ったが、太子はそれでも躊躇したから、王同皎はそこで抱えて馬に乗らせ、従って玄武門に到達し、関を斬って侵入した。兵は長生殿太后の所に走り、周りを取り囲み、そこで張易之らを誅殺した報告を奏上した。が復位すると、右千牛将軍に抜擢され、琅邪公に封ぜられ、食実戸は五百戸となった。安定郡主は公主に進封され、王同皎は駙馬都尉を拝命し、光禄卿に遷った。

  神龍年間(707-710)後半、武三思が王室内で姦通していたから、王同皎は憎んで、張仲之祖延慶周憬李悛冉祖雍と謀り、武后の霊駕が出発するのを待って、弩を伏せて武三思を射殺しようとした。ちょうどその時、播州司兵参軍の宋之愻の妹の夫が祖延慶で、祖延慶が暇乞いすると、宋之愻は再三問いただし、婚姻関係にあったから、祖延慶は心がこもっていると思い、疑うことがなかった。そのため宋之愻の子の宋曇が謀の実態をつかんだ。宋之愻の兄の宋之問が以前張仲之の家に留まっており、同じくその謀をつかんだ。宋曇に密かに武三思に報告させた。武三思は李悛を派遣して急変を上奏し、また王同皎が兵を擁して宮中で皇后を廃そうとしていると言上した。はとりわけ物事に明るくなく、大いに怒り、王同皎を都亭駅で斬り、その一家を没籍にした。王同皎は死ぬ時に、顔色は自若泰然としていた。張仲之・祖延慶は二人とも死んだ。周憬は逃げて比干廟に入って自刎し、死のうとするとき、人に向かって、「比干は、古の忠臣だ。神であって聡明であるのだから、私がどうして死ぬのか知っているだろう。皇后武三思が朝廷を乱し、忠良の臣を虐殺するのだから、滅亡するのはそう長いことではない。我が吾を国門に掲げよ。そいつらが失脚するのを見ようではないか」と言った。

  周憬は、寿春県の人である。後に太子李重俊武三思を誅殺すると、天下は、武三思の死を王同皎と共に見ることができなかったのを哀れんだ。睿宗が即位すると、詔して官爵を復活し、諡を忠壮という。祖祖雍李悛らを誅殺した。

  これより以前、許州司戸参軍の燕欽融が再び上書して韋后が政治を専制し、叛逆が芽生えていると弾劾した。韋后は怒り、中宗に朝廷に召し寄せるよう勧め、撲殺した。宗楚客もまた私的に衛士に力を尽くさせ、そのため死んだ。また博陵の人である郎岌もまた韋后および宗楚客が政治を乱していると上表し、誅殺された。睿宗が即位すると、二人とも諌議大夫を追贈され、礼を備えて改葬され、燕欽融の一子に官職を賜った。

  王同皎の子の王繇永穆公主を娶り、子の王潜を生んだ。字は弘志である。生まれて三日で、緋衣・銀魚を賜った。幼くして荘重で、子どもが戯れるようなことを喜ばなかった。の外孫であるから、千牛に補され、また選ばれて公主を娶ることとなったが、固辞した。元和年間(806-820)将作監に任じられた。役人の中には北軍として籍を置いていた者もいたが、たちまち堕落して職務を遂行せず、王潜はことごとく奏上して罷めさせ、そのため戒めなければどうなるかを理解した。将作監は公食がなかったが、利息は慣例ではすべて私有してきた。王潜になってから、公食に用いるようになり、遂に故事となった。

  左散騎常侍に遷り、涇原節度使を拝命した。憲宗と対面し、大いに喜ばれ、「私は君が有能だと知っているから、任用したのだ」と言った。王潜が鎮所に到着すると、城壁を修繕し、粟を蓄え、高い建物を造り、兵を集め、利を取るとともに厳格であった。遂に軍を率いて原州から硤石県を越え、敵将一人を捕虜とし、狼煙台を撤去し、帰化堡・潘原堡の二砦を築いた。城を原州に復することを願ったが、度支が議を阻み、そのため原州もまた陥落した。穆宗が即位すると、琅邪郡公に封ぜられ、荊南節度使に改められた。役人で悪い者は隔離し、このことを村門に貼り出し、もっとも酷い者は殺した。弓射の能力を三等に分け、兵士に課して習わせた。できない者は罷めさせたから、そのため軍に余剰な人員はいなかった。大和年間(827-835)初頭、検校尚書左僕射となった。在官中に卒し、司空を追贈された。


