雑記:文或と近代もろもろ、166


9月14日めも。


とりあえず眠いです、リアルタイムは2020年10月21日、1年と1か月弱あとくらいの日付けです、そろそろさすがに放棄したほうがいいんじゃないかなキリよく1年分くらい、みたいなことは考えていないでもないですが、そもそもこのあと打ち込み続けるかどうかもわからない感じになっているのでとりあえず保留で。
まあさすがに差が1年分くらいのところまで辿り着くにはいいのかな…。

てかそもそも、今作ってるところまで本当にWikiにアップロードしたのかも不安になってるのでブラウザを立ち上げようとしたらなんか長期間動かしてなかったとかで今立ち上げ直しな感じに。
ゲーム用にグーグルクローム、ファイヤフォックスがWiki管理用なのでまあ、パソコンはそこそこゲームのために立ち上げてるけど、みたいな感じですかね。
いやうん、手帳にチェックすらしてなかったけど、とりあえず雑記は165まではアップロードしてた。
少しでも文章を打つことをしようと今、かなり強引な感じの時間に無理にこれをやっているのだけれども、その結果意味のある内容になるかというと…どうだろ真面目に、別にそうなる必要もあんまり感じない。
さすがに2019年の文アルのキャラ言及だけは完成させたいんだけど、それを成し遂げるためのハードルが結構上がってしまって…。
いやだって、年末くらいに来たキャラってその架空の日付けよりはあとに配置させなきゃ駄目だよなぁ、みたいなのが前にテンションが落ちた理由です、私以外にはどうでもいいしそもそもこの日付けも本気で謎だ、1年以上経つと特に。


9月15日めも。


えーと、引き続き2020年10月21日です、てかこの実際の日付けと表記してある日付けの乖離のせいで、新しいことも古いことも(単に覚えてない)正直語りにくくなってるんですけどもね。
ところで最近「自己研究ではないです」みたいなことを時々付け加えるようにしてるのですが、昔はやってなかったです、それこそ1年前とか全く。
まあ架空の日付けですけども。
なんというか「そう疑われているんだろうな」と思ったのではなく(この程度の自覚なら前からあった、ので、やってることを時々触れてた、元になる本があることは普通に見てけばわかるかなー、と思うので)、そう確信されていないととてもじゃないけど返って来なさそうな反論が来たので…。
私の見解じゃねぇよ、みたいなことを折々に添える感じになりました。
前から添えてたのは志賀さん辺りかなー、最近は個人の意見になったので添えなくなったけども、悪態が減ったので止めたというのが正確かしら。
ちなみに私は志賀さんの作品は短編しか読んでいないので、評価に関してはほぼ全て人のものになります、読んだ時にどうなったかとかはまあ別にいいだろあれ。

簡単に言うと現実逃避してる現状と、自分が信じたい環境とが交互にサラウンドで聞こえて来る感じです、酔うわ!!
ただこれ、現実逃避だということがわかる人間が「人として上等か」みたいなことを考え始めるとおそらくそんなこともないので、単純な読み取り能力としてもわかるのかしらね、心境小説って呼んでた人たちとかそんな感じだよなぁ…。


9月16日めも。


私が時々「座談会」と呼んでいるのは多分明治文学研究会てところに属してる人たちか彼らが同格と認めてるのだろう人たちの本なんですが、なんで曖昧なのかというと数人しか確認取ってないからです、が、こっちに歴史研究などの素養がある人たちがいて、大正文学研究会のほうは素人ばかりだったというのは…同人誌がメインフィールドだった方の本で読んだのでまあ、大丈夫だろう。
正しいと信じているというより、怒られるほどのこともないだろう的な。
ただこの会、集められた辺りに関しては一通り読めたものの、その後実態として残ってるかどうかもわからんのでなんとも曖昧にならざるを得ない。
大正文学研究会の人らが戦後の文学史を作ってたのは見たんだけどね。
「日本文壇史」の伊藤さんもこの会にいたか、まあまあ関係者の人で、座談会にゲストとして呼ばれ、なにか、おかしい気がするんですが、的なことを言ってたら、そうだねー、問題外かなー、みたいに切り捨てられており、ろくすっぽ反論すらされていなかったのを見てなんとなく、なんとなくの事情を察しました…。

