雑学:お江戸の歌舞伎事情。197


女歌舞伎・遊女歌舞伎。7月20日。


もともとこの「女歌舞伎」というのは慣習上では遊女歌舞伎のことを指すようですが、歌舞伎の研究においては阿国歌舞伎が生まれたのち、女歌舞伎が禁止されるようになるまでを指すようで。
阿国歌舞伎は大雑把に1600年くらいから民間の記録にも残り、女院御所で初めて披露した時期から正確に把握されているもののようです、初披露が1603年。
てか、世に知られ始めてから3年で貴人の前で披露? 早いな…。
ただ、1607年に今度は江戸城に呼ばれたのち、姿を消してしまい、一応伝説めいた2代め阿国なども伝わってるようなんですけどね、なにがあったんやら。
1615年から禁止をされる1629年辺りが最盛期。
遊女歌舞伎の名の通り、まあエロティック踊りだったぽいね、阿国の一座は男女逆転で踊っていたそうですが、猿若という、現代の物真似の一種の存在があったりして、もうちょっと技巧的ぽいね。
この猿若師の後継者・猿若彦作が2代め阿国の座を率いたのではないかって言われてるようですが、なんか確認取れないな、伝説って程度ぽい。

てか、江戸城に行ったあと消息不明って本当になんだろうな怖いよな。
ただ、1600年に立ち上がったのか名前が知られたのか曖昧な新芸能ジャンルが、3年で御所の一角、そののち北野天満宮にて常設舞台化、7年ほどで江戸城にも行ったよー、という超スピードに対しての反感があったと言われたらわからんでもない。
女性の地位がさほど低くないわりには女性芸能者への嫌悪もすごいからなぁ日本…、物理的に刺しに来た話も2件知ってる(ナイフと日本刀)、どっちかしらね。


若衆歌舞伎→野郎歌舞伎。7月21日。


んーと、遊女歌舞伎が一般的になりつつあった1603年にはもう若衆歌舞伎があったとのことなので、やっぱり少年や女性の芸能集団が先にあって、そこの演目として選ばれたみたいな感じなのかもね。
江戸に最初に作られた「猿若座」が1624年で、女歌舞伎の禁止が1629年、若衆歌舞伎の禁止が1652年なのでまあ、猿若座(のちの中村座)は若衆歌舞伎って見ていいのかな? ただこちらは座主に狂言師のお兄さんがいて一緒に狂言を習ったぽいので、他の女歌舞伎や若衆歌舞伎と比べてストーリー色が高いのかも。
えーと、猿若座の座主は中村勘三郎さん。
ついでにお兄さんの狂言師は中村勘次郎さんだってさ。
なんか陰間茶屋に歌舞伎俳優が席を置いていて、時々掛け声を掛けるのはその陰間茶屋の名前だったんだよ、とかあって今ちょっとびっくりしてます、なんという習慣…。
若衆歌舞伎自体はお色気重視だったぽいことも書いてあるのでちょっと悩んだものの、若衆好きの徳川家光にわりと頻繁にお呼び出しがあったぽいので、あーまあ、若衆歌舞伎認識で良さそうね。
どっちかというと「猿若舞」を中心にした江戸の流行とあることから見ても、これもこれで新機軸って見たほうがわかりやすいのかも、で、女歌舞伎、若衆歌舞伎が禁止される中で、野郎歌舞伎へと名前と姿を変えての座の継続。

風紀を乱したってのが禁止理由なら、まあまあ自然な流れかも、てか、女歌舞伎の禁止のちしばらく、「若衆歌舞伎の時代」が28年ほど続いてるのね。
これが禁止されたのが1652年、あっ、家光が1651年に死んでたな?!


猿若座→中村座。7月22日。


そもそも「猿若」という名前がどこから出て来たのか最初よくわからなかったんですが、阿国歌舞伎の中に猿若という道化が登場し、その芸風を引き継いだのが「猿若彦作」であり、中村勘三郎はその弟子、とあって、これはどうも伝承のようなんですが、だいたいこれで辻褄は合ってるんじゃないかな。
なんか物真似、獅子踊り、鶴の舞、橋普請の材木を引く音などが項目として上げられているのでこれは現代でも普通に一芸だよなぁ、形態模写とか声帯模写だよね。
そもそも狂言師の一家だったぽい中村勘三郎さんがなんで猿若と名乗っていたのかちょっと謎だったんですが、確かにこの芸を引き継ぎたいんだと弟子にもなるか。
ある意味でお色気芸がストーリー重視にシフトするためには必要な技術っぽい。

