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雑記:文或と近代もろもろ、143 - (2019/04/14 (日) 01:13:58) の編集履歴(バックアップ)


雑記:文或と近代もろもろ、143


1月28日めも。


リアルタイムは4月13日、あちこちに毒を吐き散らしていたんですが、このWikiを作る前にも作ったあとからも定期的になんかしらの毒を常に抱えているという自覚はあるものの、どうもその毒の方向…いや、方向そのものは変わらない気もする。
内容というか段階というものが常に変わってるな、とも思うんですが。
吐き出すことで前のことは整理出来ているのか。
それとも、整理しても整理してもなにかを常に抱えているのならば無駄なのか、と考えることもないでもないですが、まあ、悩むのが無駄という気もしないのでまあいいか、個人の中では結論が出たが、それが完全な勘違いという可能性もあるんですけども。
その結論において私の地位が上がっておらず、相手にそれを伝えてもいいかな、と思えたらとりあえずそれは問題がない結論ということにしています。
私の地位が上がってたらそりゃ、地位を上げるためのなんかしらの脳内マジックって可能性が高いからなー。
この脳内マジックが一番問題だということはまあよくわかっているしね。
正しいかどうかはあんまり気にしてないです。
いやだって、正しいことを言わないとならない立場でもないしなぁ。
ただ世の中に、そら駄目だろ、どっちかの方向でもいいから譲れよって一面があるとは思ってるので、それは間違いでもないだろう、と。
男尊女卑なんかわかりやすい、女には権利もないが義務もないってやつ。
権利は皆無だが全ての義務を負う必要がある理論はさすがに駄目じゃろなと。

無理強いしたら相手から感謝されると思ってて通らなくて、絶望するとかな…。


1月29日めも。


この一つ前の10日分でだらだらと「芸術性の高いこと」について思うところを語っていたんですが、まあぶっちゃけて文末に書いたように抜き出しデータが本当に大した数ではないので(プロ文に関しては実際論客とまでは認められてて小説はこう、商業雑誌に載ったことが生涯の誇りみたいな感じだったよ)、説教ハーレム以外は大して問題でもないと思うんですけどね、あれはまあいいだろ見ればわかる典型パターン。
そして私は、それを作品に求めることはむしろ褒めたい。
しかして作品としてはハーレムと説教を分離したものが主流であって欲しいという、何作品か願望充足を読んだら飽きて欲しいという気持ちもないでもなく。
あ、ニッチ系の趣味なら全然ありです。
とにかく赤ん坊として扱われたい、扱われたい!! なら。
説教するような妙な存在にならず存分にただ純粋に幼児化するといい!! と心から応援出来るからねー、説教ないほうがいいよ、変に偏ってて萎えるし。
愛情を伝えて、しかしここだけは是正お願いします…、的な方向に向かってくれたらフィクションであってもこう、褒めたい。
こういうのが男性であっても女性であっても作品変化としてあったら、褒められるべきだと思う人気出るべきだと思う。
そういう方向になりやすいのがエンターテインメントの流れだと思う。

でもやっぱり、作品の中に閉じ込めて心行くまで堪能したいってのは、おかしなもんでもないなぁ、と。
作品としては好きではなくても、知り合いや友人や同僚が読んでても別にねー?


1月30日めも。


で、ここまで書いてて気付いたんですが、ならば私は「相互理解が絶対の正義」と思っているのかというと多分そうではないです。
ぶっちゃければ相手に命令し、そうされた誰かが受け入れる展開も別に嫌いではない。
ただ、そういう関係になった時に相手からの愛情や献身がますます増しました、と続くのが駄目なだけというか。
関係が悪いままで終わる時に命令が物語りの中で行われ、その結果として歪な関係のままで終わる、というのは私の中では立派にきちんとした話です。
だってこれ、辻褄合ってるじゃない。
相手からの愛情が欲しいならば気遣いと相手への理解と妥協って必要だろと。
もしくは関係はあまり良くないければ、確かに命令者の言うことは正しく、一抹の敬意ならばあるのだ、という作品も全くもっていけます、立派におかずになりますむしろそこまで行くと一気に萌えます。
だから説教は別にいいんだよね。
正しいか正しくないかはこの場合は関係ないんだ、相手に甘える立場での説教をし、それで相手の愛情がいや増すというのがさすがに不気味なんだわ。

