雑学:明治の新聞発展事情、177
「新聞」の始め。1月2日。
えーと、打ち込んでる時点でどう表記されるのかよくわからないまま、こんな感じで行く予定です、今まで小見出し生かせてなかったし。
ところで「新聞」の初めというのはそこそこ時期がはっきりしていて、ざっくりと江戸幕府の機能が停止した辺りからだそうです、なんというか、江戸時代におけるかわら版てのはあれは非合法のものだったそうなので。
時々時代劇とかで「号外、号外!」な感じで叫んでるけど捕まるからやんないらしい。
新聞の概念が諸外国から入って来まして、初めてちゃんと発行出来たのがなんでも「慶応新聞」て呼んだりもするようです、まあ、体裁としてはかわら版と変わらないとは思うけど、記事内容はインテリが書いていたりしてだいぶ違いそう。
基本的にこの辺は幕府サイドのほうが有名だったみたいですね。
『中外新聞』がのちに復活してることと(大学南校の方ね)、のちに『東京日日新聞』を主宰する福地源一郎なんかが『江湖新聞』てのを作ってた辺りは覚えておくと流れが掴みやすいかもだけど。
まあどっちもいわゆる佐幕派ってやつだけど。
当時のインテリ層が幕府の役人だったこと自体はわりと仕方ないやな。
で、これより前に幕末の頃、洋書調所で外国人向けの新聞を翻訳してたってのがあるみたいなんだよね、新聞の概念そのものもここから伝わったのかしらね?
なんか寄港してる方たちが日本の事情を共有するために作ってたらしい。
洋書調所ってのはまあ蕃書調所とかのちには開成所とか、漢文以外の研究所のようです、この辺りからも新聞に流入してそうだよなぁ。
『日新真事誌』について。1月3日。
ところで日本近代初期の新聞の歴史の中に、どうももともと新聞に関わっていたのか(港で新聞出してたりもしたみたいだしね、複数挙げられてたよ)、欧米人の方なんかがいたりするんですが、その中で自分でやるー、と言い出したのがJ.R.ブラックさん、彼はまあ治外法権な人なので、めっちゃ嫌がられましたが、まあだよねー?
で、案の定、明治7年の時点の『民選議員設立建白書』ってのをすっぱ抜きやがりまして、大騒動にもなったし、新聞は人気が上がりました。はい。
それが小見出しの新聞らしいです、日刊新聞の最初になるかならないかみたいな話だったけど、どうも隔日発行ぽいし、最初になられるの嫌! て他のが先に認可下りたりしてたのを記憶しています、せこいけど、わかるわさすがにな…。
リアルタイムは11月3日、この日付けは気にしないで下さい、脳内ノルマです。
まず当時の政府ってのは新聞を民衆に読ませようとしてたんだよ、識字率低いけど言葉はちゃんとわかるから、読み聞かせ所を作ってご褒美なんかも用意して頑張っていたんですが人気が全然のようで。
この読み聞かせ所がなんか自然消滅をしていた理由がよくわからなかったんですが。
上のすっぱ抜き事件が起こった後、頼まれなくても庶民が新聞を読むようになったので、金を払ってでも読むようになったので(さすがに高いのでミルクホールとかで、飲み物頼むと新聞が読める店)、まあいらなくなったんだろうな…。
ちなみに『新聞紙条例』は明治8年ですね、偶然、ではないんだろうな、でも、ガチめに関連あるとはされたくなかったんだろうなと思うような時間の経過がね、あるね。
まあブラックさんのことは取り締まれないけどな、まあうん。
東京日日及び横浜毎日新聞。1月4日。
この二つの新聞社は日刊新聞の最初として挙げられていることがある新聞社です、実際には横浜毎日なんだけども、ここが東京日日に買収されてしまい、ついでに東京日日が日刊新聞の2番目らしいのでおまけとしてはありかなという気もする。
東京日日はその後、大阪毎日(上とは別の新聞社)に合併されましたので、現存と言っていいものか違うものか、正式定義はわからんけど私は微妙。
買収の場合は潔く消えたって言っていいみたいなんだけどね。
この東京日日、元勲などとも親交のあった福地源一郎を中心にして立てられていたので彼の身分であった儒学者サイドと政府の肝入りで作られたのかと思っていたんですが、草双紙の版元、代表的戯作者、俳人、浮世絵師、元金座役人というラインナップだったので(『江湖新聞』絡みの人もちょこちょこ、絵入り総かなの大衆紙)、むしろ福地さん、貴方が何者なの?? となってしまったんですが。
