ホッブス
人間とは死によってのみ消滅する止むことのない欲望。
人間は本性上利己的な存在なので、自然状態においては各人の各人に対する戦争は避けられない。この戦争状態を脱するために必要な条件が「自然法」として与えられているので、理性がそれを見出し、人々がそれに基づいて社会契約を結んで主権者に権利を譲渡すれば、平和な社会に移行することが出来る。
情念…人を動かすもの。欲望と嫌悪を原動力とする。善悪はほぼ快不快と同一。
理性…推論力。
意志…最終的に決定される欲望あるいは嫌悪。理性は無関係。
自然状態…自然状態は混沌としすぎていて疲れるので、これから抜け出さなくてはならない。
自然権…人々が自分の命を守るために好きなように自分の力を使う自由。
自然法…理性がそこに見いだす指図。人々が自分の命に対して破壊的に振る舞うことや命を守るのに一番適切なことをしないことを禁ずる。
第一の自然法…各人は、その希望がある限り平和に向かって努力すべきである。だが、それができないときには、戦争によるあらゆる助けと利益を求めてよい。
第二の自然法…他の人々もそうする場合には、平和と自己防衛のためにそれが必要だと考えられる限り、あらゆるものに対する自分の権利をすすんで捨てるべきである。また、自分が他の人々に対して持つ自由は、他の人々が自分に対して持つことを自分がすすんで認めうる範囲で満足すべきである。
第三の自然法…自分が結んだ信約は履行すべし。他の人々もこの信約を守る保証がある限りにおいて。
社会契約…
ヒューム
知覚…人間の心に起こる意志や思考を含めたすべてのもの。印象と観念からなる。
観念…印象の再現。
理性…推論すること。因果関係を見いだすこと。行為の決定に決定的には関与しない。
道徳は情念に基づくものなのだから真偽を問題とするような道徳的認識などそもそもありえない。
美徳…快適と有益のこと。自然的な美徳と人為的な美徳がある。
有益…長期的な快適。
正義…人為的な美徳。ルールを守る心。
社会黙約説…約束は暗黙のうちに為される。なぜなら、約束は守らなければならないという約束をすることはできないから。
共感…他人の情念についての観念を持つこと。一般性への萌芽が含まれている。
アインジヒトたちの考察
私の考察
約束は守らなければならないという約束をすることはできないこともないような気がするのだが、私の考えが足りないだけかもしれない。
私は次のようなことを考えた。約束という概念は人類の誰かが一番初めの約束をする前から人々が理解していてもよさそうである。
単に「ある約束を守る」ことと、「ある約束を守らなかった場合には罰則が与えられる社会に同意する」ことは違うように思う。ここで問題としている社会契約とは、自然権を主権者に譲渡することだが、それは平たく云えば「ある約束を守らなかった場合には罰則が与えられる社会に同意する」という刑法的な意味合いが強いと思う。
それで、まずは罰則まではない状態で、あるときは約束を守るし、あるときは約束を守らなかったりして、それぞれの選択において、自分の損得、相手の損得、気分や人間関係の変化など、お互いにどんな結果がもたらされるかを充分に経験する。そうすると、約束を破られた方の不利益が一方的に大きいことが皆の間で発見される。双方が約束を守ったときに得られたはずの利益を大きく下回ることも発見される。また、約束というと二人で取り交わす一対一の約束を想像しがちだが、社会生活の中では三人以上で取り交わす集団の約束も多くあり、寧ろその方が多いかもしれない。なぜなら、現実社会の大抵のことは、集団で成し遂げたものの方が、一人や二人で成し遂げたものよりも大きな価値をもっているからだ。聖徳太子がいた頃の世界観でいうなら、一人気ままにせいぜい隣近所の屋根の修繕をするぐらいの大工と、国家プロジェクトともいえる法隆寺建立チームに加わって働く大工では、後者の方が稼いでいる給料がかなり多そうだという話。個人や少数で成し遂げたものの方が高い価値を持つのは芸術的分野や発明や発見ぐらいなものである。そうすると、仮に人間の自然本来的な性質としては約束を守らない人と約束を守る人の数が半々ぐらいであるとしても、ある一つの社会集団の中においては人数やその創造価値やそれから得られた権威の上で約束を守る人間の方が圧倒的優位性を持つ。それにより、約束を破った者には罰則を、というさらなる約束が概ね約束を守る人の側から自然的に提案され、それに同意した方がたまには約束を破ってしまう人であってさえ概ね各人のメリットも多そうであると判断して皆が同意する、ということはありそうである。
