雑記:文或と近代もろもろ、163
8月15日めも。
リアルタイムは2020年の7月15日、さっきまでついったに書き込んでいたんですが、そういやもう一回あれを書いてもいいかなー、と考えた所存。
明治から大正、昭和初期くらいまでの学校制度についてですが。
読んだことあるのがどうしても「帝大の歴史」なんだよね。
日本の場合はボトムアップ型ではなく、まず先に帝大が作られているんですが、ちょっと正確でもないけどまあ一旦の完成が東京帝大の存在でね。
これのレベルに関してはアメリカを抜き、ヨーロッパの大学にも比肩するみたいな感じに言われてたんだよね、にゃ、多分妥当ではないかと思います、思い上がりとかでなく。
そして試験を行ってみたんだよ。
だいたいこう、40代中旬くらいの合格者がぽろぽろ出たそうです。
上でめっちゃレベル高い! と褒められていたのを全面的に信用したのはこのせい、この結果とセットで疑う必要を全く感じないんだよ、ていうか独学者偉いなww 国を作るのにはどうにも頭が痛いけど、としか言い様がないけども。
この帝大のレベルを落とすことなく、教養を与えるための高等学校を作り、ここに入学卒業することを帝大進学の条件とするみたいな感じの展開が次。
まあ最初の名前は中等学校だったけど。
露伴先生が入っててコケちゃったのはここですね、努力型の秀才のトップクラス、年度的にはストレートで頓挫だと、まだなんか問題あるよな…。
漱石さんとか紅葉先生とか子規さんとかの学歴が年齢が同じにも関わらず結構ばらけてるのはそれが理由ですね、入ってるのは同じ「中等学校→高等学校」だけど。
8月16日めも。
いやまあ、大学予備門って呼ばれてた時期もあるけどねー、中等学校と大学予備門を同じ存在だと認識するの難しそうだなぁ正直…。
えーと、最終的に小学校→中学校→高等学校→帝大、となるみたいな感じ、中学校と高等学校に試験があって高等学校から帝大の間には試験がなく、ここは確か成績の順番に希望の学科に入れるとかじゃなかったかな? 正確には覚えてないけど。
途中で学習院からの生徒を無試験で入学させてたりしますが、なにしろ帝大というのが基本的に役人になるための学校なので実学に対しての要望が高く、当時「虚学」などと呼ばれていた教養に関しては人気が薄く(帝大生って大抵金ないしね)。
ここにいわゆる上流階級の子弟を放り込むというのがどちらにとってもありがたかったんだよねー、みたいな感じの話になってました。
家を継ぐのに教養があると統治に都合がいいよね、みたいな感じのことを言われてたのでいわゆる県知事みたいな役目を想定されていたのかな? 地主辺りのニュアンスもあったように思うけど。
(学習院はそもそも食い詰める貴族を帝室の藩兵として残すために作られたので学費もいらない感じ、たまにいる貴族ではない生徒は家の金の力で入った人たち。)
(だから成金って呼ぶんだよね、単にわかりやすさのためであって一般的な呼び方でもないけど、実業家はもうちょっとあとにならないと出ない。)
庶民の地主層の人たちは「洋学は駄目だ、漢文のみ許す」みたいなこと言われてた記憶がありますが、この層の上に立つ虚学の元藩主様一族ってイメージでいいのかな?
虚学は国のためには必要だしって言われてたのと合わせて考えるとなかなかいい感じ。
8月17日めも。
東京帝大が完成するまでの間に東京大学と呼ばれていることがあるんですが、これが文部省の役人になるための学校みたいなイメージです、当時の大学の教師は役人扱いされてたよー、だから「学校」にて検閲するなんて雑誌のエピソードがあるのよ、と付け加えるとわかりやすいんじゃないかな?
この東大に幾つかの省庁が持っていた専門家への養成学校を吸収させたのが東京帝大ですね、京大以降の帝大は東京帝大をモデルとして学科を調整しながら作ってった感じなので東京帝大が一旦の完成って言うのもなんとなくわかりやすい感じ。
(私が言ったんじゃないからねー。)
というか日本近代の初期において、専門家が必要な仕事はほとんど政府が担っていたので特に役人以外に専門家が必要とされておらず、明治中期くらいになって各種産業の払い下げがあちこちで起こったのもそういう順番で言うとわりと健全なんだよね。
まあ、めっちゃ雑に要約してるけどこれ。
見てると例外としてあれはどうなのこれはどうなの、美術学校とか独立してんじゃんとか鉄道省の学校どうなったっけとか、ちまちま気になるけど!
