雑記:文或と近代もろもろ、187


4月11日めも。


リアルタイムは12月7日、日付け越える前の夕方くらいには「今日は早めにパソコンの前に座って、3つかせめて2つは終わらせてしまいたい」的なことを考えていたのですがあまりの寒さに凍えていて無理でした、頭はそこそこ起きてたから布団の中からパソコンが扱えるならそうしたかもしれないんだけども、これまでそのために数多の回線を駄目にしてきた記憶が、よほどでないとなぁ。
まあ、なんか寒さが収まったのでかなりの時間にやってます。
書く時はぺろっと書くけどさすがにあんまり書きたくない時間ってのもあるな、と、まあ、多分横になってもすぐには寝られないと思うと気は楽だけど。
えーと、なんだっけそうそう『改造(雑誌)』か。
いや、このカッコの中は検索する時に一緒に入れないと検索結果がまともに出ないだろうという過去の経験によります、雑誌はそもそも一通り「創刊年」だけは調べてるからなー、一回、改造なんかは一時ちょくちょく検索してたけどね。
あと残り日数が少ない感じのゲームを平行しているので時間が掛かります。
あんまりこういうの好きではないんだけどね、日数がね!
ついでに無料漫画アプリで広告の読み込みもやってる。
さすがにどっちかにしたい、てか、スマホとパソコンだけにしたい。

そんなことはいいんですよ、いや、なんとなく頭はすっかりしたけど、ここでぐだぐだ言えば言うほど真面目な記事の精度は上がる! くらいに考えたいけどそこまで楽観的でもないかな、でも、常に真面目でいようとすると最終的にどっかからパクるってことになるのはさんざん見て来たので、まあ雑念は許容しておこう、うん。


4月12日めも。


開いてみたんですけども『改造』のWiki辞書、ここ面倒臭い事情がめっちゃある上、あっちこっちで触れてるから面倒なことになってるんだろうなー、と思って開いてみたら、寝言100%な感じですっごくすっきりしてました。
てか、芥川と谷崎の論争って改造でやってたっけか…、んにゃ、そもそもを『新潮』で対談やってたのは知ってるんですけども、改造だっけ…??
いやまあさすがに関係がないとは思ってないんですけども、表記の具体性皆無っぷりに「この曖昧さは元になった新潮にしか許されないのでは…」と考えてしまっただけですね、文学史においては多分全く問題ないんだろう。
(なにしろよく売れっ子を没落させたり、論争の人間を勝手に取り換えたり、他人の功績を勝手に別の作家に付け替えたりとか特に問題がないようなので…、「相手が三下作家ならば問題がないのでは…」みたいに言われたので、ああああ、こういう発想の仕方があの記述の数々を生み出してるのか、と戦慄しました、いやそもそもその評価自体がその捏造の結果だよね? 捏造されたら泣き寝入りすべきではって、すげえな…。)

いや、正直なところ「第三者の観察」やそれにばっちり不合した、「文学ジャンルの正史」と戦後呼ばれた水島治男氏の本があるので特に問題はないかなと思いこんでいたので、正史こそが完全に排除され尽くしている情報価値が皆無な惨状にどうしていいのかわからなくなっているんですが、ここで情報価値が皆無すぎてどうしたらいいのかわからないってことを延々と背景事情を込めて語るのではなく。
なぜそんな惨状が展開してしまったのかの推測を語るべきではないかと思うんですが、正直なところやばい本って聞いてたので目を通してないんだよな、どうしよ…。


