シュタゲ論

まだ草稿なので悪しからず。
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シュタインズゲート Steins;Gate
 最初は随想のエントリーの一つとして書いていたのだが、だんだん長くなってきて、我ながらシュタゲのこと大好きだったのだなぁと苦笑しつつ、別頁として切り取った。
 私はシュタインズゲートが大好きだ。私がシュタインズゲートについてあれこれ考えることを以下に書いていきたいが、容赦なくネタバレを含むので未見の方は読まない方が無難です。しかしね、私は本当に好きすぎて何から書けばいいか分からないのだよね。もう、文脈や纏まりなど関係なく思い付いたところから書くしかない。

 そう、私はカオスヘッドも好きだ。世界観の好みだけからいえばカオスヘッドの方が好きかもしれない。しかし、完成度では断然シュタインズゲートだ。次回作ロボティックスノーツの世界観が東京から離れ、近未来となり、ever17に近くなっているのは私としては残念だ。現実の街を舞台としているところが、空想科学アドベンチャーシリーズの面白さの一つだと考えていたし、次は六本木なんかが好いのではないかと勝手に想像していたりしたので、この点は少しがっかりしたのだけれど、林直孝氏なら何かやってくれるだろう。期待値は減らない。そういえば、聞くところによると、キャラクターが3Dになるそうなので、パソコンではもう出そうにないのも残念ではある。

 シュタインズゲートの話だった。シュタインズゲートはノベルゲームの到達点だと思える。もともとノベルゲームには一つの特性があって、それは世界が分岐して、複数存在するということだ。平行世界。その特性を作品内で吸収するものとして、リトルバスターズ、ひぐらしの鳴く頃に、などが世に登場し、それらを踏まえ、いよいよシュタインズゲートが現れた。
 ちなみに、それ以前の重要作品としてYu-Noという作品があり、東浩紀などもその面白さを解説しているのだが、私は、PCにインストールまではしたものの、未だプレイしていない。いずれプレイしたいとは思っている。

 私はノベルゲームが好きだけれども、その中にも得手不得手はあって、ストーリー重視のものが好きなのだ。反して、ゲーム的要素の強いものは苦手だ。もう少し詳しくいうと、バッドエンドを回避するタイプのものはあまり好きではない。分岐は少ない方がいい。ストーリーなど一本道で充分だと考えている。だいたい、作者がプレイヤーを楽しませようと考えに考え抜いた順番で語られるエピソード群よりも、プレイヤーが適当に選んだ語り順の方が、受け手をよりストーリーにぐいぐい引き込んでいくなんてことは、有り得る筈がない。その意味で、選択肢のないひぐらしの鳴く頃にオリジナル同人版などは好きな作品だった。

 私はオタクコンテンツの批評家がよくするように、平行世界を特に現代を映す鏡のように受けとめたりしない。単に、ノベルゲームはその特性上、平行世界を扱う作品が多くなるのは免れないと思っているだけだ。私は別に平行世界を描く作品が多いからノベルゲームを好きなわけではない。私がノベルゲームに惹かれるところは何かというと、その演出が、小説と映画のいいとこ取りをしている点にある。ある部分では小説のような面白さを提供し、またある部分では映画のような興趣を提供してくれる。ときに、その二つが合わさって、それぞれの媒体だけでは表現し得ない感動を味わうことができる。だから好きなのである。私の場合、選択肢のようなゲーム的な要素はなくてもいいのだ。まるっきり平行世界なんて登場しなくても、感動させてくれさえすればいっこうに構わない。
 とはいっても、ノベルゲームで出す以上はゲーム的要素も入れたい、と思うのが人間の心情なのだろう。クリエイターたちはその欲求に抗えず、選択肢や平行世界を取り入れた作品は作られ続ける。ストーリーの完成度だけを追求するなら分岐は無い方がいい。しかし、分岐を入れたい、というジレンマ。どうすればこの二つを、お互いを殺すことなく入れられるのか。クリエイターたちにはその完成形の模索があったことだろう。
 そこでタイムリープである。そもそもがノベルゲームというのは、プレイヤーから見れば、一回目にバッドエンドを迎えてしまった二回目以降のプレイでは、作品世界をタイムリープしているのと同等なわけで、ならばいっそのこと、それをストーリーの核にしてしまえと、タイムリープを主軸とした話を作ってしまった、しかも、あり得ないほど渾身のクオリティで。このことがシュタインズゲートの実に素晴らしいところだ。

