文芸:文アル登場作家、その4。211


斉藤茂吉。12月7日。


明治15年5月14日生まれ、戦後8年で亡くなってますが70歳没なのでそう早いってわけでもないか、この前後の生まれの人は結構長生きの人が多いような気もする、いや、漱石さんの頃は「作家は50歳まで生き延びない」とか言われてたからね…(花袋の50歳記念パーティーはそういうニュアンスだったぽい)。
こっから少し下になると戦時中にがっつり責任者になっていて戦後にばたばた死んでたりするからなぁ…、茂吉さんも芸術院には参加してたみたいで愛国の歌は作っていたようですが、「愛国」止まりぽいかな戦意高揚とかでなく。
いや、もうちょっと上だとまた数少ない生き残りとして戦時組織に無理に引っ張り出されてたりもしたけどね…(露伴さんとか徳富蘇峰さんとか)。

15歳の時点で9歳の女の子と婚約したようで、婿養子。
合わない合わない合わないと延々とエピソードが並んでましたが、本当に合わなかったんだろうな、別れてもいいような気もするんだけど、年齢的に微妙で難しかったのかもなぁ、いや、学費のための婿養子ならさすがにそこまで拘束強くないよな…。
精神病院をやっていたことは他の文士を読んでいてもちょくちょく出てきますが、ぶっちゃけて「だいぶ他よりマシ」だったようです。
どんなにおかしなところだったのかと語られていたんだけど、当時はそもそも精神異常という概念が生えて来たかどうかなので、ちゃんと病気として扱ってる段階でよっぽどマシだった模様です…、ちゃんと退院してるしさ。
伊藤佐千夫門下、かなりがっつり医者、でもずーっと文学の道でも淡々と生きてたみたいですね、いや、奥さんに拘る必要あったのかな…、病院の設備のせいなのかしら。


鈴木三重吉。12月8日。


明治15年9月29日、明治11年の没で享年は54歳かな? 正直Wiki辞書にはなかったので自分で計算したんですけどね。
とりあえず、多分間違えではないとは思うんですが(複数で見てるので)、芥川が『新小説』にて同人誌からの転載の「顎」を載せた時点で編集者だったようで、書き方からすると編集長じゃないかと思うんだけども、なんでか三重吉さん関係の文章だと読めませんね、いやだって、この時点でどこそこ受け持っていたのが誰ってぽつぽつ編集者仲間が書いてるんだもん、そうそう間違ってもないだろ…。
(あくまで新小説を担当していたのは鈴木三重吉って書き方だったので編集長なのかどうかはよくわからんみたいな感じ、他の雑誌もあれこれ書いてありました、厳密にどこで切り替わったのかもわからんのだよな正直。)
あと『国民新聞』への掲載ってのもありますが、これが虚子さんが担当していた時代でしょうね、漱石門下と協力関係にあったって語られていたので、まあなんか、これも書いてあるところとないところがありますが、漱石と新聞みたいなテーマだとわりと普通に出てくるので結構ちゃんと研究されてました。
…なんで扱わないのかは、よくわかりません、経歴として書かれてなくても私が特に動じないのは本当に慣れたからだよ、なんで省かれるのかもわからん…。

あと児童文学雑誌である『赤い鳥』への評価がどん底打ってるのは界隈の人が鼻で笑ってるのしか見たことがないという素直な理由の上、編集者である小島政次郎がほとんど編集をやっているが原稿が送られてこず、しまいにゃまとめて代作していたらしくて。
褒めてる人がいたら考え直します、一石を投じた程度の話は聞くんだけど…。


志賀直哉。12月9日。


明治16年2月20日生まれ、昭和46年没の享年88歳、さすがに栄養状態がいいね! みたいなことを言われてましたが、白樺確かに長生き多いよな…。
Wiki辞書のページに「多くの作家に影響を与えた」ということが書かれていたんですが、やっぱり『暗夜行路』に関してなのかなぁ、確かにいわゆる純文学と言われた作家のとある世代までのかなりの人数がよく似た父子関係ものの作品を書いていたようです、大正8年の作品集をたまたま読んだんですけど見分けることすら辛かったし…。
ただそれが志賀直哉の影響かというと…。
確かに志賀氏の属した白樺の登場と似たような時期からあるみたいです(自然主義の最盛期にはまだない、その直後くらいになる)、が、白樺が世に影響を与えたということは同時代にはほぼ言われておらず自然主義作家まで込みで書いてるテーマが「志賀直哉の影響」かと言われるとだいぶ疑わしいような気が…。
とはいえ、志賀氏にとって父子間の価値観の断絶は後追いなどではなく、当人の生まれに非常に相応しいことを否定するつもりもないですし。
暗夜行路がその父子路線の最後の生き残りなんじゃないかって言われるのだとしたら単純に物理的に事実じゃないかと思うんですよね。

