雑学:近代有力め新聞社10社、181
東京日日/大阪毎日。2月11日。
元別新聞社の合併、東西合わせて朝日新聞と並ぶ規模らしく一時は百万部越え争いもしていたとか、大阪由来の大阪毎日が本社ではあるものの、東京日日は日刊新聞の2番目として(1番目の横浜毎日は買収、3番目が英国人のブラックさん)由緒正しく元の新聞社の名前が残っていて、東西で記事が全く違っていたようです、朝日新聞も似たようなものだったぽいけど。
新聞連載なんかで東西共通のものもあるみたいなんだけどねー(詳しくない)。
東京日日が明治5年、大阪毎日がもともと日本立憲政党新聞というど真ん中の名前の政党新聞で明治21年に改名し、明治44年に東京日日と合併。
この立憲改進党というのは自由民権系の大隈さんの政党。
てか、改名したとはいえ、この新聞が東京日日を合併したことに違和感なかったのかしら? 特にそこが語られてる新聞の本がないので…政治の本読まないと駄目かなこれ。
東京日日は政府主導の時期の新聞であり、福地源一郎という主幹(立場変わっても中心人物ってニュアンス、新聞はこの辺わかりにくい)は明治の元勲とも関係があり、御用新聞とも呼ばれてるんですよね。
まあ福地自身が筆禍(政府弾圧、なぜだ貴様)に遭ってたり、新聞社の出資者たちが江戸の庶民の風流人らだったりするので、そこまで違和感はなかったのかしら…。
そういや大阪毎日の前身の明治15年創刊も典型的な「明治14年のちの政党運動目的」の時期ですね、この頃の新聞は庶民ターゲットのはずなので、わりと最初から娯楽も組み込まれてたんじゃないかな。
関西の商人たちが顧客層だった朝日新聞とは似てるけどちょっと違う感じだろうなー、微妙に本がないです、今度社史読むかと迷うくらいに本が…ないです。
朝日新聞。2月12日。
今資料の扱いがどうなってるのかちょっとわからないんですが、どうもこの新聞社、明治12年に立ち上げたあと、しばらくのちに経営が傾きまして、政府の支援の申し出があり、その時点でどうも「政府見解に対し、中立であって欲しい」というような約束が行われたらしいです。
まあなんだ、御用新聞って呼ばれると部数ががた減りするもんだしなぁ…(筆禍を受けると非常に人気が上がる)。
当時バレてるとそこそこダメージがあったであろうものの、後世見るとそこまで後ろ暗い内容でもないんですが、朝日からすると微妙なものなのか曖昧な態度っぽいよな。
大阪毎日と共に関西由来で東京進出組、買収したのは『めさまし新聞』、星亨の自由党(自由民権の板垣退助の政党)の政党新聞でちょくちょく発行停止を食らうので名前がよく変わっていたとか、ここも微妙なカップリングだな…。
星亨が暗殺されてしまったのでそこの問題は少なくなってるのかもしれんけども。
商人を読者層としていたため、わりと初期から娯楽作品に寛容で、「中新聞」と呼ばれていることもあるものの、関東進出の際に他社連合を組まれて営業妨害をされる程度に売れたためか以降このスタイルが当たり前になってしまい、呼称としては消滅。
東西両社がぶつかってたのは夏目漱石絡みの文章で地味に読めたりするんだけど(スカウトした人が関西、担当したのが関東)、まあなんだ、仕方ない、かな。
新聞の歴史が「=朝日新聞の歴史になってる」って嘆きがあり、毎日は…? と思ったものの、新聞各社の記者の本を見た時に納得しました。
ほどほどに変わり者が受け入れられ資金繰りが清浄、毎日は風通しが、あまり…。
時事新報。2月13日。
福沢諭吉さんにまず政府からの新聞社の設立要請が来まして、ところがその中心人物だった大隈さん(またおまいか)が「明治14年政変」って時に失脚してしまったものの、建物とか記者とかがすでに用意されていたので貰い受け。
独立独歩でやるぜ! と始めたらしいんだけど、大隈さんが関わっていてもそんなに変わらなかった気がする、政府の見る目は違ってたとは思うけども。
そもそも明治初期の頃は啓蒙のため、新聞社は結構作られてるんだよね。
ただ、政府主導で作るとすっげぇ詰まらんので受け入れられないんですよ、なんと申し上げるか明治政府にインテリがいるわけがないじゃん伊藤博文が最高の教育受けてるとか(農民出の苦学生)、単純に内容が面白くなかったんだろうなとしか、思えず…。
(人気がなにしろないので娯楽新聞なんていう発想もまだない。)
で、東京日日の福地源一郎とか福沢諭吉なんだろうね、どっちもあんまり政府のコントロールの下にいてくれなさそうだけど、明確な政治指針があるわけでもないしな。
これは朝日新聞なんかも近い状況にありそうですね、中立は期待出来そう。
で、明治15年です、あー、なんとなくわかった。
そして新聞各社は政党の方針により右往左往してたらしいんですが、それ系の新聞はあんまり残らなかったのでここの項目にほとんどおらず(東京日日くらい)、まあ、そこで中立として名前を上げた時事新報のところで触れるのが無難かなー。
東京日日は御用新聞って呼ばれているんだけど、あそこも新聞社の意思がきっちりありそうなんだよね、今こうしてまとめて見ると…。
文語体が多い時代になんかさっぱりした文章も特徴、あれ呼び名あるのかしら?
