雑記:文或と近代もろもろ、172
11月13日めも。
リアルタイムは2020年10月25日、というか、2019年のキャラ言及のこと(えっと今回は5枚め49人まで終了していて、あと16人で雑記2枚かな、リストアップだけはもうしてある)をすっぱり忘れておりまして、特に無理もなく間に合う範囲の時期に思い出せて良かったよ…。
50日分であっても、1日1枚2枚って感じで進んでるからな…。
復活してから一番出来が良かったのは昨日の学制に関してのような気がするー、目的意識が希薄で詰め込んだ時のほうがマシなのなんでかしらね、性格かしら。
ところで今日も特になにを書くのかということを考えておらないわけですが。
てか、一応あれ、「学制」ってのが法令(太政官からの布告)の類だってのは昨日初めて知ったんですけども、どうもこう、つらつら見ているとどうも文部省と関係があるような気がしない、文部省は「廃藩置県」と同時に出されておりまして明治4年発足なので関係してないということもないとは思うんだけど。
で、過去のメモを引っ張り出してみたんですよ、ありました、えーと、明治5年3月神祇省が分離して教部省ってのが出来てまして、どうもこっちのような気がする。
(一応書いておくとその前年の明治4年8月に神祇官が神祇省になっていて、どうもこの辺から話は開始してるぽいです、さらにその前に太政官職制の発布ってあるんだよ、その1か月後に神祇官の改編かな…。)
教部省ってのは「国民の教導を任務とする」とある感じ、寺院も担当って書いてあるのもなんか気になるんだけども、寺子屋のことを指すのかしら(どの本から抜き出したのかは覚えてないけど、基本メディア系の間接的な本なので情報はここ止まり)。
11月14日めも。
で、明治5年に「三条の教憲」が発布されて、みたいな順序か。
いや、戯曲者がこれによって教職の地位を得ていたんで、教部省の話と連動しているという認識がなかったんですが、ここに学制をぶっ込むと完成するような気がする。
あ、俳優や講談師も採用されてる。
というか全く関係がないというわけではないものの、廃藩置県によって教育機関を管理する機能を国に移譲し、これが文部省(明治4年)。
そしてここが大学周りの(帝大ではない、「大学」ってのは国の機関)を担当しつつ、1年ほど遅れて教部省が発足、こちらが義務教育から作り上げてった、と見ると多分辻褄が遭うんだけどこれで合ってるかなぁ?
寺子屋、戯作者、俳優、講談師などから小学校を作り上げてったのかな。
これが「教導職」と呼ばれるようなんですが、明治17年に廃止されているので、そこまでに教育による教師が生まれるようになったという理解でいいのかな…。
そういやなんか、戯作者らってしばらく作品とか書いてなかった時期あるよね。
教職に着いていたってのは個人の本読んでると出てくるんですが、そういや、最初期にまとまった教師なんか手に入るわきゃねぇよな!!
てか、上のラインナップつらつら眺めていて漫談師どうしたん? とはちょっと思ったんだけど、この人たちは特に風紀を乱すとは見做されなかったとか、お仕事に特に困らなかったとかそういうこともあったのかしら?
