せのちんさんのポッドキャスト 前略おふくろ様 blog転載済
この一年というもの、なんのかんのと普通の人から見れば相当に面倒臭いことを考えてきたわけだが、私の当面の課題であり、さらには人生の目的と成り得るかもしれないものは、「あらゆる他人に寛容でありたい」ということのように思う。
で、それとせのちんさんのポッドキャストがどう関係あるかというと、このポッドキャストでせのちんさんは倉本聰の作風が、氏が富良野に移ってからとそれ以前では変わったと云う。「前略おふくろ様」は富良野に移る以前で「北の国から」は以後である。せのちんさんは「北の国から」はあまり好きでないと云う。倉本聰は富良野に移ってから、説教するようになったと云う。登場人物へも、見ている者へも。
例えば、「北の国から」の有名なシーン、「子供がまだ喰っているでしょうが!」というシーン。この場面は私も佳い場面だと思っていた。
しかし、せのちんさんは好きじゃないと云う。以前の倉本聰なら、「あ、持っていかれちゃった、早く食べれば良かったなぁ……」、というだけのシーンにしていたろう、なにも店員に怒鳴ったりしない、と云う。
確かに云われてみると、ここで店員に怒鳴ったりする必要などない。私も、このシーンは佳いシーンだと思っていたが、このシーンの佳さは厳密には、純が自分の弱さを告白することにある。それにつられて吾朗も弱さを告白する。そこが見る者の涙を誘う。店員に怒鳴ることは関係ない。
せのちんさんがこのポッドキャストで話したかったこととは少しずれるかもしれないのだが、これを聴いて私が思ったことは、私は「あらゆる他人に寛容になりたい」と思っていて、それは、もう少し詳しく云うと、他人が自分の考えとは違う行いをしたり、自分の考えからは程遠く、到底理解しがたく、度し難いほど愚かな行動をとっていても、また自分がそれに巻き込まれてしまっても、他人を自分の考えにそぐうよう強制したり、叱ったり、説教したり、世間を啓蒙したりしない、ということである。
他人と自分の考えが違っていても、せいぜいが自分の意見を表明するに留めて、他人の考えが自分と異なるからといって、その人たちに自分の考えを押し付けたりしないこと、許容すること。憤ったりしないこと。適当に受け流すこと。言わば適当力を身に着けたいのだ。高田純次万歳。
私は夏目漱石の「行人」に出てくるお兄さんの気持ちがよく分かる。「行人」のお兄さんは世間と断絶している。ものの考え方にあまりにも隔たりがあるためだ。しかし、どういう風にどこから検討してみても、自分の方が正しいと思っている。実際正しい。正しいのに、世間からは変人扱いしかされず、気むずかしい人とみなされている。私もそう思われがちだ。これを乗り切るには、世間に対する鷹揚さを身に着ける他ない。だから「他人のすべてに対して寛容でありたい」と願うのだ。
これは、説教するようになった倉本聰の作風よりも、説教しない作風の方が好きだと云う、せのちんさんの感性に似ていると思った。せのちんさんの発言は何となく好きだなあと思ってツイッターもフォローしている私だが、何故せのちんさんを好きなのかというと、そんなところにあるのかもしれない。ちなみに私がフォローしている人は今現在2011年8月6日(土)で七人しかおらず、有名人とあらば誰でも彼でもフォローしているわけではない。だから、せのちんさんは私の中ではかなり好きな部類の人なのである。
私は「北の国から」は見ているが、「前略おふくろ様」は見たことがない。この機会に見てみたいと思う。
関連で付け加えると、先日、辺見庸の「しのびよる破局」を読んだ。怜悧な思考は相変わらずだったけれど、ひた続く世間への嘆き節に、私は以前ほど辺見庸の言葉に乗れなかった。好きだった「自分自身への審問」などと言葉の質は変わらない。私の方が変わってしまったのだ。
世間をどうこうしようとは思わず、ただ、世間の人たちには愚かな人たちがかなり多い、善意ベースで考える人より利害ベースで考える人の方が圧倒的に多い、おそらく善意ベースでものを考える人は、人が百人いれば一人いるかいないかだ、という厳然たる事実をそのまま受けとめ、その上で、社会はどこを目指すべきで、社会システムはどうあるべきなのかを考える永井均「倫理とは何か」のような思考の方が、今の私には素直に理解できる。利害ベースでものを考える人間を、善意ベースでものを考える人間に変えることはできない。いかに啓蒙しようとも。
たとえ九十九人は利害ベース、損得ベースでもの(他人)を考えているとしても、私は善意ベースで生きていきたい、善意ベースで生きなければ、この世は生きる甲斐がないと思えるからだ。そういう人間は、百人に一人か千人に一人しかおらず、なかなか仲間を見つけられず、いつも割を食うばかりで、それはルサンチマンの価値転倒にすぎないと揶揄されもするが、今の私は善意ベースで生きていきたいと思える。「あらゆる他人に寛容でありたい」とは、私にとってその決意でもある。