国民新聞。2月14日。
明治23年というとあれか、選挙が制限選挙って決まったあとか(国会開設が決まったのが明治14年、そこから10年後、選挙の方針が決まったのが明治22年)、にゃ、直接関係あるのかどうかはわからないんですが、それ以前までは泥沼の政党主張に各新聞社が振り回されていたぽいからなぁ。
お互いに新聞を使って主張をするので止めれって言われてたなぁそういや。
徳富蘇峰さんが中心で、まあなんというか、超絶人気の論客ですね。
この人の場合、政府寄りになってもそんなに人気落ちてないっぽいんだよな、まあなんだ、政府寄りになっても面白かったんだろうな…。だって初期の新聞、布陣を考えるとどう考えても内容に期待が出来ないんだもん。
弟の蘆花さんとの長い諍いもわりとこの辺の身の置き場が原因らしい。
そういや、人気が陰って来てた時期に弟さんに小説書かせてたら暴露問題が起こるようなモデル小説だったってのが「不如帰」だっけねぇ…。
連載中断し、特に人気もなかったはずが単行本になったのちに大ヒットをかまし、家庭小説というジャンルも生んだとのことなんですが、大概複雑な。
ただ、この国民新聞にしろ『国民之友』にしろ(あとの時代で言う総合雑誌、小説も載ってるし政治論文も載ってる)、まともな記事揃えて、しっかり方針立てて作ってるなー、てのは感じるので、そこらの新聞ほどには浮き沈みしなかったかもな。
当時は新聞社単位で認識するより論客にファンが付いてたりするからな。
少なくとも新聞という単位で認識されてる新聞社ってのはちょっと朝日以降じゃないのかなぁ(時事新報は別格として)、もうちょっとなんかで情報仕入れてこよ。
読売新聞。2月15日。
えっとだから、明治7年、時期からして(ブラックさんのすっぱ抜き事件のち、新聞の庶民人気が上がり)、初期の小新聞ですね。
あれねー、大新聞の政治記事を「ひらがなのみ」で載せてるみたいな新聞もあるにはあったらしいんですよ、あとあれ、浮世絵新聞てのもあったけど。
この読売新聞が「漢字表記にふりがな」を発案しまして、基本スタイルはそれで落ち着いたようです、なんかねー、ひらがなオンリー目が泳ぐ、読めない。
あ、識字率そのものはそんなに高いわけではないものの(準識字率は高い)、政府のお触れなどを理解する関係上、文章の理解力は高いんだってさ江戸時代の庶民。どんな田舎であっても1%程度は絶対に完全識字者がいたらしい、伝令に必要だったのね。
基本的に新聞の歴史においては小新聞の地位が仕方ないながら低く(だって当人の家の前で読み上げるゴシップ記事とかあるしさぁ!!)、あまり顧みられていることがないものの、読売新聞だけは別格として触れられていたりもしますね。
明治40年辺りには尾崎紅葉率いる硯友社と結びついて『金色夜叉』などの大ヒットを生み出していたりもしますね、休載すると文句が酷いわりに部数に貢献してないって切っちゃうんですけどね、したら部数ガタ減りしたって言われてたな。
あとあれ、正宗白鳥がいて、夏目漱石を採ろうとして「なんだよその提示価格www」って朝日新聞のご本で心配されていたりしましたね、そうねー、前職の4分の1で毎日出社ってさすがになんか…。
時期によっては都新聞と競っていたりして、五大新聞なんかと比べると確かに劣るものの、極端な経営不振も聞かないし、文芸新聞かって言われたら微妙だけど。
萬朝報。2月16日。
そもそもこの萬朝報、大衆新聞って呼ばれてることがあるんですが、あんまり聞かない呼び方で、翌年に立ち上がった『二六新報』があと呼ばれてることがあるくらいかな、最初に見た時は「小新聞」のことだと思っちゃったんですよね、言い換えかなって。
ところがどうもこの二紙、政治を避ける小新聞と違いどちらかというと政治啓蒙意思が強い。
源泉となっているのは板垣退助(自由民権の最初の一人だね)がフランスに外遊していた時期に「庶民の啓もうには小説読ませるといいよ」という助言を貰ったということに端を発するようなんですが、あ、助言者はヴィクトル・ユゴーだって。