(講談師ってのは漫談の一部で歴史ネタやってる。)
それとも彼らに関しては教えるだけの能力なかったかどっちかかな。
11月15日めも。
んー、んで、学制(明治5年)に関しては明治12年の「教育令」で廃止になってるんですが…確かこれの第2次の時に中学校を作ってるんじゃなかったっけ、ここで尋常中学校と高等中学校とに別れていてこの高等中学校がのちの高等学校、ナンバースクール、帝大予備教育機関。
この時点で「大学」側との接続がされたったことでいいのかな。
どう見ても教育令の成り立ちからでは「大学予備門(これも後の高等学校、専門教育を受けるために必要となる教養課程)」って呼ばれてるような気がしないんだよね、この概念がここで合体したってことじゃないのかなぁ。
なんか中等学校って呼ばれてた時点から高等中学校って呼ばれるに至った辺りの歴史がもにゃもにゃっとしていたんだけど、両者の歩み寄りの結果となるとわかるような気もしないでもない。
私のメモ、大学に関しての年表が全くないんだよね。
おかげで比べようと思うと面倒臭くて出来ないんだよな、時々まとまった情報があるのが次見掛けたら写真撮っとくなりなんとかしよう…団子なんだよなあれ。
ただ、明治4年8月の時点で工部省が作られていてそこに作られた工学寮ってのが最初の専門教育機関だってのは知ってる、作ってるのは役人ですけどねー。
初期の頃はそうやって省庁なんかに付属してたみたいなのですよなんか。
まあ私は工学寮のことしかちゃんと読んでないけど、ざっくり言うと「鉄道を作るための技師」みたいな感じです、お雇い外国人と船乗りとで初期作ってはいたものの、鉄道の父に大丈夫、君らなら自作出来るからって言われて学校作ってた。
11月16日めも。
で、詳細はいまいちわからないんだけど(読んだことはあるの、単純に理解出来なかったというか覚えられなかった)、この工部省の工学寮からぼこっと「工部美術学校」てのが生まれたみたいです、明治9年。
多分この美術学校、見たことないんじゃないかと思います。
私も美術関係の本読んでたらたまたま見掛けた感じだし、どう見ても「工部」のほうに比重が置かれてるし、なんというか、大きめなものを作る省庁なんだよ、今思い出せるの灯台と鉄道だけだけどいやこれは一時は覚えてたんだけど単に忘れた。
確かデザイン(多分なし崩し的に設計も)を担当してたんじゃなかったか。
この辺の学校とか機関とか専門教育を受けた人たちなんかは、政府にも残ってるけど(長州ファイブって言うと知ってるかも、あれ系の人たちが作る側だった)、民間にも流出していきまして、財閥への払い下げってのがだいたいこれです。
もうちょっと前に外国借款で作ってた工場なんてのもあったね。
いずれにしろ、元気でいろよな! とか、いいことだいいことだみたいで、払い下げに対しての悪い印象は全くないですな、どうせ経営出来ないし政府…技術力は付いて来たんだけどね。
てか、学校作るのにここの学校のノウハウが流用されてるんじゃないかと思うんだけどもどうなんだろう、見たことないんだよね。
鉄道のほうから辿るとそんなに難しい案件じゃないので結構本あるのに。
学校がないものはないのでしょうがないですね、発足が文部省の1か月後だし。
11月17日めも。
ここまで書いて来てるのはまあ仮説っちゃあ仮説ですが、仮説部分には「これかも」って書いてあってあとは単純にメモを並べてるだけです、教部省(神祇官から改編してってたやつ)が学制を担当してるんじゃないかってのは完全に根拠ないけどね。
文部省がないならともかく、文部省はもうあるしな。
で、明治12年の教育令のあとくらいから文部省に徐々に置き換わっていったのかなぁ、どこで教師育ててるのかよくわからないけども、大学とか大学予備門しかないし、ねぇ、小学校と中等学校(のちの高等学校)しかないのに本当に入学出来るの、本当に出来るのこれ?! みたいな気持ちになるけど。
その辺は語学学校とか私塾とかで補ってたんだろうな。
というか、藩校どうなったの藩校、役人になるための士族学校、あったよね、再利用しないと勿体ないよね! とあらぬことが気になります。
あと、大学まで出た人を小学校で働かせるのは明らかにオーバースペックだよね、その人たち他言語の講義受けてたんだよね? となるけどどうなんだ、大学で習った人たちはやっぱり文部省に入っていたのか、どこで育ててたんだ小学校教師!
ととても心配になります。
てか、これだけだらだら書き連ねてると「大学」が新聞の検閲をやっていましたのです、ってのがあんまり違和感なくなってきた、特に工部省工学寮からスタートして考えるとあくまでも省庁の一部だ、大学(政府機関の名前です、結構古い)。役人だ教師。
というか昨日見たけど、「高等中学校」こそがカレッジって呼ばれてたもん、最高学府、今の大学相当、あとは役人養成教育だったんだな、それが大学。
11月18日めも。
んでこのあと、大学が帝国大学になるわけじゃないですか、他所の省庁が持ってた専門教育機関を頂きまして(医者の養成機関は確か大学南校か東校だった気がする、なんでその二方向なのかは聞かないで下さい)、出来上がりました「帝国大学」。
でもこれ、基本が役人の教育機関じゃんか! みたいな感じ。
確かにあれです、欧州の最高学府の水準にも届く的なこと言われてたけど、要するにあれじゃん、お雇い外国人の代替を育てるためだからわりと自明の理だな?