てか、そもそもこの猿若彦作という人物は徳川家光が特にお気に入りで呼んでいた人物だったらしいんですが、あれー、声帯模写形態模写の師弟を特にお気に入りだったのか、若衆好みとも言い難いんじゃなかろうか、師匠特にそれなりの年齢だよな多分…。
(中村勘三郎と違って記録が少ないので正確にはわからないんですけどねー。)
若衆歌舞伎が禁止され、前髪を落として「野郎歌舞伎となった」と言われているものの、それ以前から狂言のストーリー、音や仕草を取り入れての演劇として普通に成立してそうだよねこれ、取り締まりは厳しかったようなんですが、1657年の明暦の大火で京都に
向かい、後西天皇の御前にて踊り、そのまま9月には江戸に戻り、という辺りにも芸能としての自負が見えてるような気もするなぁ。
正直、猿若座は遊女歌舞伎の延長上である若衆歌舞伎とは最初から趣きが違った気もするし、そのために江戸入りしたのではって気もするな、証拠はないけど怒られまい。


江戸四座/江島生島事件。7月23日。


猿若座が極端に時期が早かったものの(なにしろ江戸幕府開いて最初の芝居小屋だったらしいし、江戸幕府が1603年、猿若座が1624年)、1670年代までには一旦乱立した芝居小屋が遊女歌舞伎の禁止や若衆歌舞伎の禁止を経て公認制となり、徐々にまとまって来て、一旦江戸四座として定着され掛けたものの。
そのうちの一つである山村座が1714年の「江島生島事件」に連座して座長が流罪になってしまったため消滅、挙げ句の果てに芝居小屋の花道やせり出し舞台の仕掛けを撤廃されたようですね、どういう文脈なのかよくわからんけど…。
家光の下りや猿若座の流れを見てるとなんとなくは…わかるような…。
もともとがエロティックな芸能の流れの上、そもそも芝居小屋の作りが他と比べて巨大過ぎて、火事になると手に負えないって聞いてしまうと、事件に乗っかってこれ幸いと縮小しちゃったんでしょうかね…。
連座者1400人とか聞くとさすがに作為を感じる気持ちもわからんでもないものの、よりにもよって歌舞伎か!! みたいな怒り大爆発ってのもありそうかな…。
あくまでも関係一座を潰し、火事対策を捻じ込んで来たことは、作為というよりは「全力で乗っかった」みたいな雰囲気を感じないでもないな。
まああれ、舞台に仕掛けをするとますます芝居小屋が巨大になっちゃうのかもな…。

あ、事件内容は江島さんていう大奥の女官が、歌舞伎俳優な生島さんとお寺で逢い引きしてた、だそうです、異母兄が斬首刑、残りの重要関係者は流罪らしい。
…やっぱりこう、あかんのだろうなー、とは思うものの、反応が激烈すぎて、歌舞伎が生まれてから延々と騒動引き起こしてきた芸能って加味しないと受け入れにくい…。


堺町・葺屋町。7月24日。


えーと、まず猿若座(→中村座)の立ち上げが京橋の辺り(1624年)、ただここが江戸城に近すぎて呼び込みの太鼓と被ってしまったそうで、次に、まあだいたい日本橋の辺りに移転(1632年)。
したらそこから比較的近い土地にのちに市村座(江戸三座の2番手)と名前を変えることになる村山座が立ち上がりまして、1634年。これが葺屋町。
どうもこの前年の1633年の時点で道を挟んだ向かいの堺町にすぐに潰れた都座が出来ていたみたいね、これが江戸で2番目の芝居小屋なのかな。
したら1651年にはその堺町に猿若座が移転して来まして、その時に名前も中村座に変えたみたいなんだよね、てか、同じ年に徳川家光死んでるのも地味に気になる。
あとついでに、中村座が堺町に越したのが1651年って言ったじゃないですか、向いの葺屋町にいた村山座(市村座)の前なのかしらね、どーんと、最古参が。
てか、翌年の1652年です、村山座が逃げちゃって弟子の市村さんが市村座に改名したの、このお引越しどーんが村山さんににプレッシャーを与えなかったかどうかは微妙なところです。
まあ多分、都座の跡地なんだろうから引っ越しにそこまで深い意味はなかったとは思うけどねー、もうそこそこ江戸も発展して来てる頃だろうしな。