私は善なる愚者になりたい。誰にどう思われようともそうしていきたい。これは好みの問題だ。私はそうするのが性に合っているからそうしたい、というだけの話だ。なるほど、善意とは単にルサンチマンの価値転倒だと思える。しかし、人の中に善意の萌芽が全くないわけでもあるまい。いくらキリストといえども無に善を植え付けるのは不可能だろう。できるのは他者の小さな善の萌芽に訴えることだけだ。萌芽すらなかったら、価値転倒はできない。いくら他者に善を訴えてもまるで意味をなさぬ言葉を発しているようにしか聞こえず、歯牙にも掛けられない筈だ。だから私は善なる愚者になろう。
そしてこれは、宮沢賢治が「そういうものにわたしはなりたい」と云った気持ちと、或いは同じものではないかと想像する。はたまた、マルティン・ルターが云ったとされる言葉「明日世界が滅びようとも私は今日林檎の木を植える」と同じ意義でありたい。負けると分かっている戦いに挑み続ける人。ドン・キホーテ。
数年前、確かに私には、人類の全てを軽蔑している時期があった。今では、人類は軽蔑するにも値しない種族だと思い至る。それでも折に触れて、他人とは関わらなければならない。人は一人では生きていけないのだ。私は彼等にただ寛容でありたいと思う。そう。私は人に善意を施すとき、見返りを期待していたのだ。今は、何を期待することもなく善意を施したい。
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乙武&橋本 教育論争
http://togetter.com/li/147955 blog転載済
ここで乙武氏と橋本氏が語り合っていることは私がこの一年間考えてきたことと本質的に同じだ。両氏は教育に絡めた話題で語っているが、これをもっと抽象的に本質的に突き詰めていくと、他者とは何か、倫理とは何かという問いに往き着くと私は考えている。
私は、実はと云うべきか、乙武氏をあまり好きではない。何故かというと、あまりに朗らかで暗黒面を容易に見せないからだ。私は五体不満足を読んだぐらいで他の著作を読んでいない。だから近年の乙武氏の発言はツイッターで見るぐらいだ。ツイッターの発言も私には朗らかすぎてあまり気持ちのよいものではなかった。
芥川竜之介の「侏儒の言葉」に、こんな警句がある。「強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるのものは常に強弱の中間者である」誤解を恐れずにいうならば矢張り、乙武氏は本来的な意味では紛うことなき圧倒的な弱者だ。よって道徳の愛撫を受けられる。そしてまた、乙武氏と対面する者は、そこにカメラなど第三者の眼が向けられているならさらに、乙武氏に対してどのような振る舞いを見せるか常に試される。乙武氏は特別扱いせざるを得ない人間である。今、世間で一番割を食い、苦汁を嘗めているのは、現状の世間のルールでは特別扱いされない人間の内で最底辺の者である。乙武氏はそれではない。
だから、乙武氏は社会問題を語るな、とまでは言わない。そこには矢張り本来的には再弱者である乙武氏にしか知り得ない視点もあろう。乙武氏が実のところどんなメンタリティを持つ人なのか、それは実際に面と向かい合って話してみない限り分からない。あの朗らかさは天性のものなのか、あるいは仮面なのか。私のような一介の市井の民が乙武氏と直接会って話す機会など無かろうから、それは永久に分からないと思う。
しかし、そんな私が珍しく乙武氏の発言に感銘を受けた。この論争では私は乙武氏のいうことに理があると思う。乙武氏は私がここ一年間考えてきたことと同じ結論を述べている。
当然といえば当然かもしれぬが、乙武氏の方が自己批判精神があり、考えが深い。人を視る幅が広い。
橋本氏の語り口は、弱者のことは弱者にしか考え得ぬことを露呈しているようにも見える。
弱者に寄り添う視点とは、慰めである。慰めには本来的な益は何もない。気が紛れるだけである。それは実益のみを益とみなす人間にはただの時間の無駄である。その意味で橋本氏の主張は正しい。しかし、それでも私は、馬鹿といわれようと愚鈍といわれようと、ただ、そうしたいという理由だけで、弱者に寄り添う視点を持っていたい。そうしなければ生きていることに何の甲斐もないと思えるからだ。ここが乙武氏に共感し感銘を受けた部分だ。乙武氏も、「…僕にはできなかった。そんな息苦しい社会を「是」と思えない自分がいたから…」と述べている。つまり、論理的根拠は何もないけれど、ただ「自分にはそう思える」ということだけが唯一の根拠なのだ。
そう、これは単に好みの問題なのである。だから、これを法的な社会制度の中にまで持ち込んでよいのかは分からない。それは市民の合議体が決めることだと思う。もしも市民の合議体が、弱者は死ね、というなら死ぬしかないのだ。橋本氏側の主張陣営もまた「私にはそう思える」という根拠でもって反駁するだけで、論理的に破れることはないのだ。そして、弱者とは常にマイノリティである。マイノリティだから弱者なのだ。数的に物事が決定されるなら弱者は常に負ける。負けると分かっている戦いに挑み続ける人たちが弱者なのである。
