雑学:明治の歌舞伎事情、195
新富座(初の近代劇場)。6月30日。
そもそも演劇関係の用語を見てると「それが劇団なのか劇場なのかよくわからない」ことがあるんですが、歌舞伎なんかは基本的にどちらでもあるという認識でいいのかな? というよりは、劇場と興行主がセットで役者は行き来する、興行主が演目などを決め、演出などはまた別に雇うという形式になってるぽいね。
劇団という考え方そのものがちょっとそぐわないってことか。
この新富座そのものは江戸三座その3だった森田座が守田勘彌(これも改名、11代め)の時点で「守田座」と改名し、さらに12代めが改名したのがこれ。
なんかね、縁起悪いとか気にしてたらしいとは聞いたことあるけど…。
そもそも明治4年(5年説もあるぽい)に新富町に移転し、新富座として通称で呼ばれるようになり、明治8年に正式に改名。
翌年明治9年に燃えたので近代劇場らしき仮劇場を作り。
明治11年に日本で初めての近代劇場を作ったとのことです。
挫けないな経理係の血筋、さすがだ経理係の子、不幸に遭っても潰れないな!
ただ、改名のご加護みたいなものは、ちょっと感じにくいかなこれ、ううん、11代めの養子選びが間違ってなかったという感想に尽きます。
がさらに本格的な歌舞伎座を政治近縁の福地桜痴などに作られてしまい、明治21年には残りの座をまとめて「四座同盟」を作り対抗して役者を相手方に回さないようにし、最終的にギブアップさせたそうなんですけども…。
それがプラスになったかはまた微妙だな、正攻法だと負けたのはわかるんだけど。
最終的に松竹に吸収されるまでは残ってますが、ううん。
福地桜痴(フランス外遊、元勲との関係)。7月1日。
この名前はペンネームで本名は福地源一郎、どういうわけかWiki辞書のページには演劇との関係を「隠居後の手慰み」みたいな調子で書いてあるものの、明治6年の時点で演劇における言文一致を唱えてたりするからなぁ。
そもそも演劇の近代化というのも少しあと、明治20年代のものと違ってあくまでも外交目的のための演劇環境の改善みたいな、どっちかというと政府意向ぽいからね。
この人は通訳として外交に同行し、フランスにおいて「日本の政府高官が演劇の途中で寝る」問題を解決するために現地で演劇関係者のレクチャーを受け、高官に前もってストーリーを説明する役目を任され。
もともと若干とはいえ、歌舞伎関係の伝手もあったこともあるのか、帰国後は演劇改良の役に付くことになったようです、詳しいことは研究者がいないからわからんけどね。
が、歌舞伎座を作ったのは金元(歌舞伎の興行のための金貸しらしい)から持ち掛けられたからみたいだし、彼が脚本を書いていたリアリズム史劇である「活歴」にしたところで政府の後押しがあったとは言いにくいらしいけどねー。
とはいえ、劇場改良も史劇に関しても欧州の演劇の流れを考えると至極正統派の選択なので、どっちかというと政府よりも先を見ていたってことなのかしらね。
彼は儒医の家系で蘭学の心得があり、長崎の出身、元幕臣、開国の頃には意見を受け入れられずに遊蕩に走り(戯作本出したり新聞出してたあの時期かww)、まあまあなんか、どこまでも硬軟両立した人格になったぽいなー。
おかげで結構あちこちで見るものの言ってることが全然違うのよね。
自分で書こうとして混乱も仕方ないかってなったけど、わかりにくいよなぁ。
歌舞伎座。7月2日。
上の福地桜痴さんが、金元という「歌舞伎の興行のための金融業」を行う人物と立ち上げまして、わりとすぐに借金問題から経営から離れてしまい、彼は彼で歌舞伎の新作などを書いて過ごしていたよ、と語られているんですが。
なんかこう、よく読んでみるとなんかちょっとおかしい。
明治22年に竣工、うんうん、明治29年に株式会社となった時点では政治家兼財界人の社長が金元とも福地さんとも別に立てられておりまして、どこで社長が変わったのかがよくわからない。
そしてこの7年の間「5年ほど」四座同盟からの経営の妨害があったっていう…。
え、あ、そうなんだ、と思っていたら、福地さんが5年めの締めくくりで出てきて「2万円の賠償金」を支払いました、借金背負った脚本家なのに?!
