小説 作品1 頁2


 浮浪者

 明は外へ出た。太陽がもうずいぶん高く昇っていて眩しかった。欄干のようなコンクリートの道からは、一角の荒んだ建物を少しだけ見渡せる。都会の中心地でも、路地を一歩入れば時代から置き去りにされたような建物がいくらも残っている。煤けて色褪せたトタン。申しわけ程度に取り付けられた窓。開けたところで隣の家の壁しか見えまい。外の柵にタオルだか靴下だか、小さな洗濯物が掛けられている窓も見えた。家と呼ぶべきかアパートと呼ぶべきか分からない建物たち。茶色や灰色の屋根は陽の光に照らされてきらきらしていた。けれど洗濯物のある場所は暗かった。
 坂や階段を上ったり下りたりしながら来た道を戻ると、酔いが好い具合に回ってきた。大通りまで出た。背広とネクタイを身に着けた男たちが通り過ぎる。彼らは一定の速度で歩いていた。彼らは鞄を持ち、携帯電話を使って誰かと商談を交わし合っていた。
 俺の足はふらついているのかもしれない。
 明は歩道の脇にある植え込みに腰を下ろした。出社までにはまだ三十分程の時間がある。それまでに酔いは醒めないだろう。酒を呑んでから出勤するのはこれまでにも何度かしていたが、こんなに酔っているのは初めてだった。さすがにばれるだろうか、という不安が一瞬だけよぎったものの次の瞬間には、知ったことか、と思っていた。どうせ席に着いたって挨拶ひとつ交わさない奴らだ。ばれるものか。構やしないさ。
 会社員。OL。女子高生。大学生。フリーター。店員。運送業者。水商売の女。こうした人間が通りを歩いていた。明は目を瞑った。
「十円ください。よかったら十円ください」
 嗄れた声が不意に耳に入り、再び目を開いた。汚れで黒ずんだ服に身を包んだ男が立っていた。それは服というよりもぼろきれだった。男の顔や、破れた布地の間から覗く肌も黒ずんでいて、男そのものもぼろきれみたいだった。
「十円ください」男は繰り返した。
 異臭が明の鼻を突く。髪も髭も伸び放題で、湿った部分と干涸らびた部分が混ざり合いながら頭を覆っていた。髪の毛の隙間から覗く目は明の方を見ていたが、虚空を見詰めるようでもあり澄んでいるようでもあった。しかし猜疑や怯懦はなかった。明はぼんやりした頭でしばらく眺めた。男もまたその間は動かなかった。明は植え込みに座ったまま尻のポケットから財布を抜き出して小銭入れを開けた。十円玉はいくつも入っていた。それから一枚を取り、差し出した。男もまた掌を出した。その掌は、皺の間にも爪の間にもあらゆる所に汚泥がこびり付いていて、もはや汚泥が地肌と化していた。晴れの日は土の上を雨の日には泥の中を歩くゾウガメの肌に似ていた。明はその掌の上に十円玉を落とした。男は受け取ると少し目に近づけて確認し、それと分かると僅かに口許を緩め、目に光を灯した。それから「ありがとう。ありがとう」と言って反対の手に十円を持ち替えた。
「あと十円下さい」
 明が財布を仕舞おうとするところへ、再び男は請うた。先程灯したと思った目の光は既に消えていて、また無感情の視線を明に投げていた。無感情ということは澄んでいるようにも見えるのだった。何かを請うときにだけ澄んで見える目だった。卑しさも浅ましさもなかった。男の放つ異臭の中にあって、視線だけはどんな匂いもなかった。請うていながら請うていないような目だった。
 男の後ろの歩道を会社員や女が通り過ぎていく。明と男のことなど見ていないような歩きぶりだった。
 明は戸惑いながらも十円玉をもう一枚渡した。
「あと十円下さい」
 男はまた請うた。今度は間髪を入れなかった。言ってから掌の上の十円をもう一方の手に持ち替えた。明はもう一枚渡し、男は「ありがとう。ありがとう」と言っては再び請いを繰り返し、そうするうちに、五十円を渡した。
 男はまだ十円を請い続けていたが、切りがないと思った明は植え込みから腰を上げた。そのとき男の瞳に寂しさがよぎった。それでも明は男に背を向け歩き出した。男はそのままの姿勢で動かずに明を見送っていた。
