随想 頁1


ベーシックインカム
ベーシックインカムには私は賛成である。理屈で考えて導入しない理由が見当たらないし、何しろ私は夏目漱石の「行人」が好きだし、高等遊民的な気持ちが分かる人間だから、ベーシックインカムに賛成するのは当然だ。
とはいえ、私が定年を迎えるまでに導入される可能性は低いと思っっている。
BIに賛成、反対、BIって何? の割合を半年単位くらいで誰か調査して欲しい。それから、賛成、反対している人はそれぞれどんな人がどれ位の割合なのか、例えば反対は経営者が多くて賃労働者は少なそうだが、それが実際どれくらいの割合なのかなど、さまざまな指標で調査したものがあれば良いと思う。それこそBIが導入されていれば、こういう調査をする人も有志でたくさん集められそうだ。
BIの素朴な疑問。
思ったのは、BIが導入されると得体の知れない犯罪が増えたりしないだろうか、ということ。おそらく、貧困が原因で起こる盗みなどは減るだろう。しかし、例えば改造拳銃を作るとか大麻を栽培するとか。密室で行われ、かつBIで支給される金額内でも実行可能なような犯罪。こういうのは増えてしまわないだろうか。
BIが導入された後の社会で、事業に失敗した人が抱える負債や、その経営者はどう扱われるのだろうか。事業に失敗しても自殺しなくて済む、というのは社会保障的には正しいと思うが、一方で、失敗したら路頭に迷うしかない、と思えばこそ、よくよく考えた上、成功のチャンスが見込めるときにだけ起業するのだろう。深い考えもなしに誰でも彼でも起業して、負債を抱えた人がそこら中にいるような社会になっても困る気はする。
それから変な話だが、もしBIが導入されたら、ゾラの「居酒屋」のような貧困文学はもう出てこなくなるのだろうか。そう思うと文学好きの私としては寂しい気もする。林芙美子の「放浪記」とか。貧困がなくなるのは喜ばしいことの筈なのに、裏腹で複雑な気持ちである。
BIが導入されれば自殺者は減るだろうか。自殺者の内訳も知りたいと思っているのだが、ネットで探せばあるのだろうか。探せていないのは私が怠慢であるからだけれども。
BIのみで暮らす夫婦がいたとして、子供を10人くらい産み、育てることができてもよいのだろうか。という疑問はある。人口が増大しないだろうか、という疑問。
BIへの反対意見で有りそうなもの。
BIへの反対意見はおそらく心情的なものしかない。理屈で考えた上ではデメリットが何も見当たらない。デメリットがあるとすれば矢張り心情的なものである。これ迄の社会で、生活のために本意ではない仕事をしていた人が、これからの人は本意じゃなければ仕事しなくてもいいのだと思うと妬みが生まれるだろう。今まで俺が働いていた時間は何だったのだろう、と。私はこの気持ちももっともだと思うので、この人たちにも納得して貰えるように段階的にBIを導入するなど何か方法を考える必要はあると思う。
経営者達の中でもホリエモンなどの好きなことをやって成功した人はBIに賛成していることから見ても、そう思えてならない。
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正直者は馬鹿をみる世の中
人の世は所詮騙し合いに過ぎない。世間の全ての物事は真面目に考えてみたところで仕方がない。あれこれ憂慮してみたところで仕方がないのだ。牧歌的世界観をいつ迄も希求していたって仕方がない。牧歌的世界観などどうやっても実現不可能なのだ。世界の全てを牧歌的世界観に染めようなどと思っていないが、自分の身の周りだけですら実現できない。全くジョン・レノンの「イマジン」とか、メロディーや声がいいのは分かるが、だからといって夢みたいなことをあんまり声高に歌わないで欲しい。
人間は、人に見られていないところ、或いは見られていても責任を問われないところ、或いは利益が一円も得られないところでは、善意を他人に発動するなどと言うことは有り得ないのだ。
人間は刹那の快楽の増大に役立つ程度にしか親切心や信仰心や慈悲心を持ち合わせていない。とはヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(丹治愛 訳)内の言葉だ。全くその通りだと思う。
例えばイ・チャンドン監督の「オアシス」のような映画を見たって、そもそも、こういう映画を見る人自体ごく僅かの数しかいないわけだが、とにかくこういうマイノリティを描いた映画を見たって、エンドロールが流れているときに、ああ私にはこういう可哀想な人たちに寄り添う優しさや慈悲心、寛容さがあるのだわ、といって心の中で自己満足するだけであって、現実生活に戻って十分もすればそんな気持ちなど忘れてしまうのだ。
たまにお金を持った人たち、あるいは中流意識の人たちが可哀想な人たちに慈悲心を見せるのも、彼らの虚栄心を満たすためなのであって、それがたまたまそのときマイノリティに向けられただけに他ならない。たまの気まぐれに施しをする分には構わないが、年がら年中、可哀想な人たちの相手をするのは真っ平御免というわけだ。彼らにとってはマイノリティは慰み者に過ぎない。
書くという行為はマイノリティにとっては慰めである。書く以外に気持ちの持って行き場がないから書くのである。そうして書かれたものも、それを手に取って読む多くの人にとってはただの慰みというわけだ。例えば「1リットルの涙」という手記がある。これがそういうものだ。
編集(管理者のみ)

