随想 頁2


天空の城ラピュタ
堅気に肩入れしても、尊敬はしてくれねえぜ。
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リーダー
みんなは強いリーダーを求めているようだが、そんなものが本当に必要なのだろうか。リーダーなんか必要なくて、単に善きシステムがあればいいだけじゃないか。システムはリーダーが作るものではない。皆で作るものだ。違うのだろうか。馬鹿じゃないかと思う。
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カラフル
 原恵一監督は「普通」を描く天才だ。「大人帝国~」から全くぶれていない。
 確かに、「カラフル」という語感では美化し過ぎの嫌いはある。本当に意味するところは、カラフルという語感から浮かぶような鮮やかな色合いだけでなく、穢れた色、くすんだ色、褪せた色、鈍い色、暗い色、それら全部を含めて「人の世」である、ということだ。だが、そこは児童文学であり女性原作者であることを鑑みれば、目を瞑ってもよかろうと思う。話の中では、それらの汚い面、きれい事だけでは片付けられない面にも、目を背けずに充分に描かれているのだから。せめてタイトルだけは綺麗であっても好い。人生賛歌を謳っていることに変わりないのだから。
 会話する人が一人いればそれだけで、涙が出るほど嬉しいことなのだ。この部分は見ている方も涙なしには見られまい。本当にその通りなのだ。メッセージがストレートすぎて感服するしかない。
 玉電のエピソードは実に好ましい。冴えない男子が仲良くなる切っ掛けは、案外あんなものなのだ。分け隔て無く人と接せられ、どんなことも鷹揚に受け止め、また受け流すことが出来る早乙女君には心が温まる。架空の人物なのに彼のことが大好きになってしまった。いや、彼を嫌いな人などいないだろう。
 父親が言う「お父さんも人間は嫌いだ、基本的には」の台詞も印象的だ。
 本年度屈指の名作と推すのにやぶさかでない。
 ただ、一つだけ言っておきたいことがあるのは、これは大人向けのストーリーだということ。もっと言うならば、大人が子供に見せたいストーリーである。
 今まさに苛めを受け、自殺を考えている中学生が、女の子ならまだしも、男子の中学生が、この映画を見たからといって自殺を思い留まれるかというと、そこには疑問符がつく。大人が言いそうなことが矢っ張りこの映画でも描かれているだけに過ぎない、と受け取られても仕方ないと思える。昨日までの自分は自分でない他人と思えば生きて行けるか? そんなことが簡単にできれば誰も苦しみはしまい。
 それでも、この映画に涙せずにいられない自分がいる。人生はとてももどかしく出来ていると思う。
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母なる証明
 ハリウッドなどを抜いて、近年は世界で一番面白い映画を作っているかもしれない韓国映画である。それを牽引する映画監督の一人ポン・ジュノ監督。この映画もまた期待を裏切らない出来だった。「母なる証明」を最高傑作の映画だとする人がいても全く異論はないが、私の中では最高傑作の部類からは一歩譲るという感じである。
 はっきり言って好みの問題ではあるのだが、それを以下に書いてみる。
 私は犯罪ものなら、ミステリー風の作りよりも、サスペンス風の方が好きなのだ。サスペンス風の方が映画的だと思っているから。そういう意味なら、同年の韓国映画「チェイサー」の方が好みだった。
 ポン・ジュノ監督は観客を宙ぶらりんにして終わるのが好きなようだが、私はヒューマニズムがストレートに伝わって来るような映画の方が好きだ。
 ヒューマニズムというと大仰だが、犯罪もので言うなら、「同情に値するいかなる理由があろうとも、人道に背く行為をした者には必ず破滅が訪れる」という筋が好きなのだ。
「砂の器」とか。
 そんなベタな話になっていないところが、この映画を傑作たらしめているのではないか。と言われると確かにそうかもしれない。
 捻りのある筋書きなどの外連味があってこそ、若い人を含めた多くの人に見られる要因ともなるのだろう。
 だが、矢張り長い年月を経た上では、ストレートな物語の方が、人の心にいつまでも残り続けるように私は思う。
 正直に罪を告白したところで、誰が同情してくれるわけでもない。障害者であることなど問題にならない。そういう世の中じゃないか。この世は公平になど出来ていない。私たち母子はそれをよく知っている。今迄だけでも人の何倍も苦労しているのだ。これ以上不幸になるわけにはいかない。そのためなら利用できるものは何だって利用する。愚鈍な者は利用されるのだ。例えそれが生まれつきのものであっても。より弱い者は利用されるのだ。哀しいことだけれど。私がこの子を守るのは、この子が障害者だからじゃない。ただ我が子であるからだ。他人の子供のことなど知ったことじゃない。どの親だってそうしているじゃないか。私はそのことを誰よりもよく知っているぞ。