  呉保安は、字は永固で、魏州の人である。気概は俗人と同じではなかった。睿宗の時、姚・巂州の蛮が叛き、李蒙が姚州都督となると、宰相の郭元振が弟の子の郭仲翔を李蒙に託し、李蒙は上表して判官とした。当時、呉保安は義安県の尉を罷め、まだ調任されていなかったが、郭仲翔と同郷であったから、直接会いに行き、「あなたの推薦で李将軍に仕えたいができますか」と言い、郭仲翔は普段から親しい間柄ではなかったが、その窮乏を哀しんで、推薦に尽力した。李蒙は上表して掌書記とした。呉保安は後から出発したが、李蒙はすでに深入りし、蛮と戦って戦死し、郭仲翔は捕虜となった。蛮が華人を捕虜にすると、必ず財産を出すよう責め立て、支払わせており、郭仲翔が貴族であったから、千匹の上質な絹を求めた。ちょうどその時、郭元振が亡くなってしまい、呉保安は巂州に留まり、郭仲翔の身代金を払おうとしたが、財力がないのに苦しんだ。そこで滞在して雇われ人となること十年、上質な絹七百匹を得た。妻子は遂州をさまよい、その関で呉保安の所在を求めると、姚州で困窮して進むことができなかった。都督の楊安居がその報告を受け、その理由を不思議に思い、金銭を与えて行かせ、呉保安を探して再開できた。招いてともに語り、「あなたが家を捨てて友人の窮乏のためにここにやってきたというのか。私は官の資財を求めてあなたの窮乏を助けよう」と言ったから、呉保安は大いに喜び、そこで上質な絹を蛮に渡し、郭仲翔は帰還できた。それより以前、郭仲翔は蛮の奴隷とされて、三度逃げて三度捕らえられ、自分の身を辺境の酋長に売ったが、酋長は厳しく待遇し、昼は労役で夜は捕らえられ、蛮の中に没すること十五年で帰還した。

  楊安居もまた丞相のもと下吏で、呉保安の誼みを喜び、郭仲翔を厚礼し、衣服の蓄えを贈り、領域や近くの県尉に通達した。しばらくして蔚州録事参軍に調任され、優れた成績によって代州戸曹に遷った。母を喪い、服喪期間があけると、嘆息して、「私は呉公のお陰で死ぬ寸前を生き延びた。今親を亡くしたのだから、その志を実行しなければならない」と言い、そこで呉保安がどこにいるのかを探した。その時、呉保安は彭山県の丞のまま客死し、その妻も同時に没しており、喪っても帰ることができなかった。郭仲翔は呉保安のために縗(麻布の上衣)と絰(麻の喪帯)の喪服をまとい、その骨を包んで、裸足で歩いて背負い、帰って魏州に葬り、家を墓とすること三年で去った。後に嵐州長史となったが、呉保安の子を迎えて、子に娶せて官職を譲った。