だがしかし、初期の必要数を超えると別にそんなにはいらないので、段階を経て最高学府へと成長してったような気もする。
あとあれ、早稲田が大学昇格を望みます的な申し出をしていたところ、むしろ帝大より上じゃん、事実上の大学だよ、みたいな感じのやり取りがされていたんですが(どこっていうか世間的に)、あれも役人育てるのに特化してたのが理由なのかもなぁ、普通の会社で採用するのに二の足を踏んでいたのもわからんでもないような気もする。
そこからの学校改革ですよ、普通の社会に溶け込みましょう! みたいな。
一高の学長に新渡戸さんとか呼んでいた時点で(札幌農学校出身、倫理観で言うと日本の中では桁外れ集団、ぶっちゃけ欧米より理想が激しくぶち込まれてる)、揉めることもわかっていただろうし、国は本気だって気もします。
学習院にも乃木さんとか呼んでたね、評判良い軍人て東郷さん乃木さんで打ち止めみたいなところがあるからな…軍人として立派というより武士寄り(学習院の一部生徒には蛇蝎のように嫌われたらしいけど、そうね、聖職者相当の役目の人と考えるとそうなるだろうね)。
この辺は全て妄想ですのでお含み下さい、役人候補は余ってたとは思うけど。
11月19日めも。
てか、こうやってつらつらと書き連ねてて思うんですが、この手の「教部省(神祇官関係組織)」の本を教育や学制関係の本で読んだことは一度もありません、教職に着いていたってのもあれはあくまでもメディアの本とかで読んでるんだよね。
例えば仮名垣魯文なんかの事情として書いてあるんですよね。
そういや、東京…なんだっけ、えーと、福地源一郎で検索、あああれ『東京日日新聞』とかその系列の小新聞とかによく俳優とか講談師とかいましたっけ、そういや落語家の人もいましたよね、あれ、えーと、四谷怪談の作者、で、三遊亭園朝さん。
ほら、福地さんにフランス由来の元ネタ貰ってたりした方とか、仮名垣魯文もこの括りだったよな、結構彼はあちこち流れてるけど。
ひょっとして教導職が廃止になるよりも前に身元引受けでもしてたのかしら。
いやまあ、この辺だとかなり人気がある人たちなので切られる前に自力で見切りを付けたとかもありそうだけど(あと落語家に関しては教導職の中で挙げられてなかったし、そもそも確か福地さんとはもともとの知り合いだから、どうかな?)。
ただ、福地さんはもともと政府高官の翻訳として随行していたりなど、元勲の知り合いも普通に多く盟友に数えられていることもあるので(御用新聞って言われてたけど、ここまでちゃんとした付き合いだとなんかしっくり来ない呼び方…)、そういう意味で教導職からの引き受けであってもそんなには違和感ないなー。
が、見たことはないです、あくまでも新聞とか、戯作が一時期全く新作が出なかった事情として神道の道徳に悪い文化への抑制として語られてるだけです。
教部省が彼らを教師にしたことは語られているのに学校に関わった記述がない状態。
11月20日めも。
これ教部省が文部省に対して「教師を送り込んでいたよー」的に書かれていたらそれはそれで全く問題はありません、文部省が小学校教師を集めていたような節は、例えば寺子屋などを気に掛けていたような記述は全く見たことがない。
いつの間にか小学校が地から生えていて、中学校がそこから派生したみたいな感じにふわふわふわふわ現象として語られてる感じです。
私が「学制」を見た時に文部省じゃあないんじゃないかなぁ? とか言い出していたのもそれ、文部省の歴史の中に出てそうなものじゃない、反面、明治12年に出された教育令に関しては一部に見覚えがあり、でもやっはり文部省側では直接触れてないんだよね、てか、学制学制って呼んでてなんのことか初めて知った! とか私が叫んでる段階でなにかがおかしいんだよなー。
ただこれ、私が見てる範囲でそうなっているというだけで、教部省から辿ってる人なんかにとっては文部省との接続も丸見えで「はい、ここで交流どーん!!」みたいな感じに超物理的にわっかりやすく語ってくれているような気もするんですよね…。
そういう本があるからこそ、戯作なんかに触れる人はこれが彼らにとっての節目の法令ねー、と一部だけ抜き出して語っていたんだろうしね…。
ただこれが正しかった場合、国家神道が日本の小学校を作る中心だったの?! みたいな気持ちになるんですが、どう、なんだ、どうなんだこれ。
とりあえず小学校教師集めてるのは確定です確認取れる、大学とか大学予備門に送り込んでも多分生徒にもなれないからねごめんねさすがになれないよね! だがやっぱり、あまりにつながってなさすぎてちょっと怖いし、宗教がその役目ってどうなんだ…?