 五十円ばかしが何の役に立つのだろう。食料ならコンビニの廃棄物でも貰えそうなものだが。しかし、あそこまで汚れていては店に入ることも店員に口を利くこともできないか。余程食い詰めればごみ袋を漁るのだろうか。烏に混ざって。しかし、どうして俺はああいう男に優しくするのだろう。五十円ばかし恵んでやったところで、優しさと呼べるのか分からないが、それにしたって、そんなことをしている人間をこの東京で俺の他には一人も見たことが無い。
 しばらく歩いてから明は振り返った。男は一歩も動かずにまだ立っていて、こちらを見送っていた。手には五十円を握りしめていた。

 明はまた駅の方へ向かって渋谷の街の中を歩き出した。街路樹の下を歩くと斜めから射す陽の光が新緑の葉を通して細かく目に入る。そのとき、歩く明の周囲を包むしゃぼん玉にも反射して、虹色の光彩を球状に浮かび上がらせた。玉虫色の縞模様は様々の形に変化しながら明の回りをゆっくりと回転していた。地球儀の回転を内側から見るように、自分を取り巻く透明な色彩のうねりを明は過ぎ行く街並みとの間に見ていた。
 こうした天気の好い陽にこそ俺のしゃぼん玉はよく見える。
 俺の回りにはしゃぼん玉があるんだ。俺はしゃぼん玉に包まれている。払っても払っても振り払えないしゃぼん玉。決して割れることのないしゃぼん玉。壁にぶつかろうが、人にぶつかろうが割れることはない。人と話しているときに割れたと思っても、いつの間にかまた俺は透明な膜に包まれている。こうして街中を歩いているときも、電車に乗っているときも、仕事をしているときも。飯を喰うときも、顔を洗うときも、便所にいるときも、シャワーを浴びるときも、寝るときも。俺はこうして透明な膜の内側から世界を眺めているに過ぎない。その膜は歳と伴に厚みを増している。前はこんな風じゃなかったのに。少なくとも、こんな風ではないと信じていたのに。そう、ずっと以前には俺の生きる世界はこんな風ではないと信じられた。無邪気だったからかもしれない。子供の頃には、回りを包むしゃぼん玉の存在なんて全く感じなかったんだ。この膜はいつ頃に張られたものだろう。何か明確な事件だとかの切っ掛けがあったわけではない。気付いたときにはもうあったんだ。思い返すに、中学か高校の頃には、もう俺はこの膜の中に閉じ込められていたのだろう。だけれども、まだそれとは気付かずにいた。大学生になってもまだ気付きはしなかったが、時折、自分と自分の周囲の人間との間には何か特別の境界があるように感じたことはある。それでも、たいていのときには友達とも他愛のない冗談や何かを言い合って、笑って過ごしていたんだ。まさか自分が、二度と割って出ることのできないしゃぼん玉の中に閉じ込められているなんて分かる筈もなかった。就職し、働き始めてから、次第にそれと意識されてきた。俺と人々の間には何かを隔てるものが存在しているのだと。そのひとつひとつは小さなことだった。気さくな調子で世間話をしてみても、相手の反応は何処か余所余所しかったり、ときには、仕事に対しての真面目な相談を持ち掛けてみても、俺と話している時間などないのだと言わんばかりの表情を浮かべて話もそこそこに去って行かれたり。そうした小さなことが積み重なり、職場では打ち解けた仲間も上司もできず、数年で辞めた。あのとき、自分と世界を隔てる得体の知れない境界に気付いてもよさそうなものなのに、まだ気付けていなかった。俺は職場を変えれば気の合う友人も現れるだろうと思っていたのだ。俺の呑気なことにも呆れ返る。矢張り俺は愚鈍な人間なのだろう。しかし、もしあのときの俺に何かアドバイスできるとしても、それ以外にどういう巧いやりようがあったのか、今の俺にだって皆目分かりはしないのだ。そうして俺は派遣社員となって働き始めた。派遣社員になると上下関係が無くて楽だった。コンピューターの仕事だったので、それほど人と話さなくてよかった。それも楽だった。とはいえ、別にその頃の俺は全く殻に閉じ籠もっていたわけでもない。仕事で同じチームとなった派遣の同僚の中で、話が合いそうな奴がいれば、昼食を一緒に取ったり、ときには休日に遊びに出掛けたりもした。しかし、始めは親しげに話していても、何度目かには、矢張り俺の発する言葉のどこかに可笑しな所があるのか、俺には分からないけれども、戸惑いの顔色を浮かべては距離を取り始め、最後には去って行った。俺は寂しかった。俺は独りだった。俺は考えた。可笑しな所があるのなら直したいと。直せるのなら直したいと。しかし、分からなかった。俺は何も可笑しなことなどしていなかった。誰に話し掛けても、俺は奇異な目で見られるばかりだった。人々は、俺の持って生まれた醜い体軀に距離を取るのか、俺のピントの外れた内面に距離を取るのか、分からなかった。おそらく両方であったし、どちらにしたところで大差ないように思えた。