  李憕は、并州文水県の人である。あるいはその先祖は興聖皇帝から出ているともいうが、系譜は明らかではなく、また伝も失われていた。父の李希倩は、神龍年間(707-710)初頭、右台監察御史であった。李憕は若くして優秀かつ明敏で、明経化に推挙されて優秀な成績で及第し、成安県の尉を授けられた。張説が宰相を罷免されて相州刺史となり、親しい者も連座した。張説は部下に後で誰が貴くなるかを尋ねると、李憕および臨河県の尉の鄭巌をあげたから、張説は娘を鄭巌の妻とし、姪の陰氏を李憕の妻とした。母の喪で辞職した。武功県の尉から、政務が最も優れていると評価されて主簿に遷った。張説が并州にいたとき、李憕を引き立てて幕府に呼び寄せた。宰相になると、長安県の尉となった。宇文融が天下の田を括り、高官に選ばれ、多くの賢人をその権力に取り入れた。上表して李憕を監察御史に任じ、分派して検閲に向かわせた。優れた実績によって御史を拝命した。小さな罪に連座し、降格されて晋陽県令に任じられた。三度転任して給事中に遷った。統治に尽力し、任にあっては称えられ、帳簿に非常に明るいから、部下はあえて偽ることがなかった。李林甫の意を失い、京師から出されて河南少尹となった。河南尹の蕭炅は心の中で権力にたより、法をまげて私的に理財したから、李憕はその誤りを制止し、部下の役人に頼られた。道士の孫甑生が左道によって寵幸を得て、祭祀にかこつけて嵩山・少間山を往来し、その際の要請が役人の仕事を乱したから、李憕は応じず、そのため蕭炅につけいられて朝廷で謗られた。天宝年間(742-756)初頭、清河太守に任命された。統治は優れた統治によって推薦され、広陵長史に遷り、民は彼のために祠を建ててお祀りし、毎年絶えることはなかった。賊を捕らえらたため、彭城太守に遷った。酒泉県侯に封ぜられた。続いて襄陽・河東に遷り、採訪処置使を兼任した。京師に入って京兆尹となった。楊国忠に憎まれ、光禄卿・東京留守に改められた。

  安禄山が叛くと、玄宗封常清を派遣して東京(洛陽)で募兵し、李憕は留台御史中丞の盧弈・河南尹の達奚珣とともに城壁や堡塁を修繕し、兵士を慰め励まし、賊の西上してくる先鋒を遮ろうとした。はこのことを聞いて、礼部尚書に抜擢した。安禄山が渡河すると、号令は厳密で、斥候を出しても知ることができなかった。すでに陳留・滎陽が陥落し、張介然崔無詖が殺され、数日もせずして、城下に迫った。封常清の兵は皆練度に乏しい動員兵で、戦ったが勝負にならず、たちまち敗走した。李憕は敗残兵数百を収容し、弦の断たれた弓や折れた矢を集めて堅守したが、人々は戦いに堪えられなかった。李憕は盧弈と、「私の役職は国の重い責任を担っており、尽力して敵わないとしても、官に死ぬべきである」と約束し、部下の将校は皆夜に城壁をつたって逃げ、李憕は留守府に座し、盧弈も御史台を守った。城が陥落すると、安禄山は太鼓を鳴らして入城し、数千人を殺し、矢を闕門に放ち、李憕・盧弈および部下の蒋清を殺害した。詔によって司徒を追贈され、諡を忠懿という。河洛が平定されると、再び太尉を追贈され、一子を五品官に任命した。

  李憕は『春秋左氏伝』に通暁し、大々的に伊川に殖産し、肥沃の地を占め、都から闕口まで、田地や建物を遠望し、当時の人は「地癖」と呼んだ。鄭巌は仕えて少府監で終わり、利産は李憕と等しかったという。

  李憕には十子以上がいて、李江・李涵・李渢・李瀛らは同じく殺害され、ただ李源李彭だけは免れた。


  李源は八歳で家が滅び、捕らえられて奴となり、民間をあちこち行き来した。史朝義が敗れると、もと部下の役人は李源が洛陽にいるのを知って購入したから、奴の身分から脱し、宗属に帰った。代宗が聞いて、河南府参軍を授け、司農主簿に遷った。父が賊の手に死んだから、常に悲憤し、仕えず娶らず、酒や生臭の野菜を絶った。恵林寺は李憕の旧別業であり、李源は寺を頼って住み、戸を閉ざして一日一食で、仏殿は父の寝所であり、通り過ぎるたびに走り過ぎ、階段を登ったことがなかった。自ら墓を営んで終制をなし、時々墓の中で寝ていた。