 そういうことが言いたいのは分かる。母と子の罪科を問いたいのではなく、そういう決断をせざるを得ないような「世間」を問いたいのは分かる。それは充分に伝わる。
 それでも、こうした外連味を加えて語ろうとすること自体、どこか弱者との距離を感じてしまう。所詮はエンターテイメントの材料と考えているだけじゃないか、と。どこかで矢張り他人事である。
 弱者に寄り添うような形の外連味だって、世の中には存在するのだ。犯罪映画ではないが、同じような弱者を描き、世の酷薄さを描く映画なら、例えば、イ・チャンドン監督の「オアシス」はどうだろう。心象風景が現実と地続きで描かれる場面には誰しもハッとする筈だ。外連味というには随分地味かもしれないが、ここには作り手の優しさが感じられる。弱者を題材とするのなら、そういう映画の方が私は好きだ。
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トイ・ストーリー3
 基本は子供向けであること、かつ老若男女の全てに受けることを目標として、それを成し遂げている。続編の殆どは前作を超えられずに終わること、しかもパート3であることを考えれば、このクオリティは出色だ。シリーズを締めくくる上でも、ラストはあれ以外にあるまいと思う。
 だが個人的には物足りなさを感じた。パート1を凌駕するような何か。見たこともないような何かは無かった。王者ピクサーにはもっと凄い、想像もつかないような何かをこちらが勝手に期待しているのだ。
 ラストで描かれる今生の別れは泣ける。それはいいのだが、別れの場面で泣けるのは人間の生理作用のようなものなので、私のような捻くれ者の場合には、それだけで満足とはいかない。
 物足りないのは、そこに至るまでに、主要人物の葛藤や成長が描かれないこと。描かれないというか、隠蔽されているというか、さらっと流されているというか。
 今回の話は、すべて誤解や手違いが発端となっている。だから、単に主人公たちの事実認識として誤解が解け、手違いを戻せば、物語上のゴールに辿り着く。そこに内面的な葛藤はなく、単にアクション的なものや、ドタバタであったり、色仕掛けであったりで、さまざまな局面を打開するのみだ。
 敵グループのリーダーと部下たちが分裂する場面は葛藤と言えなくもないのだが、これもあくまで敵側の話なので、それほど情感豊かに描かれるわけではない。
 だけど、本当は主人公たちにも葛藤と成長はあるのだ。基本は子供向けであり、話が難しくなることを恐れたためだろうか、上記のような表層的な娯楽要素で中盤の多くを埋めることをピクサーは選んだと思える。
 主人公たちの葛藤と成長とは、嫌われたわけでないにしろ、どんなに頑張って気を惹こうとしても、「もう大人になったアンディに遊んでもらえることはない」と悟ること。
 そしてまた、子供が大人になることは、悲しみを伴うとはいえ決して不幸なことではなく、喜ぶべきことであると受け容れ、であるならば、屋根裏に仕舞われるよりは、大事に遊んでくれる新たな子どもの所へ行くために、「アンディとの別れを決意する」ことである。
「もうアンディに遊んでもらえることはない」は現実の場面が始まってすぐのところで既成事実のように1回描かれて終わりである。「アンディとの別れを決意する」はラスト前、ようやく家に戻ってホッとするのも束の間、引っ越しのごたごたの中で咄嗟にウッディがメモを書いて終わりである。
 敵軍団とのごたごたなどより、この部分をじっくり描いて欲しかった。敵軍団とのごたごたの末にウッディはアンディとの別れを決意したのだろうか? どうも違うように思える。敵軍団のリーダーが捨てられた理由は、持ち主が大人になったからではないからだ。
 このストーリーはウッディとアンディの話だ。であるならば、中盤においてもウッディとアンディの、今は失われてしまったかもしれないが以前は確かにあった絆、それは記憶の中には今でもしっかりと残されていることを、もっと多くの場面を割いて描いて欲しかった。
 この辺りが、どうも上手く誤魔化されているような気がしてしまうのが、大満足とはいかなかった理由である。
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告白   blog転載済
 全く面白くなかった。こんなに面白くない映画を映画館で見たのは久しぶりだった。途中で何度も帰ろうと思ったのだが、真ん中の席に座っていて、横に沢山の人が座っていたので出るのは我慢した。間違いなく今年(2010年)のワースト映画だ。しかし、yahoo映画レビュを見ていると、この映画を面白いと思っている人が思いの外たくさんいて、そのことに驚く。
 こういうのは映像の寄せ集めであって映画ではない。十代向けの娯楽作品だと割り切っても私には無理だった。だいたい、十代向けなのだとすれば、中学生は見られないようになっているのも理解できない。
 映像に興味があるだけで、何を語るかにはまるで興味がない中島監督の本質が完全に露呈してしまった。コメディならまだしも許容できていたものが、シリアスとなると致命的に詰まらなく、不愉快でさえあった。