しかし繰り返しますが作品の中に留めておける人は別にいいんだ。
それがちょっと趣味が悪いという自覚があってくれなくてもいいし、くれればむしろ酒が飲める、こう甘えさせて欲しいだが説教も受け入れて欲しいだがそこに、強い罪悪感があるとか…。
いや、罪悪感付きなら作品としてもありだな、全てはバランスなのよね。


1月31日めも。


この作品における「万能感の充実」と残酷な作品であればあるほど芸術性が増すというのはやっぱりまた別の問題という気もしないでもないかなぁ、前の10日分では一瞬は被りそうな気もしたんだけど。
いや、被る部分はあるんだろうけどもそれを追求することは多分近道でもない。
この場合、どちらも芸術性が高いとされたのは結局のところ売れなかったからじゃないかと思うんだけども、万能感の充実作品も、残酷であればあるほど作品も、最初の何作品かが売れるだけでだいたいすぐに売れなくなります。
なんでかっていうと明白で、飽きるんだわあれ。
高橋お伝が行き詰ったみたいな感じ、ヒートアップしてくんだけど、ある時点でなんかの谷を越えてぱたっとブームが止みます。
一瞬売れたけどもすぐに廃れた場合において、売れないから芸術性が高いとはまあまず聞かないですね、むしろこの場合は廃れる前に残酷であることが高まるほどに「ゴシップ色」が強まるので売れる感じになるんですが。
この売れたことをもってして芸術性が高いって言われる感じ。
しかし芸術性が高いって儚い概念だよねつくづく…。

この作品傾向だけを受け継いだジャンルってのがあり、そこにおいては芸術性が、むくむくと、多分人間の本質を描くとかそんな感じの。
そっかー、ゴシップ作品思春期向けいえーい。
とはなるけど、そこに属してる人たちには関係ないよね、そんなこと。
これ、不気味の谷を思い出すなぁ、なんの谷を越えたんだろう一体。


2月1日めも。


理論を突き詰めるという感じでもなく、だらだらと続いています、そういや「万能感の充足(説教ハーレムのがわかりやすいけど)」作品じゃないほうのあれ、「正義の実行」みたいなジャンルなのか。
これはフィクションでないほうが盛り上がる感じではあるなぁ。
いや待て、農民が甚振られるとか女が甚振られる場合がわからない(罪がないほうが盛り上がるみたいだしあれ)。
なにを、充足させているのこれ…?
なんかやっぱりこうして並べてみると万能感に近いものがあるんだけども、なんというか、自分の手でやりたいというわけではない以上、完全に同じとは言い難い。
自分でやってる人たちがいるんだけど、この場合は近いものがあるのかなぁ?
しかしやっぱり、なんか内容にばらつきがあるんだよな、強制労働なのにまともな生活してる許せないー、とか、妻なのに殴られないなんて夫の気持ちも考えてあげて! とか、ブラック労働が是正されるなんて、ありえない、耐えるべきだろう!? とか。
反応はすごく似てるんだけど、誰を利するのかが微妙に謎い。
いやこれ、特定の誰かに利益を与える目的じゃないのか、環境が酷い人がいるとして、それが改善されることが許せないっていう感覚だ、これだと共通してるよな?
で、ご当人も酷い環境にあることもある。
全体を改善すれば自分の被害も減ることが理性でわからないわけもないんだけども、全力にて改善に抵抗するみたいなの。