  長慶年間(821-825)初頭、年八十歳となり、御史中丞の李徳裕が上表して李源を推薦した。「賈誼は、防衛して敵を防ぐ臣は、城郭や国境で死ぬと称えています。天宝年間(742-756)、士で節義のために死ぬ物は稀で、謀反者の異民族がおこると、割符を委ねて城郭を捨てる者は恥とはなさず、しかし李憕が義を同列と約束し、職位を守って泰然とし、刃によって死に、臣節の光は李憕から始まったのです。しかし李源は生まれつき至孝で、心に禄を食んで仕えることを五十年以上拒み、常に沈黙を守り、一たび辞して切り開き、百の思いは洗ったかのようです。この真節を抱き、清世を捨てるのは、臣は密かに陛下のために惜むところです」 穆宗が詔を下して次のように述べた。「昔、盗賊が幽州でおこり、河・洛を蕩尽し、贈太尉の李憕は難しきところにあって首位を占め、色を正して死につき、両河はその様子を聞いて、再び危機に防備を固め、ことさらに節に抜きん出たのだから、今に到っても称えられるのである。李源に曾参の行い、巣父の操があり、心静かにして営みがなく、ほとんど老年になったのである。忠を褒めるのは、臣節を勧めるのが理由である。孝をあらわすのは、人倫を奮い立たせるのが理由である。軽薄を鎮めるのに、義を尚ぶのにこしたことがない。風俗を厚くするのに、老いを尊ぶのにこしたことがない。この四つを掲げるのは、大いに時代に戒めるためである。李源を守諌議大夫とし、緋魚袋を賜う」 河南尹は官を派遣してあつく上道を諭し、は自ら使者を派遣して詔書・袍・笏を持たせてただちに賜い、また絹二百匹を賜った。李源は頓首して詔を受け、使者に向かって、「病に倒れて老いぼれて耄碌し、拝謁することができません」と言い、そこで上表して謝文を付し、文章に哀傷と恭しさを吐露し、一つも受けることがなかった。ついで卒した。敬宗の時、李憕の孫を抜擢して河南兵曹参軍とした。


  李彭は明経化に選ばれて及第した。天宝年間(742-756)、名臣の子で用いるべき者に選ばれ、咸寧県の丞から右補闕に遷った。天子が入蜀すると。後李憕に遅れること数年にして卒した。孫に李景譲李景荘李景温がいて、別にがある。


  武徳功臣は十六人、貞観功臣は五十三人、至徳功臣は二百六十五人である。徳宗が即位すると、武徳年間(618-623)以来の宰相および実封功臣の子孫を記録して、一子に正員官を賜った。史館は勲名が特に高い者九十二人を考察して、三等に分けて奏上した。第一等は、その年に官を授けた。第二等は、次年に授けた。第三等は、子孫がしばしば朝廷に訴えたから、詔して等級に差があっての二等とし、増えて百八十七人となった。等ごとに、武徳年間(618-623)以来の宰相を筆頭とし、功臣はその次点と、至徳年間(756-758)以来の将軍・宰相もまた次点とした。大中年間(847-860)初頭、また詔して李峴王珪戴冑馬周褚遂良韓瑗郝処俊婁師徳王及善朱敬則魏知古陸象先張九齢裴寂劉文静張柬之袁恕己崔玄暐桓彦範劉幽求郭元振房琯袁履謙李嗣業張巡許遠盧弈南霽雲蕭華張鎬李勉張鎰蕭復柳渾賈耽馬燧李憕の三十七人の画像を求め、画像を凌煙閣に続けたという。

