随想 頁3


レビューについて
 yahoo映画にいくつかレビューを書いていたのだが、一度に思ったことの総てを書くことができず、どうしても追記したいことが出てくるので、ここに書くことにした。また、私の感想は、厳密にいえば感想でも評論でもなく、しいて云うならストーリー分析なのかもしれません。しかし、私の興味の対象はその辺りにあるので、これは致し方ないものとして容赦していただきたく思う。同じようなことに興味を持っている方に読んでいただければ幸いです。自分の中では映像作品はどのようなストーリーが面白いのか明確な理屈があるのですが、それについては個々のレビューの中で話していければと思います。
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永井均
幸福な人々
たとえば「人生の意味」や「本当の自分」を求めているように見える人々が存在する。自分の世界が自分のために準備してくれた意味や本当さが如何にしても偽物のように感じられるならば、人は別の場所に意味と本当さを求めなければならない。そんなものを求めてはならないとか、そんなものは存在しないとか語る人は、もうすでにそんなものを求める必要がないほど幸福な生を生きているにすぎない。「道徳とは復習である」永井均(河出文庫)
友だち
人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。そして、友情って、本来、友達なんかいなくても生きていける人たちのあいだでしか、成り立たないものなんじゃないかな? 「子どものための哲学対話」永井均(講談社文庫)
善なる嘘
善なる嘘という概念を永井均は云っている。これが何か知りたくて、「魂に対する態度」という本を、本屋で立ち読みしてみたけれど、速攻で挫折した。知りたいことは知りたいのだが、もう無理ぽ。
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再生可能エネルギー促進法
 再生可能エネルギー促進法に賛成する議員が何名かいるようである。政治家というのは国民のことを第一義として考えているのではなく、弱者の味方なわけでもなく、単に勝ち馬に乗りたいだけの人たちなのだと改めて感じた。民意を汲んだ方が勝ち馬に乗れると思ったときにだけ国民の方を向くのである。しかし、それもまた人間である以上仕方のないことだとも思う。政治家には大方そういう人たちがなるのであって、聖人は政治家などにはならない。それでも、全く民意が反映されないような社会よりは大分ましであろう。
菅さんが浜岡原発を止めてから急激に菅降ろしの動きが活発になった。鳩山さんも原発には反対だとばかり私は思っていたのだが、菅降ろしに加わっているようである。政界というのは矢張り私などには計り知れないほど不可解だ。菅さんは原発を問うて解散総選挙をしないのだろうか。私はそれもありだと思う。
 私自身は原発そのものを批判しているというよりは、それを取り扱う東電と政府に問題があるとする立場で、必ずしも原発そのものをなくさなくてもよいのではないかと思っている。
 しかし、そもそも人間は必ずミスも犯す生き物だし、さらに大半はどんなに高学歴であっても単なる俗物に過ぎないのであって他人の安全な暮らしなど差し置いてすぐ金に目が眩む生き物である、だとすればいかなる企業や政府であっても原子力発電所を問題なく取り扱える組織など存在しないのだ、だから原発には反対なのだ、そして原発事故はただの一度であっても起きてはならないのであって、放射能で死ぬ子どもは一人としていてはならないのだ、と考える国民が大半を占めるならば、民意に従って原発を廃止するしかない。それは直接国民に問うてみる他ない。
 その結果、仮に電気代が上がって日本の産業が衰退しても、自分たちで選んだ道だから仕方がない。それが民主主義であろう。そんなことも分からずに反原発に票を投じる人間は愚かだとか何とか経済学者系の言論人は云っいてるが、それは自分の趣味を自分以外の人間に押しつけるパワーゲームに過ぎないと思う。
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功利主義と博愛主義
人が人に優しくするのも、自分にとって何らかの功利があるときのみである。
人が仲間を作ろうとするのも、その仲間が自分にとって何らかの功利をもたらすときのみである。
仲間にすれば、自分の利益が増えるときのみである。
人は博愛的な感情から、仲間を作るわけではない。
だから足を引っ張る人間を仲間にしたりはしない。
