ゲーセン不思議っ子 と
赤目四十八瀧心中未遂
あるいは お涙頂戴物語 と 話の真偽。
ゲーセン不思議っ子という話が2ちゃんねるで話題らしい。そして論議を巻き起こしているらしい。ざっくりと読んでみた。
論議の中心はこれが実話なのか作り話なのか、らしい。わたしの考えでは、そんなことはどちらでもよろしい。
さしあたってそれほど変な話ではないと思った。わたし自身は泣くまでには至らなかったけれど、泣く人がいても別にいいんじゃないかと思った。
嘘か真かという論点の比較として、一杯の掛け蕎麦 と 余命一ヶ月の花嫁 を挙げている人がいた。一杯の掛け蕎麦をどんな話か知らないのでwikiのあらすじを読んでみた。よくできた話じゃないか。作りすぎてないというか。三杯目を十年後に食べるところなんか。この案配が人にうけたのだろうね。しかしそれより何より驚いたのは、永井愛が映画化の脚本を書いていることだ。面白かったんですかね。
わたしは真偽の話をしたいのではなかった。死の話 について。より正確にいうなら、死の作り話 について。
人が死んでしまう話に泣くのは愚かしいことか。いわゆる、お涙ちょうだい物語は、安っぽい話なのか、である。
あの花 なんか全話で泣いた。わたしは幽霊成仏ものに弱い。クラナドなら渚より風子だ。
死ぬにしたって事故で死ぬのと病気で死ぬのは異なる。
難病ものは安っぽい話なのか。1リットルの涙は良い作品だった。映画版の方が堅い作りと見る向きもあろうが、案外と沢尻エリカが演じたドラマ版も印象に残っている。
このように、わたしはお涙頂戴物語が大好きだ。
しかし、なぜかは分からぬが、少なくともわたしは安っぽいと感じた作品として、恋空 世界の中心で愛を叫ぶ 余命一ヶ月の花嫁 が思い浮かぶ。どれも女性がターゲットだ。
優れた作品とは何か。いつまでも人の心に残り続ける作品 である。だから、映画のレビューなんか、見てから十年以上経ってからでないと投稿できないシステムを導入すれば、より正確な作品評価が得られるだろうと常々感じている。
とりみきが一杯の掛け蕎麦を読んだときの随想があるらしい。ひどく共感できる。どうしてわたしが あの花 の第一話から、そして続く全話で泣くのかを説明している。
作家なんて、按摩やヘルス嬢とやっていることは変わらないのだ。人間には琴線というつぼがある。それを熟知し、的確に圧すのが作家だ。
しかしそこに、単なる金儲け以上のなにかがなければ、少なくともあるように見せかけなければ、人は泣かない。受け手とはそういうものだ。なぜか知らんが。
これより赤目四十八瀧心中未遂の結末に触れる。
赤目四十八瀧心中未遂は人が死なない。まあタイトルからして未遂とうたっておるわけだから、ネタバレには当たらないような気もするが。
少なくとも主要人物は死なない。
死なないが、なぜ感動するのか。そこには死よりもさらに恐ろしいものへ自らの意志で飛び込んでいく綾ちゃんの姿が鮮烈に描かれるからだ。
百年もの孤独へと自ら飛び込むことが人に示しうる最大の勇気だとすれば、綾ちゃんはそれを示している。
シュタインズゲート。およそ対象読者層のまったく異なる作品であるのに、シュタインズゲートと赤目四十八瀧心中未遂には同じことが描かれていると思えてならない。綾ちゃんとクリスティーナは似ている。死よりも恐ろしいところへ自ら飛び込む姿が。それを決断する姿が。
ストーリーには受け手が初めから知っている感情しか描けない。共感しか描けない。受け手の知らない感情を描き、教えることはできない。それができるのはドキュメンタリーだ。
だから、ドキュメンタリーの方が優れているのだし面白いとみなす人もいるだろう。その面白さに取り憑かれたのが想田和弘監督であり、フレデリック・ワイズマンだ。
だが、作り話もやはり捨てがたい。
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小出裕章参考人の全身全霊をかけた凄まじい原発批判
小出さんが最後に引用するマハトマ・ガンジーの言葉は胸を打つ。矢っ張り小出さんってすごいなぁ。小出さんの云うことに何も間違いはない。感服するより他にない。……でも、いや、そうだっけ? と自分に待ったを掛けてみる。小出さんの云うことに間違いは何もない筈なのだが何かが引っ掛かる。
