雑記:文或と近代もろもろ、179


1月22日めも。


リアルタイムは11月13日日付け越えくらい、もう眠いので一日分だけ書いてから寝ます…、いや、書かなくてもいいんだけど強引にやっておかないとまたずるずるとパソコンごと開かなくなるので…。
あと手元にメモ帳がないので名目上の日付けがわからんけど、別にいらないのでそのまま断行しているというか、本当に心の底からどうでもいいんだなということを噛み締めています、一日ごとに増えてく1KB程度の文章ノルマ。
ところで極めてどうでもいいんですけども、メモ帳を取りに行ったので日付けが上に付いていて思ったよりも安心するなこれとも思ってます。
約10か月程度の差異があるのでそんなに無闇に楽しくもないけど。
1か月で30日分なので3枚で、えーと、30枚? そこまで膨大な量ってほどでもないかなコンスタントに続けられていたらだけど…。

ところで本日は何か月も読まずに積んでいた図書館からの借り入れ本をまとめて読んでいて(ちゃんと延長手続きはしてますよ、正確には借り直し)、近代美術に関しての本を読んでいたんですが、んー、なんとなくはわかって来たかな。
そもそも日本の西洋絵画への期待がまず「記録性」から始まっていて(鮭描いてたあの人辺り)、次の世代から模倣が始まり、黒田清輝率いる新派へと転換していくみたいな流れみたい、基本的に改良運動というのは絵画の世界には存在しないっぽいんだけど、要するにあれは西洋化を基調とした合理化のようなので、そもそも絵画の場合は最初から存在そのものが西洋の流れと言っても乱暴ではないのかしら。
ただ排斥運動はあり、だが最強黒田清輝が帰国すると排斥側が負けた、と…そっか。


1月23日めも。


リアルタイムは11月14日の…早朝かなもう、どうもこう、タルトを食べ過ぎたせいか眠れないような気がするので頭を使う所存です。
これ打ち込むことで頭使ってる気はあんまりしないけど。
考えることも調べることも得意なんですよねー、文章をだらだら綴ることも別に苦手ではないんですけども、調べて考えるところまで連動してるそれが、断絶してるってわけでもないな、そのまんまでまとまらないというか。
要するに情報量が多すぎて削れてないみたいな。
理解するために必要な証拠それじゃないよね多分みたいな。
努力がアウトプットに結びついておらず、だがしかし、これはわりと一部の熟練学者でもない限りわりと多かれ少なかれ普遍的なことであって、時々「それ、ソースなくて全部頭の中で作ったよね??」みたいな人こそがもっとも元気よくはきはきと人が望むストーリーを語るってのも、そういう順序で考えるとあんまり不思議でもないのかな。
フィクションとして捉えるとわりとポンコツなんですけどね。
ただ、現実並べてくほうがもっと重度の物理法則以外が特に守れてないポンコツっぷりということはわりとよくあるので、許せないかっていうとそうでもない。
というか、私が怒ってるわけではないんですよね、比較的最近寄りの研究者の本を読んでると知識人気取りの勘違いぶちかましの話をまずずたずたにするところから始まってることがあまりにも多いので…。

そしてマニアには優しいんだよねそれ系の研究者…。
史料文献読んでる系の人らはマニアに厳しいけど、うん、専門分野には寄らない。


1月24日めも。


このページの最初に雑記のところで日本の近代の美術の話をしておいて、次のところでわりと定番の愚痴みたいな感じの脈絡のない感じになってますが。
そうかあれか、読んでいた本の話でもすればいいのかな。
瀬沼茂樹さんて人の本を読んでいたんですけどね、基本的にとても読みやすいというか私の感覚にとても馴染みやすい人なんですが、残念ながら詩歌に関しての説の完成度がいまいちというか、そこまでの作家に関してが主に同時代背景をメインにして語っているような風情だったので作品論になるといまいちというか。
そういう意味では、あんまり気に食わないみたいだけど、土屋文明さんのほうが面白かったな、まあ、若干冷たすぎるところはあるので瀬沼さんが怒るのもわからんでもないんだけども、土屋さんの本を読んだ限りでは短歌と俳句(伊藤佐千夫さんの本書いてた)を扱うのに物理証拠オンリーって。
しかも親類で師匠筋でさらに学費を先頭切って用意してくれたサッチーに対しての態度としてはさすがに冷えすぎているんじゃないのかな、とあまり義理に拘らない性格の私ですら感じたので、あれを他所の人に向けたらいらっと来るのもわからんでもないみたいな、ただ、ただ突き落とすというよりはその中からきちんと彼をして世に与えた影響として語っていたので、一部の表現だけでどうこうジャッジするのもまたなにかしら。
多分、ある程度は彼の文章を読まないとわかんないのねその辺。
(与謝野晶子さんへの評価に対して怒ってたけど、彼女が甘ったるいってことはよく言われてるしねぇ。)