ただ隣人だからという理由で、そいつを仲間にしたりはしない。
道に倒れている人がいても、どんな奴かが分からないうちは手を差し延べたりしない。
カモれる奴からはカモり、仲間になれば互いに得になると判断すれば仲間にする。
子分になった方が利益が上がるなら、媚びへつらう。
子供の頃ならいざ知らず、大人の人間社会とはかようなものである。
ここでいう利益とは、単に金銭のみならず、喋っていて楽しい気持ちになれるということも含まれる。
異性なら容姿端麗で見ているだけで眼福を満たすとか、容姿は悪くとも冗談を言って笑わせてくれるだとか、直接の儲け話でなくとも多岐にわたる有益な話題を持っている奴とか。
人は独りでは生きていられない。どんなに人に傷ついても、それでも人を求めずにはいられない悲しい業を背負うて生きている。
生かされている。
ある寂しい者同士が、街中で出会い、先の先まで全くの他人であったのに、何の気まぐれか、どちらからともなく会話を交わし始めるとき、その人たちは互いに他者を求めている。自分を承認してくれる他者を。
このとき、金銭的なやりとりは一円もなくとも、寂しさを埋められるという点に於いては、互いに利益があるから語りかけるのだ。
本当の意味での博愛主義、世俗的な意味合いに於いては何の特にもならなくとも、
ただ、みんなが、見ず知らずの者も含めたみんなが、仲間のように振る舞う世間であった方が楽しいから、ただそれだけの理由で他人に優しくする人はこの世にはいない。
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もしも僕の考えがルサンチマンの価値転倒に過ぎないとしても
それでどうする?
僕は価値転倒したこの世界で育ったんだ。
僕に憐れみを感じるならば、僕のような人間がもう二度と生まれないようにすればいい。
けれど、どうすればいい? 価値転倒を戻すのか? そんなことできるのか? お前たちに。
戻さないのか? では僕は再び生み出される。何人も何人も。
僕の意見? そんなこと知ったことか。僕は僕の感じるままに生きるんだ。
少数の弱者のことを考える必要はあるのか? 少数の弱者の立場になってものを考えるのには意味がないとすると、私はもう何をする気も起きない。
自分にとっては無意味なことをやり続けることでしか生き延びられない不幸。
あらゆる意味において、人生とは死ぬまでの暇つぶしに過ぎないことが喝破できてしまった。そんなにいきり立ってやんなきゃならないことなんて何にもないんだよ。世界はひとえに無駄話でできている。楽しくてたくさんの人に好まれる無駄話か、深刻だけど一部の人にとってはとても重大な、だけどやはり結局のところは無駄話でしかないものか。
奴らは毛ほどの思いやりも持ち合わせていない。そう。この世に親切な人などいないのだ。そして、私は、親切な人がいない世界に生きていても、生きる意味を感じない。なぜなら、私にとって生きる意味とは、人と人との絆を意味するからだ。それは金で結ばれるような絆ではない。これはアリストテレスのいう友愛に似ている。
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雇用を作る方法
 雇用を作る具体的な方法って何があるのだろう。公共事業。それから……。
 景気がよくなれば人々が本来は必要のないものにもお金を使い始めるから、その本来必要のない需要に対応する仕事はできる。
 イノベーションが起きれば、それは実際便利なものとして人々がそれを買うから、それに対応する仕事はできる。その仕事が専門的な知識や技術をあまり必要としない場合は特に雇用対策としても有効となろう。
 雇用創出というよりは、需要創出という方が正しいような気もする。
 しかし、需要を創出なんて政府に本当に出来るのだろうか。政府にイノベーションなんて起こせる筈がない。だからこれは却下だ。景気をよくすることで雇用対策を行うのは、本質的な解決方法ではないような違和感が昔からしているのだが、現実的にはこれで凌いでいくしか方策がないのだろうか。
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ソーシャル・ネットワーク ネタバレ含む
 ソーシャル・ネットワークは何が面白いのか自分でもよく分からないのだが面白い映画。映画館に二回見に行ってしまった。映像のテンポと音楽にだいぶ誤魔化されている気はするのだが、それでも、ストーリー的にも心に残る何かがあるような気がしてしまう映画。現代の市民ケーンといわれればなるほどその通りか。しかし、私の感じるストーリー的な何かはそれとも少し違っている気がするのだけど、それを言葉で巧く表現できない。