といって、私もまた乙武氏と同じように、橋本氏の意見にも一定の正当性はあると考えている。少なくとも頭ごなしに否定されるようなものではない。これは、自分を社会に合わせるか、社会を自分に合わせるか、の問題だ。私の意見としてもこれは程度問題だ。
しかし、どの程度の気質の人間ならそれぞれどの程度にそちらの主張に沿うべきなのか、乙武氏も橋本氏も、各自の主張のその論拠を、言葉の限りを尽くしてもっと詳細に論理的に説明して欲しいと心から思う。
しかし、知事などという超多忙な職に従事する橋本氏にそんな時間がある筈がないとも思う。ある一定程度以上に一般社会の中でマイノリティ的な疎外感を感じずにいられるメンタリティを持つ者なら、橋本氏の主張する教育は有効である。また、社会に対する理想論を掲げたところで、それを我々が生きている間に実現するのは事実上不可能であろう。であるならば、今目の前にいる子供たちには今の社会で得をする教育を施すのが最善であることにも理はある。
しかし、橋本氏のいうやり方から零れ落ちる者は必ず存在する。それはスパルタ式のマッチョイズムで矯正できるようなものでは決してない。橋本氏はそうして生きていけるのは一握りの天才だけだという。乙武氏は本来的には弱者だけど天才だから生き残る。逆にいえば、天才でないマイノリティは日々刻々と死んでいるのだ。それが年間三万人超の自殺者だと私は考えている。
私たちはどのような社会に住みたいかを自分たちで設計してよいのだ。それはテクノロジーの進歩によっても変革する。テクノロジーが進化すればそれに合わせた社会をまた設計し直す必要がある。そのために人文学的領域は存在するのだ。にもかかわらず、橋本氏にはそうした視点がない。現在の社会を完成されたもののように語っている。議会の一員である者がこうしたメンタリティしか持ち合わせていないのは、とても残念なことである。しかしまあ、理想論を語るよりも目の前の現実問題を次々と片付ける実際家でなければ知事なんて務まらないから仕方がないとも思う。取り敢えず今の私は大阪市民ではないのでどうでもいいといえばどうでもいいけど、将来的に違うところの議員になる可能性もなきにしもあらずなので少しばかり注視しておきたい。
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再び
ベーシックインカム
東浩紀などは3.11によってベーシックインカムなどという生っちょろい議論は吹っ飛んでしまったかのように言っているが、ここにきて私は、ベーシックインカムの実現は国の義務だと再び考えるようになった。それは、ホッブスやルソーの唱えた社会契約説が、現在の先進国においては疑いを挟む余地もなく社会に組み込まれているのと同じように、遙かの未来においては当然の社会システムとなるだろう。仕事がない人がいることは、どう考えてみても本人の責任であるとは思えない。人間の需要など、産業革命以降高度に発達したその供給力よりもずっと下回るものだと思う。人間なんて本質的にそれほど需要を持たない生き物なのだ。つましくとも、家があり、食べるものがあり、着るものがあり、家族があり、たまの休日には益体もないお喋りをぺちゃくちゃと交わせる友人がいればそれで満足という人は多いのではなかろうか。だいたい、最低賃金は法律で保証されているにもかかわらず、仕事の存在そのものは法律で保証されておらず、仕事に就けないのは本人の自己責任とされているのは概念的にも原理的にもおかしい。矛盾している。働く意思はあるけど、その人の能力に見合った働き口がないことが、その人が能力を磨く努力を怠った自己責任の結果であるかのように言われるのは、どう考えてもおかしい。
私が考えるには、引き籠もりやニートの人たちは、働く意思が全く無いわけではないと思う。これは屁理屈だと言われてしまうかもしれないが、私の意見を述べると、彼らは自分にもできる仕事があるならしたいと思っている。ただ、それほどまでに職能として低水準の仕事は現実的には存在しないだけだ。世には最低賃金というものがあって、それを下回るような職能価値の仕事は存在しないのだ。また、仮にあったとしても、それで自活することは不可能だ。
ちなみに、
こちらに引き籠もりについてダイアモンドの良記事群があり、とても参考になるので興味のある方は読んでみて下さい。
ベーシックインカムと分かり易さのために表題には書いたが、負の所得税でもいいし、現物支給でもよいと私は思っている。最低限の衣食住を満たす品物だけを買えるチケット発行でもよい。ワークシェアリングでもよい。ともかく、国民の誰しもが衣食住は無償で確保されること。これの実現。そこで、財源の問題を考えてみたいのだが、それは次回として、とりあえずこのエントリーはここまでとする。