とはいえ、そこそこ把握してる感じじゃん、例外がどうなのか自信ねー、とかいろいろあるけどメインルートだけでもちゃんとつながってるし。
ところが日本の学校制度というのは東京帝大の完成とはあんまり関係なく発祥した小学校からの展開もありまして、東京帝大と小学校をいかにつなげるかとか小学校をいかに展開していったかなどの知識がほぼありません私…。
次の知識が講談社の雑誌『キング』の読者層まで飛ぶ、情けない!!!
8月18日めも。
ここまで書いて「それは末席マニアが恥じるようなことなのかな?」というようなことはなんとなく自分でも感じるんですけども、わからないのに外側の事情だけで語ってるのはこう、本当に辛いんだよ、誰か突っ込んで来たら絶対に聞きたいんだよ!! と思うんですけども、そういう学問あるのかしら? て段階からわかりません。
まあ私大の扱いも半ば勘になってるけど、この辺は大正8年に施行された大学令というものが中心になっての地位付けが行われているようなので、そこまで極端に外すこともないかなって意味でそんなに心配してないんだけどねー。
さすがに大正8年だと社会制度の変革期なので資料に事欠かないし、私大研究みたいなものはなくてもはっきりとした関係者とか私大の内情とか、読んでないのが専門研究書というだけなので恥ずかしいってほどでもないんだよね。
なんというか間違ったこと言っててもそこちゃいますね、直しますありがとう! で済みそうというか、個別案件の認識ミス程度で済みそうというか。
小学校に関しては真面目に山勘に近いんだもん、致命的ミスとかしてそうで…。
というかあれ、大学令ってのは要するに新思潮と呼ばれる派閥が世に出た直後、だんだん知名度が上がっていくくらいの時期に出ておりましてね。
その時期前後の新思潮第3次、第4次に異様に文士が多いというのもなんとなくわかるような気もします、特別ではない民間企業にも専門家が行くようになる過渡期の辺りで、ここ以前にはそもそも学歴重視みたいな感覚が薄いんだよね。
そりゃまあ、役人になるための帝大って認識だと無理もないわな。
私大はあれ、財閥が支援してるのでまた話がちょっと違ってくるしな。
8月19日めも。
で、『キング』まで話がすっ飛ぶんですが、私の知識の限界的に、だってちゃんとわかるのがそこからだし、これが大正15年の発刊、この雑誌の読者層ははっきりくっきり小学校卒の人たちで、要するに完全識字者だよね。
字は完全に読めるんだけども、みたいなところかな。
この時代においては小学校が義務教育なので、最低水準が完全識字者になるのね。
過去の小新聞などと言われてた時代においては「ふりがな」新聞が標準だったので、あれとはある意味で種類は違うって認識でいいのかな。
雑誌の内容的には文字になったラジオ、みたいなこと語ってらした本があったけど(キングの研究書は一個しかないので多分わかりやすいかと)、となると多分浪曲とかはありそうだな、まあ歌う講談みたいな感じのジャンルですけども。
講談師組合が見下してたけどその内容の違いは私にはわからん。
で、講談、通俗小説、庶民の読み物として定番の英雄譚、偉人の伝記、哲学者たちを悩ませていた科学知識なんかもありそうだけど、これのレベルはいささか心許なかったかな、いやプロ文系の哲学者が気にしてたからね(彼のことは信用している)。
漫画は少年倶楽部のほうでやっていたようですし、カラー挿絵なんかは印刷技術の向上によって存在してたことは聞いてるな。
そうそう文藝春秋がカラーピンナップを導入してたので見下してた人いたっけ。
カラーだからなんなんじゃ、と私ならなりますが、まあ大正時代の方の感覚がそうなるんだろうなと飲み込むしかない。
政治家や各業界の代表者対談などを行ってる時期だしなぁ、小説より格上以下略。
8月20日めも。
私の知識だと歴史順に語れないのでここで遡るんですが、直木さんが子どもの頃からある程度の年齢まで付き合っていた貸本屋のおっちゃんは菊池さんや久米さんの本を読ませようとしていたようで、その姿勢が若干煙たがられていたようです。