この随想の他のエントリーを読んでも分かるとおり、私のようにちょいと社会派なことを書き連ねている者は、博愛主義者、理想主義者なのだろうと思われがちで、実際のところ人格形成の基本的な部分はそうしたメンタリティで間違ってはいない。だからこの動画を見た直後は小出さんに全面的に賛同してしまうのだけれど、いやいや、私の人格はそれ一辺倒というわけでもなく、例えば原発賛否の話題なら消極的賛成派と自称する池田信夫氏の発言に頷いたりする部分もある。確か前に、自分の中では五月ぐらいに結論を出して、原発の賛否についてはみんなの合議で決めればいいんじゃないかと思った筈だった。私は左派リバタリアンの筈。その意味で、原発そのものは人間の自由を侵害するものではなく、その賛否は市民の合議体が決めればいいと思った筈だ。それがどうしてこの小出さんの動画一本で原発絶対反対派の主張にころりと説得されてしまうのだろう。
そこでまたアインジヒトを私の脳内に呼び起こし、小出さんの主張に論理的な根拠がないことを思い出してみたい。まずはアインジヒトの悪魔的人格の視点で語り、次にある程度現実の政治哲学、私の場合は左派リバタリアニズムだが、それに則って考察してみたい。
自分さえ儲かれば他人の子供が癌になろうが国土に進入不可地帯ができようが知ったことじゃない、というメンタリティの人間を否定することは出来ない。多くの国民、延いては人間とはそういうメンタリティしか持ち合わせていない。私は三十数年間生きてきてそのことを経験的によく知っている。
大多数の人間は人類や国の長期的展望などまったく考えていないし、そんなことを考えるメリットも必然性もない。目先の利益や現世で自分が得られる利益を優先させるに決まっている。大多数の人間はあわよくば自分も斑目委員長になりたいと思っているのだ。これを小出さんの周囲で聴いている議員たちの多くもそうであろう。口に出して言わないだけで。
ある一定の確率、数十年に一度ぐらい都道府県の一つが滅びる。それでも我々は電気が欲しいのだ。滅んだ県民のことなど知ったことか。と、多くの国民が思っているなら、もっと極端に言えば、明日世界が滅ぶとしても私は今日電気が欲しい。と、大多数の国民が思っていて、合議体でそれが決定されたのなら、それに従うしかないのだ。小出さんに出来ることはどれくらいの確率で事故が起こりその被害はどのようなものであるかを詳細に正確に誠実に説明することが出来るだけで、それでどちらを国民が選ぶのか強制する権利まで小出さんが持っているわけではない。そう、私が違和感を持ったのはここのところ。書きながら考察して漸く分かった。小出さんは、人々が、あるいは最低でも企業や政府の然るべき地位の人は普通いわれるところのまともな倫理観を持つべきだと、べき論で話す。マハトマ・ガンジーなんか引き合いに出して巧みに我々を啓蒙する。しかし、それを強制できるだけの論理的な根拠は本当はないのである。
ガンジーの七つの社会的罪を改めて載せる。
1.理念なき政治 Politics without Principles
2.労働なき富 Wealth without Work
3.良心なき快楽 Pleasure without Conscience
4.人格なき学識 Knowledge without Character
5.道徳なき商業 Commerce without Morality
6.人間性なき科学 Science without Humanity
7.献身なき信仰 Worship without Sacrifice
without以降の語句にさまざまな言葉を当てて文学的効果を高めているけど、これを引っ括めて言うと倫理だと私は思う。労働なき富の労働と献身なき信仰の献身という言葉だけは、そのもので倫理を顕しているわけではないが、それらのない富なり信仰には倫理がない。ガンジーは社会で行われるありとあらゆる活動には倫理が不可欠であると主張しておるのだ。
次に左派リバタリアニズム的な考察。
そうだ、私は原発そのものの是非は市民の合議体が決めれば好いと思っているけど、発送電の分離はやるべきものとしているのだった。
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男と女
男と女とはいったい何なのか。世間の俗人はおろか知識人さえもこれを知る人は少ない。かくいう私もこれからここに記すのは
「科学でわかる男と女の心と脳 男はなぜ若い子が好きか?女はなぜ金持ちが好きか?」の完全な受け売りであって、別に自分で研究ないし考察をしたわけではない。しかし、これに記された蘊蓄は殆ど正しいと思えるし、表紙の絵柄から低年齢向きの本だと思われているのか、あまり重要な本として世間では認知されていないようだ。こう言っては何だが、小説以外の本でいくつか良書を挙げろといわれたなら、私は迷いなく永井均「倫理とは何か」と本書を挙げる。この二冊があればおよそ人間のことを考えるのに必要な材料と考察の指針は全て事足りるといってよい。「倫理とは何か」は哲学の分野、本書は生物学の分野から人間を考察するものだ。