文壇史の作られた時期は長期になるので時系列がよくわからないのですが、このシリーズは全く辻褄の合わない各種証言が詰め込んであり、下手すると数ページの間に部数に関して食い違ってるなどのケースも拝見したため。
私は部数のだいたいの実数を覚える羽目になりました…。
だって、そこ嘘付くって発想はさすがにそれより前にはなかったもん!!!
さすがに自社の雑誌にはやらんのだけども(やってるかも、でも単なる商業的理由)、勝手に他社を低く見積もってた可能性がね、面倒くせーな…。


9月17日めも。


で、前々日分からの続き、この座談会の大正篇にてこの人たちが言うわけですよ、志賀さんが「神」扱いされてる理由知ってる? みたいなことを。
いや知らん、マスコミ関係じゃないのかなー、てな結論になっていたわけですが。
あらあらあらあら、後世の見解に騙されてなーんにも知らないのねーwww みたいな感じにめっちゃ高笑いされてしまったことなどもある本なのですが、確かに大正期に世に出た作家たちとはあんまり付き合いさがなさそうではあるものの、明治の作家の逸話に登場する感じの人たちであり、かなり若い頃から重要な仕事に関わることのほうが多い編集者たちだったので…(てか、そういう人たちが文学研究やってるケースが多いので因果が逆みたいなんだけどね、理由とかは知らん、座談会で普通に当時の仕事の話してるから出てくるしなぁ、秋声から愛人押し連れられたとかの、なので多分ガチで聞いたことのある逸話の登場人物だったりもしてる)。
おーっほほほほほほおかしいわー、みたいな感じに空中リプライで嘲られてる中でこういう身元を順番に呟いていたらそのうち止みました。
ついったの風物詩というか、個人の資質というかなんというか。

秋声の愛人ってのはあの山田…何さんだっけ、花子さんじゃなくて、愛人は受け取ったものの結婚すると思われてたみたいですね、的なこと話してたよ。
さすがにあの遍歴の方をなにも言われずに受け取ったら結婚が確約されたみたいな思い込みするのは…どうなのかな…、変な褒め方してて全員で話逸らしてたけど。
この愛人受け取った同じ人が学習院で志賀さんの弟さんと友人だったぽいですが、年齢はまた違うのかな、転がり落ちるみたいに留年してたみたいなこと言ってたし。


9月18日めも。


なんか話が散らばりすぎてるのはまたあとで似たような感じの記事にするつもりですが、さすがに散らばりすぎてるのでもうちょっと統一テーマ作ったほうがいいと思うけどここで直すつもりとかは特にないんですけども、1年以上ズレてるし。しつこい。
まあ高笑いで、なーんにも知らないのねと嘲られてましたが、年下の格上みたいな感じの立場の人らみたいです、明治の作家とは結構仕事してんのに(だいたい自然主義くらいまで)、大正の作家とは菊池さんくらいしか今のところ関わりないみたいだからなぁ、大正はだいたい白樺からのカウントです。
白樺が実際に何年に世に出たとされてるのかはよく知らん。
覚えようと思ったけどなんか若干バリエーションがあるみたいで、細かい違いまで把握しようとはちょっと思わなかったんだよね、白樺作家の中央公論掲載がいつかとかなら確かどっかで見てたけど、武者さんとこの記念館でも見たし。
まあ、『白樺』は評論が付いてるみたいなのでそこを出版点にしてもいいみたいなんだけどもねー。
この評論に関しては鴎外さんのところの記念館で一般年表に入れていたのでオッケーじゃないかなってことにしてます。

この時期をもってして出世作と見做し、作家分類にするのもいいんじゃないかと思います、そういう扱いになってる本もあるし。
この時期をもってして「文壇を制覇した」扱いになるのはちょっとどうかなと思います、いや、本当にこの時期から芥川までがすっぽり欠けてる本読んだので、どうも漱石さんが作家になった時期も全盛期も知らない方だったみたいです…年齢上だしね。