 少年Aには善い人になろうとした形跡が全く見当たらない。そんな奴のこと知るか、という感じだ。感情移入など到底出来ないし、こんな奴が最終的にどういう結末を迎えようが全く興味を惹かれない。
 少年Aは救いようのない悪人であるとして、教師(松たか子)主体の復習譚にするならば、ミステリータッチではなく、「狼の死刑宣告」「チェイサー」のようにアクションサスペンス風に撮る方が、どんなに映画的だろう。
 原作からして粗がある。原作の第一章は短篇としてうまく決まっていると思う。しかし、後半に行くにつれて主人公の教師(松たか子)が、まさに「お前は神か」と思うほどに神出鬼没になっていく点。予測しようがない真相、伏線が無い、もしくは不十分な真相は、ミステリーとしては未熟である点。結局の所、ゲーム的なストーリーなのであって、人物のリアリティが感じられない点。それらの欠点も、新人作家がデビューしたい一心で書きあげた作品と思えば可愛げもある。しかし、そういう作品を、既に代表作をいくつか持っている五十歳を過ぎた映画監督が原作として選ぶのは、どうにも幼稚に過ぎる。儲かりさえすればいいのだという中島監督の本質が全編を通して画面から溢れ出していた。
 最後に鼻血が出るのは原作にないが、どう解釈すればよいのか。本当はHIVに感染していたのか、単に興奮したからか。感染していたとすれば、それは本当は牛乳に入っていたのか、検査機関のミスなのか、検査報告書を偽造したのか。まったく理解できない。おそらく、最後に鼻血が出れば映像的になんか面白いから、と思っただけだろう。
 映画監督とはシーンとシーンの繋がりで見る者の様々な心情を喚起するのが仕事なのであって、瞬間的に見る者を惹きつける映像を次から次へと連続的に並べ立てることが仕事なのではない。スーパースローモーションを撮影するのが映画監督の仕事では決してないのだ。
 シーンとシーンの繋がりで見る者の様々な感情を喚起するとはどういうことか。例えば、第一のシーンでは、車が猛スピードで道路を疾走するカットを映す。次に、お婆さんが買い物袋をたくさん抱えて前もよく見えないままヨタヨタと道路を渡っているカットを映す。このとき、それぞれのカットは映像的にそれほど凝ったものでなく、いたってオーソドックスなものであっても、殆どの観客は、次の場面で、お婆さんが車に轢かれてしまうのではないかと想像し、ドキドキヒヤヒヤと肝が冷える。こうしたやり口。シーンとシーンの繋がりで見せていく方法に精通しているのが映画監督なのだと私は思う。中島監督はこういうことに興味を持っていない。それよりも、そのカットを単体で見たとしても人が惹きつけられてしまうような映像に興味を持っているようだ。しかも、それは端的に云うならば、単にスーパースローモーションである。
 一部の社会学者などが苛めの場面に現代が描かれていると述べているのも解せない。あんなものが教室の縮図だろうか。本当の意味で見るに値する教室の病理が描かれているのなら、中学生にも見られるようにするのが作家の誠実さというものだろう。娯楽作品としてみても、社会派作品としてみても、いずれにしても中学生が見られないようになっているのは、何の意図で映画を作っているのかまるで理解できない。刺激的な映像を並べ立て、それでもって子供社会の暗部を描いて見せたように作家面する大人の方が、よほど虫酸の走る現代の病理と思えてならない。
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魔法少女まどかマギカ
見ながら感想。ネタバレを含むので気をつけて下さい。
現在、四話まで見た。四話は面白かった。最終話まで見られるか不安だったけれど、これなら大丈夫そうだと思えた。続きが見たい。
四話では友だちのさやかという女の子が、病気の男の子との喧嘩をし、それを切っ掛けに、まどかより先に、魔法少女となる契約を交わしてしまう。
普通、というか自分なら、このさやかという女の子の役は作らないように思う。病気の男の子との関係も、主人公のまどかとの関係にして、この辺りで主人公を魔法少女にしてしまうだろう。そうしなければ、主人公であるまどかの性格が、主人公にしては消極的に過ぎるから。うじうじしすぎている主人公、いつまでも傍観者であり続ける主人公は、好感を持たれない。普通は。
私はみんなの口コミの評判を信じている。みんなが面白いと云っているものは、たいてい本当に面白いのだ。というよりも、それこそが面白さなのだ。これについて、面白さとは何かについては、ここに書くと長くなってしまうのでまた後でどこかに書こう。
で、まどかマギカの話に戻る。傍観者的な主人公は好感を持たれない。が、この作品は評判がよい。ということは、それを覆すようなストーリーの妙味が、これ以降で何か描かれるのだろう。それが、どのようなものであるのか、この時点では思い浮かばない。
五話でキーワードとなる台詞が出てくる。まどかという少女は、まったくのイレギュラーで、どういう行動に出るかまるで予想できない。これは焔のことか?
