ニーチェ
ルサンチマン…弱者の妬み嫉み恨み。
キリスト教道徳…
キルケゴール
近代のニヒリズム…ホッブスからミルにいたる試みは決して成功しない。そして同時に、それに代案はありえない。
生きる意味…
私の考察
①
②
③
④
⑤
ニーチェの云っていることの意味は基本的には分かる。まあ、難しいところは分からないけど。道徳とはルサンチマンの価値転倒だ、ぐらいのレベルでなら分かる。現状のルールでは未来永劫に勝利を奪い取れないと悟った者は、ルールそのものを変えることで勝ちを収めようと目論む。この意味は分かるし、人間は往々にしてそうしたことをする生き物でもある。
で、それが分かったとき、優しさがルサンチマンの価値転倒だとすれば、もう何もする気が起きなくなるという問題を私は持っている。これは⑤の最後で語られる「生きる意味」の問いと似ているかもしれない。
が、とりあえず、普通に考えてみる。
弱者に価値転倒などと云う大技ができるはずがない。ルールを転倒したものに書き換えるにしたって、それを人々に納得させる萌芽あるいは礎がまったく何もない無の状態から、そんなものを生み出せるだろうか。
高々「心の法廷」程度のものに、どうして強者が負けるのだろう。
社会契約は多数を占める中流の人たちにもメリットがあるから導入されるのは分かるけど、それでは社会福祉は誰が何のために一番始めに作ったのだろう、という疑問はある。弱者が自分で作ったのではあるまい。そんなものを作れないから弱者なのだから。
慰めとは。
ルサンチマンの概念は慰めという行為を否定しているようにも感じる。
敗者を慰めるのは正しきことか。
あるいは、敗者となったときに慰められるのは正しきことか。
慰めは悪なのか。
慰めは無なのか。時間の無駄のようなものか。
弱者に寄り添うことに何の意味があるのか。
自分が完全なる第三者であったときにも、私は敗者を慰めるか。
慰めとは弱者どうしでするものなのか。
慰めを強者や第三者に強いるのは不可能だ。
傷を舐め合ってでもいなければ遣り切れない。そこに正しさの基準はなく、ただ無であるように思う、かといって時間の無駄ではない。ともかく、傷を舐め合ってでもいなければ遣り切れないのだ。ただその心情があるのみだ。おそらくこれは、妬みや嫉みと同じように、人間に植え付けられている原初的な心情だ。ただこの、慰めは無というときの慰めは、第一義的な慰めのことであり、慰めにも価値があると認めた時点から、その中でまた慰めの優劣が付けられ、劣った慰めしか差し出せなかった者にはまた慰めを、というようなわけの分からない慰めによる永久の再帰的ループが発生し始めるわけだが、取り敢えずそれは考慮から外す。
いつかは勝とうという慰め。
未来永劫の敗北を受け入れる慰め。
どんなに誠実で優れたな純文学でもそれがストーリーの形態を取っている限り、慰め以上のことは書けない。ペンは剣よりも強くない。
赤目四十八瀧も然り。私が好きなストーリーのタイプは、本当の孤独を知っている者同士の絆、だが絆が結ばれる部分は幻想である。
正直者は報われる話を多くの人が好きなのは、知ってか知らずか分からないが、それが幻想であり慰めだからである。
人は幻想を夢見て泣く。
否、慰めは幻想ではない。この世でできることは慰めしかないと描くのは、幻想を描いているのではなく、真理を描いていると言える。
否、もう少し厳密に書こう。私が泣いてしまうようなストーリーには、本当の孤独を知る者どうしの絆が描かれている。その、絆が結ばれる部分は幻想である。私はそういうストーリーをこれまで優れたストーリーだと思っていた。世の中にこんなことがあったらいいなぁ、と思って涙するのだ。しかし、私が涙する部分は幻想であり嘘かもしれない。これは慰めだ。作者が受け手を慰めているのだ。こんなことが、現実でもあるかもしれんやん、あったらいいなぁ、と提示しているのだ。しかし、作者はそんなことが現実には殆ど起こり得ないことを知っている。ここには不誠実があるかもしれない。この世で出来ることは慰めしかないと作者が知っているとしても、それを受け手にはっきりと分かるように描いてないとすれば、不誠実である。
けれど、この世には慰めしか出来ることがないと作品内で描くことは真実を描いているといえる。これは慰めにすぎないけど、人間に出来ることって慰めしかないやん、ということを作品内で描いているストーリーがあったとしたら、それはなかなか誠実だ。そういうストーリーで私が感動したものはあるだろうか。そういう模様のペルシャ絨毯を織ることが私にとっての人生かもしれない。
「にごりえ」は? 「
赤と黒」は? ふたりのうち、どちらかあるいは両者ともが破滅を迎える結末のとき、慰めの意味を少しだけ離れる。それは現世でふたりの人間が絆を結ぶなんて本当は出来ないことの描出だ。
この世の中っていったい何なの? という中学生でも思い浮かべる疑問に結局は行き着く私であった……。人生はペルシャ絨毯のようなもの。
慰めを商売にした場合、それは悪なのか。無なのか。ただのビジネスなのか。傷を舐め合ってでもいなければ遣り切れないわけで、優れた慰めなら対価を払ってもよいと思うのは人の心情だ。新橋ガード下の赤提灯はサラリーマンにとっての慰めなのかもしれない。また、私が毛嫌いする俗人たち、あんなものの何処が好いのだと思うような多くの中流家庭も、それは華々しく朗らかで喜びに満ちあふれたものではなく、平凡な男と女にとってのつましき慰めなのかもしれない。
多かれ少なかれ私たちはみんな弱者である。詭弁に聞こえるかもしれないが、弱者的な要素は誰しも少しは持っている。例えば、高校野球でいうなら、優勝できなかった準優勝以下全てのチームは敗者であり、慰めを必要とする人たちだ。戦国時代でいうならば、徳川家康のみが勝利者なのであって、織田信長はおろか一時は天下統一を果たした豊臣秀吉ですら敗者だ。
文章が好きで暫く前からその闘病ブログを読んでいたココさんという方が先日亡くなられた。本当に本当に心より御冥福を祈る。それしか私に出来ることはない。「悼む人」という小説を書く他ない、それ以外に小説家が書けることはないと思い至った天童荒太の心理が最近は少しだけ分かるような気がする。
弱者の横溢する世界。
ニーチェの提唱するルサンチマンの概念とは、もっぱら第一義的な勝敗だけに注視し、それから目を背けるな、という啓蒙だ。弱者への配慮、優しさ、慰めは第二義以降の価値である。そんなものに本来的な価値はないのだと再確認させるものだ。
私は、キリスト教的道徳はルサンチマンの価値転倒だとは思わない。慰めだと思う。この世は不毛で、人の生に何の意味もないことへの慰めだ。慰めに第一義的な価値はない。しかし、それしかやることがないし、それがなければ遣り切れない。
さて、また少し話題を変えて、第一章のギリシャ哲学でも少し書いたが、農作物を育てるなど、他者との関係性なしに価値を生み出す行為は存在する、それについてここでも触れたい。それは正しきことか。あるいは善悪の規定外のことなのか。
永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」(ちくま学芸文庫)
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最終更新:2011年09月10日 03:28