 ある夜、アパートの部屋で一人、電灯の下に座って、白米と野菜の煮付けといった簡単な晩飯を喰っていると、玄関の扉の下にある細い通気用の隙間から一匹の蛾が部屋の中へ入って来た。蛾はふらふらと羽ばたきながら部屋の中央を旋回した後に天井に吊された蛍光灯の下面に張り付いた。それからもう一度飛び立つと、こちらへ向かって降下したが、蛍光灯と俺の丁度間くらいで何度か跳ね回った後、その空中にへばり付いた。空中で羽を休めていた。三角に畳んだ羽には茶色の筋が無数に走り、濃淡模様となっているのが透かして見えた。俺は嚙むのも忘れてその姿を見上げていた。すると、羽模様に重ねて虹色の採光が揺らめいているのを見た。光彩は視界の外から次々に流れて来た。そこには透明な膜があるようだった。一匹の蛾はその薄膜の上にとまって俺を見下ろしていた。俺は息苦しくなって咄嗟に手を伸ばすと、蛾は飛び立ってどこかへ消えたが、七色に揺らめく薄膜は弾けることなく残っていた。そうして俺は、俺と世界を隔てるしゃぼん玉を見つけた。
 一度見つけると、今度はいつでも見えた。暗がりにいても、意識しさえすれば容易に見ることができた。虹の縞模様が常に周囲にうねっていた。
 しゃぼん玉を意識し始めた俺は、どれだけ働いても気の合う友達などひとりもできなかった。その頃には学生時代の友人も離れて行っていた。こちらから電話を掛けても社交辞令の適当な相槌を打たれるばかりで一向に話は弾まなかった。俺のしゃぼん玉は携帯電話の電波すら弾いているようだった。
 今ではもう、すっかり慣れっこになってしまった。世界を信じることを諦めた。世界が膜を破って俺に直に触れることを、もう信じられなくなっていた。

 明はぼんやりとした頭で街を眺めながら、駅に続く緩やかな坂を下った。街全体がアルコールに浸かっているみたいにふわふわしていた。大きな交差点まで来ると、信号待ちをする人たちが四つの角に大勢立っていて、何処かに設置されたスピーカーから流れる無機質な音楽を浴びせ掛けられていた。信号が変わると人々が一斉に渡り始める。小さな明は人の波を避けながらそこを渡った。
 ここから会社に着くまでせいぜい十五分ぐらいか。十五分でこの酔いが覚めるわけはないな。
 それを楽しむように薄く笑い、明は渋谷駅に入った。

 はたして今の俺は真っ直ぐに歩けているのだろうか。
さすがに足元がふらついていてはまずいかもしれない。
 恵比寿駅で電車を降り、改札を抜けた所で明はそう思った。そして、足元に意識を落とし、五番の目のように床に敷き詰められたブロックに沿って、真っ直ぐ歩けるかどうか自分を試して、駅ビルを出るまで歩いた。
 真っ直ぐ歩けていると思うが、端から見れば矢張りふらついているのかもしれない。結局、そんなことは自分では分からないんだ。そんなことを自分で分かる奴がいる筈がない。
 駅ビルの外へ出て、道路へと降りるエスカレーターに乗った。左側には立ったままの通勤者、右側には歩いて降りる通勤者で埋められている。明は左の列に入って、下に着くのを待った。真ん中辺りまで来たところで、列の先から佐田泉が降りて行く後ろ姿が見えた。佐田泉は今の職場でウェブデザイナーをしていて、明とも何度か仕事をしたことがあった。泉の姿を目で追いながら、明もエスカレーターを降りて、後を歩いた。泉の、肩まで垂らした黒い髪と、淡いベージュのスカートが揺れる。細い腰の線を隠すように薄い上衣を羽織っていた。デザイナーは社外の者との打ち合わせがそれほど多くないため、比較的カジュアルな恰好を許されていた。