六話。契約、願いごと、という言葉からファウストを連想してはいたが、ワルプルギスの夜が出てきて、それが決定的となる。あのウサギのような生き物がメフィストフェレスというわけか。一見愛らしい外見をしていながら無表情であるのにも納得。
キャラクターの描き分けは見事。まどか、さやか、麻美、焔、きょうこ。五人出てきて誰も被っていない。魔法少女ではないが、ひとみを入れても被っていない。「大人は誰しも辛いのさ。だから酒を飲んでもいいことになってんの」この台詞は好いですね。
七話。きょうこの親父の話はなんか面白い。まだ正確には分からないけど、このアニメが全体として描こうとすることと通じているのだろう。ただ、やはりこの段階だとさやかの方が主人公に見える嫌いはある。戦闘場面の演出は素晴らしいですね。私は基本的には演出よりもストーリーに興味を持つ人間だが、そのような私でも目を見張るほど、回を追う毎に戦闘の演出が洗練されていく。敵はミッションとして存在するだけで人格はなく、ドラマとなる葛藤は仲間どうしの間で起こしていくタイプのストーリーなのだとだんだん分かってくる。
八話。この世界は守る価値があるのか? こういうテーマ好き。第二の人物は焔であるのだろう。第二の人物とは、ストーリー全体で見て主人公の次に二番目に重要な人物のこと。つまりこのアニメはまどかと焔の話。考えてみれば、第一話の冒頭にまどかと焔が登場するので、それも当然か。インキュベーターとは? インキュベーターが敵であるなら、敵にも人格がある予感がここで示された。
九話。インキュベーターの語ることは殆どよく分からなかったが、それはよい。それは単に設定だから。大事なのは、そういう設定にすることで、どんなことを語ろうとするのかで、それが何なのか見ていく。インキュベーターには人格はなさそうである。
十話。クライマックスが近づいてきている感が高まる。と同時にちょっとトリッキーな展開だな。なななななんと、まどかマギカもXXXXものだったとは。ちょっとトリッキーすぎかも…。脚本家がノベルゲームのライターでもあることを考えれば、XXXXXものであることも必然なのかも知れないが。
十一話。このストーリーをどう閉じるのかまったく想像できない。
十二話。はぁー。こういう話だったのね。いろいろ思うところはあるが、今はまだうまく纏まらない。
……。さて、見終わって数時間経った。ともかく、あれやこれやと思い浮かぶことを纏まらないままに書いてみよう。
思い浮かぶこと。まどかのキャラクターが主人公としては弱い。傍観者的にすぎる。最終三話の展開があまりにも突拍子もなく感じる。焔を主人公として、最終三話の話を一話から丁寧に描いた方が感動する話になるのではないかという疑問。とはいえ、ストーリーの構成そのものは、もしも全て、特に最終の三話を丁寧に描ききるだけの時間があるなら、放映されたもの、つまり、まどかを主人公とするものでもそう間違ってはいないように思える。しかしだ、あまりにも荒唐無稽にすぎる。結局、この話題性はストーリーよりも戦闘場面の独特の演出にあったのだと、私は勝手に結論付ける。
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5人いればなんとかなる
TBSラジオ嶌信彦のエネルギッシュトーク、玄田有史氏の回で5人いればなんとかなるという話があり、面白い話だと思った。
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1リットルの涙
1リットルの涙は好いドラマだった。難病を持っている人に対して、人間ができることなどほとんどなにもない、ということを厳然と描いていた。お茶の間に語りかけるには随分と厳しい内容だったが、それを乗り越えさせたのはヒロインの可憐さと演技力だった。
これは「シークレット・サンシャイン」を見ても思う。通常の人間はあまり見ないでおきたいと思うような厳しいことを、それでもより多くの人に見てもらいたいときには、ヒロインの可憐さが力となる。
沢尻エリカは今ではすっかりイメージが悪くなってしまったので、もうこのような役をやることはないだろう。非常に残念だ。
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普通の人たちの暮らし
気らくな話題で毎日を暮らしたい。と思うのが普通の人たちのようである。普通の人たちは深刻なことを考えるのが嫌いなようだ。厳然としたことを語るときも、できるだけユーモアに包みながら話した方が、多くの人に聞いてもらえる。厳然としたことをユーモアに包むというのは非常に高度なことだ。そんなことできるか、ユーモアに包めないから厳然としているのではないか、と怒りすら湧いてきそうになるが、それしか道がなければやるしかないだろう。厳然としたことを語ろうとする人にはどこまでも厳しい道が敷かれているのだなと思う。
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正しいって何?