 書きながら思索してみる。何か分かるかもしれないし結局分からないかもしれないが。
 ラストは、どんなに富を手に入れても、一番欲しいものは手に入れられなかった、それは初恋の人である、とよくある名作のパターン通りに受け取るべきなのだろうか。多くの人はまず初めにその解釈を頭に浮かべるだろう。私もそうだった。しかし、すぐに疑問符も浮かべるのではなかろうか。そうでないようにも思えるのだ。それについて映画内では何も言及しないところが面白い。映画内で、それほど彼女のことを痛切に恋い焦がれていたようには描かれていない。冒頭と、中盤より少し前、サイトが軌道に乗りかけ、話題になり始めた頃に彼女は登場するのみである。彼女はいわば発端である。サイト発祥の切っ掛け。
 本当に欲しいものは彼女だったというよりは、本当に欲しいものは今でも何なのか分からない、といった気持ちではなかろうか。その意味では、この映画から受け取る感銘は「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」に近いかもしれない。どんなに巨大な富を手にしても、いったい何のために俺はこんなことをしているのか分からない、という感慨だ。
 現在の場面は法廷以外まったく描かれないのも面白い。学生時代の人間関係を全部失ってしまった主人公だが、その一方で新たな人物関係だって築かれているはずだ。けれども、それは矢張り学生時代の友人とは質が異なるだろう。本当の意味で気心の知れた友達は皆無かもしれない。青年は誰しも、ただ大人になってしまったというだけで、何一つ悪いことなどしていなくとも、子どもの頃の純粋な友達を失う。この感情は殊更に大きな富を得た成功者だけでなく、市井の人にもあることで、「スタンド・バイ・ミー」に描かれている心情である。
 ちょっと思い付くままに考えたことは以上のようなことで、結局たいした評論なり寸評は導き出せなかったけれど、「ソーシャル・ネットワーク」の印象はつまり「市民ケーン」+「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」+「スタンド・バイ・ミー」のようなものである。
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チェイサー
ネタバレを含みます。比較のため「母なる証明」と「冷たい熱帯魚」もネタバレします。
傑作。最高の面白さ。確かこの映画も劇場に二度足を運んだ。一度目などは先の展開が予測できず、まさに食い入るようにして見ていた。
語りたいことはいろいろあったのだが、見てから数年経った今、次のことを語りたい。それは、母なる証明や冷たい熱帯魚を見ても、優れた映画だと思いこそすれ、好きか嫌いかでいうと、私はこれらの映画を好きではない。しかし、チェイサーは優れている上に好みでもある。この違いは何なのか自分で考察してみた。
主人公は自分の店で働く女を殺人鬼のところに送り込み、間接的に死なせてしまったと自分を責めている。とはいえ、その罪科は見ている側からは、主人公が結末で死ななくともぎりぎり溜飲を下げられる罪業に留まっている。少なくとも私にはそう思える。ここが重要なのだ。
母なる証明に、私は溜飲を下げられない。同情に値する如何なる理由があろうとも、人道から外れた罪を為してしまった者には、必ず破滅が訪れる、という筋が私は好きなのだ。それは、例でいうと砂の器のような話だ。その意味では、母なる証明の結末は、私の興味を満たさない。あれ以降の母と息子をこそ見てみたいと思ってしまう。あのような行為をした者たちには、破滅が訪れるまで描き尽くしてくれなければ、観客として溜飲が下げられないのだ。ポン・ジュノ監督はわざと観客をちゅうぶらりんにしたまま映画を終えているのも分かるのだが、私は割と正攻法なストーリーの方が好きなのだ。
冷たい熱帯魚では、なるほど人道にもとる領域にまで踏み込んでしまった主人公は破滅する。しかし、この主人公にはそもそも、巻き込まれたのだとはいえ、同情に値するほどのこの世の不条理を喰らわされていない。だから不条理系の文脈では読めない。自分の優柔不断さが招いた破滅だと感じられる。もちろん、あのような悪魔的な主犯を前にして、そこから逃れることなど不可能であるのかもしれない。だがそれでも、自分の命と引き替えてでも正しさを貫く局面はそれまでにいくらもあったのではないかと思えるのだ。