9月19日めも。


なんの話でしたっけ、多分志賀さんの話ですね、あと座談会の話もしてた気がする、でも志賀さんの話と白樺の話が直接つながってなくて白樺からを大正に世に出たと分類するのが妥当みたいなこと語ってたんだったね。
いや、『白樺』だと確か明治だったんじゃないかな…。
正確なところを全く覚えてませんが、とある本で明治末から志賀さんが文壇を制覇してたので、芥川が志賀さんのことを崇め奉っていたのもあまりにも自然なことみたいな感じにつながってました、まあ確かに、鴎外さんや漱石さんが過去の人になってて志賀さんしかプロの作家がいなかったらそういう崇拝もわりと自然で、特に資料が少なくても他に大量の資料があっても問題はないような気もするんですけども。
菊池さんが世に出る前、志賀さんを自分よりちょっと前にいる商業仕事はしているアマチュアとして扱っていたので、どうなのかしら…。
あと漱石さんは志賀さんのプロ作家時代を白樺の同人誌スタートにするとかなり近くなってしまうというか、白樺そのものが漱石さんに捧げられているのは目次のページ見たらなんとなくわかるしなあれ…(武者さんとこの記念館でべっと広げてあった)。
あの本を書いた方が本当に志賀さんに興味があったのかどうかはわりと真剣に謎です、褒めればいいというものでも…ないような…。
あと正直言うと若干拘るべき部分を全体的に取り落としてるような気もします。
志賀さんが神ってところからスタートして最低限の年表などだけ見て文壇を作り上げて芥川の権威を最大に高めようとしてたとかかな…。

記録は残してるはずですが、著者さんは忘れました、多分感想にもこれ書いてるけど。


9月20日めも。


てか、とりあえず私は志賀さんに対して悪感情は特にないです、専門用語をでたらめにぶちかまして評論やってたっぽいのは引きつったけども、なんというかそこまで行くとぽめ案件じゃないですか、嫌う理由にはならない。
ちなみに研究者勢はその手の文章を全く見せてくれないので、志賀さんの快刀乱麻の評論を拝見するのはそれ以外の雰囲気を漂わせた感じの本やネットで、めっちゃ英知を褒め称えてました、多分だけど反論来なかったんでしょうね。
志賀さんの評価もだけど、なんというか真面目な研究本読んでて作家の評価が低くなることってまずないんだよね私の場合、大抵反論に値するものしか載せてないからなぁ、反論に値する文章はその時点で一定の意味はあるでしょ大抵。
どっちかというとこーーーんなに素晴らしいあれがあれがあれが!!!
みたいな感じで大はしゃぎで紹介されているものは概ね場外ホームランな感じです、そういう情報が欲しかったんだよ! てな感じになる。
ああ、それで…インテリに見下されていたのか、と納得するというか…。
唯一の例外は菊池さんで、大抵エキサイトしてるのは研究者、同じ意見だわー、わかってるーー!!! みたいに頻繁に興奮されてる。
こないだ聞きに行った講演でもそんな感じでした、いきなり菊池さんの話でヒートアップして来た、なんだろあれ、と同行の子牛に聞いたところ「好きなんじゃないの」と返されたものの菊池さんの専門研究者で興奮してる人を見たことがなく。

やっぱり共感、同意のヒートアップだったのではなかろうか、てかあれ、合理主義としての意見の合致って気がするんだよね、百年経っても大丈夫ー(倉庫のノリで)。


9月21日めも。


ところで菊池さんの専門家がなぜあまり興奮しないかというと、菊池さんが正しいのはわりといつものことというか、「世の中のほとんどのことは金でなんとかなるじゃろ」的な信念から来てるような気がするので大抵のことが…。
感動に結びつくかっていうと、そこスタートだと素直に難しい気がします。
物質優先主義みたいな感じのところあるんだよね。
まあそういうところが日本文学関係の一部の人らには蛇蝎のごとく嫌われるんだと思うんだけど、こう、ほら、精神由来の幻覚の歴史を延々と読んでる時に唯一の理性である菊池さんが目に入ったら興奮するのも仕方ないような気もするんですよね。
逆に言うと天敵みたいなものなんだから嫌ってもしょうがないんじゃないかな。

