雑学:近代小説掲載雑誌覚え書、186


国民之友。4月1日。


明治20年創刊、て、『国民新聞』よりも3年も早いのか(明治23年なので)、国民新聞に関して書いてる時に気付くべきだったかと思うんですが、これ、言論団体である民友社の雑誌なのね。
日本で初めての総合雑誌、まあともかく、小説と政治論文とが一緒に載っている雑誌、だそうです、なんか文学史の本とかで存在ごと触れられてないけど…。
ただ、この雑誌において森鴎外の『舞姫』以下ドイツ3部作に対しての批判が行われたということなので、中身に関してだけは聞いてるな…。
あ、あれです、主人公どうなんだよみたいなの、石橋忍月さん、のちに弁護士になったんじゃなかったっけ、そして日本で初めての評論だとかで、触れられてるのに雑誌に関してはスルーなのか、なんか偏ってるなぁ文学関係の本…。
とはいえ、同時代の作家総覧という調子で載っているようなので、柳田泉氏の研究を読めばちゃんと載ってるだろうからまあそれ読めばいいか(明治専門の文学学者さん)。

時々聞いていた徳富蘇峰の「変節」ってあれ、日清戦争の時に主戦論に鞍替えし、そのまま体制寄りになったってことなのか、で、『国民之友』に不買運動が仕掛けられまして売り上げが急落、国民新聞に吸収させることで凌いだとか、それが明治31年。
蘆花さんに新聞小説書かせてたのも多分この時期だろうね。
とはいえ、日露戦争の時点で自分たちが一流国になったのだ、という意識が一般に広まったはずなので、その頃にはあんまり関係なかったかも。
今度民友社に関してのほうを調べたほうがいいかもなぁ、そういやちくまの明治文学全集には確か民友社の巻が存在してたよな、雑誌に多かったという翻訳作品かな?


太陽。4月2日。


なんでも明治27年の12月に「太陽発刊の主意」という欧米社会に負けない総合雑誌を作るよー、という趣旨の発言がされており(概念としてはあったんじゃなかろうか、あんまり捻った呼び方でもないしこれ、自然発生しそう)、翌月明治28年1月かな、『太陽』が発刊されたんだとか。
1月狙いの雑誌って多いってそういやどこかで聞いたことあるな。
で、この時に『日本商業雑誌』『日本大家論集』『日本農業雑誌』『日本之法律』『婦女雑誌』を太陽に集約したそうです、なんとなく内容の想像が付くなぁ…。
あとなんか『文芸倶楽部』と『少年世界』も同系統の雑誌を集めているんだけど、あれですね、これ、日清戦争の頃なのか…。
日露戦争の時点で10万部越えとか20万部とか言ってたのもここだよね。
(両戦争の時期には雑誌の需要がいろんな要因で伸びてるんだよね、大雑把に言うと徴兵令が始まり、一般人の家庭に戦争が関係するようになり、戦争に関しての事情を知りたいという人たちの層が自然に飛躍的に増えたってのが大きかったのかな。)
(日清の頃は確か一流国としての自負によって知識欲が増大って時期かな。)

主幹としてある程度名前知ってるのは高山樗牛、長谷川天渓、平林初之輔かな、最後の人がなんか謎だったんですが、プロ文に走ったせいだとかで、昭和2年から昭和3年の時期までで、まあ、そこで廃刊しています。
最後の博打かな…、オウンゴールは言い過ぎかしら。
いわゆる教養主義の時代の後の人たちがほとんどいないものの、それ以前の作家や文士はほとんど参加してる感じだな、大正に乗り遅れた雑誌かぁ。


中央公論。4月3日。


えーと、西本願寺(地味に東西があるよここ、争ってはない、なんというか競ってる)系の機関誌として出発、もとが『反省会雑誌』にて東京進出で『反省雑誌』か、さすがに機関誌ど真ん中の名前過ぎたのかもねー。
創刊が明治19年、東京進出が明治25年、で、明治32年に『中央公論』と改名してそのあとに小説を載せるようになったんですが。
大雑把にまず西本願寺との資本関係が切れ、その時点で西本願寺系の論客に逃げられ部数が激減し、その時点で学生だった滝田樗陰の勧めもあって小説を載せるようになったようです、なんで学生と言い切るかというと漱石山房のほうに帝大生の帽子被った樗陰さんが通ってるところが描写されてるからです。
夏目漱石の扱いが違うわけだよ、扱いが違うわけだよ、苦学生じゃん!!
なので主導してたのは別の人だったりもするんだけど彼も彼でなんか曖昧に済んだので樗陰さんが主導したみたいな話になっているようですね…、微妙だなぁ。