 声を掛けたものだろうか。泉の麗姿に目は惹かれながらも、明は迷っていた。明の歩みは遅いので、大概の人であれば普通に歩いていても、明が遅れ離される一方なのだが、泉の歩みもずいぶんゆっくりとしたものだった。迷いながら歩くうちに泉のすぐ後ろまで来ていた。
 このまま泉さんを追い越さずに後ろに引っ付いたまま歩くのも面倒臭いし、誰か他の社員に見られていたら怪しい人間と思われるだろう。かといって、抜き去っていくのに気付かない振りなんていうのも不自然だ。だが、最初に挨拶をするとして、その後はどう続ける。天気と時候の挨拶でもするか。しかし、そんなものも二言三言ですぐに終わってしまう。何かよい話題はないだろうか。普通の人間はどうやって世間話をするのだろう。女の人が好む話題とは何だ。それに、ここから会社までもう数十メートルだ。会話を始めたところで、そんなに長くもできない。長くもなく短くもなく当たり障りもなく女の人にもできる話。そんなものあるのだろうか。まあ、会社の同僚なわけだから仕事の話でもするのが無難なのかもしれないが、朝から仕事の話をするのは俺の方が気が滅入る。あまりしたくはないな。
 そうして、何故こんなくだらないことを歩きながらくだくだ考えているのだろうと思い、内心で自嘲した。どこかのビルの窓に陽の光が反射して、泉と明の間にしゃぼん玉の膜が浮かび上がった。
「泉さん」斜め後ろくらいに近付いたところで、明は恐る恐る声を掛けた。
 泉は振り向いて明を認めた。
「あ、おはようございます」泉は笑顔を浮かべる。
 女としては長身な方の泉は、明を見下ろす形になる。明は泉の横に並びながら、彼女の胸の膨らみを盗み見た。それは小さな膨らみであったけれども、ちょうど明の目の高さにあって、見ずにはいられないものだった。
「おはようございます」ぎこちなく明は返す。「あの、……」と何か続けようとしたが明は言い淀んだ。
 矢っ張り何も話題が思いつかないな。どうして何の考えもなしに話し掛けたんだろう。俺は愚鈍な男でしか有り得ないのに、それはもう痛いほどよく分かっているのに、どうして声を掛けたのだろう。声を掛ける前、はっきりとしゃぼん玉の繭が見えたのに。酔っているから気が大きくなっているのだろうか。
 泉は仔猫のような黒い瞳で明を見詰めたままでしばらく歩いた。それから、少し困ったような表情を見せて、矢っ張り笑った。
「今日はとても好い天気ですね」明はようやく声を出すことができた。それも結局は天気の話だった。自分の面白味のなさが泉の大きな瞳の前に晒されるようでどぎまぎした。
「ほーんと今日は気持ちの好い天気ですよね」泉は微笑んで青空を見上げた。
 明はその隙にもう一度、胸の膨らみをちらりと見た。泉は息を大きく吸い込んでいて、それに合わせてふたつの膨らみも前に突き出された。
「こんな好い天気の日に、なんで、なにが楽しくて、朝から晩までビルの中に閉じ籠もって仕事しなきゃなんないんだろうって思います。そう思いません?」泉は息を吐き出しながら言う。
「それは、思うよ。俺なんかほとんど毎日思ってる」
「じゃあ、会社なんか行かずに、もう帰りましょうか」
 明は笑った。
 空を見上げると、ビルとビルの間を白い雲が形を変えながらゆっくりと風に流されていくのが見えた。
「ま、行くしかないですけどね、会社には」と泉が言う。
 明は小さく微笑んで、視線を空から泉の方へ向けた。
 泉はもう目を伏せていて、伏せた目の端から少しだけ寂しい色がこぼれた。
 明は何も言わずに泉の横を歩いた。
 泉も黙ってしばらく歩き、会社と駅の間にある唯一のコンビニにも入らずに、その前を通り過ぎ、そうしてふたりで並んで歩いて行くと会社のビルまで来た。玄関を入ってエレベーター前で待つ。他には誰も待っていなかったし、後からもこなかった。エレベーターの扉が開き、ふたり一緒に乗り込む。四階のボタンを押す。
「泉さんは、割と楽しんで仕事をしてるのかなって、思ってました」
「えっ」泉は階数表示を見ながら声を上げた。「あ、さっきの。……ただの冗談ですよ。でも、仕事する気になれないときは、誰でもあるでしょう」
 そういう泉の顔は矢張りどこか寂しそうだった。