時系列はよくわからないけど、小芝居の玉川座、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座なんてのもこの隣接した二つの町に集まってきていたそうです。
中村座がちょっくら大規模な火事を出して周辺芝居小屋を巻き込むまではな!!
だから言ったじゃん! て江戸幕府が今頭の中で怒ってる、で、皆で集団移転。


木挽町。7月25日。


木挽町は、明言はされていないものの、中村座(←猿若座)、市村座のあった堺町近辺の次に芝居小屋が作られた土地なんじゃないかな、いや、ここにあった山村座が江戸四座時代の一角だったしねー、まずその山村座が1642年立ち上げ。
続いて作られたのが河原崎座、これが1648年。
最後に森田座が作られ、これが1660年。
森田座が江戸三座の一つで、その倒産時のスペアが河原崎座。
この河原崎座が1663年に休座してしまい、森田座が吸収しまして、江戸四座を考えるとこの1663年よりもあとに決まってるのかな、という気もする。

で、さらに1714年に山村座が例の江島生島事件の連座で島流しー、あーれー。
1734年には木挽町で孤立した森田座が地代が払えずに南町奉行に訴えられまして、大岡越前に休座しとけって潰されました、これは正当だけどね!
この後、河原崎座が復活したってことにしたり、かつて休座になった座名をぐるぐる利用し倒して「江戸三座」の体裁を守っていたようです。
関係あるかはわかりませんが、木挽町って名前、これ昔の木場なんですよね、海に面していて木材を浮かべておく場所です、深川も近くだけど、深川めしなんか見ても「かつての海」、で、そういう土地には人足が大量にいるんだよね。
ここの労働者たち目当てで作られた芝居小屋だったんじゃないのかなぁ。
深川の岡場所がその理由で作られてるからねー、公認の遊郭の半額くらいの非合法、まあそんなに厳しく咎められなかったぽいけど(客層のせいもあるかな)。
あとあれ、木挽町って近代に作られた歌舞伎座の土地よね、それで選んだのかしら。


本櫓・控櫓。7月26日。


そもそもこの「櫓」というのはあれです、芝居やるよーん、という合図の太鼓を設置していたとのことで、市村座が江戸城の登城の太鼓と被るんだよ! と叱られたやつですね、認可の大芝居にのみ認められていたらしく、それで芝居小屋そのものを櫓と呼ぶようにもなったようです、まあ、正直わかりにくいから転用されてったのかしらね。
本櫓は中村座(猿若座)、市村座、森田座。
中村座の控櫓が桐座、これはもともと堺町にあって一年でぺったんと潰れたとこ。
市村座の控櫓が都座、木挽町で森田座の翌年に作られて同じくぺっちゃんと。

森田座の控櫓は河原崎座、ここはもともと森田座と同じ木挽町で森田座よりも早く立ち上げられて、休座になった時には森田座に吸収されているのでちょっと格が違うのかも。
そのせいなのか、だいたいこの二座に関しては借金逃れの計画倒産、だいたい半分くらいの時期を担当していたらしいです。
江戸三座の浮世絵にも半分くらいは河原崎座が描かれたんだとか…、そっかぁ。
あと、緊縮財政時の大型倒産で三座とも消えてしまったり、引き継いだところがあっという間に潰れて控櫓が尽きてしまい、なんか一度「玉川座」というところが経歴が捏造されて控櫓扱いになってたこともあるみたい。
ただ、これちゃんと調べたら葺屋町にて立ち上げ、神田明神の宮地芝居として転落、なんでも認可がなくても出来るという規模の小さな小屋の臨時興行になっていたそうなので、来歴は桐座や都座とそう大差ない気もする、代表者は名前借りただけぽいけど。
堺町・葺屋町を書いていた時に出て来た小芝居の玉川座と同じだよねこれ、小芝居としてのちに移転してしまった玉川座とは読み取れなかったかしら…。


猿若町。7月27日。


大雑把に中村座(江戸三座その1)が火事を出し、その上、天保の改革(財政立て直し政策の一つね)が推進中だったので、まあ町外れに全部まとめちまおうぜ! みたいなコンセプトで作られた町が猿若町ってのはわりと昔から知っていたんですが。
それが1841年(天保)ってのは知らなかった…。
天保ってあれだよな、「天保じじい」が死んで明治末のムーヴメントが一新されたって時に出てくる名前だよな。
実際、慶応3年の江戸幕府の崩壊まで20年しかないんでやんの…。
さすがにその間のこの地の隆盛ってのは疑わないものの、そこまでがっつりと地に根付いたかっていうと怪しいものがあるなぁ。
この江戸の町中から外された土地というのが浅草で、近くに新吉原があったっていうんだだよね、まあどっちが先に浅草に来たのかって勘違いしてたけど。
「悪所をまとめたい」って言われたらまあまあごもっとも。
認可外の小さいのが結構あちこちにあるような気もするので、若干ニュアンスがわからないんだけど、あくまで取り締まりたいのが奢侈ってことなら問題ないのかな。
天保に財政改革っていうと、もう対象となるのが武士階級だろうしなぁ、商人なんかにはもうだいぶ勢力を離されているというか、借金問題がどこでも山積だったよなぁ。
庶民の遊びや祭りの臨時芝居なんかは別に関係ないか。