ただ、ひとつ提案というか思いつきがあって、公共事業で仕事を確保するようなやり方は古いと思うからベーシックインカムを考えるわけだが、私の考えでは、ベーシックインカムへの橋渡しとして公共事業を利用するのもありではないかと思う。それは、ベーシックインカムを実現するのに必要な施設の建築やシステムの作成などを、今後数十年掛けて、公共事業で行うという考え方だ。私もこれ以上のことをあれこれ詳しく考えているわけではないのだが、悪くないアイデアと思える。もしもこれを読んだ偉い人が、この提案の続きというか具体性を真面目に考えて模索してくれたらよいなぁ、と思ってここに記しておく。
勤労は国民の義務とされているが、勤労は義務ではない。戦後の混乱期、需要の方が圧倒的に上回っていた時代には成立したのだろうが、今は無理だ。勤労を国民の義務とするなら、まず全員分の仕事を用意するのが国の義務である。
そもそも、どうして今の現実の社会はほぼ全ての人に仕事があって、お金を交換しながらどうにかやっていけているのかが分からない。全ての人に仕事がある状態の方が不思議だと思うのだが、その辺りどうなっているのか。
どう考えてみても人手は余っている状態だ。人間の総需要量に対して、それを実現する人手は全人口のうちの何割かで賄えてしまう気がする。
考えてみたのだが、仕事のない人は餓死しているのかもしれない。日本なら自殺とか。
余剰人員が餓死あるいは自殺することによって失業率が5%ぐらいの一定値以下に保たれているのだとしたら酷い話だ。それは失業率が5%を超えるよりも酷い状況である。しかし、みんな馬鹿だから、否、面倒臭い議論は嫌いだから、気付かぬふりをしている。
現代文明を持ってすれば、世界の全ての人を生きさせるだけの食料を育てることぐらい、それを至上の目的として真剣に取り組めば、造作もないことだ。一年か二年でできるだろう。どうしてこのようなことになっているのか。強者がガメているからに過ぎない。それが間接的なものとして社会機構の中では見えにくくなっており、間接的な関連では実質社会においては責任を問われないことになっており、人々もそれを是認しておるのだ。人々は実に馬鹿だ。人々は馬鹿でなく、分かっているのだけど意図的に放置している、つまり弱者には自ら直接手を下すことなく、かつ誰も責任を追及されることなく死んでいってもらいたい、と思ってこのような社会機構が構築されているのなら人間とはなんと薄情で利己的な生き物なのであろうか。
人間の集団があればそこには必ず順列が付けられ、弱者と強者と普通の者が生まれる。弱者を救済するのなら、救済するのは強者か普通の者のどちらかである。弱者が弱者を救済できるはずがない。強者と普通の人が、弱者を救済するためのお金をそれぞれどの程度受け持つのか、その配分でそれぞれ渋っているのである。
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人間の絆 blog転載済
ネタバレを含みます。
読むべく時期にちょうどその本を手に取ることは不思議とよくある。今の私は三十五歳でモームがこの小説を書き始めた時期と一歳しか変わらない。この本にいたく感銘を受けたのは、こうした年齢の近似も大きかろうと思う。人生とはどのようなものであるのか半分ぐらいがようやく分かったところ。青春の終幕でもある。
加えて、フィリップの体験を通して語られる、善悪や倫理の話なども、私はここ一年で深く考えたことだった。こと、この随想にはよく登場する永井均「倫理とは何か」を通して私は考え尽くした。考え尽くした結果、これもこの随想の他のエントリーに書いていることであるが、私はあらゆる他人に寛容になりたい、という心境に思い至る。この思索の経験もまた、フィリップの思想と似通っており、「人間の絆」を味わうのに一役買っている。フィリップは物語りの後半で語る。人生のよい面だけを見よ。その悪い面はただ寛容の眼差しで眺めよ、と。
また私は若いときから自分で「無意味の壁」と呼ぶ感覚を持っている。この感覚は森茉莉の「
甘い蜜の部屋」の冒頭、モイラの心はガラスに覆われていて、世界のどんな物事もそのガラスを通過するときに意味を失ってしまう、というように描写されている感覚とおそらくは同じものだ。ともかく私はそういう感覚を持っていて、フィリップも何かといえば無意味、無意味と人生について繰り返して言及する。人生には何の意味もない。人生は無意味である。これを言い切る小説は、あるようでいて殊の外少ない。すぐと思い付くのは、現代の作品になるが車谷長吉の「
赤目四十八瀧心中未遂」ぐらいか。
まったくもって面白かった。文字通り、始めから終わりまでフィリップは自分なのではないかと、過剰とも思える感情移入の中で読んだ。