私がしたり顔でその内容をここに記すこともないのだが、それで本書を初めて知る人への案内ができれば本望である。
さて、男と女とは何か。それは、哺乳類の中でも人間と呼ばれる生物、これの雄と雌である。じゃあ、雄と雌とは何か。それは、有性生殖をする生物のうちで、卵を持つ性を雌、卵じゃない方、通常は精子と呼ぶものを有する性を雄と呼んでいるのである。
どうだろう。そんなの当たり前じゃん、中学校で習ったよ、と感じるだろうか。私も最初は気づき難かったんだけれども、ここで注意したいのは、女だから卵を作るのではなく、卵を作る人が女なのである。もう少し言葉を添えるなら、卵を作りまた育むのにより特化した肉体及び精神を持って有性生殖生物の発祥以来脈々と、分けてもヒト科の生命体として生き残ってきた者が女なのである、ということだ。主体はあくまで卵つまり生殖遺伝子にあるということが、言われてみなければ意外と気づき難いちょっとしたパラダイムシフトなのである。男もまた精子に於いて然り。男と女のあらゆる齟齬は、卵と精子の齟齬に帰結します。卵と精子なんて形も大きさも全く違うわけで、そう考えると男と女は等しく理性を与えられているように見えて、その実まったく異なる考え方で生きていることにも酷く納得がいく。
我々を含む数多の遺伝子が考えていることは偏に生存競争である。いわゆる利己的な遺伝子というやつだ。
最初は無性生殖生物しかいなかったところに、ぽっと出で有性生殖生物が出現した。無性生殖よりも有性生殖の方が子孫の個体差の幅が広がり、時に突然変異体の生まれる確率も大きくなるため生存競争に有利である。そういうわけで、地球上にはあっという間に有性生殖生物が圧倒的にはびこった。
さらに、折角二種類の生殖遺伝子に別れたんだから、それぞれ役割を担って特化した方がより安全で効率的なんじゃね?といって生殖遺伝子は各々変容する。有性生殖により得られるメリットは生まれる子孫の個体差の幅だとしても、それは片側の性だけが担えば事足りる。それに特化したのが精子である。もう片方は少数の遺伝子、つまり卵でもって待ち受けて、受精後の生命を育むことに注力した方がより安全で効率的だ。鮭の卵いくらに代表されるような魚類の卵は少数ではなく無数にあるじゃないかとの反論もあろうがそれでも精子よりは圧倒的に少数なのだ。
要するに、男は撒き散らすのが仕事であり、女は拒むのが仕事である。これは杉作J太郎も「恋と股間」で云っている。慧眼だ。科学的な論拠など何にもなくてもこうした男と女に纏わる真理に軽々と到達できるのは杉作J太郎の人文学的な天才性の発露である。男と女の利害ははなから一致していない。どんなに努力してみたところで男と女が理解し合えるときなど永遠にやってこないのだ。これは確かラカンも云っていた。
つまり、どんなに不器量な女でも、女であるというだけで拒むことが仕事なのであり、その機会も担保されている。女は女であるだけで男という他人に己を求められるのだ。たとい百パーセント体が目的なのだとしても、求められることには変わりない。替わって男はといえば、これは最底辺の者ともなれば誰からも見向きもされず拒まれ続けるのみである。排斥である。
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コクリコ坂から ネタバレを含みます
宇多丸さんのシネマハスラーを聴いて違和感を感じたので私の意見を書いてみる。私は傑作だと思った。
始めに言っておくと、別に宇多丸さんの評論は的が外れているとか、映画の見方を分かっていないとか云いたいのではない。単に、私はどのように見て、どのようなところが傑作だと思ったのかを記し、表明しておきたいだけなのである。その違和感を言葉で語っておきたいだけなのである。
宇多丸さんや、コクリコ坂は取るに足りない作品だという他の人たちを、「いや、この作品は傑作なのだ」といって、説き伏せたいわけではない。もしも、私の見方の方が未熟であるのなら、それはそれで私としては良いのである。
ちなみに、