近いものが思い当たったんだけど、箱庭療法かなぁ? 悲劇の追体験するやつ。


2月2日めも。


ええと待って、そういや庶民受けする喜びを伴う段階と、特に当人の喜びが伴わない義務に近い感情で行っている段階とがあるわけか。
喜びはあるものの義務をこなすことへの奉仕の喜びみたいな。
そういや、私に「ヒロイン甚振られ作品」を何回も勧めて来た人、強い自信と私に対しての絶対的な善意を感じたよなぁ…。
つまり形式は似ているものの「正義の執行」であって完全な他人事である領域として楽しんでいたものがあまりに踏み込み過ぎると「他人事などではなかった、あるいは明日は我が身」となってしまって同情に変換されてしまった瞬間が!!
前回分雑記で語っていた高橋お伝のことを脚色しすぎた魯文さんが、ついうっかりちょっぴり腕が良くて同情に至らせてしまった可能性めっちゃ面白いんだけど!!?
いや書いてる間に普通に当人も同情してたのかもだけど。
さすが明治三大文士仕事選べ(リフレイン)、売れ筋なのはいいから別に!

そしてブームが去った辺りの領域に、我々のされたことはけして間違えなどではなかった、無駄なのではなかったのだということを再確認したい人たちが。
待ってこれ、正しいかしら、書きながら死ぬほど同情したけど。
ブラック企業にされたことが無駄ではなかったと確認することに生涯を費やすみたいなやつ? 女が甚振られることが日常だからそういう作品じゃないと全然リアリティを感じないんだけど、男にまともなのがいると思ってんの、それって現実知らないんじゃないの? みたいなやつ?
いや駄目だ、一部は説明出来たけど一部が取り残された芸術が関係なくなった。


2月3日めも。


いやだけど、なんか近いところまで来たような気もします。
庶民は他人事である処刑は大好きだけど、あまり生々しくなると人ごとではなくなってしまって全く態度が変わってしまうみたいなの、確かにあるような気もする(そしたらそれはそれで同情とか好意に変わるんだけど)。
ぶっちゃけてしまえば、これを芸術的ではないって見下すところまではわからんでもないなぁ、どう考えても見せ物小屋のメンタリティだよね。
これに近く提供者としての領域に残酷であればあるほど、エロチックであればあるほど受けがいいみたいな現象がある。
しかしこの二つはほとんど同じものだよな?
この場合は生々しいからではなく、ワンパターンだから人気が落ちる気がする、最初の数作品となることのみがチャンスを掴む道ですみたいなの。

てか、上の庶民の話に関しては、それって要するに事実かどうかとはまた別のリアリティが生まれてしまったということでもあって、それはまた一種の芸術でもあるよなぁ。
人々に偽物であっても改心させてしまうほどの力…、すごくないか。
で、このリアリティを避けて進んでいくのが我らの「箱庭療法」チームかな。
相手の立場には思いを寄せない、人物にもリアリティがない、行われる虐待的な行為だけを徹底して純粋化させることにのみ意味や価値を感じるみたいなの。
芸術とはなんの関係もないけれど、その行為を描くことが真実を描くと思っているから自分たちだけが唯一芸術的であると自認している、という。
あらやだ…、理解出来るなこれはこれで…。


2月4日めも。


この「箱庭療法」のタームにおいては正直なところ、それが現実に行われたことのある行為であるというのは多分実際に事実ではあるんだよね、一面的もなにも、誰かが誰かに虐待を行った場合に、実際その細かい事情は後回しにしてその虐待に関しては語らないとならないような気もするのですが。
が、なんかが変なんだよな、虐待行為を記録することが芸術的であるのならばそれが人間の本性だというのならば止めることが、今後に繰り返さないことがセットになっていないとあんまり意味がないんだよね。
そうでないとこの素晴らしい虐待を祝福して! になっちゃう…。
違うじゃんそれ、違う。
多分この箱庭療法的な行動を取ってしまう人たちって、守らないとならない虐待、後世に残さないとならない虐待、とは思ってないんだよね。
しかし赤の他人にこの虐待を見ることを楽しむことこそが正しい人生みたいなことまで言う、なんだろう、うーん、と。