「なんか石鹼の匂いがする」泉は話を逸らすように言って、犬みたいに鼻をわざと動かしてみせた。
 明にはその匂いが分からなかったが、真似してみる。
「明さんからだ」
 泉は明の体に顔を近付けてまた鼻を動かした。明には泉の香水の匂いがほんのりと感じられた。
「明さんて朝、シャワー浴びる人なんですね」
「ああ」と明は曖昧に頷いた。まさか朝から風俗店に行っていたとは答えられなかった。泉には知られたくなかった。酒の臭いに感付かれたくもなかった。だから、口を閉じて何も話さずにいた。黙っている明を見ても、泉は微笑んでいるばかりだった。
 エレベーターが四階で止まり、扉が開く。明はドアが閉じないようにボタンを押し続け、泉を先に促した。エレベーターの上昇移動が明をいっそうふらつかせたが、泉の後についてフロアに降りた。廊下をつき当たりまで進む。泉は、明にかまう様子もなく先に進んでいく。だが、後ろから見られる自分の姿を意識しているようでもあった。歩みとともに薄いスカートが左右に揺れた。紋白蝶を子供が追うように、明はそれを追い掛けた。
 つき当たりの扉まで来ると、脇にあるセンサーにセキュリティーカードを翳し、ロックを外してオフィスへ入る。
「明さん、今度よかったら、お昼ご飯でも一緒に行きませんか」
「えっ。俺と、ですか」
 泉は小さな吐息を漏らした。
「俺でいいなら、いつでも」
「お願いしますね」と言い置くと、泉は自分の席のある方へ足早に歩いて行った。

 明は自席へと向かった。
「おはようございまーす」
 誰に言うでもなく、周囲にいる人たちに大き過ぎず小さ過ぎない声で挨拶する。気怠げにも聞こえるが、やる気がないわけでもないような声。既に仕事に入り、画面に見入って集中している人もいるため、元気溌剌な挨拶は却って疎まれる。だから皆、気の抜けた挨拶をする。営業部などなら異なるのだろうが、プログラマーの職場では、どこの会社へ行ってもそうだった。
 明は自席に座り、コンピューターの電源を入れた。コンピューターの起動を待つ画面を見ている間に酔いがまた回り、朦朧としてきた。明にはいささか大き過ぎの、体に合わない椅子に深く背を凭せ掛ける。頭も背もたれに預け、天井を仰ぐ。複雑なプログラムでも考えているような顔で目蓋を閉じていれば、誰にも文句は言われまい。
「また朝から寝てんすか」
 という岡本の声が聞こえた。目蓋を半分だけ開けて横に向けると、隣の席に座る岡本が自分の画面を見たまま明に話し掛けていた。
 岡本は明の一つ年上で、同じ派遣社員だった。トレーダーを副業にしていて、じきにそちらを本業にするのを夢見ている男だ。だが、数十万儲かってご機嫌なときもあれば、同額かそれ以上に損して落ち込んでいるときもある。メディアか何かの甘言に乗って始めたのだろうが、何をするにしたってそうそう甘い世界などある筈がない。早く諦めた方がよいと明は内心で思っているが、それは岡本には言わずにおいている。所詮は職場だけの付き合いだ。親身になって忠告してやるほどの仲ではないのだ。トータルではだいぶ損益の方が多いようだが、額は濁してはっきりとは教えない。人には言えないくらいの金額なのだろう。それがまた、当人にとっては今更辞めることはできない要因になっていた。お前に相場のセンスはない、とはっきり言ってやっても聞く耳持たないだろうし、気を悪くされて仕事上のコミュニケーションまで不和になるのも面倒臭かった。真実の言葉は時に人の胸に突き刺さる。気をつけなければならない。明には現実を見たくない気持ちがよく理解できた。それは明が鏡を見たくないのと同じであったろう。それに、隣の席に座っている人間と仲良くしておくのは重要だ。当たり前と言えば当たり前のような馬鹿みたいな話だが、この業界でやっていくには特に大切なのだ。コンピューターの世界に次々と登場する新しい技術だとか、原因不明と思えるバグだとかに出くわしたとき、気軽に聞ける人間が近くにいると何かと助かるのだった。そういう実利から、ここでの仕事を越えるような私的な話には踏みこまずにいた。それは向こうも同じだった。そもそも、岡本はコンピューターの仕事にも、ここのシステムにも、自分の作ったプログラムにも、たいして思い入れがあるわけでも、やり甲斐を感じているわけでもなかった。ただ、相場につぎ込む資金源として自分にできる賃労働をしていた。だから、明の業務態度がどうであろうと忠告してくることはない。堅いことは言わない奴だった。普段なら。