江戸の頃にあった文化サロン、好事家の集いみたいなところで知り合った面々のようです、てか、福地源一郎の筆禍第1号って江湖新聞のほうだったのね、今検索してたら引っ掛かりました、んー、法律はまだないので微妙だな…、弾圧はされてるけど、発行停止になったようです、だろうねー、インテリがこんな面子率いてた上に佐幕派じゃなぁ、人気出たんだろうな…。
福地さんは別名福地桜痴、歌舞伎で活歴ものの脚本を書いてたり、フランスにて日本の外交団に劇のあらすじを教え込んだり、のちに歌舞伎座を立ち上げるに至ったり、黙阿弥にフランス作品のネタあげてたり(歌舞伎)、三遊亭園朝に怪談のネタあげてたり(落語)、あと俳優も含めて東京日日系の新聞社にこの人たちもいます、謎い人脈…。
小新聞と『読売新聞』。1月5日。
ところで小新聞と大新聞というものが一応あるんですが、政治扱ってるのが大新聞、市井のニュースと娯楽がメインなのが小新聞です、だいたい。
てか、「新聞紙条例」で保証金を払わないと政治のことが書けなくなってるんですよね、で、ゴシップ特化みたいな感じの小新聞が出来てくるわけですが、ぶっちゃけ、慶応新聞の話聞いてるとそんなに大差ないよなぁ…。
まだ木版画のところも少なくないし。
当時の小新聞の記事がどんなだったのかはまあ次の項目に譲るんですが、この中で「総かな」ではなく「ふりがな新聞」を最初に作ったのが読売新聞でした、明治7年。
わりとエリートが真面目に作ってる感じで評判もいいんだよね。
てか、大新聞をそのままひらがなに書き換えたみたいな新聞も一部試みてはみたようなんですが、ものっすごい人気が低く、なんでかは特に語られてませんでしたが、多分紙面を見ればわかるんじゃないかと思います。
完全識字者でも普通に読めないからなあれ!!
読売てのは「呼び売り」ともいうかわら版の売り子さんのスタイルだったらしいですね、多分読売新聞はこれやってなかったと思うけども…。
尾崎紅葉の『金色夜叉』を長期連載していたりとか、結局追い出して部数が激減していたりとか、都新聞とお互いに対抗意識を持っていたようだったとか、要するに芸事新聞の一種かもなぁ。
てか、初期の主筆早稲田大学の総長だね、坪内逍遥さんの友人、基本的に小新聞をちゃんと扱わない新聞の歴史でも読売新聞だけは別格って感じかも。
「読み売り」の禁止と続き物。1月6日。
で、読売新聞の元ネタである読み売りですが、当時の小新聞がどんなことをしていたのかというと、まず不倫記事などを書きます、そしてその人の家の前で読み上げて購買意欲をそそります。
ちなみに相手は有名人でもなんでもなく、町内レベルの話で、さすがにこれはあかんのではって言われてもいたんですけども、道徳教育のためには仕方ないかなっていうようなことを言われてまして。
当然のことながら喧嘩になっていたりもしたんですよね。
明治12年に禁止されてしまったのも…、意外としぶといなこいつ、というかご町内ゴシップ、どっちかというと噂を書いていたのが小新聞らしいので、まあ、なんだ、低く見られることも致し方ないんじゃないかな…。
読売新聞とか東京日日の系譜とかは別にそんなこともなさそうだけど(庶民向け娯楽についての記事とか書く面子に事欠かないしなぁ、あと花柳界記事とかもありますね、これはプロのお姉さまと客に関しての話、仮名垣魯文とかが得意だった)。
よく考えみたらやっぱり戯作者を小新聞が抱え込めたのってそんなに早い時期ではなかったのかもなぁ、いや、戯作自体が全然ないんだけどねこの明治一桁の時期。
慶応新聞の頃には曲がりなりにもあったんですが、それもおいおい。
ゴシップ記事の読み上げを禁止されてしまった以上、購買意欲を持たせるためにって始めたのが「続き物」と呼ばれるゴシップ記事の連載もの。
1日で終わらずに数日続くために続きが気になってつい買ってしまうらしく。
これが近代小説の原点だったとも言われてます、ロマンがねぇなー! そんなもんか。
明治14年政変とその後の下野。1月7日。
明治14年政変、ざっくり言うと北海道の開拓地事業のやっばい値段での払い下げが新聞にすっぱ抜かれてしまい、お前がばらしたんだろう! ということで大隈重信が辞職に追い込まれ、半分くらい若手が彼に着いてった事件です。
どこからどこまでを事件扱いにすればいいのか全くわからない。
あと、近代の本で大隈許すまじ!!! みたいなことをガチで言われてるのですが、彼が悪い点がよくわからず、ぐるぐる本を回していたんですがやっぱりよくわからず、若手の辞職と浮世絵師が「なんたることだ世も末だぁぁぁ!!」と世を儚んでいたのでやっと安心しました、だよねー、この事態おかしいよね?