ただ、Wiki辞書に載っている『改造』の登場以来、急進的な立場との棲み分けのためにか中道的になったってのは聞いたことなかったな、載ってる本読みたいかも、これは小説特集号などが作られてる時期が確か近かったんじゃないかと思うので気になる。
それとあと、大正デモクラシーと結び付けて語られていることが多いですね、代表的なのが吉野作造さん辺り、というより大正デモクラシーと結び付けて語られてる雑誌ってほとんど数年で消えちゃってるからなぁプラトン社とか。
悪い意味でもなく、ほどほどに流行を汲んでるんじゃないかなぁ、教養主義との結びつきに関してもなんか本があったら読みたいですね、菊池とか芥川とか。


講談倶楽部。4月4日。


明治44年に創刊、昭和36年に廃刊、司馬遼太郎さんここの懸賞小説出身なのかな、にゃ、懸賞小説からの作家業とは限らないですけどね、受賞者の中にはいますね。
講談ってのは大雑把に『太平記』などの軍記ものに始まりまして、寄席で語られることが多い歴史ネタのものを指すようです、寄席の演目ってなんか曖昧なんだよね、落語の一系統だって解説してる人もいますし、三遊亭円朝さんの「牡丹灯籠」などを講談として認識していることもあるようですね、ご当人が有名な落語家なので落語って呼ばれてることもあるし、まあ、そこも曖昧なのかしらね。
円朝さんの本は二葉亭四迷などの現代文においても参考にされたとかで、当時はなかなかの人気ではありました(円朝さんのタネ元がどうもフランス由来らしいとか)。
それと当時『文芸倶楽部』っていう博文館の雑誌がありまして、ここが時々講談や浪曲の特集号を出していて、なかなかの売れ行きだったとか。
単独の雑誌がないよん、てことで野間清治さんのところに話が持ち込まれたのだとか、て、把握してなかったけど国民新聞の人らだったのか(蘇峰さんの新聞ね)。

野間さんは当時『雄弁』という帝大関係者メインを執筆者にしたお堅い雑誌をやってまして、これが大日本雄弁会、んで続いて『講談倶楽部』という、いまいちよくわからない展開ですが、気にしなくてもいいのかな。
当時は講談を扱うと低く見られるので別の講談社という会社を立ち上げ、編集者さんたち(雑誌関係なく行き来するスタイル)はあまり講談社の名刺を出したがらなかったとか…、なかなかの階級社会だよなぁ。
しまいにゃ講談師とも縁を切っての新講談立ち上げ、おう頑張れ…。


主婦之友。4月5日。


えーと、180万部が確か戦前最高部数なんだけど、163万部、しかも「付録十年戦争」の間か、なるほど確かに文学の歴史にはあんまり関係ないな、講談社との間に繰り広げられたそうなので多分あれ『婦人倶楽部』とどんぱちやってたんでしょうね。
(講談社の『キング』が150万部なので越えとる。)
あれ、主婦之友とキング以外に部数そんな大きいところあったのかなぁ? 私の記憶違いだったのかしら、まあいいや。

えーと、大正4年に「東京家政研究会」というものが立ち上げられてその2年後の大正6年に創刊、婦人雑誌のだいたい代表格ですね、ざっくりランキング1位とも言うけど(婦人倶楽部は頑張ってる)。
掲載小説は、お、昭和7年から1年ほどの牧逸馬とその2年後の小島政二郎とかいるなー、あとは戦後なのでちょっと置いておいて、この前後では発行部数10万部ってところなのか、どちらもそこそこ人気はあるけど部数はそのくらいか。
あと、戦時中に戦争特集を多く組んでいたとのことなんですが、それはごく普通のことなので戦犯として追及されたりはしないものなんですが…(政治を動かすようなメディアの動きはアウト)、戦争中に敵を罵っても別にさぁ…戦地にいる兵士特集からの自然な移行だろとしか。
が、国内ではだいぶそっち寄りの厳罰意見があったとは聞いていて、主婦之友も戦時中の雑誌を証拠隠滅したのではないかと研究者に推測されているとか。
まあ当時はともかく、現代の研究者はもうちょっと、もうちょっとな、公職追放は「重役全員」が受けました、文藝春秋とか金庫番まで食らってたよ経理だよな!!