で、ようやっとそれっぽいまとめを思い付いたんですが多分精神世界の頂点が志賀さんで、物質世界の頂点が菊池さんなんだと思うんですよね、いや、誰かの説とかじゃなくて事実上。
志賀さん以前にも日本文学の父とかもいたみたいなんだけど(鴎外さんとか)、なんか実際のご友人たちに邪魔されて打ち立てられなかったみたいなんですよね、あ、芥川の後輩の文章読んでるとたまに出てくるのでこの歴史、わりと真面目な話で、めっちゃ止めてって怒ってる鴎外さん関係の文章も、両方青空で読んだよ。
あと藤村バージョンもあるっぽいけどこれは多分当人が止めたな、偉いしな藤村。
志賀さんのはなんか、止めなかったんでしょうね、そもそも「本当に業界にいるの?!」と子牛に叫ばせ、知人の貴族の本書いた人には「作家辞めてた」って言われててデマ経歴ぶっ立ててもバレなさそうな偉い作家とか他に…いないんじゃないかな…。


9月22日めも。


で、まあ、だらだら書き連ねることもなく、志賀さんは「神って言い始めた人らが多分マスコミにいたと推測されていた寡作の作家」っていう大前提でもって、褒めてる人たちが自他境界曖昧にもほどがある尊い、なんて尊い、あまりにも尊い、もしくは他人をこんなにも見下すことが出来るのすごすぎ!! みたいな具体性が皆無話かマウントか(用語間違え含め)みたいな感じに分離してるので評価が高くなりようがなかったんですが。
神主張を叩きのめしまくった人格否定すれすれ(賛美側が褒め称えた分のカウンターなので判定は微妙)の座談会の原稿をチェックし、校長の交代時期とかちょっと違うから教えとくわ、とだけ返していた志賀さんを見てしまうと。
貴方は正気なのね、正気であの精神由来なのだろう日本文学の認識の混乱と志賀さんへの興味マイナスみたいなあれをも受け止めていたのね…、となり。
めちゃくちゃ時間掛かったけど、悪感情はないです。
そしてこれをどう端折ればいいのか、今わりと本気で途方に暮れている。

というかステレオで妄想と現実が迫ってくるんだけど! みたいなことを読書感想文的に呟いていたら(取り繕わないと怒られる、私もこれに関しては取り繕ったほうがいいと同意する、無味乾燥の教育じゃない)、座談会においても志賀さんが常に自分が正しいとか言い続けてて言動は他罰的だけどやっちゃったことをきちんと記憶していてあとで謝りに行ってたりするので、わかってるんじゃないですかねぇ、みたいなことを言っていて、そうまとめると捨てたものでもないし。
それわかる、現実伝わって来てた!! となったんですよね。
作品として評価するとかは置いといて、あれ伝えて来たのはすごいような…気が。


9月23日めも。


そしてまあ、心境小説という「現実の認識がなんか狂ってる」系の作品(日本の作品だともごもごしててわかりにくいので海外作品で見ると本当にストレートに言ってる、認識の狂いを主人公が認知してるものとしてないものとがあるらしい)として見るならば、それは確かになんかすごい切り口がありそうだな、と考えたところで、そういやそれに近いこと言ってた人いたなぁ、と思い返してたりしました。
にゃ、かなり古い記憶でそこから数年経って「これかな?」となったので自信がないので伏せておくけども。

ただこの全てを踏まえた上で、心境小説を確立させたのだ、と志賀さんが紹介されていると挙動不審になっていたりはしますが、直したいとかではないです、直したいとかではないです、心境小説とはなんぞやみたいなものが少し広まって、あれこれ、具体的にはどういう意味なのかしら?
と感じる人が出てくれたらいいなー、とだけ…、てか、私小説と心境小説ってあったりなかったりするし、座談会の中でも簡単にほいっと取り換えてたりで、どうも境い目を確定させる必要が薄めの雰囲気だったんですが。
確立させたんだ! て方にどういうことなんでしょうか、と聞いてもいいのかどうかは多分ずっと迷います、ちゃんと定義があるなら聞いてみたいし。私の感じた理性と幻覚のステレオのこと指してない可能性とかもあるし。
でもそもそも「勘違い小説(一度だけ見た表記)」と志賀さんの作品のコンセプトってそもそもなんか合わせちゃ駄目系というか、ステレオ認識を一旦通らないとそれはそれで事故りそうというか、どうなのかしら…。

(文或と近代もろもろ、166)
最終更新:2020年10月22日 04:44