4月13日めも。


『改造』終了、あれ、これもないあれもないそれもない、あー、よくあるんだよね、賀川豊彦さんの功績を分捕って「純文学作家のもの」とするやつ、多分その系統の記述ですね! みたいな感じで書きました、ぶっちゃければ経営が難航していたことからさっぱりとなかったので、立て直したのは誰それである! みたいな文章もなかったので言い過ぎちゃあ言い過ぎなんですけども、まあわかりやすくするためには仕方ないか。
嘘は書いてないです、嘘は。
よく見るあれのお仲間ねー、て書いただけだし。
あと改造に関してはなんか妙に他所の編集者さんたちが触れてるので、ここまで妙な言説が広まってるからかもしれない、みたいなベクトルに。
証拠はなんもないです、でも見たままと軽い推測に見えるだろうこれ。
まあ水島さんの本が「正史」って呼ばれてなかったらそこまで言わなかったけどなー、もう一つの正史はなんだっけほら、荷風さんの従兄弟の、あ、そうそう高見順だ、彼が主に同人誌関係を触れてました。
一時期純文学作家たちってアマチュア連中のアイドルだったのかなー、一区画を形成していたみたいだし、高見さんは触れてなかったけども…あの人は趣味厳しそうだし、と思っていたんですが別の同人誌とミニコミ行き来してる人も特に反応してなかったので、今「どこで純文学作家は崇められていたのか」を探しています。
多分、改造ってそういう意味だと狙いやすかったんだろうなー、て気がする。
他の雑誌は無視出来ない人たちが語ってるからなぁ、経営者寄りというか。

んで「正史」を無視ったわけかー、剛毅だよなぁ、相変わらず、ある一点越えると「すべてがデマになる」みたいな世界観になっとる、誤認とかのレベルじゃねぇ…。


4月14日めも。


次、『新青年』さくっといっちゃいましょう、胸糞悪いし、と思って開いたんですが、いい出来だなぁ、うって変わって、というか純文学が絡まない限りそんなにおかしな内容ないからなー、単なるケアレスミスの範囲なのよね。
「純文学という権威による妨害」みたいな感じの寝言もあるみたいですが。
そういや新青年だったな、うざかったなー、あれ。
なんで純文学絡むと資料を無視しても構わないってことになるんだろうか、どこに証拠があるんですかって、今読み上げてるだろうがなんで邪魔するんだよ? という感じなんですけども信念のほうが大事みたいで、諦めなかったなぁ…。
後世の寝言を根拠に証拠を否定されても、それは後世の寝言なので私が読んでいるものとは全くの無関係です、ということはわかっては頂けなかったようです。
長年そういう説で唱えてでも来たから引っ込みが付かなくなってるんだろうか…、でも私が新説を唱えてる扱いにするのは止めて欲しいんだよな、恥なので…。
今読んでるんだよ、みたいなのは無視されるんですけども。
わかってないわけでもないんだよな、でも私の脳内ってことにしたいんだろうな、そんなことを言われても。
いつどこで誰が作り上げていっているのかということを理詰めで語っていくようになってようやくお声が掛からないようになりましたが、説教スピリットは全く失われていないようで、まあ私のも私怨だけど、今後も人に突っかかっていったりするのかなぁ、もともと本があり、トンデモ本があとから湧いて出ているようなので…。

読む人増えれば増えるでしょうね、自然に、それとも戦うのかしら。


4月15日めも。


新青年の次が『文藝春秋』で次が『キング』、最後が『新潮』で半ば意図的に邪念を流し込みましたが多すぎたら反省しきり。
まあ考えてみれば『国民之友』からなんかもう抹消されてたよね文学史。
文学史単位で語るとどうしようもないんですが、後半に関しては一般の本に関しても文学史からの浸蝕を受けているので触れておいたほうがいいんだろうなと。
で、それを流し込むとさくっと終わるので、あとはタイトルを考えて…、メモ帳のどこかに書いてたな、うーん、どうしよ…。
10種ってことに拘らないタイトルにしました。

てか、結局雑誌ってのが物理資料である分、どうしても観念で作家を語りがちな文学史とは乖離が激しいんだろうな…。
まあただ、同時代最高の部数を存在していなかったかのように語りながら「当時大衆雑誌が売れたなんてことは空想の嘘っぱちだ!!」ってぶち上げるのはどうかと思うよ、私が読んでいたわけではないんだけど、すごく得意げに語ってる方に教えて貰いました、ただ売れてなかった大衆雑誌というのは実際に存在していて、文芸系の出版社が出してた雑誌は実際に爆死の同然だったんだよね。
あとはもう新聞社の雑誌(わりと健闘してた)なんかもこの世に存在していないってした上での理論構成だったようです。
ぶっちゃけそれ聞いた時は、それが本になってるのって、なんの悪夢なんだろうなー、読まされるってなんの罰ゲームなのかしら、という感想が残ったものでした、てか、なんで本気で許されてるんだろうな…、不気味。