フィリップはどうも私に似ている。最終盤でドクトル・サウスとやりとりする場面。どんな困苦の中でもどこか楽観的であること。並の人間なら困窮で息もできぬときに、笑ってやりすごそうとするところ。人間嫌いの性根が深く植え付けられてしまっているのに、どこか達観した視線で人間社会を眺めているところ。フィリップは寛容の眼差しでもって人間嫌いを克服していくが、私もいつかフィリップのようになれればと心から願う。
モームの存在は勿論のこと知っていたし、私の好きな金原ひとみなどもモーム好きを表明していた気がするので、どんな小説なのだろう、いつかは読んでみようと思いながら、もう何年も経っていた。といいながら、確認のため
金原ひとみのモーム好きをネットで検索してみたのだが、それらしき記事は何も出てこないので私の勘違いだったかもしれない。
その一方で、最後の方のフィリップが苦節の末とはいえ三十歳前に医者の資格を立派に取得する場面などは、もっと若い時、それこそ学生時代に読んでおけば良かったとも感じた。学生時代に読んでおれば、私も三十歳ぐらいまでには一端の自分で納得のいく職業に就けたかもしれない。しかし、学生時代の自分は実に脳天気で、もし読んでいたとしても、矢張り今の私がこの作品から受けたのと同じ感銘は感じ取れなかったろうと思う。
おそらくモームはディケンズを大好きなのであろうが、実は私はそれほど好きではない。「デイヴィッド・コパフィールド」も「オリバー・ツイスト」も有名な世界文学だからと思い手を付けたのだけど、それほど楽しんで、のめり込むようにしては読まなかった。「大いなる遺産」はまだしも面白かった。「二都物語」は読んでいない。ディケンズで一番好きなのは、短編だが「クリスマス・カロル」だ。
「デイヴィッド・コパフィールド」と「オリバー・ツイスト」をあまり堪能できなかった経験から、私はこうした少年の一代記ものに苦手意識を持っている。「ヴィルヘルム・マイスター」「ジャン・クリストフ」なども読んでいない。それが「人間の絆」によって打ち破られた。
これも終局、イギリスの美しい田園風景の中で、フィリップがアセルニーの家族たちと共にホップ摘みに汗を流す場面は、「アンナ・カレーニナ」でリョービンがキチイと共に麦の収穫をする場面を彷彿とさせる。あれ、キチイはこの場面にはいないんだったけか、私の中ではいるイメージだが、記憶が定かではない。
ラストには図らずも涙を流してしまった。涙を流した世界文学は「
赤と黒」に次いでふたつ目だ。生涯読書中でも屈指の傑作。それにしても、ジュリヤン・ソレルとフィリップ少年のこの末路の違いは何なんだろうと、作者も時代も違うけれど、考えずにはいられない。あと、藤沢周平の「蝉しぐれ」も対比で連想した。つまり、様々な女との苦い経験を繰り返して漸く理想の女性に巡り会う型と、初恋の少女こそが真に理想の女であり相思でもあるけれども、運命により結ばれずいつまでもその胸に想い続ける型との物語的な対比。人間の絆も、もしも大河ドラマや朝ドラにするなら、サリーも最初から登場させるんだろうなぁと思った。
モームの選ぶ十大小説は確か「カラマーゾフの兄弟」「戦争と平和」「嵐が丘」「高慢と偏見」「デイヴィッド・コパフィールド」「ゴリオ爺さん」「赤と黒」「ボヴァリー夫人」「白鯨」「トム・ジョーンズ」だったと思う。私は「トム・ジョーンズ」は読んでいない。
私なら「カラマーゾフの兄弟」を「罪と罰」、「デイヴィッド・コパフィールド」を「大いなる遺産」に替えて、「トム・ジョーンズ」と「ボヴァリー夫人」の替わりに、「居酒屋」「人間の絆」を入れて十編としたい。
もっといえば、私は「赤と黒」「居酒屋」「罪と罰」を生涯読書中で最も面白い作品として数えていたのだが、今後は「人間の絆」をこれに加えることにする。ちなみに次点グループに「ゴリオ爺さん」「高慢と偏見」「アンナ・カレーニナ」「嵐が丘」といったところ。
繰り返しになるが、それでいて「人間の絆」はもっと早く読んでおけば良かったとはあまり思わない。今の私でなければここまでの感動を絶対に味わえなかったと確信している。
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この世に善はなく
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ただビジネスがあるだけなのだとしたら、私はそんな世界に住んでいて楽しいのかという問題がある。私は人を慰めるのが好きかもしれない。良質な慰めを作れば、それをビジネスとすることも出来るだろう。それも、誰かWinWinの関係を築けるパートナーと出来れば最良だ。それが私にとって今後の人生の目標であり夢なのかもしれない。
「倫理とは何か」を読んでからというもの、他人と話すことが無くなってしまった。これは、善意に価値など無いと認めたからだ。私は今でも心のどこかで善意に見返りを求めているのだろう。しかし、他人に善意を施してもただ好い人で終わっていくばかりであることに、もう飽き飽きてしまった。