カワイイは正義。という言葉がある。正しいというのは正義と同義である。最近は、これからの正義の話をしよう、という本も流行っているらしい。しかし、この本を私は読んでいる時間が今の所ない。正しいって何、などというと、私などは、池田晶子さんの「14歳からの哲学」を思い出す。
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「卑怯」という概念
広辞苑より。
卑怯
①心が弱く物事に恐れること。勇気のないこと。臆病。
②心だての卑しいこと。卑劣。
とあるが、全然意味が分かりませんね。
卑怯とは正正堂堂としていなことでは、と思ったので、次は正正堂堂を調べてみた。
広辞苑より。
正正堂堂
①軍人などの勢いの盛んなさま。
②卑怯な手段を用いず、態度が立派なさま。
とある。ここで私が考えているのは②の意味ですね。少し近付いた。
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ニコ生、自然体
ニコ生を見ていて思うのは、やっている人が楽しそうだと、面白いってこと。話している内容やノリがよく分からなくても、やっている人が楽しそうだとこっちも面白くなる。言わずもがなであるが、その最右翼はケミキラ。
笑う門に福来たる。とか、溜め息をつくと幸せが逃げて行く。なんていうのは莫迦みたいに単純な言葉だけれど、やはり真理を突いている。笑っている人の所には人が集まってくるし、暗い顔をした人の傍から人は離れていく。
それは真理なのは分かるのだけど、ここで私が少し考えてみたいのは、それでも、そうそう簡単に笑ったりできない状況もあるってこと。
笑うことが面白くなくなってしまった人は笑えない。そうなるとルサンチマンの穴に嵌り、容易に抜け出せなくなる。それではどうすればよいのか。
イ・チャンドン監督の「シークレット・サンシャイン」という映画がある。この映画は、一見すると「宗教は役に立つのか」というテーマを描いているようにも見えるが、より本質的には、上記のようなことを描いているように思う。
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現実的な妥協能力
適いもしない理想をいつ迄も追求していても仕方がない。理想は頭の中で無限に遠のいていく。随想や思索で富を得ることはできない。霞を喰っては生きていけないのだ。時は過ぎてゆく。どんどん過ぎて行く。社会は混沌としている。
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パンがなければブリオッシュを食べればいい
前に勤めていた会社の近くにあった喫茶店にブリオッシュサンドが置いてあってよく食べた。ブリオッシュサンドは美味しかった。
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人物の比率
社会学をやっている人たちに、人物の比率を調査して結果を発表してもらいたいのだが、そういうものは社会学の分野ではないのだろうか。人物の比率とは、人間の性格やキャラクターの比率のことで、私のように思索的な男は全体の何割いて、逆に体育会系の乗りの人は何割いる、ということを様々な指標で調査したもの。
思索的で物静かな人間はクリエイティブな仕事や机でできるような仕事についていて、体育会系の人は飲食系や肉体労働や営業職についていそうなイメージである。しかし、中にはそうでない人もいるだろう。物静かな性格だけど営業職についているとか、体育会系だけど映画やなんかのクリエイティブな仕事をしている人もいるだろう。そういう、一般的なイメージとは異なる仕事に就いている人の中には、不本意ながら現状ではその仕事に就いてしまっている人もいれば、やりたくてやっている人もいるだろう。画一的なイメージだけで決めつけられても困る、という感じだろう。
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最近の疑問
ジャーナリストや社会学者が、あれこれとしたり顔で意見を述べているけれども、私には彼らの喋っていることが殆ど全部よく分からない。
経済学者や社会学者などがそれぞれの分野で様々な問題とその解決案を語っているが、根本的なところが語られていないと私には思えるからだ。
ただ、これを書くと、それは哲学的に過ぎるとか抽象的に過ぎるとか、思索的に過ぎるとか言われそうだから今までは言わないでおいたのだが、どこかに書かないと気が済まないので書くことにする。
おそらく政治哲学者だとかそんな人の中には同じことを考えている人がいないわけないと思うし、例えば、宮台真司だとか池田信夫だとかの頭の良い人たちが、この程度のことを考えていないはずないと思うが、私が考えているような切り口で発言している人がいないのは何故なのだろうかとも思う。
こういう切り口はもしかしたら幼稚なのかもしれないが、私には分からない。
さて、それで、その内容である。