 しかし何故、今日は邪魔をする。何かあったな、と明は考えた。
「いや、俺はいいんですけどね。明さんがどこで寝ようが、時給が下がろうが、今月限りで契約切られようが知ったこっちゃないっす」
 岡本はこっちを向いた。
「けど、昨日、明さん帰った後、またスケジュール変更あったみたいですよ。たぶん、すぐに駒田が来るから分かると思いますけど」明の災難を楽しむように、岡本はへらへらと笑う。席は隣だけれども、岡本と明は別のチームで、やっている仕事に直接は関係ない。変更があったのは明の持ち分だけなのだろう。
 言ってる側から、駒田が近寄ってくるのが見えた。
 駒田は正社員ではなく、契約社員として外部から来てプロジェクトを見ているマネージャーだった。がっちりとした長身で、大股で歩いて忙しさを周りにアピールしながら明の横へ来た。明の一つ年下で、短めの髪を薄茶色に染め、肌にはまだ張りがあって、初めて会う人には鷹揚で朗らかな印象を与える顔だった。
「スケジュール変更があります。ちょっと打ち合わせしましょう」と言う。
 明は駒田を見上げる。駒田の顔には微笑みが張り付いていたが、目だけは笑っていなかった。駒田はフロアの端にある会議スペースの方へと向かった。せかせかと歩き、忙しさを周りにアピールしている。明は駒田の後をひょこひょこと追っていき、壁際に並べられた白い会議用机の端に向き合って座った。
 駒田は一つ咳払いをしてから言った。
「改めて言うことでもないですが、スケジュールは遅れています。それで、遅れをどこで回復するかということですが、昨日、こちらで少し考えてみたのですが、今は、明さんは一日に三機能程度ずつ作成してもらってますよね。これを、今後は一日に四機能ずつ作成していただきたい。それを今日からお願いします」駒田はこともなげに言った。
「はぁ」
「で、それでスケジュールを組み直したものがこれになります」
 駒田はプリンターで印刷した資料を取り出して、明の前に広げた。
「いけそうですかね」駒田が訊ねる。
 駒田は明からの明確な返答を要求していた。
「厳しいとは思いますが、なんとか頑張ってみます」
「まあ、厳しいスケジュールなのは分かっているのですが、お願いします」
 明は黙って広げられたスケジュールを見るともなしに見ていた。罫線の中に、階段状の太い線が左上から右下に下っていきながら詰め込まれていた。明は何も考えていなかった。最終締切はいつだったか、ペースを上げられた一日の作業量、そのときに必要となる集中の度合いがどんなものかを具体的に想像したりしなかった。そんなことを考えたところで何の足しにもならないと知っていた。
「できると受け取ってよいですか」駒田は口の端を歪めながら問うてくる。
 駒田は言質を欲しがっている。明の口から出たはっきりとした「できる」という言葉を欲しいのだ。
 分かりません。と言ってみようかと明は考えを巡らせた。分かりません。と答えたら、駒田はどう返すのだろう。
「分かりません」明は言った「できるだけ頑張ってみますが」
「分からないってことはないでしょう。できるかできないかですよ」駒田は抑揚のない声で言う。
 できない。と言ったらどうなるのだろう。駒田は「できる」と言うだろう。できないのは、あなたの能力が低いからだと。他の人ならできると。実際、俺の能力はそれほど高くはない。寝ても覚めてもコンピューターに触っているのが好きな奴ら、そういう奴らに比べれば確かに劣っているだろう。だが、ことさらに劣っているわけでもない。人並みだ。高くもなければ低くもない。
 できない。と言ってもいい気がする。もう、この職場を辞めてもいいんだ。こんな糞みたいな職場には早々おさらばしたい。俺は、もう人間を辞めてもいいんだ。というよりも、そもそも、俺が人間だったことなどあるのだろうか。子供の頃は人間らしくもあった。子供らしかったと言ってもいい。だが、俺は大人になれないんだ。大人になれないということは人間になれないということと同等だ。