それでも、友達がいたらいいなぁと思うときもある。友達は善意の関係性によって作られるのが基本だ。初対面のうちからビジネス的な尺度だけで他人を測って友人関係を広げていくのは現実的にはほぼ無理である。と私は思っているのだが、企業交流パーティーなどに積極的に顔を出しているような人の場合は違うのだろうか。私の場合はそういったものにまったく興味がなく一度も行ったことがないのでよく分からない。ビジネス的な利害のみで捉える他人を友達とは考えていない節があったので興味がなかったのだろう。
友達がいない、と、友達になりたい人がいない、は分けて考えた方がよい。前者をもう少し詳しく言うなら、友達になりたい人はいるけど、その人と友達になれない、だ。さらに後者のうちでも、友達になりたい人が差し当たって身の回りにいない、と、友達になりたい人はおそらく地球上のどこにもいない、は分けて考えた方がよい。
というわけで、再度書くと、友達がいない人のうちでも、
・友達になりたい人はいるけど、その人と友達にはなれない
・友達になりたい人は差し当たって身の回りにいない
・友達になりたい人はおそらく地球上のどこにもいない
は分けて考えた方がよい。
人は一人では生きられないとよく言う。それも説教くさいニュアンスで言われる。これについては、友人的な面と、糊口の面があると思う。どちらにしても、私の場合は他者がポイントとなる。私が思うこと。まずは糊口について。人が一人では生きていけないのは、一人で出来る仕事が事実上存在しないからである。人がそういう社会を作っているからだ。そのくせ、人は私を仲間集団からは排斥しようとする。人が一人では生きていけないシステムを作っておいて、かつ、ある弱者を仲間集団からは排斥する。その上で、お前、人は一人では生きていけないぞ、と説教するのだ。ここで注意したいのは、私あるいはある弱者が仲間集団から排斥されるのは、絶対に私の側に落ち度はないということだ。何かその集団の利益欲求に対して邪魔となる存在なのであろうが、なにも悪意があってそうしているわけではない。これはどう考えても理不尽だと私には思えるのだが、排斥する側の人間は絶対にそういう視点を持つことがない。
私やある弱者がその集団の求める能力に達していないのは、私の責任ではない。努力が足りないわけでもない。単に生まれ持った資質として人より何かが劣っているのである。否、別に人として劣っているわけではない。思考パターンの独自性により意思疎通時間に無駄なコストが掛かるとして、俗人集団の中では劣っているとみなされるのだ。俗人は義務の遂行に何ら疑問を差し挟まず、寧ろそれを喜びとする。枠組みから疑うなんて思いもよらない。人間の集団があれば必ず順列が付けられる。そのうち下位に当たる者たちは集団の足を引っ張っていると言われて排斥される。これが例えばJリーガーなら二部リーグに落ちるだけで済むが、普通の社会で生きている場合、排斥された者に行くところはない。そうして排斥しておいて、お前、人は一人では生きていけないぞ。と説教するのだ。だから、仲間に入れて下さいよぅと口の端を歪めてお追従の笑みを浮かべながら戻って行くと、やっぱり、お前など要らんと言って、また排斥される。これが弱者苛めでなくてなんなのだろう。こんなことをしていては、下位に位置づけられるある一定数の者たちが引き籠もりやニートになるのは必定だろう。それでいて、お前たちが引き籠もりやニートになるのはお前たち自身の能力やメンタリティに問題があるのだと排斥する側はゆうておるのだ。こんな非合理的な話があるのだろうかと私は思うが、排斥側がそういう視点に立つことは絶対にない。それが強者の特権であり、強者が強者である所以でもある。さらに付け加えるなら、そうした弱者たちを同僚やビジネスパートナーとは決して認めないが、もっぱら顧客としてだけは慇懃に取り扱い、その僅かな小遣い銭をカモるべくあの手この手の策を練っておるのだ。人間とは実に碌でもない生き物だ。そうでないと云える根拠があるなら本当に教えて欲しい。わたしは純粋な意味で、心からそれを知りたい。
人は一人では生きていけないと言われるときの友人の面。
友人の面に於いて、私の考えを述べる。人は一人でも生きていける。事実、私は一人だ。かつ死んでいない。もしかしたらもうすぐ死んでしまうかもしれないので、私の例をもってして人が一人でも生きていける実証にはならないかもしれないが……。
殆どの人は、仲のよい人が居るように見えても、本当に心から理解し合っている他人などは一人も持っていないんじゃないかと思う。親友と呼べるような人は二三人はいる、という顔をしながら生きている人でも、本当は一人も居ないんじゃないかと思う。どんな人間も絶対的に孤独なのだと思う。これを理解し受け入れると、生きるのがずっと楽になるように思う。
「勝手に生きろ!」というブコウスキーの小説がある。このタイトルが好きだ。他人のことは知らん、とゆうておるわけだ。私が永井均の独我論的倫理学に惹かれることにも通じる。天上天下唯我独尊。