  司空・太子太傅・知門下省事・梁国公房玄齢
  尚書右僕射・検校侍中・萊国公杜如晦
  太子太保・同中書門下三品・宋国公蕭瑀
  開府儀同三司・同中書門下三品・知政事・上柱国・申国公高士廉
  太子太師・知政事・特進・鄭国公魏徴
  侍中・永寧郡公王珪
  吏部尚書・参豫朝政・道国公戴冑
  中書令・江陵県子岑文本
  中書令・兼太子左庶子・検校吏部尚書・高唐県公馬周
  侍中・兼太子左庶子・検校吏部礼部民部尚書事・清苑県男劉洎
  尚書右僕射・同中書門下三品・河南郡公褚遂良
  太子太師・同中書門下三品・燕国公于志寧
  尚書右僕射・同中書門下三品・兼太子少傅・北平県公張行成
  中書令・行侍中・兼太子少保・蓨県公高季輔
  侍中・兼太子賓客・襲潁川県公韓瑗
  中書令・兼太子詹事・南陽県侯来済
  侍中・兼太子賓客張文瓘
  侍中・甑山県公郝処俊
  中書侍郎・同中書門下三品・兼太子右庶子・酒泉県公李義琰
  内史・河東県侯裴炎
  文昌左相・同鳳閣鸞台三品・温国公蘇良嗣
  内史・梁国公狄仁傑
  納言・検校并州大都督府長史・天兵軍大総管・隴右諸軍大使・譙県子婁師徳
  鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事・石泉県公王方慶
  文昌左相・同鳳閣鸞台三品・襲邢国公王及善
  尚書右僕射・兼中書令・知兵部尚書事・斉国公魏元忠
  紫微令・梁国公姚崇
  正諌大夫・同鳳閣鸞台平章事朱敬則
  尚書左僕射・同中書門下平章事・許国公蘇瓌
  吏部尚書・兼侍中・廣平郡公宋璟
  黄門監・梁国公魏知古
  中書侍郎・同中書門下平章事・兗国公陸象先
  紫微侍郎・同紫微黄門平章事・許国公蘇頲
  中書令・河東県侯張嘉貞
  中書侍郎・同中書門下平章事・清水県公李元紘
  黄門侍郎・同中書門下平章事・宜陽県子韓休
  中書令・始興県伯張九齢
  司空・河東郡公裴寂
  納言・上柱国・魯国公劉文静
  太尉・検校中書令・同中書門下三品・揚州大都督・趙国公長孫无忌
  礼部尚書・河間郡王李孝恭
  尚書右僕射・検校中書令・行太子左衛率・上柱国・衛国公李靖
  司空・兼太子太師・英国公李勣
  開府儀同三司・鄜州都督・鄂国公尉遅敬徳
  左光禄大夫・洛州都督・蒋国公屈突通
  陝東道大行臺・吏部尚書・鄖国公殷開山
  衛尉卿・夔国公劉弘基
  澤州刺史・邳国公長孫順徳
  民部尚書・上柱国・莒国公唐倹
  右驍衛大将軍・駙馬都尉・譙国公柴紹
  右驍衛大将軍・褒国公段志玄
  洪州都督・渝国公劉政会
  左武候将軍・相州都督・郯国公張公謹
  右武衛大将軍・盧国公程知節
  左武衛大将軍・上柱国・胡国公秦叔宝
  弘文館学士・秘書監・永興県公虞世南
  右衛大将軍・兼太子右衛率・工部尚書・武陽県公李大亮
  左武衛大将軍・邢国公蘇定方
  夏官尚書・同中書門下三品・清辺道行軍総管・耿国公王孝傑
  中書令・漢陽郡公張柬之
  中書令・博陵郡公崔玄暐
  侍中・平陽郡公敬暉
  侍中・譙国公桓彦範
  中書令・南陽郡公袁恕己
  右武衛大将軍・同中書門下三品・韓国公張仁愿
  尚書左丞相・兼黄門監・徐国公劉幽求
  黄門侍郎・参知機務・修文館学士・斉国公崔日用
  兵部尚書・同中書門下三品・代国公郭元振
  尚書左承相・兼中書令・集賢院学士・燕国公張説
  紫微侍郎・上柱国・趙国公王琚
  兵部尚書・同中書門下三品・持節朔方軍節度大使・中山郡公王晙
  尚書左僕射・同中書門下平章事・兼河南江淮副元帥・東都留守・冀国公裴冕
  文部尚書・同中書門下平章事・清河県公房琯
  門下侍郎・同中書門下平章事・衛国公杜鴻漸
  鎮西北庭行營節度使・開府儀同三司・衛尉卿・兼懐州刺史・虢国公李嗣業
  平盧軍節度使・柳城郡太守劉正臣
  恒州刺史・衛尉少卿・兼御史中丞顔杲卿
  常山郡太守袁履謙
  河南節度副使・左金吾衛将軍・検校主客郎中・兼御史中丞張巡
  睢陽郡太守・兼御史中丞許遠
  御史中丞・留臺東都・知武部選盧弈
  睢陽郡太守・特進左金吾衛将軍南霽雲


