アインジヒトとM先生の対話
① R・M・ヘア「道徳的に考えること」
私の考察
① M先生が冒頭でいう文章の意味が分からない。
言い掛かりかもしれないが、その子どもを育てている私が、その子どもの暮らす世界と完全に切り離されているなどということがあり得るだろうか。まあ、どのみち想像上のことだが、その状態をうまく想像できない。その子と私が完全に切り離されているなら、その子がどうなろうと知ったことじゃないと思ってしまう。その子の利益だけを考えて、というのは、本書に書かれたことを一通り理解した上で私が子ども時代をもう一度生きられるとしたらどう行動するか、と同じだ。だったら、最初から子どもなんか持ちだしてこなくてもよくはないか。
が、おそらくここで云いたいのは、あなたはその子どもを毒もみのすきな署長さんやアントン・シガーのように育てますか、ということ。で、毒もみのすきな署長さんやアントン・シガーのように育てると決断すれば、私が云うところの、「育まれてしまっている良心」がその子どもには育たないとする、ということだろう。「育まれてしまっている良心」については後で述べる。
「育まれてしまっている良心」は本書ではまったく言及されない私の考察したものだが、ここでは、その子に良心が育まれるか育まれないかや、その子が真の悪人に成れるほどの悪魔的な精神を持つかも、親の完全なコントロール下にあり、本人の生まれ持った資質や性格とは何の関係もない、という前提なのだろう。
④ 私もごく普通の道徳を教える。もし、その子が哲学に興味を持っているようなら、本書に書かれるレベルの倫理も教える。それで、どう行動するかは本人が自分で考えて勝手にすればいい。それ以外にやりようがあるのだろうか。
⑦ スパイの話は意味が分からない。
⑧ 根本的にやはり、私には善のべき論は意味が分からない。道徳的に善く生きることが人間の最高の幸福である、とか。そんなわけない。昼下がりに紅茶を飲むのが最高の幸せだ、という人はいる。いるに決まっている。何が幸福かは趣味の問題だろう。道徳的に善く生きることは趣味の一つにすぎない。なぜ全員にあてはめようとするのだろう。
「割に合うと判断したときには悪事を犯すべきだ」とアインジヒトは云う。これに類することは現実にいくらもある。例えば、原子力安全委員会の班目春樹委員長とかだ。しかし、これも趣味の問題じゃないか。今、ある若者の前に、原子力安全委員会の斑目春樹委員長になるか京都大学原子炉実験所の小出裕章助教になるか、人生の岐路があるとする。どちらを選ぶかは自分で考えて好きな方に決めろとしか云いようがない。
⑨ ここで云っていることが私にはまったく意味が分からない。
⑩ おそらく私が最も知りたかったことは、ここ以降の内容である。M先生のいうことも支持したい思いはある。
⑪ トルストイ「イワン・イリイチの死」にも私は感動する。通俗的といわれようとも。
宮沢賢治「毒もみのすきな署長さん」の署長さんは、アントン・シガーである。人々か署長さんに感服したのは、私がアントン・シガーに感服したのと同じだろう。
私は両方の話に感動、感銘を受けるのです。
偽善に対する考察。偽善は必然か。
東日本大震災の後でいわれた、寄付金を世間に公表するかしないかの話を思い浮かべたりする。
ちなみに私は一円の募金もしなかったし、節電も全くしなかった。もともとほとんど電気を使っていないのもあるが。
善行は持てる者が余裕の中で行うものであって、どこまでも追求するものではないし、どこまでも強いられるものでない。
育まれてしまっている良心。それを問うのは無意味じゃないか。
立法者は一般の利益を上げるのが仕事である。
善行とは何か。善行の義務化。善行って善行というよりは、税金を何に配分するかじゃないか? 税金の配分を決めること。それって行為と呼べるのか? 私の考える善行は、目の前にいる人に手を差し伸べるようなイメージなのだが。
日本語の問題だけど、これはやらなくっちゃ、というとき、これはぜひともやるべきだ、と、これはやらざるをえない、のふたつ意味があるよね。
人はなぜ他人に親切にするのか。
人は快を目指すけど、善を目指さなくともよい。快を無償でしてくれる他人がいたときに、それを善人と呼ぶのだ。
道徳には有り体のレベルと哲学的レベルがあるのはよく分かった。
子どもの社会と大人の社会は違うと思う。考えてみれば、この本の中で、子どもの道徳についてここに至るまでまったく言及されていないのは、少し心許ない気もする。
倫理、道徳、社会規範と云ったとき、少しずつニュアンスが異なるが、道徳というと小学校の道徳の時間を連想したりもする。ルソーの「エミール」にはそうしたことが書かれているのかもしれないが、私は読んだことがないので分からない。永井均は読んでいるだろうが、この本にはまったく引用されない。なぜなのだろう。
子どもの社会では、金銭的な利益や実利的な利益はあまり重視されない。このことは重大なキーポイントだと感ぜられるのだが、これを持ち込むこんで考察することは、哲学的には間違っているのだろうか。前に少し触れた気もするが、善行と金の関係。あるいは善行と貸しの関係。見返りを求めない善行ってあり得るのか。それは、それを善行とも思わないぐらいの余裕の中でされるべき。
善行には三つあると思う。見返りを求めない善行。見返りを求める善行。義務化された善行。
誰しも子どもを経験してから大人になる。つまり、金銭的な利害関係の少ない世界で誰しも育つのだ。
お金は大人である親が稼いできてくれるものである。貧しい国の子でも、自分の生活費の全てを稼いでいる子どもはいないのではないか。また、動物の世界をみても、子どものうちは、親がエサを取ってきてくれるものである。