右傾化、抑止力、戦争したい人だけが戦争するシステム
毅然とした態度というものは必要だ。世の中には、相手の権利や財産を平気で侵害する輩はごまんといる。それも暴力的態度で。しかし、だからといって、こちらも暴力的態度に出ることと、毅然とした態度で反論することはまるで違うことだ。毅然とした態度で反論するのには、聡明さと胆力が要求される。議論口論はどれだけでもやればよい。そこに暴力はないのだから。しかし、暴力的な後ろ盾がないと口喧嘩できないのなら、そいつには胆力がないのである。
というわけで、このところの渋谷デモなどには、どうもついていけないというか、乗り切れない。菅政権に毅然とした態度のみを求めているなら、それについては私も同意したいが、そこには右傾化というものがどう見ても感じられる。私はそういうものには近付いていく気になれない。
中国やアメリカはどこまでも自国の利益だけを追求する国民性だというのは分かる。菅政権に毅然とした態度がないのも分かる。だからといって早々民主党から自民党に政権を戻す気にもならない。
私の意見としては、現在の日本国憲法そのものは、自分たちで考えたものに作り替えてもよいと思っているし、自衛隊は軍隊じゃない、みたいな面倒臭い解釈論はなくすべきものだと思っているが、憲法九条は残すべきだし、核武装にも反対だ。

憲法九条
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

なかなか素晴らしい文章だ。別に太田光の「憲法九条を世界遺産に」の影響を受けているわけではないが、良い文章である。特に1項が良い。私は解釈論は面倒臭いと思っているので2項の前段は改正してもよいかもしれない。2項の後段は1項と同じことを言っているような気がするので2項は削除しても良いかもしれない。
次に核武装について。本当に核武装しなければ抑止力にならないのだろうか。宮台真司も核武装は抑止力のために必要だと言っている。彼の言うことは概ね正しいように感じられるのでラジオを聞いたりビデオニュースをよく見ているが、この件については疑問を持つ。宮台真司のような頭の良い人に言われると、世界というのはそういうものかなと納得しそうになるのだが、矢張り核以外の抑止力や、そもそも抑止力は要るのかということをもっと考えてみても良いのではないのだろうか。
最後に、これはもっと空想的な話になってしまうが、ベーシックインカムは競争したい人はすればよいし、したくない人はしなければよい、というのを実現するための仕組みだ。これと同じように、戦争したい人はすればよいし、したくない人はしなければよい、というシステムを実現することはできないのだろうか。戦争世界では、戦闘で死ぬかもしれないけど、勝ちさえすれば占領国の富を搾取できる。戦争がなくならないのは男たちがそれを好きだから。という言葉がある。これは真理である。上記の渋谷デモなども、血気盛んな青年たちが荒ぶっているようにしか見えない。そういう人たちはそういう人たちだけでやっていてくれれば、私たちは静かに暮らせるのに、と思って止まない。
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文化的で人間的な暮らし
というようなものが憲法に定められていた気がするが、一応もう少し正確なところを調べてみる。