みたいな感じで、多分なにかの記述が欠けてるんだと思います。
次の社長が財界人であり政治家って時点で正直大概福地さんぽい人員だし(新聞社やってた元勲グループと懇意な人)、まあ、賠償金を支払うことで経営権が再度譲渡されたってことなのかなぁ、と思わないでもなかったんですが。
だったらそう書くだけでいいような気がしてならない…。
「四座」が金元さんに対して抵抗していて、福地さんが賠償金支払ったって案件じゃないのかなぁ…。
あ、四座ってのは江戸三座と明治座(左団次2代め)の前身だそうです、有力なところは限られてるよなぁ。
大正3年には松竹の傘下に、昭和6年には残存全てが松竹のものに、せちがら。
活歴(歴史ネタの歌舞伎新展開)。7月3日。
9代目の市川團十郎が演じ、歌舞伎座を作った(その他いろいろ)福地桜痴によって書かれていたリアリズム史劇で「活歴」って単語自体はもともと揶揄ですね。
団十郎のほうが天保9年生まれなので福地氏より3歳年上かな。
多分この二人のやっていたことって当時の歌舞伎を知らないとよくわからないんじゃないかと思うんですが、歌舞伎には「型」というものがあり、まあこれ自体は今も穏当な形で一部残っているようなんですが。
もともとは悪女型、お姫様型、英雄型、悪役型みたいにパターンが決まっていたらしく、全ての作品をこのパターンに当て嵌めて演じる、そのために練習がほぼいらないのに演目が比較的短期間で変わるという…まああの。
最下層が見るものが歌舞伎とされたのがよくわかるシステムだったぽいです。
で、団十郎は感情表現なども弟子から習うことがあり、活歴というのもちゃんとそれぞれの歴史上の人物として描くという意味で、まあ、さすがにある程度のレベルアップを考えるのなら必要だったと思うよこれ。
一朝一夕で上手くはいかず、評価が得られなかったとされているものの、この団十郎が「劇聖」と呼ばれた事実もあるし、経営破綻も特にしてないからなぁ。
そこまで上手いわけでもない感動もしない、だが確かに誰にとっても名優と感じさせると言われているので、まあ当時の評価を鵜呑みにはしないほうがいいかも。
だって紋切りワンパターンに慣れた人らにいきなり欧州水準を見せても受けるのって…どっちの責任でもないと思うんだよね…。
今の歌舞伎って明らかそこから取り入れてるしなぁ、元が元だ。
団十郎(9代・市川團十郎)。7月4日。
養父が目の前で殺されたというのは前から話を聞いていたものの、それが河原崎座(江戸三座の森田座の控座)の座長というのは最近偶然知った上、「本来殺される予定だった愛人の子」だったのに養子として引き取られていたのか…。
というか、Wiki辞書の「市川團十郎(9代目)」には8代目の団十郎だった兄の死しか載ってませんけども、山盛り万歳だった他の兄弟も跡を継げなかったってことだよなぁこれ、いや、一回市川家の団らんみたいな絵を見たことがあったので。
ここから何人死んだんだよねー、としみじみ語られていまして、そこではそれ以上語られていなかったものの、その後、養父まで殺されたと聞いた時点でさらに驚愕、だが、見ませんね、なんで読めないんだかのほうが地味に気になる…。
明治末くらいに日本では残酷ブームというのが各種ジャンルで大流行するのですが、団十郎は「ちょっと無理です…」状態だったそうです、でしょうね!?
福地桜痴と組んだ活歴がよく語られていますが、同時代の菊五郎(5代目)、左団次(初代)と並んでほとんどの近代化に関しては担ってたってことでいいんだろうね、他に彼の弟子に当たる人間の百面相芸に注目していたなどという話なんかもされていたりしたのも読めました、一回しか、読めてないけど…。
なんだろ…、歌舞伎の記述ってなに読んでてもぶちぶち切れるんだよな…、んーと、明治9年までは養家との縁が切れず、そこで新富座に招かれ人気が出始め、が、その後明治22年に歌舞伎座に招かれて…どの辺りで、だが活歴だったために人気凋落して川上音二郎に譲り屈辱って…初めて読んだ、これもなんか記述足りてない気が…。
葬式を取り仕切ったのも川上音二郎? え、なんで?!