11月21日めも。
とか諸々書きながら「教部省」で検索してみましたが、やっぱり教師を集めてたことと娯楽に規制掛けてたこととそのあと分裂解体したことだけが書いてあって他のことがなんにもない。
これ、寺子屋視点から見てみたり、各地方の事情なんかを調べてみたりするとさくっと出て来たりするものなのかしら。
何分にも教導職が明治17年、教部省が明治10年に解体だと彼らが持ってた資料が…どこ行くんだろう、この場合は内務省かな(その他担当)。
あとあれ、よくよく考えてみたら「教育勅語」も宗教色がもともと強かったところを天皇に置き換えて道徳的な指針にしようとしてたのってのも、教部省スタートだとしたらそれはそんなに突飛なことでもないんじゃないかしら…。
教部省が小学校作ってること自体にはどうかな、とは思うけど、そこが道徳方針を打ち立てようとしたものとしてはかっ飛んでるとは思わないなぁ、理性を感じる。
てか、そういやよく考えてみたら天皇の側に侍ってた「儒教担当の人」って何者だかどこから来たんだったか全くわからなくて、本読んでてももごもごだったよね。あと、儒教と日本学ってのがどこでどう復活したんだか、わかんないんだけど! と暴れてたのもひょっとして教部省を通して考えればつながる可能性があるのかな。
よくよく考えてみたらこの国の最初の大学、医学部と洋学部門だけ残して「大学本校」が消滅してたし、こいつらどこ行ったんだよ一体、と思っていたあれが、ひょっとしてあの、教部省に行ったのかな?! ていうか行きますよね、小学校なら教えられるだろうしな、全く無関係でも数年間が経ってても自然な進路って見ていいよな多分?
11月22日めも。
とりあえず教部省(神祇官由来)が小学校作るのはちょっともやもや、てことに関しては「消滅した大学本校」からの人材が流れ込んでいたのは多分かなりの高確率でありそうなので気にしないことにします、なんでその辺の資料がなくなったのかというと、省庁が消滅した時にさすがにもともとの片割れである儀式担当の宮内省に資料を持ってくのもジャンル違い過ぎるし、文部省も大学メインで作っていた頃だろうと思うので内務省(まだなかったらごめん)辺りに最終的に流れ着き。
戦後に燃やされたのかもしれないな、とさっぱりしておきます。
てか、宗教が国の根幹に関わるってところによってはタブーだしなぁ…。
娯楽担当の中や寺子屋を改編して権力闘争の末に倒れた大学本校から人を引き受け、小学校をこまこま作ってたってこと自体は別に誰にも恥じるようなことでもないような、気もするんだけどね、教師も校舎(時期が早すぎて建築家がおらず、大きな建物が作れない、だってそのために工部省作ってたんだし…)も手探りから始めてるんだろうしなぁ、寺子屋関係や校舎作った人などの関係からなら辿れるかなー?
探すところがわかっていて、内容の方向性がわかってれば可能かしら。
ただ、さすがにこの域になると研究者のお仕事かなって思います、そもそもなんで私が学制に関して調べ始めたかというと、なんでだっけ、いろんな分野でちまちまちまちま出てくるのでいっそつなげたろ! と思ったのが文学ジャンルに来てからみたいな長年の蓄積ですね、なのでまあ、そもそも頭の中にある程度入ってるし、個人読んでて勝手に出てきたりもするんだけども。
こっから先はさすがにちょっと手に余るかな、まあおいおい考えよう。
(文或と近代もろもろ、172)
最終更新:2020年10月30日 01:21