てかあれだ、作品論に向いてる人じゃないんだよな多分、瀬沼さん。


1月25日めも。


えーと、本のタイトルは「近代日本文学の構造 Ⅰ明治の文学」、なんというのか日本には文学に階級があるかのように思われているけども、みたいなことを語っている感じの方で「日本文壇史」の伊藤整さんの盟友で彼の死後そのシリーズを引き継いだ、ぶっちゃけかなり性質の違う方で。
なんというか、伊藤さんの頃にあったノンストップ妄想語りみたいなものがほとんどないみたいな違いがありました。
一番胸に来たのが花袋の作中語りで、俺が書いた小説はあれは事実であることはけしてバレないのだ証拠は一切ない、女たちの態度は全く違っており、全員から極めて辛辣に当たられていたのだ!! と独白ののち、小説を写しながらその部分だけ書き換えていた感じの展開をしており、その巻の文庫版の瀬沼さんの解説はその辺りのことに触れるでもなく、ただただ、伊藤さんがどんな感じに女に振られたのか的なことが書いてあり。
大暴走だと思っていいのね? ととりあえず判断しましたが別の見解を持つ人もあるでしょうが、なんにも引っ掛からない人とはなるべくご縁がないことを祈ります。
あ、悪意でもないんじゃないかな…、とか、同情の余地が、くらいならまあ別にいいんだけども。

ものすごく残念なことにあんな作品を書いておきながら花袋はモデル問題が全くないことで知られており、男たちが怒り狂ってることが成功の証だよねー、みたいなこと言ってたどこぞの解説さんはサドかしらとも思わないでもなく。
怒り狂ってるのにそれを一切認められないのが特徴なのでしょう、伊藤さんほど露骨だとさすがにまあうんなんだ…わかるよね。


1月26日めも。


なんで伊藤整さんの話になったんだかもう忘れかけてるけど、でも彼の妄想作家語りは悪いことばかりでもなく、貧乏のどん底で喘ぎながら死んでいく方たちに関しては概ね素晴らしく良かったし、他のジャンルで大活躍していたり、あまつさえ売れまくって「言及されなくなった」ために惨めに暮らしていたと勝手に話を作られていた人たちは一切いませんでした。
皆さん本当に貧困の底で、文壇的に評価されていようがなんだろうが金にはならんのだっていって惨めに儚くなっていきました。
私は物理証拠に沿っていればだいたいなんでも褒め称えるのですが、この場合は人間の尊厳を守る形での独白が良かったんだよね。
なんというか敗残者への同情には信念がちゃんとあったんだろうな伊藤さん。
そもそも文壇の中でもそこそこの有力紙の編集長やって、持ち家で、あんな作品書いてるくせに女弟子に怒られることもなく(先生なんてもの書くのー、とかぼやいてたけどまた家に来てた、花袋の小説の続編だけど多分あれは本当なんだろうなぁ…)、あんな作品書いてるのに普通に愛人がおり、慎ましく暮らしていて女弟子とも暮らしてくれるみたいな感じの展開に。
怒り心頭になるのもまあわからんでもない、人間らしいよねどっちも。

まあ花袋で惨めに書くなら中央公論に書きたいのに全然依頼がない、みたいなあれを引き合いに出せばよかったんじゃないかと思うんだけど、文壇史とその木佐木さんの日記の前後関係がいまいちわかんないや。
お仕事は地方新聞だったみたいね、いや待てなんでこんな話に。