まあ大隈さんならやりかねないけど、財閥勢は金額がいくらなんでも秩序を乱すから止めて欲しいって言ってたみたいだし。
正義の極みの払い下げって主張があるみたいですけどもこれは主題ではなく、まあめっちゃ人が辞めたわけなんですよ、そしてその人員が新聞社に流入し、そして大隈さんが自分が辞めさせられる引き換えに国会を開くことを約束させていたので(要するに選挙で人を選ぶやつ)、10年後の国会を見据えて庶民教育も行わなくては! みたいな感じで小新聞の改革なども行われた感じのさながらピタゴラスイッチ。
大隈さんがなにを考えているのかはよくわかりませんが、多分合理主義者だと思います、時々正義よりも合理主義が優先されているような気がすることならあります。
新聞使えるわー、みたいなのは側近が持ち込んできて気付いたぽい。
あ、大新聞が月2万(現代価値)くらい掛かるので、庶民に読ませるためには安い小新聞を改革しようみたいなコンセプトぽいです、あちこちで追随してたよ。
政治小説、ならびに制限選挙。1月8日。
明治12年に続き物誕生、明治14年以降、国会の解説を見据えて勉強にもなるような感じの翻案小説などが生まれたりしたようです。
なんというのか選挙で人を選んだり出来るのかって苦悩してたからなぁ。
徴兵令と本来はセットなので、いずれは施行する、だが、今のままで人を選ぶことが出来るのだろうかっていう懸念が政府にあったようで。
まあ、近所の不倫記事を読み上げて読んでた勢だと気持ちはわからんでも…。
主に政治小説って言われてるのがどうもその目的らしく、現代人が見ると勉強にはなりませんがメロドラマを読みたいがあまりに難しくても頑張るとかそういうのが大事なんだと思います多分、政党擬人化とか三角関係における金満な雰囲気の横恋慕男が敵対政党所属とか思い返すと若干語ってることに自信なくなるけど、気にしない気にしない!
政治小説って結構売れていたのでパクりがあったりもしたようなんですが、ここで悪役の所属政党を書き換えるなどの悪辣なことも行われていたようです。
いや、剽窃の歴史のほうで読んだから本当だよ!
さすがに新聞の歴史でも政治の本でも読んだことはないですね、同時代特有の現象だよなぁどう見ても…。
が、この政治小説、とりあえず税金の額によっての制限選挙と決まったので役目を終えたのか自然消滅してしまったようです、これが明治22年「衆議院議員選挙法」ですね、貴族院のほうは選挙ないぽいし、まあ大隈さんが引っ掻き回したのはこれだな。
呼び方がよくわからんのでいつも曖昧で失礼します、調べ方がわからなくて…。
てか、近代小説にも啓蒙目的のものがあるので入れ替わったのかもな。
「三条の教憲」と悪女もの。1月9日。
神祇官ていう神道の官位があったんですけどね、ここが発展し、祭祀を別の機関に分離して「教部省」という国民教育を担当する省庁へとなっているということが別件であるのですが、ここの人たちが三条の教憲というものを発布しまして。
大雑把に言うと戯作が死にました、明治5年くらい。
てか、よく考えたらこれ以前の慶応新聞には戯作あるもんなー、確かに。
なんかこう、教育に悪かったみたいです、心中ものをやると心中が増えるからやめんかいってそういや時々見るよなぁ。
まあ、本当に心中が増えてたので文化弾圧とは言いづらいんですが。
教部省の禁令のほうはなんかこう、戯作者たちに教師の職を用意していてくれていたそうなので効き目が全く違ったようで戯作が全滅しました、他にも歌舞伎の俳優とか娯楽関連の職から呼ばれてたみたいですけどねー、具体的なのを見るのは戯作者だな。
正直、見事な搦め手ではないかと思います。
で、小新聞で「その辺の家庭のゴシップ記事」載せてたじゃないですか、素行良くしてほしいっていう恐ろしい思惑付きで、読み売りが禁止されて続き物の時代になってもこの傾向自体は変わることなく、悪女ものが流行ったりもしました。
あれ、道徳目的だったんだよ…実はな(本当に売りがそんな)、だが、続き物として引き延ばすせいで内容がどんどん根拠が薄くなり、超絶人気悪女などが生まれたりしたのち、なんやかやで戯作が復活しました。
高橋お伝など何社もで展開してたらしいし、このあとで戯作が復刻したよ!