同時代を見ていると葛西善蔵と菊池寛を彼の系譜の人物としていたりしますね、研究者が取り上げていたんですが、これ、人間興味(ヒューマンインタレスト)の短編のことを指すんじゃないのかなぁ…。
あの二人を取り上げて純文学のメインストリームって結論に持ってくのはなんかちょっと、と思いながら読んでました、あまりにもなにもかもしっくりこない…。


高村光太郎。12月10日。


明治16年3月13日生まれ、昭和31年没の73歳、Wiki辞書のページには「日本文学報国会」までしか書いてないんですが、確か大政翼賛会にも参加してなかったっけか、武者さん辺りと一緒だったような…。
(文学報国会は特に問題がなく、大政翼賛会だと公職追放を受けるという話なので、そこそこちゃんと読んだし、年齢的にも立場的にも他の人と取り違えにくいんだけど。)
あー、そろそろそういう世代がぽつぽつ混ざって来る頃か。
ところでお父さんの光雲さんが東京美術学校を岡倉天心に連座して辞めさせられたことなんかは特に触れてないみたいですね、まあ、光雲さんのほうから読めば多分読めるんじゃないかと思うけど、略す意味がわからんし。
にゃ、鴎外さんと距離があるって言われてまして、いや、特に理由はない、だが露骨に避けていないかなどと言われているのですが、その説明として鴎外さんがその東京美術学校に特に呼ばれた人だってのは普通にあってよさそうなものなんだけどねー。

『明星』の参加者であって画家さん兼ね、彫刻も出来ます、お父さんは皇室献上作品とかあります、美術の教科書で見たよあの猿の木彫り、すごかった!
ついでにお父さんは完全に無学であくまで木彫り職人さん、岡倉天心さんに一本釣りされて東京美術学校に赴いたので、彼がいないなら意味はなかったのかもね、てか、純粋な職人が教師としてあり続けたら日本の芸術も違う道があったのかもなぁ。
にゃ、岡倉天心さんは東京美術学校のパトロンの政府高官の奥さんをちょっくら寝取っちゃってたので、まあうん、辞職も、ちょっと。
普通智恵子さんを中心に語る気がする、まあいいか。


北原白秋。12月11日。


明治18年1月25日生まれの昭和17年没の享年57歳、あー、戦時中に亡くなっていたのか、この人が国家主義的な作品をわりと多く作っていたのはわりと知られてると思うんですが(ちょくちょく同時代を見てると書かれてるので)、なんか、抵抗していたっていう書き方をされていることもあるんですが。
各種あった戦時組織に参加していなかったのは事実。
とはいえ、近いジャンルの編集者(児童系)には国家主義的でばんばん出版していて羨ましいって言われてたりもするしなぁ、当時はデリケートなんだよな…。
えーと、あ、この人は予科なのか、当時の私大は中学校を卒業している必要があるのでそれ以外だと予科になるみたい、早稲田出身、とはいえ早稲田にはまだそんなに詩人の拠点はなかったのかな、Wiki辞書のページにある新詩社ってのはえーと、与謝野鉄幹を中心にした組織か、『明星』の系譜ってことかな。
ここが何度か分離解体されてるから詩人は話がややこしいことになるんだよな…。
むしろ白秋さんの出していた詩の同人誌によって荻原朔太郎や室生犀星などを輩出しているようなことはあるものの、詩壇の牽引者かっていうとちょっと違う雰囲気。

で、どうも童謡のほうで有名みたいなんですよねこの人、契機となるのは『赤い鳥』という児童文学の雑誌からになるのかな。
童謡運動という日本の本来の音調を復活させようみたいな活動があったんだよ、と語られている本で読んだんですが、実際には西洋の音楽である唱歌寄りが多かったって言われてたなぁ、まあまあ徐々にそれらしくなりもしたぽいけどねー。
同じ本で見たレコード時代の寵児って話に関しても読みたいなぁいずれ。