4月16日めも。


うーん、今ちょっと迷ってるんですが、本体の「雑学」のほうが完成してしまったので先にそこだけをアップしてしまうか、こっちの邪念というか同時並行的にぐだぐだ言ってるのも同時にしたほうがいいのか的な。
雑学ページを読むのに必要かというと必要ではないんですが、こちらの邪念のページだけあとからぽこんと見せられて内容を覚えていろという態度を取るのもないよなぁ、という気持ちがあるだけなんですが。
どうせややこしいことをしたわけでもなく、単に雑誌名が並んでいて平行で書き込んでいるという以上の意味合いもないから気にしなくてもいいのではとも思わないでもなく、ただ、手間が増えるわけでもなく、あと何日か待ってからという程度のことでとにかく迷っています。
まあうん、究極的には「どっちでもいい」から迷うんだ。
わずかに一緒のほうがいいかなという薄っすらとした気持ち以外がなんにもないというか、だがしかし、この雑記を続けるのだとしたら書くべきことは「次の雑学ページの平行」みたいな内容が一番可能性が高いので、そうするとそのままにテキストエディタの中に置いておくのは邪魔、程度のニュアンスはあります。

別の内容であと4日分を埋めてしまえば別にそんなことに悩むこともないんだけどね、てか、とりあえず「次なにを書こう」というところから決めてないので一応それの計画を立てたいかなと思います、多分。
もうだいぶいい時間なのでこのまま続けるのはちょっとって感じだし、とりあえず、明日にします、いろんな意味で。


4月17日めも。


リアルタイムは12月8日、相変わらず眠いです、動けるようになるまでえらいこと時間が掛かるというか最近、おかげで活動時間が深夜にズレこんでいくというか、活動時間が深夜にズレこんでいるから動けないのでは…?
という疑問はもちろんあります。
疑問っていうか確定だよね!
とりあえずまあ、食事してから寝よう…。
あと、なんか雑誌10種の「雑学」と平行して打ち込んでいたこの雑記をあとにすべきか同時にすべきか的なことを考えていたのは覚えているんですが、なんかもう、それを拘る気が、あんまり、単純になんかそう決めたからみたいな意味合いのみでこの雑記を書き上げようと思います。
意義みたいなものがあるようなないようなって考えてた気がするんだけど。
あくまで私にとっての意義なので私から抜けると意味がないよね。
ただ、手間が増えるわけでもなし一旦迷ってたんだし、みたいなノリで過去の私に従うみたいな感じです、でも、そもそも迷ってる時点でどっちでもいいって結論だったんだよな、私のさじ加減、私のモチベーション維持以外の意味はない。

あとえっと、薬のチェックや筋トレなどを書き込んでいる2020年の4月から始まるメモ帳の「4月」の分が終了し(新聞事情、新聞10種、雑誌10種)、その次のページは文アルのキャラがずらずらと書き込んであるので、えーと、「6月」はなんか雑学のタイトル決めたり気になった参考文献書いてたりでおまけだな…。
「7月」が文士10人、ニッチ雑誌10種、歌舞伎10項目、近代劇10項目か。


4月18日めも。


「8月」が近代劇の残りと各種芸能10種、みたいな感じ、と。
で、要するに次にどれを書こうかなって話なんですけどもね、どれもほとんど同時くらいに計画立ててたので別にどれでもいいんだよな…。
どうせあれ、私の知識が足りなかったらWiki辞書頼り、内容が気になるならひたすら突っ込みをするみたいな感じなので準備もいらないしな。
ぶっちゃけ、Wiki辞書も私の知識も単独で扱うとまとまりがないんですけども、組み合わせた時の相性というか文章の書きやすさが思ったよりいいんだよね。
一応曲がりなりにも流れが用意されていることが多く、私の断片的な知識がどこに嵌まるのかってことくらいは判明するからなぁ大抵。
うへぇ、みたいな内容であってもあくまでも「流れを作るため」にでっち上げられた節があるので否定しやすいんだよね、こっちにもそこの情報くらいならあるよ! みたいな感じで、てか、私が見たのも既存の説へのカウンターってことも多いのかもな。
文学史が作られたのが戦後以降で、その時点でコア世代は一部しか生き残ってなくても彼らの知人って単位ならざらにいるからなぁ…。
作られた文学史よりも関係者の証言のほうがあとってことがざらの上、関係者の証言をちゃんと残してたのが「文学史を作った人たち」だったので、まあ最初からたたき台のつもりだったんだろうなー、と。