憲法 第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

さて、健康で文化的な最低限度の生活、とはどの程度のものなのか、その解釈は人様々であるので議論が巻き起こるのである。
将来性もなく技術を習得できるわけでもない低賃金の単純労働を長時間強いられて、家に帰れば寝るだけ、次の日はまた仕事、これの繰り返し。結婚できるほどの給料はない。年に一回くらいは国内旅行に温泉にでも行きたいが、その金はない。だが一応生きてはいける。鬱的気分ではあるが、家から出られないほどの明らかな鬱病というわけではない。これは、健康で文化的な最低限度の生活の上か下か。
高度経済成長時よりもパソコンを始めとした便利なものやコンビニなどの便利な店は増えたかもしれないが、人々が希望を持っているかいないかで、健康、特に心の健康は随分変わる。
心の健康を奪うものは抑圧であり、抑圧の本質は劣等感である。
前にも書いたが、そこで登場するのが文学である。
その劣等感の度合いや、その劣等感は本人の責任とはいえないのではないか、寧ろ世間の酷薄さの方にこそ罪業があるのではないか。ということを誰にも分かり易く、情感に訴えて示すのが文学である。
映画も然りであり、労働環境に関する映画でいえば、アメリカ映画の「ノーマ・レイ」という映画は印象に残っている。
よく、経営者と労働者の賃金格差の話をするときに、経営者は雇用を創出しているので偉い、だからこれくらいの対価は貰って当然なのだ、というような言い分があるが、雇用を創出するだけでなく、労働者の文化的で人間的な暮らしまで実現してから言ってもらいたいものだと思う。
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相手の身になって考える
相手の身になって考えるのは愚鈍とされる世の中だ。騙される方が阿呆なのだという世の中だ。しかし、本当にそれで良いのだろうか。どの程度、博愛が通底する世の中にしたいのかも、国民がどうしたいかの総和だ。国民の大多数がこんなもので好いというのなら、それ以上何も言えないのは確かだ。
生活保護や社会保障のことを考えるのに、経済学まで勉強しなければならないのは可笑しい。雇用やワーキングプアと景気や経済政策、規制緩和などが大きく関係しているのは分かる。しかし、本質的な部分はそういうこととは違うような気がしてならない。私自身、最近勉強をし始めたばかりだが、そもそも経済学は何を目指しているのかというところからして大変難しい。一応、国民全体が豊かになることを目的としているようなのだが、全然そんな感じがしないのが経済学である。こんなに難しいことを誰も彼もが勉強しなければいけないのは可笑しい。単にこんな難しいことをみんなが理解できるわけがないというのもあるが、それだけでなく、金や制度で社会保障が解決できればそれでよい、という考えに私は違和感を感じる。
なぜ社会保障はあるのか。鬱屈した人間が増えると犯罪が増える。そうすると警察官を増やすにしたってコストがかかって仕方がない。警察官をを雇うより社会保障で人々の鬱屈を抑えて犯罪を抑えた方がコストがかからないから社会保障はあるのだろうか。実際そういう面はある。多くの人は他人のことなど知ったことじゃないと思っている。しかし、本当にそれでよいのかと私は思う。コストの話ではなくて心情の話ではないのか。
どうもジャーナリストや評論家の発言を聞いていると、何でもかんでもコストで考えるのが優れた評論家ないしは学者ないしは経営者であり、ひいては優れた人間なのだと言わんばかりの風潮だ。経済学もしくは経営学が分からない者は馬鹿だ、とでも言いたげだ。
汝を愛するように汝の隣人を愛せよ。私はキリスト教徒でもなんでもないのだが、本質的にはこれが大事なのだと思う。
そこで文学が登場する。文学は、この人たちは不当に抑圧されていないだろうか、ということを多くの人に分かる形で心情に訴え掛ける。それが、文学にしかできないことである。
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冗談が通じない
私は冗談が通じない人間として周りの人たちからは思われているようだ。
昔は随分テレビのバラエティなども見たので笑いが嫌いなわけではないが、今は家にテレビを置いていおらず、ここ三年くらいホテルと電気屋以外でテレビ番組を見ていない。会社の人が、一見文脈と関係のない何かのフレーズをさも面白いことを言っているかのような顔つきで言うとき、ああ、今この文句がテレビで流行っているんだな、と思う。
まあ、テレビの笑いを基準にすることもないが、ともかく私は笑いの基準が普通の人とは違っているようだ。
私は、会社の人たちが言うような口先だけの冗談を冗談として受け取って笑うことができない。口先だけの冗談はたいてい当たり障りのないことだからだ。毒を放った発言なら面白いけど、大人になるとそういうことを言う人は特に会社ではまずいない。私はそれよりも、本気で面白いことの方が笑える。例えば、上司がむかついたので本気で口論したとか。客の態度がむかついたので本気で口論したとか。それから、意図しない可笑しみも好きなのだが、そこは笑う所じゃないとよく言われる。世間の人たちは冗談として笑って欲しい程度のことを冗談として笑ってもらうのが好きなようである。
よく、発達障害の人には冗談が通じない、などと書いてあるので、これをして、私はもしかしたら発達障害なのだろうかと疑ったりもするのだが、まだ病院で診てもらったことはない。ちなみに、私は「ローマの休日」のようなラブコメディの可笑しみはちゃんと分かり味わうことができているので、矢張りそんなにユーモアがない人間でもないと自分では思っている。
それから、会社の人たちが昼休みなどに集まると、その場にいない人の悪口を言って楽しんでいるが、あの感覚が私にはよく分からない。それでいて、その悪口の対象となった人と一緒にいるときは、また別のそこには居ない人の悪口を一緒に言い合って仲良くしている。何か言いたいことやわだかまりがあるなら本人に直接言えばいいのにと思うのだが、どうも彼らは本質的に解決したいわけではなく、愚痴を言い合って、少しだけ鬱憤を晴らせればそれで良いようである。私自身はこの感覚はよく分からないのだが、いろんな本を読んだりして分かるのは、洋の東西や今昔を問わず、人間の大半はこういうもののようで、こうして人類社会は現在に至っているようだ、ということだった。
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加藤諦三
加藤諦三という人のホームページにはなかなか面白いことが書かれていて興味深く読んだ。為になることも書かれていると思うが、一方で意味が分からないこと、今ひとつ納得できないこともある。鬱的心理に対してとても現実的な対処法を語っているようで、その実、結局は理想論を語っているに過ぎない気がしてしまう。
加藤諦三は鬱的心理や神経症的心理の根源は劣等感だと言っている。このことは正しいように私にも思える。劣等感がどうして植え付けられるかというと、子供の頃の育てられ方に原因があるのだという。これについても、これ自体に間違いはないと思えるが、では、既に劣等感を植え付けられてしまっている人が、それを心の中から取り去る方法については、何も有効なことを言っていない。状況の分析はできても解決法の提案はできない人である。
劣等感を覆い隠そうとして非現実的な理想像を自分に当てはめようとすると、周囲の人と一向に親密な関係を築くことができない。本当の自分をさらけ出していないからだ。このことは自分の経験から考えても正しいだろう。だが、ではどうすればいいのだ、ということだ。
自分で自分を受け容れられない人は、他人を受け容れることもできない。自分で自分を尊敬できない人は、他人を尊敬することはできない。このことは本当だと思う。受け容れるというのは諦める、ということか。自分で自分を受け容れられない状態は、劣等感から生じるのではなかろうか。そして劣等感とは他人が植え付けるものである。ひとりひとりの他人は、殆ど意識しないくらい些末な挙動や目差しによって、相手に劣等感を感じさせる場合が多いわけだが。その積み重ねによって、やっぱり他人に植え付けられるものである。このとき他人の罪は問われなくて良いのか、ということが気になる。他人の罪は問われることがないのに、自分の方だけその劣等な現実を受け容れなくてはならないのは不公平に感じる。こう感じるのは、私が余程屈折しているためだろうか。
私は夏目漱石の「行人」や車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」「吃りの父が謳った軍歌」が好きだ。
編集(管理者のみ)