1月27日めも。


一応伊藤さんの話をしていたので瀬沼さんですが、親友らしいですが、ものすごく気質が逆というか、そこそこ日本文壇史を引き継いだあとに妄想を書き込もうと頑張っていたようですが間接的に噂を語るみたいな、評論を語り口調にするとか、まあなんかこう、少しだけわからんでもないんだけど多分それは違うと思うんだよね?
みたいなことを何巻かやった上で開き直り、多分これは実際にあった同時代評価なんだろうなと思わせることを書いてました。
白樺が単行本を出すと天下を取るんだけど、新思潮が単行本を出すとそのあまりの惨めさにどん底を彷徨うみたいな感じの繰り返しを読まされて、正直胃がぐるぐるするような巻もありましたが、人はあれを読んでなにも感じないんだろうか。
これ多分、武者さんが時事新報に評論を書くことが出来たとかで「絶賛されていたねー」と白樺有志でやっていた美術展かなにかのことを言及したところ、「自分で書いた」って言ってらしたんで、なんだろう、小説とか単行本でも同じようなことやっていたのかもしれないと思ってるんですが。
それが悪いかというと別に、なんですよね。
新思潮の側がなんかどん底きぶーん、てのもあれはどうもそういう姿勢を世の中に見せていたことがあったらしいので、要するにビジネスどん底。
その裏返しであるビジネス天下取りだけが悪いかっていうといや別に。

証拠のあることだけをひたすら書く瀬沼さんならではのカオスでした、いいから、話作ってくれていいから、武者さんに関しては演劇評論とかわりと売れてるけど虚しいとか、すでにある程度売れてたから書いてあったけどど新人の記録は限られるよなそりゃ!


1月28日めも。


ことほど左様に瀬沼さんて人は証拠には拘ってくれるんですが(あと他ジャンルの研究にも目を通してくれてる)、正直伊藤整さんと瀬沼さんのどちらが「日本文壇史」に向いていたかというと伊藤さんですね!
あれはあれで立場の違う見解がごっちゃに入っててややこしかったけどな。
一番頭抱えたのは『新小説』って雑誌が中央公論なんてウチとどっこいの部数だろww と嘲った直後の数ページあとで、9千部のホトトギスが中央公論と大差ないところまで来ていた、さらに中央公論は1万2千部ね、とまた別のところに書いてあり、時期が違うと思うじゃんこれ。
ところが日露戦争あとなので時期が同じでね。
なにかと思ったら中央公論は日露戦争前に3千部くらいで、新小説が千5百部、倍になったので有頂天になり、あちこちで吹聴してたぽいですね、他でも見たことあるし他にも見たことあるって言ってた人がいたし。
中央公論は特にこの時期、威張るようなことがありませんでした、なんというか10万部越えがいくつかの雑誌で記録されてたので…(なんか合算してたとこもあったけど、『太陽』が越えたのは確かだろうし)。
だがよく考えてみれば証拠がない。
その結果、無造作に並べることにした、いや、近くに置いとこ! となったのか。

いやいやいや、だから瀬沼さんの話だってば。
ある意味で新小説やらかしてねーかと白樺と新思潮の温度差で風邪を引くんですけどもの印象はよく考えたら似てる、困るんだろうね文学史書く人って。


1月29日めも。


瀬沼さんが言うわけです、まるで日本の近代文学に階級があるかのように認識出来る考え方があることは認めるがって、多分私がずっと探していたのがこれなんですよね、「近代の日本文学に階級を設置する」という、一つの価値観か目安かな?
ぶっちゃけてそれを評価する同意するかどうかはさて置き、なんらかの目的を満たしているかどうかを階級として表現し、仮に設定しておくということそのものは別段おかしくないよね。
その仮設置がしまいにゃ権力持ってた出版社を抹消してでも「世に影響を与えた権力者である」という説に固執することになったっぽいんだけどね、しかもなんらかの目的がどうも売れてないっていう一点に絞られているとなるとグロテスクにも程があるんですが。
グロテスクさを指摘したところであらあらあらあら、全然わかってないわねー、と高笑いされるのがオチなんですよね。
いや何回もされたので、ほぼ一人の人だけど、他にも幾分。