中里介山。12月12日。


明治18年4月4日生まれの昭和19年没で享年49歳、戦時組織で見たことないな、と思っていたんですが、日本文学報国会の立ち上げの時点で呼ばれてますね。
えーとね、大衆作家に関してはあまり戦時組織にいなかったんですが、「大衆文学が生まれるよりも前の時代の大衆作家分類の人」や幾人かのインテリ作家などは戦時組織に呼ばれていたので、介山さんも呼ばれてはいるかなとは思ってました。
大衆作家が独自に作った戦時組織なんか報国会に潰されてたからなぁ…。
(何個か潰されてます、どういう意図で潰されたのかはわからんけどね。)
この人に関しては多分「大菩薩峠」しか知られていないんじゃないかと思うんですけども、文学とか興味ない人でもなんか聞いたことはある、みたいなことが多いんじゃないかしら、なにしろ都新聞、大阪毎日、東京日日、隣人之友、国民新聞、読売新聞って並んでいるので、一作品しか知られてないのも無理はないんですよね。
なにしろ昭和16年まで書いてるって言うんだから、晩年じゃん…。
というか戦時中なので、チャンバラを書き続けられないという事情もあったんじゃないかと思うんで、本当に一筋だよなぁ。
にゃ、何作品か他に書いてるぽいですけどね、始まったのが大正2年、大正10年に連載中断、春秋社に引き上げられて連載再開、それが大阪毎日以降でこれが昭和2年。

うん、さすがに「どこかで聞いたことはある」になるよ、純粋にめちゃくちゃ長いし作品の変遷だけでだいぶドラマチックだよな…。
でももともと社会運動家でどっちかというと小説書ける? と都新聞でも心配されてたの記憶してるな、正直意外な人生だったんだろうな。


武者小路実篤。12月13日。


明治18年5月12日生まれの昭和51年没、享年90歳! 白樺は皆長生き!!
西園寺公望に関しての文章で見ることがあったんですが、彼の武者小路家は「五摂家の次」の身分ぽいんですが、それがなんのことを示すのかがよくわかりません、西園寺と同格で残っているのは近衛のみ、まあ、親類みたいなもんだよね、みたいにシャキシャキ語られていたのでなんらかの元があることは疑っていないんだけどね!
てかあれ、貴族院議員やってたんだ? 初めて読んだなこれ。
作家としての評価してはなんというか、あんまり見たことがない人です、誰がいつ語っててもなんか微妙に他の話になってるんだよね、「新しい村」をまず褒めたり、政治関係の本では特に手放しで褒められていたりと、正直ちょっとこう、編集者寄りの出版社の本などでは名前を見る人に近い雰囲気を感じないでもないかも。
いまいち立ち位置がわからなかったんですが、どうも通俗小説の走りの一人っぽいんだよね、これ以前はいわゆる家庭小説って言われるジャンルしかないので(これはいわゆる婦人教育のためにあるみたい、テーマは妾問題か非嫡子について)、が、白樺派はなんだか純文学の牙城のように語られていることが多く、微妙に浮いた存在に…。
演劇においても新劇と新派の間みたいな位置ぽいんだよね…。
(新派から来て、新劇を名乗り、新派に戻った人が主に武者さんを扱っていたので、本当に隙間というか間というか…。)

結果的に文学的評価はなさそうなんですが、ぐたぐたでも黎明期の橋渡しをいわゆるガチな貴族階級の人が担ったのはそんなに筋の悪い話でもないよなぁ。
同時代をちゃんと再現しないといまいち埒が明かない気もしないでもない。


若山牧水。12月14日。


明治18年8月24日生まれ、昭和3年没で享年43歳、てか、昭和初期の前後の文士の死亡者多いなぁ、ぶっちゃけ享年が40代くらいだと普通扱いよね日本…、アメリカだと夭逝夭逝言われてたら47歳で日本式に慣れててびっくりしたんだよなぁ。
あれ、白秋さんと同級生なのは知ってたけど、牧水さんのほうは中学校を卒業してから早稲田大学の高等予科に入ってる、それが正規ルートでいいのかしら…?(中学校を出ていない他の人が試験を受けて入学したみたいなことも聞いたことがある)