世間のことを考える無意味性について
日々のニュースなどを見ていると、普通に考えて日本はもう終わっているとしか思えない。と1年くらい前から考えるようになった。しかし、そこからもう少し考えを進めると、そもそも人類そのものが有史以来まともであったことなど1度もないと思うようになった。人間が救いようもなく愚かなことは日本に限ったことでもなく現代に限ったことでもない。とういことは、未来永劫、人間がまともになることなど有り得ないのだ。
「ゴリオ爺さん」「赤と黒」「罪と罰」「レ・ミゼラブル」「居酒屋」などを読んで私はこのことを確信した。もちろんこれらは極端な状況を抜き出して描写した小説ではあるが、そうは言っても現実の社会を下敷きとして書かれているはずだ。そうでなければ、これほど何年もの年月を越え、言葉や国境を越えて、人の心に残り続けるはずがない。これらの作品が書かれてから百五十年近く経とうとしているにもかかわらず、世界がまともになろうとしているとは到底考えられない。それどころか、この間には二度の世界戦争を行っている。
不特定の人間が百人いたとしたら、九十八人は俗物根性しか持ち合わせていない人間である。かく言う私だって俗物根性を全く持ち合わせていないとは言わない。逆に言えば、おそらく遺伝子的には俗物根性が強い者の方が、原始時代からの長い生存の歴史の中では生き残ってきたのだろう。聖人君子、もしくは聖人君子的な人間、人畜無害的な人間は、遺伝子の生存競争においては、その世代のみで、子孫を残せずに死んでいくことが多かったと思われる。
社会のニュースについてコメントする幾人かの社会学者やジャーナリストなどの言説を私も読んだりしているものの、この人たちは何を動機として世間の人たちにものを言うのだろう。職業だからか。お金がもらえるからか。社会を語ることに興味があるからか。いや、私がここで問いたいのは、彼らは正しいことを言っているとは思うが、彼らは、自分で喋っていて、それが正しいことだと世間の大半の人が理解するときが自分の生きている間に来ると本当に信じて喋っているのだろうか。ということだ。単にお金が貰えたり、社会的地位が貰えたり、偉そうに喋る場が与えられるだけで、虚しくないのかということだ。おそらく人々がそれを理解できるようになるときは来ない。自分が死んでからでも理解されれば本望なのか。そんな崇高なことを本気で信じているのか。それでも喋り続けることができるのが社会学者でありジャーナリストなのである。と言われればそれまでだが、絶望を感じずにいられるのは何故なのか、私は知りたい。どうしてそこまでの絶望をあなたは感じているのかと、向こうからは逆に問われそうだけれども。
社会について述べるとき、社会がどんな風であれば良いと考えているのか、どんな社会が理想的だと考えているのか、という問題。博愛の度数(程度)がどれくらいの社会を理想的と言うのか。
正しいか正しくないかで社会を語るのは果たして正しいのかという問題。そもそも正しいとは何なのかという問題。
直接的な利害関係の無い他人には、どの程度優しくするのが妥当なのかという問題。
編集(管理者のみ)