黙阿弥。7月5日。
文化13年生まれ、てかこの元号初めて見たな、明治から56年前、確かこの人じゃなかったっけかな、あのあれ、滝沢馬琴の最期を看取ったとか言われてたの、正直Wiki辞書のページを見る限りそれっぽいのがなかったんですが、馬琴が活躍した時代の貸本屋の手代だったそうなのでその関係で立ち会ったのかもなぁ。
にゃ、特別な関係があったとかじゃなくて「いたよ」程度だったので正直そんなに疑ってないです、出版関係者ならあり得る範囲だろう。
てか、明治期にも馬琴はわりと普通に残っていたんですが(そして近代志向の方たちに攻撃されていて、鴎外さんに庇われていた)、時期を考えるとまあまあ自然なところだよな、最後の戯作のベストセラーみたいなものだしなぁ。
(明治入ってすぐに戯作者たちが他に取られちゃうからね。)
で、この辺のことを長々と書いているのは、そもそもこの黙阿弥が「近代文学」の最初の一人として挙げられていることもあるからなんですよね、正直そんなにピンと来ておらずむしろ歌舞伎との関係でよく名前を聞いていたんですが明治到来時点で56歳なら私の見てる時代と全然違ったわw
そして要するに馬琴や京伝(馬琴と並ぶ人気作家、だいぶトンチキだよ!)などを江戸として、その次の時代を代表するのが黙阿弥って見るのね多分。
てか、彼のページにおいても「活歴の失敗」がつらつら出てくるんだけども、やっぱりいつのことなのかよくわからないんだよな…、いつどこで団十郎と組んでいていつ団十郎と福地桜痴がつるんだのでそっぽを向いたのか…、時系列が…。
私が読んだのは斬切物との関係でしたが、なんで一作しかないみたいな書き方…?
散切物(近代舞台の人情物新作)。7月6日。
上からの引き続きで「ざんきりもの」と読むようです、まあ表記もちまちまブレてるので読み方も多少ブレてもいいような気もするけど、要するに断髪した人情ものと呼ばれていて、江戸時代の価値観を現代に置き換えたものと言われています。
が、明治26年に亡くなったという黙阿弥さんが主なその担い手だった場合、まだ「天保生まれ」が幅を利かせてる時代だし(明治末の自然主義の台頭の頃に入れ替わりと言われてるくらいので)、それが逆行というより、ある程度自然だろうしなぁ。
そもそも、活歴と真っ向対立しているかのように書いてあるものの、世のブームはむしろ残酷ブームだったので、団十郎と同じく「残酷ブームを避ける流れ」として捉えられていたって言われてるのも読んだことが、見ましたよ、血がぶっしゃーと吹き上げる高さが高ければ高いほど芸術性が高いって文言…。
嫌味なのか芸術と技術を取り違えているのか、それとも素直な気持ちなのかはちょっとわからなかったけどね…(美術もこの前後に生まれてる言葉なので、そもそも意味が今と同じとは全く限らないわけです、特に歌舞伎とか庶民のものだしな)。
ただそもそも「人情もの」というのが幕末の頃には心中ネタのことと認識されており、人情ものの禁止という形で扱われていたのも見たことがあるので、その辺の兼ね合いがどうなっているのかはわかりません。
あと、黙阿弥のページでは一作品しか斬切物を書いてないような書き方がしてあり、斬切物のページではずらっと作品が並んでいたので、もうなにを信じていいかよくわからない、活歴のせいで作品を書かなくなったとまであったのどうなったのかしら…。
てか、わりと社会派ぽいな作品、『高橋お伝』とか『女書生繁』とか。
菊五郎(5代・尾上菊五郎)7月7日。
天保15年生まれなのでまあまあ明治人にはよく見るな(特に江戸後期は結構元号が細切れなのでちょっと長いと珍しい)、正直記事がぐっちゃぐちゃになっていた同時代の団十郎と比べると市村座の座主の家系であってそちらも名跡ではあったが、「尾上菊之助」に相応しいとして襲名したみたいな。
幕末の頃には市川小團次という他でもちょくちょく見掛けた名優に気に入られ、菊五郎も彼の写実的な演技に傾倒していたみたいなの。
時代物、世話物、所作事などってあるけど、要するに新作じゃなくて伝統的な作品ってことかしら、時代物がいわゆる「偉い人物」の作品、世話物が「庶民の日常もの」のようなので人情ものはやっぱり別にあるって見ていいのかな。
所作事ってのは菊五郎のWiki辞書のページで初めて見たんですが、筋書きのない舞踊の一種だそうです、能でも似たようなこと聞いたことがあるな。