宇野常寛もここで論評を書いている。お金を払わないと途中までしか読めないが、先日の朝までニコ生討論の第一部で語っていたことと合わせても、あまり佳い作品とは考えていないようである。ただ、私のシュタゲ論にも少し書いたが、私は映画やアニメ、ゲームの批評をするときに、作者の世代的なメンタリティを取り上げて、それで切って捨てるような評論は好きではない。また逆に、人気を博する作品から国民のメンタリティの総体を断じるような評論も好きではない。これは東浩紀や宮台真司もよくやるやり方だ。そういう論評も人文学的論評としてそれなりの需要があるのだろうが、私はそうしたものに一向関心がない。私は世代的メンタリティに関心がない。そんなことは些末なことだとみなしているからだと思う。私は時代が移っても変わらない普遍の人類的どうしようもなさが好きだ。少なくとも有史以来、人類は相も変わらず碌でもない。人類にはどうしようもない人たちと、立派な人たちがいるわけではない。救い難いほどどうしようもない沢山の人たちと、まだしも可愛げのあるどうしようもない人たちが幾人かいるだけだ。これは数々の世界文学を読んでいるうちにうっすらと気付いてきたものだが、小説を離れて
「科学でわかる男と女の心と脳 男はなぜ若い子が好きか?女はなぜ金持ちが好きか? 」を読んだときに決定的な確信となった。人類はこの先も未来永劫に碌でもないのだ、遺伝子レベルでだ。ブコウスキーもこう云っている。人類の大部分はひり出された長い糞のようなものにすぎない、と。まったく同感だ。
というわけで私は、単にその映画が理に適った面白さを持っているか持っていないかを分析する評論の方が好きだ。その意味では宇多丸さんの評論の方が全般的に好きである。これについては私なりの持論があるのでまた別のエントリーで詳しく書いてもよい。私の好きな映画評論というような表題で。
さて、前置きが長くなってしまったがコクリコ坂である。私は二か所で泣いた。路面電車の駅で、恋心は変わらぬことを海が俊に宣言する場面。海が母親の前で涙を流す場面。このふたつだ。
宇多丸さんは、そんな重要なことをちゃんと伝えてないのは、大人として駄目なんじゃないか、引いてはそれは物語を謎で引っ張るための作り手の御都合主義なんじゃないかという。私はそんな風には全然見なかった。何故だろう。
私は元々吾朗さんを懐疑的な目で見ていない。私はゲド戦記すら面白いと思った男である。
直接関係ないけど、おまけの話題。これは宇野常寛の朝までニコ生討論でもあった質問で、定番過ぎて、ましてここで私には誰も聴いていないのに自分から云うのは少し恥ずかしかったりもするけど、やっぱり云いたいこと、誰かに聴いてもらいたいこと、「宮崎駿で一番好きな作品は何か」なんだけど、私の場合は「天空の城ラピュタ」と「千と千尋の神隠し」が一番好きである。一番好きと云いながら二つ挙げてしまって申し訳ないが、本当にこの二つが同じくらいに好きなのだ。
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神保哲夫 これはジャーナリズムの生き残りをかけた戦いだ
神保さんはおそらく現在の日本で一番まっとうなジャーナリストである。宮台真司、東浩紀、中島岳志、岩上安身、上杉隆、池田信夫なども優れたジャーナリスト、社会学者、
批評家だと私は思っているが、神保さんは群を抜いていると思う。神保さん以外の上に挙げた人たちは部分的には私の感覚にはそぐわない不合理な言説を述べているときもある。池田信夫に至っては明らかに自分のサイトのPVが伸びさえすればそれでよいとする扇情的、プロレス的な発言も多い。しかし、神保さんにはそれがない。
なので私なんぞが意見するなど、おこがましいにも程があるのだが、読んで思ったことを書いてみる。
人々はもっと近代国家における強者の最上限と弱者の最下限は何なのかを考えなければいけない。私たちはどのような社会に住んでいたいのかをもっとよく考えなければならない。人々は考える時間を奪われている。否、人々は考えるのが嫌いだ。
ベーシックインカムなどは弱者の最下限の話だが、こちらは強者の最上限の話。
例えば、三権分立がある。行政、司法、立法だ。内閣と国会と裁判所である。三権はどうして分離していなければならないのか。別に分離していなくともよい。人々がそれで好いというならだが。実際、事実上日本では二権分立にしかなっていないと主張する人もいる。
どうして三権は分立していなければならないかというと、十九世紀の欧米先進諸国の人々が、この三権は分離しておいた方が大多数の国民にとって利益となると判断し、国民もそれに同意したからだ。逆にいうと、行政、司法、立法の権利三つとも持っている人物は、一人の人間の持ちうる権力として強大すぎるとみなした、ということである。封建社会の王侯はその権力を持っていたわけだが、そんな人物がいたのでは国民の不利益が大きすぎるわけだ。
財閥の解体。
財閥は解体する必要があったのか。あるのだとすれば、どの程度にまで解体するのが妥当とされたのか。
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最終更新:2012年01月28日 20:09