それは、さまざまな社会的事象は、それが問題だとか問題でないとか語るとき、詰まるところ、どの程度の他人にまで優しくするのか、という話に行き着く。
現時点において、自分と直接の利害関係を持たない他人には、優しくしなくても好いのか、という問題だと思う。
他人とは、自分に利益をもたらすためのカモなのか。
あるいは、目の前に傷つき倒れた者が居て、そいつは見ず知らずの他人であったとき、また、助けたところでたいした見返りもなさそうであるとき、オレの知ったことじゃねえとばかりに、倒れ苦しむ者を横目に過ぎ去ることは、よしとされるのか。
少なくとも現在の法律では罪に問われることはないわけだが、道義的に考えてもそれが普通でしょ、と考える人が多そうな世の中ではある。
他人と自分の区切りはどこにあるのか、という問題ともいえる。
やはりこれは少し哲学的に過ぎる話題ではあるものの、このようなことを明確に論じた上でなければ、具体的な様々の社会問題の各論を論じてみたところで、いっこう結論に辿り着かずに考えが迷走するだけだと思うのだが果たして。
他人と自分の区切りはどこにあるのか、というのはさすがに抽象的に過ぎるとするなら、国益とは何なのか、という議論に替えてもよい。
みな、特に知識人などは国益国益とことさらに持ち出すけれども、国益ってなんなの? 国益と云いながら単に自分の利益を推し進めているだけじゃないの? と思うことが多々ある。自分のエゴを国益にすり替えて話している人が多すぎる。自分の趣味を自分以外の人つまり他人に押しつけるパワーゲームをしてるだけでしょ、としか思えないような人ばかりである。
追記。このエントリーを書き始めたのは2010年の10月ぐらいだったと思うが、ここに書こうとしたを端的に示す出来事として2011年3月11日の原発事故が起きたので追記する。私がここで云おうとしている、他人と自分の区切りはどこかという問いを、福島の原発事故に寄せて云うと、東京に住んでいる私は福島に暮らす人たちのことを、自分と何の利害を持たぬ他人と見なすのか、あるいは、自分のことのように同情し優しくするべきなのか、どちらが社会的に妥当なのか、という疑問である。
編集(管理者のみ)

私の当面の問題
他人はカモにすぎないのか。だとすれば、私はそんな世界に住んでいて楽しいのか、という問題。
優しさは、ルサンチマンの裏返しなのか。だとすれば、私はもう何をやる気も起きなくなる、という問題。
永井均「倫理とは何か」ちくま学芸文庫に書いてあることはどうも本当らしく私には思われる。
世の中には本当の話と嘘の話がある。本当の話とは宮沢賢治「毒もみのすきな署長さん」、嘘の話はトルストイ「イワン・イリイチの死」である。そうであるとすれば、私はどのような話を書くべきなのか。
端的にいって、善なることをした者は報われ、悪事を為した者は破滅する物語に、受け手は感動するとする。或いは、人間の価値は外見や金持ちかどうかといった俗な価値で決まるものではない、というような話に感動するとする。また、無私の優しさは美しい、というような話。
 なぜ多くの観衆はこういう物語に涙を流すのか。それは人間の心に本質的に埋め込まれている琴線だからだと私は思ってきた。だから、こういう物語を書くことは正しいのだと。しかし、多くの人間が本質的に持っている琴線なのだとしても、それは現実に適うことなどないからこそ誰もが希求する幻想なのだとしたら、希求すればいつかそれが現実になるかのように物語るのは嘘なのであり、受け手に不誠実なのであり、そうでない者により好都合なものを垂れ流しているに過ぎないのではないか。
そういう作品が世に広まることによって、現実の価値転倒は起こるのか、という問題。
このジレンマ。そういう物語を見ても、一時の慰めにはなっても、現実的な効力は何もないのだとしたら、どのような物語を作るのがよいのか。一時の慰めになるだけだとしても、そして、それが一時の慰めにしかならないのだと分かっている観客もいれば、分かっていない観客もいる中で、それでも一時の慰めにしかならない作品を書くべきなのか、書くことに意味があるのか、という問題。
云い替えれば、「泣ける」は善なのか、という問い。私は、ある作品が上質であるかどうかを、感動するかどうかで測っているが、もっと端的に云うならば「泣ける」かどうかで判断している。私が泣けるストーリーには、一定の条件があることが分かっている。それは抽象的な言葉を用いて論理的に説明することが可能だ。それはおいおい話したい。そして、私が泣けるストーリーは世間の人にとっても概ね好評であり、泣けるストーリーであるようだ。その一致を私は経験的に確信している。ただし、断っておくと、私は間違っても「世界の中心で愛を叫ぶ」や「恋空」のような映画で泣いたりしない。
私が掛け値なしに面白いと思い感動した現代の物語作品に「赤目四十八瀧心中未遂」「永遠の仔」「シュタインズゲート」がある。これらは本当の物語なのか嘘の物語なのか。夏目漱石の「行人」は本当のことが書かれている小説だと私には思われる。だが、「虞美人草」は怪しい。
私が善を為すとき、相手からの見返りを期待していたのではないか。だから、それが得られなかったといって、不満を感ずるのではないか。