先にも述べたが、チェイサーの主人公は一応のところ観客から見れば一線を踏み越えていない人物だ。だから、ラストで破滅を迎えなくともよい。自分のしたことで罪亡き人を殺してしまった自責の念を持ってはいるが、観客からは、最期に破滅してくれなければ溜飲を下げられないほど深い罪ではないように見える。そんな結果を巻き起こすなんて、あの時点では誰にも分からないことだった。ともすれば、私だってあなたと同じことをしたかもしれないと思える。そしてその罪を贖うべく、命の限りを尽くして奔走し、邪悪に立ち向かう。これが重要なところで、これは、私が大好きなシュタインズゲートの主人公オカリンとも似ている。
最期に、主人公は犯人にトドメを刺そうと決意したろう。しかし、まさしく映画的ジャストタイミングで立ち現れる元同僚の警官に止められる。これは主人公の本意ではなかっただろう。しかしこれも、観客からはすんでのところで救われた気持ちになる。そして、子どもの寝顔と共にこの世の寄る辺なさを示して映画は終わる。何が正しいのか正しくないのかを余韻に残して。
このように、チェイサーの人物造形は極めて優れている。これが、私がこの映画に惹かれて已まない理由なのだ。
加えると、結末で主人公が罪を犯すか犯さないかは、セブンとの対比も思い浮かぶ。ただ、セブンの主人公は厳密にはサマセット(モーガン・フリーマン)だ。この点含め、考察してみると面白いだろう。いつかしてみたい。
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ブラックスワン
ネタバレ含む。ブラックスワンは面白くなかった。話に乗れなかった。けれど、面白いと言っている人が多数いるので、もう感性の違いなのだろうと思う。私にはこのタイプの映画を楽しむ感性がないのだろう。せのちんさんはイヴの総てを想起したと言っていたが、私はミヒャエル・ハネケのピアニストを思い浮かべながら見ていた。そして私はミヒャエル・ハネケもあまり好きではない。ちなみに、レスラーは好きだった。
私は乗れないのだけど、みんなは楽しんでいるようだなあと思う部分があって、それは、最終部での幻覚。どうも私は、若い頃にミステリ小説を読んでいた影響だろうが、語りのフェアネス性が気になる質なのだ。つまり、ストーリーテラーは受け手に嘘をついてはいけないというやつだ。見えているものが幻覚かもしれないことを、みんなはそれこそをこの映画の興趣として楽しんで見れるようなのだが、私はそういう風に見れなかった。
私には、この映画は、それが幻覚であるかもしれないと、いってみれば一人称映像なのだと、映画の始め、あるいはせめて中盤から誘うようにはできていないと感じる。最後に至って肝心の部分に幻覚落ちを当てはめてしまった興ざめの映画に感じた。肝心なことを幻覚にしてしまっていいなら、もう何でもありやないか!そんなストーリーの筋に真面目に付き合ってきた私の時間を返せ!と思ってしまう。確かに中盤から幻覚描写はいくつか挟まれてはいる。だが、核心に迫ること、主人公が殺人を犯すかどうか、犯したかどうかに、妄想を持ち込むか持ち込まないかは、別のレベルの話だ。殺人を犯す人間は多かれ少なかれ心神喪失状態にあるのだ。狂っているから殺人を犯すのだ。狂っているから殺人を犯すのだという、その狂っている描写の延長に、殺人を犯した部分までもが、狂っている人の妄想だったという落ちは、だったら結局この話の筋を追ってきた意義は何だったのか、という気分にならないだろうか。少なくとも私はなる。
まして、幻覚であるとしても、自分の中の白鳥を殺すのか黒鳥を殺すのかで意味合いは百八十度異なる筈なのに、どうしてそのことに違和感を唱える人がいないのだろう。自分の中の白鳥を殺して黒鳥が目覚めるのなら意味はすんなりと分かる。しかし、自分の内にある黒鳥の幻影を殺して白鳥である自分が黒鳥に成り代わるというのは、少し捩れているというか都合のいい解釈だ。主人公の心理からストーリーを紡いだというよりは、トリッキーな話を先に思いついて後から解釈を当てたように見える。と、そんなところが私がこの映画に感じた不満なのだけれど、私と同じことを考えている人がどこかにいたらいいなあと思って、ここに記している。
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再び憲法二十五条 blog転載済
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
社会が考えなければならないことは、抽象的に突きつめれば2点で、人が保持できる最大利権はどれほどのものか、と、人に保証される最低人権はどれほどのものか、である。もっと端的にいえば、強者の上限と弱者の下限の定義だ。このうち、後者を表した憲法が二十五条である。