そのあとがめっちゃ惨憺たる有り様になってたけどな、なんの断絶なんだろうあれ…。
ぶっちゃけ戦後に関して読み込んでもあのやっばい物理証拠を滅しろとか、他の作家の功績を付け替えとかの人たちが出てくるわけで…モチベーションが…。


4月19日めも。


えーと、違うんだそうじゃなくて、今頭がわりと雑誌に適応してる感じなので(さすがに明治から昭和初期まで一気にやるとねー、流れがそれなりに)、それを済ますというのもありかしら、なんか全然時代順に並べてないけど。
新小説、女学雑誌、ホトトギス、文章世界、文章倶楽部、婦人之友、講談世界、家の光、婦人公論、少年倶楽部。
正直このラインナップにはちょっと楽しいものがあるけどね!
ネットで検索してまともな情報が出て来なかった場合、私の知識も普通に雀の涙なんだけどな、まあ『婦人之友』なんかは作った夫妻がわりと有名かな、新小説は老舗っていうか本格的な文芸雑誌としては始めてと言われていて(あとのは数年で溶けて消えたから)、女学雑誌は私にも知識があるからなんとかなる。
『講談世界』は私の世代だとそこそこわかる作家がいるので、てか、なんで知ってるんだろうね? みたいな感じだな、サブカルチャー趣味の一環でいささか。
(いやでも講談倶楽部とか全くわからんのよ、マジで、雑誌として目立つのは講談倶楽部で講談世界なんて対決姿勢でしか見ないのになぁ…作家と作品は知ってる。)

心配なのは当面、『家の光』かなー、ネットで調べて出てきてくれるのかどうか…。
部数としては多分そこそこいってるんですけども、語られるかどうかって部数となんの関係もないからな…、キングが消されてる世界だし。
検索ー、て、180万部って家の光か! てか、キング150万部抜かれてんじゃん、わー、きちんと把握してなかった、Wiki辞書は所属などはきちんと触れてるんですけど、あれ待て、1960年か…ううん微妙だな…(終戦1945年ね)。


4月20日めも。


調べてます、そもそも部数の話は戦後になると桁が変わっちゃうので…、戦前でないと意味がないんだけども『家の光』はどうも100万部のようですね、なかなか健闘してるんですが、内容がよくわからない。
どうも復刻版が不二出版ってところで出ているぽいので目次だけでも見れたらいいと思ったんですが、うーん、そういう紹介してるところが見付けられない。
論文が二つばかり見付けられて大衆雑誌もしくは通俗雑誌、キングも越えてるんだよーん、みたいなことが語られているのはわかったんですが(150万部ってのはどうなのかしら、それキングの数字よね? 100万部は信じてる)、どんな内容の小説が載っていたのかとかそういう感じのことは…ないですね。
まあ、作家の名前とか書いてもわからないんだろうなって気もするけど。
あくまでも論文が社会的影響というか、社会の変化を紙面から読み取るみたいな内容なので作り手側に意識がいってないんだな…。
通俗雑誌や大衆雑誌の研究が一般的なら多分すでにその手の研究があったんだろうと思うんですが、調べやすいだろう講談社ですらあの体たらくでなぁ。
ううん、仕方ないことなのかもしれないんだけども、あれか、調べられませんでした! みたいなことと外部評価に関してを書いていくしかないか。

てか、これ自体、キングの研究本で見ただけなんだけどねー、待って、そういやプラトン社の雑誌の関係者が関わったよ、と語ってた人がいたわ!
プラトン社の研究がまだなんかこう、途上だな、難しいな!!
なんだっけ、あの『婦人公論』の指標になったっていう婦人雑誌…。

(文或と近代もろもろ、187)
最終更新:2020年12月08日 06:26