「ノーカントリー」にアントン・シガーという男が登場する。この男は、虫けらを殺すほどの躊躇いもなく他人の命を奪っていく男だが、彼がこういう男になった要因が、他人に優しくしてみたところで何の見返りも得られないからだと気付いた反動なのだとすれば、元々は、他人に優しくすれば何らかの見返りを得られると信じていたことになる。コーマック・マッカーシーがそのような意図でアントン・シガーを造形したかどうかは分からない。私がそういう人間だから、アントン・シガーにもそれを投影してしまうのかもしれない。
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池田信夫ブログ 原発の限界費用と外部性
このエントリーには同意。問題の本質はエネルギー政策と称して政府が特定の電力事業をバックアップしていることだと思う。戦後の復興期ならいざ知らず、未だに政府と電力が密接に、殆ど同一の事業体であるかのように癒着しているのはどう考えてもおかしい。
クリーンだからだとか安いからだとか理由はどうあれ原発の方がいいと思う人は勝手に使えば良いし、原発の方が将来性があると思うなら、原発にイノベーションが起きると本気で信じる資本家が投資をすれば良いのだ。それが資本主義じゃないのか。どうして国民みんなで投資し、事故が起きたときの尻ぬぐいまで国民みんなでしなければならないのだ。
問題は「選べない」ことだ。発電と送電の分離をし、もし原発の事故が起きた場合には、事故を起こした電力会社が損害賠償を行い、それで足りなければ、過去に遡ってそれまで原発で発電した電気を使っていた人もしくは企業が各々使っていた時間に比例して損害賠償金を分担するようにすれば話は分かり易いと思う。
政府が主導しているから汚染被害を小さく見せようとする動きも出るのだろう。確か今回の事故でも東京に住んでいながら東京電力に対して放射能被害の訴えを起こした人がいたと思うが、上のようなシステムになっていれば、その人がまず原発の電気を使っていたかどうかが問われ、使っていなかった場合にだけ訴えを起こせる。場所的にはその人の隣に住んでいる人でも、原発の電気を使っていた人なら損害賠償をする方に回らなければならない。こういうシステムの方が分かり易くてよい。
このとき、福島の事故で250km離れた東京の人にも損害賠償金を発生させるべきか、発生するならいくらなのか、要するに何mシーベルトならいくらの賠償金とするのが妥当なのかは、電力会社とは何の癒着もなく、いかなる圧力を受けることもない行政府と立法府と司法府が決めれば良いと思う。そして付け加えるならば、裁判官がその決断を下すときに自ら頼みとするところのもの、あるいは国会議員がその法律を策定するときに自ら頼みとするところのもの、それは被害者と加害者または原告と被告の双方への想像力に他ならない。彼らの想像力というのは、彼らがその特権的な地位から一人で作るわけではなく、当事者でないにしろ同じ国に肩を寄せ合って暮らす私たち国民ひとりひとりの想像力の総意が、彼ら特権的な地位にある人々の想像力をも創るのだと思う。そして、その国民ひとりひとりの想像力を心の奥底で支え育む糧となるものが、文学であり哲学なのであると私は思う。
こういう考え方は少し理想論に過ぎるのだろうか。
少し余談めくが、上のシステムについてさらに云うならば、携帯電話にいろいろな料金プランがあるように、原発の電気代にもいろいろな料金プランを用意して、最初から月々の基本料金に事故が起きた場合の賠償金が含まれている替わりに、実際に事故が起きたときの賠償負担額は軽減されるもの、あるいは、基本料金に賠償金は含まれないが、実際に事故が起きたときには負担が大きくなるものなど、様々に選べるようにするのがよいかもしれない、などと想像力を巡らしてしまった。
ともかくも、「選べない」ことこそが問題だと私は思うわけだが、脱原発を訴える人の中にも、これをよく考えている人は少ないように見える。よく考えずになんとなく雰囲気で自然エネルギーへのシフトを訴えている人が多い。自然エネルギーへのシフトを訴えるにしたところで、それよりも発電と送電の分離が先であろう。「脱原発」を訴えている人の中にも、自分では明確に意識していないのだろうが、その正確に意味するところは「脱・政府主導の原発」である人が多いのではなかろうか。
編集(管理者のみ)

池田信夫ブログ 道徳なき商業
このエントリーはある程度溜飲の下がるものだった。事故以来、池田氏の発言する内容は頭から否定されるものでもないけど、どこか納得できないと感じていた。そのもやもやに答えるものであった。初めに云っておくと、私自身はそれほど熱心に反原発活動をしているわけではない。しかし、もしも原発に賛成か反対かを問われ、どちらかに投票しろと云われれば、反原発に入れるだろう。やはり、あんな事故を目の当たりにすれば心情的には反原発に傾く。ちなみに、私は多くの人たちと同じように事故が起きてから発電の問題に関心を持っただけの人間でもある。