ちょうどこの萬朝報立ち上げた黒岩涙香さんの探偵小説も直接その系譜なのかどうかはまだちょっと調べられてないんだけどねー、政治目的っぽいことは言ってはいるんだよな、ところどころで。
あ、ユゴーさんの趣旨ではどうも最近のだったらなんでもいいよ、みたいな感じでした、結構娯楽小説とかも抱えて帰ったぽいよ、板垣さん。
たまに政治小説を読ませて知識を付けさせる! みたいな解釈が語られてるものの、政治小説って代表作が叙事詩寄りの架空歴史で、これはまだわかるものの、あとはほとんどメロドラマなので…勉強に使うにはちょっと…(政治小説って呼び方があかんのかしら)。
涙香さんの翻案の探偵小説もほとんど冒険ものだったぽくてね、上の趣旨には合ってるんだけど、辞めた都新聞とは方針合わなかったのかもなぁ、あそこ芸能寄りだし。
ただ、現代人にはいまいち「上流階級のゴシップ」が啓蒙って言われてもわかんないんだよな、一番有名な藩主の毒殺事件疑い記事も検死の結果自然死ってなって証言者が逃げちゃったしね、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦を揃えてたのは本気だとは思うけど…。
二六新報。2月17日。
個人的にこの二六新報と『萬朝報』は二卵性双生児みたいに思ってるんですけども、萬朝報が明治25年で二六新報が明治26年(この年号が新聞名なんだろうね)、明治30年代に日本一を競い、新聞が終わったのも戦時中のどさくさに紛れてっぽいしなぁ。
なんかぐるぐる蛇行してるから追えなかったけど二六新報の子孫…。
あまり詳しくないWiki辞書がさらに「政府弾圧を受けるような姿勢だったために大衆紙と呼ばれ」って書いてあったのでいらっとしまして、一回それを吐き出していたら内容が妙なことになって一旦断念したんですが。
大衆新聞って呼ばれたのは双子の萬朝報と同じくゴシップと娯楽じゃないかなー、前に斎藤緑雨(仮名垣魯文の弟子)絡みで懸賞小説やってたらしいことを読みましたしね、やーあれ、当時流行していた一葉さんもどきがやったら多いって比較的出来のいい作品を叱り付けたらば一葉さんと同じところに属していた兄弟弟子だったという案件が紹介されており、その後逃げていたようです…謝ったほうが…。
(一葉さんと同じく先人の表現を借りるのが自然なことだったぽい、知らなかったすみませんでしたって謝ればいいとは思うんだけど、先に変な決め付けしてて…。)
なんでも日本で最初の懸賞小説らしいんですが、他の分布を思い出すと多分問題ないんじゃないかな、結構どわっと増えてるよね、懸賞系の雑誌。
あと、そもそもある程度の政治志向はあったのは筆禍(政府弾圧)に遭ってることでも明確だけど社長が大隈さんとも関係ある政治家ってのもあるしね、あ、新聞を立ち上げてのちにラブコールをした結果のようです。
大隈さん目当ての新聞立ち上げではないよね…(前例を思い返すと些か…)。
日本(新聞)。2月18日。
それほど知名度は高くはないとは思うんですが、ここの社長の陸羯南が正岡子規さんのご近所だっけ? まあまあなんかもともと親しかったので、弟子も引き連れて参加していたようです、あと、「最後の大新聞」と呼ばれているのが特徴かな、
明治22年に創刊、とはいえ明治21年の『東京電報』からあんまり変わってないのかな、正式には『日本』であって新聞とは後ろに付かないようなんですが、なにぶん名前がわかりにくいせいか特に断りもなくよくくっ付いていたりします。
まあ『日本』ってあるのは関係紙がほとんどぽいけど…(抑留者新聞とは混同しないやろ、あと、『日本及日本人』って雑誌があるけど日本の部分がこの新聞を指します)。
なんかねー、だいぶ売れなかったみたいです。
小説を載せていないのはまあいいんだけど、経済情報などの即時性のある記事もなかったとかで、朝日とか毎日系とか両方載ってんだよな多分…。
特徴は上の俳人とか短歌系の記事なのかなとも思わないでもないんですが、それにしたところで子規さんの「ホトトギスは売れるが日本は売れない」みたいな愚痴が残ってしまったようで、まあうん、新聞で明治後期で6千部って心許ないかな…。
