文芸:文アル登場作家、その2。193


二葉亭四迷。6月10日。


ええとあれ、一旦佐千夫氏から初めたもののトップバッターに1人追加です、元治元年生まれでサッチーと同い年か、旧暦2月28日生まれ、明治42年没で45歳。
文士ってわりと下級藩士から名主くらいの身分の人が多いんですけども、彼は尾張藩士で鷹狩り共役ってあるのでそれなりな家だよな多分、そういや小説を児戯の類だみたいなこと言ってましたが、そら仕方ないよね。
逆に現代人が見ると謎の戯作への批判精神もなさそう(見分け付かなくて…)、あ、いや、確か親友に戯作者さんいたと思ったのでお別れ会でしんみりしてたし。
前に本で読んだことがあるんですが、新聞記者にはいまいち向いていなかったようでロシアの記事を求められたんですよ、「すみません、国に提出してくれませんか…」と言われたようです、おかげで現地行っちゃったのかな、現地リポートならさすがに読めたと思うけど客死しちゃったしな…。
別の本で読んだ限りでは言下に坪内逍遥氏のつばめ扱いされてまして、申し訳ないながら紹介された手紙の文面と毎回厄介ごとを片付けに出動してる逍遥さんを見せられながらだと否定出来ないし、ぶっちゃけ萌えるかというと引く。かなり。

とはいえ「浮雲」なんかまではちゃんと展望もあったんだろうな、ロシア文学みたいなのが出来上がれば児戯でもないと思っていたが、多分まあ駄目だったと、のちに所属してた朝日新聞社に入社した漱石さんの説得で作品書いてますけども、だいぶ社長はご満悦だったそうですよ、当時評価は高かったんだろうな。
前に日本にはキリスト教がないのが小説には致命的って語られていたのを見てカチンと来てたんですが、正直この時代前後の問題点はそこっぽいね…、指針がない。


伊藤左千夫。6月11日。


明治中心文士と同じようにいきます、元治元年生まれ、旧暦8月18日、明治元年との差は8年なのでさすがに身分はないわな、大正2年死去で48歳。
上総国の農家って、あれ、農民だからかな…(今まで藩表記だったので)。
で、明治14年の段階で明治法律学校(現・明治大学)に入ろうとしたものの眼病にて敗退、確か眼鏡が普及して社会復帰したとか言ってた気がする。
ああ、子規門下として日本新聞(『日本』)に参加したのかと思ってましたけども、掲載が先の明治31年、子規さんを訪ねたのが明治33年かー。
てか、ここのWiki辞書詳しいですね。
いや土屋文明さんが本をまとめてくれているので詳しいんですけどね、彼、親戚で学費出して貰った弟子ぽいですし(そして崖から師匠を突き落とすタイプ、おまけに正しいことしか言わないんだよ!)。
日本はわりと俳句だけじゃなくて短歌にも門戸開いてたらしいからねー、いや、子規さんが「どっちでもいい」「表現手段は自由」みたいなこと言ってるせいぽいけど。
で、この系譜にくっ付いて『ホトトギス』、そこから『馬酔木』『アララギ』と転戦してったぽいです、土屋さんが丁寧に小突き回していたので概ねは…。

他の本で見たことのある、万葉集の復権運動の中心に近い人物だったみたいなことは書いてないな、土屋さんの本にはなかったので気になってるんだけど。
あ、日本の紙面にて展開していたらしいのでこれは疑ってないです。
「野菊の墓」(<ホトトギス)は明治38年か、その後小説は素直に売れるようになった模様、漱石さん好みの純愛作品、素朴さが上手いこと利いてるってさ。


夏目漱石。6月12日。


慶応3年生まれ、旧暦1月5日、翌年の慶応4年が明治元年ですねー、さすがにこの辺はごったごたしてるので覚えてる、大正5年没で49歳。
新宿の記念館さんで聞いたところいわゆる名主ってやつでいいぽい。
土地を管理する農民寄りの家の人で、名前も結構いろいろあるし、武士として扱われてることもあるし、農民括りになってることもある感じ。
正直ね、大きく似たようなもんって認識してるので正確なところがわかってないこともあるかも、わかりやすいのが「苗字帯刀した農民」みたいなの。
ざっくり言いますと東京帝大出身、ちまちまと地方で教師をしつつ(早稲田にもいたことあるってさー)、ある時点でイギリスに留学、ちょくちょく語られてるように「帰化した外国人として国内教師枠」で雇われていた小泉八雲さんの後任として東京帝大と一高に就任、一高が主に語られてるのは「そっちの仕事のほうがまだいい」って言ってるせいでしょうね、この辺の時期で生徒の質が大転換してるからな…。
そもそも上の欧州留学に関しても国費によって、あんまり公には言われてませんが教師の質の向上を図っていたもののようです。
なんではっきり明言しないのかというと既存層の抵抗があるからだろうな…。
古い世代の講師たちの人気急落って形で見たことある気がする。