『新小説』のやらかし言い分をどう見ても事実誤認しているにも関わらず指摘もせずにそのまま載せた伊藤さんは先輩筋の人になんか、文学史…釈然としないんですが、とおずおずと語り、うん論外ー、と返されており絶句し。
瀬沼さんは売れないからってだからなんなんだよと頑張って指摘しておられたのですが、論外本がばかすか売れ、その売れ具合によりさらに発展し、ということで連綿と続いて来たんだろうなと思うと。
なんか上のほうでこれと似た内容書いたなぁ、さっき、とふと。
まあ今後、これを念頭に置いて探すか、階級論ってプロ文のかしら…?


1月30日めも。


ところでかつて私、志賀さんのことを頂点だとは思ったことがなくともそれなりの地位の人だと思っており「正しい位置さえわかれば説得が楽だろう」みたいに考えていたことがありましたのよ、なんでかというとめっちゃ尊大な態度ってちょくちょく書かれてたから、若干表現に含みはありますが。
本当に書いてあるんだよ偉そうって、威張り返ってるって。
ある日読んでいた本で川端が出てきました、ぎゃー、来たらどうしよーー、と皆が右往左往しており、海外交流に行かされてたー、とそこらの方とお話されてるのを眺めてるとか頼まれて俺だと断れないんだけど、どうすんの?! とか。
別の本では藤村が出てきました、新作着工伝令ーー!! みたいなの。
さらに違う本に中央公論の若社長だかその時点で重役だか忘れたけど社長の息子が出てきて戦時中に谷崎が美味しいもの食べたいって言って、材料が用意出来ずに卵料理食わせたってことでめっちゃ説教されてました、なにをしていると。

志賀さんは高校生たちが読書会を作り、重治と一緒にいた少女が偉い人? と聞き、吉川さんがあの人面倒臭いんだよなー、と書き。
そういえばよくよく考えてみれば威張ってるけど偉そうなだけ?
あとあれ、終戦間近に編集者になった若手の方は志賀さんの仕事の担当を押し付けられてしまい、嫌だーー!! と大暴れしてこんなにほら横暴なことを!
みたいな感じのことをのたまってましたが、私が見た限りではお前が悪いよまともに会話してなかったじゃん、な感じの展開のこともありました。
確証はないんですよいまだに、だが、偉い人扱いとは、別かな。


1月31日めも。


多分ここで書いてたことの結論は人間いろんな意図で違うことを語ることがあり、時期によっても違い、今読むとよくわからんけど近い時代の人が読めば「あの話題か」とわりとすんなりわかることもあり、そもそも裏付けするべき他の資料が文字になっていなくて近い時代の人に教えて貰ったよ! なんてこともあり。
私別に、本1冊出すたんびに文壇を制覇することが良くないとか言いたいわけじゃないんですよね、尊敬はしないけど、あと多分面倒な人たちだけど。
だがしかし、ぺらっぺらのど新人複数を守る売れてはいるけどいまいち扱いが悪く、真面目な話をしようとすると歯牙にもかけて貰えない人が取る選択手段として良いか悪いかと聞かれると、尊敬まではしないけど、悪いってのも言いすぎだし。
でも、その「証拠」を掲げて権力者に盾突く敗残者め、そんな態度だから世に相手にされなくなったんだ!!
みたいに展開してる上、そこで挙げられてるのが当時から今に至るまで近代の代表的知識人として特別視されてるような人だとさすがにあわあわあわってなるんだよね…。
集団の知性が疑われる桁のことはやらかさないで欲しい…。
世に相手にされなくなったという証拠に関しては、若手がちょっと批判してる感じでした、まあ、当時よくあったっていうあれね、よく聞く。
「証拠」によって権力者の取り巻きカウントになるのでそんな複合爆発が…。

こう、様々なパターンがあるよねという認識をしていても上のケースは防げないんだよなぁ多分…、いや正直、一個ずつ曲解してるなと思いつつ流し見してたんですよ。
いつの間にやらどかーんと、規模小さい曲解だったはずが…。どうすれば。

(文或と近代もろもろ、179)
最終更新:2020年11月14日 14:18