曾野綾子。
本屋をぶらぶら歩いていたら
「善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか 救心録」(祥伝社黄金文庫)という本が目に入った。曾野綾子とはどのような人だっただろう。あまり読んだことはない。十年前ぐらいに一冊文庫本を買ったのだけれど結局読まないで売ってしまった。その程度にしか著者のことを知らないが、この本のタイトルに惹かれた。最近、善悪や倫理について考えているからだろう。
ぱらぱらと立ち読みしてみた。印象に残る言葉があった。若い頃は自分と好みや趣味まで一致する他人がこの世のどこかにはいると思っていた。でもそれは間違いだと気付いた。という言葉。大事なのは他人と接する距離感である。全部が全部共感できないからといって付き合いを辞めてしまうのではなく、距離感を測りながら他人と付き合うのがよろしい、といったことを述べていた。同感だ。アリストテレスのいう中庸のようだ。
どうして友人だとか親友だとかいう幻想を多くの人は抱えるのだろう。子供の頃には友だちがいることに起因すると思われる。それが、大人になると一人ずつ消えていく。気付けば一人もいなくなる。これは孤独を好む私の性格が原因なのだろうと以前は考えていたが、今の私、三十五歳の私は、本当のところでは誰しも友だちなど一人も持っていないのだと考えている。
この本にはもう一つ共感できた言葉があった。人間の本当の強さとは、自分の弱さを認めて他人にさらけ出せることだと。まったくその通りだと思う。だが、とも思う。そういう強さを身に着けるには、時間が必要だと思う。若いうちから何のこだわりも意地もなく、自分の不甲斐なさや無能さを全部あけっぴろげに人前にさらけ出すのが、そんなに褒められたことだとはあまり思えない。
追記。わたしが中盤でくだくだしく説明している状況ついて、分かり易く表現している有名な2chコピペがあるらしい。月ノヒカリさんという人のブログで知った。確かに秀逸なので張っておく。
http://newmoon555.jugem.jp/?eid=155
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醜い日本の私
私は永井均の著作を読んでからというもの、他人に寛容でありたいと願い、その結果、他人と進んで話すようなことはなくなってしまった。しかし、中島義道は相変わらず攻撃的だ。まあ、ウィーン愛憎を書いた中島さんなので、今更戦うことを辞められないのもあろうし、このような人たちにとって生きるとは戦いなのだ、といわれればそうかもしれない。戦いといってもプロレス的な予定調和の見世物的な戦いであるとも思うが。だいだい、昭和二十一年生まれの中島義道が、この先何年生きるか知らないけれども、自分の生きているうちに本気で東京の商店街の風景を変えられるとは思っていないだろう。自分の言いたい文句を書き飛ばして、それで本が売れて、ちょっとした小金が手に入ればいいのだろう。
ともあれ、中島義道を久しぶりに読んだら面白かった。哲学の教科書をもう一度読み直してみたい。十年前に読んだときも面白く読んだが、この歳になって読めば、当時の私では読み取れなかった新たな発見もあろう。
いつの間にこんな芸風を身に付けていたのだ。新幹線のホームのうるさい描写には笑ってしまった。
商店街の猥雑な描写なども、小説家かとも思わせるぐらい優れている。ブコウスキーの小説や、夜の果てへの旅のようだ。これは本当に心の底から日本の商店街や街並みを醜く穢いものだと感じていなければできない描写だ。
ただ一つ思ったのは、中島義道は電車内や街の中の煩さを大多数の人たちはさして気にしていないのだろうと言うが、一般の俗人たちも我慢しているだけで平気なわけではない。それは、ipodなどの小型ミュージックプレイヤーが普及してから、電車内や街中で音楽を聴く人が加速度的に増えたことに見て取れる。彼らは音楽を聴くためにイヤホンをしているというよりは、周囲の騒音を遮断するためにイヤホンをしているのだ。私自身そうであるからよく分かる。私などはSONY製のbluetoothヘッドホンを常に持ち歩いているのだが、実は音楽など聴いておらず、ヘッドホンに隠して耳栓をしているときさえある。そうして街を歩いていると街の雑音が殆ど聞こえなくて心地好い。無音であるのに雑多な俗人たちが連れ立って笑顔で口を動かしながら擦れ違っていく風景は、さながら映画でも見ているような不思議な視界である。
それにしても、店員や店長に文句を言うところは痛快である。これは私がニコ生主のいわゆる電凸を好きなのと同じ興趣であろう。ニコ生主というと碌でもない人間の吹き溜まりのように思っている人もいるかもしれないが、案外そういう面では中島義道と同じ純な人たちなのである。ただ、頭の良さが全然違うというだけで。つまりは、一見何事もなく平静に運行されている世間一般の方が、偽りで塗り固められた世界なのであって、そういう世界に居たたまれずに弾き出され追いやられた人々の溜まり場がニコ生なのである。社会不適応者という言い方をよくするけれども、社会の方が嘘まみれだとするならば、そんな社会に適応できないからといって何咎められることがあるものか、というわけだ。