明治を代表する名優としての「団菊左」の一角でこの面子で明治20年の天皇の前での天覧舞台も担当。
まあまあなんというか、名優ってわりに語られていることが少なく、つらつらと眺めてみてもその時代時代の風潮にあったものを選択していったんだろうなと思わせるところもあるんですが、これだけ瑕疵のない天才としてせいぜいちょっと「くすぐり」に拘り過ぎる程度の順風満帆な人生なんですが(弟は市川座の座主、当たり役は数えきれないほど)、普通に重要度では活歴で何度も何度も失敗したってされている団十郎よりちょい重要度低めみたいに扱われてるからなぁ…。
とはいえ、写実を旨とする小団次を取り込んだ作風が明治に受けたのかもなぁ。
左団次(初代・市川左団次、2代込み)7月8日。
天保13年生まれ、てかこの人、市川小団次(4代め)の養子か! で、彼のWiki辞書のページで初めて判明しましたが小団次の親友が黙阿弥だったのか(改名自体はずいぶんあとなので関係者ってことだと「新七」って名前で出てくるけどね)。
なんとなく違う扱いだと思ったらそういうルートだったのか。
大阪生まれで父親は結髪師(歌舞伎役者の専属の人ぽい)、市川団十郎の7代目門下として7歳の頃から俳優として活躍、東京に出て小団次の兄の代わりに養子となり、だが関西訛りを罵られて一旦スランプに陥ったこともあり、養父の小団次の死後には舞台から敬遠されてしまい、黙阿弥が一時的に引き取って一から芝居を仕込んで立て直させたとかそんな感じの展開でした。
どっちかというと私が馴染みがあるのは小山内薫とタッグを組んで「自由劇場」を運営していた2代めなんですけどね、そもそも明治座を引き受けたのは初代で、そこで歌舞伎の新聞記事を書いていた(若菜会の人かしら?)人物の新作を舞台化、初めて外部からの脚本の受け入れをしたことが2代めの新劇との関わりのきっかけになったとか。
…うんまあでも、福地桜痴とか元役人で元新聞社社長だし、他にも森鴎外と坪内逍遥の舞台を聞いていたので特例以外で初! みたいな意味かなと受け取るしかないな。
あ、新劇との関わりって意味ではわりとスムーズに受け取れましたが。
そもそも歌舞伎ってそんなに他の演劇との垣根が高くないんだよね、女性も舞台に立っていたらしいし、海外劇団の来日とかの話もあったし、ふと気づいたら伝統芸能でござい! みたいに純粋さを求める記述になっていて落ち着かないですね、江戸から見てくとこの有象無象芸能を刈り込むからぶちぶち歴史が途切れてるのではってなるな…。
森鴎外、坪内逍遥。7月9日。
と、項目を立ててはみたものの、はて、なにを調べればいいかなと思って「演劇改良運動」のWiki辞書のページを開いてみましたら、載ってますね、そもそもこの改良運動というのは福地桜痴の明治初期からの試みとは若干筋が違い、大雑把に言うと国全体の西洋化志向の表れなので、歌舞伎においてだけ活歴の失敗活歴の失敗、しまいにゃ役者のキャリア断絶とかあれこれ並べられてもなぁ…。
西洋化はほどほどのところで止まったので明治末の改良運動は全て頓挫し(というか、外側から見てるとただのブームだと思う)。
近代化という意味ではいくらかの試行錯誤はあったものの、ほぼ後世に残ることになった、というとわかりやすいかなぁ。
で、ざっくり芸能全般における「西洋化/近代化」の代表格だったのが歌舞伎・演劇ジャンルに限らんと坪内逍遥氏と森鴎外氏で、さて、俳優たちの演技を同時代風にするにはどうしたらいいのかなんていう文章も残っていたりしますね。
(そのうちの一つに文士劇という、作家に演じさせることを鴎外氏が唱えていて、それを受けて逍遥氏が作った演劇研究の会がのちの文芸協会につながってるので、本当に歌舞伎に限った話ではないんだよね。)
てか、さっき見た明治座の部外者による脚本(明治39年)も逍遥さん(明治37年)らと同列に触れられてたわ、最初ではないけど確かに最初期っぽいね。
演劇改良運動においては活歴の扱いは妥当なんだけど、他のページにおいて異様に活歴の周りでぐるぐるしてるのなんなんだろう、ちゃんとした見解あるんならどうしてあんなことになるのかしら…。
(明治の歌舞伎事情、195)
最終更新:2021年04月04日 17:22