改造。4月6日。


大正8年刊行で、同じ年に創立した「総合雑誌」が3種ということは早い段階で聞いていたものの、米騒動がその前年の大正7年、そのさらに前年にロシア革命が存在していて、第一次世界大戦が終わったのも大正7年な辺りに理由があるのかしらね、やっぱり。
まあ刊行時に作家たちを集めてパーティーをしようとして「生意気」って菊池寛に言われて友人の芥川龍之介に「なら行かない」みたいに返されたというエピソードをたまに出版社関係で見掛けるんですが(恐ろしいことに前後に解説がない)、おかげで若手世代が広津和郎くらいしか行かなかったんだよね、と滑らかに続けられてもさっぱり意味がわからないんですが…。
最初の何年間か非常に辛い思いをして作家を集めていたってのも、たまに見ます、上の事情とセットなのかどうかはばらばらに見るのでなんとも…。
それと同じくらいか、もっとよく見るのが賀川豊彦という宗教家の方の「死線を越えて」の特大ヒットで、おかげですっかり会社を立て直しました、やばかったー、みたいなことは戦後の文学の「正史」とも呼ばれた水島治男さんの本にもありました。
が、どうもこれはよく純文学作家の手柄だと主張されがちな案件のようで、残念ながらWiki辞書の内容は最初から最後までそのトーンだったようなので、開いてしばらく途方に暮れました、正直、出版関係の本でしばしば第三者が『改造』に関して触れてるのか謎ではあったんですが、関係者自称の歴史が傍目から見たものと全く違ってたら、それは言及しておきたくもなるか、よく見るからなぁ…。

てか、アインシュタイン呼んだことは書いてあるのにホイットマン呼んだこともない(癖強い詩人さん)、占有率高いプロ文もないな…、社長の再評価遠そうね…。


新青年。4月7日。


んー、大正9年の創刊で、廃刊ではなく出版社(博文館)がなくなってしまったため? 出版業を止めてしまったのかな、まあそれと共に閉じたようで、後継雑誌みたいなものが存在するようですね(『宝石』だっけ)。
そもそも日本の探偵小説ってのはもともと翻案がメイン、日本人の当時の好みに合わせてほとんどが冒険ものだったようなんですが、だんだん飽きられまして、翻訳をメインにやっていたのがこの『新青年』だよね。
で、そこに持ち込まれたのが江戸川乱歩、そしてそこから延々と乱歩氏のみが雑誌名よりも大きく広告に載るみたいななんとなく捩れた状態が始まったわけだよな。
正直よく見るんでそれ。
あ、新青年の広告だったのかもちょっと記憶が、名前ばーん、タイトルどーん、で他の文字があんまり目に入らないんですよね、まあちょっと…。
そもそも『冒険世界』を改編したのが始まりであり、その後も小説雑誌ですらなかった、と言われるのもちゃんと書いてあっていいですね、Wiki辞書のページ。
あくまで雑誌内の事情を越えていないものの、他の事情を知っていると、あー、なるほど冒険小説メインだったしなぁ、とか、小説掲載数がそんなに多くはなかったのかもしれないな、と納得するからね。
他で乱歩さんの参加した「大衆文学系」の同人誌が爆死したのも見ているので、やっぱり一人の力では限界もあるよね…。

戦時中は科学小説や歴史小説のほうに行っちゃってるのか、チャンバラも不可のはずなので歴史ものってことかな、新青年は特に検閲対象でもないしまあいけるかな…。


文藝春秋。4月8日。


『中央公論』を越えてシンプルな記事でした、いや私は困らないけど「人権侵害について」と労働団体に関してのみが文章ある感じであとはほとんどぺらっとデータが並んでる感じですね!
とりあえず作った時点で同人誌、作ったのは大正12年、関東大震災で印刷所その他が被災し、「5万円でどうか」みたいな買収計画もあったようですが(まだ一桁しか出してないので、さすがに菊池寛目当てだったんじゃないかと思うけど、あ、プラトン社です、あの化粧品会社がパトロンでほとんど直営みたいなとこ)。
まあまあ跳ね除けて自力でやってくって時に確か芥川龍之介も説得に参加してたとか、大阪行きを検討していたので直木三十五(当時は名前違うけど)を大阪に先に送ったらなんか戻って来なかったとかのエピソードもありますね。
大正13年から14年くらいにはどうも広告を打つこととその結果にめちゃくちゃに嵌まってしまい、「作品書いてないよね?!」と芥川を泣かせたとかいう逸話もあります、時期がこれなんだよ、横光利一氏の専門研究者さんがなんでか時期を特定してたので他の情報を突き合せたらわかりました、なんで彼が時期を特定してたのかは知らん。