健康で文化的な最低限度の生活とはどのようなものなのか。私は、この世に生まれてこなければ好かったと思う人が一人もいないことだと思う。もちろん、それも、ただ我が儘で、甘ったれた考えで「この世に生まれてこなければよかった」と言って、社会への軽蔑を募らせ、社会へ復讐する人がいるかもしれない。例えば、加藤智宏はどうなのか。その判断基準は難しい。そんな主観的なことを国民の合議体が明確に決められるとは思えない。それでも、それを考え続けるのが社会学者、批評家、小説家、哲学者だと思う。本来は、かような人間たちが立法府の人となるべきなのだが、なかなか現実的には難しく、実際に立候補し、当選し、政治家となる人々のメンタリティと、かような人たちのメンタリティは懸け離れている。非常に嘆かわしいことであるが、まあ、これはまた別のときに考えよう。
この世に生まれてこなければ良かった、と思わせる要因を抽象的に突き詰めると、疎外感だと私は思う。例えば貧困をとっても、貧困そのものは要因ではなく、日々目にする人たちと惨めな自分との落差からくる疎外感が、貧者を苦しめるのだ。
「善意とはルサンチマンの価値転倒にすぎない」ことと、「人間のうち善意ベースで他人を捉える人は極めて少なく、その殆どは損得ベースで他人を捉える」ことを社会は厳然たる事実として認めた上で、「生まれてこなければ良かったと思うほど疎外感を募らせる者を一人も出さないこと」これを目指すべきだ。生まれてこなければ良かったと思う人が一人でもいるならば、それは社会の欠陥である。もしもこれに否を唱える人がいるならば、憲法二十五条など破棄してしまえばいいし、封建時代、あるいは戦国時代に社会制度や社会規範を戻してしまえばいい。世を混沌に返せばいい。ホッブスやルソーのいう原初の状態へ、人類を返せばいい。近代社会など目指さなければいい。
私がここで言う「生まれてこなければ好かったと思うほど疎外感を募らせる人間を一人も作らない」は、宮台真司の云う、包摂された社会を作ることと同じかもしれない。私は、自分自身ではコミュニタリアンというよりはリバタリアンだと思っている。
しかし、包摂された社会を作ることとコミュニタリアニズムが似たものであるのならば、この一点においてはコミュニタリアンであるのかもしれない。
私は永井均「倫理とは何か」で説明される程度にしか、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムを理解していない。だから、特にコミュニタリアニズムが何なのかは正確には分かっていない。それでも自分の意見を以下に書く。もしも、間違っているようならtwitterに連絡をくれると嬉しい。
私がコミュニタリアニズムよりもリバタリアニズムを信奉したい理由は、リバタリアニズムはコミュニタリアニズムを包含していると思うからだ。社会の最も基盤の部分をリバタリアニズムにしておけば、コミュニタリアンとして生きたい人はそうすればいいし、そうしたくない人はしなければいい。つまり選択の自由がある。社会システムの最低部をコミュニタリアニズムにしてしまったら、リバタリアンとして生きたい人は、それができない。
ただ、先に私は「生まれてこなければ好かったと思うほど疎外感を募らせる人間を一人も作らない」を社会は目指すべきと書いた。疎外感を排除することは、包摂された社会を作ることと同じかもしれない。
おそらく、疎外感を募らせる要因はコミュニティにある。これが、私がコミュニタリアニズムを本能的に懐疑する理由だ。コミュニティに属しているから疎外感が膨らむのだ。しかし、ここで私にとって難しい問題が出現する。疎外感を癒やすのもまた、コミュニティでしか有り得ない、ということだ。コミュニティというよりは他者といった方が解り良いかもしれない。「包摂された社会」とは狡い言い方で、それは善なる関係性に包まれているイメージを暗黙的に刷り込んでいる。