で、就任したらなにしろ全国的人気の八雲さんの後釜で恨まれるし、生徒は自殺して歴史に残るような事件に発展するし、で、明治38年に帝大で知り合った子規さんツテで載せていた『ホトトギス』にて「吾輩は猫である」を発表してブレイクしたのちに朝日新聞に給料どーんと積まれて教師を辞めました、わりと気持ちはわかる。


幸田露伴。6月13日。


慶応3年生まれで旧暦7月23日、てか、この辺有名人固まってるよなぁ、さすがにこの辺の4人は知る人ぞ知るじゃなくて普通に知名度はあるよね、同い年とか知り合いだったとかは正直知らんかったけど、昭和22年没で79歳、戦後だよー。
ところで尾崎紅葉氏と中学校が一緒ってあるんですが、あちらの年表とはどうやっても合致しませんでした、この同級生説って他にも見たことあるけど、面子にバリエーションがあるよな、てか、身分が違うので紅葉さんのほうは進学遅いし、途中で中学校が合併しちゃってて正直調べようがなくなってギブアップ。
こちらはそこまでの家ではなさそうだけど、幕臣でそこそこのお家だよね。
というか、学校制度が未完成なので要求学力が若干おかしくて庶民が通える桁ではなさそうなんだよね…(東京大学とか40代独学者しか受からなかったスタート)、ドロップアウトはしてるものの学力に問題があったとは思ってません、というか、この人が駄目だとなんか学校のほうがおかしいだろ…。
とはいえさすがに京都帝大の講師になるのに相応しいかというとそこまででもなく、結構苦悩してたようですね、さして浮いてたわけでもなかったぽいけど。
ちまちま読んでるけど「現在でも」通用するようなこと言ってるし、私が読んでぎりぎり読めるみたいなの、数十年分の蓄積あってもマニア末席程度だと足りない。

どうも自然主義の台頭の辺りで時代に着いて行けなくなったらしく、大正8年の『改造』時点で復活し、難しいって言われてましたけど芥川とか谷崎とか褒めてましたよ、あー、さすが、『キング』初号にも言葉が載ってたらしいしね。
よく文士が近所に住んでたって語るし、生きてる仙人みたいな扱いされてるぽい。


正岡子規。6月14日。


慶応3年生まれ3人め、旧暦9月17日、松山藩士のお家。多分真ん中くらい。
山田美妙氏が一年下なんだけど大学予備門で同窓だったっぽいね、まあこの頃年齢に関係ないみたいでちょいちょいズレるよね、あ、漱石さん、南方熊楠なんて名前もあったよ。
で、秋山真之さんとは中学校の同級生なのね、てか、地元から東京の進学校(当時は中学校が進学校相当、のちの高校ね)も一緒に移動ってそういう規定のコースがあったってことなのかしら、それとも金銭支援の口かなぁ、これもたまにある。
で、新聞『日本』に明治25年に入社、叔父さんの紹介ぽい。
明治28年の日清戦争の従軍時に喀血して、結核が7年続いたってことなのであれかなぁ、この前後での発病かしら、そんなに急激に進行するものだって印象でもないんだけど従軍だとなんとも言えない…。
明治35年没で34歳、さすがに戦前でも若死にだよねー、欧米とは感覚が違うから40代後半だと「普通」だからな…。

で、主に日本紙上や『ホトトギス』などで各種文芸関係に関しての活動をしていたのですがてか、あれ、「万葉集への評価」ってこっちにあったね(サッチーが始めたって聞いてたんだよ、いや本当に)。
根岸短歌会というのもちょっと説明が足りなくてピンと来ないけど、要するにホトトギスとか『アララギ』とかそういう辺りの人たちのことぽい。
ううん、やっぱりWiki辞書に頼っても芸能関係の機微はよくわからないところがあるよね、経歴なんかは疑ったことほとんどないんだけど。
あ、違った明治22年に喀血してた、やっぱり治らない病気なんだなぁ…。