昭和に入りなにを考えているのか総合雑誌化(政治を扱う権利取得)、ビルが建ってますが会社のビルじゃないのかなあれ、社長の資産大したことない発言が。
芥川賞は日本の権威に(そして直木賞はそのおまけのように)なってますが、ポケットマネーで作った賞なので「旧友ぽい作品を選ぶ」って言ってるご当人の意思を尊重してあげて欲しいんですが、なぜか菊池寛無関係説とか読まされたこともあります。
だいぶ神経が太い雑誌だなと、たまに思う…、権威スルーだけは統一なんだよな…。


キング。4月9日。


大正14年発刊、えーと、「円本」は大正15年からですが(改造社ね)、まあ要するに大量印刷薄利多売時代みたいな象徴だよね、なんでも小学校卒の息子が文字の読めない母親に読んで聞かせるような雑誌だったようで。
いいんだよ、「大学生がキングだけを読んでいる」ことを馬鹿にするのは。
なんで『キング』を馬鹿にするんだよなんか了見が違うんじゃないか?! としか言い様がないんだよな、当時の人ならまだ仕方ないんですが、現代人にまでいるとさすがになんか…どうなのとしか、鵜呑み大王かよ…。
ただ、大変に頼もしいながらこの辺の指摘をしてくれていたのは「岩波書店百年」の中で行われていたのでさすがエリート、戦前は残念なことになったけども(岩波社長が普通に見下し発言残してた)、戦後は信頼に値するー!! いやなによりなにより。
そして、キングはなにも思考停止のための雑誌ではない、どれだけレベルが低かろうが成長するための雑誌であり、中学校の教師を読者層の主体としていた岩波書店とは実は遠くない隣の世界なのではないか、ということが語られており。
うん、プロ文の哲学者が正しくわかりやすい科学の教え方とか悩んでいたのも多分この雑誌がきっかけだろうね、教え導かれるだけの大人しい農民って存在ではなくなったんだよね、キング以降。
まあ載ったところで自慢出来ない、まではわかるんだけどね…。
載ってた人が筆を折ったんだとか盛大に嘆くとかの展開があるので、こう、文学史って振るってるよなぁ、触れないだけとか幻覚なしでなんとかならんのか。

50万部スタート、150万部マックス、当時最高にして文学史は無視、豪快…。


新潮。4月10日。


今まで基本的に刊行順に並べてましたが、『新潮』は明治36年でぶっちゃけて昭和の頃には老舗って名乗っても許されるかと思うんですが、まあなんと申し上げるべきか新人作家が載ってても「別に」みたいな感じの人がいらっしゃる(私がメインなのが大正中期くらいなので、なんかこう、よくいる)というか、大正末くらいからかな、純文学の牙城みたいな扱いになって以降というイメージでこの位置にしました。
他のが死に絶えたっていうか。
ところで新潮社って重役に家庭小説家とかいるせいなのか(二人くらいお見掛けした)、なんか謎の出版社的な、やたらとその辺をぼかす書き方になっており、社長の本を読んだところ社会的に認められていた立派な業績を無視し、聞いたことがないような業績を盛んに誇示し、有島武郎との出版権利との揉め事に関しても「相手は友人に押し切られただけで全く本気ではなかった」的なことが語られており。
他の本で扱いの酷い代表格(島田清次郎が同時代、で新潮酷い扱いその1)として語られていたのを先に読んでいたので正直悲鳴を上げました。
これを聞いたあとだと大学生に対して当たりが強かった程度の話は小粒かな!

とはいえ、編集者がわりと強い権限を持つところで、ちょくちょく雑誌の穴埋めをする必要がある関係上たくさんの「通俗作家」たちを生むみたいな雑誌で、そんなにトータルで悪い印象でもないんですが、ここに純文学の牙城とか名乗られるとさすがに違和感が、初期から重役(家庭小説作家)が会社支えてたけどさぁ! としか。
有り体に支えて貰ったおかげで老舗的な雰囲気になれましたありがとう的なまとめがいつか出るでしょうか、どいつもこいつも現実直視しよ?

(雑学:近代小説掲載雑誌覚え書、186)
最終更新:2020年12月09日 11:14