講談の中にも高等講談(多分、私は高級講談って覚えてたけど)というものがあり、こっちはなかなか読める人がねー、みたいなことが言われていたわけですよ。
キングの研究においてインテリがキングを読んでいるケースがちらほら挙げられていたんですが、全員が挙げてらしたのが菊池さん、久米さんが一人、他の名前と二人くらいずつ挙げられていたんですが。
最初は感心していたものの、どうもいまいちワンパターンだと気付いてね、みたいな感じの展開を辿る、さすがインテリ、ここまではいい。
問題はどうも、キング誌上においても一番人気は菊池さんらしく。
多分なんとなくニュアンスはわかって貰えるのではないかと思うんですが、えっ、そうなの?! と正直なる、菊池さんの通俗小説ってあれ、帝大生の同人誌の中でもハイクラス扱いの戯曲とほとんど変わらん文体のあの。
貸本屋で無理じゃん、みたいな態度取られてたって言われてたはずのあの。
研究者が研究のために読んでたらその結末に対してエキサイトさせる程度のあの。
インテリがそれ目当てに手を取ることがあるその作品でいいのか本当に。
みたいなことになるわけです、しかも菊池さんは講談倶楽部もキングも嫌がっていて、将棋に負けた結果「千円なら受ける(小さな家が建つ)」と言い放ったら講談社社長にオッケー!! と返されたという感じのあの。
8月21日めも。
そしてここで講談倶楽部の話になるんですが、菊池さんは昔から講談倶楽部を嫌っており、『雄弁』(東京帝大をメインに学者の論説中心に作られていた雑誌)の仕事を久米さん経由で受けた時に講談倶楽部の主任格の方が担当で出て来た時に気付いて怒鳴りつけていたわけですが。
ちょっと新人作家、まだ大きな雑誌でのお仕事前の方としては気が強い…。
キングの仕事を賭け絡みで受けた段階で態度がすっかり軟化し、件の講談倶楽部の編集さんとのお仕事もしているようなのですが(編集さんでも主任さんでもないです、わかりやすく書いてる)。
講談倶楽部に載せたわけです、自分の同人誌時代の軽くリライト作品を。
数年後まで評価されなかった戯曲を少ししか直してない作品を。
講談社の金の力に屈したんですよ彼はリアリストだから! みたいな感じのご評価があり、それもまあ言ってることはわからんでもないものの、歩み寄ったのは庶民のほうでありもともと最下層と呼ばれていた側であり、直木さんの世話になった貸本屋のおっちゃんや早い段階で菊池さんに色気を出していた講談社の社長のほうが世の中の変化を早い段階で察していたとしたほうが無難なのではないか。
というか菊池さんの通俗小説にしたところで東京日日新聞の連載だしなぁ。
貸本屋に来る人たちには難しいって言われてたあれだよね。
プロ文の作家たちは菊池はすぐに人気が落ち、もっと作品レベルが低い作家に取って変わられるだろうと得意げに語っていたんですがね。
講談社の社長のほうがやっぱり正しかったと思うんだよね。
8月22日めも。
で、あれ、文藝春秋を擁していた層が「新知識層」、岩波書店を愛読していたのが中学校の教師、キングは小学校卒、わりとこれは雑誌を読むと露骨らしいんですが。
中学校の教師のレベルってのは正直そう大して変化していないんじゃないかな、と思えるわけですね、中学校の卒業者から教師となれる学校の構造を考えると、初頭学校寄りの水準がこの短期間で変わってるとは考えにくい。
岩波書店の百年史を読んだ時に中巻担当の方が言っていたんですが、岩波の社長は馬鹿にしてたけどキングの層と岩波書店の層って単純に隣だったと思うんだよねー、みたいなのを思い返すし。
講談社の社長をそこに置くとだよねー! となるわけです。
菊池さんのほうが鈍く、彼は教えられるような側だった、キングに慣れ、それこそ菊池の通俗小説を読み続けてそこからは卒業するようなことになれば、続いて文藝春秋は読むに至れるのではないか、そのまま岩波書店も少し時間を掛ければ読めるのではないかな、と思うわけです、ていうか多分一定数そういう人たちはいたように思うんだよね。