尾崎紅葉。6月15日。


慶応3年生まれの4人め、旧暦12月16日、明治36年没で35歳、あー、子規さんと一年違いか、お父さんが「幇間」っていうあれだ、芸者さんの太鼓持ちをやっていたとのことで、ちょくちょく恥じてるって聞くね。
まあ、文士ってさすがにもうちょっと上の階層のお家が多いからなぁ…。
とはいえ文化結社である硯友社は構成メンバーのほとんどが士族のお家じゃないよね、それ系の面子も何人かいるものの、だいたい入る時点でちょっと揉めてるし。
硯友社ってのは日本初の文化結社だそうです、政治と関係ありませんっていう誓いを立てたってことが紹介されてたなー、大変な時期だったからね(国会作るだなんだと)。
この結社で出していた『我楽多文庫』が「日本初の同人誌」って言われてることがあるんですが、文化結社なので機関誌になるんじゃないかなぁ、他の結社だとそう呼ばれてるし、そもそも『文學界』が最初の同人誌って言われてたからなぁ(こっちは同人制)。

Wiki辞書読んでるんですが、なんかがちゃっとした内容だな、まあ、文学研究がふんわりし始める時代だからしゃあないか。
大雑把にのちに弟子の徳田秋声に「菊池寛と並ぶ数少ない大御所」などと評されているように、まあまあなんというか、業界への影響力が大変なもので、横柄な態度が手を変え品を変え「日本文壇史」に紹介されてたなぁ。
どう変えてもだいたい同じネタだったけど…(弟子の作品に手を入れて共著にすることはこの時代別に恥ではないんだけど、少しあとになると奇異に見られてる)。
で、「金色夜叉」が読売新聞に掲載されてさすがに小説で社会現象化したのは初じゃないかな、そのまま前のめりに胃がんでお亡くなりに、酷使だよなぁ…。


山田美妙。6月16日。


慶応4年生まれ、で、これ明治元年だよね、旧暦7月8日、明治43年没で42歳、そういやあれか、元年の生まれだからこうなるのか、どっちが年齢でどっちが年だかわからなくて3回確認しちゃったよww ええと南部藩士のお家、下級藩士ぽいな。
てか、言文一致は四迷さんと共に先駆者の位置に疑いはないし、硯友社に関しても明らかに紅葉さんよりリーダー格というか先に世に出てるんだよね。
そういやあれ、言文一致において彼らが参考にしたっていう「講談」ってどうも、三遊亭円朝だって、怪談とか書いてたんですけど、講談なのかしらあれ…。
が、なんか全体的に満遍なく評判が悪く、ああ、そういや「新体詩」においても初期の人らしいんですが、内容じゃなくて二番煎じって否定されてますね、が、この時期って他にもちらほらこれ系の本あるよなぁ…。
ううん、全体的に評判の悪さに引き摺られてる気配がする。
ああいや、「芸術のために女に子を生ませて捨てた」みたいな言動をしてたらそら性格が悪くないとは言わないけどな、坪内逍遥氏に芸のためとはなにごとか批判されたんだけど、彼は元芸者の奥さんに教育までして生涯大切にしてるんだよね。
(これ、芸者と結婚してるんだから同じく恥じろ!! と語ってるファンの方がおり、いやー、作家の株までざくっと落とす見解だなー、と。)

が、正直今回初めてWiki辞書のページを眺めると文学評価に関しては先駆者に質を求めるってどうなのよってなるんだ、たたき台にするにしてもせめて内容で批判するべきなので批判のほうを評価しにくいんだ。
だがあらゆる人間関係は自然崩壊してるのでそっちはまああまり…。


徳冨蘆花。6月17日。


明治元年の生まれ、んーと、美妙さんと同年だけど9月8日に改元してたのか、旧暦10月25日、新暦と旧暦の切り替えはまだですよ(明治6年切り替えかな)。
昭和2年没で58歳、いやね、さすがに現代人でも60歳に近いとそんなこともあるよねって受け入れやすいんだけど一時期夭逝したという印象になっておりまして、あの、あれだ、兄の蘇峰さんが長生きなんだよ…、あっちは幕末から名前が出始めて(学生だけど鬼のように目立つ)、戦後まで権力の近くにいるしな、あ、中枢にいたことは特にないです、なんかずっとジャーナルな感じ、有名な記者のインテリ枠みたいな。
で、なんで兄の話をしたのかというとわりとずっと蘆花さんとは反目していたというご評判ですが、蘆花さんは小説が売れるのでわりと出版社に追いかけられていたので、なんか反目してるけどどっちも有名な兄弟って感じだなぁ。
兄ちゃんの影響範囲とはまた微妙に違うしねー、自然小説の時点ではちょっと馬鹿にしてたし、昭和に入ると文学関係のお仕事もしてるんだけどね。