 シュタインズゲートには六つのエンディングがある。つまり、分岐があるということなのだが、シュタインズゲートは、分岐はあるのだけれども、ないのとほぼ同等なのである。これはやった人には分かるのだが、やっていない人に説明するのは難しい。分岐ツリーを図に描いて説明できると良いのだが……。
 というわけで描いてみた。
start ───────┬───┬───┬───┬───┬─── true end
          └ end1 └ end2 └ end3 └ end4 └ end5
 これがシュタインズゲートの分岐ツリーである。
 このように分岐はある。しかし、ここが凄いところなのだが、プレイヤーの十人中九人は、否、百人中九十九人は、制作者の意図通りの順番、具体的には、end1 から順に end5 まで、そして最後に true end という順番で一本道のようにプレイするのだ。この作りは心底素晴らしいと思う。発明と言っても過言ではない。
 人間とは、ある決定的な選択を、出来るだけ先延ばしにしておきたいものだという心理を巧みに利用している。Dメールという、ストーリーの重要な鍵を握るメールを「送らない」ことで、各エンディングに入る。つまり、プレイヤーが自ら決定的な態度を取らないことで、必ずトゥルーエンドから逸れる方向へ進んでいくのだ。
 ここで各 end1 ~ end5 のエンディングは、トゥルーエンドではないので当然といえば当然だが、作中人物たち全てがハッピーとなるわけではない。事件も全ては解決しない。何か宙ぶらりんの煮え切らないニュアンスで終わる。けれども、それでいて、このゲームソフト全体を楽しむプレイヤーとしては、トゥルーエンドに行く前に見ておくのが正しいストーリー順なのである。もしも、各エンディングを見る前に、トゥルーエンディングを見てしまったら、感動も何もあったものじゃない。つまり、先に言ったDメールを「送らない」という選択は、制作者の手の上で転がされながら、「正しく間違えた」とでも云うべきものなのだ。

 ゲームの面白さの隠された本質とは、こういうものなのではないかと私は思う。一般的には、ゲームの面白さとはプレイヤーの自由度にあると思われがちだ。例えばRPGなら、好きな職業を選べるとか、好きな武器を装備して戦えるとか、そういったもの。ゲーム的な自由がないなら、映画を見たり小説を読んだりと、一本道のエンターテイメントを楽しんでいればいいじゃんと言われがちだ。もちろん、そういうゲーム的自由度の楽しみを私は否定はしない。しかし、隠されたゲームの面白さとして、先に述べたような楽しみもある。それは、確かに自分の自由意志で選択したのだけれど、実は制作者に誘われている、という楽しみだ。
 これは、ファイナルファンタジーの宝箱が、この宝箱を発見したのは自分だけなのではないか、とプレイヤーが感じながら、実は十中八九の人は見つけられるように配置されているのに似ていると思う。ダンジョンの分かれ道で、ここでこっちのルートへ進む奴など俺しかいないだろうと思いながら、実はみんなもそっちに進んでいる、という作り。
 あるいはゲームから離れるなら、マジックショウの舞台にゲスト助っ人として上げられて、確かに自分も参加しながらも、マジシャンが見せる、起こり得る筈のない奇術に幻惑される気分。自分の想像したものとはまるで異なる結果を見せられるような気分。それは驚きを伴うが、消して不快ではない。手玉に取られている悔しさ半分、心理を読まれている快感も併せ持つ。

 つまり、いろいろ自由にできる快感もいいのだが、いろいろ自由にできるはずなのに、十中八九、みんな同じことをしてしまうよう仕向けられている、というのもまた娯楽である。それを、宝箱の中のレアアイテムが取れるかどうかといった些末なことではなく、シュタインズゲートではゲームの核心に迫る重要な場面で用い、それが見事成功していることに、私は最大級の賛辞を送って已まない。

 先に、各エンドは何か煮え切らないニュアンスで終わると述べたが、さりとてバッドエンドとも言い切れない、一つのエンディングという形で終わる。みんなハッピー大団円、とはいかないが、しかし、今の自分=オカリンにでき得るだけのことはやったのではないかと思わせるような、つましくささやかなエンディングとして終わる。ここもまた憎いところだ。この意味でも、各エンドは回避するべきバッドエンドではなく、トゥルーエンドへ到達するまでに見ておくべきストーリーの中間点なのだ。

 実際、シュタインズゲートのストーリーは、全く今のそのままの形でも、分岐をなくしたゲームにすることも出来たと思うのだが、残しておいたことには、先に述べたような制作者に誘われる快感だけでなく、次のような効果もある。
 それは、ストーリーの後半において、確かに自分の手によって、その運命を選択したのだという決意と責務、あるいは罪業感が強まるのだ。
 それも、従来のノベルゲームのように、画面に文章で現れる選択肢をカーソルの上下キーで選ぶのではなく、Dメール送信のボタンを押すか押さないかで選ぶのだ。それはまさに主人公オカリンの動作にシンクロする操作だ。

 厳密に考えると、トゥルーエンディング上のオカリンは、他のエンディングの世界線を知っているような知らないような、はっきりしない状態に置いてある。少なくともオカリンにはっきりとした記憶はない。しかし、確実にプレイヤーにはある。その世界線を生きたからだ。当然ながらそこではオカリンも生きた。となれば、トゥルーエンド上のオカリンも、オカリン以外のキャラクターが別の世界線の記憶を持つように、各エンディングの記憶を朧気ながらでも持っていたとしても不思議ではないと思える。この辺りの微妙な作りも実に精緻で興趣が利いている。

 ここまでに述べてきたようなノベルゲームならではの完成度もさることながら、普通に、映画やアニメ、小説のストーリー作家として見ても、シナリオの林直孝氏は完璧に分かっている人だと思える。人間の琴線に触れるもの、人間を感動させるものとは何なのか、完璧に分かっている。
 ラストはバタフライエフェクトのパクリじゃないかと揶揄する人もいる。私は全然違うと思う。バタフライエフェクトの作者は感動とは何かを解っていない。トリッキーなストーリーの作り方を知っているだけだ。


 妹キャラとツンデレキャラ。
 究極の選択。どちらを選んでも、もう一人は不幸になる。
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最終更新:2011年08月23日 03:23
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