私、この流れが嫌いじゃないんですが、なにこの、逆ピタゴラスイッチ?
朝日新聞及び中新聞。1月10日。
そもそも大新聞と小新聞というのが概念そのものは存在していて、新聞紙条例にてきっちり縛られている部分もあるものの、そこまで境い目が明確ではないというのがここまででなんとなく伝わっているといいんですが。
朝日新聞は関西出身の新聞であり(東京日日と合併した大阪毎日も)。
彼らの新聞の主なユーザーが商人だったため、そもそも最初から娯楽欄が必要だったので特に分け隔てなく載っていたらしく、朝日新聞の東京進出によってその方針は完全に主流になってしまったようです。
てか、朝日新聞の東京進出って明治21年の『めさまし新聞』の買収の時点か、結構早いねこれ(こっちは改名したものの、東西は別の記事を出していたりもしたぽい)。
『日本新聞』ってところが最後の大新聞と呼ばれていたのがだいたい明治末くらいなんですが、そもそも小新聞との境い目が曖昧だったところに、関東の新聞連合を作るくらいに部数がぶっちぎりの朝日新聞の登場ですっかり小説載せるのが普通のことになっちゃったんだろうなぁ…。
これは特にどこかに書いてあったわけではないんですが、中新聞に載せるのは続き物だと駄目だと思うんだよねさすがにね(悪女ものとかでも駄目だよね多分ね)。
政治小説ならばその役にも耐えるとは思うものの消滅してく時期だし、最低でも講談とか硯友社以降の近代小説にお鉢が回りそうだし、その末の読売新聞と朝日新聞の漱石さんの争奪が勃発したのかしら(朝日新聞は読売の提示額を「冗談?」て言ってたよ!)。
あとあれ、翻案の探偵小説とか、そうだ、あともう一つあったね、家庭小説辺り、だいたいその辺だったんじゃないのかな。
「家庭小説」とはなんぞや。1月11日。
蘆花さんの「不如帰」の社会的大ヒットを受けて生まれたのが家庭小説と呼ばれているようなジャンルの小説です、そんなに馬鹿にしたものでもないんですよ、少なくとも続き物とか比べ物にならないし、探偵小説よりも政治小説の一部以外よりも進化しているのではないかと思います、だって私が普通に読めるしさ。
だがまあまあわりと地位は低めだったです。
なんというか、どの作品を読んでも不義の子とか、妾問題とか、どれを読んでもネタが全部同じじゃん!! て叫ばれるような感じの所以となります。
そもそも上で挙げてる蘆花さんにしたところでモデル小説だしこのネタじゃないし、家庭小説でベストセラー出してた菊池幽芳さんとかフランスの児童文学とかかなり硬派なものをかなり正確に訳してたらしいので全然レベルが違うみたいなんだけどねー。
にゃ、通俗小説を嫌ってたちょい後の菊池寛が褒めてたので本物だと思う。
だがどれを見ても同じなんだが、となるのは現代ハーレクインを思い出しても…。
ただ、この「家庭小説」が中新聞に載っていたのは容易に想像が付くし、近代作家たちが書いてるのも主にこれですね、普段から似たような題材で書いてるしな正直。
なんでかあんまり売れなかっただろうけども、なんかが違うので。
通俗小説の社会的ヒットを飛ばした菊池寛の場合は、しまいにゃ世界各地から取り寄せたメロドラマを分析してだいたいのパターンを割り出し、それを組み合わせることを駆使して作品書いてました、女子社員たちが書き出しに大活躍したみたいだよ!
地位が低くてもまあ仕方ないですね、題材大差ないし人間の本質を描いてるのはこっちとか言われてたけど(なんか偉い人が言ってた)。
(明治の新聞発展事情、177)
最終更新:2020年11月12日 17:14