さて、エントリーの内容に戻る。多かれ少なかれ、何から電気を作ろうとも現代の大量消費社会に生活する限り私たちは環境を汚している。これを断言してしまう池田氏は言論人として潔いと思う。
人が百人いれば九十九人は俗物に過ぎないのであり、一人の聖人が高潔な理想を掲げて俗物たちを率いても、多くの人々は窮屈な理想に息苦しさを感じ、結局は破綻し、碌な結果を生み出さない。残念なことではあるけれども、これは真実だと思われる。また、九十九人の人間は理性的に考えれば愚かな人々に他ならないのであるけれども、それは各自の罪というよりは、人類の遺伝子レベルに組み込まれた愚かさなのであって、各自の努力では如何ともし難いものだと私は思っている。
人類の先陣を切って道徳的に正しいことをしても、経済競争においては損をするばかりである。核エネルギーは人類に取り扱えるような代物ではなく、事故が起きる毎にどこかの地域の子供たちが放射能を浴び、数年後にはその数パーセントが死んでいく。それは見るに忍びないことだ。そういう理由で原発を廃止するのであれば、その道徳水準が世界全体の共通認識となり、国際協定や法律ができる機運が高まってからにせざるを得ない。少なくとも現在においては核を用いて電気を作ることは国際的に違法ではない。そんな中で高潔な理想だけに酔って核を捨てても、マネーゲームにおいては敗北する。マネーゲームに負ければ、いくら立派な思想で内面の矜恃を支えようとも、現実の生活は荒廃していく。そのような牧歌的な思想が全世界に浸透するにはまだ数百年を要するだろう。割を食う子供たちは可哀相であるが、現実の悲劇が起きてからでないと改められないのが人間である。
ただし、これは化石燃料よりも原子力の方が安いというのが本当だとしての話である。孫さんなどは実のところ原発の方が高いと云っており、どちらが本当なのかを私は知るすべを持たない。
人間の作る社会においては、どこかの何の罪もないただ割を食うだけの人々が本当に命を落としてしまってからでなければ安全基準を定められない。人間とはそういう愚かしい生き物である。ただ、こういう人類の愚かさを認めた上でなお、どんな発言をするかに人間の品性がでるのも事実で、政治力を行使して理想を人々に強要するのは否定されても、自分の資財を用いて理想を説いて回ること自体は、否定されることでもないように思う。孫さんは、自分の資材で自然エネルギーへシフトしようとしているのか、政治的圧力も利用してそれを進めようとしているのか、今のところはよく分からない。小出さんは聖人と呼んでも差し支えない部類の人間だと思うが、孫さんが聖人なのかは疑問の残るところである。実業家が損になるようなことをするはずがないからだ。孫さんは自分自身がITや携帯電話のイノベーションを起こして今の位置にいるわけでなく、成長産業にうまく乗っかることに秀でており、それにより今の位置を築いた者である。いわば優秀な利権ゴロであるが、それが悪いとは云わない。現代に於いては優秀な利権ゴロであることが優秀な起業家であることと等価と見なされているからだ。
また、真の価値が拮抗している場合、情報操作やコマーシャリズムによる価値操作のパワーゲームというのはどんな分野でも起こるのだと思う。
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池田信夫アゴラ 公害のオークション
市民の一人ひとりが自分の家と原発の距離、あるいは自分の人生観などから貰いたい額を申請し、それを合計した額を市長が提示するならいいと思う。かつ申請した額が各々にちゃんと払い込まれること。市長が独断でざっくり決めるとかでは駄目であろう。
原発から5kmぐらいの町に住んでいたとして、いくらが妥当な金額か知りたいと思った。電力会社の安全管理能力は現在の東電と同じから永久に向上しないとする。
経済には疎いので「パレート効率的」と「コースの定理」を知らず、wikipediaで調べた。「パレート効率的」が何なのかは分かったが、なぜパレート効率的な状態を目指した方が好いとされるのかが今ひとつぴんとこなかった。「コースの定理」は理解できなかった。
原子力と化石燃料のどちらの方が死亡率が高いかなんてどうでもよくて、環境だとか人類の未来とかもどうでもいいのだけれども、どれだけ多額の電気料金という名の賄賂を払っても、事故が起きれば、従事者や作業者だけに被害を被せることができず、(約250km以内にいれば)自分たちも被害を多少は蒙り、完全に免れることはできないことが分かったから、原発は嫌なのだという人もいるのではなかろうか。言わば、「公害の排出権」を買っていると思っていたのに完全には買えていなかった、あるいは原発の場合は完全に買うことができないことに気づいたから原発に反対している人もいるのではないかと思う。実は私などはその部類である。
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最終更新:2011年09月06日 02:26
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