「できます」
 明は静かに答えていた。
 天井のダクトから聞こえる低くて鈍い空調の音が耳の周りに絡みついた。
「じゃあ、そういうことでお願いします」
 駒田はそう言うと席を立ち、すみやかに去って行った。
 残った明は机の上に置かれたスケジュールの紙に視線を落としたままでいた。
 明の座っている傍を、スーツを身に着けた男や女たちが通り過ぎる。明の存在を気に留めることもなく、彼らは彼らの抱える仕事のことや、その悩み、または昨日の夜にあったこと、それから今日の仕事が終わった後にはどこへ遊びに行くか、などということを話して歩いていた。
 どうして、できます、と答えたのだろう。
 できないと答えてもよかったんだ。明は考えていたが、それは永久に分からないことのようにも思えた。
 明は席を立ち、机に座ってパソコンのキーボードを打っている人や、電話で遠く離れた人と何かの話をしている人たちを横目に見ながら、短い足を交互に前へ動かして自分の席へと戻った。

 岡本に何か言われるかとも思ったが、岡本は岡本で何か突発の作業が発生したのか、自分のパソコンを凝視して手を忙しく動かし続け、明には何も言わなかった。
 明は自分の席に座り、昨日の作業の続きをするために、パソコンのマウスを操作して作りかけのプログラムを開いた。昨日帰るときに作業を中断した部分へと画面をスクロールさる。マウスのホイールを人差し指でくるくる回して画面を上下させ、その前後に記述されたプログラムを何度か読み直した。プログラムの文字列を目で追いながら、昨日、自分が何を作っていたのかを思い出す。自分の作っていたものを思い出すと、続きに記述するプログラムコードを思い浮かべる。思い浮かべたコードに矛盾や破綻がないか、他のプログラムとの関連に不都合がないかを吟味して、問題がなければ、より効率のよいロジックと読みやすい記述を探る。そうして頭の中でプログラムを組み上げていき、完成するべきコードの全体像が見えたとき、明はキーボードを打ち始めた。
 プログラムとは字列だった。黒い背景の画面に白い文字が埋められていった。それらは主にアルファベットであったが、ところどころに日本語も混ざっていた。字列の中には。プラスやマイナスやイコールの記号もあった。明は小さな指でカーソルを操った。明は字列を打ち、また消し、コピーしては、他の部分へ貼った。なるべく綺麗に見えるように行の頭は揃え、同じような記述はまとめて整列させた。
 しかし、どうして、できる、と答えたのだろう。
 先程の疑問が頭の細胞のどこからか湧いて出て、明の並べる字列の中に紛れ込んできた。明は紛れ込んだ疑問の後ろにカーソルを持って行き、バックスペースキーを押してそれを一文字ずつ消した。キーを押すごとに疑問は画面から消えた。明は、他に余計な文字が紛れていないないのを確認すると、プログラムの記述を続けた。プログラムの完成形は見えていて、後はそれを画面の中に形作るだけだった。しばらくすると、また同じ疑問が紛れ込んでいるのを見つけた。明は溜め息をひとつ吐いて、文字列となった疑問を同じようにバックスペースキーで消した。
 しかし、どうして、できる、と答えたのだろう。
 明は指先でプログラムを記述しながら考える。
 俺はもう人間を辞めてもよいのではなかったのか。そもそも、俺が人間だったことなどあるのだろうか。子供の頃、俺は人間だったのだろうか。あの頃は、そんな疑問は持たずにいられたんだ。俺にも子供の頃はあったんだ。それだけでも十分な気もする。しかし、子供と大人の境目とは何だ。人はいつから大人になるのだろう。俺はいつから大人になりそびれたのだろう。





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最終更新:2011年07月26日 22:14
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