個人事業所で出してる雑誌がその半分か、切ないな。
そういやWiki辞書の『国民新聞』に子規さんの弟子の高浜虚子さんが担当した欄のおかげで新聞が隆盛とか、言われてたな切ないな…。
明治39年に陸さんの病気により、立憲政友会の政党新聞になったようで、大正3年には火事にて一旦倒産、MAXが日清戦争で2万部くらいか、てか、後継新聞や週刊誌があるようで、あー、超国家主義のあれか…、だいぶ変転激しいな。
都新聞。2月19日。
そういやこの新聞社、徳田秋声の「縮図」で出て来たり尾崎士郎の「人間劇場」が掲載されていたということでどういう新聞なのかって調べようとしたこともありましたっけ、どうも日本最初の夕刊新聞らしく明治17年に『今日新聞』として立ち上げられたってありますがどうもこれ、資本関係から見て東京日日由縁ぽいね。
いや初代主筆が仮名垣魯文だったり、福地桜痴や彼関係の名前が見えるからね。
確かこれははっきりと東京日日系だった警察新報のことも吸収してたんじゃなかったかな、えーと、あった、社屋は同じだが号は継いでいない、了解了解。
多分これ、いくつかあった小新聞系の人材を集めるために作られた、直接は資本関係がない新聞社なんでしょうね。
あ、夕刊新聞ってのもあれです、娯楽系がメイン(なんというか情報が短期間で変動しないものを主に扱うのでどうしても報道じゃなくて娯楽や芸能寄りになるらしく、当時の流通や技術的な理由でしょうねこの辺)。
明治21年に『みやこ新聞』、翌年に表記を『都新聞』にして黒岩涙香さんなんかもお迎えして一時躍進したものの社長と衝突して退社(で、彼は『萬朝報』立ち上げ)。
日日系の社長と涙香さんだとなんとなくぶつかる理由はわからんでもないな、日日は唯一の御用新聞って呼ばれてた時期もあるし、大衆新聞はかなり自由主義ぽかったし。
で、だいたい『読売新聞』と近い芸能寄り新聞になったのかな、てか、演劇に強いのって大阪毎日系の人の由来っぽいなぁ、結構あとまでつながってんのね…。
上に挙げた小説とあと中里介山の「大菩薩峠」なんかもありますね、硬派記者が小説書けんの? って言われてたのはちょっと記憶にあるな。
報知新聞。2月20日。
明治5年創刊の近代新聞の最初期の時期で、この時点だとまだ政府主導の新聞がぽちぽちあった頃じゃないかな(御用新聞じゃなくて要請によって立てられた新聞社)、新聞がなかなか広まらないので郵便制度を利用して無料で配達されることを前提に作られていてその中心人物が前島密なのでまあガチな話。
てか、郵便局の父だけなんか知名度高いよなー(風水好きで郵便局を立てる時にちょっとずつ取り込んでいたんだってさ、なんか変なところにあるとは思うことあるな)。
漢学者だった旧幕臣の栗本鋤雲が初期の主筆、明治三大文士じゃん、てか、矢野龍渓って初期からいたのか…、この人が明治14年に大隈重信に買収を願い出てたんだよね…。
ただ、初期から民権運動家がいたなら大きく方針転換したわけでもないのか。
ここから元になった錦絵新聞があったってことはかなり柔軟かも(大新聞の記事を錦絵を添えて書き直したもので庶民向け、小新聞より早かったと思う)。
Wiki辞書には「明治末から大正にかけて」一番売れた新聞ってあるんだけど、時期が微妙なんだよなぁ、朝日新聞と毎日-日日とが台頭するまでは可能性がないでもないんだけど、関東大震災の時に一時的に朝日新聞の発行数を超えたことが自慢みたいな自虐の極みを見ているので…最悪その時点の話が曲解された可能性が皆無でもなく…。
あとあれ、羽仁もと子さんがいたのね、日本初の女性記者にしてのちに『婦人之友』を夫婦で立ち上げた人だ、やっぱりほどほどに柔軟だな?
上の自虐ネタとそれを本当に勘違いして日本一って書いていた人のせいで評価が微妙だったんですが、五大新聞の一つだし、まあ目立つ特色はなくても悪いものでもなかったのかな、しかし、柔軟なのはいいんだけどなんとなくばらばらだな…。
(雑学:近代有力め新聞社10社、181)
最終更新:2020年11月30日 18:34