博愛主義
他人への公平性はどの程度考えるべきなのか。他人へはどの程度優しくするべきなのか。他人へはどの程度寛容になるべきなのか。他人の気持ちはどの程度配慮するべきなのか。他人の気持ちにはどの程度寄り添うべきなのか。
他人のことなど知ったことじゃない。知ったことじゃないとまでは言わないが、他人のことを考えている余裕は無い。
結局のところ、殆ど全ての言説は利益闘争に過ぎないのか。という問題。
他人とは金蔓なのか。
阿呆どうしの利益闘争に巻き込まれずに生きることは可能なのか、と言う問題。そんな仕事はあるのか。例えば、小説家や評論家ジャーナリストになっても、結局、顧客は阿呆の国民である、という問題。
人が好すぎると馬鹿にされる男がいたとして、ではどの程度が良いのか。
騙される方が馬鹿なのか。という問題。
子供の頃は良かった。なぜなら子供の頃の友達は全員、金銭的な利害関係のない他人だから。そこには文字通り友好しか存在しない。
他人は無限にいる。
博愛主義について考察してみたいと思った。
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コミニュケーション力   blog転載済
 コミュニケーション力という言葉が昨今よく使われる。会社などでも、その人の能力を測る指標のひとつとして扱われている。
 私自身、コミュニケーション力の低い人とみなされているのでこんなことを考えるのだろうが、普通世間で用いられているコミュニケーション力とは、大多数の人と意思疎通する時間の短さのことを言っている。いわば常識力である。数の論理に近いところにいる指数といってもいい。常識とは、正しいか間違っているかを厳密には気にしていない。大多数が正しいとみなしていることは、本当は間違っていても、正しいとされる。皆が正しいと思っていることが正しいという論理だ。
 これが常識の世界である。後になってそれが間違っていると分かっても、各々が物事の厳密性をよく考えなかった責任を問われない。みんなあの時はそれが正しいと言っていたじゃないか、俺は騙されたんだ。といって責任を逃れられる世界だ。
 コミュニケーション能力とは、大多数の人が話すような俗物的なことをそれほど苦もなく話せるかどうかの能力である。
こういう能力のことをコミュニケーション力というのだろうか、ということを考えた。こういう能力のことをコミュニケーション力と言うことに決めたのだから、そんなことを考えるのは屁理屈に過ぎない。言葉の厳密性などどうでもよい。といわれるとその通りである。
 とはいえ、思ってしまったので書いておくと、コミュニケーション能力というものを言葉から考えると、コミュニケーションを取りにくい人や話題とコミュニケーションを取れる能力のことを言うのではなかろうか。一般的にコミュニケーション能力が高いとされる人は、このような能力は低い。コミュニケーションを取りやすい人たち同士で寄り集まって、そこに集まらない人たちのことをコミュニケーション能力が低い人とみなしている。生来的には自分と考えの異なる他人と、意思疎通し、相手を理解しようとする力は、通常コミュニケーション力が高いとされる人には乏しいことが往々にしてある。コミニュケーション能力が高いとされる人たちは他者に対して排他的な態度であることが極めて多い。
 ということを考えたのだが、こんなことを考えたところで仕方がないんだろうな、とも思う。
 追記。2011年8月20日(土)。上の文章を書いたのは2010年の夏だった。これを書いて一年近く経つが、非コミュという記事を見つけた。私がこのエントリーで言いたかったことはこの記事と重なる部分も多い。興味のある人は参考として読まれたし。
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仕事と商売
商売を仕事と思える人は幸せである。私などは仕事と商売は異なるものとして認識してしまっている。中学生くらいからそう思っている。ニュースから頻繁に流れてくる、「景気」という言葉を聞く毎に思っていた。景気と失業率が結びつけて考えられていることにも疑問を覚えた。景気の良し悪しで売上げが左右されるような仕事は仕事ではなくて商売なのではないかと。仕事というのは大多数の人がやりたくないようなこと、だけど誰かがやらなくてはならないこと、それをやるから対価としてお金をもらえる、そういう類のものだと思っていた。だが世間の大多数の人は仕事と商売を同じもののように考えているようだった。
世間で言われる仕事の概念について、私の最初の認識はこのように懐疑的であったのに、まあ大人が言うことだから、自分には分からないけれども世の中そういうものなのだろうと、誤魔化して納得させてきた。
だが、昨今ベーシックインカムの議論が盛り上がると伴にこのことが話題に上がることが多い。え、私が中学生のときに思っていたことってやっぱり間違っていなかったんだ、と思う。
商売は仕事なのか、という問題だ。景気が悪くて稼ぎに打撃を受けるのは、自分が職業を選ぶときに仕事ではなく商売を選んでいる以上、仕方がないのではないかと思ってしまう。それを政府の経済政策の誤りのように言うのは傲慢ではないかと。だが殆どの人は仕事ではなく商売に就かざるを得ないことを大人になって知った。つまり仕事は全員の分だけ存在しないのである。
また現代の日本においては、生産に対して明らかに需要が小さい状態であり、商売というものが、本当に必要なものを売ってお金を稼ぐというよりは、本当は必要でないものを甘言を駆使して馬鹿な人たちに売りつけることに成り下がっている。甘言を労することに秀でた者が、会社の中においては仕事のできる者として優遇して取り扱われる。しかし、こんなものは詐欺師とそれほど替わらない能力である。付加価値を創出しているのではなく、銭金の奪い合いをしているに過ぎない。しかも貧乏人同士で。そんなものに遣り甲斐を見出せない若者が増えるのは当然である。
また、小飼弾さんも言っているが、現代においては付加価値を創出するような仕事もそうそう残ってはいない。昔は割と誰でも付加価値を創出できたのだが、今は一部の極めて優れた人間だけが付加価値を創出できる。その一方であらゆるものが自動化されているために単純な賃労働のようなものも、もはやそれほど残っていない。仕事の量が人口に対して絶対的に足りないのが現状である。
編集(管理者のみ)