ていうか岩波の社長も菊池さんと同じか、かつて自分たちの若い頃の水準から成長していないんだと思っていただけなのかもしれない。
だったらそれを変えたのは講談社だよなぁ多分、貸本屋のおっちゃんだよな。
なんの話をしているのかというと初期教育を与えられていれば、一通りの漢字を読み、難しい漢字も雰囲気でなんとなく飲み込めるようになれば、文芸雑誌がそのあとの教育を娯楽の形で与えてくれる時代になってるってことだよね。
てか、この時代の文芸って今とは全く価値が違うんじゃないかしら。本気で。
8月23日めも。
で、学校制度に話が戻るんですけども、学校制度の改変というのはそもそも「帝大生に対して役人の座が足りなくなってきた」ところから起こってるのではないかなー、と思ってるんですが、私大を含めて地位の再編をしていったのもそういう意味ではないかと、帝大卒の文士が大学令(大正8年)の少し前の時点でどわっと増え。
また戦争前の時期に少なくない時期がある辺り。
しばらくは民間の企業に吸収されて上手いこといっていたんじゃないかしら、となんとなく考えてるのですがどうなんだろう、次の狙い目は銀行家! まあ、私大に全く叶わないけどねやつらのがそれに相応しい教育受けてるから! みたいなことが学校制度の本で語られていたのを思い出すと。
まあまあ怒られるほど突飛でもないかな、となるわけで。
いや、新思潮世代がいるので一定数の文士はそもそも生まれてるだろうけどね、実際そんな感じに文藝春秋にも集まってるし(別に学歴での扱いの差とかはないけど)。
この間に実際に変わった学校制度は確か旧制高校に対して新制高校が作られた程度じゃなかったっけか、にゃ、確か7年制の一貫校です、帝大に入れるけどそのまま卒業することも視野に入れてる…んだっけなんか自信ないけど。
大した比率でも変化でもなかったようです、あ、旧制と対比されるのは戦後ではなかったのね、前は私も勘違いしていたものの、他の学校制度もだいたい戦後に代わってるのに旧制って呼ばれてるのは高等学校だけだったからなぁ…。
岩波書店が反戦気取ってたけど、岩波で書いてる人らはそうだろうけど、読み手がそこまで育ってたかというと大衆作家くらいの水準じゃないかな…そうでもないよな。
8月24日めも。
えーと、話がぐだぐだになりつつあるので別になんでもいいんだけどあと一日分となるとなに書くか迷うんですが。
そういや教養主義ってのはだいたい漱石さんくらいの時期に出てきてるんだよな、高等学校改革で読んだんですが「殴って言うことを聞かせない」みたいな感じの教育として現場では推移していました。
なーにが教養だよこの程度がwww
みたいなこと言われてたんだけども、言葉が通じる野獣を頭のそれほど良くない人間にまで短期間に育て上げたのってそんなに馬鹿にするようなこと?! みたいな感じでわりと腹立たしいですね、というかその直後が新思潮世代かー。
あの世代が全世代通じて一番博識なのって多分間違いではないと思うんですが、なんでそうなっているんだかよくわからん、上が高いんじゃないんだよね、底が高い。
若干バンカラ世代の名残りなのか何人かチンピラ気質が混ざってるけど、彼らにしたって文系チンピラなのであって殴ることに誇り感じてたりしてないからなぁ。
あ、バンカラってのは高等学校発祥のようです、日本で一番レベルの高いはずの学校群、なんでかは知らない、行き過ぎた西洋化への反発って意味みたいなので(ハイカラの対比なんでそう)、まあ、いいっちゃいいのかな。
そういや学校制度の変化もあるけど教師となる人員の変化は学校制度とは別の研究が必要なわけか、ああそうだ、新思潮までは海外渡航の教師の最後、そこから先は純国産ってことになるのか、教師を高レベルで育てるための施策とかやってなさそうなのでだんだん薄まっていったってことに…なっててもおかしくないな…。
(文或と近代もろもろ、163)
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最終更新:2020年07月16日 01:55