現代倫理学…メタ倫理学。正義論。
メタ倫理学
規範倫理学…道徳の内容に関する議論。
応用倫理学…規範倫理学のこと。
認識説…自然主義。直観主義。
自然主義…
直観主義…
非認識説…情緒主義。指図主義。
情緒主義…道徳的判断は主観的情緒の表出に過ぎない。C・L・スティーブンソン
指図主義…道徳的判断は普遍化可能な指図を意図している。R・M・ヘア
実在論…何かが人間の意識から独立に客観的に存在するという主張。客観主義。認識説。
反実在論…何かは人間の意識の中に主観的に存在するという主張。主観主義。非認識説。J・L・マッキー「倫理学」。
内在主義…道徳的認識には動機となって人を動かす力がある。
外在主義…認識したからと云ってそれだけで人は動かない。
マッキー
第一階の道徳的主張…個別の主張。規範倫理学。応用倫理学。
第二階の道徳的主張…道徳的信念とは如何なるものかについての哲学的主張。メタ倫理学。
間主観性…道徳的見解が人々の間でかなり一致するという意味での客観性を認めることができる。このような一致のこと。
私の考察
① 「女は家で家事に専念すべきだ」と「外に出て働くべきだ」がどちらも正しいこともあり得るのは変ですよね。と云っているが、少しも変じゃない。そんなのは女が各々自分で勝手にすればいい。ともあれ言葉の一致が対立の前提というのは分かる。
④ ここでいうところの外在主義だと私は思うが、私はそもそも道徳がないと思っているから動機づけもなくて、単に刑法があるだけだと思っている。刑法を破るか破らないかはその人の勝手だと思う。しかし、立法府の人間が各犯罪をどの程度の量刑にするかが、動機づけの度合いと対応しているのかもしれない。そういう意味では動機づけなのかもしれない。立法府の人間に対しての動機づけというか。
ともあれ私は反実在論者で外在主義者。
というか、この辺りの議論は、自分と違う主義の者を批判や否定できるのだろうか。どの考え方に共感を感じるかは人それぞれだし各々の勝手じゃないかと思うのだが…。
⑥ 浮浪者のくだりにしても助ける奴もいれば素通りする奴もいるというだけの話のような…。どうも私はメタ倫理の話にあまり興味を引かれない。
そもそも、道徳の概念が他者を前提にしている。他者を前提としない、我のみで完結する道徳はあるのか。
道徳はそのときの社会に生きている人が作っている。普遍的な道徳はない。
私はそもそも道徳的な善悪などは存在しないのではないかと思っている。いや、悪はあるが善はない、じゃないだろうか。
つまり、人はこんな風に生きるべきだ、というようなものはなく、これこれしてはいけない、した場合にはこれこれの罰則がある、という制限があるだけではないのだろうか。ただしこれも、そのときの社会ではそれを罰則とするというだけの話で、それを悪と呼ぶなら悪だろうが、普遍的な悪はやはりないと思う。極端な話、人殺しをしてもよい社会が未来には訪れる可能性もある、というか戦争はもうそれであった。私は反実在論者と云うことか。
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正義論
ロールズ
リベラリズム…功利主義を批判。
無知のヴェール…
ノジック
リバタリアニズム…功利主義を批判。
権原…
所得の正義原理…あなたはそれを海岸で拾った。その際、それはだれの物でもなく、他に拾おうとする人はなかった。
移転の正義原理…海岸でそれを拾った人から、もうらうか買うかの連鎖の結果として保持している。
マッキンタイア
コミュニタリアニズム…内在主義と親和性がある。
ふさわしさ…共同体を前提とする。
M・J・サンデル
負荷なき自我…歴史的伝統も社会的背景もない個人。リベラリズムとリバタリアニズムが前提とする個人。
アインジヒトたちの考察
私の考察
⑩ どの程度の慈善が義務化されるかは、人々の合議体で決めればいいような気がしている。
⑪ 理論的には私の考えと同じだ。善行は慈善であり、義務でない。しかし、私が普通いわれるリバタリアニズムとは思えない。私は福祉政策は充分に行われるべきだと考えている。
しかし、こう考えると、法整備された時点で善行も義務化するのか。法整備された時点で、それをしないのは悪行に転換されるが、もともとは善行だったのだ。そうなると、善の道徳とはいったい何なのか、もう一度考えてみる必要がある。
私は、善行を義務化する水準、いわば弱者が救済される水準、どの程度の弱者にいくらの社会保障をあげるのかは、市民の意志の合議体でしか有り得ないと思う。
電車で席を譲った話なども、立っていても苦にならない足腰や、次の電車でも間に合うほど時間の余裕を持つ者が譲ればいい。譲ったものの後悔するぐらいなら始めから譲らなければいい。
⑫
⑬
⑭ 私はこの反実在論者で外在主義者の筈なのに、祐樹の感覚とも異なるのだが果たして。私は一般的に主観主義だけれど、道徳的に実在論なのか反実在論なのかよく分からない。道徳を、人が目指すべき規範のように捉えているのではなくて、今の社会が概ねすみやかに動いていくための規制法のように捉えている。善の道徳はあってもなくてもどちらでもよく、悪の道徳だけが社会では意味を持つ。
悪の道徳は社会では刑法を始めとした法律で具現化し、今の社会に生きている人の嫌悪の総和から逆算してその量刑を決めるようなイメージである。私はある意見を持っているけれども、どうもそれは今の社会では不愉快に思う人が多いようで量刑も多く設定されている。それなら、その意見を実行に移さない場合はあり得る。という感じだ。
善の道徳については、あってもなくてもどちらでもよい。善の道徳を為した後で、それがお金に替わる場合もあれば、友情といったお金で還元できない心の中の幸福に替わる場合もあるだろう。善の道徳は義務ではなく、それを為すかどうかはその人が勝手にすればよい。
善きことと勤労の違いは何だろう。善きことをしてお金を取るか無償でやるかはやる人の勝手だが、お金を取った時点で善きことではなくなってしまうのだろうか。善きことから単なる商売に替わってしまうのだろうか。逆に、普通は商売でするものを無償ですれば善行になるのだろうか。よく分からない。善行は義務ではない。余裕のある者だけができる行為だ。ただ、どれだけ持っていればそれを余裕とみなすのかは人によって違う。これについては、第七章の私の考察で子どもの社会には基本的に金銭のやりとりがないことと合わせて考えたい。
祐樹が云うのは飾りというよりは嘘ではなかろうか。始めから自分ではなく世間の方に当てはめておきたい規範はあると思うが、それを素直に自分の意見と呼べるかは怪しい。この例なら、「成人どうしの合意に基づく売買春でも悪い」という意見を表明している人がいて、でもその理由は、なぜならそれを認めると社会に面倒臭いことが増えるから、でも俺個人はいいと思うしやりたいからやる、という場合はある。しかし、この場合の意見というのは端的に云って嘘の意見である。
いい湯だな、いい旅行をした、の「いい」は偽善があっても意味がないと言っているが、そんなことはない。リクルート社発行の「じゃらん」や「ABロード」にはそんな嘘ばっかり書いてあると思う。むろん私たち消費者には意味がないが、リクルートの社員や旅館側には意味がある。
⑮ ジョーンズとスミスの話は後でじっくり読もう。今はよく理解できない。
⑰ これは私に近い。
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永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」(ちくま学芸文庫)
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最終更新:2011年08月30日 06:14