包摂された社会をシステムの方から作ることが出来るのかに、私は懐疑的だ。包摂された社会などと言葉では簡単に言えるが、その実態としては、一人一人の人間が、目の前にいる一人一人の他者を包摂しようと意志し行動しなければ、そんなものは出来ない。つまり、社会システムからではなく、一人一人の個人からしかそれは作られない。しかし、そのような善なる行為を人間の一人一人に期待できるだろうか。どのように民衆を啓蒙したところで無理だと私は思う。もう一度書くが、「人間のうち善意ベースで他人を捉える人は極めて少なく、その殆どは損得ベースで他人を捉える」ことを社会は厳然たる事実として認めなければいけない。その上で、どのようにして包摂された社会を作るのか、を考える。それが重要な議題ではなかろうか。単に地域の共同体を復権させるとか、そういったことだけではないような気がしてならない。コミュニタリアニズムと昔の共同体主義は異なるという言論もよく聞く。いずれはサンデルの著作なども読んでみたいのではあるが、ともかく今はその違いを私はよく知らない。そこで出てくるのが矢張り、ベーシックインカムである。人間関係による包摂などなくとも現金があれば人はこの世に包摂されるし、かつ疎外感を膨らませることもない。これが、弱者の最下限としてベーシックインカムの導入を再び考えるようになった理由だ。
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中島岳志 フライデースピーカーズ2011/7/1放送
 「困っている人」(ポプラ社)の著者大野更紗との対話。これの50分くらいのところで、善意は制度に組み込まれた方が好い、なぜなら、周囲の人との直接的な善意にばかりに頼っていると、みんなにありがとう、ありがとうと言い続けなければいけなくなって、苦しいからだ、と云っている。
 これを聴いたとき面白いと思った。面白いというか、引っ掛かった。私はまったく逆のことを考えていたからだ。
 永井均「倫理とは何か」を読んでからというもの、倫理や道徳、善意などについていろいろなことを考えるが、その中の一つにこんなこともあった。善意がすべて制度に組み込まれてしまって、善意と感謝の直接的な関わりがすっかりなくなった世の中に暮らしていても、まったくもって虚しい限りなのではないか、善意は制度外でこそ為されるべきではないか、というもの。
 まあ、ここで中島岳志がいう文脈は、小さなくなり過ぎた政府をもう少し大きい側に戻そうというもので、それは私も理解できる。何事も極端なのはダメなのであって、中庸が大切なのだと思う。中庸をお勧めするアリストテレスはすごいなぁ、とこんなところでも思う。
 困っているひとはネット上でも読めます。
 それに続いて、1時間11分くらいから、仁平典宏「「ボランティア」の誕生と終焉」(名古屋大学出版会)を取り上げて、ボランティアの話もある。こちらも興味深い。これもまた、私の考えとは逆であったからだ。善意には、制度に組み込まれた善意と、制度に組み込まれていない善意がある。後者はつまりボランティアのこと。上にも書いたように、私は制度に組み込まれた善意よりも、制度に組み込まれていない善意が世に溢れていた方が、それを受ける側か与える側かに関係なく、人はより充実感を得ながら生きていかれるように思うからだ。だから、私は、善意とは基本的に持てる者がその余裕の範囲でするものなのだと思う。善意を制度によって義務化することはないとすら思う。これは、いやいやだったらやんなくていいよ、という心理に基づいている。要するに、私はボランティア推奨派なのである。
 中島岳志も仁平典宏も、なにもボランティアそのものを否定してはいないだろうが、ボランティアには、それを行う者のメンタリティ、内面の未成熟によっては、ある問題を引き起こす。その問題について書かれた本であるらしい。
 これを聴いたときに私が思い浮かべたのは、永井均「子どものための哲学対話」講談社文庫、第一章の8、こまっている人を助けてはいけない? だ。
 この文章は見開き2ページの短いものだけれども、引用するのはもったいないのでここに書き写さない。ぜひとも自分で本屋に行って読んでもらえたらと思う。まあ、ググればどこかに書いてあるかもしれないけどね。
 しかし、ここで永井均が云うようなメンタリティを理解できる人は、人間が百人いたとして、一人いるかいないかだと思う。哀しいことだけれどもそれが現実だと思う。人間なんてそんなものだと私は思う。知識層がどれほど啓蒙しようとも、人々の意識は未来永劫に変わらないであろう。
 社会学者である中島岳志は、そんなことは分かった上で、では制度をどうすればいいのかを考えているのだろうか。社会は、さまざまな矛盾を孕みながらも、そこそこ概ね問題なく、どうにかこうにか回していければ好いのだと思う。本当は偽善で自己満足にすぎない行為であっても、する方もされる方も、それを偽善と感じずにいられる社会制度が発明できたら、どんなに素晴らしいことだろう。社会契約のように、それが結ばれたら、結ばれた前の世界にはもう戻れず、結ばれる前の世界ではどんな意識下で私たちが暮らしていたのかを想像することすらできないようにする制度。そんな制度を発明するかとが可能だろうか。