てか、そもそも兄ちゃんが保守(右左の右寄り)に走ったため急落した時に国民新聞に小説を書かされ、それはそんなに評判じゃなかったんだけど単行本にてどっかんと爆発し、世に「家庭小説」というジャンルを生み出しました。
あ、あれです「不如帰」、一応あれ、政治家の暴露小説のつもりだったんだって、そのつもりで読んだらメロドラマって、そりゃ国民新聞のカラーじゃないよねー、でも地味に評判になっていたんだろうひっそり、そして売れたんだろう。
女も旧式だが男が新しくて愛に生きてて悪くないんだよ!! と擁護されてた、あ、新式だなぁ、まあ文壇からは無視られてたけど文壇トップの3倍売れるんじゃなぁ…。


国木田独歩。6月18日。


明治4年生まれ、旧暦7月15日、わりとざくっと年齢下がったよね、なんかこういうことよくあるんだよなー、逆にわりと年齢が団子になってるというか。
明治41年没で36歳、これもわりと夭逝で有名ですが、どっちかというと入院先で実況中継していた人らがいたために盛り上がってたぽいね、そういや直木三十五氏が亡くなる前に「国木田独歩以来」って言ってたから、なんとなく雰囲気は察する。
時々文学の新しい本に独歩氏の評価に関して身構えている人がおり、妙な伝説やら過大評価が横行していたらしいんだけど、正直見たことはないです。
それらしいことを触れてる人はまあたまに…。
とはいえ、自然主義の中でも文章のさっぱり具合では随一だし(散文って揶揄られてたりもする)、当時の若者に清新に映ってもそれ自体は不思議はないかなぁ。
個人的にはさっぱりした文章と神に我が身を報じるみたいな題材の組み合わせがいまいちに感じるので評価は低いけど、そこがいいって人もいてもいいと思う。
神に訴えるけどなにも返らないって表現するほうがバランスは良いかな。
が、当時かなりの資産家の明治女学院の経営者寄りのような家の娘さんを、どこの芸者を落籍した男かよ?! みたいな異様な扱いをしており、御年輩の方にはかなり評判が、その…さらし者にされてたりするし(出版社がパトロン必要だったんだよね)。
ただこれ自体、そろそろ上流階級が妾を隠す時期に連動して、若者勢に「女の扱いの酷さを自慢する」ムーヴメントがあったようで、ああ、あれの流れか、と納得すると共に、なんとも軽いなという評価に落ち着く感じ。

まあ出版社は日露戦争ブームには乗れて10万部は行ったようよ、幾分マシな…。


田山花袋。6月19日。


明治4年生まれ、旧暦12月13日、ああ、旧暦と新暦で括りが変わるのか、まあ月の4分の1くらい毎年ズレてくからね、太陰太陽暦って(4年に一回調整する)。
昭和5年没で58歳、なんかで見たことあるな死亡前後。
秋元藩士のお家で困窮してたのはお父さんが亡くなったせいか、中くらいかな。
この人、学歴が皆無、と評価されてることがあるんだけど、中学校相当である英学校を出てるので皆無ではないよね少なくとも。が、そういう学校が存在してることを知らない人には学歴なしに見えるんだろうね、私塾から英学校なので英語が読めるのも順当、と。
いやー、理解出来るようになるまでしばしば本を回してたよ…。

一貫して言われていることは才能はないということですが、だが評価が低いわけではなく、いわゆる時代を牽引した男への駄目出しの類だろうね、独歩氏の評価が出てくると身構えた人は「いやいや花袋だよ」と言われてすとんと安心してたし。
てか、博文館に勤めたのって大橋乙羽さんの紹介かー、いいよねあの人(作家の経歴の中にもうっかり出てくるし記念館にもいるし、正直聖人に見える桁)、そうね、確かにあの人には気に入られそうだわ。
能力はないながら努力の人で、粘りはあるというか「心情を描かない」一元描写というものを志していたんですが、心情が描けてないと叱られてました…、いや、あの…、最終的には説得を諦めたのか藤村も手癖があってね、とかなり正確に把握してたので他の面子への説得は諦めたのか。
読者への信頼が足りないねっ、と語ってた講師の人に賛成かもなぁ…。
ところで花袋氏。「後期」自然主義ぽいね、おおう、前期なんていたのか。

(文芸:文アル登場作家、その2。193)
最終更新:2021年04月11日 23:21