    右第一
  内史令・延安郡公竇威
  将作大匠・判納言・陳国公竇抗
  侍中・兼太子左庶子・江国公陳叔達
  納言・観国公楊恭仁
  判吏部尚書・参議朝政・安吉郡公杜淹
  中書令・虞国公温彦博
  中書侍郎・検校刑部尚書・参知機務崔仁師
  中書令・兼検校太子詹事・上柱国・安国公崔敦礼
  戸部尚書・平恩県公許圉師
  兵部尚書・同中書門下三品・浿江道行軍総管任雅相
  度支尚書・同中書門下三品・范陽郡公盧承慶
  西台侍郎・同東西台三品・兼弘文館学士・楚国公上官儀
  右相・広平郡公劉祥道
  左侍極・兼検校左相・嘉興県子陸敦信
  文昌左相・同鳳閣鸞台三品・楽城県公劉仁軌
  荊州大都督府長史・安平郡公李安期
  尚書右僕射・同中書門下三品・兼太子賓客・襲道国公戴至徳
  司列少常伯・太子右中護・兼正諫大夫・同東西台三品趙仁本
  中書令・趙国公李敬玄
  中書令・兼太子左庶子薛元超
  中書令・同中書門下三品崔知温
  侍中・同中書門下三品・襲広平郡公劉斉賢
  納言・楽平県男王徳真
  地官尚書・検校納言・鉅鹿県男魏玄同
  文昌左相・同鳳閣鸞台三品・特進・輔国大将軍・鄧国公岑長倩
  鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台三品・臨淮県男劉禕之
  納言・博昌県男韋思謙
  地官尚書・同鳳閣鸞台平章事格輔元
  司礼卿・判納言事・渤海県子欧陽通
  内史李昭徳
  鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事陸元方
  鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台三品杜景佺
  尚書右僕射・兼太子賓客・同中書門下三品・鄖国公韋安石
  左散騎常侍・同中書門下三品・知東都留守・趙郡公李懐遠
  中書令・逍遥公韋嗣立
  守侍中・同中書門下三品・兼太子右庶子・常山県男李日知
  検校黄門監・漁陽県伯盧懐慎
  中書令・左丞相・兼侍中・安陽郡公源乾曜
  黄門侍郎・同紫微黄門平章事・魏県侯杜暹
  侍中・趙城侯裴耀卿
  左武衛大将軍・開府儀同三司・淮安王李神通
  特進・太常卿・江夏王李道宗
  荊州都督・周国公武士彠
  右屯衛大将軍・検校晋州都督総管・譙国公竇琮
  少府監・葛国公劉義節
  右光禄大夫・羅国公張平高
  洛州都督・右衛大将軍・酇国公竇軌
  夔州都督・息国公張長愻
  金紫光禄大夫・夷国公李子和
  左監門衛大将軍・検校右武候将軍・榮国公樊興
  左監門衛大将軍・巣国公銭九隴
  右驍衛大将軍・歸国公安興貴
  右武衛大将軍・申国公安修仁
  殿中監・郢国公宇文士及
  右武衛大将軍・沔陽郡公公孫武達
  荊州都督・懐寧郡公杜君綽
  右驍衛将軍・濮国公龐卿惲
  代州都督・同安郡公鄭仁泰
  右翊衛将軍・遂安郡公李安遠
  幽州都督・歴陽郡公独孤彦雲
  始州刺史・左屯衛大将軍・襄武郡公劉師立
  右威衛大将軍・済東郡公李孟嘗
  右監門衛大将軍・河南県公元仲文
  右監門衛将軍・廬陵郡公秦師行
  左領軍大将軍・新興公馬三宝
  右衛大将軍・駙馬都尉・畢国公阿史那社尒
  鎮軍大将軍・虢国公張士貴
  左衛大将軍・琅邪郡公牛進達
  鎮軍大将軍・嘉川郡公周護
  陝州刺史・天水郡公丘行恭
  潭州都督・呉興郡公沈叔安
  散騎常侍・豊城県男姚思廉
  太子少師・同中書門下三品・特進・朔方道行軍大総管、宋国公唐休璟
  左羽林軍大将軍・遼陽郡王李多祚
  左領軍大将軍・趙国公李湛
  刑部尚書・太子賓客・魏国公楊元琰
  殿中監・兼知総監・汝南郡公翟無言
  冠軍大将軍・左羽林軍大将軍・光禄卿・天水県公趙承恩
  将作大匠裴思諒
  右羽林軍将軍・弘農郡公楊執一
  左衛将軍・河東郡公薛思行
  光禄卿・駙馬都尉・琅邪郡公王同皎
  中書令・越国公鍾紹京
  太僕卿・立節郡王薛崇簡
  右金吾衛大将軍・涼国公李延昌
  太子中允同正・冀国公馮道力
  少府監・趙国公崔諤之
  左監門衛中候・光禄卿・申国公許輔乾
  左金吾大将軍・鄧国公張暐
  朔方道行軍大総管・左羽林軍大将軍・平陽郡公薛訥
  河南副元帥・太尉兼侍中・臨淮郡王李光弼
  河東節度副大使・守司空・兼兵部尚書・霍国公王思礼
  左相・豳国公韋見素
  太保・韓国公苗晋卿
  中書令・趙国公崔円
  太原節度使・検校尚書左僕射・同中書門下平章事・金城郡王辛雲京
  河西隴右副元帥・兵部尚書・同中書門下平章事・涼国公李抱玉
  太子太師・検校尚書右僕射・知省事・信都郡王田神功
  四鎮北庭涇原節度使・検校尚書左僕射・知省事・扶風郡王馬璘
  左羽林軍大将軍・検校戸部尚書・兼御史大夫薛景仙
  右散騎常侍・検校礼部尚書・兼御史大夫尚衡
  太原尹・兼御史大夫・北都留守・河東節度副大使・南陽郡公鄧景山
  河東節度副使・兼雁門郡太守・光禄卿賈循
  礼部尚書・東京留守・酒泉県侯李憕
  東平郡太守姚誾