 こちらに中島岳志の書評があります。
 ラジオではその後で、開沼博「「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか」(青土社)も紹介しています。
 震災は、倫理や道徳など、私が普段から考えていた問題を、分かり易い形で現出させるとつくづく思う。
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フレデリック・ワイズマン
 フレデリック・ワイズマンが蓮實重彦氏と共に行った講演上で、こんなことを云ったらしい。「私は確かにマルクス主義者だ。もちろんそれはグルーチョの方だが」と。このセンス好きだなあ。
 まあそれはいいとして、フレデリック・ワイズマンという名をこのところよく耳にするのは想田和弘監督の発言に依るところが大きい。
 とは云うものの実は私はまだ一本も見ていない。そのうちどこかで特集上映もあろうし、これだけ話題になっていれば渋谷のTSUTAYAにもそのうちに入荷されるであろうから、時間のあるときに見てみたいとは思っている。
 それで、ワイズマンのことは想田監督がラジオやニコ生に出演したときの話で朧気に知るだけだが、そのポイントは、おそらく想田監督と近いと思うので、想田監督の言葉を借りて云うと観察だ。観察と記録は違うのだろうか。想田監督の中ではこのニュアンスの違いはあるのかもしれないが、まあここでは置いておく。私がポイントにしたいのは、啓蒙ではない、ということだ。確かに想田監督が登場するまでは、ドキュメンタリーは啓蒙を目的としているものと、意識することなく頭から思い込んでいた。啓蒙しないドキュメンタリー、結末でメッセージを発していないドキュメンタリーを見たことがなかったからだ。寧ろ作者の意見が分かり易く伝わってくる作品を、優れた作品だとする尺度に当然のものとして慣らされていた。しかし、想田監督はそれを真っ向から否定した。頗る面白い数編の作品によって。
 これと同じ論法で、記録小説、というものを考えた。私がここでポイントとしているのは啓蒙しない、ということである。私は小説には道徳や善悪、倫理を書くものだと思っていた。主人公の行動や成長を通して。それは云い替えるなら啓蒙である。主人公を通して読者に、あなた方もこの主人公のように立派な行動をしてくださいね、と啓蒙しているのだ。しかし、そんなもの要らないんじゃないかと想田監督からインスピレーションを受ける。そうして改めて考えてみると、ブコウスキーの小説は記録小説なのではないかと思う。「ポストオフィス」「勝手に生きろ!」「詩人と女たち」これらの作品はブコウスキーの人生の記録だ。別に結末に感動や主人公の成長があるわけでもない。ただ、人間世界の碌でもなさを描き続けているだけである。
 dig倉本聰回。 http://podcast.tbsradio.jp/dig/files/dig20110826.mp3
 神回だった。ここでハッとする発言があった。獨白にも書いてあるらしいのだが、キャラクターは駄目なところから考えると倉本聰は云う。私は人間の碌でもなさが描かれている作品、ブコウスキーのような作品が好きだといいながら、倉本氏が云うような、登場人物の全てに於いて駄目なところから考える、ということはあまり意識できていなかったように思う。
編集(管理者のみ)

面白さについて
 面白さには三段階ある。通俗レベルの面白さ。文学レベルの面白さ。哲学レベルの面白さ。
 通俗レベルの面白さとは、親切な者は報われる、というような話。
 文学レベルの面白さとは、何の希望もないように思えるこの世にも、一筋の希望はあるかのように語る話。
 哲学レベルの面白さとは、この世には何の希望もない。無意味である。という話。
 作品名を挙げるなら。
 通俗レベルの作品。「第九地区」。「永遠の仔」「虞美人草」。「シュタインズゲート」。
 文学レベルの作品。「オアシス」「シークレットサンシャイン」「人生万歳」。「蛇にピアス」「赤目四十八瀧心中未遂」「越前竹人形」。
 哲学レベルの作品。「ノーカントリー」「ペパーミントキャンディ」「カイロの紫の薔薇」。「行人」「毒もみの好きな署長さん」。「死をポケットに入れて」。
 といったところか。ある優れた作品は必ずこの三つのどれかに分類されるというものでもなく、どれに分類するか迷うものもあるのだが、物語作品は大きく分ければこのような三つの種類に分けられると私は感じている。