あれか、それが絶対定理であるということが自明すぎて、是正しようとしてる人が物の道理がわかっていない人に見えるから比較的行為で注意してあげてるみたいな感じか。
女が虐待されることを楽しめるはずよ、貴方も成長すればきっとそうなる、と…。
これ、男女差別みたいなものなんかもですけども、プロ文が昭和時代に「農民が虐待されること」を絶対定理としていたのだとするとわりとグロテスク…、そういやよくお前たちはなんにもわかってない的に説教していたなぁ、と思い出すので…。
変化を望む人を嘲笑う信念だったのかな…、これはわからんでもないんだよな。


2月5日めも。


こっからプロ文の話になるんですが芸術性が高いかどうかっていう話になるとまあ微妙なものの、プロレタリアというものがいわゆる「上の階級」や階級そのものを壊すという目標を持っているのでまともな地主がいるということはあんまり問題でもないんだよね、フィクションにおいてまともな工場主とか描かれたらむしろ厄介というか、敵対視するというのは正直なところ特に問題のあることとも思えないんだよね。
ところがこっから話が複雑になるんですよ。
あの工場主はまともだったから話し合いで済んだ。
今後いい関係を築いていこう、労働改善されて良かったな。
この工場主はどうだろう、どうもまともな気がしないからやっつけようぜ、なにまあ、ストライキでもすればすぐに音を上げるだろう、というエンターテインメント小説が存在した場合、さて、このフィクションは害が多いですか得が多いですか。
農民を叱りつけ叱りつけ、お前たちにはまともな思考能力は必要ない我々の手先と慣れ道具となれ意思など持つな娯楽などもっての他!!
と叱り付けるのがプロ文だった場合、これは本当にどんなものなのと。
正直思い出すのが徳川将軍なんだよね、あ、もちろん一派閥だけのことです、ええまあ、他の人たちのはよく知らないし…、同じ立場で考える人たちもいたはずだけど基本が金持ちのぼんぼんばっかりだと基本がどうしてもこう。

政治から来た人たちの理論がなんかどうも歪められてる気が、して。
冒頭部分は理屈であって、忠実に実行しては駄目なのでは、ないかなってあの。
芸術性を置き去りにしたままで話は一旦終わります。


2月6日めも。


一連の虐待を擁護する発言、その手のフィクションを熱愛し、熱心に勧める人らが「箱庭療法」という前提で、まあそうである人は含まれているのだろうとは思うんですが、ものすごく大雑把に言うと少なくとも芸術性が高いと思ってるんだったら実話でやれ、みたいな感じになります。
少なくともリアリティを付けて一人の人間として成立させるのが芸術じゃないの、ゴシップ展開やりすぎのほうがなんぼか芸術的ってどういうことなのかとしか言えない。
虐待だけをひたすらショーアップして、それだけをお楽しみになりたいのならばそれはニッチ向けの作品でしかないだろう、みたいなのが本音かなー。

いやだってね、虐待って一部極致で起こる異常事態だしね。
人間誰だってやることならまあ確かに、綺麗にラッピングして保存して楽しみながら生きるのもありだと思うけど、それが常態になってるんだとしたら貴方の環境がスラムだったからなんじゃないのかな、となるんだよね。
無能だから相手を理解せずに、支配すれば愛が得られるからって虐待に至るんだよね。
何回繰り返されても全部同じく無能だから、他人に助けを求めなかったから、自分の能力を極端に過信してたから、環境が異常だったから、としか理解出来ないんだよね。
昔、人間誰だって他人の結婚に関して口出ししたいものなんですよ、素直になってもいいですよ、私わかってますから、と言われたんですが。私が。
なぜそんな悲しい趣味を楽しまないとならないのか、親切ごかしで言われるのか…。
多分まあ、親切なんだろうなぁあれ…、薄暗い趣味としてせめてこそこそ隠れればいいのになんであんなに堂々と主張してしまうのか、そこは謎い。

(文或と近代もろもろ、143)