想像力を万人に強いることはできない
想像力の豊かさも人それぞれである。想像力とは他人の立場になって気持ちを考える能力のことである。それがまた慈愛の能力に繫がると思ってよい。弱い部分を持つ者の方が想像力が豊かになることが多い。世間においては想像力の強いものが、社会的な強者になるとは限らず、寧ろ逆の場合が多い。
例えば、乙武くんはごくたまにしかテレビに出れない。その外貌は矢張り、常人とは異なる人生を歩んでいるであろうことを容易に想像させるからだ。しかし、ただ常人とは異なるということを厳然と示すのみで、人生の内容にまで容易に寄り添うことはできない。常人は常人なのであり、そこには矢張り、個性などという欺瞞では片付けられない距離がある。どのような距離感で接するべきなのか、戸惑うのが普通である。初めから距離感を理解し、常人と分け隔て無く打ち解けて話すような、そこまで想像力を万人に強いるのは酷であろう。乙武くんの人生を容易に想像できないからといって、その人を無慈悲な人間と断罪するのは酷だ。もしも、毎日、乙武くんがテレビに出ていたならば、家族と同じように、次第に距離感も摑めて来て、できないことがいくつかあるにしろ、本質的には普通の人となんら変わりないと理解してくるのだろうが、市場原理においては、そのようなことは起きない。
初めの戸惑いの部分に多くの人は面倒臭さを感じるからだ。そこには容易に乗り越えられない大きな障壁がある。大多数の常人はマイノリティのことを考えるのが面倒臭いのだ。マイノリティの人生に想像力を働かすというのは、常人にとっては少なからぬ労力を要する。
通常の人間にあんまりシビアな想像力を要求してはいけない。
またこれと同類のものとして、論理的思考を万人に強いることはできないというのもある。
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甘えとは、甘えでないとは
ベーシックインカムの話の中で、働かないのは甘えだという意見を反対派の意見でよく目にするのだが、こういう人たちは、甘えと甘えじゃないことの境界は何処だと思っているのだろうか。この人たちも明らかな鬱病患者が働かないことまで甘えとは思っていまい。私は一応働いているのだが働かない人の気持ちはとても分かる。生来的な性格から働くのに向いていない人というのはいる。そういう人は、自分が仕事に向いていないことを他の誰でもなく自分自身が一番よく知っている。努力でどうにかなるようなものでないことをよく知っている。とすれば、努力した揚げ句に結果を残せずやっぱり評価されないでリストラや肩叩きにあうくらいなら、はじめから働かないことを選ぶのは当然と言える。非常に合理的な考えをしているに過ぎない。このことを甘えと呼べるのだろうか。
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カンディード/青い鳥
カンディードや青い鳥のような話が好きだ。どういう話かというと、外に幸福を求めて方々旅をするのだが、結局そんなものを外に求めても仕方がないと気付き、最後には田舎でひっそり暮らすことに幸福を見出すというような話。諦めるということは、ともすれば絶望に繫がるものと考えられがちだけれども、それだけでなく幸福にも繫がっていると思える話。絶望と幸福とは裏腹なものなのだ。
ここでいう、外へ幸福を求めるというのは、単に何処かの宝島に黄金を捜しに行くことでない。他人に自分と同じだけの理想主義を強要することである。幸福を見つけるとは、自分を承認してくれる他者を見つけることである。自分の理想主義を理解してくれる他者を求めることである。始めは、どこかにそんな人たちがいる場所があるかと思って方々旅する。でも、そんな場所は見つからないから、矢張りそこにいる他人に、自分の理想主義をだんだん強要するようになる。こうなると危険で、自分も他人も不愉快で良いことがない。度が過ぎると昔の極左みたいなものになってしまう。重大な犯罪行為にまで進む前に、そもそもそんなことを他人に求めても仕方がないのだと気付ければ幸せだと思う。
人生とはどうにもならないことを発見する度なのかもしれない。
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経済成長
私個人としては経済成長したからといって人が幸せになれるわけではないと思っているけれど、そうはいっても政策として経済成長を目指すのは必要だろう。さすがに政府が経済成長なんて必要ないと言い切ってしまうのは国民が許さないだろうと思う。
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自殺率
人に対して画一性を異常に適用しようとするのが日本だ。これが日本の自殺率が高い理由であり、自殺率は失業率や貧困、格差社会などと必ずしも一致しないことの理由である。
つまり、失業しててもいいじゃないか、貧乏でもいいじゃないか、仕事ができなくてもいいじゃないか、破産しててもいいじゃないか、と他人を寛容に受け止めて接する態度や風潮がない。自分と他人を違うものだとして受け容れられない。他人にも自分の尺度でその人の価値を決めようとする。それを強いるのが日本の社会である。他人と自分を違うものとして認めた上で、適切な距離感で接することができない。自分と違うものを、まずは自分の価値観に強制しようとし、それが適わなければ排除しようとする。排他的なのだ。集団主義や連帯責任に通じる考えである。
編集(管理者のみ)