子どもの頃から損得勘定だけで他人を見ている人間がいるだろうか。
人はみな、子どものときに道徳を学ぶのである。友だちを通して。
友だちという概念はいつぐらいからできたのだろう。
おそらく、人類の原初の頃の、一夫多妻状態であったり父親が誰か分からないような混沌とした社会でも、というより、だからこそ、子どもたちは、違う母親の子どうしでも、同年ぐらいの子どもたちは一所に集められて、子どもどうしで遊んでいたのではなかろうか。そういう中から友だち付き合いが始まり、普通にいわれる意味での道徳も自然に獲得していったのではなかろうか。そう考えると、ニーチェの考え方などは、あまりにも穿ったものの見方をしすぎである。
仮に、道徳を躾ける親は打算を覚えさせるのを目的として躾けているとしても、その教えを受けとる子どもの方は、そんな風には受けとっていない。少なくとも子どものうちは。
子どもが誰とでもすぐに友達になれるのは何故だろう。私が思うには、それは善意がベースになっているというよりは、他人と利益を共有しやすいからだ。子どもであるので、ここでいう利益とはお金ではなく、興味や楽しみの意味が強い。他人と何かをして遊ぶのは、まさしく面白い、笑えることなのだ。
子どもの方がある部分では本能が剥き出しになっているから、実際問題として、自分勝手だったり暴力的な奴はすぐさまはぶられるのだ。
気になるのは、すべてを哲学的な思索だけで説明しようとするところ。
哲学の本だから仕方ないのかもしれないが。
生物学的な視点や、遺伝子的な視点。人が何かを作ってきたと云うよりは、さまざまな人たちの中から、そういう特質を備えた人が生き残ってきたのだ、というような視点である。性格だって遺伝すると思うのだが。
それから、異性にモテるとかいった視点。異性への対応は、単なる他人の中でも特殊なものだと思う。
これはまた、上に挙げた遺伝子的な視点とも絡む。モテなければ子孫を残せないからね。
定年後の世界。
ベーシックインカムの世界。
もしもだが、ベーシックインカムが導入された後の世界でも、他人には親切にしよう、というような今とほとんど変わらない倫理規範が残っているなら、それは、この本で語られるアインジヒトの考えは、そういう穿った考え方もできる、というだけの話になりはしないだろうか。
電車の中には損得も何もないはずなのに、誰も知らないものどうしが話し始めないのはなぜか。
次に、異性について考えたい。今風に有り体に云うところの「モテ」である。
自分の子どもが悪魔の子と気付いたら、殺すべきか。
直接の絆を結べない善の道徳は虚しくないか。それは、見返りを求めているからか。
法的善行は、見返りを期待できない。そして、直接の絆を結べない。
そう考えると、寄付金額をわざわざ公表する有名人の気持ちも多少は是認できる。
あるストーリーに感動するのは、そのストーリーを感動するような社会に生きていて、擦り込まれているからだ。普遍的に感動するストーリーなどはない?
子ども社会と大人社会は異なる。これは後で書きたい。確か第七章かな。
私は、自分の趣味を他人に押しつけるのはよくないと思っているのだが、この考えを他人に押しつけるのはよくないのだろうか、という問い。
誰が三権を分離したのか。それは善行か。
私は功利主義なのではないかと、功利主義を正確に理解できてはいないが、漠然と思っている。
私は、この私はどのように生きるのが善いか、には関心があるのだが、
人々はどのように生きるのが最善か、に関心が無い。
それは各々が勝手にすれば好いと思っている。
ただし、そこには法的な制約があるべきで、その法律はどのような基準で作られるのが最善か、には関心が向く。
それは、立法府の人間を監視し、批判する基準でもある。
これが、私にとっての一般化の問題なのかもしれない。
この本に書かれていることを一通り理解したとして、それであなたはどうするのか、という問題もある。
子どもを育てる話とも関連するが、
社会問題を語ることには何の意味もない、という結論が導き出されると思うのだが、それで私はどうしよう。
権力の分断。と弱者への配慮。最高権利と最低人権。
村八分制度は何故有効だったのか。
昔の日本には村八分制度があったらしいが、村八分にされた者は、一度それにされてしまったら、もはやルールを守る必要がなくなる。つまりアントン・シガー状態になるわけだ。そう考えると、村人たちにとっては、より脅威となる人間を生み出すことになるわけだが、そうはならず、村八分制度が有効な制度として取り入れられていたのは何故なのだろう。そしてどうして廃止されたのだろう。
いじめ。いじめのひとつの形態に しかと がある。クラスでしかとされている子どもがいるとする。この子どもは言わば透明人間だ。存在を認められていないのだから。ギュゲスの指輪だ。透明人間は何をしても感づかれない。だから自分をしかとする者たちに、復讐の意味があろうがなかろうが、犯罪的行為に打って出ても良さそうなものだ。だが実際にそうする子どもはいない。なぜだろう。
酒鬼薔薇聖斗は自身を透明な存在といった。酒鬼薔薇聖斗の学力がどの程度だったのか、謎だ。文章だけからすればとても頭の良い人間だとわたしには思えるのだが、学力は低かったとする説もある。
永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」(ちくま学芸文庫)
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最終更新:2012年04月07日 09:40