と、ここまで考えてみたものの、現実的な経緯はこんなものでは全然なさそうだとふと思った。こうした市民の間の約束ではなくて、権力者や統治者の約束を考えてみたい。例えば、戦国時代の下克上といわれた世にあってさえ、それほど毎日毎日謀反が起きるわけではないのはなぜか、というような問題。ナンバー2がナンバー1を殺さないのはなぜか。
単なる言葉遊びのような気がしないでもない。約束は守らなくてもよいという約束をすることはできるか。という問いが思い浮かんだりもする。守らなくてもよいならそれはもう約束とは呼べないのではないか。さらにそれを約束するとはどういうことか。もう何でもいいんじゃないか。約束という言葉の意味の問題か。本来的には、約束と云った時点で、それは守ろうと意志される取り決めである。守ろうと意志されない取り決めのことを約束といったりしない。ただ、守ろうとしたけど結果的に守れなかった場合もある、というだけのことなのだ。あくまで本来的には。しかし、それに加えて、意図的に約束を守らない人が出てくる。始めから守るつもりなどなかったか途中で気が変わったのか、いずれにせよ意志して守らない者もいる。そうなると、約束とは、守ると意志されているはずの取り決め、ということだろうか。守らなくても特に刑罰はないけど出来るだけ守って下さいという程度の取り決めのことも約束とは云える気はする。
約束は暗黙的に行われるというよりは、始めから世界に存在する約束という概念、「守られると互いに意志されてる筈の取り決め」に約束と名付けている、と私には思える。さらに、別に、ここで問題としている社会契約というような意味の約束が人類で最初の約束である必要はない。従って、社会契約をあるときに明らかな意識化で取り結ぶのは可能だと私は思う。
囚人のジレンマは分かりにくいとして、戦線の話も載せてあるが、囚人も戦争もどちらも健全な社会からすれば否定的な事象なので、価値が転倒しているような感じがして、どうも心理を想像しにくい。囚人なら、相棒とは義兄弟の盃を酌み交わしたのかとか、出所した後の自分の年齢、つまり残りの人生の年数、自分が先に裏切ったとして、そこから相手の取り調べを打ち切るまでの時間、戦争なら、除隊までの年数や全体の戦局などが気になる。まあ言い掛かりだけどね。
抽象的に云えば、まず自分と相棒には何でもいいのだが、ある何らかの約束がある。
その約束が次のような状況のとき、どうなるかだ。
一.自分だけが裏切るときに一番得をし、
二.双方が誠実なときに二番目に得をする、
三.双方が裏切るときは損害を受け、
四.自分だけが誠実なとき最も馬鹿をみる。
一と四では天国と地獄ほどの差があり、このような千載一遇の好機であり修羅場は人生で幾度もない。
二の利益は日常の勤勉な人の利益とさして変わらない程度。
三の損害はその後勤勉なら数年で回復可能な程度。
相手もまた打算によって自分を裏切る可能性は十二分にある。つまり相手もまた充分に利己的な人間であるとする。
一と三の場合その利害によらず世間からの汚名は免れない。
ここで誠実な行為にも裏切りの行為にも、さしたる労力はいらないとする。
しかし、書いていて思ったが、裏切り行為が最大の価値を持つ以上、現実社会に例を探そうとしても泥棒などの否定的な事象しかないのかもしれない。
それから、思索的、功利考察的には相手と連絡が取れないことが面白みのミソだが、もしも映画や漫画なら、相手と話せる方が面白くなりそうだ。互いに嘘をつく可能性がある以上は相手と話せようが話せまいが関係ないのだが、もし話せるなら相手の心理を話術で誘導しながら自分が一を目指すに決まっている。そういう漫画は既にありそう。思いつかないけど。ジョジョとかカイジとか、読んだことはないけどデスノートとか。
普通に次のようなものでよいと思う。
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永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」(ちくま学芸文庫)
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最終更新:2012年01月28日 13:52