みんなに共通の規範
ホリエモンの話を聞いていると、この人はとても頭の良い人だなと思う。矢張り東大に入る人の頭は通常の人間とは全然違うのだなあと感じさせる。と同時に、映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の主人公を思い起こす。昔、森永卓郎がホリエモンを評して「とても頭がよくて、とても寂しい人」と言っていた。それにも近い。才覚があってやろうと思えば巨額の財産を得ることもできるのだが、ふと気付くと、どうして自分がそんなことをしているのだか分からない人。という印象を受ける。ホリエモンには離婚した元妻との間に子供がいるらしいのだが、多くのトークイベントやネット上のトーク番組に出演していても、ホリエモン自らはそのことには殆ど触れることがない。この点からも「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」を想起してしまう。ホリエモンといえば、お金があれば殆どのことはどうにかなる、というようなことを言っていた人として取り扱われることが多いが、家族の幸せは、ホリエモン自らも金で買えなかったものとして認識しているのだろうか。だとすれば、殆どのもが買えたとしても、家族の幸せが買えなかったら、矢張りお金があっても仕方がないじゃないか、と思うのは私だけだろうか。
とはいえ私はホリエモンがそんなに嫌いではない。ホリエモンは才覚のある人の中ではかなり正直な人だ。才覚があってかつ不正な人も世の中にいくらでもいる。
例えば、ホリエモンは東浩紀が司会を行ったベーシックインカムを巡る議論番組において、労働の価値を否定している。現在こそ経営者の立場から退いているけれども、またいつどこかの会社の経営者として仕事を始めるかしれない。そういう、人を使う立場にある彼は、動労の価値を労働者や従業員に信じさせておいた方が有利な立場である。将来性もなく技術が身につくわけでもない低賃金の単純労働にも労働の価値があると信じさせた方がコストを抑えられるからだ。けれども、そこを正直に、労働に価値などない、と切って捨てるところが、他の経営者と違うところで、若者に人気のある所以だろう。
また、同番組において「仕事って何なの」という疑問を持っていると発言していて、私は、経営者になるような人は、こういう疑問を持たないものなのかと思っていたので、これも面白いと思った。
編集(管理者のみ)