で、多分そうじゃないかと思っていたんですが、22歳から26歳までを付き合っていた女性との恋愛というか、失恋による作品で名前を売っていたんだね…。
メインが短歌ということは扱ってるのは伊藤佐千夫門下かしら、経歴に北原白秋や石川啄木の名前が出てくるものの『明星』などに近づいたような話はないのね、鴎外さんの観月楼なんかとも無縁。
短歌オンリーではないみたいだし、その気ならいくらでもツテはあったんじゃないかと思うので、多分きっちりと考えた上でなんじゃないかな。
まあ、伊藤佐千夫などを避けたのはわりと普通にわかるけどねー、内部分裂もだけど些か物騒な感じだったので…(一人などガチめの愛国主義に走ってしまい)。
熱愛で知られ、その数年後に奥さんから強烈なアタックを受け、主流派閥に近づかずに新人のために雑誌を立ち上げ、雑誌の資金難で奥さんともども苦労した人生、みたいな感じになるんじゃないかな、家族で食べてく程度には知名度ありそうだしな…。
お酒飲むくらいしか欠点なさそうだけど、遺体が腐らなかったことしか書いてないな。
てか、白秋さんとは真逆な感じかもなぁ、あちらは拠点がない。


石川啄木。12月15日。


明治19年2月20日生まれの、享年26歳、むしろ経歴見てるとこの若さでこんなに?! となりますね…、わあ、明治45年って明治最後の年の没か…。
あと、土岐哀果さんってやっぱり牧水さんのWiki辞書のページに出てきていた同級生の土岐善麿さんのことか(白秋さんも同級生であと3人ほど著名人がいるぽい)、晩年1年の付き合いってあるけど、結構いい出会いだったらしくてちょくちょく見るんだけど、土岐さんが啄木氏との死後もしばらく同じ仕事を続けていたからかもね。
まあ、新聞社に入ったり出たり、名前が売れても特にそれで食べれたりはしなかったり、そのため原稿枚数が多い小説家を目指したりと、なんとも忙しない人生なんですが、まあ、26歳までの行動って考えると仕方ない面もあるのかなぁこれ…。
当人の事情ではなさそうな結婚の早さなのに、周囲はインテリ揃いというか、牧水さんの「結婚前の恋愛」がちょうど26歳までの間なんですよね…。
責任感持てって言われても限界があるよなぁ正直。
ある意味で彼が社会主義者と同調したのが他の作家たちとちょっと調子が違い、大逆事件に関しても唯一言及が取り上げられていたりするのも、視点の違いみたいなものがあるのかもしれないな、友が皆、我より偉く見え…そうだよね。
都会で生きる若者なら、そこそこの仕事で野放図のお金の使い方で多分全く問題のない、若気の至りで済んでいたんじゃなかろうか、そういう人と、縁遠いわけでもなんでもなく、むしろ自分のほうが名前が知られている状態か…。

別に無軌道が理解出来ないってほどのこともないよなぁ、ううん。
都会に出てくるに相応しいだけの能力がなければまだしもだったのかしら…。


谷崎潤一郎。12月16日。


明治19年7月24日生まれのほどほどに長生きです(投げ)。
とりあえず純文学作家と大衆作家との収入の違いを語る時には純文学作家代表(もう一人は横光利一)として挙げられており、戦時中に「なんかいいもん食わせて」と中央公論の若社長に頼んだら玉子焼きしか…みたいなことになった時は他の社にいた小林秀雄氏にめっちゃ怒られてたとかまあまあなんか偉い立場ぽいです。
とはいえ、菊池寛とか出入りの店に食糧差し入れしてたし…。
大衆作家との収入比はなんか10対1くらいだったんじゃないかと、でもあちらは一作品で家建つよん、みたいな雰囲気だったので、別に桁が一つ足りないだけなら十分なんじゃないのかしら…。

ところで純文学においては生活が荒れているほうが勝ちだみたいな価値観があるらしく、文士村を読んでいる時に大変に閉口させられたんですが、また少し違ったの判断基準として「この男はロリコン、こないだ確定した、こいつはフェティシズム、この彼はストーカー気質…」みたいなものがあるらしく。
この偏執的性質のために社会生活はちょっとばっかり犠牲になってはいるんだけど、それで作品がいい出来なら仕方ないよね! みたいなことを言われると、それはそうね、とごく自然に頷ける気もします、ちなみに全員元がおり、フェティシズムに該当するのが谷崎氏です、谷崎だけ表立って偏執狂と呼んでも差し支えないらしく。
そうかそれで、それなりの地位と売れ行きがあったのね、とそこも納得です。
自分の気質が迷惑なんだろうなとそこはかとなく自覚していそうだけど踏みとどまれてなさそうなところも、まあ悪くはないです、芸術のためってやつね。

(文芸:文アル登場作家、その4。211)
最終更新:2021年04月28日 22:22