編集(管理者のみ)
内田樹 ネット上の発言の劣化について と
小飼弾の反論
私はどちらかといえば小飼氏の言うことの方が分かる。私も、あらゆる情報は受け手責任でしかあり得ないと思っているから。
内田樹の言うことは分からないではないのだが、なんという牧歌的な世界観に生きてきたのだろうと羨ましく思う。
ネットを軸にして見れば、「ネットの発言が劣化した」と言っても間違いではないのだろうが、ネットに参加する人が増えてきたら、世の中には馬鹿な人が目茶苦茶多いことに今頃になって漸く気付いた、というだけの話で、別に、前からネットにいたまともだった人が、最近になって急に馬鹿になってしまったわけではない。前はネットに参加していなかっただけで、世の中には馬鹿で卑怯な人々は元々目茶苦茶に多いのである。そういう人たちと、あまり関わり合うことなく内田樹がこれまで生きてこられたのだとしたら、ものすごく幸せな人生だ。それこそがまさに知的な人物が知的な空間で生きることの幸せだろう。
ここで両者とも言っていないが私は付け加えたいことがあって、それは、人が公の場で何かを発言するとき、必ず自分の利益のために発言しているということだ。公の利益を公で説く人は、それが己の利益に繋がるから公の利益を説くのだ。情けは人のためならず、というやつである。人間が発する言葉はすべてパワーゲームの端緒だ。小飼氏は分かっているけど当然の前提なのでわざわざ言わないだけなのかもしれない。
内田樹は、公の場の発言は、公の利益のために為されるのであって、己の利益のために為される筈など無いという、牧歌的世界観を前提としている。公の場の議論で私利私欲のための発言など恥ずべきことで、そんなことをすればすぐに誰にも相手にされなくなるというのが前提になっている。どういう幸せな人間関係の中で生きてきたのだろう。
なるほどそれは、インターネットの匿名性によって急速に失われてしまったが、かつては存在した言論空間の美徳だったのかもしれない。しかし、本質的には匿名だろうがリアルでの発言だろうが変わりは無い。ネットが登場する前の世界だって、すべての人間の発言は己の利益のために為されていたのである。このあいだ、原発論争をしている八十年代の「朝まで生テレビ」をyoutubeで見たが、それを見ても明らかだ。
内田樹ぐらい頭の良い人がそのことに気付いていないはずはないが、本当に気付いていないのだとしたら、古いタイプの人間だとしか言いようがない。
私たちはインターネットのある世界で生きていかなくてはならない。そこで人間の美徳に頼るのはどうにも心許ない。人間が持つ美徳の量は人間の卑俗さの量を大きく下回っている。これは火を見るよりも明らかなことである。まして、登場してしまったテクノロジーに対してどうこう批判するのはナンセンスだ。インターネットはもう世界に「ある」ものなのだ。その出現で世界がそれまでの世界から大きく変容してしまったのだとしても、もう前の世界には誰にもどうやっても戻せないし戻れない。人間の生み出したテクノロジーで世界が変容してしまったら、それに合わせて人間や人間社会の方も適応していく他ない。世界に「ある」ものと人間の本姓を付き合わせて、現代の批判と将来の建設を考えるのが真の
批評家だと私は思うのだが、果たして。
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再び加藤諦三
加藤諦三は心神耗弱の原因は劣等感だという。私はより厳密には疎外感ではないかと思っている。疎外感の殆どは劣等感からくるのだろうが、私の語感では、これをちゃんと分けて言葉を使っておきたい。反証というか、ケースは少ないのだろうが、心神耗弱が劣等感のみに留まらない例として、川端康成や太宰治を挙げる。彼らは文筆家として名声を得ていたにもかかわらず自殺を選んでいる。名声を得ている者が劣等感を抱こう筈がない。また、同じく生前に充分な名声を得ていたカミュやテネシー・ウィリアムス、トルーマン・カポーティといった人たちも、直接の死因は自殺でないにせよ、あのような破滅的な生き方を選ぶであろうか。
加藤諦三とはどんなことを語っている人なのか知りたい人はここを見るべし。ちなみに、私は加藤諦三の言うことを全面的に信奉しているわけじゃないよ。でも、それなりに傾聴に値することを述べているとも思う。どの部分には賛同し、どの部分は撥ね除けるか、それは各々に任せます。まあ、そんなのは誰の言うことでもそうだけどね。
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最終更新:2012年01月28日 16:35