    右第二


  盧弈は、黄門監の盧懐慎の幼な子である。眉目は清楚で美しく、頬の下部がふくれた富貴の相で、謹厳重厚で寡欲な人で、細かなことにこだわって自らを修養した。兄の盧奐も優れた容貌であることは盧弈と遜色なく、剛毅であることが盧弈より上回った。天宝年間(742-756)初頭、鄠県令となり、統治が最も優れ、功績を積んで給事中に抜擢され、御史中丞を拝命した。盧懐慎・盧奐から盧弈まで、三人が同時期に官職にあり、清節ぶりは似ており、当時の人々はその素晴らしさを伝えた。にわかに留台東都、兼知武部選となった。

  安禄山が東都(洛陽)を陥落させると、役人は散り散りに逃亡した。盧弈は前もって妻子に印を懐にさせて間道から京師に逃がし、自分は朝服で役所に座した。捕らえられ、殺されようとするとき、ただちに安禄山の罪を数え上げ、おもむろに賊徒に振り返って「人臣となる者は逆順を知るべきである。私は節を失うようなことはしない。死んでも何を恨もうか」と言い、見るもとは恐れおののいた。盧弈が刑に臨むや、西に向い再拝して別れの言葉を述べ、賊を罵って口が休むことがなく、逆党は顔色を変えた。粛宗は詔して礼部尚書を追贈し、役人に諡するよう命じた。当時の人々は、「洛陽の存亡は、兵を操る者がその責任を負うべきであり、法を守る官吏が対抗できるものではない。敵に身を委ね、死をもって誰を恨むべきか」と思った。博士の独孤及は「荀息は身を晋で殺し、その発言により禄を食まず、玄冥(五帝の補佐をする五佐の一人)はその官に勤めて水死し、位を守って自分の身を忘れたのです。伯姬は乳母を待って焼死したのは、礼を先んじて自分の身を後にしたからです。彼らが死んだのは、すべて無駄だったのです。しかしながら安禄山は荀息の時代の里克や丕鄭といった者よりも強大でした。盧弈は公平に調査する任があり、玄冥の官に近かったのです。人々の命運がかかっていることは、ただ乳母を待っているようなことではないのです。逆党の兵威は、水火よりも激しかったのです。この時に武器をとれる者は同じく力を尽くし、押しもせず引きもせず、操を白刃の下に全うしたのは、どうして妻子恋人を思い浮かんで生きながらえた者と同じようにできましょうか。願わくば諡を貞烈とされますように」と述べ、詔によって裁可された。