正直、歌舞伎が明治になった時点で後手後手に回っていたように感じることがあった理由がおかげでわかったな、もうちょっとこの猿若町が確固とした存在って思っていたんですが、江戸初期の明暦に移転した新吉原と比べて存在が小さいのも無理もないわ。


市村座(村山座)。7月28日。


ところでこの項目の名前、「市村座」だけでもいいような気もしないでもなかったんですが一応市村羽左衛門という市村座の座長の、名跡っていうのかな? 座長としてのカウントが村山座から始まり、市村座としては3代めから始まったので尊重してみました、というか、村山座の時点で座主だった父親が亡くなり、身体の弱い娘婿が後を継いだものの翌年には弟子に、というような経緯ぽいね。
「向いに中村座がどーんと引っ越してきたからかな!」とか言ってごめんなさい、だがしかし、死亡した父親はともかく娘婿はそれが理由でもおかしくはないかな。

で、元禄の頃からはなんでも座主が歌舞伎俳優も兼ねることが一般的になったらしく、この市村さんの家もちゃくちゃくとつながれてるみたいですね、正直あんまり名前を聞いたことがなかったんだけど、後を継いだ中には知ってる名前もあるし。
ただ、「坂東」のほうが馴染みが深いかな、何人かいるけど…、ごめん。
この家はかなり長期間休座になっていたこともあり、その間に「経歴捏造の玉川座まで引っ張り出されたよ!」というような顛末があったくらいしか他にトピックがないんですが、明治に入ると田村成義という人に引き継がれ、彼が歌舞伎座と行ったり来たりをして松竹に徐々に吸収されて廃座ってことになってるのか。
最後の経歴は松竹の傘下にての「前進座の立ち上げ公演」となってるのでなんとなく寂しいなぁ、江戸を中心に語るか明治に焦点を置くか迷ったんですが、基本的にどこの経営も満遍なく苦しいよな、みたいな内容にしかならないんだよね…。
明治に入っても「村山座」と一時改称していたことがあったんだ、わあ、どこも、苦しいな…経営者を他所に求めるのが無難だったんだろうな…。


森田座。7月29日。


この「江戸三座について」のページを書き始めたのは新富座という日本で初めての近代劇場を作ったのがこの森田座(改め守田座)の座長である12代めの守田勘彌だったのですが、おお、一発変換出来るじゃん、有名人なのかな。
彼の立ち位置を語るのが、なんというか…。
そもそも森田座というのが木挽町という離れた土地で、周辺の芝居小屋はばたばた倒れるわ、控櫓の河原崎座はむしろどっちかというと…森田座よりも幾分マシかな、という雰囲気が漂っているというか。
明治を迎えたのもそもそも河原崎座だったんだよね…(森田座、3度目の休座)。
みたいなところからどうも11代めの勘彌さんが改名をしたらしく、まあまあ、どっちも頻繁に経営破綻するけどね?! というのが素人目には正直なところなんですが。

一念発起した12代めは新富座をまず作り、続いて近代劇場として作られた国のお墨付きのある歌舞伎座を向こうに回し、「左団菊時代」(団菊左ってことも多いけど、語呂が)という黄金時代を作り出したとか言われていたんですが。
よく見たら、11代めのお父さんは自分の座の経理係のお家から養子を取って12代めとしており、激しい納得に至りました、確かに全体的に役者の発想じゃない!!
まあ、なんかだいぶ、どの時代の話をしたいのよ、みたいな雰囲気の内容になりましたが今言いたいことは一つだけです。
勘彌さんたち、もっと早い段階で経理係から養子を迎えておけば、あんなに大変な思いはしなくても済んだんじゃないかなって、足りなかったのは戦略。
結局映画産業でもある松竹に吸収されていくんですが歌舞伎、まあよく伝統残したよ。

(雑学:お江戸の歌舞伎事情。197)
最終更新:2021年03月19日 21:45