雲散霧消
タイトルだけは書いてみたものの続く中身を綴れぬまま消えてしまった思念。彼らの日常卑近な悩み。行人から明暗。そもそも憲法とは何か。美貌の女に生まれたかった。人間という哀しい存在。人として。他人。普通の人が、他人のこととはいえ、こんなことはあってはならない、と思うレベル。みんなは本当に挫折を知っているのか。結果を問われない。思索家と実践家。戦後復興、戦前。フランスとイギリスの戦勝国ぶりは。明治時代、江戸時代。
編集(管理者のみ)

政治家
政治家とは何をやっているのだろう。政治家というのは国会議員のことであり、国会は立法府というからには法律を作っているのだろう。しかし、どんな法律を作っているのだろう。
編集(管理者のみ)

男女雇用機会均等法
機会の均等って何なの。男女雇用機会均等法施行前と後で実際にどう変わったのか。
機会が変われば結果も変わるのか。機会が不平等だったとはどういうことか。門前払いということか。エントリーすらできないということだろうか。
編集(管理者のみ)

再分配、生かさず殺さずの民はいつの時代でも必要
再分配って何なのか。再分配というよりは単に分配じゃないのか。つまり会社の中での賃金闘争の話。仲間内の間で、どの役割の人はどれだけの取り分なのかを決める争い。死んでしまっては搾取できない。
編集(管理者のみ)

タダ競争と奪い合い、グローバリズム
収入がゼロの者がいてはいけない。仕事をしているのに収入が低い人はいる。何故なら、経営者は、社員かアルバイトかに関わらず、できうる限り賃金を低く抑えるからだ。職を求める人より求人の件数が少なければ、最低賃金にどんどん近付いていくのは自明だ。社長以外の人間はどんどん最低賃金に近付いていく。
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無条件降伏
日本は1945年にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。大日本帝国は解体され、日本国ができた。そのとき日本国憲法も作られた。それらは全てアメリカGHQの下に行われた。無条件降伏とは文字通り無条件なのである。
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親といえども何をしてくれるわけでもない
文学などでは親と幼い頃に死に別れてしまって不憫な主人公がよくでてくる。しかし、親が生きているのに心が全く通い合わないのもまた不幸である。
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人間に自浄能力を期待する方が間違っている
大阪地検特捜部証拠FD改竄事件。私の時間をこれ以上奪わないで下さい。と村木さんは言った。検察の問題しかり。記者クラブ制度しかり。
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国力とは豊かさとは
国力とはGDPのことでよいのだろうか。中国が世界第二位の経済大国となったらしい。第二位の経済大国とはGDPが世界で2番目ということだ。
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志茂田景樹さんのツイート
人生の行く手を遮る壁は自分一人で乗り越えねばならない。助けを期待する人は全力を出し切ろうとしない。持てるすべてを振り絞って乗り越えようとしているとき、いつのまにか隣で助けてくれている人がいる。それを〔天は自ら助くるものを助く〕というのである。
今という充たされない状況から一刻も早く抜け出そうとするより、その状況の中で小さな希望を見つけてみる。それを大きな夢に変えて目指すほうが近道になる。成功してからも、豊かな人間性で多くの人から慕われる。確実なものは足許で控えめにしている。上を見てもがいていたらそれが見えない。
自分を賢いと内心で思うだけでも他人は見下されていると感じるものである。どんな人も自分にはない賢さを秘めていると常に意識し、その賢さに学ぼうという気持ち持つ。それが伝わると、他人はその賢い部分を惜しみなく分かち与えてくれる。本当の賢さはそういうことである。
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マイノリティレベル、マイノリティのマッチング
マイノリティにも段階がある。メディアでたまには取り上げられるマイノリティもあれば、社会派ドキュメンタリーなどでも全く取り上げられないものもあるだろう。インターネットの世界はマイノリティのマッチングを起こしやすい。とphaさんが作成した資料に書いてあった。
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自立と共生
小沢一郎の弁。昨日(2010年11月03日)のニコ生で小沢一郎は「国民もおかしい」とはっきり言った。なかなか素晴らしいことだと思う。
代表戦も終わり、もうしばらくは、あるいは年齢もあるので引退を考えているならば永遠に、小沢一郎が国民に媚びを売りご機嫌を窺い人気取りをする必要もないので出た発言かもしれない。
はっきり言って国民は愚かだ。愚か過ぎると言ってもいいのだが、私に言わせれば国民が愚かと言うよりは人類が愚かなのであり、人類は人類史が始まって以来、現在に至るまでずっと愚かなのである。ということは未来永劫に人類は愚かなのである。
小沢一郎は「自立と共生」ということを昔から言っている。自助努力、自己責任という言葉にすり替えられた責任回避主義と自己保身が横行しすぎていると私は感じるが、元来、人間なぞはその程度の物なのかもしれない。
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最終更新:2012年01月21日 06:53
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