  子の盧𣏌は、別にがある。盧𣏌の子は盧元輔である。


  盧元輔は、字は子望で、若くして清らかな行いで有名であった。進士に選ばれ、崇文校書郎に補任された。盧𣏌が死ぬと、徳宗は盧𣏌のことを思って忘れず、盧元輔を左拾遺に任命した。杭州・常州・絳州の三州の刺史を歴任し、考課は最も高く、京師に召喚されて吏部郎中を授けられ、兵部侍郎に進み、華州刺史となって卒した。

  盧元輔は穏和でありながら剛直かつ誠実で、祖父盧弈への詔によって、要職を歴任したが、人々は盧𣏌への憎しみによって係累とはしなかった。


  張介然は、猗氏県の人で、本名は張六朗である。性格は慎み深く徳があり、計画を立てるのに長じた。始め河・隴支郡太守となった。王忠嗣皇甫惟明哥舒翰が相継いで節度使に任じられると、三人とも営田・支度等使に任じた。奏上によってお褒めの言葉を賜り、賜い物は懇ろで手厚かった。張介然は、「臣の位は三品で、棨戟(儀礼用の矛)が給付されます。もし京師に並べたなら、富貴であっても、故郷の人が知ることがありません。願わくば矛を故郷に並べさせてください」と申し上げ、玄宗は許し、別に矛を京師の邸宅の門に賜い、また絹五百匹を賜り、郷里の長老と宴会した。郷里で矛を列べることができたのは、張介然から始まった。哥舒翰に推薦されて少府監となり、衛尉卿を歴任した。

  安禄山が叛くと、河南節度採訪使に任じられ、陳留を守備した。陳留は水陸の要衝で、居民が群がることが多く、太平が長く続いたから、戦いを知らなかった。張介然は屯営に到着して三日もしないうちに、すでに賊が渡河した。車や騎兵が移動して煙塵が数十里にのぼり、日々顔色を失わせた。兵士は鐘や鼓の音を聞いて、全員が勇気を失って武器を渡すことができなかった。およそ十六日して、城は陥落した。それより以前、詔があって、賊の首に懸賞金をかけ安慶宗を誅殺するの状を掲げた。安禄山が陳留に入って、詔書を見ると、嘆いて大いに哀しんで、「私に何の罪があろうか。我が子もまた何の罪があって殺されるのか」と言い、大いに怒り、陳留で降伏した者一万人を殺して思い通りにし、血が流れて川となった。張介然を軍門で斬った。偽将の李廷望を節度使とし、陳留を守らせた。


  安禄山が陳留を陥落させると、太鼓を前にし、あえて抵抗する者がいなかった。途中、滎陽を攻め、太守の崔無詖が軍を率いて城壁の上にあがったが、敵軍の喧騒を聞いて、自ら堕ちる者が続出して雨のようであり、崔無詖は部下の役人とともに全員が賊の手にかかって死んだ。そこで偽将の武令珣が守備した。

  崔無詖は、もとは韋后の外戚で、博陵の旧家である。それより以前、崔無詖は蕭至忠の娘を娶り、蕭至忠が失脚すると、左遷された。しばらくして益州司馬となった。平素より楊国忠と親しく、楊国忠が宰相になると、引き立てられて少府監となり、滎陽を守備した。詔があって礼部尚書を追贈され、諡を毅勇という。


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最終更新:2025年08月16日 13:50
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