遠藤周作とニーチェ
生きる悲しみ。
憂いに人が寄り添うことを優しさというのだな。と思った。
多くの人たちは
それが自己責任たり得るかどうかで問題を語る。
言葉を生きることが生きることなのだ。
人間は言葉の中を生きている。
永井均的なニーチェ解釈に基づいてそれを突き詰めるならば、ひとは自分に都合が良いだけの勝手な理屈を他人に向けて無限に喋り続けているだけの存在だ。
無論、それがあからさまでは誰もそのひとの話を聞いてくれない。だから偽装する。
ひとが他人に向けて言葉を発するのは、相手から利益を得るためである。いわば鴨にするためである。全くの等価交換のためにひとは行動したりしない。それでは何もしないほうがマシだからだ。少しでも自分の取り分が多くなるように働きかける。そのために言葉を偽装する。
本当は自分にとって利益のあることを相手に利益のあることのように偽装しながら喋るのだ。私の話はあなたにも利益のある話ですよ、と。
つまり、話し掛けられるほうに立場を変えてみれば、誰かが自分に話しかけてきたときに相手の言葉に耳を傾けることは、根本的に自分の不利益なのだ。
では、相手の言葉なんか聞かずに自分からだけ話せばいい。自分が利益を得るためだけに、自分からだけ話し続ければいい、と思うかもしれない。しかし、誰かに話しかけるとき、先の真理に相手も気付いているならば、当然のことながら相手もまた自分の言葉を聞いてくれないだろう。
だから、その意味では、他人と喋ること、他人と言葉を交わすことは根本的に無価値なことなのだ。
これに気付いたとき、人間は他人に向けて発する言葉を失う。
だが、他人に向けて自分の利益を偽装する前に、ひとは自分の喋っている言葉の意味を担保しなければならない。自分の喋っている言葉の意味を確認、或いは信憑しなければならない。
そもそも、言葉の意味を担保、確認、信憑するために、他人と言葉を交わすことが必要なのだ。
つまりそれがウィトゲンシュタインの言語ゲームであり、わたし流にいうなら「言葉の相互承認」である。
言葉を他人に向けて発するとき、言葉の意味を信憑する段階と、その信憑された言葉を使って他人から利益を獲得する二段階がある。
私的言語のみを死ぬまで使い続けて尚、自分の価値を確立することなどできるだろうか。
人間は言葉の中を生きる存在だ。だが、私的言語の中だけで生き続けることはできない。私的言語の中だけで生き続けても言葉を信憑することができないからだ。
ひとはなぜ本を読むのか。自分の感じていることを周囲の人間が誰も理解しないとき、親も、兄弟も、学校の先生も、誰ひとりとして理解しないとき、ひとは本を読み始める。周囲の人間には理解されないが、自分が感じているのと同じようなことを考えている人間が、この世のどこかにはいる、または嘗ていたことを知れるからだ。
そこから、自分の感じていることの意味を信憑する。自分の感じていたこと、考えていたことにも価値があるのだと。間違ってはいなかったのだと。
或いはなぜひとは本を書くのか。自分の身の回りの人間が誰も話を聞いてくれないとき、この世界のどこかには自分のいうことを理解してくれるひとがいるかもしれないと、その切実な想いが筆を執らせる。
嘘の言葉によって言葉の外郭を確かめることはできない。当たり前の話だ。言葉の意味を信憑しようというときに、嘘の言葉が混ざっていれば、何が何だか判らなくなる。嘘つきと話していても「言葉の相互承認」は行えない。
だから、アインジヒトは本当のことを云うのではなかろうか。言葉の相互承認を行うこともまた自分にとっての利益であるからだ。
自己利益を増やそうとするとき、嘘や言葉の偽装は有効だが、それ以前の問題として、言葉の意味が信憑されていなければ、嘘をつくこともできない。
徹頭徹尾利己的に振る舞う人間でも、ひとは本当のことを言わざるを得ない。
自分の利益を増やすためにひとは嘘をつくが、その嘘を機能させるために、言葉の信憑を得なければならず、そのために本当のことを言わざるを得ない。
嘘をつくための土台づくりとして本当のことを言わざるを得ないのだ。
言葉の信憑を抜いて考えるとしても、本当のことを言う必要はある。
嘘を効果的に機能させるには、概ね本当のことを言う中にたまに嘘を紛らせるのが有効だからだ。これはトランプゲームのダウトによく表れている。
常に反対のことを言う人がいたとしたら、それは言葉の用法、主に否定語の用法が我々とは違っているだけで、畢竟、常に本当のことを話しているのと同じである。
常に出鱈目を話す人間がいたとしたら、その人と意志疎通することは不可能だ。その人は誰にも相手にされないだろう。
.
最終更新:2013年03月10日 13:59