翔太と猫のインサイトの夏休み 第一章


はじめに


 第一章の1からして、めちゃくちゃ難しい。後半は意味が分からなかった。
 私の場合、倫理の方は興味が湧くのだが、独我論の方はあまり切実な問いとして感じられない。私と他人に関するさまざまな話も、倫理に関するそれの範疇でしか、あまり頭に入ってこなかったりする。それは私が大人になってしまった証なのだとしたら、少し寂しい気もする。インサイトも本当に哲学ができるのは十五歳までだと云っている。確かに、私も小学校や中学校の授業中に、この世界は幻想かもしれないとか、どうして自分の意識は自分の脳のあたりにあるのだろうなどと、よく考えていたのを覚えている。
 ともあれ、大人になってしまった今の私がこの本を読みながら考えたことをそのまま書いてみる。哲学的なだけで、本物の哲学者でない私は、子どもの頃にはただ漠然とこの世は幻想かもしれないと考えていただけで、しっかりとした言葉を用いながら厳密に考えてみたわけではない。そういう意味では、今の方が分かることもいくらかあるような気もする。

1.夢の話や培養器の中の脳の話は、よく理解できない。映画やなんかで、しばしば登場するので、その範疇でなら私も好きなのであるが、それ以上に哲学的な厳密さで問い掛ける衝動があまり湧かなかったりする。
 言葉の誠実さを問うているだけのようが気がするのだが、それ以上のことを云っているのかどうかがよく分からない。
 ただ、映画「マトリックス」みたいに、夢から覚めたとして、それが本当に夢から覚めたのか、夢から覚めた夢を見ているだけなのか、判断することができない、という問題はある気がする。インサイトの云っていることが、このことなのかどうかが、今ひとつ私には理解できない。

 こんなことを云うと哲学的には興ざめなのかもしれないが、どうしてこの問題に私が惹かれないのかというと、仮にこの世が幻想なのだとしても、それを確信する手立てはないと私は思っている。そして、仮にこの世が幻想だとしても、この幻想の中で何かを頑張るしか私にはやることがない。その頑張ることを、この幻想から抜け出すことや、幻想だと見破ることに費やすのは、非効率だと思うからだ。もしも、他の誰かが頑張って見破って、私を連れて抜け出させてくれたらラッキーだと思うけど、自分で頑張る気はない。どうせ、抜け出たその世界でも何かを頑張らなくてはいけない訳だし、上にも書いたけど、抜け出たその世界が幻想じゃない保障はあるのだろうか?
 いってみれば、私は夢から抜け出す必然性を感じない人なのだ。寧ろ、願わくば夢の住人になりたい。夢の中って最高じゃん。だから、毎日八時間ぐらいは寝ているのであった…。「インセプション」的ですね…。

2.怒りっぽさの話はよく分からないけど、認められない天才画家の話は分かり易い。人が決める価値判断は、誰かが実際に決めない限りは決まらない。だけど、結局のところ、すべてのものは人間が決めてるんじゃん、という話で合っていると思う。
 怒りっぽさの話だと、どうして分かりにくいのかを考察してみたい気もする。


















永井均「翔太と猫のインサイトの夏休み」(ちくま学芸文庫)
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最終更新:2011年07月01日 19:30
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