 「永遠の仔」などは文学レベルの面白さに近いのではないかと私自身も迷うが、別に明確な境界があるわけではないので、そこまで厳密にこだわることはない。あくまで、ここで説明するための目安である。「永遠の仔」は直木賞候補作だからというのも通俗的な部類に入れた根拠でもあるが、ならば、直木賞を受賞してしまっている「赤目四十八瀧心中未遂」が文学レベルの面白さなのはどう説明するのだと、私の中でも境界は実に曖昧なのだ。
 私は別に通俗レベルの面白さは低俗だと言っているわけではない。それも大好きである。佳くできた作品であれば、大いに感動する。
 哲学レベルの話は、身も蓋もない話と言い替えてもよい。だから、普通の意味での感動的なストーリー展開や結末はない。だからここでは少し置いておくとして、通俗レベルと文学レベルの面白さの中で、私が面白いと思う話には、ある形がある。
 それは、本当の孤独を知っている者どうしの絆、が描かれていることだ。
 「第九地区」「永遠の仔」「シュタインズゲート」「オアシス」「赤目四十八瀧心中未遂」には、本当の孤独を知っている者どうしの絆、が描かれていると思う。
 そうでないのに私が好きな作品もある。「虞美人草」「シークレットサンシャイン」「人生万歳」「蛇にピアス」「越前竹人形」には、本当の孤独を知っている者どうしの絆が描かれているようには思えない。であるにもかかわらず、どうして私はこれらの作品を好きなのか。これらは、主要な登場人物二人のうち、一方だけは本当の孤独を知っている。他方は、本当の孤独を知っているかどうか、危うい。あるいは、二人とも孤独を知ってはいるのだが、その孤独の種類が異なるため、ふたりの間に結ばれる絆がとても儚いものである、といった作品群だ。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」もこうしたものが意図せずに描かれている。ジョバンニは本当の孤独が何かを確実に知っている。カムパネルラはどんなメンタリティを持っているのか、よく分からない。本当の孤独が何か知っているのか知っていないのかもよく分からないが、やはり、本当の孤独が何かを知っていなければ、結末で明らかとなるあのような犠牲的行為は取れないだろうと私は思う。
 以上に述べたことは、今の私の取っての面白さであるが、すこし観点を変て、一般的な面白味についても考察してみる。
 一般的には、受け手にとって半歩、あるいは一歩先を行っていると思えることが、面白味なのである。
 だから、今の私はもうミステリーを面白いと思わなくなってしまっているが、ミステリーを面白いと思う人がいたってまったく構わない。私もミステリーを楽しく読んだ時期はある。そうした趣向が、自分の半歩先を行っていると思える人にとっては充分な娯楽なのであるから。大いに楽しめばいいのである。
 それから、また私の好みの話に戻るが、私は絶望をユーモアで乗り切ろうとするメンタリティが好きだ。ウディ・アレン。ブコウスキー。絶望の度合いは薄いけれども、ユーモアのセンスだけを取ってみれば、ウェス・アンダーソン、イ・チャンドン、ジャック・タチ、チャップリン、なども好きだ。ユーモアと絶望と、作品では分けて書いているものの、一人の作家としてそれを併せ持つ夏目漱石も好きだ。遠藤周作も似ているかもしれない。作家ではないが、永井均にもそうしたユーモアは見られる。とりわけ、猫が登場する著作に見て取れる。
編集(管理者のみ)

お金で買えないものが社会にあることの方がおかしい
 という考え方は私には分かる。お金で買えないものはある。友情とか。しかし、それは社会の外の話ではなかろうか。少なくとも大人社会の外。公の社会の外だ。
 大人に友情はないと云いたいのではない。大人にも友情はある。少ないのは事実だが。
 社会という言葉の意味にもいろいろな範囲があるけれど、ここでいう社会とは、みんなが批判したり議論したりする対象の社会だ。
 別に、すべてのものを社会に持ち込まなければいけないと云っているわけでもない。お金で買えないものがこの世に存在することの方がおかしい、と云っているわけではない。友情をお金で買えないのはおかしい、と云っているわけではない。
 だから、言い方を変えると、お金で買えないものが社会に入ってきていることの方がおかしい、とか、お金で買えないものの話が国会の議題に挙がっていることの方がおかしい、とかだ。
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最終更新:2012年01月17日 20:43
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